【音声版・テキスト 】2020年5月31日 説教「イエスを証する者」浅野直樹牧師

聖霊降臨祭礼拝聖書箇所:ヨハネによる福音書7章37~39節



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本日の礼拝は聖霊降臨祭・ペンテコステの礼拝です。本来ですと、教会の三大祝祭日の一つですので、皆で集い、大いに祝いたいところですが、ご承知のように、今年はそうもいきませんでした。非常事態宣言は解除されましたが、都内での新規感染者数は徐々に増えて来ており、再開の判断についても悩ましいところです。

ともかく、現代においては、このような形(それぞれの場所)ではありますが、共に礼拝の恵みに与ることができるのも、文明の利器の恩恵を受けているからだと、ひしひしと感じております。しかし、一方で、文明の利器があるから、お茶の間でも礼拝堂にいるのと遜色のない臨場感を味わえるから礼拝が、信仰生活が成立するのか、といえば、そうでもないことを覚えるのです。そこに、聖霊の働きがあるから。

この聖霊の働きは、見たり、知覚できたりするものでは必ずしもありませんが、聖書が記しますように…、̶̶本日の第二の朗読で読みましたコリントの信徒への手紙1 12章3節にこう記されています。「ここであなたがたに言っておきたい。「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」̶̶

 

聖霊によらなければ信仰的な事柄は何一つ起こらないからです。聖霊の働きがあるからこそ、礼拝になる。そこが礼拝の場になる。賛美、祈りがなされ、信仰の告白が起こって行く。み言葉と触れ合い、心が動かされ、出来事となる。そこで私たちは赦しを経験し、癒され、養われて行く。たとえ、そうとは感じられなくとも、聖霊の働きをいちいち確認できなくとも、それが起こっている。なぜならば、イエスさまがそう約束してくださっているからです。聖霊を遣わすと。私たちはそれを信じる。そのことをもう一度確認しながら、聖霊降臨祭を共々に祝いたいと思う。

今、それぞれの場にあっても、聖霊の恵みが豊かにあるのだということを、しっかりと受け止めていただきたい、と思います。今朝の第一の朗読は、聖霊降臨の出来事を記した、良く知られた箇所でした。ここで聖霊降臨の出来事が劇的な出来事であったことが分かるのですが、しかし、その特徴とするところは、現代人にもよく理解できることだと思います。ここに記されている聖霊降臨の出来事は「言葉」と非常に密接に結び付けられているからです。まず、聖霊が降ってきた様子を「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。

ジョット”ペンテコステ”GIOTTO di Bondone”Pentecost”1310-18 National Gallery, London



聖霊は「炎の舌」のような姿で現れた、と言います。この「舌」は、言葉を発する時の大変重要な器官の一つです。言葉を発することができなかった人をイエスさまが癒された時に、「舌のもつれが解け」たとある通りです。言葉を明瞭に話すためには、「舌」の自由な活動が必要不可欠だと考えられていた訳です。

そして、そんな聖霊に満たされた弟子たちは、そこで何をしたのか、と言えば、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。その後に、様々な国名が記されていますが、それは、当時知られていた「世界中」と言っても良いでしょう。世界中の言葉で「神の偉大な業を語って」いった訳です。つまり、世界宣教です。

振り返ってみますと、私は多くの宣教師の方々と良い交わりを持たせていただくことができました。私が15歳の時にはじめて行った教会は、ドイツ人の女性宣教師がはじめられた教会でした。特に選んでそこに行った、というのではなく、たまたま家から一番近くの教会がそこだったからです。もっとも一番近いと言っても、自転車で片道1時間弱かかりましたが…。以前も言いましたように、私が育ったのは随分と田舎だったので、昭和五十年代半ばでは、いわゆる「外国人」は非常に珍しい存在でした。

