マタイ

【 テキスト・音声版】2020年9月27日 説教「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師

2020年9月27日 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書21章23~32節

今日の福音書の日課にも譬え話が出てきましたが、この譬え話は聖書の中に記されています数多くの譬え話の中でも、珍しくすぐにでも共感を覚えることができるものの一つではないか、と思います。なぜならば、私たちの道徳律と非常に親和性があるからです。

恐らく、その父親はぶどう園を所有し経営していたのでしょう。繁忙期で忙しくなる。猫の手も借りたい。そこで二人の息子に手伝ってもらおうとしました。始めに、兄の方に話しかけます。「今、とても忙しい時期だから、お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。

もうすでに就職していたのでしょうか。それとも、まだ学生だったでしょうか。「嫌だよ、父さん。僕にだって予定があるんだから」。弟の方にも声をかけました。「お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。「いいよ、父さん。特に予定もないし、手伝ってあげるよ」。父親は先にぶどう園に行き、忙しく働きながらも息子たちが来るのを待っていました。しばらくすると兄の方がやってきた。「お前、どうしたんだ。さっき予定があるから嫌だって言っていたじゃないか」。「いや、そうだけど、なんだか気になっちゃってさ。

父さんも大変だと思ったから引き返してきたんだ」。そういって兄は父の手伝いを始めました。しかし、弟の方は待てど暮らせど来ません。父親も、「おかしいな。そろそろ来ても良い頃なんだが。確かに来ると言っていたよな」。その頃、弟の方は友達と遊びに出かけていました。「確かお前ん家、ぶどう園やっていたよな。いいのか手伝わなくて。確か今が一番忙しい時期じゃなかったか」。



「いいの、いいの。あんなの親父にやらせておけば。どうせたいしてバイト代もくれないしさ」。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。子どもでも分かることです。私たちもそう親たちから教わって来ましたし、また子どもたちにもそんなことをしてはいけない、人の道ではないと躾けて来ました。そう、だから、この譬え話は何の違和感もなくすんなりと入って来るし、そんなの当たり前ではないか、とも思える。しかし、今日のこの譬え話を、そんな単なる教訓的な、あるいは倫理道徳的な話として読んでしまうと肝心なところが見落とされてしまうということは、もう皆さんもお分かりのことでしょう。

今日の箇所の前半部分では、「権威」についてのやりとりの様子が記されていました。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」。当時の宗教的、あるいは社会的指導者たちが腹立たしげにイエスさまを問い詰めていった訳です。ここに到るまでの物語があります。12節以下に記されていますいわゆる「宮清め」の出来事です。当時、犠牲として捧げられる動物の売り買いや神殿税を納めるための両替の場所などが神殿の境内に設けられていたわけですが、それらをひっくり返したり追い出したりして、少々乱暴な振る舞いをされたのが他ならぬイエスさまでした。

もちろん、イエスさまにはそうせざるを得なかった理由がありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。確かに、問題性もなかった訳ではないでしょうが、当時の宗教的利便性から、あるいはその必要性から生まれた制度でもあったわけです。そして、それらを決めていったのが、それらを決める、あるいは指導する権威を持っていた先ほどの祭司長や民の長老だったわけです。つまり、イエスさまのその行動は、彼らの権威を全否定することにも等しかったわけです。彼らにとっては面目丸つぶれです。ですから、彼らからしたら、先ほどの詰問は当然の思いだったのかもしれません。私たちの面子を潰すからには、相応の権威を持っているはずだろうな、と。

そんなやりとりの中から生まれたのが、先ほどから言っています今日の譬え話でした。つまり、イエスさまからすれば、彼らは譬え話の弟のように映っていたわけです。もっとも、当然彼らはそうは思っていなかったでしょう。自分たちこそが宗教的な重要な事柄を決める権威があるのだ、と。つまり、自分たちの信仰のあり方は神さまからお墨付きをいただいているのだ、と。しかし、イエスさまからすれば、それは表面的な面に過ぎなくて、譬えで言えば、あの弟のようにあたかも父親の意に添うかのように空返事をしているにすぎなくて、本質では何も父親の、つまり神さまの思いには応えてはいないのだ、と思えてならなかった。

むしろ、逆に、彼らが忌み嫌って軽蔑していた、つまり彼らからすれば神さまから遠く離れて裁きを受けざるを得ないような人間だと映っていた徴税人や娼婦たちの方が、実は譬え話で言えば兄の方であって、当初は神さまの御心から外れて神さまを悲しませては来たけれども、そんな彼らも立ち返って、後で考え直して神さまの思いに答えていくようになったと見られている訳です。そして、その両者の決定的な違いを生み出したのが、洗礼者ヨハネのメッセージに動かされたかどうか、でした。

洗礼者ヨハネのメッセージとは、罪を指摘し、悔い改めを説くことでした。罪の赦し、罪からの救いの必要性を訴えることでした。弟の方だと指摘された祭司長や民の長老たちは、このヨハネのメッセージに心が動かされなかった。逆に言えば、兄の方だと指摘された徴税人や娼婦たちはヨハネのメッセージに心が動かされたのです。彼らが自らの罪の自覚をしっかりと持っていたかどうかは分かりません。神さまからの罪の裁きを恐れていたのかどうかも分からない。罪の赦し、救いの必要性を感じていたかどうかも。むしろ、そんなことは考えないようにしていたのではないか。現実と割り切っていたのではないか。

ろくな家庭で育たなかったのだ。まともな仕事では食っていけなかったのだ。生きるためにはしかたがないではないか。社会が悪い、環境が悪い、貧乏が悪い、と自己弁護を繰り返してきたのかもしれない。しかし、どこかで問いが消えなかった。「本当にこれで良かったのだろうか」と。普段は、そんな問いは生きるための邪魔になるとして心の深いところに押し込んでいたのかもしれませんが、決して消え去ってしまうことはなかったと思います。それが、洗礼者ヨハネのメッセージによって浮き彫りになっていった。「救われるためには、どうすれば良いのだろう」と。

ここでイエスさまは洗礼者ヨハネとの向き合い方を問われています。罪を指摘し、悔い改めの必要性を説いた、罪の赦しの可能性を教え続けていった洗礼者ヨハネとの向き合い方を。そして、それは、イエスさまとの関係性にも結びついていくことになるのです。洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされた者たちは、イエスさまのところにもやってくる。逆に、洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされない者たちは、イエスさまとの距離もとってしまうことになる。これも、兄と、弟と指摘された者たちの中にみられるものです。

ニコラ・プッサン Nicolas Poussin「ヨルダン川の洗礼者ヨハネ」(1630)



今朝の旧約聖書の言葉も私たちは肝に命じていかなければならないと思います。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。神さまの御心は、誰もが罪を赦されて生きることです。一人として滅んで欲しくない。悔い改めて、立ち返って生きて欲しいと願っておられる。「最初」が問題なのではありません。結果的に父の元に、
神さまの元に行かなければ、戻らなければ意味がないのです。たとえ「最初」がどうであろうと、そこに神さまの御心がある。そのことを深く覚えて行きたいと思います。

《 祈り 》
・最近の新型コロナの問題は落ち着いているように見えますが、先日のシルバーウイークでは各地で多くの賑わいを見せ、経済活動が加速されているようにも見受けられます。そのために、また感染の拡大が危惧されてもいますが、このウイズ・コロナの時代、経済活動と感染予防という対極にある課題と同時に向き合わなければなりませんが、新たに誕生した政府も賢明な対策が取れるようにお導きくださいますようお願いいたします。また私たち市民一人一人も長期間にわたる緊張感のためか意識が緩みがちになっているようにも感じますが、しっかりと個々人においても感染対策に気を配っていくことができますようにお助けください。

・このところの天候不順もあって鐘楼の修繕工事が予定よりも若干遅れているようです。そのためもあってか、大工さんも雨天の中懸命に取り組んでくださっていますが、どうぞ体調面もお守りくださり、事故などもないようにお守りください。また、良い修繕がなされますようにお導きをお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【 テキスト・音声 】2020年9月20日 説教「 救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師

2020年9月20日 聖霊降臨後第十六主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

今朝の福音書の日課も、良く知られた譬え話です。この譬え話自体も、それほど難しいものではないでしょう。しかし、読み手によって、これほど印象の違う譬え話も珍しいのではないか、と思います。そして、大方の人にとっては、なんだかすっきりしないと言いますか、もやもや感が残るものではないでしょうか。



この譬え話、「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と小見出しにはありますが、この物語の主人公は「ぶどう園の労働者」ではなく、非常識なほど気前の良いこのぶどう園の主人だと思います。そして、この主人の立ち居振る舞いが、先ほど言ったような印象をそれぞれに与える訳です。では、なぜもやもやするのか。不公平だからです。いいえ、賃金自体は公平です。どの人も1デナリオンの賃金を貰っている。しかし、それは、不公平に思える。なぜなら、労働時間がそれぞれ違っているからです。

サロモン・コニンク ぶどう園の労働者のたとえ Salomon Koninck:The Parable of the Laborers in the Vineyard. 1647



12時間働いた人、9時間働いた人、6時間働いた人、1時間しか働かなかった人。そのどれもが同じ賃金、1デナリオンを貰っている。それが、私たちの目には不公平に映る。当然です。労働に見合った代価ではないからです。先ほど、このぶどう園の主人を「非常識なほど気前の良い」人だと言いましたが、気前の良さは良いのです。ちゃんと自分の労働に見合った賃金ならば、つまりちゃんと「差」をつけてさえくれたならば、その気前の良さはむしろ大歓迎なのです。

1時間しか働かなかった人が1デナリオン貰えたとしても納得ができる。むしろ、この主人のそんな気前の良さを評価できたかもしれない。すごく良い人だと。しかし、働いた時間が違うのに同じ賃金だというのが許せない。腹が立ってくる。しかも、この主人の「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」との言葉に、なんだかカチンとくる。言っていることは当然だと思いつつも、この不公平な扱いにイラっとしてしまう。そうではないでしょうか。

この物語を理解する上で大切なことは、この譬え話が「天の国」を示すための譬え話だ、ということです。つまり、この地上での事柄、常識とは違う、ということです。こんな非常識なことを、この地上世界で、私たちのこの社会・現実世界で、日常で行ったのなら、とたんに大混乱を起こすでしょう。そして、その不満は大暴動に発展するかもしれません。または、こんなおいしい目に合うならばと、労働に無気力な人も多く生まれてしまうかもしれない。ですから、私たちの現実とは、ちょっと切り離して考えなければならないのかもしれません。しかし、それでも、神さまがそんな不公平なことをしても良いのか、との問いは残ります。

いくら天の国のことだとしても、むしろ、天の国がそんな不公平なところか、と思うと、がっかりされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで立ち止まって、よくよく考えてみていただきたいのです。先ほどから、不満を持つ側から話してきましたが、では、なぜこの物語を読んで不満を持つのか、といえば、「自分は出来る人間だ」と思っているからです。今日の譬え話で言えば、自分は最初に雇われた人間、少なくとも最後の人、たった1時間しか働かなかった人とは違う、と思っているからです。では、なぜそう思えるのか。誰が「出来る人間」だと、最初っから雇われていた人だと評価するのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。

それとも、神さまでしょうか。誰が、確信をもって一番働いた者、最初っから雇われた者、と言えるでしょうか。自分では「俺は(私は)出来る人間」と思っていても、結局最後まで雇われなかった人だったかもしれない。それでも、世間は俺を見る目がない、誰も私を正当に評価してくれない、といきり立っていただけかも知れないのです。

レンブラントぶどう園の労働者のたとえ  Rembrandt:The Parable of the Laborers in the Vineyard,1637



先週は王に莫大な借金をして赦してもらった家来の譬え話が取り上げられていましたが、果たして彼は決済まで自分の負債に気づけていたのでしょうか。彼は1万タラントンの借金があったといいます。それは、約6000万日分の賃金ということになる訳ですが、とても返せる額ではありません。しかし、彼からはそんな危機感は微塵も感じられないからです。

ひょっとして、「俺は出来る人間だ」、王から借りた金で行った事業もうまくいっているし、何の問題もない、と思っていたのかもしれない。しかし、蓋を開けてみれば、ずさんな経営でうまくいっていると思っていたのは本人だけで、途方も無い借金に膨れ上がっていたのかもしれません。しかし、彼は決済の時まで、つまり最後の最後まで、審判の時までそれに気づかないのです。「俺は出来る人間だ」と。これは、私たちだって他人事ではないはずです。

誰が私の評価を決めるのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。それとも、神さまでしょうか。私たちは、もっともらってもおかしくない働きをしてきた、もっと評価されてもおかしくない人生を歩んできた、と本当に、本気で堂々と言えるのでしょうか。それは不公平だと。私の働きに見合っていないと。私の人生には低すぎる評価だと。


確かに私たちは、朝一で雇われて、夜明けとともに働けた者かもしれません。1時間しか働かなかったものと同じ賃金なんて納得できない、と正当な文句を言えた人間だったかもしれません。では、明日はどうでしょうか。明日も同じように、朝一で雇ってもらえる保証は一体どこにあるのでしょうか。明日はその人選から漏れてしまうかもしれない。いいえ、来年の今頃は、10年後の今頃は、同じように朝一で雇ってもらえるのか。あんな1時間しか働かない者と同じ扱いにしないでほしい、と言える者であり続けられるのか。

人間、だんだんと年を取っていくと、かつて出来ていたことも出来なくなってしまうこともある。それでも、そう言い続けられるのだろうか。いつも健康でいられるわけでもない。誰からも評価されるとも限らない。だんだんと9時からの者、昼からの者、午後3時からの者となっていくのかもしれない。そして、誰からも雇ってはもらえない、と嘆かざるを得ない日も来るのかもしれない。

この主人の非常識なほどの気前の良さは、何も最後の賃金の支払いだけではないのです。この主人にとっては、最初の人たちとの契約だけで十分だったのかもしれないからです。にも関わらず、この主人は探しにいかれた。誰にも雇ってはもらえない人をも救いたいと動かれた。仕事として雇うには、あまりにも遅すぎた人たちさえも何とかしたいと出かけられた。どんな人の人生も、必ず報われる人生なのだと惜しみなく恵みを注がれた。

誰一人滅びることなく、皆が救われるようにと、生かされるようにと願われた。それが、この非常識な主人、私たちの信じる神さまなのではないか。そう思う。そして、この方のもとだからこそ言えるはずです。私たちは救われている、と。誰でも、躊躇することなく言うことができる。この方によって救っていただけるのだ、と。この変わり者の神さまによって。そうではないでしょうか。

教会花壇 日々草



《 祈り》
・本日の礼拝は敬老主日の礼拝ですが、残念ながら例年通り80歳以上の先輩方を礼拝にお招きしての敬老主日となることはできませんでした。しかし、今日それぞれの場におられるむさしの教会につらなるご高齢の先輩方を、この一年の間も日々豊かにお守りくださり、豊かな祝福をお与えくださいますようにお願いいたします。特に、体調面をお支えください。この新型コロナは特に高齢者を重篤化させやすいと言われていますので、このコロナからもお守りくださいますようにお願いいたします。

先輩方の中には入院治療をされておられたり、体調を崩しておられたり、思うように身動きが取れなくなられたり、と様々な辛さを抱えておられる方も多くおられますので、どうぞ必要な助けをお与えくださり、健やかなる日々をお過ごしになることができますようにもお導きください。健康が守られ、来年の敬老主日には多くの先輩方と共々に祝いの時を持つことができますようにお導きください。

・8月18日に小林憲弥さん・佳奈さんご夫妻にご長男準弥(じゅんや)くんが与えられたという嬉しい知らせが入ってまいりました。本当に感謝をいたします。どうぞ、あなたの守りと祝福の中で準弥くんがすくすくと成長していかれますように、またそのご家庭を豊かに祝福してくださいますようにお願いいたします。また、どうぞご夫妻に子育てに必要な力を豊かにお与えくださり、必要な助け手も備えてくださいますようにお願いいたしす。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

2020年むさしの教会敬老カード (Design:Kan Yasuma、Church Photo:Reiko Noguchi)

-週報-  2020年8月9日 聖霊降臨後第10主日礼拝



司  式   小山 茂

聖書朗読   小山 茂

説  教   小山 茂

奏  楽   小山 泉

開会の部  ( 式文A 1〜4頁 )

前  奏   ファンタジア ロ短調   J.S.バッハ

初めの歌   教会 203( 父の神よ )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

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主よ。
私ちの心に、正(しく考え、行なう霊を注いでください。
あなたなしに存在することのできない私たちに、み心に従って生きる力を与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1の 朗 読   詩編 85:9-14( 旧約 922頁 )
第2の 朗 読   ローマの信徒への手紙 10:5-15( 新約 288頁 )
ハ レ ル ヤ
福音書の朗読   マタイによる福音書 14:22-33( 新約 28頁 )

みことばのうた  教会294( 恵ふかきみ声もて )

説   教   「 疑いは、信じる第一歩 」 小山 茂 牧師

感謝の歌   【21】57( ガリラヤの風かおる丘で )

信仰の告白  使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌    教会 357( 主なる神を )

後  奏   退堂曲  C.フランク

 

 

【テキスト・音声版】2020年7月26日 説教「愛は勝つ」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



YouTubeでお聞きになられる方は、こちらからお願いいたします。

聖書箇所:マタイによる福音書13章31~33、44~52節

今朝の説教題は「愛は勝つ」とさせていただいています。このフレーズを聞かれると、私の前後の世代の方々は、1990年代に大ヒットしたKANの『愛は勝つ』という曲を思い浮かべられるのではないでしょうか。それもあって、この説教題にした訳ですが、それは、この曲の「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」という歌詞が今日の聖書の箇所となんだか重なるように私には感じられたからです。「必ず最後に愛は勝つ」。先週は、「正義は必ず成る」、「正しきことは必ず報われる」ということをお話ししたと思います。


先ほどの『愛は勝つ』の歌詞をもじれば「信じることさ 必ず最後に正義は成る(勝つ)」ということになるでしょうか。それが、当時の人々にとっての何よりの慰めの言葉、励ましの言葉となった訳です。しかし、正直に言いまして、それが…、正義は必ず成る、果たされる、報われるということが慰め・励ましになると言われてもピンとこいようにも思うのです。

