次週説教

-週報- 2020年 5月24日 主の昇天主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 最愛なるイエスよ、われらここに  J.S.バッハ

初めの歌  7( 主のみいつとみさかえとを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
私たちの主イエス・キリストの父なる神さま。弟子たちに約束の聖霊を送られたように、あなたの教会を顧み、私たちの心を開いてみ霊の力を受けることができるようにしてください。私たちの心に愛の炎を燃え上がらせ、私たちを強めて生命のある限り、み国に仕える者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録  1:1-11( 新約 213頁)

第2 の朗読  エフェソの信徒への手紙 1:15-23( 新約 352頁 )

福音書の朗読 ルカによる福音書 24:44-53( 新約 161頁 )

みことばのうた 158( あめには御使 )

説教 「上を見上げて 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】451( くすしきみ恵み )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  525( めぐみふかき 主のほか )


後  奏 主をほめまつれ おおわが魂よ G.ツアンガー

* 前奏・後奏(小山 泉 選曲)

【音声・テキスト 】2020年5月24日 説教「上を見上げて」浅野直樹牧師

主の昇天主日礼拝説教



「上を向いて歩こう 涙がこぼれないように、思い出す 春の日 一人ぽっちの夜」。
ご存知のように、坂本九さんの大ヒットソング。名曲です。私自身は知らなかったのですが、作詞をされたのは、あの永六輔さんのようです。続けて、この曲はこう歌います。「上を向いて歩こう にじんだ星をかぞえて 思い出す 夏の日 一人ぽっちの夜。幸せは雲の上に 幸せは空の上に 上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 泣きながら 歩く 一人ぽっちの夜」。

何があったのかは分かりませんが、この主人公はある春の日に、涙を流すような思いの中にあったようです。寂しかったのか、悲しかったのか。本来「春」と言えば、喜びに満ちた季節なのに、それとは裏腹に、たった一人、涙をこらえて上を向いて歩いていました。そう、最初は、涙がこぼれないように、これ以上、みっともない、惨めな思いにはなるまい、と思い、必死な思いで溢れる涙を抑えて上をみていたのかもしれない。

しかし、次第に思いが変わっていったように思います。上を見ていると、抑えていた涙で滲んだ星が見えて来た。なんだか、その星の存在に心が吸い込まれていったのでしょう。上を見上げていると、心の変化を感じるようになった。そうだ、自分にも活力に満ちたかんかん照りの夏の日差しのような時があったではないか。大切な人と一緒に行った盆踊り。一緒に見上げて歓声を上げていた打ち上げ花火。

そうだ、自分にも幸せと思える日々が確かにあったのだ。幸せは、雲の上に、空の上にある。だから、もう涙を流すまいとして上を見上げるのではなくて、幸せを感じるために上を向いて歩いて行こう。泣きながら…。そう、この涙はそんな気づきによる喜びの涙に変わっていたのかもしれません。同じ一人ぽっちの夜の風景なのに、全く違うものに変えられていた。

上を向いて、喜びの涙を噛み締めながら、たとえ一人ぽっちという現実は変わらなくとも、幸せを見つめて歩いていく。これは、私の勝手な解釈かもしれませんが、そんな思いを、この歌から感じさせられます。なぜならば、私もまた、上を向くからです。私は、自身の趣味を「ぼ~と、空を、雲を眺めること」と言って来ていますが、それは、最初っからそういった嗜好があったからではありませんでした。ある時、空を(上を)見上げたからです。

涙をこぼすまい、ということでは必ずしもありませんでしたが、やはり悲しくて、辛くて、心がどうにも落ち着かなかった時に、何気無しに空を見上げたのです。その空の青さが、雲の何とも言えない穏やかな造形美が、私の心を救ってくれた。そんな経験があった。だから、今では、何でもない時にも空を見る。雲を見る。そうすると、心が落ち着くし、なんだか幸せな気分にもなれる。

そういった経験、皆さんにもお有りになるのではないでしょうか。上を向くことによって、何だか救われた、といった経験が。だから、あの歌はあんなにも共感を生んで、大ヒットとなったのではないか。個人的には、そう思っています。

今日は、イエスさまの昇天主日の礼拝です。ご存知のように、キリスト者が亡くなられた時、「召天された」という言い方がなされます。この「昇天」と「召天」は、「音」としては同じように聞こえますが、漢字の表記が違っているように、意味は全く異なるものです。キリスト者の「召天」の場合は、天に召されると書かれているように、死んだ者が天に…、つまり神さまのところに召されることを意味します。対して、イエスさまの「昇天」は、天に昇るとありますように、まさしく天に、つまり神さまのところに、神さまの領域に「生きたまま」で昇られたということです。

ですから、使徒信条などの信仰告白には「天に上り、神の右に座し」(神さまと共におられる)と告白されるわけです。ともかく、十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスさまは、40日に渡って弟子たちと過ごされ後、「生きたまま」で天に昇って、帰っていかれました。このことは、福音書としては今日のルカ福音書だけに記されていることです。同じルカが著者だと考えられている使徒言行録(これは、ルカ福音書の続編と考えられていますが)1章9節にこう記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」。

改めてこの箇所を読んだとき、この時の弟子たちの気持ちはどうだったのだろう、と思いました。あまりのことに呆然と立ち尽くすようにして上を見上げていたのか。それとも、目を凝らして、この瞬間を一瞬たりとも見逃さまいとして凝視していたのか。
なぜならば、ここには悲しみがないからです。弟子たちの中に、悲しいそぶりが見えないからです。何故なんだろう。これは、今生の別れです。もう二度と、この世でイエスさまとお会いすることができない。

そんな別れであるはずなのに、悲しみが見えてこないのはなぜか。実は、この今生の別れという意味では、弟子たちは二度経験していることになります。一度目は、イエスさまがあの十字架の上で死んでしまい、墓に葬られたことによります。少なくとも、復活を信じることができなかった弟子たちにとっては、まさに今生の別れの時だったでしょう。それは、あまりにも突然で、衝撃的で、絶望的でした。全ての気力を失うほどに、彼らは失意のどん底を経験したのです。

