【説教・音声版】2022年4月3日(日)10:30  四旬節第3主日  説教 「 愛を受け入れて」 浅野 直樹 牧師

四旬節第五主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章1~8節

いよいよ、イエスさまの御受難の日が近づいてまいりました。来週は「受難週」となります。

早いものです。今週の日課の出だしにも「過越祭の六日前に」とありますので、なんだかそんな緊迫感が伝わってくるようです。
これまでの3年半とも言われる公生涯でしたが、イエスさまはどのように過ごして来られたのでしょうか。ひとことで言えば、愛の生涯でした。

人を愛し、弟子たちを愛され た。その代表的な出来事が、同じヨハネ福音書の13章に記されています「洗足」の出来事でしょう。このように記されているからです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。

弟子たちへの愛を余すことなく示されたのが、弟子たちの足を洗うことだった、という。
ご存知の方も多いと思いますが、当時、この足を洗うという行為は、最も身分の低い奴隷の仕事だったと言われています。普通の奴隷でも嫌がる仕事だった。

ある意味、侮辱的なことだったのでしょう。土埃に塗れた最も汚(けが)れた足を洗うという行為は。それを、師であり主であるイエスさまがなさったのです。一人一人の弟子の足元に膝をつき、身をかがめ、弟子の足を持ち上げ、たらいの水でその汚(よご)れた足を洗い流し、腰につけていた手ぬぐいで足を拭いておやりになる。神の子、イエスさまがそれをおやりに なった。しかも、それは、罪の赦し、清めの十字架と深く関わっているとも言われています。

もうお亡くなりになりましたが、神学校時代の恩師に村瀬という先生がおられました。先輩方からは「鬼の村瀬」と恐れられていたと聞かされていましたが、私たちの頃は「仏の村瀬」と言われるほどの変わりっぷり。それは、どうやら幻の中で先生がこの洗足の出来事を体験されたからだそうです。この自分の足をイエスさまが洗ってくださったのだ、と。

ともかく、イエスさまはこのように弟子たちを愛し、愛し抜かれました。もちろん、弟子たちだけではありません。方々で神の国を教え、多くの人の病を癒し、悪霊を追い出し、社会的にも抹殺されていた皮膚病を患っていた人々を回復させ、腹を減らせて帰らせるのは可哀想だと供食の奇跡を行い、一人っ子を亡くし悲しみに暮れていた母親に息子を返され、生まれつき目の不自由だった人の目を開いていかれました。

それは、それら困り果てていた人々を羊飼いのいない羊のように憐れまれ、愛されたからです。そう、イエスさまは人々を愛していかれました。では、逆に人々は、そんな愛されてきた人々は、あるいは弟子たちは、イエスさまに対して何をしていったのか。聖書は、それについてはほとんど記していません。もちろん、人々はイエスさまに感謝していたことでしょう。弟子たちだって、イエスさまを愛していたに違いない。心の中では…。しかし、それを表していたかどうかは、甚だ疑問です。言葉は悪いですが、聖書を読む限り、印象では受けっぱなしで、頂きっぱなしで、返そうとしていないようにも思える。そんな中で、数少ないイエスさまに対する感謝を、愛を表したのが、今日の日課ではないか、と思います。

これもよく言われることですが、いわゆるこの「香油注ぎ」の記事はどの福音書にも記されていますが、かなり違いも大きいのです。特に、ルカ福音書とは違いが大きい。ですので、このヨハネ福音書の記事は共通性の多いマタイ・マルコの記事とルカの記事とをごちゃ混ぜにしたようなものだ、とも言われています。それらの細かな議論については置いておきますが、確かに読んでいましても、ちょっと強引さを感じないわけでもありませ ん。例えば、ここでイスカリオテ・ユダの悪事が急に入ってくる。

これは、ヨハネ特有の記事です。あるいは、この出来事の日時も違っています。先ほど言いましたように、ルカ福音書は例外としても、マタイ・マルコでは「エルサレム入城」の後、十字架の直前の出来事として、まさに緊迫した中での出来事として記されていますが、このヨハネでは「エルサレム入城」の前の出来事、最初に言いましたようにイエスさまの十字架の出来事と大いに関係のある「過越祭(過越の祭)」の六日前と記されています。つまり、緊迫感が多少落ちているとも言える訳です。しかし、果たしてそうでしょうか。たとえ数日の違いがあったとしても、まさに緊迫感が高まっていたに違いないと思うのです。

