【説教・音声版】2021年3月28日(日) 10:30 説教 「本当に、この人は神の子だった 」 浅野 直樹 牧師 」

受難主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書15章1~39節

アンドレア・マンテーニャ (1431–1506)  磔刑図 1457-60 ルーヴル美術館



主イエスは、十字架の上で死なれました。十字架に磔)にされ、血を流しながら、無惨な死を遂げられたのです。その死に間近に立ち会ったローマの百人隊長は、次のように語ったと伝えられています。「本当に、この人は神の子だった」と。
私たちキリスト者たちにとっては、これは何の違和感もなく受け止められるのかもしれません。なぜなら、私たちはイエスさまのことを「神の子」だと信じていますし、そして、私たちのために、私たちを救うために十字架の上で命を落とされたことを知っているからです。しかし、よくよく考えてみますと不思議に思います。なぜ異教徒であるローマの百人隊長が、罪人(ざいにん)の死を前にして「本当に、この人は神の子だった」と語れたのか、ということに、です。

私たちは、十字架刑を過小評価しているのかもしれません。その残忍性ではありません。「罪の刑罰」という意味において、です。当時、十字架刑は最も残虐な処刑方法でした。主に、見せしめの要素が強かった。ですから、ローマの市民権をもった人々に対しては、十字架刑は用いられなかったと言われています。そうではなく、ローマ帝国に仇なす者・反逆者たち、属国の反乱者たち、つまり、ローマ帝国側からすると「大罪人」に用い
られたのです。ですから、十字架につけられ死んでいったナザレのイエスのことを、このローマの百人隊長が大罪人の死と受け取っても、なんら不思議はないのです。「馬鹿なユダヤ人どもが、ローマ帝国に楯突いて何になる。また、力のない哀れなユダヤ人が一人処刑されたか」と思ったとしても、なんら不思議はない。しかし、彼は、こう言った。「本当に、この人は神の子だった」と。不意に、口を衝いて出てきたのかもしれません。

おそらく、この百人隊長にとって、イエスさまの死は不思議でならなかったからでしょう。彼は、これまでにも多くのユダヤ人たちを十字架にかけてきたのかもしれません。当時、度々ユダヤではローマ帝国に叛逆する試みがなされていたからです。今日の箇所に出てきます「バラバ・イエス」もその一人だったかもしれない。「暴動の時の人殺し」と罪状が記されていますが、この「暴動」は反ローマ運動の一つだったかもしれないからで
す。ここでイエスさまが登場してこなければ、この「バラバ」こそが十字架につけられる予定になっていたかもしれません。

ともかく、この百人隊長は、この地に赴任してきてから、幾度となく、そういった光景を目撃してきたはずです。実際に、反乱軍の鎮圧に当たったこともあったのかもしれません。自分が連行してきたユダヤ人たちが、次々と反逆罪で十字架につけられていったのかもしれない。その時の、ユダヤ人たちの姿を、十字架上の姿を、その振る舞いを、死に様を、侮蔑の思いで具に見てきたのかもしれない。「愚かなユダヤ人どもが」と。しかし、そのどれとも、一致しなかった。イエスさまの死は、そのどれとも明らかに違っていたのでしょう。

この百人隊長は、裁判の席でも片隅にいたのかもしれません。そして、あのピラトと同じように、不思議に思ったのかもしれない。なぜ一言も弁明しないのか、と。私たちは不当な裁判に、やっていもいないことを裁かれることに、耐えられません。
人々は、慣例に則り、囚人を一人釈放して欲しい、と願い出ます。総督ピラトはイエスさまが無実だと気づいていましたので、先ほどのバラバ・イエスとメシアといわれるイエス…、イエスさまとどちらを釈放して欲しいかと問いますが、人々はバラバを選びました。そして、イエスさまについては「十字架につけろ」と叫びました。私たちは、悪意のある人の声に、耐えられません。

