説教 「目標を目指して」 大柴譲治

フィリピ 3:12-4:1

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。

目標を目指して

「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピ書ですが、3章は、ガラテヤ書と同じように大変に闘争的な響きが強くなっています。それは、割礼を強要する異端的律法主義者がフィリピの信徒たちを脅かすという状況が起こる。その時にパウロが書いたもう一つ別の手紙がここに挿入されていると考えられるからです。

またフィリピ書3章にはもう一つの大きな特徴があります。それは、ガラテヤ書1-2章同様、パウロがかつての自分の姿を思い起こしているという意味でも大変に興味深いと言わなければなりません(特に5-6節)。かつてのパウロは若きエリートファリサイ人の一人として、強い恥とプライドの意識に動かされた「完璧主義者」だった。だからこそ「熱心の点ではキリスト教の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者」と自負し、そのように自分を高らかに誇ることができたのです。

しかしそれらのことはすべて、キリスト・イエスを知ることの「あまりのすばらしさ」ゆえに、一切が損失と見られています。キリストのゆえにパウロはすべてを失ったのですが、それらは「塵あくた」(口語訳では「糞土」)にすぎないと言い切っているのです。そこではキリストのゆえに完全な価値の転換、主体のコペルニクス的転換が起こっていることが分かります。真に最高の宝を見出した時に他の一切のものが色褪せて見えるというのと同じです。

「目標を目指してひた走りに走る」という本日の箇所も、キリストと出会う以前のパウロとキリストと出会った後のパウロとの違いが明確になっている部分です。それは先週お読みした3:10-11の言葉につながっています。10-11節はこうありました。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(10-11節)。自分はキリストに捉えられており、その復活の力を知っているので、その苦しみに与り、その死の姿(十字架!)にあやかり、何とかして死者の中からの復活を捉えたい、復活に達したいのだとパウロは言うのです。ここでは完璧主義者のかつてのパウロが復活しているかのような響きがあります。

12節:「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」。確かにそこには何とか頑張ろうとしてジタバタしているパウロの懸命な姿も感じられます。しかしそこには、「律法の義においては非の打ちどころのないものであった」という先の高慢な自負や自らに対する誇りというものは感じられません。むしの自分の破れや弱さ、中途半端さや不完全さというものを知りつつ、パウロは語っている。自分はキリスト・イエスに捉えられているのだと。キリストという獄中にあるというのです。しかしこれは喜びの牢獄であります。キリスト・イエスを知るあまりのすばらしさにそれまで大切に思ってきたものすべてが色あせてしまうような喜びです。自分の弱さにおいてキリストの力が現れるような喜びです。ここで「既にそれを得た」とか「既に完全な者になっている」というのはパウロに敵対する者たちの言葉でありましょう。敵対者には自分たちしか見えないのです。裸なのに自分が裸であることを知らない裸の王様と同じなのです。

ダマスコ途上でのパウロの回心体験

パウロはダマスコ途上でキリストと出会って三日間目が見えなくなるという体験をいたしました。目が急に見えなくなるというのは、それ以外の身体の状態はそのままで、急ブレーキをかけられるようなものです。それは簡単に実験できます。自分の家でもよいのですが、目を閉じて少し歩いてみればよい。それがどれほど不自由なものであるか、どれほど大きく気持ちが揺れ動くものであるかが分かります。通常人間が得ることができる情報の85%程度が視覚的な情報であると言われているのも頷けます。

目に限らず、病気になるとか、事故に会うとか、突然大きな壁にぶつかるとか、大切にしていたものを失うとか、突然の喪失体験を味わう中で私たちは同じような深い悲しみとストレスと孤立感とを体験することになります。しゃべれなくなって自分の思いを周囲に伝えることが困難になったり、耳が聞こえなくなったりすることも同様に辛いことだと思います。

しかしパウロは、目が見えなくなる中でキリストに捉えられたと言うのです。私たちは自分の弱さを知ることで自分の限界に直面します。自分が有限な一被造物でしかないことを、全能でも絶対でも神でもないことを気付かされるのです。パウロは「熱心においてはキリスト教の迫害者、律法においては非の打ちどころのない者であった」はずの自分が、天からの光に照らされ、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」という復活のキリストの声が聞こえ目が見えなくなって初めて、全くボロボロの無力で小さな存在でしかないことに気付かされるのです。パウロは自分の限界に直面したのです。