もちろん、後悔もあったでしょう。特に、イエスさまのことを三度も否んでしまったペトロにおいては、どれほどのことだったでしょう。「死んでお詫びしたい」とでも思っていたのかもしれない。そんな彼らのところに、不意に、そう、まさに不意に復活のイエスさまが来られました。「あなたがたに平和があるように」「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。



まさに、救いです。弟子たちは、その出会いで、どれほど救われたことか。そんなイエスさまと、再び別れなければならない。今生の別れをしなければならない。普通に考えれば、悲しんで当たり前でしょう。しかし、どうも様子が違う。そこに、何が起こったのだろうと思うのです。

昔、『いま、会いにゆきます』という映画を見ました。竹内結子と中村獅童が主演をした映画です。竹内結子が演じる女性が、幼い子どもを残して死んでしまいます。その出産が非常に難産だったようで、その影響もあってのことでした。そして、心無い大人たちのつぶやきを聞いたその子どもは、心に深い傷をもつことになります。中村獅童演じるお父さんは、ちょっと障害を持っているようで、残された父子の生活もなかなかうまくいかず、失敗と奮闘の毎日でした。

そんな中、一年が過ぎ、この親子は不思議と亡き妻、母と会うことになる。実は、亡くなった女性が現れたのではなく、その女性の若い頃の自分がタイムスリップをしてやってきたのでした。そんな女性は6週間後、将来がどうなるのかを知りながら、つまり、難産の上に命を落とすことを知りながら、彼女の現実世界に戻って行き、結婚をし、子どもを産むことを決意します。ともかく、そんな不思議な三人の出会いによって、お互いの心が少しづつ救われていく。今生の別れに備えられていく。自分のせいで命を落としてしまったのではないか、と恐れていた子どもの心が癒されていく。

自分の命と引き替えてもいいほどに愛されていたのだ、と気付かされていく。そういったストーリーだったと思います。同じように、とは言いませんが、弟子たちにとっても、あの40日間は、本当に素晴らしい、幸いな時だったのでしょう。少なくとも、今度の今生の別れは、突然でも、衝撃的でも、絶望的でもなかった。喜んで送ることができた。そんな、40日間だったと思うのです。

Transfiguration『キリストの変容』 ラファエロ・サンティ,Musei Vaticani



弟子たちは、天に昇られるイエスさまを見上げていました。自分たちの元を離れ、天に帰られるイエスさまを、じっと見上げていました。天に昇られ、見えなくなったのに、なおも、イエスさまが帰られた「天」をじっと見つめていました。その時の様子を、ルカ福
音書ではこのように記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。天に上げられたイエスさを、弟子たちは「伏し拝み」、「大喜び」でエルサレムに帰り、いつも神殿で神さまを褒め称えていた、と言います。それが、この度の今生の別れの結果なのです。

復活のイエスさまと出会い、弟子たちは本当に救われました。そして、その復活のイエスさまと共に過ごした40日間の歩みは、至福の時でした。なおもイエスさまから意味を教えていただき、イエスさまに赦され、愛されていることを常に実感して生きることがで
きたからです。そして、イエスさまは、お帰りになるべき天に昇っていかれた。そのお姿は、まさに神の子、メシア・救い主であることを、ますます確信させていったことでしょう。

だからこそ、弟子たちは喜べた。伏し拝んだ。常に神さまを賛美し続けられた。私たちも、そうではないか。イエスさまの十字架、復活、そして昇天。これらを通して、なおも確信に至っていくのではないか。もちろん、来主日祝う聖霊降臨祭を抜きにしては考えられないことですが、その上で、これらの事柄が私たちにますます信仰の確信を、喜びを与えてくれるものになるのではないか。そう思うのです。

 

「上を向いて歩こう」。それは、私たちにとっては、単に涙をこぼさないためのものではないなずです。上を向く。天を向く。その私たちの視線の先には、イエスさまがおられる。天に昇られ、今も神さまの右に座しておられるイエスさまを私たちは見上げる。だか
らこそ、涙がこぼれないのです。泣きたくなる時、イエスさまを見上げるからこそ、私たちの涙を拭ってくださる方を天に見いだすことができるからこそ、私たちは歩いていける。

悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、失意の中にあっても、すぐにでもそれらが全て取っ払われてしまわなくとも、天には違ったものが、見えていなかったものが、幸いが見え出してくる。そうではないでしょうか。

その上で、この言葉も忘れてはいけないのだと思う。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あ
なたがたはこれらのことの証人となる」。この復活のイエスさまから託された宣教についても、私たちはしっかりと心に留めなければならないでしょう。

そのことは、次週お話しすることになるかと思いますが、ともかく、イエスさまが天に昇られた、ということは、私たちにとって幸いなことなのです。そのことをしっかりと胸に抱いて、天を(上を)見上げて、これからも歩んで行きたいと思います。

 
《祈り》
・首都圏、一都三県と北海道以外は非常事態宣言が解除されました。経済的な逼迫状況を考えると仕方がないことですが、制限が緩められ、人の行き来が戻ってくると、感染の広がりがやはり心配になります。これまで日本では欧米諸国とは比較にならないほど押さえ込めていますが、それには、手洗いうがいなどの衛生面などの意識の高さや、マスクの着用、また上からの指示に従うという国民性など、いろいろな要因によるとも言われています。

あるいは、単に運が良かっただけ、といった指摘もあります。確かに、気が緩めば、これまで以上の大きな波が来ないとも言えません。どうぞ、これからも一人一人が「うつらない。うつさない」といった意識をもって生活していけるようにお導きくださいますようお願いいたします。

また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインド、あるいは南アメリカの国々などでも広がっていると懸念されています。もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助
も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・ワクチンや薬の開発も待たれています。大国同士の覇権争いの道具になるのではなく、国際協力のもと、速やかに開発され、貧しい国々の人々にも届けられますようにお導きください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・コロナ鬱や虐待、DV被害者なども出ないようにもお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン

【音声・テキスト 】2020年5月17日 説教「いつも共にいる」浅野直樹牧師

復活節第六主日
聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15~21節



 