マティアス・グリューネヴァルト キリストの磔刑 受胎告知 キリストの降誕 受難 復活 (キリスト教) 『イーゼンハイム祭壇画』Mathias Grünewald (–1528) ウンターリンデン美術館 https://www.musey.net/6867



ローマ兵たちは、イエスさまを愚弄し、唾を吐きかけました。ユダヤ人たちは十字架上のイエスさまを取り巻いて、こう言います。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。

私たちは、人に侮辱されることに、罵られることに、耐えられません。イエスさまは大罪人です。裁判を除いては、イエスさまならではの独特の面はあったでしょうが、人々から敵意・悪意を向けられ、罵られ、侮辱され、軽蔑の言葉を浴びせられるのは、ある意味、この百人隊長にとっては、ありふれた光景だったのかもしれません。

しかし、イエスさまは一言も発せられません。私たちは、ほんの些細な不当な扱いにも、悪意にも、侮辱にも、耐えられないのです。すぐに言いたくなる。弁明したくなる。自分の正当性を。そして、悪意には悪意で、侮辱には侮辱で返したくなる。自分をこんな目に合わせた奴らを呪い殺してやりたい、と。必ずお前たちの上に天罰が下るであろう、と。

百人隊長がこれまで見てきた十字架の囚人たちは、そうだったに違いない、と思うのです。私たちと同じように…。しかし、イエスさまは違った。イエスさまが発せられたのは、たったこれだけ。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」。人に対しての恨みつらみでも、ローマに(世に)対しての恨みつらみでもなかった。ただ、神さまのみに叫ばれた。これらをじっと間
近に見ていた百人隊長に電撃が走ったのではないか、と思います。「本当に、この人は神の子だった」と。

イエスさまは十字架で死なれました。神の子が十字架で死んだのです。罪のない方が、大罪人の一人として。これは一体、何を意味するのでしょうか。もちろん、私たちは答えることができるはずです。「私たちの罪を贖うため」であった、と。しかし、それでも、いいえ、その上で私たちはなおも問いたいと思うのです。安易に模範解答を導き出す前に、なぜイエスさまは、神の子は死なれたのか、と。この私のために死なれたのか、と。
このイエスさまの死を真摯に見つめる先にこそ、確かな答えがあると思うからです。「本当に、この人は神の子だった」という答えが。そして、この答えに辿り着いた者だけが、イエスさまのあの叫びが、「わが神、わが神」と叫ばれた叫びが、まさにこの私のためであったということが、そこに隠されていた神さまの愛が、心に深く刻まれていくようになるのではないでしょうか。

祈 り

今日から再び、集会式の礼拝を再開できますことを感謝いたします。しかし、新規陽性者数が上昇傾向になっており、ある試算では4月末頃に都内だけで2000人を超えるといった予想も出ているようです。自粛疲れとも言われますが、感染の広がりは、死に直結する人々が増えるということでもありますので、なおも皆が心がけていくことができますようにお導きください。また、集会式の礼拝が再開できても、まだまだ参加することのできない方々も多くおられますので、どうぞそのお一人お一人の上にもあなたの恵みを豊かに届けてくださり、常にあなたが共にいてくださることを実感していくことができますようお導きください。

今日から受難週が始まりました。私たちのために、あなたの御子であられるイエスさまが十字架上で命を捨てられたその意味を深く噛み締めていくことができますように、どうぞお導きください。そして、十字架のイエスさまは復活のイエスさまでもあることを深く覚えていくことができますように、来週の復活祭を待ち望ませてくださいますようにお願いいたします。

今年も、卒業・入学・進級などの季節になりました。昨年からのコロナ禍でなかなか通常のようにはいきませんが、どうぞ子どもたち、学生たちが、このような状況下ですが、その年代でしか経験できないことをしっかりと経験して、人生を豊かに育んで行けますように、どうぞ憐れみお導きください。連日のように、ミャンマーの出来事が伝えられています。そして、多くの市民の命が奪われていることに心を痛めます。どうぞ、人の命が奪われることのないように、平和的に解決されていきますように、お助けくださいますようお願いいたします。悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン