志賀 直哉著 『暗夜行路』      川上 範夫

「暗夜行路」は志賀直哉の代表作で、且つ唯一の長編小説である。志賀は明治16年生まれ、昭和46年88才で亡くなったが、本書は大正10年から書き始められ完結までに17年を要している。だが、本書はトルストイのように民族や社会の動乱を描いたものではなく、又、司馬遼太郎の「坂の上の雲」のように明治の日本人の精神と国家の存亡を描いた大作でもない。一人の青年が出生の秘密からおこる苦悩を書いた私小説なのである。
 ところで私はよく本屋をのぞくが、店頭に並べられている本は経済や健康等直ぐ役に立つものが多く、「暗夜行路」のような文学作品は殆んど見当たらなくなってしまった。
 さて志賀文学の大きなテーマは父と子との不和であるが、本書もこの線上にある。主人公の時任謙作は祖父と母の間に生まれた不義の子という設定で、この境遇から抜け出そうとする青年の姿を描いている。又、この青年は個性が強く感性が鋭く、わがまま放題の人間でこれらの描写も面白い。
 ところで主人公の謙作は作家であるが東京を離れ、尾道、京都、鳥取などの各地を転々としつつ、美術、書画等の名品に親しみ、その数年間作品を発表していない。近年の有名作家が週刊誌の連載、テレビ出演等多忙を極めている姿とは異なり、ゆうゆうたる生活をしている姿が印象的で謙作は志賀の自伝ともいえよう。
 読書会で一人の方が、志賀の時代は時間がゆっくり流れていると言われたが、その通りだと思う。今や、高齢化時代で時間はたっぷりあるが、人々はいつも何かに追われ将来に不安を抱き、セカセカと日々を過ごしているのと対照的である。
 さて本書を読むにあたって大切なことは話の筋を追うのとは別に、志賀の簡潔、端正な文章と日本語の美しさにふれることだと思う。最終章となる大山中腹。朝明けの自然描写は正に近代文学史に残る名文であろう。「暗夜行路」を時間をかけ、ゆっくり読むことをおすすめしたい。