今日の箇所には、「聖霊」(「弁護者」、あるいは「真理の霊」という言い方でしたが)が登場して参りました。
早いもので、今年もあと2週間で聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えます。とは言いましても、今の状態だと、皆で集まって祝うというのは、ちょっと難しいかもしれません。たとえ非常事態宣言が解除されたとしても、「すぐにでも」とはなかなかいかないと思う
からです。

思い起こせば、このような形式での礼拝となったのは3月29日の礼拝からでした。その後、受難主日からはじまる受難週、聖金曜日礼拝、復活祭、そして今度は聖霊降臨祭と、教会としてはもっとも大切なそれらの記念日に共々に集うことができないというのは、まさに前代未聞の非常事態と言えるでしょう。多くの方々から「礼拝に行きたいのに」といった声が聞かれるように、これはまことに辛く残念なことです。

しかし、そのような中にあっても、聖霊はいつも働いていてくださいます。共々に集うことができずにいても、聖霊の働きはいっときたりとも止まっていることはありません。私たち一人一人の心の中に、時の流れ・歴史の中に、世界の中に、いちいちそれらを見聞きしたり、感じ取ることができなくとも、聖霊の働きは確かにある。そのことを、私たちは忘れてはいけないのだと思います。
今日の日課の中で、このようなイエスさまの言葉が記されていました。



「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。本当に慰めに満ちたことばだと思います。この「みなしごにはしておかない」の「みなしご」という言葉を聞くと、私の世代の方々は『みなしごハッチ』を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。正式には『昆虫物語 みなしごハッチ』といい、タツノコプロ制作のアニメーションです。調べてみますと、最初に放送されたのは、昭和45年とありますので、私が見たのはおそらく再放送だったと思います。

昆虫の世界が舞台で、主人公は「ハッチ」というミツバチの子どもです。この「ハッチ」、まだタマゴだったころ、自分たちの巣がスズメバチに襲われてしまい、お母さん(女王蜂)と生き別れになってしまいます。

そして、数々の冒険をしながらお母さんに会いに行く、というのがストーリーになるのですが、とにかく、いろいろとひどい目に合う。命の危険にも合う。そういった時、寂しくなって「お母さん」と涙を流すわけです。そして、ついにお母さん(女王蜂)に合うことになる。「ハッチ」も女王蜂もワンワンと泣き出します。その再会シーンに子ども心ながらに胸が熱くなったことを覚えています。

この物語は、「ハッチ」が数々の冒険の中で成長をし、立派になってお母さんと再会するといった、ちょっとした成長物語になっていますが、物語冒頭の「寂しさ」「不安感」「喪失感」などといったものが、この「みなしご」といった立ち位置には付いて回るものなのでしょう。私自身の記憶を遡っても「まいご」といった記憶が無いもので実感が乏しいのですが、自分の子どもたちが迷子になってしまったときに、見つけた時の「安堵感」の表情は、今でもよく覚えています。この「みなしご」と「まいご」とを同列に置くことはできないと思いますけれども、その解決における「安堵・安心感」といったことには変わりはないのだと思うのです。



先週は、そのことには触れませんでしたが、先週の日課も、また今週の日課も、いわゆる「告別説教」と言われる箇所です。別れの説教、別れのことば…。イエスさまは直ぐにでも十字架で死んでしまわれることになる。そのことを深く自覚されていたイエスさま
は、また愛する弟子たちを残して旅立たなければならないことを案じておられたイエスさは、時間が許す限り、できるだけ弟子たちを整えようとされて、力付けようとされて、この最後の言葉を語っていかれたワケです。

弟子たちも、そんな雰囲気を察していたのでしょうか。あるいは、そのお言葉の端々からも伝わってきていたのかもしれない。だから、先週の日課である14章1節で「心を騒がせるな」と言われたわけです。弟子たちの心がざわついていた、騒いでいたからです。不安と恐れで、心が波立っていた…。

イエスさまが死んでしまう。イエスさまと別れなければならない。これは、弟子たちにとっては、まさに「みなしご」になるような思いでした。なぜならば、イエスさまこそが安心の源だったからです。子どもにとって親とはどんな存在か。もちろん、親にもいろい
ろな務めがあるでしょうが、まず第一は子どもの存在を守るということでしょう。この子が元気に生きてくれるだけで良い。

幼い子を持つ親は、大抵そう思うものです。そんな子どもたちも大きくなると、生きることが、成長することが当たり前のように感じられて、その存在自体だけでは物足りなくなり、変な期待や欲を寄せるようになる。すると、本来の「居てくれるだけで嬉しい」、「生きてくれるだけで良い」という存在自体の有り難さが薄れてしまい、いろいろと親子の対立も起こってくるようになる。

ともかく、まだ幼くて、力の加減次第ではすぐにでも死んでしまうほどに儚い存在である赤子の頃は、とにかく「生きること」だけを願う。その存在自体が尊くて、愛らしく思う。それが、親心。そのために、昼夜を問わず、身を削って必死になって子育てをするワケです。だからこそ、子どもは安心する。自分を大切に生かし、育ててくれる人たちだからこそ、信頼して、安心して委ねることができる。不安なときにもいつも側にいてくれるから、悲しい時には慰めてくれるから、怖い思いをした時にはきゅっと抱きしめてくれるから、困った時にはいつも助けてくれるから、温かく、微笑んで見つめてくれるから、安心できる。

それが、ある意味、今までの弟子たちの姿でもあったワケです。イエスさまがいつもいてくださるから大丈夫。安心できる。でも、そのイエスさまがいなくなってしまわれる。どこかに行ってしまわれる。どうしよう。弟子たちの困惑も当然でしょう。あるいは、それは、ここにいたイエスさまの直接的な弟子たちに限らないのかもしれません。

イエスさまが天に昇られた後に出来た教会は、この弟子たちのようには直接的にはイエスさまにお会いすることなどできないからです。もちろん、私たちだってそうです。イエスさまがいない。不在である。いつも共にいてくださると約束してくださったのに、とてもそうは思えない。不安だ。この先、どうしたらいいのだ。

