次週説教

【説教】2022年11月27日(日)10:30 待降節第1主日礼拝  説 教 「主の来訪に備えて 」 浅野 直樹 牧師


聖書箇所:マタイによる福音書24章36~44節

皆さんは、今一番会いたい人は誰でしょうか? 無条件で、今日一日誰にでも会えるとしたら…。

私はやっぱり長男ですね。亡くなった長男。もう15年以上も会えていませんので、今日一日誰にでも会えるとしたら、長男と会ってみたいな、って思います。そんなことをあれこれと考えていましたら、ルターにもパウロにも会ってみたくなりました。そして、あっいかんいかん、イエスさまのことを忘れているじゃないか、と気づいた。一番大切な方を忘れていた。

そうです。もし願いが叶うなら、イエスさまに会いたい。イエスさまにお会いして、息子は元気にしていますか、よろしくお願いします、って、彼の弟たちを、家族をお守りくださいね、って、世界をお救いください、ってお願いしたい。もし、イエスさまにお会いできるなら、願いは全部叶うではないか、って思いました。

今日から待降節・アドヴェントです。クリスマスまでの待ち遠しい日々です。しかし、今日の日課は、どことなく不安になってしまうような、終末・世界の終わりに関する記事でした。では、なぜこんな記事がアドヴェントの最初に取り上げられているのか。この時期になりますと度々お話ししていることですが、アドヴェント・待降節には二つの意味があるからです。一つは文字通り、イエスさまのご降誕を覚え、記念し、待ち望むとき。もう一つは、再臨のキリストを覚え、その再来を待ち望むのです。


再臨のキリスト…。イエスさまはクリスマスに生まれ、人として生き、十字架に死なれ、三日目に復活されました。そして、使徒言行録によると40日ほど弟子たちと共に過ごされましたが、「再び戻ってくる」と約束して、天に昇られたのです。その「再び戻ってくる」というのが、再臨です。

しかし、その再臨とは、終末・世の終わりとも結び付けられる出来事なのです。つまり、イエスさまの再臨の時が世の終わりの時、世界の終末が再臨の時、ということです。ですから、イエスさまの再臨を思うことは、不安を掻き立てることにもなる。なぜなら、「滅び」を連想させることにもなるからです。確かに、そうです。ここには、厳しさ・厳粛さもある。しかし、それは、イエスさまとの関わり・つながりによって変わっていくことでもあるのです。

確かに終末・世の終わりは、おっかないことに違いない。確かに、そう。しかし、イエスさまとの出会いによって、イエスさまとの過ごし方によって、それだけではない真理・光が見えてくるようになる。それを見失ってはいけないのだ、と思うのです。

パウロが書いた真正の書と言われるものの一つに、テサロニケの信徒への手紙1がありますが(ちなみに、「2」の方はパウロのものではないと考えられています)、ここに終末について非常に興味深いことが記されています。この第一テサロニケはパウロ書簡の中でも最初期のもの(紀元50年代最初)と言われ、パウロ自身イエスさまの再臨がすぐにでも起こると信じていましたので、そんな様子が色濃く出ている書簡でもあります。

ハインリヒ・フェルディナント・ホフマン (1824–1911) ゲッセマのキリスト1886年 Riverside Church, ニューヨーク



ここでパウロは、「希望を持たない人々のように嘆き悲しまないために」と前置きしながら、死者の復活を語り、そして、復活したものと生きているものとが再臨のキリストと空中で会うことになる、と語りながら、次のように話を進めていきます。ちょっと長いですが引用します。

第一テサロニケ5章1節から。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。

あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」。

お読みいただいてお分かりのように、今日の福音書の日課と随分と共通点があるように思います。終末の時は誰も知らない。「無事だ。安全だ」と日々の生活を謳歌している間に、突然盗人のようになってくる。対抗する手立てはない。だから、目を覚ましている必要がある。等々。しかし、ここで注目すべきは、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」という言葉です。

つまり、どこに軸足を置くかで、この終末・再臨の理解が全く違ってくるわけです。イエスさまから離れていれば離れているほど、終末・再臨とは恐ろしく不安なものになるし、イエスさまと深く結びついていればいるほど、恐れる必要はない、むしろ、それは救いのときなのだ、と喜びをもって受け止められる、ということです。ただし、もちろん、簡単なことではないこともパウロも知っていますので、この事実に基づいて「互いに励まし合え」と勧めている訳です。