なぜなら、私たちはそれほどこの「正義」ということに飢え渇きを感じてはいないからです。確かに、先週もお話ししましたように、森友問題に端を発した公文書改ざん問題や様々な社会問題、あるいは個人的にも理不尽な目にあうと、「正しきことが行われていない」と義憤を覚えたりしますが、しかし、全体的には一応法治国家としての体が保たれていると大らかな信頼を寄せているからです。それは幸いなことですが、もちろん、そうではない国、地域もある訳です。

ご承知のように、今香港は大変なことになっています。中国政府が強引に「国家安全
法」を成立、施行させたからです。これで、これまでの言論の自由が大きく制限されるようになりました。なぜなら、政府の批判をするだけで捕まってしまうかもしれないからです。香港ではこれまでも度々抗議デモなどが行われてきました。その一部は過激化し、外から見ている私たちからは「ちょっとやりすぎじゃない」と思ったほどです。

しかし、彼らとしてはこうなることを恐れていたからです。私たちのように他人事ではいられなかったからです。その恐れていたことが現実となってしまった。多くの若者が民主化運動から手を引いていきました。これくらいのことで手を引くのかとも思いましたが、その一人が語った「これは命に関わることなのだ」が胸に重くのしかかりました。

正義…、法による保護と法によって保障された自由、それらがどれほど大きなものなのかを私たちはそれほど真剣に受け取っていないのかもしれません。それらが極端に制限された世界は、おそらく地獄のような世界になるでしょう。しかし、今の私たちにとっては、それらはあまりにも当たり前のものになっていて、その恩恵に気づいていないのです。大抵の場合そうですが、この「当たり前」のものは失ってみてはじめて掛け替えのないものであったことに気づかされるものです。

ともかく、日本も気をつけないと直ぐにでもそのようになってしまう、といったことを言いたいのではなくて、この「当たり前」がいかに大切であるか、ということです。
今日の福音書の日課も「天の国」の譬え話が取り上げられていました。このマタイは
「神」という言葉はあまり使いたくなかったようで(ユダヤ人ですから恐れ多いと思ったのでしょう)「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っている訳ですが、「神の国」と同じ意味です。そして、この「神の国」というのは、なにか特定の場所を指すのではなくて、神さまのご支配を意味するものです。

神さまの思いが、御業が隅々にまで行き渡っている世界。それが、「神の国」。ですから、先ほどから言っています「正義」も、この「神の国」の重要な一面になる訳です。神さまは義なる方だからです。ですから、正義のない、行われていない世界に生きていた者たちにとっては、正義に飢え渇いていた人々にとっては、憧れの世界に思えたでしょう。

ですから、慰め、励ましになる。しかし、この「神の国」を考える上でもっと大切なことは、「愛」ということです。神さまの愛による支配。それが「神の国」。なぜならば、私たちが信じる神さまは、義なる方であると同時に、愛なる方でもあるからです。そんな「神の国」、「天の国」の様子といいますか、特徴を今朝の譬え話は私たちに語ってくれています。

最初の二つの譬え話は、共通するイメージを私たちに与えてくれます。それは、大きく成長する、ということです。はじめはごくごく小さいのに、取るに足らないように思えるのに、それが誰もが目を見張るように大きく成長する。そんなイメージです。具体的にはクリスチャンの広がりを指すのかもしれません。あるいは教会の広がりと言っても良いのかもしれない…。

最初はイエスさま一人からはじまった運動でした。そういう意味では一粒の「からし
種」「パン種」だったと言えるのかもしれません。それが12人に広がり、数百人、数千人に広がり、迫害下の中でしたがローマ帝国中に広がり、ヨーロッパに広がり、私たちの教会文化とは随分と異なりますが、あるグループはインド、中央アジア、中国へと広がり、アフリカに広がったものもあり、そして、新世界であった南北アメリカ大陸に広がり、この日本にも伝えられ、他の地域から比較すると大きな広がりとは言えないかもしれませんが、それでも着実に広がっていきました。

そして、2014年時点では全世界に23億人のクリスチャンがおり、人口比33%と言われています。そういう意味でも、確かにこの譬え話のように「天の国(神の国)」は大きく成長した、と言えるのかもしれません。

また、次の二つの譬え話は、この「天の国(神の国)」の価値に目を止めさせてくれます。どちらも、是が非でも手に入れたい、との思いが伝わってきます。どんな犠牲を払ってでも、大切なものと引き換えてでも惜(お)しくない。どうしても手に入れたい。それほどの価値がこの「天の国(神の国)」にはあるのだ、そんな思いです。
神の国、神さまのご支配、愛の支配は、そういうものです。

あらゆるものを手放してでも手に入れたくなる、そういうものです。それほどの魅力がある。だからこそ、たった一粒の取るに足らないと思えたちっぽけなからし種が、あらゆる気象条件、悪天候、迫害にも耐え、多くの実りを結んだ、とも言えるでしょう。しかし、どうでしょうか。

本当に私たちの目に、それほど輝いて見えているでしょうか。欲しくて欲しくてたまらない宝物のように、神の国を感じているでしょうか。では、なぜ、そうはならないのでしょうか。それは、神さまのご支配が見えないからです。とてもそうは思えない世界の中に私たちは生きているからです。神さまの愛が見えていないからです。むしろ、なぜこんなことが、と愛を疑いたくなるようなことばかりだからです。それも、正直な私たちの実感でしょう。

私は神さまの愛が分からず、ずっと悩んできました。神さまに愛されているといった実感がどうしても持てなかったのです。なぜなら、私は自分自身にばかり目を向けていて、見るべきものを見ていなかったからです。いいえ、もっと正確に言えば、目には写っていたのでしょう。視界にも入っていた。決して知らなかった訳ではない。

しかし、そちらに焦点を合わせることをしていなかった。自分の内面ばかりに、感覚ばかりに焦点が向かっていたからです。私たちの視界は、案外狭いものです。見えてはいても、焦点が合っていなければぼやけてしまってなかなか実体が掴めません。特に、集中していればいるほど、そういった傾向に陥りやすくなります。欲すれば欲するほど、求めれば求めるほど、視界が狭くなって、向けるべき焦点からズレてしまっていることが多いのです。

感じるのではないのです。見るのです。イエスさまを見るのです。イエス・キリストというお方に焦点を合わせるのです。そこからしか見えてこない真実が、伝わってこない感覚が必ずあるはずです。



今朝の使徒書の日課であったローマの信徒への手紙8章31節以下は私にとっては非常に大切な、また大好きな箇所です。そして、決して手放したくない言葉です。しかし、最初っからそうだった訳ではありませんでした。正直、最初はピンとこなかった。自分にばかり焦点を合わせようとしていた私にとっては、なんだか実感の湧かない素通りするような言葉でしかありませんでした。

しかし、少しづつイエスさまに焦点を合わせることができるようになっていった。それが、信仰生活だとも思いますが、そのことによって、この言葉の景色が私にとっては掛け替えのないものになっていったのです。31節でパウロはこう語ります。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。なんという言葉でしょうか。先ほど、私たちにとって神の国とは、すべてのものを捨ててでも手に入れたい程に魅力的なものだ、と言いましたが、ここでは、神さまはこの私たちを手に入れるために、愛するためにご自分の子を捨てても惜しくないと思えるほどに魅力的だったと言われるのです。

この私たちのどこに、一体そんな魅力があるのでしょうか。罪にまみれた私たち。自分でも嫌になってしまうような私たち。ボロが出て大切な人たちからも見捨てられてしまうのではないかとビクビクするような私たち。結局、愛される資格も価値もないのではないかと自暴自棄になってしまうような私たち。自分に焦点を合わせれば、そんなことしか見えてきませんが、しかし、そんな私たちを我が子さえも惜しまずに与えるほどに、捨ててしまえるほどに愛しているよ、と言ってくださっている。

この私が、どんな思いで、どんな決意で、お前のことを愛しているか分かるだろ、と語りかけてくださっている。私の目には、どうしようもなく愛おしく見えているのだ、と囁いていてくださっている。それが、イエスさまに焦点を合わせた時に見えてくる世界なのです。本当に信じられないくらいに、私たちは愛されている。

だから、パウロもこう語ります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と。そのように、イエスさまによって示された神さまの愛が、私たちの心に注がれている。

何十億という人々に注がれている。もちろん、あなたの心にも注がれている。
見えないから、感じないから、そうは思えないから、無いのではありません。焦点が
合っていないから見つからないのです。イエスさまにしっかりと焦点が合えば、神の国が、神さまの愛の支配がすでに始まっているし、それが広がっていることに、気づけるはずです。もちろん、私たち一人一人の内にも、です。

その心の眼差しをもって、この厳しい時代にあっても、祈りつつ、しっかりとした足取りで歩んでいきたい。そう思います。

「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」。

ジョン・シングルトン・コプリー「キリストの昇天」「The Ascension」(1775)John Singleton Copley



《祈り》
・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。このまま何の対策もとられないと、8月には目を覆いたくなるような現実がやってくるとさえおっしゃる専門家の方もおられます。確かに、経済との両立という非常に難しい舵取りが求められていますが、どうぞ良い知恵を与えてくださり、感染の広がりを、特に重篤化しやすい方々への広がりを抑えていくことができますようにお導きください。まだ病床数に余裕がある、といった意見も出ていますが、医療の現場ではすでに悲鳴が上がっているようです。

志高く医療の現場で頑張ってくださっていますが、それでも限界があるでしょう。これ以上の急激な広がりは、医療の現場がもたなくなるのではないか、と心配になります。どうぞ、経済的なことも含めて適切な援助の手が与えられて、医療の現場が守られていきますように、どうぞお助けください。

・世界でも一向におさまる兆しが見えません。一度はおさまったかのように見えた国々でもぶりかえしているようです。どうぞ憐れんでください。多くの命が奪われていますが、少しでも良き対策がとられて、命が守られていきますようにお助けください。

・香港では今、多くの市民たちが非常に厳しい立場に立たされています。国外へ脱出する人々も後を絶たないようです。どうぞ、憐れんでくださいまして、基本的な人権が守られすように、不当な逮捕などが横行しませんようにお助けください。

・豪雨被害に遭われた方々の生活はまだまだ厳しいようです。復旧復興にも時間がかかるでしょう。雨も心配ですし、また暑さも気がかりです。新型コロナのこともあります。本当に大変な毎日でしょうし、今後のことも心配でならないでしょうが、どうぞ速やかに様々な対策がとられて、少しでも早く平穏な生活に戻ることがおできになるように、どうぞお助けください。

・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題を向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、それぞれの祈りに応えてくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

【音声版・テキスト】2020年7月19日 説教「一筋の心を与えてください」浅野 直樹牧師

聖霊降臨後第七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書13章24~30、36~43節

今朝の日課も、先週に引き続き「譬え話」ですが、今朝のこの譬え話も何だか私たちをドキッとさせるような、不安を呼び覚ますような、そんな譬え話ではなかったでしょうか。果たして私は良い麦なのだろうか、それとも毒麦なのだろうか、と。

私自身、覚えがあります。若い頃…、まだ教会に行きはじめて間もない十代の頃、私は自分が「悪魔の子」ではないか、と思い悩んでいた時期があるからです。それは、不思議な心の動きを感じていたからです。教会に行くようになって、私は即座にクリスチャンになりたい、信仰を持って生きていきたい、「これだ」、と思うようになりました。しかし、その思いとは裏腹に、自分の心の中に別の動きがあったのです。信じたいのに、信じようとしない、と言いますか、反発とも違う、何か得体の知れない悪感情が聖書を読むたびに、私の心の中に湧き起こって来たからです。

それは、自分でも理解し難いことでした。先程も言いましたように、自分としては、思いとしても、意志としても、「信じたい」のです。なのに、その思いから引き離そうとするかのような思いが自分の中から猛烈に湧き上がってくる。でも、どうしてか分からない。原因が皆目見当もつかない。別にその時に読んでいた聖書の言葉は自分にとっては不快な言葉でも信じ難い言葉でもなかったのに、なんとも言えない憎悪にも似た感情が私を襲ってきました。

それは、あのパウロが書き記しましたロマ書にあります(7章13節以下ですが)自分の中に罪の法則があることを自覚させられた(「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」)、自分にとってはそんな出来事でもありました。ともかく、そんな自分ではどうにもならない心の動きに、これは予め自分が「悪魔の子」と定められているからではないか、抗うことのできない運命なのではないか、と恐れた訳です。


皆さんは「予定論(あるいは予定説)」といった言葉をお聞きになられたことがあるでしょうか。ちょっと運命論的な考え方ですが、予め救われる人とそうでない人とが定められている、といった考え方です。これは、いわゆるカルヴァン派…、多くは改革派や長老派と言われるグループですが、そのグループに特徴的な考え方だと一般的には言われています。しかし、ルターもこの考え方に立っていました。

しかし、どうも当初の受け止め方とは違ってきているようにも思います。先程、運命論的と言いましたが、それは、人が生まれる前から神さまが救われる人とそうでない人とを定められた以上、それは決して覆らない、と考えるからです。すると、先程も言いましたように、私たちは途端に不安になる。もし、救われない側に定められているとしたら、どうなってしまうのだろうか。いくら努力したところで、一旦決められたことが覆らないとしたら、もうダメじゃないか。

そうなると、どうせ自分は救われないのだから、運命は変えられないのだからと、不貞腐れるか、運命を呪って自暴自棄になるしかない。しかし、本来はそういった意図で使われたのではないのです。ルターやカルヴァンたちは、人の努力や頑張りで救いを勝ち取るのではなく、神さまの恵みで人は救われるのだ、と説いて行きました。

つまり、人によって左右されるようなものではない、ということです。それが、福音…、いわゆる信仰義認と言われるものです。ならば、神さまがいったん恵みによって救うと決められたのなら、途中で心変わりされて、さっきの約束や~めた、なんてことはないのですから、必ず救ってくださるはずだ。神さまのこの思いは何があっても決して変わることがない。

だから、安心しなさい。そういう意図だったのです。人は脆いもの。浮き沈みの激しいもの。罪だって犯さずにはいられない。もし、自分の力で、となったら、こんなに不確かなことはない訳です。自分の姿を見つめては、すぐに不安になる。確信が持てなくなる。しかし、そうではなくて、信仰によって救うと約束してくださった神さまを見なさい。神さまの約束ほど確かなものはない。だから、救いを疑ったりせず、予めちゃんと救うと約束してくださっているのだから、安心して生きて行きなさい。その確かさを与えるための「予定論」だったはずです。つまり、本来は慰め・励ましの言葉だったのです。

聖書を読んでいきますと、大きく「警告」と「慰め・励まし」といった傾向があるように思います。そして、私たちはどうも、「慰め」や「励まし」よりも「警告」の方に思いが向けられてしまうようにも感じるのです。例えば、黙示録。皆さんもお読みになったことがあるでしょう。世の終わりに向けてのおどろおどろしい描写が印象的ですが、多くは「警告」と受け止めるのではないでしょうか。しかし、加藤常昭牧師は、これは迫害下の中にあった教会を励ますために書かれたものだ、と言われます。私は、この言葉を聞いて、目からうろこのような思いが致しました。

今日のこの譬え話もそうでしょう。「警告」と受け止めざるを得ないところもあるのかも知れない。そういう意味では、自分は果たして良い麦なのか、毒麦なのか、との問いも当然のことかも知れません。しかし、それ以上に、私たちはここに慰めの言葉、励ましの言葉があることも見逃してはいけないのだと思います。

今日のこの譬え話は「天の国」の譬え話だ、と言われています。と同時に、この世の、私たちの現実社会をも映し出しているように思うのです。この世界は、良い人ばかりで成り立っている訳ではありません。良いもので満ちているのでもありません。表現としては適切ではないかもしれませんが、悪い人も、悪いものも多く混在している世界です。そんな世界に私たちは生きている。確かに、そうです。どう考えてもおかしいとしか思えない出来事に多く遭遇します。正義が全く見えない現実にもぶち当たります。本当に神さまの力が及んでいるのかと分からなくなるのです。

森友問題の公文書改ざん事件で残念ながら自死をされた赤木さんの妻雅子さんが訴訟を起こされたことは、もう皆さんも良くご存知のことでしょう。森友問題が報道された時から、私自身すっきりしない思いをずっと抱いてきました。しかも、上司から改ざんを強要された職員が、その罪悪感に押しつぶされて自ら命を絶たれた。なのに、疑惑の当人たちはのうのうとしているように見える。本当にやるせない、憤りにも似た思いを抱いたものです。そして、先日訴訟に踏み切られた奥様のインタビューを見ました。

奥様の口から出た「もう後悔したくない」との言葉に胸が痛くなりました。ご主人が壊れていく姿をじっと見ているしかなかった辛さ。助けることができなかった無念さ。罪悪感。そして、後悔…。ただ真相が知りたいと言われる。なぜ夫があんなにも追い込まれることになったのか、その真実を知りたい、と言われる。その一念で重い口を開かれました。

私自身は、この奥様の志を心から応援したいと思いますし、また、司法の場で真実が明らかになることを心から願っています。また、そういったことが起こらない社会・世界であって欲しいし、常に真実が明らかになり正義が行われる社会・世界であって欲しいとも心から思っています。しかし、残念ながら、なかなかそうはいかない現実がある。変わらない社会・世界がある。

このような社会全体を巻き込むような大きな課題でなくても、私たちは日常的に感じているはずです。正義が行われないことを。泣き寝入りをするしかない現実を。職場でも、学び舎でも、家庭でも、地域でも。教会もまた無縁ではいられないのかもしれない。むしろ、正義、正論ではうまくいかないことも多い。では、私たちは諦めるしかないのか。どうせ世界は良い人も悪い人も、良いものも悪いものも混在しているのだから、どうせ社会は、世界は変わらないのだからと虚無的になるしかないのか。

不正義を単に黙って見過ごすことではないでしょう。雅子さんも正当な権利を行使しただけです。世の中を正していくことは、当然悪いことではない。しかし、聖書は「耐える」ことも語っています。忍耐することも求めるのです。この世、この社会がたとえ不正にまみれていたとしても。泣き寝入りでしかない社会だとしても。なぜならば、神さまの正義は必ず成るからです。今はそうは思えないような世界が広がっているように見えていても、来たるべき時に、結果が出される時に、神さまの正義はあまねく世に成る。そして、必ず報われます。

