説教「祝福と呪い、命と死」高村敏浩

申命記 11:18-28

はじめに

God is where God is supposed to be, in our choices, in our struggles, in our joys. Amen.

神様は、神様の居られるべきところに居られます。私たちの決断のうちに、私たちの困難のうちに、私たちの喜びのうちに。アーメン。

祝福と呪い、命と死

これがもうすでに、宣教研修に出る前の最後の説教の機会だということが信じられない気持ちです。今朝、私は、「祝福と呪い、命と死」と題して、旧約の日課である申命記11:18-28から説教していきます。モーセは、11:26-28で、次のように言います:「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に聞き従うならば、呪いを受ける」。モーセは、神に代わって、イスラエル人たちの前に祝福と呪い、命と死、神と他の神々とを置き、主の言葉への従順か不従順かによって、彼らがいずれかを選ぶようにと迫るのです。

私たちキリスト者の多くは、新約聖書を読みます。多分、旧約聖書を定期的に読んでいる人は少ないでしょう。さらに少数の人が、申命記を読んでいることでしょう。私たちは、申命記について何を知っているでしょうか。聖書の中の5番目の本で、モーセが書いたと言われる「モーセ五書」のひとつであるということを、あるいは知っているかもしれません。申命記について少ししか知らないようです。しかし、実際はそのようなことは全くなく、私たちは、思っている以上にこの本について知っています。それは、イエスが福音書においてよく引用するためです。イエスの語る最も偉大な掟は、そのいい例でしょう:「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、これは申命記6:5にあります(マタイ22:37)。また、荒れ野で誘惑を受けられたイエスは、悪魔に対して言いました:「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3;マタイ4:4);「あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16;マタイ4:7);「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」(申命記6:13;マタイ4:10)。これらも全て、申命記にある言葉です。このようにイエスの引用が多いので、申命記は旧約聖書の代表、要約であると理解されています。

そのように言ったものの、今日の日課を見ると、モーセは祝福と呪い、命と死をイスラエル人たちの前に置いてどちらかを選ばせようとします。もしあなたが戒めに従うなら、もし従わず、他の神に従うのなら、この「もし」という言葉は、しかし、私たちの神との関係を条件付のものとしているように聞こえます。もし私たちがこれをすれば、神がお返しにそれをしてくださる。私たちは、あるいは神は、人間の業と神の祝福を売り買いしているのでしょうか。もしそうならば、これはどうも福音的ではありません。しかし、本当にそうなのでしょうか。そのことを見定めるために、モーセは、あるいはモーセの口を通して神は、その民に一体何を伝えようとしているのか、このことを探っていく必要があります。

申命記を要約すると、シナイ山でモーセの仲介によって結ばれた神とイスラエルの契約を更新する、新たにするという話です。そのため、十戒を含めて、その内容の多くが出エジプト記と重なっています。しかし、出エジプト記とは、その状況が違います。申命記は、シナイ山での契約の締結からさらに四十年後の話だからです。神によってエジプトの奴隷制から解放され、荒れ野で四十年間彷徨ったイスラエル人たちは、再び約束の地の境界線に立ちました。その土地に入るにあたって、モーセは、神とイスラエル人たちとの関係を明らかにしようとします。つまり、四十年前に結ばれた契約を確認し、それを更新しようとするのです。これが申命記の語られた状況であり、これが、ここで行われようとしていたことでした。

契約の更新は、決まった手順で行われます。もっとも有名な契約の更新の記述は、ヨシュア記にあります。モーセの後継者であったヨシュアは、死を前にして、全イスラエルの前で、神との契約の更新を行います。彼は、神の救いのみ業や数々の祝福を思い起こし、次のように言ってイスラエル人たちに神を選び仕えるようにと呼び掛けます:「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア24:14-15)。

この話は、イスラエルにおける契約の更新をよく伝えてくれます。契約の参加者は、神が人間の歴史においてどのようなことを行ってくださったのかということを思い起こしながら、彼らにとって神が誰であるかということを確認します。それは、神とその民との関係であり、その関係に照らした、その民の自己理解です。申命記においてモーセは、ヨシュアの例よりも長く、細かいものの、基本的には同じことを行っています。そのため、申命記において繰り返されるメッセージは、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(6:4)というものです。この、神を愛しなさいという戒めは、律法、または神のすべての戒めを背骨のように支えます。つまり、律法を守ることは、私たちの神への愛そのものなのです。これを聴いて、もしかしたら、ルターの小教理問答を思い出す方がいるかもしれません。実に、ルターは、十戒に関する項目で、十戒の一つ一つについての解説を、「私たちは神を畏れ、愛するべきです」という言葉で始めるのです。

神への愛は、ただ単純に神へ愛情を持っているというだけではありません。モーセが、神を愛すると言う時、それは、神との正しい関係に生きること、神に誠実であることを意図していました。彼ら自身を完全に神に委ねる、神に忠実である、それが、モーセが愛という言葉で表そうとしたメッセージです。エジプトで、奇跡を以って、人間の力では不可能であった奴隷の立場からの解放を成し遂げ、荒れ野ではマナとウズラと水を与えてイスラエル人たちの命を保たれた方こそが、イスラエルの神である。それは、神が彼らの生命に責任を持ってくださるという約束の表明でした。神を、そしてその約束を信頼して生きていくこと、それは、神とイスラエルの契約における、イスラエルの果たしていく責任なのです。このようなことを踏まえたとき、モーセがイスラエル人たちに、またイエスがその弟子たちに、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛しなさい」と言ったとき、モーセは、イスラエル人たちが、神様へと彼ら自身を委ね切って、神の約束への信頼に留まることを意味したのです。このような理解に立つとき、先ほど読んだヨシュアの言葉、つまり、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」という言葉は、申命記における契約の更新の本質を明らかにします。つまり、私たちは、その全存在をかけて、神を愛し、仕えるようにと、神に信頼し、神を神として覚えるようにと召されているのです。

今日の日課でモーセがイスラエル人たちの前に置いた祝福と呪いは、私たちが選ぶようにとされた命と死、神と他の神々です。しかし、誰があえて祝福よりも呪いを、命よりも死を、神よりも他の神々を選ぶでしょう。この素朴な疑問は、しかし、私たち人間の本質を暴くものです。私たちは呪いを、死を、そして他の神々を選んでしまうのです。どうしてでしょう。ローマの信徒への手紙には、興味深いことが書いてあります:「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。パウロの言葉は、私たちが望まない呪い、死、他の神々を選んでしまうことをよく言い表しています。パウロは、これを私たちの罪のゆえであると言います。それでは、罪とは、なんでしょう。罪は、私たちが神に従わず、私たち自身に従い、私たち自身を神と、神々とすることです。この罪の力は強大です。罪は私たちを神に背かせ、私たちの神との関係を壊します。モーセはイスラエル人たちに:「主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた」(9:24)と言っています。しかし、次の言葉にこそ、罪の本質が表れています:「あなたたちは、我々が今日、ここでそうしているように、それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」(12:8)。つまり、私たちは、自分が正しいと思うことを行っているのです。そして、それは、神が望むこと、神が正しいと見なすことではないのです。

イスラエル人たちは、神の民でした。そうでもなければ、エジプトから出て、四十年も荒れ野で彷徨うことはしなかったでしょう。蓄えもなく、水も食物も用意せずに荒れ野で四十年も生活するということは、私たちの想像を絶するほどに、すさまじいことです。このような人たちですから、イスラエル人たちは、神を喜ばせようと最善を尽くしたことでしょう。彼らが、神のために正しいと思うことをしたことでしょう。しかし、それこそが、彼らを神から引き離したのです。彼らが神のみ旨にかなうこと、神に喜ばれることと思ってすること、それこそが、意外にも彼らを神から引き離したのです。それが、「それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」というモーセの言葉に込められた思いでした。この言葉は、私たちにも向けられています。私たちは、モーセの前に立つ、イスラエル人として、キリストの前に立つ、新しいイスラエルである教会として、この言葉を聴かなければなりません。

私たちは、私たちが正しいと思うことをすることによって、神のみ旨にかなうと思ってすることによって、神に背いています。祝福と呪いから選ぶようにと言われているのに、呪いを選んでいます。祝福を選ぶことができません。命を選ぶことができません。神を選ぶことができません。私たちがよいと思ってすることは、ことごとく神に背くことです。私たちは、無力です。私たちは、何もできないのです。

しかし、モーセは、イスラエルに言います:「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいる全ての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(7:6);「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(31:6)。もうすでに神が、彼らを選ばれたのです。そして、神は彼らをお見捨てにならないのです。モーセは強調します:「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民より数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」(7:7)。神が、イスラエルを、そして、私たちを、選ばれたのです。私たちの功績のゆえではなく、神の愛と懐の深さのゆえに、神は私たちを選ばれたのです。私たちは、イスラエル人たちのように、すでに神の宝、神のものとされています。それは、私たちは、自分をさえ、自分のものだと主張することはできないということでもあります。詩篇100篇は言います:「主は私たちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(100:5)。私たちの羊飼いは受肉した神であるイエス・キリストです。

モーセは言います:「祝福を選びなさい」;「あなたたちの神、主が命じられた道をひたすら歩みなさい」(5:33);「主の目にかなう正しいことを行ないなさい」(6:17)。神に従うとは、神に聴くということです。モーセは、みことばを「心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(11:18-20)と言います。徹底して、みことばを私たちの中心として生きろと言うのです。

それでも、私たちは、神に背きます。しかし、神は、そのことをご承知で私たちを選び、私たちを見捨てられないと約束されました。それは、つまり、神が、私たちの責任を取ってくださるということです。神が、私たちの責任を担ってくださるのです。この約束を信頼して、神に選ばれた者として、共に福音を生きていきましょう。神に信頼して、大胆に生きていきましょう。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。