礼拝説教 「天の父のように」 浅野 直樹

ルカによる福音書6章27〜36節

一昨日…、5月27日(金)の午後に、アメリカのバラク・オバマ大統領が現職大統領としては初めて広島の平和記念公園を訪ね、原爆慰霊碑に献花をされました。これは歴史的な出来事でした。任期も終盤にかかり、大統領としてのレジェンドのため、といった意見もあるようですが、国際的にも様々な緊張関係が生まれている中で大切な一歩が刻まれたのではないか、と私は思っています。

今日の福音書の日課は、小見出しにもありますように、ひとことで言えば「敵を愛する」ということでしょう。これは言うまでもなく、世界の平和、和解ということにおいても、最も大切なことのように思われます。しかし同時に、そんな簡単なことではない、ということも私たちは痛感してきました。先ほどのことでいえば、最初の一歩が「71年」もかかったというところに、事の難しさ、深刻さが物語られているのでしょう。原爆や戦争が非人道的なものであるということは、両国民の多くが感じていることだと思います。しかし、かつて敵同士であった、ということが71年の歳月を費やしてしまった。いいえ、今でも「謝罪できない」「赦せない」「自分たちは正しい」と、それぞれに看過できない言い分があるわけです。それはなにも、当然、国と国といった大きなことばかりではないはずです。私たち個々人の生活の中でも「敵を愛する」ことができたならばどれほど幸いだろうか、と思うのですが、その難しさも経験してきているからです。

この「敵を愛する」ということにおいて、今日の旧約の物語は非常に参考になるのではないか、と私は思っています。これは、いわゆる「ヨセフ物語」と言われるものです。もう皆さんもよく知っておられる物語だと思います。ヨセフのお父さんはヤコブと言いました。このヤコブには「イスラエル」という別名が与えられていましたが、イスラエル12部族の祖となる人物です。つまり、イスラエル12部族とはこのヤコブの十二人の息子たち(正確にはちょっと違うのですが)ということで、ヨセフもその一人だったのです。

当時は一夫多妻が当たり前の世界でしたから、ヤコブにも二人の正妻と二人の側室がおりまして、この十二人は異母兄弟(全員母親が違うということではないのですが)だったわけです。もう、これだけでも兄弟仲があまり良くないことは想像できます。正妻同士、側室同士、あるいは正妻と側室との間で様々な駆け引きもあったのでしょう。そういった母親同士の関係(反目)が子供同士に波及していってもおかしくないわけです。しかも、ヨセフはヤコブが特に愛していた正妻の一人ラケルの息子でした。ラケルはヨセフの弟ベニヤミンを産んでからすぐに亡くなっていましたので、よせばいいのにラケルの忘れ形見を溺愛してしまっていたようなのです。そりゃ〜、他の兄弟たちからすれば面白くないわけです。しかも、そんな父の寵愛で天狗になっていたのか、年少者にもかかわらず兄たちに対してどことなく横柄なところがあったようで、ますます兄たちからは反感をかっていきました。そして、ついにヨセフ17歳のとき、苦々しく思っていた兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまったのでした。なんだか韓流ドラマの脚本になりそうな物語です。

詳しくはお話しませんが、随分と苦労したと思います。しかし、彼は、エジプトの宰相にまで上り詰めたのでした。

ヨセフは兄たちのことを随分と恨んだと思います。17で奴隷として全く見知らぬ世界に放り込まれたのです。しかも、無実の罪で何年もの間、牢獄に閉じ込められもした…。来る日も来る日も牢獄の中で、なんで自分がこんな目にあうのか、と問うたに違いないと思う。その度に、兄たちの薄ら笑うような顔が思い起こされ、怒りが、憎しみが、こみ上げてきたのではないか、と思うのです。復讐心が、殺意が湧き上がっていたのかもしれません。その怒りのパワーが彼を支えていたのかもしれません。しかし、彼に転機が訪れました。夢の解き明かしで牢獄から解放されただけでなく、宰相にまで起用されたからです。しかし、ここで大切なことは、単なるサクセス・ストーリーではない、ということです。

彼はこのことによって、意味の再構築に迫られていったからです。今日の旧約の日課に、こんな言葉が記されていました。創世記45章4節以下わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです。」ヨセフは自分がエジプトに来た、送られた意味を、このように再構築したのです。もちろん、すぐにそう思えたのではないでしょう。時間をかけて、あるいは葛藤の中で、そのような理解に至っていったのかもしれません。しかし、この理解が徐々に兄たちに対する恨みつらみからも解き放っていきました。もちろん、神さまがそう働いてくださったからです。神さまの恵みの御業(それがヨセフの場合は夢の解き明かしであり、思いがけない宰相への抜擢ということでしょうが)を経験していったからです。ここに敵意を打ち破る一つのキーがあるように思います。

もう一つは「和解のプロセス」ということです。確かにヨセフは意味の再構築によって、現在の境遇を喜んで受け止められるようになったと思います。そして、普段の日常の中では兄たちに対する負(マイナス)の思いも感じることなく生活していけたことでしょう。しかし、兄たちと再会する機会がやってきたのでした。兄たちが住んでいるパレスチナでもひどい飢饉だったので、ヨセフのいるエジプトに食料を買いにきたからです。あれから随分と年月が経っています。エジプト特有の衣装ということもあったのでしょう。まして、自分たちが奴隷として売った弟がエジプトの宰相になっているなど夢にも思わなかったでしょうから、兄たちにはそれがヨセフだとは気づかなかったのですが、ヨセフには分かっていました。そこでヨセフはどうしたか。意地悪をしました。いろんな難題や難癖をつけては、兄たちを困らせ、窮地に陥らせたのです。ここにも、人間臭さが溢れていると思います。確かに神さまによって意味の再構築も果たし、自分なりに整理をつけていたつもりでしたが、いざ本人たちを前にして、かつての思いが甦ってきたのでしょう。

あんな目に合わせて「殺してやる」とまではいかなくても、なんらかの復讐心がふつふつと湧いたのだと思います。それが人間です。彼は何度も兄たちを苦しめました。そして、ついに(非常にドラマチックなので、ぜひお読みいただきたいと思いますが)兄たちの悲痛な叫びを前にして、彼は感情を抑えることができず、感極まって泣き出し、兄たちに自分の身を明かした、と言います。兄たちの苦しむ姿を前にして心が弾けたのでしょう。

ここに、神さまが与えてくださる和解のプロセスがあると思うのです。赦す、和解する、愛する、というのは机上のことではありません。相手あってのことです。赦しているつもりでも、和解しているつもりでも、愛しているつもりでも、いざ相手が自分の眼の前に現れると、そうは言っていられない私たちの現実があるからです。そのために、神さまはまず私たちの目を開いて相手を見せようとされます。憎しみや怒り、負の感情があるときには、相手の姿をまっすぐ見られなくなってしまうからです。

ですから、ことさら相手を悪く思い、憎んで当然、怒って当然、恨んで当然と思ってしまうところがある。しかし、本当にそうでしょうか。もちろん、敵です。自分に対して敵対するような人物です。当然、相手だって自分に良い感情を抱いてはいないでしょう。でも、本当にその人は極悪で、どうにもならないような敵、モンスターなのか、といえば、大抵はそうではないはずです。相手も人間であることがわかってくる。弱く、過ちを犯す、私たちと同様罪ある、欠けのある人間だということが分かってくる。分かってくるところに、単なる敵意や憎しみだけではない思い、同情、憐れみ、共感も起こってくるのではないか、と思うのです。

もちろん、これで全ての問題が解決できるとは思っていませんが、兄たちに捨てられ、敵となったヨセフが、兄たちと和解していったプロセスから、私たちも何か考えることができるのではないか、と思うのです。

ともかく、福音書に戻りますが、「敵を愛する」ということは、このことに尽きるのだと思います。」「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者になりなさい」。憐れみ深い、敵をも愛してくださる神さまからしかこの愛は学べないのです。憐れみ深い神さまの子どもだからこそ、その生き方に向かっていけるのです。

イエスさまは語られました。「あなたがたの敵を愛しなさい」。これは命令です。命じられていることです。もちろん、私たちは福音を信じています。福音とは恵みです。ですから、この命令を守れないからといって見捨てられるようなことはないのです。しかし、いいえ、だからこそ、この「命じられている」ということに思いを向けたいのです。「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。それは、ある意味、馬鹿を見る生き方なのかもしれない。理不尽な目にあう不器用な生き方なのかもしれない。しかし、私はここにキリスト教の魅力を感じるのです。憧れを抱くのです。現実の自分はもちろん、そうではありませんが、それでも、馬鹿を見るほど愛に生きる者になりたい、と思う…。イエスさまがそうだから…。

神さまの憐れみに生かされて、その愛に気づかされて、教えられて、また私たちも、そんな憐れみ深い生き方を、愛をほんの少しずつでも見習っていきたい…。そう思います。

2016年5月29日 聖霊降臨後第二主日礼拝説教(むさしの教会)

むさしの教会だより7月号より:2016年7月 31日発行