このヨハネ福音書が記されたヨハネの教会は、当時、迫害に遭っていたと言われています。この教会の人たちにとっては、この「みなしご」はまさに自分たちのことを指していると思ったのかもしれません。いつも一緒にいてくださると約束してくださったではあり
ませんか。どうしていてくださらないのですか。答えてくださらないのですか。助けてくださらないのですか。慰めてはくださらないのですか。癒してはくださらないのですか。

私たちのことを放って、どこに行ってしまわれたのですか。確かに、そうです。弟子たちだけではありません。私たちもまた、「みなしご」になってしまったと思える時がくる。イエスさまはどこかに行ってしまわれて、私たちは一人、不安の中に取り残されてしまった。そうとしか思えない時もある。あの『FOOTPRINTS』の詩人のようにです。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません』」。

私たちにも、この詩人の気持ちが良く分かると思います。いつも一緒にいてくださると約束してくださったのに、「みなしご」になってしまったかのような気持ちです。しかし、イエスさまはこう語られます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」。いっとき…、そう、いっときはイエスさまがいなくなってしまわれたかのように思えるような時が来るでしょう。どこかに行ってしまい、一人残された「みなしご」のような気持ちに、不安な気持ちに苛まれるような時もあるでしょう。

しかし、イエスさまはそうはさせない、とおっしゃいます。「みなしごにはしておかない」とおっしゃいます。また「戻って来る」とおっしゃいます。しかも、その間でさえも、ほんのいっときの間であっても、「みなしご」にしておかないように、聖霊を遣わす、とおっしゃってくださる。イエスさまのことを教え、思い起こさせる聖霊を、あなたがたのところに、その心の中に遣わす、とおっしゃってくださいました。だからこそ、あの詩人も気づけたのです。

「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」(マーガレット・F・パワーズ)。聖霊がいてくださったからこそ、聖霊を遣わしてくださったからこそ、見えていなかったものが見え出し、気づき得なかったことに気づくことができた。あの時も、この時にも、確かにイエスさまは共にいてくださったのだ、と。私は決して「みなしご」ではなかったのだ、と。それは、本当に幸いなことです。



人生を根底から変えてしまうほどに。あの「ハッチ」が夢にまで見たお母さんと出会えた喜びのように。私は、第一ペトロ1章8節以下の言葉が大好きです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」

これほど、聖霊の働きを言い表しているものはないのではないかと思っています。この目で見たことがなく見てもいないのに、信じ、愛し、喜んでいる。聖霊によってイエスさまを知って、その約束を信じて、救われて、心から安心できているからです。

私は、決してひとりぼっちではない。「みなしご」ではない。いつでも、どこにでも、たとえ死の先にあってもイエスさまが共にいてくださる。これほど心強いことはない。そう思える。信じていける。それは、私たちの掛け替えのない財産だと思います。

 

《祈り》
・全国的には新規感染者数も減って、非常事態宣言が解除になった地域も多いようですが、気の緩みから第二第三の波も心配されています。一人一人が「うつらない。うつさない」といった自覚をもって、これからの生活においても注意していくことができますよう
に、どうぞお導きください。また、医療体制の脆弱なアフリカ諸国やインドなどでも非常な勢いで広がっていると懸念されています。

もともと衛生面においても、また栄養面においても、十分とは言えない方々も多くいらっしゃいますので、どうぞ憐れんでくださり、必要な援助も行われますようにお願いいたします。

あるいは、難民キャンプなどの感染リスクも非常に懸念されています。弱い立場の人々に、特にこういった疫病は襲っていきますので、どうぞお助けくださいますようにお願いいたします。また、そういった中で懸命に働いておられる方々もお守りくださり、遠く離
れた私たちですが、私たちにできることもしていけるように、お導きください。

・新型コロナに感染され、治療されておられる方々に癒しを、亡くなられた方々のご家族には慰めをお与えください。

・医療従事者の方々をお守りください。必要な物資もお与えください。

・職を奪われてしまった方々、経済的に厳しい状況に陥っておられる方々が多くいらっしゃいます。必要な手立てが速やかに行われますようにお導きください。

・緊急事態宣言の延長のために、まだ学校に行くことのできない学生、子どもたちが多くいます。どうぞ、それらの子どもたちの学ぶ機会が奪われませんように。将来に不安を抱えることがありませんように、どうぞお助けください。

・本当にこのコロナの問題で、世界中で人の悪感情が噴出しています。それにより、対立が起こったり、また傷つけ合うことが起こってしまっていますが、どうぞ憐れんでくださり、思いやりの心を取り戻すことができますようにお導きください。また、虐待やDV被
害者などもお救いくださいますようにお願いいたします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。

アーメン



 ※『奇跡の漁り』(ロイヤル・コレクション所蔵、ヴィクトリア&アルバート博物館展示)
ラファエロ・サンティ1515年 

-週報- 2020年 5月10日 復活節 第五主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 天にいますわれらの父よ  D.ブクステフーデ

初めの歌  12( めぐみゆたけき主を )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
み民の心をひとつにされる神(さま。

あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、激しく
変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
 

第1 の朗読 使徒言行録 7:55-60( 新約 227頁)

第2 の朗読  ペトロの手紙一 2:2-10( 新約 429頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 14:1-14( 新約 196頁 )

みことばのうた 234A( 昔主イエスの 播きたまいし )

説教 「 イエスさまが示される道 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 298( やすかれ、わがこころよ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 494( わがゆくみち )


後奏 いと高きにある神にのみ栄光あれ  A.ギルマン

* 前奏・後奏(萩森英明選曲)

-週報- 2020年 5月3日 復活節 第四主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 “めぐみ”ヒムプレーヤー音源

前  奏 キリストは甦り  J. S. Bach

初めの歌  6( われら主をたたえまし )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

 特別の祈り
 み民の心を一つにされる神さま。

あなたの掟を愛する心、あなたの約束への切なる望みを私たちに興し、激しく 変動するこの世界の中でも、動くことのない喜びを与えてください。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1 の朗読 使徒言行録 2:42-47( 新約 217頁)

第2 の朗読 ペトロの手紙一 2:19-25( 新約 431頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 10:1-10( 新約 186頁 )

