2014/12/24(水)クリスマスイブ音楽礼拝 説教「太初に言あり」      大柴 譲治

イザヤ43:1-7
ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 3 わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。 4 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。 5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。 6 北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。 7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。

ヨハネによる福音書1:1-14
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2 この言は、初めに神と共にあった。 3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

<はじめに>
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

<「太初に言葉ありき」>
 静かな夜です。耳を澄ますと天使たちの歌声、天上の教会の讃美の歌声が聞こえてくるようにも思われます。「天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と。今年も皆さまとご一緒に、クリスマスイブの音楽礼拝に集うことができる幸いを心から感謝いたします。
 今宵、私たちに与えられているのはヨハネ福音書の冒頭の言葉です。この部分を、文語訳聖書の持つ格調高い言葉の響きで親しんでこられた方も少なくないと思われます。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟(さと)らざりき。」
 この「はじめ」は「創造の初め」を意味すると共に、「時間と空間の初め」を意味し、「万物の初め」「万物の根源」を意味していると思われます。万物は「神の言」、「神の声」によって創造され、支えられ、守られ、導かれているというのです。「萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」なのです。どのような出来事が起ころうとも、太初からこの世に響き渡る神の言葉、神の御声が私たちを守り支え導くのです。たとえ「天地は滅ぶとも、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)。その言葉の意味は、「どのような時にも、わたしはあなたと共にいて、あなたを離れることはない」ということです。
 創世記を読みますと、神は天地万物の創造を「初め」に「言」をもって開始されたと告げられています。「初めに、神は天地を造られた。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:1-5)。
 「神光あれと 宣えば 光ありき」なのです。この「創造の初め」、「世界の初め」に発せられた「言」、ギリシャ語では「ロゴス」(「言葉」「法則」「理」「声」という意味があります)、ヘブル語では「ダーバール」(この語には「言葉」という意味と共に「出来事」という意味があります)という語ですが、この「光あれ」という「言」、「声」について今宵は思いを馳せたいと思います。
 暗闇の中で私たちは「光」を求めます。「光」があれば、たとえそれが小さな光であったとしても、私たちはちゃんと生きてゆくことができるのです。荒れ狂う海において灯台は船に正しい方向を指し示します。「クリスマス」は私たちの救い主イエス・キリストがこの地上にお生まれになったという「キリストの誕生日」をお祝いする特別な日です。キリストは、ベツレヘムのまぶねの中にお生まれになりました(ルカ福音書が報告)。(マタイ福音書によると)あのクリスマスツリーの一番上にあるようにベツレヘムの空の上にはひときわ大きな星が照り輝き、それを東の方で見た占星術の学者たちが黄金・乳香・没薬という宝物をもって「王としてお生まれになった方」をはるばると遠方から拝みにやってきたとされています。博士たちの旅は星を見上げての夜の旅でした。昼間は星が見えませんから、夜に足を進めなければなりませんでした。星を見上げ、足下を確認しての一歩一歩の手探りの旅でした。彼らにとってはこの闇夜に輝く星の光が自分たちにとっての「いのちの光」だったのです。このいのちの光が私たちの悲しみや苦しみの闇を照らしています。光は闇の中で今も確かに輝き続けているのです。私たちも人生における夜の旅を続けているように感じることが少なくありません。悲しみや苦しみが渦巻く夜の旅です。光の導きが必要になります。

<緩和ケア病棟のチャプレンとして思うこと>
 私は二年ほど前から、月に一〜二日、錦糸町にある賛育会病院という病院の緩和ケア(ホスピス)病棟のチャプレンを務めています。「ホスピス」というところは、ガンかエイズで余命半年という診断がなければ入ることのできない病棟です。積極的な延命治療は行わず、ペインコントロールを中心とした緩和ケアを行うところです。20床ほどの病棟に通常15人前後の患者さんが入っておられ、チャプレンである私はその患者さんやご家族の所を回って、お話を伺う役割を果たしています。「チャプレン」というのは病院や施設にある「チャペル付きの牧師あるいは聖職者」という意味の言葉です。
 ホスピス病棟で働いていますと、医療スタッフの献身的なケアに頭が下がると共に、私たちがすべからく死への存在であるということを身に沁みて感じるようになります。ある時にルターは「私たちは皆、死へと召喚されている」と説教で語りましたが、確かに私たちは皆死にゆくプロセスの中に置かれていると言えましょう。愛する者との別離の悲しみを思う時に私たちは胸がつぶれるような気持ちとなります。
 そのような私たち人間の現実の中に、今日私たちのための救い主がこの地上に降り立って下さったというよき音信が告げられているのです。このお方(イエス・キリスト)は、神に等しくあられたにもかかわらず、それに固執することなく、自分を捨て、無となって僕の姿を取り、天より降り、この地上を、死に至るまで、いかも十字架の死に至るまで、御父の御旨に従順に従われました。その謙遜さと従順さとによって私たちは救われたのです。この世の悲しみを担ってゆかれたキリストはやがて復活されますが、その手足には十字架の傷跡が残っていました。その聖痕を通してこの世の悲しみは癒されたのです。
 復活されたキリストの体に十字架の傷跡が残っておられたように、悲しみは悲しみを深めてゆくことを通してこそ、それを担う力が与えられてゆくのであると信じます。この一年も、皆さまにとっても様々な出来事が身近に起こった一年であったのではないかと拝察いたします。

<若松英輔、『魂にふれる〜大震災と、生きている死者』、トランスビュー、2012>
 若松英輔(わかまつえいすけ)という1968年生れの思想家であり評論家である方がおられます。慶應大学の仏文科の出身の方で、最近私はこの方がカトリックの立場に立っている方であるということを知りました。二年半ほど前に偶然書店で手にした『魂にふれる〜大震災と、生きている死者』という書物でその存在を知ったのですが、私にはとても心に響く文章を書く方のように感じられました。若松英輔さんはその書物の中でガンを10年患って亡くなってゆかれた配偶者について「魂にふれる」という文章を書いておられます。それはこのような書き出しで始まっています。(少し長くなりますが)引用させてください。

「魂にふれたことがある。錯覚だったのかも知れない。だが、そう思えないのは、ふれた私だけでなく、ふれられた相手もまた、何かを感じていたことがはっきりと分かったからである。2010年2月7日、10年の闘病のあと、妻が逝った。相手とは彼女のことである。
 亡くなる二ヶ月ほど前のことだった。がんは進行し、腹水だけでなく、胸水もたまりはじめていた。数キロにおよぶ腹水は、身体を強く圧迫し、胸水は呼吸を困難にする。がん細胞は通常細胞から栄養を奪いながら成長する。彼女のからだはやせ細り、骨格が露出し、マッサージをすることすらできなくなっていた。薄い、破れそうな紙にさわるように、彼女の体に手をおき、撫でることができる残された場所をさがしていたとき、何かにふれた。
 まるい何かであるように感じられた。まるい、とは円形ではない。柔らかな、しかし限りなく繊細な、肉体を包む何ものかである。魂は人間の内側にあるというのは、おそらく真実ではなく、それは一種の比喩に過ぎない。むしろ、魂がゆさぶられるという表現は、打ち消しがたい実体験から生まれたのだと思われる。外界の出来事に最初に接触するのは、皮膚ではなく、魂なのではないだろうか。肉体が魂を守っているのでない。魂が肉体を包んでいる。
 どれほどの時間がたったのか分からない。見つめあいながら、深い沈黙が続いて、『こういうこともあるんだね』と言葉を交わしたのを覚えている。彼女は少しおびえたようだったが、起こったことの真実を一層深く了解していたのは、おそらく、彼女の方だった。抱きしめる。何かを感じるのは抱きしめた方よりも、抱きしめられた方ではないか。魂にふれるときも、同じ現象が起こる。
 彼女は内心の不安を口にすれば、私が困惑すると思い、沈黙していたのだろう。病者は、介護者が思うよりもずっと、介護者をはじめ自分を生かしてくれる縁ある人々を思っている。あのとき、私たちは彼女の最期が遠くないことを知らされたのだと思う。私の理性はそれを拒み、はっきりと自覚したのは彼女の没後だが、それでも、あのとき、私は打ち消すことのできない経験に直面していることには気がついていた。
 彼女は、肉体の終わりをはっきりと感じながら、同時にそれに決して侵されることのない「自分」を感じていた。その日以降、不安におののきながら、またあるときは落ち着きはらって、そんなことを言うと、きっとあなたは怒るだろうけれど、と前置きしながら、死ぬのは、まったく怖くない、彼女は一度ならずそう語った。
  (中略)
 苦しむ者は、多く与える者である。支えるものは、恩恵を受ける者である。決して逆ではない。持てる者が与え、困窮する者は受ける、それは表面上のことにすぎない。
 自分でベッドから立つこともできなくなった妻から受け取ったことに比べれば、私が妻にできたことは、実に取るに足りない。震災下でも同じことが起こっている。被災地の外に暮らす者が、自分に何が援助できるかを模索するだけではなく、自分たちが被災者によって何を与えられているかを、真剣に考えなければならないところに私たちは立っている。
 ふれるだけで十分である。ふれ得ないなら、ただ思うだけで、何の不足もない。病者は、差し出された手にどんな思いが流れているかを、敏感に感じ取る。病者は、まなざしにすら無言の言葉を読みとっている。同情、共感、あるいはそれを超えた随伴か。病者が望んでいるのは、理解でも共感でもない。それが不可能なことは、当人が一番よく分かっている。
 黙って隣にいることは、厳しい忍耐を要し、ときに苦痛でもある。なぜなら、苦しむ病者を前に、あまりに非力な自分を痛感しなくてはならないからである。しかし病者は、その思いもくみ取っている。
 彼らが望んでいるのは、日々新しく協同の関係を結ぶことである。協同は、共感や理解を前提としない。だが互いに全身をなげうって、存在の奥から何かを呼び覚まそうとする営みである。病者は、介護者の不安やおののきまでも、協同を築く土壌にしようとする。それは、大地が朽ちたものを糧に不断のよみがえりを続けるのに似ている。
  (中略)
 亡骸を前にして私は慟哭する。なぜ彼女を奪うのかと、天を糾弾する暴言を吐く。そのとき、心配することは何もない。私はここにいる、そう言って私を抱きしめてくれていたのは彼女だった。妻はひとときも離れずに傍らにいる。だが、亡骸から眼を離すことができずにいる私は、横にいる『彼女』に気がつかない。」

 若松英輔さんはパートナーを亡くすという慟哭の中で、その声を聴いたのです。「心配することは何もない。私はここにいる」という「太初からの愛の声」を。最愛の配偶者を病いで失うという体験を通して、悲しむこと、悲しみを深めることは、生きている死者との共同作業なのだと語っておられるのです。そしてこのことは私もやはり確かなことだろうと思っています。「私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる。-— 死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめている。私たちが見失ったときでさえ、それを見つめつづけている。悲しみは、死者が近づく合図なのだ。-— 死者と協同し、共に今を生きるために」。
 先ほどお読みいただいたイザヤ書43章にあったように、神は私たちにこう告げています。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(2節と5節)。この太初の声を私たちは聴きながら、この言葉を光として仰ぎながら、ご一緒にクリスマスを過ごし、新しい年を迎えたいと思います。
 悲しみの中に置かれた方々の上に、メリークリスマス。お一人おひとりの上に、その独り子を賜るほどにこの世を愛して下さった天の父(「インマヌエルの神」)と主イエス・キリストが共にいて、慰めを与えてくださいますようにお祈りいたします。
 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟(さと)らざりき。」
 私たちの悲しみをすべて「理解」し、英語で「理解するunderstand」という語は「下に立つ」という意味の言葉ですが、下から支えて下さるお方、救い主イエス・キリストのお誕生をご一緒に言祝ぎたいと思います。天には栄光、地には平和がありますように! アーメン。

<おわりの祝福>
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。