どんな小さなものであっても、この世では認められない、報われないようなことであっても、神さまは見ておられる。必ず、それらに答えてくださる。だから、こう書いてある。43節「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい」と。

もちろん、そうは言っても堪え難いことも事実です。忍耐にも限度がある。同じ問題、同じ人に3度忍耐できたら上出来です。私たちの忍耐などそうそう続くものではありません。だから、祈りが生まれる。祈らざるを得なくなる。これが、私たちの真相だと思うのです。このコロナ禍、私自身もいろいろと考えさせられていますが、「信仰は生活」というのも、その気づきの一つです。私たちはどうも、信仰を生活とは別次元においてはいまいか。信仰を何か特別なものにしているのではないか、そう思うのです。しかし、そうではないはずです。そして、信仰を生活にするのは祈りなのです。祈らざるを得なくなる日常です。自分の無力さを感じて神さまに頼らざるを得なくなる。それが、私たちの生活になっていく。

これは、孤独な戦いではありません。たった一人で忍耐し、孤独な戦いをするのではないのです。この畑の、世界・社会の主人がいてくださる。理想通りにはいかない社会であっても、そこに目を注いでくださっている方がいてくださる。このイエスさまがいてくださるからこそ、私たちは戦えるのです。訴え、心をさらけ出し、愚痴を言い、反省し、特には激しく感情をぶつけながら、そんな私たちをしっかりと抱きしめ、受け止めてくださる方がいるからこそ、私たちは耐えられる…、いいえ、耐えていこう、戦っていこうと思えるのです。何度でも。そのことに気づいていくのが、「信仰生活」なのだと思う。

今日の使徒書の日課に、こんな言葉が記されていました。ローマ8章24節「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。これも、非常に大切な言葉だと思います。今は肉眼で、実感を持って見えてはいないのかもしれない。そういう意味では心許ないのかもしれません。しかし、私たちは信仰の目で見えているはずです。私たちのために命を捨てられたイエスさまのお姿が。だからこそ、希望に生きることができる。そのことも、今日の日課に加えて、覚えていきたいと思います。

《祈り》
・九州地方を中心に、各地で大雨による被害に遭われた方々をどうぞお助けくださいますようにお願いいたします。復旧も少しづつ進んでいるようですが、まだまだ時間がかかりそうです。このコロナ禍によってボランティアなどの人手も不足していると聞きます。速やかなる復旧復興がなされ、少しでも生活が改善されますように、必要な援助も速やかに与えられますようにお助けください。今年は例年よりも梅雨明けが遅く、まだ雨の降りやすい予報がされていますが、災害に発展することのないようにお守りください。また、日照不足などによる作物の影響なども心配ですが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。

・このところ都内での新規感染者数が200人を超え、過去最多も記録しています。重症化しやすい中高齢者にもじわじわと広がっているとも指摘されています。また、身近に感染者が出るようにもなってきました。どうぞお助けください。医療体制にはまだ余裕があるとも言われますが、あっという間に入院患者が増え、再び医療現場が混乱するのではないかと心配です。また、病院が経営難になり、懸命に働いてくださっている医療スタッフのボーナスがカットされ、大量の離職希望者が出ているとも聞きます。どの分野も大変ですが、特に医療の現場は大変です。どうぞ、憐れんでくださり、国や行政なども適切な手当てを速やかにしていくことができますようにお導きください。

・このような中、今週半ばから「Go To Travel キャンペーン」がはじまろうとしています。賛否いろいろありますが、確かにこのコロナ禍にあって観光業界は深刻ですが、全国に感染拡大が起こってしまうのではないかと危惧されています。ウイズ・コロナの難しさがここにも出ていますが、どうぞ爆発的な感染拡大につながらないように、一人一人が自制した行動を取ることができますように、どうぞお守りください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

-週報- 4月12日(日)10:30 復活祭



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 苅谷 和子

前  奏 キリストは死の布に横たわった  J.S.バッハ

初めの歌  153( わがたまよ、きけ )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行いのすべてを祝福してください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読  エレミヤ書 31:1-6( 旧約 1234 )

第2 の朗読  使徒言行録10:34-43( 新約 233頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読 マタイによる福音書 28:1-10( 新約 59頁 )

みことばのうた 249( われつみびとの )

説教 「 そこでわたしに会うことになる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 154( 地よ、声たかく )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 225( すべてのひとに )


後奏 Festive Trumpet Tune  デイヴィッド・ジャーマン

*前奏・後奏(今回自宅録音)

【音声&テキスト】4月5日(日)10:30 説 教:「あなたのために捨てられた 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書27章11~54節

ご承知のように、本日は「枝の主日」、または「受難主日」…、つまり、今日から「受難週」という一週間がはじまってまいります。

新型コロナウイルスの感染拡大のために、先週からこのような礼拝のあり方になってしまいましたが、今週金曜日のイエスさまの十字架を思う「聖金曜日礼拝」も行うことができなくなりました。そればかりか、ギリギリまでなんとか知恵を絞って復活祭の礼拝を共に…、とも考えてまいりましたが、こちらも断念せざるを得ない状況です。そんな中にあっても、ぜひ皆さんと心を合わせて、その場その場でイエスさまのご受難に思いを向け、復活の喜びに満たされていきたいと願っております。



イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。ひとりの人の死であっても、私たちに大きなインパクト(衝撃、影響)をもたらすものです。

先日、残念ながらコメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎ためにお亡くなりになられました。まだ70歳でした。この知らせは、日本中の多くの人々に深い悲しみを与えました。私も、その一人です。個人的には、ザ・ドリフターズの中では加藤茶のファンでしたが、それでも、小学生の時は「8時だよ!全員集合」を楽しみにし、加藤茶との掛け合いに笑い転げていました。クラスの男子は全員、『カラスの勝手でしょ』を歌い『ヒゲダンス』を踊っていたと記憶しています。もう随分と昔の出来事となってしまいましたが、小学時代の楽しい思い出の一つです。その志村けんさんが死んでしまった。

しかし、その「死」で社会の空気が一気に変わった、と言われます。新型コロナウイルス騒動にもどこか慣れてしまい、自粛疲れか、若者を中心に、危機意識が希薄になっていた、と言われます。自分は大丈夫だろう、罹ったとしても軽症で済むらしいから平気だ。多くの若者たちがそう思い、町に繰り出すようになっていた。しかし、志村けんさんの死の知らせで、若者たちの意識も随分と変わりました。ある若い女性がインタビューにこのように答えていたのが印象的でした。
「今まではどことなく他人事だと思っていた。しかし、よく知っている人が死んでしまったことによって、この感染症の恐ろしさが身近に感じられるようになった。これからは、もっと注意をしていきたい」。そんなことを話されていました。

また、ご遺族の方々も、この「死」をぜひとも教訓にしてほしい。故人もきっとそれを願っている。そんなことをおっしゃっておられた…。
ひとりの人の死の影響力は、何も著名人だけに限りません。私たちもまた、いろいろな身近な「死」に立ち会い、触れて、大きな、あるいは決定的な影響を与えられてきたのだと思います。祖父母の死によって、父親の死、母親の死によって、あるいは、夫の死、妻の死、兄弟姉妹の死、優しくしてくれた叔父さん叔母さんの死、息子の・娘の死、友の死、恩師の死…、そういった大切な、身近な人の「死」によって、私たちはいろいろなことを考えさせられてきた、気づかされてきた、思わされてきたのではなかったか…。そう思うのです。

イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。
愛した弟子に裏切られて、イエスさまは死なれました。

三年余り寝食を共にし、いつも一緒にいた、家族以上の絆で結ばれていたはずの弟子たちに見捨てられ、イエスさまは死なれました。不正な裁判のゆえに、権力者たちのねたみ、保身のためにイエスさまは死なれました。バラバ・イエスという札付きの、乱暴者の、人殺しの代わりにイエスさまは死なれました。人々から侮辱され、蔑まれ、辱められ、唾を吐きかけられて、イエスさまは死なれました。
「ユダヤ人の王」との罪状書きの元、十字架につけられてイエスさまは死なれました。

「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」との罵声の中で、イエスさまは死なれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」と叫ばざるを得なくなるほどに、神さまに見捨てられ、呪われて、イエスさまは死なれました。私たちのために…。なぜか。私たちが罪人だからです。

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)



全人類が罪を犯したからです。イエスさまを十字架の死へと追いやった罪人の姿が、この私たちの中にもあるからです。そして、罪人を救うためには、この方法しかなかったからです。神さまに見捨てられ、呪われ、十字架で死ぬという以外に方法はなかった。彼らが馬鹿にしたように、十字架から降りてしまわれては、この救いは完成しなかった。パウロがロマ書で語っている通りです。(ローマの信徒への手紙8章3節)「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。

つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。「罪を罪として処断」する。「赦し」とは、罪を見逃すことでは決してありません。罪を見てみないふりをするのではないのです。そうではなくて、「罪を罪として処断」することです。罪を罪として、しっかり処断したからもう大丈夫、もうそこには罪は残っていない。そう言えるのが、言い切れるのが「赦し」なのです。それを、イエスさまは私たちの代わりにしてくださった。

だからこそ、かくも苦しい、辛い、逃げてしまいたい受難…、十字架の死を遂げられた。もちろん、その決断は、神さまにとっても、容易いものではなかったはずです。ご自分の子を殺すのです。罪のない方を殺すのです。罪のない方に、私たちの罪を担わせ、その罪に対しての怒りを、その裁きを、一心不乱にその身に注がれる。辛くないはずがない。苦しくないはずがない。痛くないはずがない。腹わたが引き裂かれるような思いで、まさに断腸の思いで、その決断をされた。なぜか。私たちを救いたいからです。罪の縄目から解放したいからです。滅びから救いだしたいからです。

私たちを愛しているからこそ、放ってはおけなかったからです。イエスさまも、まさに断腸の思いで苦しまれた。単なる概念ではなく、まさにその身を以て苦しまれた。そして、神さまもまた、その身を以て苦しまれた。愛する我が子の死という、しかも、自分の手にかけてという、あり得ない思いをもって苦しまれた。それが、十字架なのです。十字架の死なのです。イエスさまは、その十字架で、私たちのために死なれた。今日の使徒書、フィリピ書の言い方をすれば、神であることも、その命も、私たちのために捨てられた。あなたのために捨てられた。

この「死」と私たちはどう向き合ったらいいのでしょうか。この「死」から、何も感じないということがあるでしょうか。ひとりの人の死が、これほどまでに人に、私たちに影響を与えるのに、神の子の死が、救い主の死が、この私たちに、何の影響も与えないということがあるでしょうか。
イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。罪人の私たちのために、その罪を一身に背負って、神さまの罰を受けて、死なれました。

 

・・・・  イザヤ書53章1~12節 ・・・・

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。


そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らなげうち死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。

私たちの罪を担い、私たちを救うために命を投げ出したのは、この人…、イエス・キリストであった。このことを、もう一度深く心に刻む、この受難週の歩みでありたいと思います。そして、その「死」の意味の大きさを、私たちのために捨てられた「いのち」の重さを、共々に噛み締めていく、そんな一週間でありたい。そう思います。

 

『祈り』

「神さま。新年度に入り、新しい歩みをはじめられる方もいらっしゃるでしょう。しかし、新型コロナウイルスの流行で予定が狂ってしまい、不安な中でのスタートとなってしまったかもしれません。どうぞ、そんなお一人お一人をお守りくださり、新たなスタートを豊かに祝してくださいますようにお願いいたします。ただでさえ環境の変化で大きなストレスを抱えておられると思いますので、心身ともにお守りくださいますようにお願いいたします。

今日から受難週がはじまり、来主日は復活祭(イースター)を迎えようとしていますが、新型コロナウイルスの流行のために、共々に礼拝堂に集うことができません。どうぞ、憐れんでください。それぞれの場所、ご自宅での礼拝を豊かに祝してくださり、私たちにとって最も大切な出来事、福音である十字架と復活を豊かに覚えることができますようにお導きください。また、日本中で、世界中で、同じような状況の中におかれている兄弟姉妹方が多くおられると思いますが、そのお一人お一人を豊かにお恵みくださいますようにお願いいたします。

新型コロナウイルスの勢いが一向に衰えません。世界のあちらこちらで医療崩壊が起こり、多くの死者が出ています。日本でも感染者が急激に増え、医療崩壊が危惧されています。どうぞ憐れんでください。本当に大変厳しい状況の中で懸命に働いておられる医療従事者の方々をどうぞ憐れんでくださり、お助けくださいますようにお願いいたします。

私たち市民一人ひとりも、医療崩壊を招かない行動をしていくことができますように、意識を高めていくことができますようにお導きください。また、治療中の方々をお守りください。重篤化しませんように。また、残念ながら命を落とされた方々のご遺族の上に、豊かな慰めをお与えください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン」

8月13日(日)10:30 説 教: 「 何のために天の国はあるのですか 」賀来 周一牧

聖霊降臨後第10主日礼拝

聖 書: イザヤ 44:6−8   ローマ 8:26-30   マタイ 13:24-35

讃美歌: 教会 184、教会 339、教会 360、II 82

4月9日(日)10:30 説 教: 「 イエスの十字架 」浅野直樹 牧師

枝の主日・受難主日礼拝

聖書:ゼカリヤ9:9〜10 フィリピ2:6〜11 マタイ27:32〜56

讃美歌:134、136、515、332

説教「澄み切った青空〜悲しみを超えて」   大柴譲治

召天者記念主日礼拝にあたって

本日は召天者記念主日。毎年11月の第一日曜日に私たちは召天者を覚えて礼拝を守っています。週報には召天者名簿を挾ませていただきました。そこには269名のお名前が記されています。特に本日は「教会の祈り」でその中からこの10年間に天に召された81名のお名前を覚えて祈らせていただきます。ご案内を差し上げましたのでご遺族も何組かご出席くださっています。また、あの聖卓の前には二冊の召天者記念アルバムが置かれています。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りしながら、み言に聴いてまいりましょう。

 

「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」

本日与えられた福音書はイエスさまの山上の説教の冒頭の言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」。原語のギリシャ語では「幸いである」という語が最初に来ていますから、こういう風に訳すことができると思います。「おめでとう、心の貧しい人々! 天国は(既に)あなたがたのもの。おめでとう、悲しんでいる人々! あなたたちは必ず慰められる」。

生きることは実に辛く悲しいことであると思わずにはいられません。先週、私たちはこの場所でAさんのご葬儀を執り行いました。Aさんは膵臓癌のため50代の若さでご家族の見守る中、ご自宅でこの地上でのご生涯を終えて天に帰ってゆかれたのです。AさんはBご夫妻のご子息です。生まれてすぐ東京教会で本田伝喜先生より幼児洗礼を受け、少年時にJELC八幡教会からご家族と共にこのJELCむさしの教会に転入されました。

学生時代には英語サークルの部長としても活躍。大学卒業後はバリバリの商社マンとして、北米に10年以上も駐在しながら、家族を愛し、仕事を愛し、ゴルフを愛し、生きることを喜びながら充実した日々を送っていました。この7月に体調不良のため近隣の病院に行くと、病いが発見されて即入院となります。病院で一月半治療を受けた後、ご本人の強い希望で9月からはご自宅で在宅ケアを受けながら闘病を続けられたのです。生来の頑張り屋さんだったこともあり、「自分はやりたいことがたくさんある。必ず治って職場に復帰する」という固い決意の中、前を向き、上を向いて、歯を食いしばって最後までご家族と共に頑張り抜かれたのです。

三週間ほどは食事も喉を通らなくなっていたにもかかわらず、召される二時間前にも「トイレに行きたい」と立って歩かれたということでした。現職の部長であったこともあり、葬儀には前夜式と告別式を合わせて500名を越す参列者がありました。会社の上司や同僚も大勢参列してくださり、その中から4人の方が万感の思いを込めて故人の思い出を語ってくださいましたし、喪主として奥さまがご挨拶をされました。

ご子息を見送らなければならなかったご両親さまのお気持ちを思う時、私たちは胸がつぶれるような思いになります。なぜこのような辛い現実があるのか。神さまはいったいどこにはおられ、なぜ沈黙しているのか。私たちはそのような思いになるのです。生きるということは何と辛く悲しいことでありましょうか。ご葬儀の二日間はとてもよいお天気でした。空を見上げると、秋晴れの真っ青に透き通った青空が悲しいほど美しく感じました。

 

「会者定離」という言葉があります。出会った者は必ず離れてゆく定めにあるという意味の言葉です。「会うは別れの始め」とも言います。私たちはどのようなすばらしい出会いを与えられたとしても、必ず別れてゆかなければならない定めです。「咳をしても一人」と尾崎放哉は歌いましたが、別離の哀しみを思う時、つくづく人生は何と儚く、何と人間は孤独な存在であることかと思います。しかしそうであればこそ、今ここで私たち一人ひとりに与えられている一つひとつの「絆」、「人間関係」を、「かけがえのないもの」として大切にしなければならないのであろうと思うのです。

今年になりましても、Aさんの他にも、9人の方々がこの地上でのご生涯を終え、最後まで自分らしく生き抜かれて、天へと移されてゆきました。天寿を全うされた方もおられますが、若くして地上のご生涯を終えなければならなかった方もおられます。ヨブが言うように皆、「裸で母の胎を出て、裸でかしこに帰って行かれた」のです。私たちは生まれた時も裸であれば死ぬ時も裸です。何も持っては行けない。否、最近私は「一つだけ持ってゆくことができるものがあるのではないか」と考えるようになってまいりました。それは自分自身の「心」です。「魂」または「霊」、あるいは「自分自身」と呼んでもよいのかもしれません。

 

