【説教・音声版】 2021年2月14日 「 あなたはイエスをどう思っている? 」浅野 直樹 牧師

主の変容主日礼拝説教


マルコによる福音書9章2~9節

相手が何者であるのか、どんな存在であるのかを正確に掴むことは決して容易いことではありません。私たちは年齢を重ね、人生経験を積んでいく中で、無意識の内にもこれまでの情報と照らし合わせながら、「あの人はこういう人だ」「こんなタイプだ」とやってしまいがちです。もちろん、あながち間違っているとは言えないこともあるでしょうし、確かにそういった面もあるでしょうが、だからといって正確に捉えているとは言えないはずです。むしろ、そういった経験則に基づく先入観が私たちを捉えてしまって、なかなか相手との距離を縮められないことも多く経験して来ているのではないでしょうか。

本当に相手を知るためには、時間がかかるのだと思います。時間をかけ、しっかりと相手の言葉に耳を傾けていく。じっくりと知っていくことが大切になってくるのではないでしょうか。そうでないと、前述の先入観によって、身勝手な思い込みによって、大変なことにならないとも限りません。

今日の福音書の日課は、いわゆる「主の変容(変貌の山)」の物語です。その出だしでこう記されていました。「六日の後」(9章2節)と。では、何から6日後だったのか。それを知るには、日課の前の箇所を読まなければなりませんが、そこには、ペトロの信仰告白の記事と、それに続く、いわゆる「受難予告」…、もっと正確に言えば、イエスさまの受難…、その死と復活の予告が記されていました。つまり、「主の変容」の出来事は、それらの6日後ということになる訳です。そこで、なぜわざわざそれらの6日後と記す必要があったのか、ということです。つまり、わざわざ6日後と記したからには、「主の変容」の出来事は、それら、ペトロの信仰告白の出来事と、その後の受難と復活予告の出来事とも深く結びついている、ということでしょう。

8章27節以下に先ほど言いましたペトロの信仰告白の記事が記されています。このペトロの信仰告白の前にイエスさまはこういった問いかけをされました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。弟子たちにご自身の認識を問いかけられる前に、人々の認識、評価を尋ねられた訳です。そこで、様々な答えが返って来ました。ある人々は「洗礼者ヨハネ」が復活したのだと言っています。その他にも「エリヤ」の再来だとか、他の預言者の一人だと言っていたりしています、と答えました。ここで興味深いのは、今日の日課に登場してきます「エリヤ」といった答えが、ここに出てきているということです。これらの人々の認識、評価を受けて、今度は弟子たちに尋ねられました。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。そこで、ペトロはあの有名な信仰告白をした訳です。「あなたは、メシアです」。人々はあなたのことを色々と言っているようですが、私はそうは思いません。あなたこそ、私たちが長年待ち望んでいた「メシア・救い主」その人です、と告白いたしました。「あなたのことは誰よりも理解しています」、そんな思いを内に秘めながら、目を輝かせ、胸を張って、少し誇らしげに答えたのかもしれません。そのペトロの信仰告白を受けて、先ほどから言っていますように、イエスさまはご自分の受難と復活を弟子たちに語っていかれました。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」と記されています。するとペトロは、なんとイエスさまをいさめ始めた、というではありませんか。ここに、ペトロが抱いていた「メシア」のイメージと、イエスさまがなさろうとされていた「メシア」の姿が大きく異なっていたことが分かります。

そのズレを埋めるためにも、これまで以上に熱心にイエスさまは弟子たちを教え導いて行かれたのかもしれません。ある方は、先ほどの6日後、つまりこの間の6日間とは、そういった教育期間だったとも言っておられます。そうかもしれません。しかし、果たしてペトロの認識は変わっていったのでしょうか。私には、そうは思えない。人はそう簡単に自分の認識を改めることなど出来ないからです。むしろ、ペトロは不安になっていったのかもしれません。どうも話を聞けば聞くほど、私が抱いてきたメシアとイエスさまとは違っているとしか思えない。私は時の権力者たちに殺されていくようなメシアなど望んでいない。むしろ、メシアとは、そんな甘い汁を吸って民たちを顧みない権力者たちをやっつけるものではないか。このまま、この人に付いていっていいんだろうか。そんな問いが芽生えていたのかもしれません。