今日の日課で、イエスさまはこのように語られていました。「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。ある方は、これは無理なことだ、といいます。24時間不眠不休で見張るなんて、現実的ではない、と言います。確かに、そうでしょう。イエスさまが本当に盗人のような方で、自分達に危害を加えるような存在ならば、心配で心配で、神経をすり減らしながら、24時間見張っていないといけないのかも知れません。

しかし、果たして、イエスさまが言いたいことは、そういうことなのだろうか。むしろ、イエスさまなら、いつきて下さっても、大歓迎です。そのための準備です。イエスさまの到来を見落とさないための準備です。つまり、突然来られたら困る、ではなくて、いつ、どんな時に来てくださっても良いように整えていくための準備です。

先程らい、終末・再臨の二つの方向性を話してきたと思います。一つは、まさしく裁きです。おっかない側面です。もう一つは、救いです。救いの完成の時です。喜ばしき時、待ち遠しい時です。しかし、おそらく、少なくとも私たちの心理状態は、そんな両極にはいないのだと思うのです。その間のどの位置なのか。恐れの方が強いのか。それとも、救い、喜びの方が強いのか。皆さんがそれぞれ心に問うたらいい。それぞれご自身の理解、感覚があると思います。しかし、そこで大事なことは、それらがどうして起こるのか、ということです。

自己理解・自己分析の結果か。もちろん、そうでしょう。自分は果たして救われるのに相応しいかどうかと、気になってしまうのかもしれない。自信が持てないでいるのかもしれない。それも事実。しかし、そうではないのです。

イエス・キリストです。イエスさまとの距離感です。その距離感が比例してくるのです。イエスさまとの距離感が遠ければ遠いほど、不安が増すでしょうし、イエスさまとの距離感が近ければ近いほど、自分に頼るのではなくて、イエスさまによって安心することができる。結局は、そこにあるのではないか。そこに、その距離感に私たちの問いがあるのではないか。

イエスさまとどんな出会い方をし、どう過ごしてきたか、それが問われる。つまり、私たちの365日24時間の日常です。その日常…、その日常でのイエスさまとの過ごし方、絆、それで分かれてしまう。不安の中を過ごすのか。それとも、平安と希望に満たされていくのか。それは、単に、この世界の終わり・終末だけを意味しないでしょう。

先週の聖霊降臨後最終主日にお話ししたように、「終わり」「終末」といえば、私たち個々人の人生の終わり、終着、「死」があるからです。その終わりの時もまた、恐ろしいのです。不安なのです。裁きを連想させるのです。しかし、そこにもイエスさまがいてくださる。裁きの、怒りの顔をして立ち塞がるのではなくて、慈しみ深い、慈愛のこもった優しい笑顔で、わたしたちを待ち受けてくださっている。

そのことを知るためにも、より強く信じるためにも、たとえ恐ろしい、おっかない現実が襲ってきたとしても、その喜びに、希望に立ち続けていくためにも、私たちは用意をしていかなければいけない。

その時がいつ来ても良いように。365日、24時間、イエスさまと交わる、イエスさまを知っていく、そんなイエスさまとの過ごし方が求められているのではないか。必要とされているのではないか。そう思うのです。だからこそ、パウロはこうも語ったのではないか。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」。

絆とは、一朝一夕でどうのこうのなるものでもないでしょう。それなりの年月と密度が必要だと思います。しかし、今からでも決して遅くないはずです。パウロが語ったように、主と共に生きる、共に生きることができる。それが許されている。だからこそ、希望を、喜びを、感謝を見失わずに済む。たとえ、終わりを迎えようとも。そんなイエスさまが私たちのところに来てくださったことを、そして、もう一度来てくださることを感謝し、期待し、待ち望むのが、このクリスマス、アドヴェントではないか。そう思うのです。

【週報:司式部分】2022年11月27日(日)10:30 待降節第1主日礼拝 



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 佐藤 大司  浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  苅谷 和子