「モノ」は何一つ持ってゆくことはできないのですが、「自分自身の心」は持ってゆける。だからこそ私たちは、自分自身の心を豊かにしてこの地上の生をまとめてゆく(終えてゆく)必要があるのだと強く思わされるようになりました。それも、「何かをすること(Doing)」によってではなく、今ここで私たちに与えられている「存在そのもの(Being)」に焦点を当てることを通して、心を豊かにしてゆく必要があるのです。ちょうどカール・グスタフ・ユングが「人生の午後の時間は、魂を豊かにしてゆくための時間」と言っているように、魂を豊かにする必要があるのだと思うのです。ではどうすれば魂を豊かにすることができるのか。

 

悲しみのどん底に降りたってくださったキリスト

聖書は、現実の中で生きることの困難さと悲しみを深く味わう私たちに対して、私たちの悲嘆と絶望の深みに降り立ってくださった方がおられると告げています。そのような嘆きの時にも私たちは独りぼっちではない。それが私たちの主イエス・キリストです。「咳をしてもひとり」ではない。「咳をしてもふたり」「キリストと共にふたり」なのです。

そして今日私たちは、そのお方から祝福の言葉を聴いています。「おめでとう、心の貧しい者たちよ! 天国は(既に)あなたがたのものなのだ。おめでとう、悲しんでいる者たちよ! あなたたちは必ず慰められる」という言葉を。それは確かな声として私たちに迫ってきます。宮澤賢治ではないですが、人生とはこのキリストの祝福の言葉を聴くためにある「祝祭の日々」なのではないでしょうか。この後で私たちは聖餐式、主の祝宴に与りますが、私たちのためにご自身の身体と血、すべてを与えてくださったお方が私たちを祝福してくださっているのです。

「おめでとう、心の貧しい者たちよ! 天国は既にあなたがたのものである。おめでとう、悲しんでいる者たちよ! あなたたちは必ず慰められる」と。嘆きの深淵の中にも主が共にいましたもうが故に、私たちは大丈夫なのです。

 

改めて日野原重明先生(上智大学グリーフケア研究所名誉所長)が語られた言葉を想起します。悲嘆にある人に接する時に私たちに必要なのは「か・え・な・い・心」であると先生は言われます。それは「か:飾らず、え:偉ぶらず、な:慰めず、い:一緒にいる」姿勢です。それはキリストご自身が私たちに示してくださった深い「あわれみの心」でもありました。

 

「澄み切った青空」〜悲しみを超えて

9月の初めに上智大学を会場に開かれた「日本スピリチュアルケア学会」の全国大会の主題講演で、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが柏木哲夫先生のエピソードを紹介しておられました。私の心に深く響いたのでご紹介させていただきます。柏木摂夫先生はクリスチャン精神科医として長く大阪の淀川キリスト教病院のホスピス長をされた方としてよく知られています。いつも笑顔とユーモアをとても大切にしておられる方です。

柏木先生がいつもと同じようにホスピス病棟を回って「今日は調子はいかがですか」と患者さんたちに声をかけていた時のことです。ある男性の末期ガンの患者さんがニコニコと笑いながら「今の私の気持ちはこれです」と言って柏木先生にこういう形の一枚の青い色紙を示されたそうです(ここで色紙を示す)。 色紙は通常正方形ですが、その「四つの角」が切り取られていました(「正八角形」というのでしょうか)。

どんな意味かお分かりになりますか。そうです、「隅切った(澄み切った)青空」という意味だと言うのです。「アッ、なるほど」と思いました。このような上質のウィットとユーモアは私たちの気持ちを和ませ、切り替えてくれるということがよく分かります。「澄みきった青空」。私たちの悲しみの現実にかかわらず、その中で私たちの思いをフッと私たちの上に拡がる青空に向かせてくれるいい話だと思いました。先ほどAさんのご葬儀の時にはとても青空がまぶしかった話をいたしました。

舞台裏を申し上げますとこれは私が作りました。これを作るために少し苦労しました。四隅を別々に切ると形がバラバラになってしまい、バランスが崩れてキレイに見えないのです。そこでどうしたかというと、色紙を四つに折って「隅」を重ねて切り、それを拡げるとこのようにキレイな形になったのです。私はこれを見ていてハッとさせられました。

 

ここからは柳田邦男さんが言わなかったことで私自身が気づかされた話です。先ほど四隅をキレイにそろえるために四つに折って切ったことを申し上げましたが、拡げてみるとこの「澄みきった青空」の真ん中に「十字の折れ線」がついているではありませんか。四つに折りましたから当たり前のことです。そこにはくっきりとキリストの十字架が現れたように感じたのです。私たちのために天から降ってこの地上に降り立ち、人間の闇のどん底を歩み、悲しみと苦しみ、罪と恥のすべてを背負って私たちのために、私たちに代わってあの十字架に架かってくださったお方がおられる。

このお方がいるからこそ、深いあわれみの心、「かえない心」を持つこのキリストがいてくださるから、私たちはどのような時でも心の中に澄みきった青空を仰ぐことができるのだということに気づかされたのです。269名の召天者の方々は、キリストという青空を仰いで生き、その青空を仰ぎ、そこにすべてを委ねてこの地上の生を終えてゆかれた方々なのです。

 

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとブドウ酒を差し出し、私たちをその祝宴へと招いてくださるお方がいます。この聖卓は、こちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っています。キリストは生ける者と死せる者の両方の救い主です。私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。

なぜかというと、生きるとしても死ぬとしても私たちは主のものだからです。このキリストの祝宴は終わりの日の先取りでもあります。ここにこそ私たちが悲しみを超える道が備えられている。天が開け、天の後には虹が置かれ、そこには澄みきった青空が拡がっています。確かな主の声が響いています。「おめでとう、心の貧しい人々! 天国は既にあなたがたのものなのだ。おめでとう、悲しんでいる人々! あなたたちは必ず慰められる」。アーメン。

マタイによる福音書 5:1-12
(2014年11月2日 召天者記念主日聖餐礼拝説教)

「逆巻く湖上を近づいて来られる主」 大柴 譲治

列王記上19:1-21、マタイ福音書14:22-33


<映画『大いなる沈黙へ』>
 この夏、8月6日に私は岩波ホールで上映された映画『大いなる沈黙へ』(原題:Die Groβe Stille。ドイツ語で「大いなる静謐」の意)を観る機会を与えられました。この映画は大入り満員が続いたために引き続き都内各地で上映や全国上映が決まったということですので、ぜひ多くの方にこの映画を観ていただきたいと思います(賀来先生がこの映画についてはこのたよりの中で書いておられます)。
 映画は現実の修道院にカメラが入ってその日常生活を淡々と映し出してゆきます。それはカトリック教会の中でもとりわけ厳格な戒律で有名なグランド・シャルトルーズ修道院(カルトジオ会)。フランスのアルプス山脈の中にある1084年創立の修道院で、人里離れた場所で自給自足の生活をしながら祈りをささげ、質素な日々の生活の中で一生を過ごす30人ほどの修道士たちの日常をカメラが捉えています。監督はドイツ人フィリップ・グルーニング。1984年の許可申請時には「まだ早い」と言われますが、遂に16年後「準備が整った」と撮影許可がおります。ただし「監督一人が入ること、音楽や光やナレーションを入れないこと」という条件付き。監督は約半年間、修道院の一員として独房での生活を送ることになります。凜とした静謐が支配する深い沈黙の中、修道士は相互に会話することもなく礼拝、瞑想、祈りなどの日課を黙々と行ってゆくのです。構想から実に21年を経て実現した中世からの変わらぬ修道院の映像が心に深く染み入ってきます。観る者も自分が一人の修道士になったように感じる映画でした。現代人の心に強く訴えかける不思議な静謐に満ちたドキュメンタリー映画でした。
 修道士たちが寝起きするのは一人一人に割り当てられた小部屋。彼らは一日の大半を机と祈祷用スペース、ベッド
のあるその部屋で過ごします。深夜にも祈祷の時間があるため(19:30に寝て23:30に起き3時間ほどの夜のミサがあり、そして再び3時間ほどの就寝時間)、睡眠時間は分断されています(総計すると修道士の一日は、9時間の祈り、8時間の休み、7時間の肉体労働ないし読書となります)。
 私がこの映画から想起したのは次の言葉でした。「沈黙は言葉の背景を持たずに存在しうるが、言葉は沈黙の背景を持たずには存在できない」(マックス・ピカート、『沈黙の世界』)。『大いなる沈黙へ』という映画のタイトルの通り、映画を観る者は修道士らと共にその「大いなる神の沈黙の声」に耳を澄ませることを求められてゆきます。一週間の内、修道士たちが互いに自由に言葉を発することができるのは日曜日の午後、散歩の時間の4時間だけです。あとはミサでの祈祷以外は声を発せずに沈黙しているのです。映画は黙々と修道院の日常生活を映し出してゆきます、900年間変わらずに継承されてきた日々の生活を。
 時折、聖書の言葉がテロップではさまれてゆきます。その中の一つが本日の旧約聖書の日課、列王記上19章からの言葉でした(11-12節)。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」。
 山を裂き、岩を砕くほどの「大風」が起こっても、その風の中にも、地震の中にも、火の中にも主はおられなかったと語られています。しかしその後に、主の「静かにささやく声」が聞こえたのです。映画はテロップでこう語ります。「静けさ―その中で主が我らの内に語る声を聞け」。神が私たちに向かって「沈黙」(silence)「静謐」(tranquility)「孤独」(solitude)を通して語りかけてくる声に耳を澄ませてゆくこと。『大いなる沈黙へ』はこのことの意味を深く考えさせてくれる169分の映画でした。

<水の上を歩こうとしたペトロ>
 本日の福音書には、「逆巻く湖の上を弟子たちの乗った船にまで向こう側から近づいて来られる主イエスの姿」が記されています。水の上を歩くことなど人間にできることではありません。しかしこのエピソードはマタイだけではなく、マルコとヨハネにも記されていますが、初代教会は迫害の嵐(荒波)の中で、復活の主が共にいてくださることをこのエピソードを通して繰り返し確認していったのでしょう。もしかしたらここには、かつてモーセが真っ二つに分かれた紅海の中に現れた乾いた地を渡って約束の地に向かって民を導いていった「出エジプトの出来事」が重ね合わされているのかもしれません。それは「神の力」による奴隷状態からの「大いなる解放の出来事」でした。
 神にできないことは何もなく、人にはできないことでも神にはできるのです。人間の力が届かないところ、尽きたところにおいて、神さまのみ業が始まってゆきます。本日の嵐の中、逆巻く水の上をイエスさまが弟子たちの乗った船に近づいてゆかれる場面もそのような状況を表していると思われます。初代教会の信者たちは、迫害の嵐の中で、沈みそうになる船(教会を船になぞらえました)の中で生きた心地がしなかったのだと思います。そのような状況の中で、主が逆巻く波の上を船に向かって近づいて来てくださるというこの出来事はどれほど大きな慰めと励ましを初代教会の信者たちに与えたことだったでしょうか。
 もう一度その場面を読んでみましょう。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」

<主を信じて水の上に踏み出したペトロ>
 事は「嵐の中」での出来事です。先の列王記上の19:11-12の言葉と重ね合わせてみるならば、こうなります。山を裂き、岩を砕くような「大風」の中にも、風の後に起こった「地震」の中にも、地震の後に起こった「火」の中にも、主はおられなかったのです。しかし「火」の後に、そこには「静かにささやく声」が聞こえた。「神」の「ささやく声」です。この神からの静かな静寂の声に耳を澄ませることが私たちに求められています。この「声」に耳を澄ませるとき、私たちはどれほど大風や地震や火が私たちに迫り来ようとも、それらを乗り越えてゆくことができる。逆巻く波の上を歩いて、怯える私たちに向こう側から近づいて来てくださる復活の主を見てゆくことができるのだと思うのです。

<詩編46編>
 Die Groβe Stilleという映画の原題(特にStillという語)に関して私は詩編46編を思い起こします。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と歌う詩篇46編は宗教改革者のマルティン・ルターがこれをもとに『神はわがやぐら』という讃美歌(教会讃美歌450番)を作曲したことでもよく知られた詩編です。インマヌエル。これは「万軍の主なる神が我らと共にいます」ということが繰り返し語られている信頼の詩編です。
 その11-12節には次のようにあります。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」。新共同訳聖書では「力を捨てよ、知れ、わたしは神」と訳されていますが、私たちが長く親しんできた口語訳聖書では11節(10節)はこうなっていました。「静まって、主こそ神であることを知れ」。文語訳聖書ではこうです。「汝ら、しずまりて我の神たるを知れ」。多くの英語訳聖書ではここはstillと訳されています。“Be still, and know that I am God!”(英訳のNKJV/NRSV/NJB等)。『Die Groβe Stille(大いなる静寂)』です。私たちは沈黙の中に聞こえてくる神の声に耳を傾けてゆくのです。「火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19:12)。
 逆巻く逆風の中でも向こう側からキリストは近づいて来てくださいます。そして、静かにささやく声で告げておられるのでしょう。「なんじら、静まりて我の神たるを知れ」と。私たちはこのお方のみ声を聞きながら、たとえ現実が逆巻く大波のように見えたとしても、私たちはキリストのみ声がもたらす「平安」と「静けさ/大いなる沈黙」に満たされて、祈りの中に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。
 お一人おひとりの上に神さまの豊かな恵みがありますように。 アーメン。
(2014年8月31日 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教)

聖霊降臨後最終主日 説教「マタイ25章31-46」 浅野直樹

マタイ25章31-46

 今年7月にいずみの会で、遠藤周作の従兄弟、竹井祐吉先生をお招きして「信仰とユーモア」というテーマで講演をしていただき、私たちの教会がともに学びをする機会がございました。きょうは遠藤周作のお話をまずしようと思います。

遠藤周作の作品にはふたつの種類があります。ひとつは「沈黙」や「イエスの生涯」、あるいは遺作の「深い河」のように、真正面から信仰をテーマにした純文学。そしてもうひとつは、少し肩の力を抜いた、軽妙なタッチのエッセイです。その中に「考えすぎ人間へ」という本があります。1990年に出版されました。軽妙なエッセイといっても、遠藤周作の追求するテーマというのはいつも変わらず、それは人間の深層心理に根ざしたほんとうの人間らしさの原点を探ることではないかと私は思います。だからこそ、彼は自分の作品のなかでいつも信仰を問い続けたのです。この本のなかから、ひとつの彼の考えをまず紹介したいと思います。

ひとつの原因があって、それがひとつの結果を招く。我々はそう考えやすいわけですが、実はそれは違う、ことはそんなに単純じゃないんだと遠藤は説くのです。

たとえばテニスのボールをぽんと打つ。それは自分が手加減して打ったから、目指したところへ飛んでいったと思うかもしれない。けれども実際は、ボールを打った人の意志だけが原因とはならず、そのときの風の動きとか引力とか、微妙な力が働いてボールはそこへと落ちるのです。つまりすべてのことがらは、一つの原因によって成り立っているということはなく、いろいろな要因によって成立しています。そのことは人間の心理だって同じなんだと遠藤はいうのです。ちょっと引用します。

「私は憐れみからこの人にお金をあげた」なんてことを聞いたら、ナニを言うとるかと思う。憐れみだけじゃないでしょう。お金をあげるという行為の中には、自己満足もあるだろうし、その人から感謝されたいという気もあるだろうし、自己顕示欲もあるだろう。いろいろな感情が混じっているわけです。それを「善意にかられて」とか「愛にかられて」とか、一概にはいえない。たくさんの因子がそこに入り込んでいる。」

遠藤周作は、人間というものはそうだと決めつけて書いていますが、そう決めつけられてしまうのもどうかと思います。けれどもそれに同調する人もきっとたくさんいるはずです。ここに慈善、チャリティという良いわざの難しさがあると、私も思うのです。

きょうの福音書に出てくるイエスのたとえ話は、そういった人間の良いわざについてです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。

 食べさせ、飲ませ、宿を貸し、服を着せ、見舞い、牢にいたとき慰問する。イエスのたとえ話の中の話ではありますが、この人はなぜそうしたのでしょうか。遠藤周作は、そこには自己満足や、感謝されたいという気持ち、自己顕示欲も混じっていると言いました。それが自分も含めた人間の正直な姿なのだといいます。そうかもしれません。けれどもきょうのこのたとえ話を読む限り、自己満足とか、感謝されたいといった、自分にとって都合のよいだろう気持ちを、打ち消してしまう強い言葉が、このたとえ話のなかにはあるのです。

「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」という言葉が、それです。本人は気づいていないのです。良いわざが無意識のうちに行われているということが、このたとえ話の中に隠された最大の特徴です。

私がどう思ったかということとは直接は関係がないのです。憐れに思ったとか、かわいそうだったからとか、感謝されてうれしかったとか、黙って見ていられなかったとか、気の毒に思う感情さえ入り込む余地がありません。自己満足や感謝されたいという感情は、いわずもがなであります。

よいことをする人の心の状態がどうなっているかということは、全然問題にならないレベルでのお話が、きょうのイエスのたとえ話なのです。慈善活動とかチャリティに関わるとき、自分がどう思っているかとか、心の中がきれいかどうかということは、全然問題ではありたません。

もっというならば、その行為自体が良いとか悪いとかといった倫理的判断さえもする必要がないほどです。明日を生きられない人が今目の前にいるとき、いろいろ考えて行動するというのではなく、我を忘れて、本能的に、無意識にその人に手をさしのべてしまっているということ。

別の言い方をすれば、このとき自分が消えているのです。このおこないをしているとき、自分というエゴはそこにないということなのです。自分を意識することから無縁なレベル。心さえも届かないレベル。人間が人間であるための、最も原初的レベルの出来事が、これなのかもしれません。聖なる領域という言い方だけがあてはまります。それがきょうの福音書に描かれている世界です。

ディアコニアという言葉をルーテル教会ではよく使います。これは、新約聖書の中に出てくる「奉仕」を意味するギリシャ語です。奉仕にせよディアコニアにせよ、要は働き、わざ、おこないです。2006年にエチオペアのアジスアベバで、ディアコニアに関するルーテル世界面例LWFの会議があり、出席する機会がありました。その会議で、LWFは福音の再定義をして、「ディアコニアが福音のコアである」という声明文を採択しました。ディアコニアが福音のコアというメッセージを短絡的に考えると、おこないが福音の中核であるというふうにも聞こえます。ルター派の教会は、福音を行いと結びつけるのは、とても慎重になります。おこないによって救われる、わざによって神の恵みを受け取る、という人間のおこない中心の救いという考え方へと進みかねないからです。その会議ではまた、ディアコニアの働きというのは改宗が目的なのか、という問いもありました。日本ではあまり宗教の改宗ということは大騒ぎにはなりませんが、イスラム教が根強い国などでは、クリスチャンのディアコニアの働きは改宗目的だ、などと非難されることもあるのだそうです。

会議ではディアコニアという考え方をどう定義づけたらよいかということでかなり議論がありました。それは簡単なようで難しかったです。というのは、ルーテル教会が国教会の北欧やドイツなどでは、もうすでにディアコニアという名の下に、じつに多くの社会福祉の働きが行われているなど、それぞれの国の事情によっていろいろな展開の仕方があり、いろいろな文化的宗教的背景があるため、すべての人を納得させるような、ディアコニアの定義ができないのです。

ディアコニアとはいったい何か。あきらかにそこにはイエスの教えが反映されていることはたしかです。ディアコニアが福音のコアだというけれど、その福音のコアには何があるのか。私は、その答えがきょうのマタイ二五章のたとえ話の中にあると考えています。

自分の心の動きとか、自分にとっての損得や利害とかはいっさい問題にならない、自分が消えてしまっている働き。正しいとか悪いとかという倫理的判断をも寄せ付けない。ただ、そこに苦しんでいる人がいるから、神様に押し出されるままに、自分を意識することなく出てくるわざ。そこに福音のコアとしてのディアコニアがあるのではないでしょうか。そこでは人間の心理や下心、満足感や喜びはすべて消えています。伝道して教会に招こうという願いもありません。

その会議では、グループに分かれてディアコニアの定義を試みました。グループ内でまとまったひとつの見解は、「ディアコニアとは神の愛を映しだすこと」でした。ディアコニアは自分たちのわざではない。自分たちの愛が表れているものでもない。それはちょうど月と同じで、自分自身は輝いておらず、ただ太陽の光を浴びて、それを映しだしているに過ぎない。それと同じく私たちがなすディアコニアは、神様の愛を私たちが浴びて、その愛を私たちが映しだして、それを最も小さい者の人にとどけることなのです。

教会の暦の一番最後の主日、聖霊降臨後最終主日にて、わたしたちは終末といわれる時間軸の中でこのメッセージを聞きました。時の終わりという究極の次元で語られた、イエスのメッセージです。究極の次元でディアコニアが語られたのです。私たちは神の愛の光を、発光はしません。できません。私たちのうちにそれはないのです。けれども、教会に集って、主イエスのみことばを聞き、それにアーメンと答えて生きる私たちは、まがりなりにもこの光を反射させる映し鏡だったらなんとかなれるのです。

そのとき、おそらく私たちも神様に向かって尋ねるでしょう、「主よ、いつ飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」と。普段いい加減な私たちですが、たぶん私たちはまがりなりにもしているのでしょう。キリストにつながりながら。そしてこれからもまがりなりにもしていくことでしょう。ただキリストにつながることで。おこないによって、言葉によって、そして祈りによって、神の愛を反射していきましょう。

—  2011年11月20日 むさしの教会にて 聖霊降臨後最終主日 説教 浅野直樹(市ヶ谷教会牧師)– 

説教「『その日、その時』に備える」大柴譲治

マタイ福音書25:1-13

「 はじめに 」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「 10人のおとめの譬え 」

本日は10人のおとめの譬えです。備えができていた賢い5人のおとめと備えができていなかった5人の愚かなおとめの違いは明らかです。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」という最後の言葉がキーワードです。いつ「その日、その時」、つまり決定的な日が来てもよいように目を覚まして準備をしておく必要があると主は言われているのです。

ここで「10人のおとめ」とは「花婿たるメシア・イエスの到来を待ち望む者」のことを意味しています。花婿の到着が遅れるということは再臨が遅延していることを指していましょう。迫害の下にあった初代教会ではそれが大問題であったに違いありません。厳しい迫害の中で、信仰の炎(油)をなくしてしまった人たちは少なくなかったのでしょうか。「閉ざされた戸」とは最後の審判を指し、そこから救いへと入れられなかった者を意味します。確かに5人の賢いおとめたちだけが与ることができた「婚宴の席」とは、来るべき時代の喜びを意味していましょう。そこでは喜びの祝宴が約束されているのです。

この「油」とは何を意味するか。ルターはそれが「信仰」を意味していると言いました。またある人は、マタイ24:12に「終末時には多くの人の愛が冷える」とあることから、「愛の行い」を意味すると考えました。また、マタイ福音書が強調する「良い行い」を指していると考えた人たちもいます。しかし、「愛の行い」「良い行い」というものは最後の審判を前にして燃え尽きるのか、また、そうした行いは店で買うことができるのかというと、うまく説明することができない部分が残ります。

「目を覚ましている」とは「眠らないでいる」ということとは違うでしょう。賢いおとめたちも眠り込んでしまったのです。それは、起きている時にも寝ている時にも、常に「その日、その時」に備えて準備をしておくということでありましょう。

「 父クリストフ・ブルームハルトの馬車 」

19世紀後半から20世紀初頭のドイツに生きたクリストフ・ブルームハルトという牧師がいました。親子で同じ名前でしたので、「父ブルームハルト」と「子ブルームハルト」と呼ばれたりします。これは父親のブルームハルトについてのエピソードです。彼はいつも牧師館の庭に、まだ誰も乗ったことのない新しい馬車を用意していたそうです。今で言えば、車にガソリンを満タンにし、冬でもバッテリーが上がらないように怠りなく整備していたということになりましょうか。そして「あの馬車は何のためか」と人から尋ねられると、「主イエス・キリストが再臨される時、自分がそれに乗って直ちにそこに駆けつけて、主をお迎えするためなのです」と答えました。

私たちはこのエピソードを聞くとき、どのような思いになるでしょうか。エッと驚き、そんなバカなと吹き出してしまう部分も私たちの中にはあるかもしれません。あるいはその対極に、ハッとして、自分も自らの生き方を顧みなければならないと思う部分も私たちの中にはあるのかもしれません。ブルームハルトは、今日のような主イエスの言葉をそのまま信じて、いつ来るか分からない「その日、その時」に真剣に備えていたのです。今日は先ほど小児祝福式を行いましたが、ブルームハルトは「幼子のような信仰」に生きた人であったと言えましょう。

もちろん彼はそのように「純真な信仰」に生きようとした人でしたが、決して「単純な信仰者」ではありませんでした。彼は、神学だけでなく種々の領域に通じた知識人でした。私たちと同様に、深く懐疑的な時代精神の中に生きていた同時人でもありました。にもかかわらず、ブルームハルトはキリストの再臨に備えていつも新しい馬車を待機させていたのです。それが自分に与えられた使命であると信じたからです。ちょうど旧約聖書の創世記で、神の声を聞いたノアが大雨の降り始める前に箱舟造りを始めたのと同じです。多くの人の目にはそれがどれほど愚かに、異様に見えたことでしょう。ブルームハルトは、それらのことはみな承知していただろうと思います。愚かさを承知の上で、キリストの言葉をただ信じて、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と信じたのです。これがブルームハルトの信仰でした。

「 井上良雄先生の『神の国の証人ブルームハルト父子』 」

長くルーテル神学校で非常勤講師として教えたドイツ語の先生に井上良雄という日本基督教団の信徒がおられました。戦前は優れた評論家として活躍していたのですが、突然筆を折って評論家を辞められた方でした。そして戦後は、ただひたすら、カール・バルトという神学者の『教会教義学』を吉永正義先生と共に日本語に訳された先生です。吉永先生が「創造論」を、井上先生が「和解論」を訳されました。私もボンヘッファーやバルトの黙想などをクラスで読んでいただき、その真理への真摯な姿勢にいつも背筋を正される思いがしていたものです。その井上良雄先生が『神の国の証人ブルームハルト父子』という本を書いておられます。井上先生はカール・バルトの本を通してバルトが大きな影響を受けた人物ということでクリストフ・ブルームハルトという人の存在を知ったということでした。

特に父ブルームハルトは、パウロ同様、終末切迫を感じ取っていた牧師でした。だからこそ、主の再臨の時に直ぐ駆けつけることが出来るように自分の牧師館の庭に馬車を用意していたのです。ブルームハルトは、信仰の灯火が消えないように、その霊的エネルギーが切れないように魂に聖霊を充填することを怠らない、終末的な緊張に生きるということを日々の生活の中でとても大切にしていた人であったと申せましょう。

父ブルームハルトは「待つこと、急ぐこと」という彼の感覚をよく表す説教を書いています。「終わりの日を思う者は(しかも、その日に向かって急ぐかのように、終わりの日を身近なものとして思う者は)無気力な霊的怠惰や無関心や呑気さから守られる。われわれは急ぐ者として生きるのだ。われわれは、この世における全ての偉大なもの、生起するすべての力強いものに、無際限の価値を与えることはできない。われわれは、一切を、一層平静にまた気楽に眺める」。

そう言って、ブルームハルトは1コリント7章のパウロの言葉を引用するのです。「泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(1コリント7:30-31)。

そして続けます。「その結果、われわれは、(地上のどんなに魅力的なものであっても)何事にも過度に巻き込まれることはなく、無我夢中になることがない。過度の感激や悲しみに我を忘れることはない。何事にも、過度の興奮や偶像崇拝的な態度で没頭することがない。… 心は、主が来たり給うということだけに固着する。彼が速やかに来たり給うことを渇望しつつ」。

井上先生はそれに対して次のようにコメントしています。「ブルームハルトは、この世におけるあらゆるものを暫定的なものとして見、相対化せざるを得ない。彼にとって地上の全ての現実は、やがて始まる大いなる朝の光の前に消えてゆく夜の闇に過ぎない」と。

ブルームハルトのこの終末的な姿勢は「待ちつつ急ぎつつ」という一言で表現されます。「待ちつつ急ぎつつ」? 「待ちながら急げるのか?」「急ぎながら待てるのか?」とも思います。そんな相矛盾する生き方が果たして私たちに可能なのでしょうか。油を備えて花婿の到来を待つというのは、「その日、その時」が近づくのを、終わりが近づくのを意識しながら、それに向かって自分を整えてゆくということを意味しています。

終わりは近づいている。「その日、その時」は必ず来る。そう聖書は私たちに告げているのです。私たちは教会暦の終わりを迎えようとしています。来週が聖霊降臨後の最終主日で、教会暦においては一年の終わりとなります。二週間後からはアドベント、待降節が始まり、新しい一年が開始されるのです。終わりを意識して、新しい一日を始める。身を正して主の到来を待ち望む。これが私たちに求められている生き方なのです。

「その日、その時」がいつ来るのかということは、私たちに死がいつ来るのか分からないように、私たちには分かりません。しかしその日、その時がいつ来るにしても、私たちは私たちの最後を主イエス・キリストにお任せすることが許されています。イエス・キリストにおいて準備万端に整えておくように、賢い乙女たちのように油を備えて待つように、ブルームハルトのように心の中に自分の馬車を用意して「急ぎつつ待つ」ように、私たちは日々の信仰の中に召し出されているのです。向こう側から私たちに近づいて来て下さるキリストを見上げて今を生きるよう招かれている。そのことを心に刻みつつ、近づきつつある主に向かって身を正して新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。 アーメン。

「 おわりの祝福 」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。


マタイ福音書25:1-13

(2011年11月13日 聖霊降臨後第22主日礼拝説教)

説教「空しく立ち尽くした者をも」大柴譲治

イザヤ55:6-9/マタイ福音書20:1-16

「 はじめに 」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「「ブドウ園の譬え」のどこに焦点を当てるか 」

本日はイエスさまの「ブドウ園の労働者の譬え」です。これはよく知られた譬えで、1時間働いた者も12時間働いた者も等しく1デナリオン、つまり一日分の給与を主人から与えられるという話です。この譬えはこの世に生きる私たちの「常識」を、「賃金」を「費やした労働時間」や「達成した業績」から測ろうとする資本主義経済構造そのものを危機に陥れるような「危険な話」でもあります。ですから私たちは、早朝から汗水流して働いた者たちの不平を言いたくなる気持ちがよく分かります。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは!」 誰もが彼らの言葉をもっともだと思うのです。

しかし、イエスさまの譬えはいつも私たちに「あなたはどの立場からものを見ているのか」と鋭く問うてきます。「健康な者」「12時間働きづめに働くほどの強い体力を持った壮健な者たち」の立場から読むと彼らの不平不満はよく分かるのですが、もし「声無き者たち」の立場に自分を置いてみた場合に私たちはどう感じるでしょうか。

夕方5時に雇われた労働者たちも、恐らく、朝から仕事を求めてずっとあちらこちらの広場を渡り歩いていたに違いありません。しかし仕事を見出すことができなかったのです。もしかすると、彼らは体格が貧弱でいかにも力がなさそうに見えたのかもしれませんし、動作が遅かったり機転が利かなかったのかもしれません。高齢だったり身体的なハンディがあったのかもしれない。強健な者から雇われていったのです。彼らにも仕事をしたい気持ちはあっても、何らかの理由で誰にも雇ってもらえなかったのでしょう。彼らは、どうやって家に帰ろうかと思いながら、5時まで空しく広場に立ち尽くしているしかなかったのです。

6-7節に描かれた情景から彼らの思いがよく伝わってきます。「五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」。主人からこの言葉をもらった時、彼らはどれほど有り難かったことでしょうか。彼らにも養うべき家族があったはずです。家には家族が空腹で父親の帰りを待っているかもしれないし、老いた両親を妻が看病しているのかもしれない。その背後には様々な人生が感じられます。朝から夕方の5時まで空しく立ち尽くした人たちの気持ちを私たちは容易に想像することができるように思うのです。

「 「神」の「深い憐れみ」 」

しかしそのように声を発することなく空しく立ち尽くしていた者たちを、主人は「はらわたが痛む」ほど深く憐れに思ったに違いありません。最後に来た1時間しか働かなかった労働者たちにも同じように1デナリオン、つまり一日分の給料を与えたブドウ園の主人。最後まで力なく立ち続けていた労働者たちの苦しい思いをこの主人は深く受け止めたのです。

それを見て不公平だと不満をぶつけた朝から働いた労働者に対して主人はこう言います。「『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』(13-14節)。主人の深い憐れみの心に触れた人々たちはどれほど深く心を揺さぶられたことでしょうか。これが毎日続くと人間は次第に堕落してゆくのかもしれません。皆が5時に広場に集まるようになってしまうかもしれません。しかしこの譬えが一番言いたいことから話を逸らさないようにしたいと思います。この譬えの中心は、「ブドウ園の主人」の、「弱い立場に置かれた人々」に対する「深い共感(=憐れみ)と愛」、そして具体的な「援助」という点にあります。

これは私たちに大きな気づきとを与えるイエスさまの譬えだと思います。イエスさまの譬えはいつもそうなのですが、私たちの心の琴線に深く触れてきます。それはブドウ園の主人である神さまが私たち人間一人ひとりの存在をどれほど大切に思っているかということを表しているからです。どれほど無力で惨めであっても、働くことができなくても、病弱であっても、寝たきりであっても、年老いていても、人生に失敗ばかりしていても、あるいは人間関係に苦しみ、空しく一日中立ち尽くすほかないような状況にあったとしても、神さまは等しく私たち一人ひとりを、ご自身の深い憐れみのゆえに、その空しさの中から探し出し、見出してくださる! そのような窮境から私たちを救い出してくださり、神さまのブドウ園の中に置いてくださるのだということを私たちはこの譬えの中に読み取ることができるのだと思います。「あなたはわたしの眼に価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」というイザヤ書43:4のみ言葉を想起します。この神の愛と出会うこと、このような神の愛に捉えられていることに気づくことが最も重要なのです。

「Doing(行為)の次元ではなく、Being(存在)の次元で」

Doingの次元ではなく、Being、存在そのものの次元で、神さまは私たちを愛してくださっているのだということをイエスさまはこの譬えで私たちに教えておられるのです。「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)という言葉が最後にありますが、それは一番最後になった者、最も小さき者、最も弱い者、最も貧しい者、最も苦しんでいる者に対する神さまの優先的な選びがあるという宣言です。これに対して人間は不平を言うことはできない。それは、「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)と言われているように「主権者である神の自由」に属する事柄なのでしょう。ヨハネ3:16が宣言するように、「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それはみ子を信じる者が一人も滅びないで永遠の生命を得るため」なのです。

能力の高さや業績の量や体力の強さや知恵や知識の深さや、ましてや若さなどではなく、私たちには生命の重みという次元において等しく神さまから恵みとしての一デナリオンを与えられているということだと思われます。一デナリオンは労働者一日分の賃金であると言いました。一家族が一日生活できるお金です。「われらの日ごとの糧を今日も与えたまえ」と主の祈りでは祈りますが、かつてイスラエルの民が荒野において天からのマナ(日ごとの糧)によって生かされたように、私たちは神の恵みによって日ごとに生きる、生かされるのです。ここでの一デナリオンとは神さまの無償の恵みを表しています。それは自分の努力で獲得したものではありません。当たり前のものでもないのです。それに値する何ものかが私たちの中にあるからでもありません。それは神さまからの一方的で、絶対的に無条件の恩寵なのです。溢れる恵みなのです。それに気づく時に私たちは、神さまの恵みの光の中で一人ひとりが空しく立ち尽くしていたところから呼び出されて神のぶどう園で働く者とされていることを知るのだと思います。

それは本日の旧約聖書の日課であるイザヤ書が預言していた通りです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8-9)。

独り子を賜るほどにこの世を愛してくださったお方のこの呼びかけの声を心に響かせながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。ここにお集まりのお一人おひとりの上に神さまの恵みが豐かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

お一人おひとりの上にそのような確かなキリストの愛と平和がありますように。アーメン。

「おわりの祝福」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。


イザヤ55:6-9/マタイ福音書20:1-16

(2011年10月9日 聖霊降臨後第17主日礼拝説教)