みことばのうた 154( 地よ声たかく )

説教 「 イエスは良い羊飼い」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 354( 牧主わが主よ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9 頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 294( みめぐみゆたけき )


後奏 祈り  A.ギルマン

* 前奏・後奏(苅谷和子選曲)

【音声&テキスト】4月5日(日)10:30 説 教:「あなたのために捨てられた 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書27章11~54節

ご承知のように、本日は「枝の主日」、または「受難主日」…、つまり、今日から「受難週」という一週間がはじまってまいります。

新型コロナウイルスの感染拡大のために、先週からこのような礼拝のあり方になってしまいましたが、今週金曜日のイエスさまの十字架を思う「聖金曜日礼拝」も行うことができなくなりました。そればかりか、ギリギリまでなんとか知恵を絞って復活祭の礼拝を共に…、とも考えてまいりましたが、こちらも断念せざるを得ない状況です。そんな中にあっても、ぜひ皆さんと心を合わせて、その場その場でイエスさまのご受難に思いを向け、復活の喜びに満たされていきたいと願っております。



イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。ひとりの人の死であっても、私たちに大きなインパクト(衝撃、影響)をもたらすものです。

先日、残念ながらコメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎ためにお亡くなりになられました。まだ70歳でした。この知らせは、日本中の多くの人々に深い悲しみを与えました。私も、その一人です。個人的には、ザ・ドリフターズの中では加藤茶のファンでしたが、それでも、小学生の時は「8時だよ!全員集合」を楽しみにし、加藤茶との掛け合いに笑い転げていました。クラスの男子は全員、『カラスの勝手でしょ』を歌い『ヒゲダンス』を踊っていたと記憶しています。もう随分と昔の出来事となってしまいましたが、小学時代の楽しい思い出の一つです。その志村けんさんが死んでしまった。

しかし、その「死」で社会の空気が一気に変わった、と言われます。新型コロナウイルス騒動にもどこか慣れてしまい、自粛疲れか、若者を中心に、危機意識が希薄になっていた、と言われます。自分は大丈夫だろう、罹ったとしても軽症で済むらしいから平気だ。多くの若者たちがそう思い、町に繰り出すようになっていた。しかし、志村けんさんの死の知らせで、若者たちの意識も随分と変わりました。ある若い女性がインタビューにこのように答えていたのが印象的でした。
「今まではどことなく他人事だと思っていた。しかし、よく知っている人が死んでしまったことによって、この感染症の恐ろしさが身近に感じられるようになった。これからは、もっと注意をしていきたい」。そんなことを話されていました。

また、ご遺族の方々も、この「死」をぜひとも教訓にしてほしい。故人もきっとそれを願っている。そんなことをおっしゃっておられた…。
ひとりの人の死の影響力は、何も著名人だけに限りません。私たちもまた、いろいろな身近な「死」に立ち会い、触れて、大きな、あるいは決定的な影響を与えられてきたのだと思います。祖父母の死によって、父親の死、母親の死によって、あるいは、夫の死、妻の死、兄弟姉妹の死、優しくしてくれた叔父さん叔母さんの死、息子の・娘の死、友の死、恩師の死…、そういった大切な、身近な人の「死」によって、私たちはいろいろなことを考えさせられてきた、気づかされてきた、思わされてきたのではなかったか…。そう思うのです。

イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。
愛した弟子に裏切られて、イエスさまは死なれました。

三年余り寝食を共にし、いつも一緒にいた、家族以上の絆で結ばれていたはずの弟子たちに見捨てられ、イエスさまは死なれました。不正な裁判のゆえに、権力者たちのねたみ、保身のためにイエスさまは死なれました。バラバ・イエスという札付きの、乱暴者の、人殺しの代わりにイエスさまは死なれました。人々から侮辱され、蔑まれ、辱められ、唾を吐きかけられて、イエスさまは死なれました。
「ユダヤ人の王」との罪状書きの元、十字架につけられてイエスさまは死なれました。

「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」との罵声の中で、イエスさまは死なれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」と叫ばざるを得なくなるほどに、神さまに見捨てられ、呪われて、イエスさまは死なれました。私たちのために…。なぜか。私たちが罪人だからです。

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)



全人類が罪を犯したからです。イエスさまを十字架の死へと追いやった罪人の姿が、この私たちの中にもあるからです。そして、罪人を救うためには、この方法しかなかったからです。神さまに見捨てられ、呪われ、十字架で死ぬという以外に方法はなかった。彼らが馬鹿にしたように、十字架から降りてしまわれては、この救いは完成しなかった。パウロがロマ書で語っている通りです。(ローマの信徒への手紙8章3節)「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。

つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。「罪を罪として処断」する。「赦し」とは、罪を見逃すことでは決してありません。罪を見てみないふりをするのではないのです。そうではなくて、「罪を罪として処断」することです。罪を罪として、しっかり処断したからもう大丈夫、もうそこには罪は残っていない。そう言えるのが、言い切れるのが「赦し」なのです。それを、イエスさまは私たちの代わりにしてくださった。

だからこそ、かくも苦しい、辛い、逃げてしまいたい受難…、十字架の死を遂げられた。もちろん、その決断は、神さまにとっても、容易いものではなかったはずです。ご自分の子を殺すのです。罪のない方を殺すのです。罪のない方に、私たちの罪を担わせ、その罪に対しての怒りを、その裁きを、一心不乱にその身に注がれる。辛くないはずがない。苦しくないはずがない。痛くないはずがない。腹わたが引き裂かれるような思いで、まさに断腸の思いで、その決断をされた。なぜか。私たちを救いたいからです。罪の縄目から解放したいからです。滅びから救いだしたいからです。

私たちを愛しているからこそ、放ってはおけなかったからです。イエスさまも、まさに断腸の思いで苦しまれた。単なる概念ではなく、まさにその身を以て苦しまれた。そして、神さまもまた、その身を以て苦しまれた。愛する我が子の死という、しかも、自分の手にかけてという、あり得ない思いをもって苦しまれた。それが、十字架なのです。十字架の死なのです。イエスさまは、その十字架で、私たちのために死なれた。今日の使徒書、フィリピ書の言い方をすれば、神であることも、その命も、私たちのために捨てられた。あなたのために捨てられた。

この「死」と私たちはどう向き合ったらいいのでしょうか。この「死」から、何も感じないということがあるでしょうか。ひとりの人の死が、これほどまでに人に、私たちに影響を与えるのに、神の子の死が、救い主の死が、この私たちに、何の影響も与えないということがあるでしょうか。
イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。罪人の私たちのために、その罪を一身に背負って、神さまの罰を受けて、死なれました。

 

・・・・  イザヤ書53章1~12節 ・・・・

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。


そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らなげうち死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。

私たちの罪を担い、私たちを救うために命を投げ出したのは、この人…、イエス・キリストであった。このことを、もう一度深く心に刻む、この受難週の歩みでありたいと思います。そして、その「死」の意味の大きさを、私たちのために捨てられた「いのち」の重さを、共々に噛み締めていく、そんな一週間でありたい。そう思います。

 

『祈り』

「神さま。新年度に入り、新しい歩みをはじめられる方もいらっしゃるでしょう。しかし、新型コロナウイルスの流行で予定が狂ってしまい、不安な中でのスタートとなってしまったかもしれません。どうぞ、そんなお一人お一人をお守りくださり、新たなスタートを豊かに祝してくださいますようにお願いいたします。ただでさえ環境の変化で大きなストレスを抱えておられると思いますので、心身ともにお守りくださいますようにお願いいたします。

今日から受難週がはじまり、来主日は復活祭(イースター)を迎えようとしていますが、新型コロナウイルスの流行のために、共々に礼拝堂に集うことができません。どうぞ、憐れんでください。それぞれの場所、ご自宅での礼拝を豊かに祝してくださり、私たちにとって最も大切な出来事、福音である十字架と復活を豊かに覚えることができますようにお導きください。また、日本中で、世界中で、同じような状況の中におかれている兄弟姉妹方が多くおられると思いますが、そのお一人お一人を豊かにお恵みくださいますようにお願いいたします。

新型コロナウイルスの勢いが一向に衰えません。世界のあちらこちらで医療崩壊が起こり、多くの死者が出ています。日本でも感染者が急激に増え、医療崩壊が危惧されています。どうぞ憐れんでください。本当に大変厳しい状況の中で懸命に働いておられる医療従事者の方々をどうぞ憐れんでくださり、お助けくださいますようにお願いいたします。

私たち市民一人ひとりも、医療崩壊を招かない行動をしていくことができますように、意識を高めていくことができますようにお導きください。また、治療中の方々をお守りください。重篤化しませんように。また、残念ながら命を落とされた方々のご遺族の上に、豊かな慰めをお与えください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン」

【音声・テキスト】2020年3月29日(日)10:30 礼拝説教:「涙を流されたイエス」

四旬節第5主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1~45節



ある注解書(解説書)を読んでいましたら、雨宮神父が書かれた文章ですが、非常に興味深いことが書かれていましたので、少し長いですが、そのまま引用したいと思います。

「『尊敬する』と『信じる』に違いがあるのは分かりますが、どこが違うのかあいまいだったので、国語辞典を引いてみました。すると、『尊敬』の項には、①他人の人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うこと。とあり、その用例として『政事家となりて郷里の人々に尊敬せらるるを喜ぶよりも』(花間鶯)があげられていました。
続いて『信ずる』を引くと、①物事を本当だと思う。また、信頼する。信用する。②神仏を信仰する。帰依する。とあり、その用例として『世俗の虚言(そらごと)をねんごろに信じたるもをこがましく』(徒然草)とか、『浅草観音にくらぶれば、八幡大菩薩を信ずる』(洒落本・辰巳之園)があげられていました。これで違いが明瞭になってきました。

尊敬心の根底には『人格、思想、行為などをすぐれたもの』とみなす判断があり、そのすぐれた長所を知るがゆえに『尊び敬う』という気持ちが生じます。一方、信仰心の場合には、『物事を本当だ』とする思いが根底にあり、そこから『信頼する』という全人格的な帰依が生じるのだと思います。そうであれば、『イエスを尊敬する』といえば、イエスの人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うことですから、イエスの人間性に注目していることになります。しかし、『イエスを信じる』といえば、イエスに関する出来事を本当だと思い、イエスに信頼をおき、イエスに帰依する(よりすがる)ことですから、イエスその人というよりは、イエスを通して働く神に目を向けていることになります。

今週の福音が伝えるラザロの復活の結びには、『イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた』とあります。イエスを『信じた』というのですから、彼らはイエスの人格や思想や行為そのものというよりは、神と一体であるイエスを『本当だ』と認め、イエスに信頼し、イエスを通して働く神に帰依したということです」。私自身、この文章に思うところがないわけではありませんが、それでも、非常に興味深いと思っています。イエスさまを尊敬しているだけなのか。それとも…。

今日の福音書の日課は、よく知られた「ラザロの復活物語り」です。♪「し~んだラザロがよみがええった~」と子どもの歌(子ども用の讃美歌)にも出てくる有名なお話しです。そして、25節には「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」との決定的な言葉も出てきます。

以前も言いましたように、私自身は「死の克服」ということが、聖書の最大のメッセージだと考えています。人類最大の敵にして課題である死を乗り越えることができる。罪の赦しも、永遠の命も、聖化も、このことと無縁ではないでしょう。死を打ち破ることができる。死に打ち勝つことができる。別の言い方をすれば、安心して、希望をもって死ぬことができる。それが、信仰の、聖書のメッセージ。福音…。

聖書によると、私たちの「死」には、二つの側面、理解があるように思われます。一つは、被造物ゆえの「死」です。つまり、私たちは神さまによって形造られた訳ですが、しかし、それは有限なる存在として…、神さまは永遠なる方ですから、神さまとは異なる者として(似てはいても)生み出された、ということです。そういう意味では、私たちの死というのは、ごく自然な営みでしかない、ということでしょう。人は生まれてきた以上、必ず死を迎えるのが自然なことなのです。しかし、もう一つの「死」の理解は、罪によってもたらされた、というものです。罪の結果、と言っていい。人間は確かに有限な存在と
して創造されたかもしれませんが、それは、決して永遠の生の道が閉ざされていたわけではなかったのです。