開会の部
前  奏 今来て下さい、異邦人の救い主よ D.ブクステフーデ

初めの歌 教会4番(1節)主はわがのぞみ

1.主はわがのぞみ わが喜び
こころに燃ゆる ともしびなり。
ああ主よわれを かたくとらえ
ひくき心に やどりたまえ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主イエス・キリスト。御力を奮って来てください。
迫り来る罪の危険から憐れみをもって守り、救いの道を照らしてください。
父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。アーメン

第1の朗読 イザヤ書 2:1-5( 旧約 1063 頁 )

アドヴェント・リースのローソクに火をともします。
【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は1番を全員で歌います)

第2の朗読 ローマの信徒への手紙 13:11-14( 新約 293 頁 )
詠 歌
福音書の朗読 マタイによる福音書 24:36-44( 新約 48 頁 )

みことばの歌 教会7番(1節)道をそなえよ

1.道をそなえよ シオンのまちよ、
山も谷間も たいらとなれ。
栄えのきみの 来ますは近し、
来ますみ子に みさかえあれ。

説 教 「 主の来訪に備えて 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会346番(1節)はかりも知られぬ

1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会404番(1節)わが手をかたく

わが手をかたく 捕(とら)えて
導きたまえ わが主よ、
ひと足ごとに ふみしめ
歩ませたまえ み国へ。  アーメン

後  奏 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ C.ピュッティ

【説教・音声版】2022年11月20日(日)10:30 子ども祝福式礼拝(聖霊降臨後最終主日) 説 教 「楽園へ連れて行ってくださる方 」 浅野 直樹 牧師



聖書箇所:ルカによる福音書23章33~43節

早いもので、今年も残すところ後わずか、教会の暦としては最後の主日礼拝となりました。と言っても、どうも日本人の私たちにとっては、1月1日が「年の初め」と骨の髄まで染み込んでいますので、まだひと月以上も残っているではないかと、ピンと来ないのも正直なところですが…。

ま、しかし、この一年も色々なことがありました。相変わらず、新型コロナに翻弄された一年ともなってしまいました。しかし、やはり大きいのは、お分かりのように、ロシア軍によるウクライナ侵攻でしょう。2月にはじまったあの戦争が、予想外と言っても良いと思いますが、いまだに続いている。いいえ、終わりが全く見えて来ません。これは、今年一番の大ニュースでは済まないでしょう。戦後一番の大ニュースと言っても言い過ぎではないのかもしれない。なぜなら、戦後築かれた世界の常識が、あまりに呆気なく壊されてしまったからです。

今までも、代理戦争と言われるような武力衝突は何度もありました。しかし、国連安保理常任理事国の一角を担う大国が、堂々と直に隣国を武力をもって攻め込むなんて、一体誰が考えていたでしょうか。この21世紀になって、そんな割りの合わない戦争など起こさないと誰もが思っていたはずです。しかも、世界1、2位を争う核兵器大国が核兵器を持たない国を、核使用で脅すなんて…。これらをきっかけに、これまでも度々指摘はされて来ましたが、安保理が役に立たない、機能不全であるということが明らかになってしまった。国連は、この事態に何も対処できなかった。これほど大きな現状変更は、戦後なかったと思います。

先週は中央沿線地区の講壇交換として、八王子教会の坂本先生に来ていただきましたが、終末について、世界の終わりについて話されたと思います。これは、教会の暦の終わりに近づくと、毎年のことではありますが、しかし、先ほど言ったような状況からも、戦争や暴動、異常気象からくる天変地異、442年ぶりの皆既月食、天王星食に見られる天の著しい印など、今まで以上に現実感をもってお聞きになられたのではないでしょうか。それに対して(世界の終わりに対して)、今日の日課は、個・個々人の終わりについて、と言えるのかもしれません。

なぜなら、葬儀の式文にこうあるからです。これは、出棺の時に読まれるものですが、「十字架にかけられたひとりは言った。『イエスよ、あなたの御国においでになるときは、わたしを思いだしてください』。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」。

もちろん、この世界の終わり、「終末」についても無関心であってはならないでしょうが、しかし、それ以上に私たちは、自分の終わり、つまり「死」について関心を持たざるを得ないのだと思います。そんな私たちの終わり、「死」に何が待っているのだろうか。