たとえ、弟子たちはそのことに気づいていなくとも、弟子たちは最後まである意味能天気に描かれていますが、イエスさまご自身だけはひしひしとその瞬間を感じていたことでしょう。逆に、その温度差が、弟子たちとの、周りの人たちとの温度差が、かえってイエスさまを苦しめていたのかもしれない。そんな時です。マリアが香油を注いだのは…。平時ではない。まさに非常時。もうすぐにでも命が奪われようとしていたとき。あのゲッセマネの祈りにも見られるように、イエスさまでさえも平然としてはいられないような中で、です。その時を取り除いて欲しいと必死に祈らざるを得ないような中で、です。そんな時に、この香油注ぎは起きた。あたかも、自分の葬りを準備してくれるかのように。

おそらく、マリアとしてはそんなつもりではなかったでしょう。イエスさまが数日後には、この世からいなくなるなどとは思いもしなかったと思います。しかし、少なくともイエスさまは、イエスさまだけはそう受け止められたのです。分かってくれて、ありがと う、と。自分を慕ってくれて、愛してくれて、ありがとう、と。

マグダラのマリア:ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1567年 ナポリ、カポディモンテ美術館


誰も、イエスさまを理解しようとはしなかった。弟子たちでさえも、理解してくれな かった。自分が十字架の主であるということを。自分が死ななければ救えない命があるということを。彼らは勝手に盛り上がって、自分を王として担ごうとしていた。この時も、人々は祭りを前にして気分を高揚させていたのかもしれない。この時、何か大きなことをしてくれるのではないか、と期待していたのかもしれない。イエスさまの思いとは真逆の方に…。

おそらく、イエスさまは孤独だったのかもしれません。弟子たちと一緒にいながらも、多くの人々に囲まれていながらも、人々から期待を寄せられながらも、孤独だったのかもしれない。自分を理解してくれる人は誰もいないのだ、と。分かってくれている人は誰もいないのだ、と。そこに、マリアは精一杯の愛を注いでくれた。

この香油は300デナリオンの価値があったと言います。年収に近い額です。しかし、そんなことは関係ない。そうではなくて、このマリアのなりふり構わない愛が嬉しかっ た。無駄遣いと揶揄されてもおかしくないような行為が嬉しかった。少なくともイエスさまはそう感じられたのはないでしょうか。

もちろん、マリアがそのような愛の業ができたのも、マリア自身がイエスさまの愛を受けていたからです。今日の箇所ではラザロも登場しています。ご存知のように、このラザロはマリアの兄弟(おそらくは弟でしょう)で、病で死んでしまったのをイエスさまに よって復活させて頂いたのです。それが、今日の箇所の直前、11章に記されている。マリアが感謝しなかったはずはありません。これによって、どれほど救われたことか。

私たちもまた、イエスさまの愛を頂いていることを知っています。感謝もしています。しかし、どのようにお返ししたら良いのか分からないといった思いがあるかもしれませ ん。いいえ、そもそも返せる自信がないのかもしれない。

同じヨハネ福音書の21章に、3度イエスさまから「わたしを愛しているか」との問いかけを受けたペトロの記事があることをご存知でしょう。イエスさまを知らない、自分とは関係がない、と3度否定してしまったペトロに対して問われた言葉です。


以前もお話ししたかと思いますが、私自身、この問いかけを受けた思いをもったことがあります。それは、イエスさまを裏切ってしまったのではないかと思い悩んでいた時で す。そこで、私も問われた。「あなたは、わたしを愛しているか」と。「はい、主よ」と答える勇気も自信もありませんでした。大きな失敗をしでかし、裏切ってしまったような私です。どの口でそのように言えましょう。

しかし、その問いを受け、私自身、自分の心の中を覗きこまされた。もちろん、堂々とは言えません。自信もありません。おそらく、基準点・合格点にもならないようなみすぼらしい小さな愛です。しかし、どんなに小さくみすぼらしいものであったとしても、確かに私の心の中には否定しようのないイエスさまに対する愛があることにも気付かされたのです。

だから、私はこう答えた。「はい、主 よ、あなたはご存知です。本当にみすぼらしく小さな愛でしかありませんが、私はあなたを愛しています」と。それが、私の転機となった。再び立ち上がるきっかけとなった。なぜなら、こんな小さな愛さえも、イエスさまは喜んで受け取ってくださることを知ったからです。

300デナリオンでなくても良いのです。香油でなくても良いのです。ピント外れで、そんなつもりでなくても良いのです。自分ができることで、自分が持ってこと・持っているものでイエスさまを愛する。それを、イエスさまは喜んで受け取ってくださり、意味のあるものとしてくださる。このマリアのように。

今日の箇所では、イエスさまの死について、またラザロを通して復活のことも暗示されていると言われます。

私たちも、まさに受難週、復活祭へと歩んでいくことになる。そこで、少しでもイエスさまに私たちの愛を届けていきたい、そんな歩みをしていきたい。そう思うのです。