しかし、人は罪を犯した。神さまの愛を信用・信頼することができずに、罪を犯してしまった。その結果、楽園を追い出され、二度と「命の木」に近づくことが許されなくなってしまった。ご存知のように、その辺りのことは創世記の2章から3章にかけて書かれていることです。そういう意味では、こちらの「死」の問題の方がより深刻なのかもしれません。

ともかく、いずれにしましても、この「死」の問題は、私たちだけでは、私たち人類だけでは解決できないことなのです。神さまによらなければ乗り越えることのできないもの。私たちの有限性も、罪の問題も。そして、私たち人類にとって「死」は、相変わらず不安で恐ろしいものであり続けている。死の先に望みを見出せないでいるからです。その死の問題を解決してくださったのがイエス・キリストなのです。神さまから遣わされた神の御子、メシアであるイエス・キリスト。そして、そのイエスさまが死の問題を解決してくださった最も顕著な例として、今朝のラザロの復活物語りがあるのだと思います。

イエスさまには、死んだ人間を復活させる力がおありになることを公に示されたからです。神さまから遣わされたイエスさまが、ラザロの復活によって、あるいはご自分の復活によって、死の問題を打ち破る扉を開いてくださった。なぜならば、人に命を与えることが神さまの御心だったからです。人を生かすことが、人の死を望まず、来るべき世の命を与えることが神さまの御心だった。その御心を実現させるためにこそイエスさまはこの世に来られた。そういう意味では、この時のラザロの死は、御心を実現させるためには必要だったのかもしれません。

ラザロの復活イコン(15世紀ロシア)



イエスさまもこうおっしゃっておられるからです。14節「そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである』」。ラザロが病気の時点でその場に居合わせなかったことの方が良かった、と言います。もし、その場に居合わせていたら、おそらく病気を癒されたでしょうから、死人の復活という奇跡を弟子たちが体験する機会がなくなってしまったからです。

イエスさまが死の問題にさえも勝利されることを、それを信じる機会を奪われてしまったかもしれない。だから、ラザロが死んだことを「あなたがたにとってよかった」と言われている。確かに、ラザロが死んだことによって、私をはじめ、多くの人々に慰めと希望を与えたこの言葉も語られたわけです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか』」

そして、ラザロは復活した。その光景を、出来事を目撃した多くの人々が、イエスさまの栄光を、イエスさま上に確かに神さまの力が働いていることを、死人を復活させる力がおありだと言うことを、死の問題を克服することがおできになるということを、信じた。信じることができた、のです。

そうです。確かに素晴らしい福音のメッセージです。しかし、なんだか納得のいかないような思いを持ってしまうのは私だけでしょうか。確かに、それは、神さまの御心だったのかもしれない。全人類を救う希望だったのかもしれない。しかし、未知なる死へと赴かざるを得なかったラザロの思いはどうなるのか。不安と恐れの中でラザロを看取り、悲しみに打ちひしがれているマルタとマリアの思いはどうなるのか。そう思う。マルタとマリアは瀕死のラザロのためにイエスさまに来て欲しいと懇願します。

しかし、イエスさまは動かれませんでした。なお、そこに二日間留まられた、とあります。ラザロの姉妹たち
は、すぐにでも駆けつけてくれるものと期待していたのかもしれません。あるいは、たとえ遠く離れていたとしてもラザロを癒すことができると信じて、期待したのかもしれません。しかし、イエスさまは来られない。ラザロは癒されない。そして、死んでしまった。

少し冷静そうに見えるマルタと感情的になっているマリアとの違いはありますが、両者共にイエスさまを迎えてこう語ります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。無念だったと思います。私たちにも、この気持ちが痛いほど分かる。誤解を恐れずに言えば、いつだってそうだ、といった思いが私たちにはあるからです。本当に助けが必要なときにはいてくださらない。本当に求めている時には答えてくださらない。なぜ、その時、そのタイミングで助けてはくださらなかったのか。

私たち自身、そういった思いを嫌という程積み重ねてきたからです。確かに、人類の救いという大事の前では、この三人のことは小事なのかもしれません。イエスさまは大事のために、人類の救いという神さまの御心を実現するために来られたからです。それは、私たちの世界でも多く見受けられることです。

ちょっと話は違うかもしれませんが、今、私は猛烈に反省していることがあります。日々刻々と変わるニュースの中で、特に欧米で何万人の感染者、何千人の死者などの報道がなされるとき、その数字にあまりにも無感覚になっていたことに気づかされたからです。例えば、私が感染したとします。ニュース等では「1」といった数字が追加されるだけでしょう。そして、そのために死亡すれば、死者欄に「1」という数字が追加される。

しかし、少なくとも私の家族にとっては、その「1」は決して数字では表せないものだからです。それを、私は見失ってしまっていた。ともかく、ことが大きくなればなるほど、小さなこと、小事が見えなくなる、顧みられなくなるということは往往にしてあることです。しかし、イエスさまは決してそうではありませんでした。35節「イエスは涙を流された」。その前後の「心に憤りを覚え」というのは、なかなか難しいところですが、ある方は「死に対しての憤り」と解説されていましたが、ともかく、イエスさまは悲しみに暮れる人々を前にして、涙を流されました。辛かっただろう。苦しかっただろう。寂しかっただろう。不安だったろう。途方にくれただろう、と涙を流された。イエスさまは決して、大事の前だからといって小事
を無視されたり、軽んじられるような方ではないのです。ずっとラザロのことを、マルタ、マリアのことを気にかけておられた。

できれば、駆けつけて癒したい、助けたい、とも思われた。苦しませたくない、悲しませたくない、と思われた。しかし、人類の救いもイエスさまの肩にかかっていた。それもまた、その涙に含まれていたのではないか。そう思う。

イエスさまは人類の救いという使命を、何よりも大切にされておられる方です。と同時に、私たち一人一人の救いも、心の動きも大切にしてくださっている。だから、私たちは、イエスさまを尊敬するのです。イエスさまほど素晴らしい方はいないと。と同時に、私たちはイエスさまを信じる。イエスさまこそ、神さまがお送りくださった救い主なのだと。死に打ち勝つ命を与えてくださる方なのだと。そう信じる。信じてよりすがる。そうではないか、と思います。

『祈り』

神さま。新型コロナウイルスの影響で、今日からしばらく教会堂で集う礼拝ができなくなりましたが、どうぞそれぞれの所でもたれる礼拝を豊かに祝してください。

むさしの教会ばかりでなく、多くの教会でも同様の対応がとられていると思いますが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。東京都では、感染爆発の危険性が高まっていると言われています。どうぞ私たちをお守りください。私たちの家族も、地域の方々も、またことは東京都だけではありませんので、
日本中の一人一人をお守りくださいますように。感染し、治療を受けておられる方々が回復へと向かわれますようにお助けください。また、一人一人が自分が感染しないことばかりでなく、感染させないという意識をもって行動することができますようにもお導きください。

欧米では非常な拡大をみせ、一部の国では医療崩壊も起こっていると報じられています。医療資源が枯渇していく中で、世界中の感染拡大からなかなか援助の手が挙げられないのが実情でしょうが、それでも、助け合いの手が広げられますように。疲弊している医療従事者の方々をどうぞお助けくださいますように。また、ご家族を亡くされた方々の痛みに触れてくださいますようにお願いいたします。

長い戦いになりそうですが、ワクチン、治療薬の開発などが速やかに行われるようにもお導きください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

 

-週報- 3月29日(日)10:30 四旬節第5主日礼拝

四旬節第5主日礼拝

前  奏

初めの歌 6(われら主をたたえまし)/  教会 175( うるわしき 救いぬし )2、4

特別の祈り

私たちの贖い主なる神さま。
私たちは弱く、み力によらなければ、世界にあなたの赦しと希望の福音を伝えることができません。みことばに従い、愛のご支配を伝えるために、聖霊によって
私たちを新しくしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1 の朗読 エゼキエル書 37:1-14( 旧約1357 頁 )

第2 の朗読 ローマの信徒への手紙 8:6-11( 新約 284 頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 11:1-45( 新約 188 頁 )

みことばのうた 250( つみのちから )/  教会 80( みさかえあれ )1、3、5

説教「 涙を流されたイエス 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 142( さかえの主イエスの )/  教会 302( ああ罪のくさりに )1、3、5

派遣の歌 344( とらえたまえ わが身を )/ 教会388( とうとき血をもて )1、4

後  奏

【音声】3月22日(日)10:30 説 教:「 信仰の道筋 」浅野 直樹 牧師

四旬節第4主日礼拝
聖 書:サムエル上 16:1-13、エフェソ 5:8-14、ヨハネ 9:1-41
讃美歌:12(1、3)、142(1、3、5)、【21】446、270(1、4)



テキスト版はこちらから

【音声】3月15日(日)10:30  説 教:「 全てのことを教えてくださる方 」浅野 直樹 牧師

四旬節第3主日礼拝
聖 書:出エジプト 17:1-7、ローマ 5:1-11、ヨハネ 4:5-42
讃美歌:教会64、教会279、教会328、教会344



テキストでご覧のかたはこちらから

【音声】3月8日(日)10:30 説 教:「永遠の命を得る」 浅野直樹 牧師

四旬節第2主日礼拝
聖 書:創世記12:1-4a、ローマ4:1-5、13-17、ヨハネ3:1-17
讃美歌: 7、254、【21】303、536



テキストでご覧になる方はこちらから

【音声】3月1日(日)10:30 説 教:「 神の子なら、自分の力で 」小山 茂牧師

四旬節第1主日聖餐礼拝
聖 書:創世記2:15-17、3:1-17、ローマ5:12-19、マタイ4:1-11
讃美歌:教会71、240、450、266



テキストでご覧になる方はこちらから

2月23日(日)10:30 説 教:「 光り輝くイエス 」浅野直樹牧師

主の変容主日礼拝 
聖 書:出エジプト 24:12-18、II ペトロ 1:16-21、マタイ 17:1-9
讃美歌:教会167、教会148、教会397、教会370

2月16日(日)10:30 説 教:「 神さまの御心とは 」浅野直樹牧師

顕現後第6主日礼拝 
聖 書:申命記30:15-20、Ⅰコリント3:1-9、マタイ5:21-37
讃美歌:2、250、【21】505、354

2月9日(日)10:30 説 教:「 世を照らす光として 」浅野直樹牧師

顕現後第5主日聖餐礼拝 
聖 書:イザヤ58:1-9a、Ⅰコリント2:1-12、マタイ5:13-20
讃美歌:教会184、教会370、教会298、教会421

2月2日(日)10:30 説 教:「 幸いなこと 」浅野直樹牧師

教会総会主日礼拝 
聖 書:ミカ6:1−8、マタイ5:1–12
讃美歌:6、324、225

1月26日(日)10:30 説 教:「 ガリラヤ中を回って 」 浅野直樹牧師

顕現後第3主日礼拝 
聖 書:イザヤ8:23-9:3、1コリント1:10-18、マタイ4:12-23
讃美歌:教会157(1,3,5)、教会288、教会350、教会307

1月19日 10:30 説教:「見よ、あの方こそ救い主」 浅野直樹牧師

顕現後第2主日礼拝 
聖書:イザヤ49:1-7、Ⅰコリント1:1-9、ヨハネ1:29-42
賛美歌:3、262、【21】358、529

2020年1月12日 10:30 説教:「天が開かれるとき」 浅野直樹牧師

聖書:イザヤ42:1-9、使徒 10:34-43、マタイ 3:13-17
讃美歌:教会181、教会60、教会317、教会320

1月5日(日)10:30 説教:「星に導かれる道」小山茂牧師

聖書:イザヤ60:1-6、エフェソ3:1-12、マタイ2:1-12
賛美歌:教会54、教会60、教会172、教会499