説教 「いつくしみの絆」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




ヨハネによる福音書 15:1-10

聖書を、とりわけ主日の聖書日課を私は、キーワードを探しながら読む。しかし自分勝手にキーワードを探したり、選んだり、決めたりするわけではない。多くの場合、与えられた聖書をよく読んで、解釈したうえで神学的に中心だと思われるキーワードを探しだす。その上でさらに、それがキーワードだというある程度の客観性を求める。

きょうのヨハネ15章の冒頭、「ぶどうの木」の段落もそうだ。ぶどうの木が単なるたとえに終わらないためにも、この段落でキーワードを確認しておくことは欠かすことのできない作業だと思う。私がここでキーワードとして注目し続けているのは「つながっている」、「とどまっている」と訳されている動詞である。この動詞は、新約聖書で合計118回使われているが、そのうち三分の一以上の40回はヨハネ福音書に出てくる。ヨハネの名の付いている他の文書で24回だから、両方加えると実に半分以上がヨハネ文書で使われていることになる。だから、この動詞がこの福音書で内容的に重要な意味を担っているということの客観的な証拠にもなる。

ところでこの動詞は本来「時間がずっと続く」とか、「ある状態がずっと続く」という中立的な意味を持っている。しかし、ギリシアの思想世界でも、これが神的なものについて言われるときには、「不変である」、「(関係が)変わらない」という意味で使われる。ギリシア人は神的なもの、絶対的なものにこれを当てはめて、神的なものは不変、不動、無感動とした。ヨハネ福音書はこのギリシア的な考え方を一応取り上げながら、これに激しく挑戦したわけである。つまり、この不変の神が変わることを、「ことばは肉体を取って、私たちのうちに宿った」(ヨハネ1:14)と告げたのである。この神はこのように変わって、痛み、苦しみ、感動する。

ではギリシア思想と違って、ヨハネ福音書は、神の不変をどう理解し、どう宣教しようとしたのだろうか。3:16は神の徹底的な愛を注げる。つまり、神はまさに愛において変わることがない方である。しかし同時に、この変わらない愛のゆえに、神は人となり、苦しみ、人を救うことができた。愛において不変、しかし愛のゆえに大胆に可変という神とキリストの姿を基礎として、ヨハネの15章の「ぶどうの木」のメッセージは本当の姿を現す。イエスはぶどうの木をたとえにお用いになったのではなくて、愛のゆえに自らがぶどうの木「である」と言っておられる。

この間樹木についてのテレビ番組をたまたま見た。ある装置を使って根から吸い上げられた水が木の幹を通って音を立てて枝々へと流れていく様子が、すざまじい音となって聞こえていた。とっさに私はこの「ぶどうの木」であるイエスを思い起こした。イエスは「ぶどうの木」のたとえをお語りになって、「私はぶどうの木を表す」と言われたたのではない。まさしく「私はぶどうの木である」と言われた。この木、この幹から枝々へといのちが、愛が音を立てて流れているのである。

流れるいのち、流れる愛をいただいて、私たち自身のいのちが成り立ち、愛が働く。重体の我が子を前にして「神様、どうかこの子をもう一度温かい体で私の腕に抱かせてください」と祈った母親が、重度の障害を持つことになったこの子を愛の中に支えとおして16年、「神様は愛をもって私の祈りに応えてくださった」と言って、同じく重い障害の子と親のために働く話を感動をもって聞いた。

(1997年 4月27日 復活後第4主日)