【 テキスト・音声版】2020年12月27日 説教「私の目は救いを見た 」 浅野 直樹 牧師

降誕節第一主日礼拝説教(むさしの教会)



聖書箇所:ルカによる福音書2章22~40節

今年も残すところ後わずかとなりましたが、この一年は新型コロナの影響で、誰もが不安の中を歩んで来た、そんな一年ではなかったかと思います。新しい年は、そんな不安も払拭されて、穏やかな一年となればと心から願っています。

誰もが…、そう一人残らず全ての人、誰もが安心して生きられる。これは、一つの理想の世界、幸福な世界なのではないか、と思います。しかし、もう少し考えを進めてまいりますと、誰もが安心して死を迎えることができる、自分の人生の幕を閉じていくことができるのも、また、幸福な世界なのではないか。そうも思うのです。もちろん、それは、「死んで良い」ということではありません。人生の半ばで、志半ばで、死を迎えなければならないということは辛いことですし、年端もいかない子どもたちとの死別はできれば避けたいことですし、自ら死を選ぶしかないという現実というのもあってはならないこと、非常に残念なことです。もちろん、まずは「生きる」ということが大切なのです。

『キリストの神殿奉献』- シモン・ヴーエ Simon Vouet- ルーブル美術館 1640-1641年頃



幸福な人生を送ることが大切。当たり前のことです。しかし、それでも、私たちには、この私たちの誰にでも「死」という現実が横たわっていることも確かなことなのです。見ようとしなかろうと、気づこうとしなかろうと、確実にその時はやってくる。ですから、この誰もがいずれ経験するであろう「死」を恐れず、安心してもし迎えることができるならば、それは幸いなことなのではないか。そう思うのです。今日の日課にはシメオンという人物が登場してまいりました。そのシメオンはこんな言葉を残しています。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。これは『シメオンの賛歌』とも言われるものです。私たちが毎主日、礼拝の中で唱えている『ヌンク ディミティス』がそれです。今日は、この『シメオンの賛歌』の、特に「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉を中心に、このシメオンの心境などを考えていきたい、と思っています。

その前に、今日の日課に登場してまいります、先ほどのシメオンとアンナについて、少し考えてみたいと思います。現在の聖書学の世界では、異なった意見も出てきているようですが、伝統的には、このシメオンもアンナも共に「老人」と考えられてきました。そして、ある方は、ここがミソだとも言っています。なぜならば、クリスマスの、つまりイエス・キリストの御降誕の意味を正確に受け取っていたのは、この二人の老人だけだったからです。なるほど、と思いました。この「聖家族」が訪れていた神殿には数多くの人々がおそらくいたでしょう。

『女預言者アンナ』美術史博物館(ウィーン)1639年 Rembrandt Harmensz. van Rijn



中には、信仰的なリーダーたちもお偉いさんたちもいたに違いない。しかし、そういった人々はイエスさまの存在に、その意義に気づかなかったのです。
いいえ、気づけなかったのです。この当時、無名とも言える二人の老人たちだけが、クリスマスの意義をはっきりと理解していた。そのことを、このクリスマスの物語は改めて教えてくれています。

時代によっては、年配の方々に対する意識が変わるのでしょう。一昔前までは、その経験や知識が重んじられて来たと思いますが、昨今のような目まぐるしく時代が移り変わっていく中では、あまり重んじられなくなってきたようにも感じるからです。確かに、なかなかITなどの技術革新には付いていけないでしょう。しかし、それでも、円熟味は変わらないと思うのです。一人の人間としても、そして、信仰者としても。この二人の「老人」の特徴は、共に信仰に篤い人だったということ。熱心に祈る祈りの人であったということです。だからこそ、聖霊の働きに敏感に答えることができたのでしょう。近年、教会はますます高齢化が進んでいくと、どちらかというと否定的な意味合いで言われることが多いように思いますが、このクリスマスの物語を読みますと、そうではないことにも気づかされるのではないでしょうか。年配者には年配者ならではの円熟した役割がある。このシメオンやアンナのように他の人にはできなかった、正しく、正確に、救い主を指し示していくことだってできる。そんなことも教えられる気がするからです。

先ほどの「この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉は、もういつ死んでもいい、ということです。いつ召されても構いません、という意味です。老シメオンは赤子のイエスさまに出会いしなに、そのように語ったのです。なぜか。夢が叶ったからです。シメオンはずっとこの時を待っていました。こう記されています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」。彼は救い主に会うまでは決して死ぬことはない、とのお告げも受けていたと言います。