説教「耳を澄ませて」大柴譲治

イザヤ55:10-11/マタイによる福音書13:1-9

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「船上の説」

イ エスさまはたとえ話の吊人でした。そのたとえは聴く者の心に残ります。本日のたとえは舟の上から岸辺に立っている群衆に向かって告げられています。「山上 の説教《ならぬ「船上の説教《ですね。そう思うとイエスさまは、ずいぶんよく通る大きな声を用いて話されたのだろうと思います。「種を蒔く人のたとえ《と なっていますが、むしろこれは内容から言えば「蒔かれた種のたとえ《です。

また、本日の日課でもう一点気がつくことは、イエスさまの「動作 《が印象に残る仕方で記されているということです。①「(おそらくシモン・ペトロの家でしょう。カファルナウムでイエスさまは主としてそこに滞在していた ようです)家を出て《、②「(ガリラヤ)湖のほとりに座っておられた《イエスさまが、大勢の群衆がそばに集まって来たので、③「舟に乗って腰を下ろされた 《とあります。恐らく舟を誰か(漁師であった12弟子のペトロかアンデレ、ゼベダイの子のヤコブかヨハネでしょうか)にこぎ出させたのでしょう。そしてそ こから④「岸辺に立っていた群衆《に「種まきのたとえ《を語り始められたのです。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。(4)蒔いている間 に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。(5)ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。(6)しかし、 日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(7)ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。(8)ところが、ほかの種は、良い 土地に落ち、実を結んで、あるものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊にもなった。(9)耳のある者は聞きなさい。《

パレスチナでは当時は種を蒔いた後にそこを耕すという習慣があったようです。「蒔かれた種《自体に違いがあるわけではありません。どの「種《にもそれぞれ成長する力が祕められているのです。それが蒔かれた「場所《が問題でした。

① 「道端に落ちた種《は鳥に食べられてしまいますし、②「石だらけで土の少ない所に落ちた種《は芽を出しても日が昇ると焼けて根がないために枯れてしまいま す。③「茨の間に落ちた種《は茨が伸びてそれにふさがれてしまいます。それに対して、④「よい土地に落ちた種《は実を結んで、土地の肥沃さに応じて、ある ものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊にもなって大きな収穫をもたらしたというのです。

このたとえが何を意味しているかについては、この後の18節以降になりますが、イエスさまご自身が弟子たちに説明されていますので明らかでありましょう。そこにはこう記されています。

「だ から、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものと は、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉の ために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさい で、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倊、あるものは六十倊、あるものは三十倊の実を結ぶのであ る。《(マタイ13:18-23)

私たち自身がどのような土地であるかがそこでは問われています。この主の言葉の前では、私たちは自分が「良い土地《ではなく、むしろ「道端《であり、「土の浅い土地《であり、「茨の生い茂る土地《でしかないということを知らされるように思います。

土井洋先生の説教題「蒔かれた種」

先 週の月曜日、説教研究会の合宿を信州の長野県原村にある塩原久先生のご自宅で開いていたときのことです。塩原先生は牧師を引退されてから2000年にペン ションのようなご自宅を建てて「キリエエレイソン《と吊付けられました。以前にシャロンの会でも泊まりにゆかれたことがあると伺いました。その塩原先生の ご自宅で説教研究をしていた最中に高蔵寺教会の土井洋先生が天に召されたという連絡が入りました。

土井先生は、渡邉純幸先生や星野徳治先生 と並んで、説教研究会の創始者のお一人でもあります。ブラジルの第三代宣教師として第二代宣教師の塩原先生の後を引き継がれた方です。長く小岩教会の牧師 でしたので、教区常議員を務められましたので、その温厚で柔和なお顔をご存じの方も少なくないと思います。北海道の池田のご出身で、ギターを弾き語りしな がらベサメムーチョを歌うのが得意な先生でもありました。どこに行かれても場を和ませる宴会部長でもあったのです。私にとってはユーモアの師匠でもありま した。

来年の3月には定年退職を迎えることになっていて、お嬢様の住んでおられる青梅あたりに居を移されることを楽しみにされておられました。

2 月の10日に肝臓にかなり進行した癌が見つかり、闘病生活が始まりました。ひと言も弱音を吐かずに治療を受けられたと伺いました。治療が功を奏して春頃に はかなり劇的な寛解状態もあったのですが、6月に入ってから再度しばらくご入院をされたそうです。原仁兄が6月末に幼稚園(こひつじ園)の講演会にも行か れたときにもご入院中でした。入院先から毎週日曜日に説教壇に立たれたそうです。退院後、7月17日の礼拝説教をして、7月18日(月)の教会の信徒修養 会で説教された次の日にご入院されました。奇しくも7月18日は土井先生の70歳のお誕生日だったということです。そして25日(月)の午後3時50分、 ご家族の見守る中で安らかに主の身許へと帰って行かれたのです。

そのお写真と棺に安らぐ先生のお顔は平安に満ちておられました。27日 (水)、28日(木)と愛知県の高蔵寺教会で鐘ケ江昭洋先生によってご葬儀が行われました。それは「告別式《とは呼ばず、「前夜記念礼拝《と「召天記念礼 拝《と呼ばれる礼拝でした。東海教区東教区から牧師たちが両方の礼拝を現職と引退で合わせて40人近くは集まったでしょうか。大勢の方が集まられたことの 中に土井先生の柔和なお人柄がよく表われていたと思います。前夜記念礼拝の前には保育園の園児たちが保護者と140人ほどが集まってお別れの時をもったと いうことでした。

鐘ケ江先生の説教の中にあったエピソードですが、土井先生には熱血漢なところがあって、1970年の学生紛争たけなわの 頃、東京神学大学に入ろうとして機動隊が間違って隣りにあるルーテル神学大学に入ってきたことがあったそうです。装甲車がバリケードを破って入って来るの を見て、土井先生はやおら装甲車の前に走っていってその前面を蹴飛ばしたことがあったそうです。そして追いかけてくる機動隊員を尻目に走って逃げたのだそ うです。後になって機動隊からは東神大と間違って入ってしまい申し訳ありませんでしたという謝罪の言葉が届いたと言うことでした。

高蔵寺教会の前の看板には本日の7月31日の説教題が出ていました。そこには「蒔かれた種 土井洋牧師《と書かれていました。ヨハネ12:24には主の有吊な言葉が記されています。文語訳で引用します。

「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」。

イ エスさまご自身が十字架の上で一粒の麦として死んでくださったことを指し示す言葉です。青田先生がJELCを代表してご挨拶に立たれ、その中で「ブラジル の地では夜に南十字星が輝きますが、よみがえられたキリストと共に、土井洋先生もその星のように光り輝いておられるのだと思います《と結ばれた言葉は聴く 者の心に響きました。豊かな大地に蒔かれた福音の種は豊かな実を結ぶことを約束されているのです。

お嬢様は鐘ケ江先生の息子さんと8年前にご結婚されたのですが、上思議なことにちょうど先生のご病気が分かったころに新しい生命を授かったということでした。上思議なかたちでいのちは受け継がれて行くのですね。

私たちを造り変えてくださるキリストの愛

し かし私たちはこのたとえをもう一つ深く見て行かなければなりません。これは終末的な神の国の到来を前提として語られたたとえでした。終わりの日を迎えたと きに私たち自身の存在が豊かな実りをもたらすものとして、祝福に与るものとして用いられて行くことを意味しているのだと思います。

私たちは 自分自身を省みるときには自分が「豊かな土地《ではなく、「道端《であったり「石地《であったり、「茨の生えている場所《であるということを知っていま す。福音の種がなかなか深く根付かないでいる自分自身のありようを自覚しているのだと思います。そのような私たちの頑なな心を耕して百倊、六十倊、三十倊 の実りをもたらす肥沃な土地にするために主イエス・キリストはこの地上に来てくださったのです。

ルカ福音書13:6-9には「実のならないいちじくのたとえ《が記されています。

「あ る人がぶどう園にイチジクの木を椊えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このイチジクの木に実を探しに 来ているのに、見つけた試しがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様。今年もこのままにしておいてくださ い。木の回りを掘って、肥やしをやってみましょう。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもダメなら、切り倒してください。』《

こ のように執り成し、一生懸命実を実らせるために働く園丁こそ、私たちのために十字架に架かってくださった主イエス・キリストなのです。道端や石地や茨の地 を豊かな肥沃な土地へと変えてくださるのは、カナの婚礼で水を上等のワインに変えてくださったお方の愛なのです。別の見方をすれば、私たちの中に蒔かれた 福音の種が豊かな実を結ぶように主イエスは関わり続けてくださるのです。ワインが大好きでもあられた土井洋先生の柔和で極上の笑顔とユーモアはそのような 復活の主の愛を表わしていたのだと思います。キリストの愛が私たちをトランスフォームしてくださるのです。

牧師として葬儀に関わらせていただく中で感じることは、私たちはキリストを信じる信仰によってそのような祝福された終わりが訳されているということです。

「エッファッタ!《「シェマー・イスラエル!」

主は本日のたとえの一番最後のところでこう言われています。「耳のある者は聞きなさい《(9節)。「耳のある者は聴きなさい《とは「心の耳を開いてこのたとえの意味を悟りなさい《ということでしょう。主の声が私たちの心の耳を開くのです。

「エッファッタ!《と言って耳が聞こえず舌の回らない人の耳を開かれたように(マルコ7:34)、主が私たちの閉ざされていた耳を神のみ声を聴くことができるように開いてくださるのです。

「シェマーイスラエル(聴け、イスラエル)!《です。「聴け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい《とある通りです(申命記6:4)。

私たちがこのように礼拝に集い、み言葉に耳を傾けるのも、主が私たちの心の耳を開いてくださるためであるということを覚えたいと思います。この新しい一週間も、お一人おひとりの歩みが、耳を澄ませて、主のみ声に聴き従う者でありますようお祈りいたします。

最後に本日の旧約聖書の日課をもう一度お読みして終わりにします。

雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、
芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとにも戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。
(イザヤ書55:10-11)

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年7月31日 聖霊降臨後第七主日礼拝説教)

説教「飼い主のない羊へのケア」大柴譲治

マタイによる福音書9:35-10:15

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

主の「深い憐れみ」

本 日の福音書の日課には主イエスが精力的に活動する様子が述べられています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあ らゆる病気や患いをいやされた《(35節)。それはどのような思いからなされたのか。36節には「深い憐れみからなされた《と記されています。「また、群 衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた《。この主の「深い憐れみ《が本日のキーワードです。

先 週も少し触れましたが、この「深い憐れみ《という言葉はギリシャ語で「スプラングニゾマイ《という語ですが、日本語の「同情《とか「憐憫《とかいった静的 なものではなく、もっとダイナミックな動きを伴うものです。それは「内蔵(はらわた)を表す語から来ていて、はらわたのよじれるほどの強い痛みを伴うもの なのです。日本語には「断腸の思い《という表現がありますがそれと同じです。

「飼う者のいない羊のような群衆の困窮《「弱り果て、打ちひし がれている《痛み苦しみを、主イエスはご自身の存在の中心(はらわた)で、それがよじれるほどの鋭い痛みをもって受け止められたということです。羊には自 分を守り、緑の牧場、憩いの水際に導く羊飼いが必要です。そのような「弱り果て、うちひしがれている人々《を真の牧者である主は、その深い憐れみのゆえに 放ってはおけなかったのです。

「胃がビクビク動くんだよね」

私はこの「スプラングニゾマイ《という言葉に関して忘れ ることができないエピソードがあります。それは1985年の9月、私が神学生の最終学年で築地の聖路加記念国際病院で3週間の臨床牧会教育 (Clinical Pastoral Education、以下はCPEと略)を受けていたときのことです。

それは病床訪問をして会話記 録を起こし、ピア(仲間)メンバーグループで検討するという とてもハードな実習でした。病院というところは病気で苦しむ人たちが入院している場所です。特に聖路加病院は癌や小児白血病の治療のために全国から難病患 者が集まってくる病院でしたから、神学生にとっては突然何も持たずに現実の修羅場に投げ込まれるような緊張感を伴う実習でした。何をすればよいのか、どこ から手をつけてよいのか、自分の無力さを強く感じながらも、オロオロ右往左往したり、緊急事態に走り回る看護婦さんやお医者さんたちの間で呆然と立ち尽く していたこと等を今でも鮮やかに思い起こします。しかし上思議なものですね。そのような私がその最初のCPEで自分自身に大きな課題を与えられて、それに こだわり続けたからこそ今の自分がいるわけですから。

困難であったのは病床訪問だけではありません。患者さんとの会話記録を書いたものをグ ループの中で検討してゆくときに、そこに私自身の姿が映し出されてゆくのです。なぜ相手の気持ちをキチンと受け止められないのか、なぜそこから逃げようと しているのか、なぜ相手をコントロールしようとしたり、相手に自分を押し付けようとするのか、等々、会話記録をチェックしてゆくとその背後にある自分自身 の思いが鏡に映し出されるように明らかにされてゆきます。それは驚きの体験であり、打ち砕かれるような体験でもありました。私はそれまでにいのちの電話の 傾聴訓練を一年三ヶ月受けていましたし、既にカナダ・ラングレイでの一年間のインターンと熊本・神水教会での七ヶ月のインターンも終了していましたので、 ある程度自分は他者とのコミュニケーションができていると思っていたのです。それゆえに尚更、それが十分にできていない自分の姿を示されたことはショック でもありました。

その時のCPEスーパーヴァイザーは、聖公会の司祭であり、聖路加国際病院のチャプレンでもあった井原泰男先生でした。私 自身はその時、スーパーヴァイザーに対して複雑でアンビバレントな思いを持ちましたが、結局その最初のCPEで示された自己の課題と格闘し続けてきたよう に思います。その意味で聖路加病院での体験は忘れることができないものでした。

私にとって最も印象的だったことの一つは、井原先生が雑談の 中で言われた言葉でした。「僕はね、患者さんと話していて大切なところに来ると、なぜか胃がビクビク動くんだよね。《「本当かなあ《と思うと同時に実際に そのような聴き方があるのかと驚かされました。その時初めて「そうか、はらわたがよじれるような聴き方とはこのようなことを言うのか《何かストンと腑に落 ちたような気がしたのです。頭ではなくはらわたで聴くということ。本日の福音書の中のイエスさまが「飼い主のいない羊のような群衆を見て深くあわれまれた 《という表現がそこでストンと紊得できたのでした。井原先生の「胃がビクビク動く《という表現はそれと同じと思いました。イエスさまはさぞかし胃が痛んだ のではないかと思います。

人が実際に他者に対してそのように深く共感的な聴き方、関わり方が可能なのだ ということは私にとっては一つの天啓でもありました。そして「そのようになりたいけれど本当にそうなることができるのか《という思いを持って今まで25年 歩んできたのでした。最近になってようやく「はらわたで聴く《ということが少しずつ分かってきたような思いがしています。胃がビクビクと動くというところ まではまだないのですが、はらわたにズンと響くような思いで他者の声に耳を傾けることが、時折ですが、あるように思います。

そのような「深 い憐れみ《をもって主イエス・キリストは「弱り果て、打ちひしがれている者たち《の思いを受け止めてくださるのです。あのステンドグラスに描かれているよ うに、私たちはそのように深い憐れみと愛をもって私たちと関わってくださる羊飼いと出会うことができたのです。

12弟子の選出と派遣

飼 う者のない羊のような群衆を見て深く憐れまれたイエスさまが次になにをされたかというと、12弟子の選出と派遣でした。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だ から、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい《(37-38節)と弟子たちに言われた後に、主は「十二人の弟子を呼び寄せ、汚 れた霊に対する権能をお授けになった《とあります。それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため《でありました(10:1)。私たちがキ リスト者として召し出されているのは、主の憐れみの御業に参与するためなのです。私たちも胃がビクビクするような深い憐れみをもってこの世に関わるよう召 し出されているのです。本日の旧約 聖書の日課・出エジプト記19章には、神がイスラエルを「宝《「祭司の王国《「聖なる国民《とすると言われていますが、深い憐れみを通してアブラハムが諸 国民のための「祝福の基/源《として選ばれたことも、このような憐れみの御業をこの世において示すためでした。

私たちが果たして「汚れた霊 に対する権能《を授けられていて「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす《ことができるだろうかと思うと、どうもそこまではできないとようにも 思いますが、それは人の思いでありましょう。主が深い憐れみから癒しの御業や奇跡を行われたことを 覚えるとき、私たちも具体的な生活の中でそのような主の上思議な御業に参与することになるのだと思います。そもそもこの有限な生命を生きている私たちが、 キリストを信じる信仰を与えられて、永遠の生命に与ることができていること自身が奇跡なのだと思います。キリストが私たちを汚れた霊を追い出し、あらゆる 病気や患いを癒すために立てているのだとすれば、そのように私たちは用いられてゆくのだろうと思います。現実には悲しみばかりなのですが・・・。

昨 日東京池袋教会で開かれた宣教フォーラムで当教会員のN・Tさんがパネラーのお一人として発題をしてくださいました。主題は「主よ、憐れんでください《と いうもので、神学校の江藤直純先生が主題講演者でした。Nさんはご主人が病気になられてからの五年間のことをお話し下さいました。ご主人のN・Aさんは、 ある日突然に大動脈瘤乖離という難病で倒れたのです。奥さまを中心とするご家族の献身的な看護を得る中、筆舌に尽くしがたい困難な時を経て、奥さまの祈り に答えるようなかたちでご主人は洗礼に導かれ、何度も山場を乗り越えて、五年間、家族との深い交わりの中に置かれました。そして下のお嬢様が結婚、そこに 与えられた孫娘の顏を見て、またご自身の100歳のお母様が亡くなられたことを知って三日後に、実に安らかな笑顔の中でこの地上でのご生涯を終えて天へと 召されてゆかれたのです。そこには確かに生きて働いておられるキリストの祈りがあったと仲吉さんはお話しくださいました。

飼い主のない羊 のような群衆を見て深く憐れまれたイエスさまは、あのステンドグラスに描かれているように羊飼いとしての深い憐れみと愛とをもってそのような羊に関わって 下さるお方なのです。遠くにある羊とは思わず、自分の近くにいる、自分と深い関わりを持つ羊であると見なして下さるのです。マザーテレサは言いました。 「愛の反対は憎しみではない。無関心だ《と。無関心、無関係、無感動こそが愛の対極にあるのです。主が病いや貧しさや愛する者との別離の中に置かれている 苦しみ痛む者たちに深い憐れみを持って下さるということは、その隣人となってくださると言うことです。主こそが深い憐れみによって強盗に襲われて倒れてい た旅人に近つ?いて真の隣人となった「よきサマリア人《なのです。