パウロはそのようなかたちで自分の中には誇るべき何もないことに、恥じるべきものしかないことに気付かされました。しかしそのような無力な自分がキリストによって選ばれ、立てられていることをパウロはその目の見えない闇の中で知らされるのです。そしてイエスから遣わされたアナニアと出会い、頭に手を置かれることで目からうろこが落ちる体験をするのです。それは自分中心からキリスト中心への主体の転換であり、価値の転換でした。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリストと共に十字架につけられています。もはや生きているのはわたしではなく、わたしのうちにあってキリストが生きておられるのです」という転換です(ガラテヤ2:19-20)。

「なすべきことはただ一つ」 ~お二人の信仰者を覚えて

キリストによる主体の転換が起こったところからパウロは語っているのです。私たちのなすべきことはただ一つだと。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(13-14節)。私たちは目標を目指すコースの途上にあるのです。ゴールを目指しながらまだゴールしていない状態です。賞をもらっていない。パウロのゴール(目標)は「死者の中からの復活」です。それは死の向こう側にあるゴールであり、生と死の次元を超えたところにあるゴールです。そしてこれは一番になる者だけに与えられる賞ではありません。パウロは注意深く「一等賞」という言い方を避けています。一番になった者一人だけに与えられる賞ではなく、忠実に走り抜いたすべての者に与えられる賞でありましょう。

先週私は牧師としてお二人の教会員の方の最後に立ち会いました。松井凉子さんとゴールドベルク山根美代子さんのお二人です。お二人とも最後は呼吸の困難となる病気で苦しまれたのですが、最後までそれを耐え抜かれた後に与えられたのは微笑んでいるようにも見える安らかなお顔でした。全力を尽くして走り抜いてゴールに到達した者だけが味わえる満足感がそこには現れているように私には感じられました。今日のパウロの言葉はお二人に相応しいもののように感じられます。私もあのような素敵なお顔になりたいものだと思いました。それは走るべき行程を走り抜いてゴールした時に、ゴールラインで金メダルを持って待っていて下さったキリストにお会いしたようなお顔でした。

お二人とも自分を表現するものをもっておられた点では共通しておられたと思います。松井凉子さんはろうけつ染めと水墨画、俳句の会と玉川上水を守る会、そして地域の老人会である手をつなぐ会などなど多くの人々の心を結び合わせる見事な83年間の生き方を全うされました。遺影は10/9、亡くなられる一週間ほど前に行った展覧会での花束を持った素敵な笑顔のお写真でした。山根美代子さんはピアニストとしてまた音楽研究者として、さらには教育者として、音楽というものを通して厳しくも実に見事な至高の美を追求する67年間の道を全うされたのだと思います。富山の音楽祭で9/9に病身にも関わらず、リサイタルを開かれたとも伺っています。K・泉さんは30年間山根美代子さんのお弟子さんとして薫陶を受けられています。お二人のお顔はキリストに捉えられて最後まで全力で天のゴールめがけて走り抜いた者にだけ与えられた賞を得た者のようでありました。

国籍は天にあり!

パウロは3:21でこう語ります。「しかし、わたしたちの本国は天にあります」。口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていてハッとしました。私たちキリストを信じる者は天に国籍を持ってこの世を生きる者なのです。「天国籍」なのです。あるいはこの地上と天の「二重国籍者」または「天国人」といってもよい。私たちは天を見上げて生きる。「上を向いて歩こう」です。天とつながってこの世の生を生きるのです。天を目指して生きると言ってもよい。それは「自分の腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えない」(19節)ような生き方とは全く違います。

パウロは自分がそのようなところから天国人に変えられたということを知っています。天国人は天に本当の宝があることを知るのです。天の宝と比べると地上の宝は色あせた塵芥、糞土のように思えるのです。

この地上に生きながら天に生きるということが私にとってどのようなことを意味するのか。あるいは天の目標を目指して生きるということが何を意味するのか。そのことを思い巡らしながらご一緒に一週間の歩みを初めてまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に天の神さまの守りと導きが裕にありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2006年10月22日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教)