たより巻頭言「人生の節目」 大柴 譲治

「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」 (出エジプト3:2)

人生には節目がある。いや、人生には自ら節目を刻んでゆかねばならぬ時があるのではないか。私がむさしの教会に着任したのは1997年の9月1日。40歳の夏。それからちょうど10年が過ぎたことになる。この8月には米国研修の時が与えられ、50の節目でもう一度初心を思い起こすことができたのは私にとってタイムリーな出来事であったと思う。人生の節目とは、自らの原点と現在地と目的地への方向性を確認する再覚醒の時でもあろう。

私自身のこのむさしの教会での原点は10年前の8月24日。出エジプト3章から「燃える柴、燃え尽きない柴」と題して最初の説教を語らせていただいたところにある。神学生時代、1982年のクリスマスに起こった忘れ得ぬ出来事のゆえに、説教者として再びこの聖壇に立つのは私にとって実に恐れ多いことでもあった。ちょうど25年経つので今年のクリスマスイヴには再度それを話させていただこうと思っている。

就任時の歓迎会で、一年半の無牧の時期を乗り越えてようやく専任牧師を得ることができた教会員に、「私は葬儀を安心して任せられる牧師でありたいと願ってきました。ですから皆さん、どうか安心して長生きしてください」と伝えた時、あちらこちらからホッと安堵の息が聞こえたのを昨日のことのように思い出す。安心して自分の最後を託せるホスピスチャーチを目指したいというのは私自身の牧師召命の原点でもあったし、現代に生きる多くの人々がそのような場を求めている極めて現代的な課題であるとも思う。今年も11月4日に召天者記念主日礼拝を守るが、この10年間に天に召された方々がこの教会のこの世における重要性を証ししていよう。死は終わりではない。それは新しい生命の始まりである。そこにおいては神の柴はいつまでも燃え尽きないのだ。教会はインマヌエルの神の現臨を指し示す。

インマヌエルの神が今、私たちをこの地においてどのような働きのために用いようとされているのか。モーセがそうであったように、私たちもまた燃える炎の中に神の確かなみ声を聴き取ってゆきたいと願っている。この教会につながるお一人おひとりに上からの祝福が豊かにあるように。

(2007年9月号)