磔刑:アンドレア・マンテーニャ (1431–1506) イタリア、ルーヴル美術館



「あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」とイエスさまは約束してくださっています。
ところで、今日の日課には…、イエスさまの十字架のシーンになる訳ですが、非常に興味深いことが記されていたと思います。それは、ここに3種類の人々、議員、兵士、犯罪人の一人が登場して来ますが、どれも、同じようなことをイエスさまに語りかけているからです。「自分を救ってみろ」と。実はここに、彼らの大きな躓きがあったように思うのです。

最初に言いましたように、今日は聖霊降臨後最終主日です。しかし、教会手帳を見てみますと、「永遠の王キリスト」とも記されています。ご存知のように、メシア・キリストという言葉は、元々は「油を注がれた者」という意味です。これは、預言者や祭司にも当てはまるものですが、その多くが王(様)を表しています。つまり、イエスさまを「王」とする理解です。今日の旧約の日課にもそのことが記されています。これは、メシア預言と言われるものの一つです。エレミヤ書23章5節「見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え この国に正義と恵みの業を行う」。

本来メシアとは、王を連想させるものです。人々は、そのようなメシアを期待していました。そして、メシアとしての王とは、こんな人々の手に引き渡されて、惨めに罪人(ざいにん)として十字架刑に処せられるようなものではないはずです。だから、「降りて来い」「自分を救ってみろ」なのです。そうでなければ、王とは言えない。逆に言えば、イエスさまは十字架から降りられたらよかった。十字架から降りて、自分を救われて、ご自分が王であることを明らかにされたら良かった。そうすれば、少なくとも「自分を救ってみろ」と言っていた人々は恥入り、イエスさまの元にぬかずいたことでしょう。

しかし、イエスさまはそうされなかった。ある方はこう言っています。イエスさまは十字架から降りることも、ご自分を救うこともできたのに、そうされなかった、と。そうだと思います。あえて、人々の期待に応えられなかった。当時の人々のメシアの常識に挑まれていった。むしろ、十字架の王こそが、メシアなのだ、と。

どこぞの権力者・支配者の常識破りには辟易しますが、こんな常識破りなら、大歓迎です。どこの王が、支配者が、権力者が、自ら十字架に向かったでしょうか。自らを犠牲にして、人々を救おうとしたでしょうか。いつでも、どの時代でも、王とは、支配者とは、権力者とは、誰よりも、どんな手を使ってでも自分の命を助けるものです。何よりも、自分自身を救おうとするものです。自分は安全な場所にいながら、戦争を煽り立てて、人々を戦地へと送り込むようなものです。

以前、30万人の動員が行われた時、ある側近の息子に当局を装って、あなたにも招集がかかったと、いわゆるドッキリを仕掛けた報道がなされていましたが、自分が誰の息子か分かっているのか、と恫喝している様子が波紋を呼んでいました。そうです。力ある者たちは、上に立つ者たちは、権力者たちは、いつもそうなのです。口ではいいことを言っていても、自分の命が、自分の救いが、自分のことが最優先。それ以外のことは、二の次三の次でしかない。それが、王の姿。常識的な姿。しかし、イエスさまは違った。イエスさまは決して、自分を救われなかったのです。救えたのに、助かることができたのに、そうされなかったのです。

イエスさまは確かに王です。旧約聖書に預言されていたメシア、永遠の王キリストです。使徒書の日課、コロサイの信徒への手紙にも、こう書かれていました。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。

そうです。イエスさまは単に王にとどまらない。「神の姿」でもあられる。なのに、なのに、この世界は全て御子、イエスさまのものなのに、イエスさまが好きにしていいものなのに、イエスさまはご自分を救おうともせず、自ら十字架の道を歩み、私たち普通の人間でも行きたくないような場所、避けてしまいたいような不浄な場所にも赴かれ、人々の罪を背負い、痛みを担い、病を知り、命を捨てられた。なぜか。人を救うためです。私たちを救うためです。人を、私たちを、この世界を救うためには、その方法しかなかったからです。

一般常識の王では人は救えない。常識を打ち破ってくださったイエスさまだからこそ、救われるのです。だから、こうも記されている。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との約束を頂いたのは、一緒に十字架につけられた罪人(ざいにん)の一人でした。そうです。彼はイエスさまとは違い、まさに十字架につけられるような罪人だったのです。それは、彼自身が認めているところです。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。この罪人が「今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と言っていただけた。もし、イエスさまがさっさと自分を救って十字架から降りてしまわれたら、彼にはこんなチャンスはなかったでしょう。しかし、イエスさまは十字架を降りられなかった。一緒に、罪人の彼と一緒に、十字架についてくださった。だからこそ、一緒に楽園にいる、との約束をいただくことができたのです。そして、彼は自分の最後を迎えることができたのです。

誰でも、自分の最後を考えることは、恐ろしいことです。不安にもなります。しかし、いいえ、だからこそ、私たちはなおも十字架の王、十字架のイエスさまを見上げる必要があるのではないでしょうか。私たちのために、救いを成し遂げてくださった真の王を見上げる必要が。そして、こう語ったらいい。自信がなくても、後ろ暗いことがあったとしても、罪悪感を持っていたとしても、こう語ったらいい。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と。そうすれば、私たちの永遠の王はきっとこう答えてくださるでしょう。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。

【週報:司式部分】2022年11月20日(日)10:30 子ども祝福式礼拝(聖霊降臨後最終主日)


司 式  浅野 直樹
聖書朗読 佐藤 泰子 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子

開会の部
前  奏 “主、われを愛す”による前奏曲  高浪晋一

初めの歌 讃美歌 461(主われを愛す)
1節
(本日はこの部分でこども祝福式を行います。)
主われを愛す、主は強ければ、
われ弱くとも 恐れはあらじ、
わが主イエス、わが主イエス、

4節
わが君イエスよ、われをきよめて、
よきはたらきを なさしめたまえ。
わが主イエス、わが主イエス、
わが主イエス われをあいす。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
まことの命である神様。
あなたはあなたに仕える自由と、尽きぬ喜びを私たちに与えてくださいます。
あなたを崇め、たたえ、大いなる栄光に感謝します。
たえずいつも私たちと共にいて、守り治め、この世を御心にかなう素晴らしい住まいとしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 エレミヤ書 23:1-6( 旧約 1218 頁 )
第2の朗読 コロサイの信徒への手紙 1:11-20( 新約 368 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 23:33-43( 新約 158 頁 )

みことばの歌 教会239番(3節) ひととなりたる

3.み神のたみを みちびく旗(はた)、
お暗(ぐら)きやみを てらすひかり
潮路(しおじ)をしめす 海図(かいず)のごと
主イェスの元(もと)へ みちびきゆく。  アーメン

説 教 「楽園へ連れて行ってくださる方 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会139番(1節)よろこびむかえよ

1.よろこび迎えよ 神の子イェスを、
われらをみ国の 民とならしめ
みむねに従い 進みゆく身に 恵みをたまえ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会414番(4節) やさしきみちしるべの

4.み恵みたしかなれば、今なお
わが主は導きたもう 旅路を、
み国の朝 あけ初(そ)め み顔を 仰(あお)ぐ日まで。
アーメン

後  奏 ヴォランタリー H. ヘロン

【 説 教・音声版 】2022年11月13日(日)10:30 聖霊降臨後第23主日礼拝 説 教 「 始めの時にも終わりの日にも 」 坂本 千歳 牧師


※説教音声版には最初の1:44秒〜4:16秒にノイズが入っています。ご容赦ください。

ルカ21:5~19

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがたにあるように。
むさしの教会を訪れたのは、実に20年ぶりでしょうか。神学校3年生の前期に教会実習でお世話になり、また2002年に按手を受ける直前にご挨拶に伺って以来ではないかと記憶しています。今年の春から八王子教会に着任し、同じ中央線沿線地区ということで、講壇交換という機会が与えられて、こうして今日、皆様と共に、この場所で、みことばを分かち合うことができるとは、神様のおはからいに感謝です。

さて、秋も深まり、いよいよ教会の暦も残すところあとわずかとなりました。早いものですね、一年があっという間に過ぎて行く気がします。再来週から新しい一年がはじまり、アドベント(待降節)ですものね。
教会暦の終わりを間近に控えた時期というのは、私たちがこの一年を振り返り、自分が何を大切にしてきたか、何に寄り頼んできたかを、特に神様の前で、神様と一緒に考えてみるためにあるのでしょうね。