私自身、おそらく、その時が「外国人」との最初の出会いだったでしょう。もともと興味があって教会を訪れたのですが、正直、その宣教師の物珍しさ、と言いますか、欧米に対するちょっとした憧れも手伝って、足繁く通ったものです。もっとも、その宣教師には心配ばかりをかけてしまって、今では大変申し訳なくも思っています。そして、牧師になるために最初に赴任し
た教会も、ホッテンバッハというドイツ人宣教師が創設された教会でした。

『同盟福音基督教会』といった団体に属する教会でしたが、非常にユニークな先生で地域では名物宣教師でした。結局、2年間一緒に働かせて頂くことになりました。先生の話はいつも興味深いものばかりでしたが、特に、宣教師として日本にやって来られた頃の話は、忘れがたい話となりました。先生は年代としては、私よりも30歳ほど上で、子どもの頃から宣教師を目指し、20代で船に乗って日本にやって来られました。

当時、昭和三十年代は、やはりまだ船での移動で、何ヶ月もかけてやって来られたのです。貨客船に乗って未知なる世界に。その間に、なんども嵐に遭われたそうです。中には、何十キロもある重い荷物が、室内を水平に飛んでいくような凄まじいシケにも遭われたとか。「その時には、流石に死ぬかと思ったよ」とカラカラと笑いながら話してくださいました。私にとって、この先生と共に働くことができた2年間は、本当に幸いな時だったと思っています。

その他にも、同じドイツ人宣教師にも、アメリカ人宣教師にも、本当に多くの宣教師たちに良くして頂きました。正直に言いまして、やはり宣教師たちは魅力的です。先ほどのホッテンバッハ先生の例にもありますように、ある意味、命をかけてやって来られているからです。それだけの覚悟、情熱、愛を持っておられる。日本のために。日本人のために。福音によって何としてでも救われてほしい。そのためならば、あのパウロのように、何でもしよう。そういった気概がある。それは、単に強さだけではありません。芯の強さがありつつも、途方も無い優しさがあります。

本当に「人間の出来が違う」、と思ってしまう。それは、紛れも無い事実でしょう。少なくとも、私が出会って来た宣教師の方々の大半はそうでした。だからこそ、魅力的でもあるし、その人柄に惹かれてしまう…。それは、紛れも無い事実。確かに、そうだと思う。しかし、それだけではないはずです。なぜ、有難いのか。それは、私たちの国の言葉で福音を伝えてくれたからです。

宣教師たちは、私たちの国の言葉で、自分たちが育ってきた国の言葉で、ではなく、わざわざ難しい外国語を、特に日本語は難しいと言われる訳ですが、その難しい言葉を熱心に、懸命に覚えて、たとえ最初は片言であったとしても、事実、最初に出会った宣教師の方の書く文章は、お世辞にも上手とは言えませんでしたが、それでも、自分の国の言葉で聞くことができる。いいえ、私たち日本人とは明らかに違った国の、文化の人々が、一所懸命に日本語で語ってくれる。そこに、私たちは神さまの業を見たのではないか。無意識のうちにも見ているのではないか。そう思うのです。

ジャン・コロンブ”聖霊降臨”15世紀写本 Jean Colombe,1485-1486 Pentecost



確かに私たちは、宣教師の方々の恩恵を決して忘れてはいけないし、感謝してもし尽くせないのですが、しかし、これも率直に言って、宣教師の方々だけでも不十分といった思いも正直あります。それは、「言葉」とは、分かれば良い、理解できれば良い、といったものだけではないからです。言葉とは、その言葉の持つ正しい意味さえ理解できれば良い、ということではありません。言葉には、含みがあります。その背後にある思いがあります。

どちらとも受け取ることができる印象もあります。自国民でさえ「言葉」の難しさを感じる。しかも、それが外国語となると、なかなか上手くいかないのも事実でしょう。
宣教師の方々自身がそのもどかしさを一番感じておられるのかもしれません。ともかく、やはりその国の人々が語ることが一番だと思います。私自身、到底あらゆる面で宣教師の方々に敵う者ではありませんが、自分の国の言葉で福音を伝えることができる。そこに、唯一の利点を見出してもいます。

ともかく、自分の国の言葉で福音を聞くことができることが大切なのです。そのために、宣教師たちは多くの犠牲を払い日本に来られ、日本人牧師たちも欠けを感じながらも努力を積み重ねている。そして、そんな自分の国の言葉で福音を、神さまの偉大な御業を人々に、その国の人々に聞かせるために、聖霊の働きはある。今日の、この聖霊降臨の出来事は、そのことを私たちに伝えてくれているのではないか。そう思うのです。

自分の国の言葉で、理解できる、分かる言葉で、同じ文化を、生活を共有している言葉で福音を聞くことができる。この聖霊の働きが大切なのです。そこで、聖霊を受けた、聖霊に満たされた弟子のペトロはエルサレムの町に住む、あるいは滞在していた人々に、その人々が分かる、理解できる言葉で、弟子たちを代表して語りかけました。

それは、内容から言っても「説教」と言っても良いでしょう。つまり、特別に選ばれた人が聖霊に満たされて、人々に説教したことになります。これも、良く分かります。しかし、そのペトロは、その説教の中で旧約聖書を引用しながら、こう語りました。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。ペトロは、この聖霊降臨の出来事は、この旧約聖書の言葉が実現するものだった、と語ります。つまり、聖霊降臨の出来事は、聖霊が与えられるという出来事は、ここで堂々と説教するペトロや弟子たちのような、特別な人たちに限らない、と言うのです。

老いも若きも、男も女も聖霊を受け、ある者は預言し、ある者は幻を見、ある者は夢を見る、と言う。ここでも、皆が皆、預言するのではありません。それぞれの役割がある。違っていたっていい。しかし、何れにしても、聖霊が降るのは事実なのです。そして、今日の箇所で言われていることは、先ほどから言ってきましたように、聖霊の働きの主なるものの一つとして、自分たちの国の言葉で神さまの偉大な御業、つまり、これを福音と言って良いと思いますが、福音を語る、伝える、ということなのです。

そして、同じ国の言葉ということは、分かってもらえなければ意味がないということでもあるでしょうから、日本語を使っていても、訳のわからない高度な、高尚な言葉ではなく、いわゆる「神学用語」や「専門用語」などではなくて、自分が理解し伝えられる言葉で語る、伝える、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

キリスト者全ての元に聖霊は降られます。イエスさまがそう約束してくださったからです。しかし、聖霊を受けたからといって、皆が皆、宣教師になったり説教者になる必要はありません。しかし、聖霊の恩恵は、自分の言葉で神さまの恵みを語ることができることなのだ、ということも忘れないで頂きたいのです。皆さんの上に聖霊の豊かな恵みがあり
ますようにお祈りいたします。



《祈り》
・首都圏も含めて、日本中で緊急事態宣言が解除され、人の動きが戻ってきました。そのせいでもあるのか、北九州市では第二波とも言われる感染拡大が起こり、東京でも徐々にではありますが、新規感染者の数が増えてきています。経済との両立という非常に難しい舵取りが迫られていますが、なおも一人一人が意識を持ち、対策をしながら、必要な経済活動も行なっていけるように、特に、経済的困窮者が急増し、新型コロナではなく、貧困で命の危機に晒されている方々も増えていますので、どうぞ良き導きを与えてくださいますようにお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも感染拡大が広がっています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。どうぞ憐れんでください。また、リスクのある中で懸命に働いておられる方々も多くおられますので、どうぞそれらの方々をもお守りくださり、遠く離れた私たちですが、出来ることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。

・先の中国で行われました全人代で「国家安全法」成立が採決され、今後香港では苦しい立場に置かれることが懸念されています。不当な理由で拘束されたり、より一層自由と民主主義が制限されていくかもしれません。多くの市民が香港からの脱出を画策しているとも聞きます。どうぞ憐れんでくださり、不当なことが行われませんようにお守りください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン