たより巻頭言「わたしたちは主のもの」 大柴 譲治

パウロの言葉が心に強く響いてくる。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・8)。

 むさしの教会に着任してこの8月で丸三年になる。この間に四名の方の病床洗礼に立ち会った。先日も6月27日に渡邊高博兄が病床洗礼を受けられ、その翌朝、37歳のご生涯を終えられた。洗礼のたびごとに私はインマヌエルの神のご臨在を身近に感じ、厳粛な思いにさせられる。特に病院というギリギリの限界状況においてはなおさらのことだ。

 主は愛する兄弟を亡くして悲しむマルタに告げられた。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11・25-26)。

 これは葬儀のたびごとに読まれるみ言葉である。告別式の遺族挨拶で渡邊夫人はこう語られた。「死は終わりではないと牧師先生が語ってくださったことは大きな慰めでした」。死の圧倒的な力を前にして、死を突破した復活のキリストを信じて生きる。「あなたはこのことを信じるか」。私たちは一人ひとり、この主の問いかけの前に立たされている。

 しかし洗礼とは、私がキリストをつかむことではなく、キリストが私をつかんでくださることだ。それゆえ「生きるにしても死ぬにしても私たちは主のもの」とは、どんなことがあってもキリストが私をしっかりとつかんで放さないことを意味している。だからこそ「安心して、ジタバタして死んでゆける」(椎名麟三)のだ。ここに幸いがある。