この一年、様々なところを通されてきた私たちです。一人一人、天によって与えられた旅路をたどる中で、どんな時にも最も信頼すべきお方に、神様に信頼してきたか…。いやいや、ほとんどの場面で神様をおしのけてしまって、自分の力ばかりで物事を何とかしようと無理してこなかったか…(そのために、事態がかえっていびつなかたちになってしまわなかったか)などなど、自身の歩みを省みる時間をとってみる、それがとても大切なことかな、と感じます。

今日の福音書の日課で、イエス様は、終わりの時を、終末を迎える準備・心構えを教えてくださっています。
今日の日課は、ちょうどユダヤ教の三大祭の一つ「過越祭」の直前のことです(22:1)。過越祭はユダヤの人々にとって最も大切な祭りでしたから、この時期、エルサレムには地方から神殿にお参りに来る人たちでごった返していました普段は人口5万人ほどの町が、祭りのときには5、6倍に膨れ上がったようです。

今日の舞台、エルサレム神殿というのは、ヘロデ大王が紀元前20年に着工して、その死後30年を経てもなお建築が続けられていたという大建築物でした。シオンの山の上の平らな部分に建てられており、200本近い白い大理石の柱、石柱に、黄金の屋根が輝いていて遠く離れた場所からも見ることができるほど非常に壮麗な、立派な建物でした。

ガリラヤの地方出身のイエス様の弟子たちは、豪華な建物とすばらしい奉納物の数々にすっかり目を奪われてしまったでしょうし、近くにいた人たちも口々にそれらについて話しています。

そこで、イエス様は「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」といわれた。目の前にある、この壮麗な、見事な神殿が、なんと「瓦礫の山になる」というのです(事実、この後40年後に、ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊されてしまうことになるのですが)。どんな見事な建造物であっても、所詮、それは人の手によるものです。人の手が作ったモノは、人の手でまた壊すことができてしまうのですね。

主イエスの言葉を聞いた人たちは「ええっ!こんなすばらしいものが!」とびっくりしてしまう。あるいは不安になって「先生、ではそのことはいつ起こるのですか?また、それが起こるときにはどんなしるしがあるのですか?」と尋ねます。
私たちの関心はいつもそこにあります。それは「いつ起こるの?」、「どんな前触れがあるの?何が起こるの?」。

いつ起こるのかについては、ルカ福音書ではイエス様は何もお応えになっていませんが、マタイの24章の平行箇所で「その日そのときは、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ天の父だけがご存知である」と(24:36)とイエス様は答えてます。

終末がいつ来るかについては、昔から人々は関心を持ち、ノストラダムスの予言、またキリスト教のあるグループは終末が何年の何月何日に来るといって、人の心を惑わしています。人々の心の中にある不安に付け込んでくる。誰だって不安がある。しかも、終末には、戦争や暴動、民族間の対立、国家間の紛争、地震、記が、疫病、天変地異などが起こる。「それって、まさに今のことですよ。さあ、悔い改めて全財産を教団に献金しなさい。今の生活をもうやめにしなさい。仕事も辞めて、訪問伝道して、熱心に布教活動しないと、最終的に救われる人の数に入らないよ」などと脅迫めいたことを言って、信徒を縛る宗教もあります。

どんな時代にも、そういう宗教はあった。どんな時代にも人々は終末意識を持って生活していた。いつか終わりが来るのだとおびえていた。イエス様はこれらのことを含めて「私の名を名乗る者が大勢現れる」と警告されました。「時が近づいた」という噂や、「私がメシアだ」という者に惑わされないように気をつけなさいと警告されます。

そして、キリストを信じる者、イエス様の生き方に従いたいという人に対してまわりから迫害がおこる、苦しみが襲うともおっしゃっています。私たちとしては、苦難はできれば避けたいものですが、しかしイエス様は、「あなたがたにとって証をする機会になる」(13節)とおっしゃるのです。

興味深いことに、「あなたがたにとって証をする機会になる」(13節)の「証」というギリシャ語“マリュテュス”は、英語やドイツ語などの「殉教」という言葉の語源となった言葉です。証をするというのは、別の言葉で言えば、殉教者になるということでもあるともいえる。証をするとは、殉教すること。私たちがキリストを証するとき、私たちは殉教者になる。ちょっとドキっとします。

初代教会の指導者であるアンティオキアのイグナティウスという人がいます。このイグナティウスについて、古代の歴史家エウセビオスという人が『教会史』という書物の中に書き残しているのですが、そのころローマはキリスト教徒を捕らえては見世物にしてなぶり殺した。イグナティウスは、ローマの円形競技場、コロシアムで野獣に食われて殉教した。イグナティウスは最後のときに次のような言葉を残したと伝えられています。「私は神の一粒の麦である。私はキリストの豊かなパンになるために、野獣の歯に噛み砕かれるのだ」。

あるいは、第二次世界大戦のとき、ナチスに抵抗したドイツの教会闘争の指導者ボンフェッファーは、戦争が終わる一ヶ月前にゲジュタポに捕まり、絞首刑に処せられました。処刑の朝、仲間と別れるとき、彼はこう言った。「これが最後です。しかし、わたしにとっては命の始まりです」。

日本においても、多くのキリシタンたちがキリストの教えのために殉教したという歴史があります。
私たちはこれらの殉教者たちの姿をどう受け取るのでしょうか。「自分も、最後はああなりたい」、「いやとても無理だ」、「そこまでしなくても」、「いのちあってのものなのに」。

殉教、証って、私たちには遠いものですか?立派なクリスチャンにしかできないことと思っていないか?自分はまだまだだとか、いや自分はそれほどにはなれないだろうとか、あまり自分とは関係ない世界みたいとか?
しかし、殉教とは、証とは、決して立派な、英雄的な行為だけを意味するのではないということをおぼえたいのです。今日のイエス様のお言葉を借りるならば、殉教というのは、「あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」と言われたイエス様に全面的に自分を委ねることです。

さきほどのイグナティウスやボンフェッファーのような英雄的な殉教者の生涯を考えるとき、私たちはその英雄的なあり方をみて「すごい」、「立派だ」、「勇敢だ」、「私たちの模範だ」と、その人たちを褒めるのではない。むしろ、彼らが、なぜ激しい迫害にあっても、岩のようにガンと動かず、毅然と立ち、命を差し出すことができたか、そこを見なくてはなりません。

パウロもまた迫害につぐ迫害、苦難に耐え、最後にローマで殉教の死をとげるのですが、それはパウロが人間的に強かったからではありません。強い肉体と強い意志、不屈の精神力をもっていたからではなくて、むしろ、彼が自分自身の弱さをよく知っており、人間の弱さにおいて神の力が全うされるということを、身をもって味わっていたからこそでしょう。証とは、まさにそれが神の力に支えられるがゆえに、時に人間業とは思えないような英雄的な戦いと殉教をも可能にするのではないでしょうか。神の力に支えられるがゆえに。そしてその神の力は人間の弱いところに発揮される。

「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。(コリントⅡ12:9)人間が強がって自分の力にしがみついていると、せっかくの神の力が発揮されないと、パウロも様々な挫折や病いや苦しみの中で気づいていったのではないでしょうか。

ところで、先ほどの古代の歴史家エウセビオスは、同じ書物『教会史』の中で、殉教に失敗したクリスチャンについても書いています。殉教に失敗して恥をさらした一人の人物、それはクイントスという名の男で、彼は自分自身の力を過信して(もしかして勢いもあって?)、よせばいいのに自分からクリスチャンであるとローマ当局・法廷に名乗り出ます。そこまでは立派だったのですが、やがてコロシアム、競技場に引っ張り出されたとき、実際、野獣の姿ライオンやクマを目の前にし、野獣のほえたける声を聞いて恐怖に駆られてしまい、キリストの救いの告白を自ら捨ててしまいました。大勢の人々の前で、教えを捨ててしまったのです。その後、迫害を逃れたクイントスがどのように生きたかは分かりません。