『神殿のシメオン』または『シメオンとアンナ』レンブラント・ファン・レイン ハンブル美術館 1627-1628年 Rembrandt Harmensz. van Rijn



おそらく、彼はその言葉の、約束の実現を何年も、ひょっとして何十年も待ち焦がれていたのではないでしょうか。そして、ついに彼は救い主と出会うことができた。聖霊によって、その赤子が自分が待ち望んでいた救い主だということが分かった。そして、その幼子を腕に抱き、感極まってこう語らずにはいられなかったのではないか。そう思う。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。「わたしはこの目であなたの救いを見たから」もう直ぐにでも死んでも構わない。私は満足している。満ち足りている。もう何も恐るものなどない。

なぜならば、あれほど待ち望んでいた救いを、救い主をこの目ではっきりと見たのだから。彼は、喜びに胸を躍らせながら、そう語る。何という幸いな光景か、と思う。しかし、私はちょっと立ち止まってしまうのです。おや、彼は救いを見たというが、彼が見たのは、赤子のイエスさまではないか。確かに、これからイエスさまは成長されて、まさに救い主としての姿を多くの人々の前に示され、そして、十字架と復活によって、救いの業を完成してくださる。しかし、それは、まだまだ先のことであって、シメオン自身はその恩恵をちっとも体験していないではないか。なのに、彼はなぜ救いを見た、と言い得るのか。私なら、そんなふうに考えてしまいます。

しかし、ここがもう一つ大切なところなのです。肝心なのは、神さまの言葉なのです。まずは、神さまの言葉、約束がある。その言葉が、約束が、たとえ赤子であったとしても、彼は実現されたことをイエスさまの中に見出したのです。それだけで良いのです。それだけで、彼は救いを見ることができた。そして、その結果、もういつ死んでも良いとさえ思えるほどに満ち足りることができた。安心することができた。それが、救いの出来事なのです。

死に打ち勝つ力。私たちは、このクリスマスに、もう一度そのことを覚えたいと思うのです。なぜクリスマスがあるのか。なぜ神の子が私たちの世界に生まれなければならなかったのか。それは、闇があるからです。死の力が、滅びの力がこの世界に満ちているからです。ですから、クリスマスは何かロマンチックな出来事でも、この日ばかりはと現実逃避を決め込むような時でもないです。むしろ、神さまの側からすれば、宣戦布告の日とでもいえるのではないか。私たち人類を脅かす、不安と不幸に陥れようとする死の力、闇の力、滅びの力、絶望の力、悪魔の力に徹底的に対抗するために、その最前線に御子を派遣してくださった、それがクリスマスの出来事でもあると思うからです。

私たちもまた、この救い主イエスさまと出会うことができました。ですから、私たちもこう言っていけるようになりたいと思う。御心ならば、いつ、あなたの元に召されても大丈夫です、と。そんな信仰に堅く立てるようになっていきたいと思うのです。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」アーメン。



祈り
・神さま。2020年最後の主日礼拝を迎えました。この一年は新型コロナの影響で、何ヶ月もの間、集会式の礼拝ができなくなったり、再開後も人数制限の礼拝とせざるを得なかったりと、あるいは、毎年恒例として行えていた行事も行えなかったり、とにかくこれまでに経験したことのない歩みを、教会としても、また私たち個々人としてもせざるを得ませんでしたが、それでも、このように守られて、今年最後の礼拝を持つことができましたことを本当に嬉しく思い、心より感謝いたします。また、礼拝のライブ配信は役員会でも懸案事項となっていましたが、このコロナ禍で一挙に加速させることができ、多くの方々に恵みを届ける良きツールとすることができたことも感謝です。そのほかにも、多くの方々が陰日向となってご奉仕いただけたことも感謝しています。このコロナ禍でも、多くの恵みがありました。しかし、新しい年は、どうぞ落ち着いた年となって、当たり前であった生活を感謝しながら送っていくことができますように、お導きくださいますようお願いいたします。

・特に、東京では感染の勢いが衰えていきませんが、年末年始、静かな時を過ごし、感染拡大に歯止めをかけていくことができますように、市民一人ひとりの心に働いてくださいますようお願いいたします。医療従事者の方々の中には、年末年始もなく、過酷を極めておられる方々もおられます。どうぞ憐れんでくださり、少しでも感染が抑えられて、その働きが軽減されていきますように、お助けください。お一人お一人の心も体もお守りくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン