【 説教・音声版】2021年9月26日(日)10:30 聖霊降臨後第18主日礼拝  説教 「 仲間をつくる 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十八主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書9章38~50節

ご承知のように、キリスト教の歴史は残念ながら争いの歴史ともいえます。時には、それが血で血を洗うようなことになってしまったこともありました。
私たちプロテスタント側からすれば、16世紀の宗教改革は大切な出来事ですが、しかし、逆の立場にたてば、それは分裂と混乱をもたらすものでしかなかった訳です。その後、何度も宗教絡みの戦争が起きてしまいました。もちろん、それらは単純に、あるいは純粋に信仰の事柄だけとはいえない要素が多分にあったでしょう。その多くは、権力闘争であり、主導権争いに過ぎなかった。しかし、利用されたにしろ、純粋な動機だったにしろ、信仰の対立が原因の一端にあったことは事実だと思います。それが、多くの人々にとっての躓きの要素になりました。「同じキリスト者同士がどうして殺し合うのか」「愛と赦しを説いておきながら、どうして戦争などをするのか」、キリスト教に反対する意見です。私も、何度も直に聞かされました。

では、なぜ争ってしまうのか。熱心だからです。自分たちの方が真理を知っていると思っているからです。どうしても、譲れないものがあるからです。信仰とは、そういった面があるからです。信仰とは、一途なものだからです。ですから、以前の私は、そういった争いが起こることは、ある程度は仕方がないことだ、と思っていました。もちろん、戦争など論外ですが…。しかし、今日の日課は、改めてそんな私たちの思いに強烈な問いを投げかけているのではないか、と思います。

今日の日課に使徒ヨハネが登場してまいります。皆さんも良く知っている人物だと思いますが、彼はゼベダイの子と言われ、もうひとりの代表的な使徒であったヤコブと兄弟でした。そんな彼らにイエスさまはあるニックネームをつけられました。それは、「ボアネルゲス」です。これには、「雷の子ら」という意味があります。どうやら、彼らは気短で熱情型の人物だったのではないか、と考えられています。なぜなら、こんなことが記されているからです。これは、ルカによる福音書9章51節以下に記されていることですが、イエスさま一行がある時、サマリアの地方を通られたときに、彼らがイエスさまを歓迎しなかったようなのです。そこで、先ほどのヨハネとヤコブはこのように語ったと記されています。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。

なんとも過激な言葉です。しかし、それは、彼らなりのイエスさまを思いやってのことであることは、お分かりでしょう。彼らは熱烈にイエスさまを支持していた。そんな彼らの思い、姿勢が、弟子集団の中にあっても頭角を現すことになったのかもしれません。ともかく、そんな彼らの様子が、今日の日課の中にも見えてくるように思います。49節「そこで、ヨハネが言った。『先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました』」。

当時は、悪霊祓いを生業にしていた人が多くいたようです。そんな彼らは、イエスさまの噂を聞いて、試しにやってみたのかもしれません。「ナザレのイエスの名によって命じる。悪霊よ、出ていけ」と。すると、今まで以上に成果が上がり、これは良い、とイエスさまの名前を用いて悪霊祓いをする人たちが増えていったのでしょう。今度は、そんな噂を弟子たちが聞くようになった。「あそこの誰々さんは、あんたがたの先生の名前で悪霊を追い出して、随分と評判になっているようだ」と。そこで、ヨハネが調査に行った。「あなたが私たちの先生の名前で悪霊を追い出していると聞いたが、それは本当だろうか。もしそうだとしたら、ちゃんと先生の弟子に加わってもらわなければ困るんだが」。

しかし、あなた方の先生には本当に感謝しているが、弟子の仲間に加わるつもりはない、とでも答えたのでしょう。「弟子に加わる気がないのなら、もう金輪際先生の名前を使わないでいただきたい」と憤慨しながら帰っていったのかもしれません。もちろん、これも、ヨハネなりのイエスさまを思う熱情からきていることに、間違いはないでしょう。

最後の晩餐(1476年 ):ドメニコ・ギルランダイオ (1448–1494) Badia di Passignano



今日の旧約聖書に出てくるヨシュアとこのヨハネとは、共通するところがあるように思います。ヨシュアもまた、敬愛するモーセに対する熱意から、不平を言ったからです。「若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、『わが主モーセよ、やめさせてください』と言った」。モーセの与り知らないところで霊が降ったことで、モーセの権威が失墜するのではないか、と案じたからです。ヨシュアのモーセに対する熱い思いが伝わってくるようです。しかし、この熱意は明らかに間違いでした。なぜなら、モーセはヨシュアにこのように答えているからです。「モーセは彼に言った。『あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ』」。

確かに、ヨシュアはモーセの「ため」を思っていました。妬むほどに、熱心にモーセの「ため」を思っていた。しかし、当のモーセは全く違った思いを抱いていたのです。ここに、私たちにも通ずる大きな課題がある。私たちも誰々の「ため」と思う。その人に熱心であればあるほど、その「ため」という思いは強くなる。神さまのため。イエスさまのため。夫のため。妻のため。子どものため。友のため。仲間のため。牧師のため。教会員のため。そして、その誰々の「ため」にと私たちは争いさえも起こしてしまうことがあるのです。しかし、その「ため」は、本当は誰の「ため」なんだろうか。誰々の「ため」と言いながら、当の本人が不在になってしまっているような熱情になってはいないだろうか。そんなことが問われる。

ヨハネはイエスさまのために、あるいはイエスさまが作られた弟子集団のために行動したのだ、と誇らしげに報告したのかもしれません。「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と。私は、弟子集団を代表する者として、当然のことをしたのだ、と。あるいは、褒めて頂けるかもしれない、と思っていたのかもしれません。しかし、イエスさまはそんなヨハネの予想を超えて、このように答えられたのです。「イエスは言われた。『やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである』」。

では、どういうことなのでしょうか。イエスさまの名前を利用するだけで弟子にならなくても良いということでしょうか。そうではないと思います。イエスさまは何も、ここで弟子になる必要などない、とおっしゃっておられるのではないからです。お前たちも従ってくる必要などない、とおっしゃっておられるのではない。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」との弟子としての姿勢は、変わらず求められているのです。しかし、あの人たちは、私たちのようには従っていない、ということで拒絶してはいけない、ということです。

あの人たちは、私たちのような理解がない、礼拝の仕方も違う、福音の捉え方も違う、律法主義的だ、厳格すぎる、ゆるすぎだ、真面目すぎだ、と自分たちとは違うということで拒絶してはいけない、ということです。しかも、これは、単なる教派の違いということにも留まらないでしょう。イエスさまはこうもおっしゃっておられるからです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と。つまり、キリスト者、信徒という枠さえも超えているかもしれないからです。イエスさまの基準はただこの一点だからです。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。

私は、信仰にもっと熱心でありたい、あるべきだ、と思っています。信仰とは、一途なものだからです。こだわりが生まれるのも当然です。どうしても譲れないものがあるのも事実です。私にも、あります。しかし、それ以上に大切なことは、いいえ、ただ一つのことは、イエスさまにこそ熱情を向けることです。自分の思い、こだわり、希望、熱意にではなくて、イエスさまその方に、です。ならば、当然イエスさまの言葉に耳を傾けざるを得なくなる。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」といったお言葉にも。イエスさまは、全ての人々がイエスさまと関わりを持つことを願っておられるからです。そのイエスさまの思いを、願いを、私たちの頑迷さで躓かせてはいけない。

イエスさまは最後にこうおっしゃいました。「互いに平和に過ごしなさい」。最初に言ったことの反省から、今日エキュメニズムが叫ばれていますが、まだまだこの課題は道半ばだと思います。同じ仲間の群れでさえも、確実とは言い難いのですから。それでも、今日のイエスさまの言葉を大切にしながら、平和の道を探っていければと願っています。