ラファエロ・サンティ (1483–1520) : キリストの変容 1518-1520 バチカン美術館



そんな最中に、イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登られました。そこで、イエスさまの姿が変わった。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。白く輝くとは、神的な姿を表します。弟子たちは、そのあまりの光景に腰を抜かさんばかりだったでしょう。そして、エリヤとモーセも登場してくる。この二人は、ご存知の通り旧約聖書を代表する人物です。ツートップと言っても過言ではないでしょう。そんな二人が光り輝くイエスさまと共に立って話し合っている。ペトロは、「俺の目に狂いはなかった」と思ったのかもしれません。一時は、イエスさまの言葉に心も揺れたけれども、やはり俺たちの先生は凄い方だ。あの偉大なエリヤとモーセと並び立っている。まさに、俺が見込んだメシアに違いない。そんな思いに、恐れ戸惑いながらも、打ち震えていたのかもしれません。しかし、この時のペトロの様子を聖書が肯定的には捉えていないのも確かだと思います。

ペトロは恐らく、直前の受難予告など忘れてしまう程に、どこかに飛んでいってしまうほどに、感動したに違いないと思います。そして、恐らく、より強く「この方に付いていこう」との思いを新たにしていったことでしょう。しかし、それでも、やはり彼は自分の先入観を捨て切ることが出来ないでいることに違いはないのです。メシアの認識のズレは一向に埋まらないのです。相変わらずイエスさまを誤解したままでいる。メシアだと告白しておきながら、その実、イエスさまの真のお姿をちっとも理解してはいないのです。私たちのように…。

そんな彼らをイエスさまたち諸共に神さまは雲に包まれてしまわれます。雲とは旧約聖書では神さまのご臨在を示すものです。その神さまの力に覆われた時に、神さまの声が聞こえて来ました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。気づけば、その声の先にはイエスさまお一人しかおられなかった。「これはわたしの愛する子」と言われたのは、イエスさまただお一人でした。いくら偉大な人物であるエリヤやモーセであっても、イエスさまと同じではない。神の子と言われる方はイエスさまお一人だけ。

Proportion and Design of Part of Raphael’s Tranfiguration ラファエロの変容のトライアングル構成図 William Turner ウィリアムターナー



その神の子としての栄光を彼らは目の当たりにしたのです。光り輝く栄光を。しかし、忘れてならないのは、「これに聞け」という言葉。つまり、神の子としての栄光は、イエスさまがお語りになられたように、受難と復活によって示されるものだからです。ペトロにとっては、とても受け入れられるものではなかった受難と復活のメシアによってこそ、イエスさまは神の子として光り輝かれる。そして、イエスさまは最後にこうも語られます。

「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と。まだまだ時間が必要だ、ということでしょう。イエスさまのことをより深く知っていくための時が。そして、恐らく時だけでも不十分なのでしょう。復活のイエスさまと出会わなければ、真のイエスさまのお姿は理解できないからです。あの弟子たちのように。

先入観や身勝手な思い込みを打ち破ることは容易ではありません。それこそ、復活のイエスさまと出会うような決定的な出来事が必要でしょう。それを、聖霊なる神さまは今日の私たちにおいてもしてくださるはずです。しかし、人にはそれぞれ時がある。その人にとってのタイミングが。早い人もいれば、遅い人もいるでしょう。瞬間的な人もいれば、長い時間をかけて徐々に、ということもあるのかもしれない。しかし、いずれにしても、時間は掛かるものです。相手を知るためには。共に生き、相手の話をじっくりと聞いていく時間が。そんな弟子たちの姿からも、私たちは学ぶ必要があるのかもしれません。

祈 り
・まだまだ新型コロナで大変な思いをされておられる方々が大勢おられます。どうぞ憐んでください。落ち着きを取り戻し、皆で集う日が一日も早く来ますように。お一人お一人の心も体もお守り下さいますようお願いいたします。
また、経済的な苦しみの中にある方々も多くおられます。どうぞ、必要な政策が速やかに行われ、生活が守られますようにお導きください。
・ご家族を亡くされて辛い思いをされておられる方々いらっしゃいます。どうぞ憐んでくださいまして、その心をお支えくださいますようにお願いいたします。
・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題と向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、お一人お一人に必要な助けをお与えくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン