「ウィーンの思い出(5)恩師に感謝して(1b)」 野口玲子

ウィーンの思い出(5)~恩師に感謝して(1)
フェルディナント・グロスマン先生(2)
野口玲子

 

グロスマン先生はウィーン少年合唱団の指導者、宮廷礼拝堂の指揮者を生涯にわたって務められました。私が留学した頃はウィーン少年合唱団の総裁で、新年、イースター、ペンテコステ、クリスマスといった重要な主日には先生自らが指揮をされました。栄華を極めたハプスブルグ時代の伝統を受け継ぐ宮廷礼拝堂では毎週日曜日の朝9時半からミサが挙げられます。ソプラノとアルトをウィーン少年合唱団員が歌い、テノール、バス、男声のソロは当少年合唱団出身のオペラ座の合唱団員やプロの歌手による奉仕です。そしてオーケストラはウィーンフィルのメンバーによる奉仕。特にグロスマン先生の指揮による主日には、コンサートマスターのボスコフスキー氏が現れ、ミサの始まる前にお二人がにこやかに握手を交わしておられる姿が見えました。何と贅沢なこと!と感激したものです。少年合唱団以外は事前練習一切なしでの本番。そして先生が指揮をされると、他の指揮者の日とはまるで違って、少年たちの声が良く透って響き、すばらしい演奏となるのでした。指導者や指揮者の重要性を痛感いたしました。当時はヨーロッパでもこの宮廷礼拝堂が唯一、ローマカトリック伝統の音楽ミサによる礼拝を受け継いでおり、説教はなく、ラテン語の式文と音楽のみによるものでしたが、現在は他の教会に近い礼拝が守られています。

受洗前の私にも、礼拝堂に響き渡る音楽によって、心の中に感謝や反省、そして喜びも悲しみも分かち合い平安を祈る気持ちなどがふつふつと湧き上がり、度々涙が溢れました。作品や演奏がすばらしくて感動したことも事実ですが、何といっても音楽が神さまの言葉となって、私の心を揺さぶったのでしょう。このような音楽を醸し出されるグロスマン先生から、伝統ある国で直にお教えを受けることができたのは誠に幸せなことでした。

多くの人々から愛されたグロスマン先生は1970年9月頃から体調を崩して入院され、12月5日に(その日は奇しくも武蔵野音楽大学の定期演奏会で指揮をされるはずの日でした)80歳でお亡くなりになられました。師を失った私共にとっては真に辛く悲しいものでした。

グロスマン先生の棺は、ウィーン中央墓地のホールから男性達によって厳かに高く掲げられて運ばれ、私共はその後に従って、優れた功績をたたえられた方が埋葬される栄誉者墓地まで行進しました。何千人いたでしょうか。道幅一杯に長い列が続き、あの方も、この方もと、驚くほどたくさんの方々が、お別れに駆けつけてこられたのでした。深く掘られたお墓の中に静かに横たわる(カトリック教徒は現在も土葬)先生のお姿に涙しながら、参列者一人ひとりが祈りをこめて花を投げ入れます。私は感謝を込めて真紅の薔薇を一輪・・・全員の献花が済んだ後、土が撒かれ、その上に献花の花束や花輪が山盛りに積み上げられました。お墓はこのまましばらく置かれ、雨や雪などで土が沈んで落ち着くのを待って石の蓋がのせられました。黒いリボン1枚1枚に、私共現役の留学生をはじめ、先生のお教えを受けた多くの先輩方(日本人)の名前が書かれた花輪はひと際立派で人目を引きました。日本から依頼された花輪の手配などは、私の下宿先の小母さんの指示のお陰で果たすことが出来ました。慌しく走り回ってくださった小母さんに感謝しています。

埋葬から一週間経った頃、宮廷礼拝堂で故グロスマン先生の追悼ミサが催されました。曲目はモーツァルトの「レクイエム」。長年にわたって先生が育んでこられた少年達の歌声は真に美しく、私の心の底に響き渡りました。難しいソプラノのソロなども、とても子供とは思えない円熟した音楽を感じさせるものでした。きっと天国から、グロスマン先生がいつもの優しいお顔で指揮をしてくださったのでしょう。

今後もグロスマン先生から賜った数々の尊いお教えに感謝申し上げ、心からの歌を歌うために、いかに正しい発声法が大切であるかを後輩に伝えるべく、私自身の勉強と共に学んでまいります。この使命を果たすことができますよう、神さまのお導きを賜りますようお祈りいたします。

(むさしのだより2006年 9月号より)