振り返ってみれば、私は牧師として25年間、家族の絆、愛の関わりの中 で、少なからぬ奇跡を見ることが許されたように思います。無数の人間が存在するこの地上で、私たちの出会いは、特に家族としての出会いは奇跡であると感じ ます。無関心というものが蔓延しているこの世の只中で、私たちが主の深い憐れみの中で互いに「神の宝の民《として出会うことが許されているということ、互 いにはらわたが痛むほどの深い共鳴関係の中に出会わされているということは、これは実に上思議な「神の恩寵の事実《であると言わなければならないと思いま す。そこには確かに復活の主が生きておられ、「飼うもののいない羊のように、弱り果て、うちひしがれ《ている者たちに深い憐れみを持って働きかけてくだ さっているのです。

聖餐への招き

本日は聖餐式に与ります。「これはあなたのために与えるわたしの身体《「これはあな たの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約《。こう言って私たちにパンとブドウ酒を差し出してくださる主イエス・キリスト。これこそ私たちを 招くわたしたちの羊飼いである主の胃がビクビク動くような深い憐れみの御業です。この憐れみの御業、復活の主の牧会の御業に参与するよう私たちは召し出さ れています。私たちも主の手足としてこの世に派遣されているのです。主は私たちを通してその憐れみの御業を行い続けておられます。そのことを覚え、そのこ とを深く味わいながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に主のみ力が豊かに注がれますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年7月3日 聖霊降臨後第三主日聖餐礼拝説教)

説教「『神の愚かさ』に生かされて」 伊藤節彦神学生

マタイによる福音書28:16-20

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

【起】

旧 約聖書には多くの預言者が登場致しますが、それぞれに特徴のあるメッセージを語りました。「義なる神」を説くアモスやミカ、「愛の神」を指し示すホセア、 そして「神は聖」なるお方であると語ったのがイザヤでありました。旧約の日課でお読み頂いた箇所では、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」とあり、正にそ のことを示しております。この神の聖、聖さとは、対峙する者に畏怖の思いと自分の汚れを呼び覚まします。罪人に過ぎない自分が聖なる神の前にただ一人立つ 時、畏れが生じます。御前に立ち得ない罪を知るのです。それ故にイザヤは「災いだ、わたしは滅ぼされる」と畏れたのであります。

今日は三位一体主日であります。教会暦ではイエス様のご生涯を振り返るアドベントから昇天主日までの半年と、ペンテコステから始まる聖霊の働きである教会の半年に大きく分けられます。その丁度変わり目に三位一体主日が置かれているのです。

三 位一体という教理はキリスト教の要であり、正統と異端を区別する試金石であります。しかし、何十年信仰生活をしていても、たとえ神学を学んでさえも、三位 一体を口で説明するのはとても難しいのではないでしょうか。それもそのはずで三位一体は合理的説明を超えた体験的真理であるからなのです。ですから、説明 は出来なくても信仰生活の中で、実感として皆様も受け容れていらっしゃると思うのです。

ルターは小教理問答書の中で使徒信条を3つに分け て、父なる神の働きを創造、子なるキリストの働きを救い、そして聖霊の働きを聖化・きよめであると説明しました。ですからルターは使徒信条を要約して「私 は、私を造りたまいし父なる神を信じる。私は、私を贖いたまいし子なる神を信じる。私は、私を聖化したもう聖霊を信じる」と語り、ひとりの神とひとつの信 仰、けれども三つの位格であることが大切であることを示しました。

先週行われたペンテコステの祝会で八木久美さん達がゴスペルマイムを披露して下さいました。3名の方が異なる動きを示しながら一つのメッセージを表現しているその姿は、三位一体の神様の本質をよく表しているように私には思えました。

【承】

しかし、私達はやはり三位一体といっても、父と子については分かるような気がしますが、聖霊についてはよく分からないのではないでしょうか。

聖霊の働きを考える時に私が思い起こす、一つの短いけれどもとても深い詩があります。皆様もよくご存じの星野富弘さんの「美しく咲く」という詩です。

お読み致します。

美しく咲く
花の根本にも
みみずがいる
泥を喰って
泥を吐き出し
一生土を耕している
みみずがいる
きっといる

聖霊をみみずと一緒にするなんて、不謹慎極まりない気もするのですが、この詩を読んだ時に、ああ、そうなのかあ、という深い共感が与えられたのです。

星 野さんは土を掘り返してミミズを実際に見てこの詩を書いた訳ではありません。美しく咲いている花を見て、みみずがいる、きっといる、そう感じたのです。み みずは暗い土の中で、誰にも顧みられずに、かたい泥を食べてはそれを柔らかにし、有機的な土として吐き出します。ですからミミズのいる畑や花壇には良い土 が生まれ、そこでは豊かな実やきれいな花をつけることが出来るようになるのです。星野さんの感受性の鋭さは、目に見える花の美しさの中に、目に見えない土 の中に、みみずがいることを感じられるところにあります。

同じように、私達人間の心の暗闇の奥底で、聖霊が私達の頑なな心を少しずつ、しかし確実に打ち砕かれた魂へと変えて下さる。み言葉の種がそこで成長できるように、豊かなものへと造りかえて下さっていると思うのです。このことは私自身の実感として迫ってきます。

以 前に「むさしの便り」に書きましたように、私は18歳の時に一度、改革派の神学校に進む決意をしました。その当時の私の召命感は、自分は献身に相応しい者 だという自負心によるものでした。幼い頃に生死をさ迷う病気を患い、奇跡的に命をつなぐことが許された私は、自分は神様のご用のために生かされているのだ という思いで満たされていたのです。しかし、私の母教会の長老会は、そのような私の性急さや自負心に、ある種の傲慢さのようなものを感じたのでしょう。学 業を続け、更に社会経験を積んだ後でも遅くないという判断をしたのでした。当時の私は、なぜ献身したいという若者の心を鈍らせるのかと、その判断に不満を 抱いていました。

丁度同じ頃、私には寮生活を共にし、クラブも一緒だったある親友がいました。彼とは聖書についてもよく議論し、明け方まで 話し込んだことも何度もありました。彼は真剣にキリスト教の信仰を求めていました。私も彼に何とか、自分が信じている信仰を伝えようとしましたが、理性的 な信仰理解にこだわる彼には、その決断がつかないままにお互い卒業を迎えることとなり、連絡が途切れてしまいました。その彼が卒業後、数ヶ月して自ら命を 絶ったのです。遺書も残されておらず、彼が死を選んだその理由は未だに分かりません。ですから友人達だけでなくご遺族に至っては、悲しみと未解決なまま残 された罪責感の二重の苦しみを負うことになりました。私自身この出来事を通じて、自分は一体彼の側にいながら、彼の心をどれだけ理解していたのだろう。親 友の一人にも福音を伝えきれなかった自分が、献身するということはおこがましすぎる、自分はそのような器ではないのだ、そのように自分を責め、自分自身を 裁いてきたのです。そのことがあってから、もう一度自分自身の信仰を見つめ直したいという思いが強くなり、母教会を離れ色々な教会を訪ねる中で、ルーテル 教会との出会いが与えられたのでした。ルターの語る「義人にして同時に罪人」は、50%義人で50%がまだ罪人であると言うことではなく、100%義人に して100%同時に罪人であるという一見矛盾と思われる真理の中に、救いとは全く神様の業であるという恵みが語られているのです。その恵みを私はルーテル 教会で知ることが出来たのでした。

【転】

さて、マタイ福音書の28章は大宣教命令で知られている箇所であります。 19節の「あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい」という言葉は大きな力で、この二千年間、福音宣教を推し進める原動力となってきました。日本 に宣教に来たフランシスコ・ザビエルもその一人だったのです。しかし、マタイはこの大宣教命令を自らの福音書を閉じるために華々しく飾りませんでした。こ の主イエスの命令の光と共に、弟子達の不信仰の闇をも描いているのです。

マタイは16節の出だしを「さて、十一人の弟子達は」と書き始めま す。弟子達が登場するのは久しぶりのことなのです。そう、あのゲッセマネでの主イエスの捕縛以後、弟子達はちりぢりに逃げてしまっていたからです。そして この長かった数日の間に、ユダは自殺し、ペトロが裏切り、弟子達は逃げ去り、主イエスは十字架に架かって死んでしまわれたのです。ですから、この十一人の 弟子達という表現には、実に言いがたい敗北感が漂っているように思えます。しかし、マタイはそのような十一人をただの挫折者として、この場に再び登場させ たのではないのです。10節には復活の主イエスが女性達に現れてこう告げるのです。「恐れることはない。行って、私の兄弟達にガリラヤへ行くように言いな さい。そこで私に会うことになる。」

ここで主イエスは弟子達を私の兄弟と呼ばれるのです。この言葉の中に、既に弟子達の裏切りや不信仰に対 する赦しが与えられていることが分かります。しかし、尚も17節には弟子達は「イエスに会い、ひれ伏した、しかし疑う者もいた」とあるのです。この疑うと いう言葉は、信じたい気持ちと信じられないでいる気持ちの狭間で揺れ動き心が二つに裂かれる状態を表しています。同じ言葉はもう一箇所、マタイ14章で用 いられています。あのペトロが水の上を歩いて途中で溺れそうになる場面です。強い風に恐くなって主イエスのみ言葉への信頼を失いかけた、あのペトロの迷い が、今ここで弟子達を襲っているのです。しかし、溺れそうになったペトロに、主イエスが自ら近寄り手を差し伸べて下さったように、今ここでも、主イエスが 自ら弟子達に近寄ってこられてみ言葉を語られるのです。

18節で主イエスは、弟子達に近寄って来て言われます。「わたしは天と地の一切の権 能を授かっている」。ここで権能と訳されている言葉は、主イエスが宣教を始められた最初にサタンから受けた三つの誘惑の一つに出て来る、「もしひれ伏して 拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう」(ルカ4:6)、ここで使われている権力という言葉と同じものです。主イエスのご生涯はこのサタンの 誘惑との闘いの連続であったといえましょう。王のような権力があれば、福音宣教はたやすく行うことができたでしょうし、貧しい者や病気の者を多く助けるこ とができたことでしょう。そして弟子達を始めイスラエルの人々はそのようなメシアを待ち望んでいたのでした。しかし、主イエスはこの権力・権能をサタンか らではなく、父なる神から十字架という神の御旨に従うことで与えられたのです。

中国の諺に「嚢中の錐」というのがございます。嚢とは袋のこ とですから、袋の中に穂先が鋭い錐を入れておけば、袋を破ってしまいます。そのことから、才能のある者はたちまち外に現れてくるという意味の諺です。しか し、この言葉を北森嘉蔵先生は神様と私達の関係になぞらえて次のように語るのです。人間を愛したもう神様は手まりを包む袋のように私達を包もうとして下さ る。しかし錐のように、触れるものを傷つける罪を持っている私達はその袋を突き破ってしまう。そこに破れが、傷が、そして痛みが生まれる。これこそが十字 架なのである。そう語るのです。

三位一体の神様とはこのようなお方なのです。父なる神は、私達を創造したまま放っておかれない。命を与えて 下さったお方は、その命をこよなく愛され、滅びることをお許しにならないのです。だからこそ御子が十字架を担われたのです。聖霊が私達の心を打ち砕き、き よめ、命の道へと導いて下さるのです。

【結】

パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、 私達救われる者には神の力です」(Ⅰコリ1:18)と語り、更に「神は宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(Ⅰコリ 1:21)とさえ語るのです。十字架は躓きであり最も愚かなものの象徴であります。この愚かさを神の子キリストが生きて下さったのです。それは他でもない 自分を裏切ったペトロを始めとする弟子達のためであります。そしてその中には、陰府にまで下られた主イエスはユダにまでその福音を伝えて来たと思うのであ ります。ですからマタイが十一人と書いたその理由は、脱落者を暗示する敗北感からではなく、そこにいないもう一人の弟子さえ含めて私の兄弟と呼びたもう主 イエスの愛を伝えんがためだったと思うのです。そのような主イエスだからこそ、十二人目の弟子として、兄弟として、皆様方を、そしてこのような私をも召し 出して下さったのです。最初の献身を志した18から神学校に入学した44歳までの26年間、聖霊なる神は私の傲慢さで堅くなった魂の泥を食べ続けて下さ り、改めてその召しだしの御声に聴き従う、打ち砕かれた心をお与え下さったのです。また親友に福音を伝えられなかったと自分を責める私に、救いは主イエス 御自身がもたらして下さるものであることが改めて示されたのです。

弟子達はガリラヤへ帰ることで主イエスとの再会を果たしました。弟子達に とってガリラヤとは自分たちの故郷であり生活の場でありました。しかしそれ以上に、主イエスとの出会いの場、召命の場であったのです。復活の主イエスが、 ガリラヤへ彼らを招いたのは感傷に浸るためではなく、その原点へと弟子達を立たせるためであったのです。私達にとってのガリラヤとはどこでありましょう か? それは洗礼の恵みであります。私達は、洗礼によってキリストと共に十字架に死に、そしてキリストの復活に与るものとして新しい命が与えられたので す。私達は一人一人このことの証人なのであります。

私達は弟子達と同じようにひれ伏しながらも疑う者であり続けることでしょう。しかし、そのような私をご自分の者として下さった洗礼の恵みの許で、主イエス御自身が再び近寄って来て下さるのです。

イ ザヤを召し出した聖なる神は、「誰を遣わすべきか、誰が我々に代わっていくだろうか」と語られます。その権威と権能において天と地の全てを治められる全能 の神様、何でもご自身でお出来になる方が、その働きを汚れた唇の者であるイザヤに託すのであります。ここに神様の不思議があります。宣教という愚かさを もって、その恵みを伝えようとされる神様の深い憐れみがあるのです。パウロはこのような神様の愛を、「神の愚かさ」と語りました。その神の愚かさに私達は 生かされているのです。愚かと言われるほどの神様の憐れみに与った私達は、その恵みの喜びを伝える者とされていくのであります。破れたまま、未解決なもの を抱えたままのこの私を、神様がイザヤを立てたように、聖霊を注いで立てて下さるのです。

「あなた方は行って、すべての民を私の弟子としなさい」

この大宣教命令は、私達の破れをも包みたもう神の恵み、この恵みを一人でも多くの私達の隣人に伝えなさいという主の命令であります。そしてこのみ言葉には、主イエスが世の終わりまで「インマヌエル いつもあなた方と共にいる」という確かな約束が与えられているのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年6月19日 三位一体主日礼拝説教)

説教「偽物の見分け方~本物と出会う」 大柴譲治

申命記11:18-28、マタイによる福音書7:15-29

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「山上の説教」の終末論的結語

本日はマタイ5章から始まる「山上の説教」の最終部分、まとめの部分が福音書の日課として与えられています。マタイ福音書は主イエスを「新しいモーセ」と位置づけています。モーセがシナイ山において神から十戒(律法)を与えられたように、新しいモーセである主イエスは山上から新しい戒め(律法)を与えておられるのです。

イエスを信じる者がこの新しい神の戒めを守って生きること、これが本日の主題です。そこではただ「聞いて知るだけ」でなく「聞いて行うこと」が求められています。そのことは本日の日課の一番最後にある「家と土台」についてのたとえからも明らかです(24-27節)。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。

ここで「岩を土台とする者」とされているのは「主の山上の説教を聞いて行う者」ということです。そこでは「聞くことと行うこと」は一つです。それに対して「砂を土台とする者」とは「聞くだけで行わない者」ということです。

当時のユダヤ教では、律法の最後は祝福と呪いの提示で終わるという習慣がありました。本日の旧約の日課である申命記11章はそのあたりを私たちに示しています。もう一度26-28節をお読みしておきます。

「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」。

このように神の御言葉は私たちの目の前に祝福と呪いの両方を置くのです。もちろん、私たちは祝福の方を選ばなければなりません。家と土台のたとえは主イエスが語る新しい十戒(律法)としてそれを聞く者に決断を迫ってきます。この「岩を土台とした家」と「砂の上に建てられた家」とは外見的には変わりないものであったことでしょう。もしかすると砂の上に建てられた家の方が立派に見えたかもしれません。しかし、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」と両者にははっきりと違いが出てきます。土台の違いが明らかになるのです。岩の上に建てられた家はしっかりと立ち続けるのに対して、砂の上の家はひどい倒れ方で倒れてしまうというのです。ここでは恐らく「終わりの日の最後の審判」が意識されていましょう。問題なのは外からは見えない土台です。私たちが岩の上に自らの人生を建てているか、砂の上に建てているかは、終わりの日の嵐の中でやがて明らかになるというのです。

この礼拝堂はノアの箱舟をかたどって建てられているのですが、創世記6-9章に記されているノアの大洪水を想起します。そこでは嵐と大水がすべてを飲み込んでしまったのです。人生にはそのような大洪水のような嵐が確かにあり、そのような無常な出来事が確かに起こるのです。オーストラリアの洪水や先週起こったニュージーランドの地震を想起します。19歳の若い命が突然失われるということは痛恨の極みです。被災者とご家族のために心から慰めを祈りたいと思います。

私たちには、嵐の中でもしっかりと立ち続けるために、天地万物は揺らいでも決して揺らぐことのない神の御言葉、キリストの岩という土台の上に人生を築いてゆくこと。これが求められています。

山上の説教を聞いて行うということは「神の御心を生きる」ということです。それは同時に「ただ神のみを神とする」ということであり、「神以外の何ものをも神としない」ということでありましょう。それは、本日の福音書の日課のすぐ前にあるように「狭き門から入る」ということです。滅びに至る門は広いですが、真実のいのちに通じる門は狭いのです(7:13-14)。

「偽預言者を警戒せよ」

日課に戻りましょう。イエスさまの言葉はいつも私たちをドキッとさせます。「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」(15節)。私たちの多くは、この言葉を通して、自分自身の中にある貪欲さ、自己中心性がイエスさまによって見抜かれているように感じるのではないでしょうか。私自身が「羊の皮を身にまとった貪欲な狼」ではないかという自覚があるために、ドキッとするのだと思います。イエスさまの言葉は私たちの罪人としての姿を映し出す「鏡」のようなものなのです。人ごとではありません。

「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」(16-20節)。

私たちは「実」によって良い木であるか悪い木であるかを見分けられるというのです。そして良い実を結ばない者は皆、切り倒されて地獄の火の中に投げ込まれるというのです。それほど「良い実」を実らせることは重要であり、決定的なことだと主は言うのです。

続いて「あなたたちのことは知らない」と語られる主の言葉は、決定的な「ダメ押し」です。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」(21-23節)。

主の言葉を聞くと私たちは「私は天の父の御心を行っているだろうか。果たして私は天国に入ることができるだろうか」と思い悩むのです。私たちの多くは自分の力で天国に入ることはできないのでありましょう。イエスさまに「あなたたちのことは知らない」と言われたらと思うと絶望的な気持ちになります。

山上の説教における主イエスの御言葉を聞くとき、私たちは自分が罪人の一人でしかないことをとことん知らされて行きます。私たちの中にある思い上がりは徹底的に打ち砕かれるのです。自分は天の国に相応しい者ではないということを自覚させられます。祝福と呪いの両方を提示され、祝福を選ぼうとしても私たちには呪いしか選べないのです。祝福を選んだと思っても、それは呪いでしかないのです。何と惨めな存在なのでしょう。誰がこの死の身体から救い出してくれるのでしょうか(ローマ7:24を参照)。実はそのことの認識が私たちには必要なのです。

ルカ福音書の18章では、イエスさまがファリサイ人と徴税人の二人が祈るために神殿に登ったというたとえを語っています(18:9-14)。

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。

神は「打ち砕かれた魂」を喜ばれるのです(詩篇51:19)。

偽物の見分け方~本物と出会う

私たちは偽預言者を見分けることが実に難しいということを知っています。私たちはその実で木を知ることも難しいのです。私たちは見る目がありませんから、簡単に偽物にだまされてしまう。しかし主ご自身はそれを見抜かれるのです。私たち人間の中にある偽善性というものを鋭く見抜いておられるのです。その主の私たちのありのままの姿を見つめられるまなざしを思います。その罪を背負って主は十字架へとかかられたのです。

天の父の御心を行って天の国に入ることができたのは主イエス・キリストお一人でした。いや、もう一人います。十字架の上で主から「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた罪人がいました(ルカ23:43)。彼は十字架の上で、この地上での生の最後の瞬間に本物の救い主と出会ったのです。彼は呪いの中で祝福を選ぶことができた、否、祝福に選ばれたのです。主イエスの言葉はどれほど大きな慰めと希望を彼に与えたことでしょうか。私たちはこのような罪人の一人として主のあわれみに寄りすがるのです。そして私たちもまた「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と主に向かって祈る者とされたいと思います。

お一人おひとりの上に主の守りと導きが豊かにありますように。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2011年2月27日 顕現節第九主日礼拝説教)

説教 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」 ミカ・ラトヴァラスク宣教師

マタイによる福音書6:24-34

挨拶

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

序文

本日の福音書は私たちに財産や思い悩むことや人生の意味について教えます。イエス様は鳥や花を例として使います。今回の福音書の言葉は全部イエス様ご自身の言葉です。それは有名な山上の説教の部分です。この部分はルカによる福音書にも見つけることができます。この聖書の言葉は、2000年たった今でも重要性を失っていません。今日このむさしの教会においてイエス様は私たちに教えてくれます。

マモン

皆さんの財産は多いですか?少ないですか?

聖書の中でイエス様はお金や財産のことをよく話します。お金や財産はイエス様が話されるテーマの中で最も多いものの一つです。財産は、最大の偶像でしょう。最も危険なお金の使い方は、心をお金に結びつけることです。お金がいっぱいあるか少ないかということに心を結びつけることです。一番良いお金の使い方は神様が教えたように使うことです。それは他の人々の益となるように使うことです。そうすればお金は私たちを支配しません。私たちがお金を支配します。

イエス様は富を得ることを否定しませんが、富を集めることよりもはるかに素晴らしい道を教えます。つまり、神を求め、仕えることです。ルターの教えから、少し引用したいと思います。“お金と財産をもっている時に、自分では神とあらゆるものとを豊富に持っていると考え、これに信頼する人が多くいる。みよ、このような人は、富という名の神、すなわちお金と財産をもっている。彼はそれに心から信頼している。それこそは、地上で最も一般的な偶像である。お金と財産をもつ者は、安心感を持つ。反対に何も持たない者は、神につて何も知らない者のように疑いを抱き、絶望に陥ってしまう。富をもたなくても、嘆かず、不平を言わず、いつも心確かなる者は殆どない。人間の本性は墓場に至るまでこのようなものである”。このようにルターは書いています。これは、実に真実を言い当てているとおもいます。ルターは、富のほかの、信頼の対象についても語っています。人は、高い知識や血縁関係に信頼をおくことがあります。また、人は聖人を拝むこともあります。いろんな種類の偶像を拝むこともあります。しかし、人はある一つのことがどうしても出来ずにいます。そのことをイエスは今日の福音書において語っています。“あなたがたは、神と富とに仕えることは出来ない”それは、神と、偶像を同時に崇め拝むことは出来ないことを意味しています。それにもかかわらず、人はそうしようとします。その結果として悩みが心をいっぱいにしてしまうのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか!主はそれを知っています、主は私たちの非常に弱いところを知っています。主はそんな私たちを助けたいと思っているのです。私達の目と、考えを偶像から、生ける神のほうに向けたいと思っているのです。“見なさい。”と神は言っているのです。神は一体何を見ろと言っているのでしょうか。“空の鳥と野の花をよく見なさい。”

明日のことまで思い悩むという誘惑は、神様に信頼しないという誘惑です

ソロモンは偉大な王でした。2950年前彼は大きな領土と王国を支配していました。このころイスラエルは最も栄えていました。ソロモン王の財産は巨大でした。聖書によると彼に香料、金、宝石や象牙が運ばれました。たとえば、毎年2万5千キロの金が彼に運ばれました。ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富を有しました。しかし、イエス様は「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」と言います。

財産の崇拝の主な理由は、将来が保証されることです。明日のことまで思い悩むという誘惑は、神様に信頼しないという誘惑です。

米国の作家、マーク・トウェインが言っています。「私は人生の中で何度も苦難に襲われると心配したが、実際に起きたのはほんの少しだった。」

聖書の「種を蒔く人のたとえ」を覚えていますか?茨の間に落ちた種について何を教えていますか?「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」

思い煩いは不信仰です

イエス様は私たちに心配のない人生を約束しません。「その日の苦労は、その日だけで十分である」。でも心配は神にお任せしなさいとイエス様は教えます。ペトロはイエス様について言っています「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。

私たちは、祈りを通して、天の父なる神様に思い煩いをお任せします。私たちは心配のあまり夜眠れなくなる必要はないのです。あるクリスチャンが言いました。「毎晩神様に思い煩いを委ねています。だって、神様はいつも目を覚ましておられるからです。」

イエス様は私たちが心配しないようにと勧めます。それでは、この世の富を追求することや思い煩うことに代わるものとして何を教えているでしょうか?「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じ」であるということです。
今、天の父が言います「私はお前のことを心に留めている」。
私たちの思い煩いが疑います「心に留めるですって。本当でしょうか。」
天の父が言います「わたしは世の終わりまで、いつもお前と共にいる。」
思い煩いが疑います「もしいなかったら?」
天の父が言います「私はお前に必要な糧を今日も与える。」
思い煩いが疑います「もし与えて下さらなかったら?もし与えてくださった糧が良いものでなかったら?」
私たちは思い煩うことで何を言っているのか、お分かりになりますか「天の父、あなたは父の名に値しません。なぜなら、あなたは十分に信頼できないし、良いお方ではなく、誠実でなく、助けられるほど十分に強くないからです」と言っているのです。

思い煩いは不信仰です。なぜなら、思い煩いは、私たちの問題や欠如や苦痛を神様と神様の可能性よりも大きなものするからです。私たちは神様よりもこの世的なものを恐れています。そのために天の父は今日あなたにお聞きになります「恐れを持って生きなさいと私は言ったであろうか。私は、お前を裏切ったことがあるか。そのために思い煩っているのか。私は信頼に値しないのか。そのためにお前は心配そうな顔をしているのか。そんなに思い煩っているところを見ると、私の力、知恵、可能性はお前に対してなくなってしまったのか。私に答えてみよ 」。もし答えが見つからないならは、野の花と空の鳥をよく見なさい 。神様はこのように花を装ってくださいます。鳥を養ってくださいます。

神は私たちを洗礼のときに装ってくださいました。聖餐式で私たちを養ってくださいます。

皆さんが、まず求めるものは何ですか?
何よりもまず神の国を求めるというのは、実際にはどうすることですか?どうして人は、神の国よりもこの世の幸せをまず求めるのでしょうか。

神の国を求めるというのは、私たちが、神様を私たちの人生の中で一番大切なものとすることです。十戒の一番最初に書いてあるとおり「わたしは主、あなたの神、わたしをおいてほかに神があってはならない」。そこから私たちが熱心に神の御心に聞き捜し求めることが当然になります。神様は自分の御心を告げました。この御心は神の言葉から、つまり聖書から見つけることができます。

福音

イエス様ご自身は、いつも神の国を第一に求められたのに、彼に与えられたのは、今日のテキストが言っているものではなく、十字架でした。十字架にかけられたとき、イエス様は、多くの思い煩いと不信仰のために私たちが受けなければならない罰を代わりに受けられたのです。それだから、彼は、明日を心配することをやめられない人を、今日、受け入れてくださいます。

フィリピの信徒への手紙の言葉「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」

終わりの祈り

愛する天のお父様、あなたは私たちのすべての思い悩みや必要なものをご存知です。私たちを今日まで心に留めてくださって感謝いたします。私たちがあなたに信頼するように教えてください。私たちの心配を取り除いてください。アーメン。

説教「その名はイエス=インマヌエル」 大柴譲治

マタイによる福音書1:18-23

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

「その名はインマヌエル」

アドベントの三本目のローソクに火が点されました。アドベントとは「到来」という意味のラテン語です。主の第一のアドベントであるクリスマスの出来事と、第二のアドベントである主の再臨の出来事の間にあって、私たちは主の到来を身を正しながら待ち望むのです。先週の礼拝では賀来先生が、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と荒野で呼ばわった洗礼者ヨハネを通して、この時を私たち自身が身を正して主の到来を待ち望むということを語って下さいました。洗礼者ヨハネは自分の後から来られる方を全身全霊をもって指し示すのです。

マタイ福音書は旧約聖書の預言がイエス・キリストの出来事において成就したことを繰り返し記しています。本日は福音書の日課としてマタイ福音書1章が与えられています。そこには主イエスの誕生がイザヤ書7章に預言をされていたことの成就であることが明示されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1:23)。

イエスはインマヌエル、「神われらと共にいます」という名で呼ばれるお方であるということを明らかにしています。救い主イエスの誕生がインマヌエル預言の成就であることは新約聖書の中ではマタイ福音書だけが伝えていることなのですが、それはイエス・キリストのこの世への到来を意味する決定的な預言として理解されてきました。この「インマヌエル」という言葉はマタイ福音書を貫く主題として重要なキーワードになっています。この言葉自体はこの1:23にただ一回だけイザヤ書7:14の引用として出てくるだけなのですが、マタイ福音書の一番最後に復活の主が弟子たちを派遣する場面がありますが、そこにはこう記されています。マタイ福音書の締めくくりの言葉です。

◆弟子たちを派遣する
(16)さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。(17)そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。(18)イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(19)だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(20)あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

また、18:20には次のような主イエスの言葉もあります。18節から読んでみます。

「(18)はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(19)また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。(20)二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とは「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということです。

そのようにマタイ福音書は、主イエスが弟子たちと常に共にいるということ、インマヌエルということを一貫して主張しているのです。見えない復活の主のご臨在を証ししているのです。 <「その名はイエス」> 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と天使がヨセフに告げていますが、「インマヌエル」という名と「イエス」という名がどのような関係にあるのかが分かりにくいかもしれません。「イエス」という名は、ギリシャ語では「イエスース」と書かれますが、当時のユダヤ人においてはごくごく当たり前の、ありふれた名前であったようです。それはヘブル語では「イェホシュア」という名前で、「ヤーウェは救い」という意味です。その名は旧約聖書では「ヨシュア」と訳されていて、例えばモーセの後継者で約束の地に民を導いて入っていったヌンの子ヨシュアがそうです。使徒言行録7:45やヘブル書4:8ではギリシャ語で「イエスース」と書かれているところを「ヨシュア」と訳しています。神はインマヌエルの神であり、われらと共にいますことを通してその救いを達成して下さる神なのです。

苦しむヨセフに現れた天使

本日の福音書の日課であるマタイ1章はヨセフの苦しむ姿を記しています。いいなづけのマリアが何者かによって子供を身ごもったことを知ったからです。どのような経緯でヨセフはそのことを知ったのかは記されていません。「聖霊によって身ごもった」とマタイは記していますが、そのことを知っていたのはマリアだけだったはずです。ルカ福音書は天使ガブリエルがマリアに受胎告知をしたことを記しています(1:26-29)。

「聖霊による懐胎」は人間には理解できない神秘的な次元の事柄です。ヨセフはマリアが身ごもった理由を知りませんでした。ですからヨセフは、律法を守る「正しい人」でもあったので、マリアのことを表沙汰にするのを望まず、マリアを密かに離縁しようとします。苦渋の決断でした。ヨセフはそうすることで神への愛を貫こうとしているのです。公に離縁するとマリアが姦淫の罪に問われて石打ちの刑で殺されてしまう危険もあったためでしょうか。もしそうであるとすればヨセフは密かに縁を切ろうとすることで、マリアを憐れみ、彼女を守ろうとしたということになるのかもしれません。ルカ福音書は母マリアの方に焦点を当てているのに対して、マタイ福音書は父ヨセフに焦点を当てています。

ヨセフ(「神は加えたまう」の意)はイエスの誕生物語において重要な役割を果たします。それ以降ヨセフは役割を終えて背後に退いて行くのですが、三度(厳密に言えば四度)天使のお告げを聞いて行動を起こします。本日の箇所がその最初のものですが、二度目はヘロデ大王がエルサレムとその周辺の二歳以下の男の子を殺す前に天使のお告げを聞いてエジプトに逃れて行きます。そしてヘロデ大王が死んだ後に天使のお告げを聞いてエジプトから帰国し、さらには(四度目として)夢で示されてナザレに住むことになるのです。

神はヨセフを用いてその救いのご計画を実現されて行きました。ルカ福音書は受胎告知を告げる天使ガブリエルに対して「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と答えるマリアの従順を際立たせていますが(ルカ1:38)、私は本日の箇所でのヨセフの「従順」に心打たれる思いがいたします。悩みの中で神の示された御心に、言葉少なではあるけれども忠実に歩むヨセフの姿は、私の中では行く先を知らないで神の言に信頼して旅立ったアブラハムの姿や、燔祭の薪を背負って父アブラハムの後についてゆく従順なイサクの姿と重なります。「主の山に備えあり」なのです。

悲しみの中に降り立ってくださったキリスト

マリアの夫ヨセフに本日は思いを向けました。彼は子供にイエスと名付けたのです。当時の慣習としては母親が名付け親になったようですが、ここではヨセフがその役割を果たしたとマタイは記します。どのような苦しみや悲しみの中にあっても、インマヌエル、神われらと共にいますのです。

先週私は聖路加国際病院に足を運びました。恩師が緩和ケア病棟に入院されているからです。聖路加病院は、私が1985年、今から25年前になりますが、神学生時代に3週間の臨床牧会訓練を受けた場所です。時間を超えてフラッシュバックのようにその時のことを思い起こしました。今もそうですが、聖路加の小児病棟は小児白血病の患者さんが大勢入院されていました。今でもはっきりと思い起こします。ある時に小児病棟を訪問していたら、若いご両親が私に対して深々と頭を下げられたことを。「いつも子供を訪問して下さってありがとうございます」と笑顔で言われたのです。

けなげに病いと闘っている子供たちの姿を見て心震えるような思いをして病棟から出てきた直後だったように記憶しています。病の子供を抱える親の気持ちを思うと、何もできない自分の無力さに胸がつぶれるような思いがしました。しかし、そのような辛い現実の直中に無力なままで踏みとどまることの大切さをその笑顔とお辞儀とによって教えられたように思います。キリストが私たちの現実の直中に降り立って下さったのです。どのような苦しみにあってもインマヌエル、神われらと共にいます。私たちの救い主、その名はイエス(インマヌエルの神は私たちを救う)なのです。

ジョン・パットンという米国の牧師がある本の中で紹介している印象的なエピソードを思い起こします。それは次のようなエピソードです(”From Ministry to Theology,” Journal of Pastoral Care Publications, 1995)。

米国のある病院での出来事。産婦人科は病院の中にあって唯一喜びと笑顔の溢れる場所です。子供の誕生を誕生を心待ちにしていた一組のカップルがいました。しかし、悲しいことにその女児の赤ちゃんは死産となってしまいました。マギーという名前を付けられた赤ちゃんのために病院のチャペルで礼拝が行われます。礼拝の最中に、涙をとどめることができないでいるその若い両親が突然、この子のために洗礼式を行って欲しいと申し出たのです。それを執り行っている若いチャプレンの目からも涙が溢れ続けた。突然の申し出で洗礼盤には水も用意されていません。チャプレンは瞬間迷いましたが、そのご両親の申し出を了承したのです。そしてご両親の涙と自分の涙を指でぬぐって、「マギー、父と子と聖霊のみ名によってわたしは洗礼を施します」と言って、赤ちゃんの額にそっと指を触れ、十字を切って洗礼を行ったのでした。

主イエスは、その名の通り、悲しみの中にも「インマヌエル」、われらと共にいましたもう神のご臨在を示してくださるのです。そのことを覚えつつ、一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2010年12月12日 待降節第三主日礼拝 説教)