説教 「もっと深いところに」 大柴 譲治

ルカによる福音書 5: 1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

人生の空しさの中で

私たちの心の奥底にはどこかに空しさと不安、そして恐れとが潜んでいます。自分の人生はこれでいいのだろうか。私が生きることの本当の意味はどこにあるのだろうか。こんな毎日でいいんだろうか。本当に自分は本来の生き方をしているのだろうか。私たちの中には真理を求める思いがある。満たされぬ思いがあるのです。私たちはそのような漠然とした不安と空しさとを内に抱えて生きている。だからこそ私たちは、旧約聖書コヘレトの言葉の冒頭部分の言葉に深く共感するのではないでしょうか。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」。口語訳聖書の伝道の書では、「空の空、空の空、一切は空である」となっていました。

クリスチャンといえども同じです。私たちの中には迷いがあり、空しさがある。しかし逆に言えば、そのような迷いがあり揺れがあるからこそ本当のものを求めたいという気持ちになるのではないか。そうも思います。たとえて言えば、私たちは常に北を指す磁石(コンパス)のようなものなのです。地球には地磁気という弱い地場があって、コンパスが常に北を指すようになっています。それと同様、私たち人間は神さまに向かって造られたコンパスのようなものなのです。神さまの愛の地場の中で、私たちは常に神さまを指し示すように最初から造られている。いろんな磁力のあるものが側に来ると、つまり誘惑がくると、針が揺れることはあったとしても、最終的には神さまを指し示してきちんと針が止まるように私たちの魂は造られているのです。アウグスチヌスは『告白』の中で神さまに向かってこう語っています。「私たちはあなたに向かって造られました。だから私たちの魂はあなたの中に安らうまでは憩いを得ることがないのです」。

人生の空しさを感じるというのは針が揺れているとき、ぶれているときの状態ではないか。わたしには最近そう思えてならないのです。そのような人生の空しさを感じる日々の生活の中で、本日のみ言葉はいったい私たちに何を告げているのでしょうか。どのような方向を指し示しているのでしょうか。特に本日は、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われたイエスさまの言葉に焦点を当てながらみ言葉に聴いてまいりたいと思います。

もっと深いところへ

「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」とペトロは主イエスに語っていますが、人生には徒労と失望に満ちているという側面が確かにあります。彼らは幼い頃からガリラヤ湖に親しみ、湖を隅々まで知り尽くした プロの漁師たちでした。その漁師として培われた勘と経験と精一杯の努力によっても何もとることができないという現実がある。「空の空、空の空。一切は空である」。彼らならずともそう言いたくなる現実が私たちの人生にはあるのです。

その中で主イエスは告げられています。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。「沖へ」とは「もっと深いところへ」「もっと深みに」という意味の言葉です。「もっと深いところへ漕ぎ出して、網を打て」。ここでは「もっと深いところへ」という言葉はただ単に「沖に」と言うよりも、もっと象徴的な意味で語られていると思われます。そこには「自分たちの経験と思いの外に踏み出してゆけ」という響きがある。徒労と失望のただ中で、人生の悲しみと苦しみ、迷いと恐れ、行き詰まりと空しさとの中で、主イエスに信頼してもっと深みへと私たち自身の歩みを進めなさいというのです。

私たちはペトロの「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」という渋々語られた言葉がよく分かります。特に「しかし、お言葉ですから」と言いたい気持ちが痛いほど分かる。その心の中にはむしろ、「しかし、お言葉ですが」という思いが強かっただろうと思います。それはイエスの言うとおりにしたら大量の魚が捕れて、船が沈みそうになったときにペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い・所は告げている。

「もっと深いところ」とはどこか

では私たちにとって「もっと深いところ」とはどこなのか。私たちはどこに出てゆくべきなのか。

オランダ出身のカトリックの神父で1996年に亡くなったヘンリー・ナーウェン(ヌーウェン)という人がいます。『傷ついた癒し人』(日基出版局)という本で有名ですが、この人の本の中に『今ここに生きる』(あめんどう)という本があります。先週の飯能集会でもお話しさせていただいたのですが、その中の一節にこのような言葉があり、ハッとさせられました。「現在に生きる~『べき』と『もし』」と題された文章です。

現在を生きることはたやすくありません。なぜなら、過去と未来が絶えず私たちを悩ますからです。とがめや悔いが過去と共についてきます。思い煩いが未来と共にやってきます。これまでの歩みは、心を暗くする思いや当惑、あるいは少なくとも愛憎の念を感じさせる出来事がたくさん起こりました。そして、これらの感情にはたいてい罪意識が混じっていて、こう責めたてます。「おまえはあんなことをしたが、別のことをすべきだった。アンナことを言ったが、別のことを言うべきだった」。この「べき」は、過去について罪責感を感じ続けさせ、いまを本当に生きることを妨げます。

しかし、もっとたちの悪いのは思い煩いです。思い煩いは、私たちの生活を「もしこうなったらどうしよう」という心配でいっぱいにします。「もし父親が死んだらどうしよう」「もしお金が足りなくなったらどうしよう」「もし景気が悪くなったらどうしよう」「もし戦争になったらどうしよう」。これらの多くの「もし」が私たちの思いを占領してしまうと、庭に咲く花や道で出会う子供たちの笑顔が見えなくなり、友のうれしい声も聞こえなくなってしまいます。

私たちの生活を妨げる本当の敵は、この「べき」と「もし」です。これらの敵は、私たちをやり直しのきかない過去に引き戻し、予知できない未来へと引っ張っていきます。しかし、現実の生活は、いまここで生きているものです。神は現在の神です。いまの時がつらくても、うれしくても、悲しいものであっても、神はいつも、そこにおられます。

イエスが神について語るときは、いつも、私たちがいまいるところにおられる神について語りました。「わたしを見るとき、あなたがたは神を見ているのです。わたしに聴いているとき、あなたがたは神に聴いているのです」。神はかつておられた方、あるいはやがて来られる方ではなく、いまおられる方です。いまこの時、私のためにいてくださる方です。だからこそイエスは、私たちの過去にまとわりつく重荷と、未来を覆う思い煩いを取り去るために来てくださいました。

主は、私たちがいまある、まさにその場所で神を見出すことを望んでおられるのです。

(ヘンリ・ナーウェン『いま、ここに生きる』、あめんどう、1997、p16-18)

私たちにとって「もっと深いところにゆきなさい」と主イエスが促すとき、それはいま、ここに生きる私自身を離れてはないのだろうと思います。「もっと深いところ」とは私自身の中にある深みなのです。ペトロが沖に漕ぎ出して網を打ったとき、船が沈みそうになるほど魚がたくさん捕れた。そのことによってペトロは自分自身の不信仰な姿を明るみに引き出されました。主は「もっと深いところにゆけ」とペトロに命じることで、ペトロ自身の心の深いところを探るように促されている。魂のありかを探るよう促されている。そこには確かに、禁断の木の実を取って食べた後のアダムとエヴァが神さまの足音を聞いて隠れた。そのアダムとエヴァの魂の在処を「あなたはどこにいるのか」と問われた同じ神さまの姿が感じられます。

そして深いところを探るときに私たちは、ペトロと同じように、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と自己の罪深さを告白する以外にはない場所にまで導かれてゆくのです。イエスが私たちを導いてくださる信仰の歩みとはこのような罪深い自己理解を抜きにしては語れないのだと思います。それはペトロだけではない。「ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった」とあるように、私たちすべての者が自身の深みにおいてキリストと出会うのです。

主の召しがなされる「深み」

そして本日の日課は、ペトロを筆頭とする漁師たちを主イエスがご自身の弟子として招かれる場面でもあるということを私たちは覚えたいのです。主のみ業の前に自らの罪、弱さ、破れ、不信仰、恥、限界といったものを深く思い知らされた者に、主は招きの言葉を語っておられる。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」という者に主イエスは告げられている。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になるのだ」と。自らの罪と恥、無力さと破れに気づいた者こそが人間をとる漁師として用いられてゆく。逆に言えば、自分の中にそのような破れや弱さがあることに気づかない者は、イエスに使徒として選ばれることはないということでもありましょうか。

自分を見つめてゆくことはある意味では恐ろしいことです。自分の認めたくない自分、見たくない自分を見つめてゆくと言うことでもあるのですから。「あなたの弱さの中で、破れの中で、あなたは恐れなくてよいのだ。わたしがあなたと共にいる。わたしがあなたを守り、導き、わたしのために人間をとる漁師として用いよう。わたしにすべてを委ねなさい。恐れてはならない」。このように主は語りかけてくださるのです。

漁師たちは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります。イエスのなさった出来事と招きの言葉の持つあらがいがたい力が彼らにすべてを捨てさせたのだと理解できます。別の言い方をしますと、彼らはイエスに従うことの中に生きることの不安や空しさを根こそぎにしてくれる力を感じ取ったと言うこともできましょう。「空の空、一切は空である」と思われたこの世の現実の中に、イエスというお方(「神からの人」「神の人」)が現れた。弟子たちはそのイエスの中に神のなされることは皆その時にかなって美しいという神の現実をかいま見ることができたのです。だから彼らはすべてを捨ててイエスの後に従ってゆくことができた。揺れていたコンパスがピタッと神に向けて定まったのです。

「もっと深いところに舟を漕ぎ出しなさい」と命じられた弟子たちは、神の救いという深い真理、貴い宝を主イエスに従うことの中に見出すことができたのです。このような生き方へと私たちも今日招かれている。「あなたの深いところ、もっと深いところに漕ぎ出し、網を打ちなさい。豊かな収穫がそこにあなたを待っているのだ。わたしがあなたと共にいて、わたしがあなたを人間を生かす漁師として用いる。わたしに従ってきなさい。」

このような招きの言葉を覚えつつ、新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2001年1月28日 顕現節第4主日礼拝)