たより巻頭言「しゃぼん玉 とばそ」 大柴 譲治

 小雨煙る中、鷺宮までの道すがら、無数のシャボン玉の舞う中を通り過ぎました。どこかで子供が飛ばしているのでしょう。見上げると、道路脇のマンションからのようです。しばし足を止めて、ほのぼのとした気持ちに浸りました。そして、ふと、童謡の『しゃぼん玉』を思い出したのです。

 「しゃぼん玉 とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで こわれて消えた
  しゃぼん玉 消えた 飛ばずに消えた うまれてすぐに こわれて消えた
  風 風 吹くな しゃぼん玉 とばそ」

 これは野口雨情の作です。金沢での学生時代に、美学の集中講義で、東大の今道友信先生からお聴きした話を思い起こします。美にも様々な次元があることを知らされて驚きました。

 この詩を言語分析すると「シャボン玉」が3回、「とんだ」が3回、「屋根まで」が2回、「こわれて」が2回、「消えた」が4回、「風」が2回出てくる。なぜそのように執拗に反復されているのか。しかも「こわれた」か「消えた」の一つでもよいのに、繰り返されている。実はそれには深いわけがありました。

 雨情は締め切りに追われてこれを書いたのですが、本当は詞など書ける状況ではなかった。わが子が肺炎か何かになって、必死の看病にもかかわらず、結局は亡くなってしまいます。そのような中でこの詞は書かれている。しゃぼん玉は子供のいのちを表しているのです。貧しい家ゆえ庭もなかったのでしょう、子供が縁側から飛ばしたしゃぼん玉は屋根のひさしにぶつかっては消えてゆく。屋根さえ越えればそれは陽光をいっぱいに浴びて虹色に光り輝くはずなのに・・・。我が子を失った親の悲しみが切々と響いてきます。

 しかし、作者はそれだけでは終わらせていない。最後の部分が余韻を残しています。雨情の優しい心根が伝わります。悲しみが彼の心を深めたのでしょう。「風」とは「風邪」の掛詞。わが子は死んでしまったが、他の子たちはどうか風邪などに負けず、光り輝くしゃぼん玉のように元気に育ってほしいという祈りに似た思いが伝わってきます。

 病気や飢餓や戦争などのために苦しみ、命を失ってゆく子どもたちがこの地球上には大勢います。また、最近の新聞では、日本でも親に虐待されて心に深い傷を持つ児童が増えていると報じられている。悲しいことです。世界中の子どもたちが平和で幸福で安全な社会に住むことができるように、私たちの祈りを合わせたいと思います。特に、戦禍に傷ついたコソボの子どもたちのために祈りたいのです。お志のある方はどうか募金にご協力ください。「風 風 吹くな しゃぼん玉 とばそ」。