もしかして、私たちは、立派に死んでいったボンフェッファーやイグナティウスよりも、土壇場になって尻込みをしてしまったクイントスに共感してしまうかもしれません。おそらく彼は生涯生き恥をさらしたでしょうね。後々まで、仲間たちから、「あいつはいざとなったら信仰を捨てたんだ。みっともないやつだ」とか、散々言われたでしょうね。気の毒にエウセビオスの著作によって21世紀まで赤っ恥をさらすことになるとは。でも、私たちの誰もが彼のような部分を持っているのでしょう。彼が自力で?勢いで?行動したのは、自分を認めてもらいたい、賞賛されたい、すごいといわれたい、人の目を意識しすぎてしまったからかもしれません。

実は、こんな裏話が残っています。クイントスのいたスミルナの教会では、ポリュカルポスという人物が立派に殉教した。みんな、彼の信仰はすごいと褒めたたえた。クイントスは、「いつか見ていろ、おれだって」と・・・。愛すべきクイントスは、用意周到に、おそらく前もって弁明の言葉を準備していたにちがいありません。ローマ法廷で人々を感動させるような言葉、死ぬ前には英雄的な言葉を言って死にたい、と。ポリュカルポスをしのぐような、そしてできればあの明言を残した、「私は神の一粒の麦である。私が死ぬことでキリストのパンはもっと豊かになる」といったイグナティウスよりも、もっとかっこいい言葉で締め括りたい!と準備をし、さっそうと名乗り出たはずなのに、結局挫折してしまうのです。

自分の力でやろうとしたときに、自分を支えにしたときに、挫折してしまう。すごい決断だったと思うし、すごい勢いだったでしょうし、すごく燃えていたでしょうし、すごい迫力があったでしょうし、すごい意志の力だったと思います・・・・、しかし、結局、土壇場で恐怖にかられ、挫折してしまった。

私たちのもっている力、能力、知性、体力、力量、才能、若さ等々、それらが、いかほどのものか。そのようなものと信仰を、神からいただく力を混同させてはいけないのでしょう。私が人より優れているから云々、人より劣っているから、不利な情況にあるから云々、そんなことはあまり関係ない。ほとんど、いえ、まったく神様の世界では関係ない。殉教、そして証しは、私たちの確信が強いからできるということではない。

ただ、イエス様の言葉をまっすぐに信じること、「そのときになったら、どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたに授ける」(15節)、また、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)というイエスさまの言葉に全面的に委ねていくときに、神様ご自身が、そのようにさせてくださる。私たちの生き方、言葉をとおして神が働き、証をさせてくださる。

自分の弱さを、限界を認め、神に全部委ねることで、逆に私たちは強く、しなやかになれる。神がくださった知恵の言葉を語ることができるし、ビクビクと人を恐れることから解放され、命すらささげることができる、神様が必要ならばどうぞ、と。他の人を活かすため、真実を後の世に残すためならどうぞと、一粒の麦としてお使いくださいと、それで新しい命が生まれるならば、と自分のこだわりや強さを手放し、信頼と愛をもって、自分自身を差し出すことができるのではないでしょうか。

教会の暦が終わりを迎えるまであと二週間(アドベントまでの2週間)、どこかで時間をとり、この一年の歩みを振り返り、自分が何を大切にしてきたか、何に寄り頼んできたかをゆっくりと振り返る時間を持ちましょう。そして、できたら誰か信仰の友とそのことを分かち合うひと時を持てたら素晴らしいと思います。

人知ではとうていはかり知ることのできない神の愛が、今週一週間もこの群れに属する
お一人お一人と共にありますように。アーメン

【週報:司式部分】2022年11月13日(日)10:30 聖霊降臨後第23主日礼拝



司 式  坂本 千歳
聖書朗読 猿田 幸雄 坂本 千歳
説 教  坂本 千歳
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 わが心の底より F.Metzler

初めの歌

1.空も地をも あまねく統(す)べ
愛と力 満(み)つる神に
ものみな 感謝のほめうた捧(ささ)げよ。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
神様。あなたは、依り頼むすべての者を守ってくださいます。あなたなしには聖も力もありえません。
あなたのご支配と導きによって、永遠のものを失うことなく、過ぎ行く今を生きることができるように、
私たちを憐れんでください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 マラキ書 3:19-20a( 旧約 1501 頁 )
第2の朗読 テサロニケの信徒への手紙II 3:6-13( 新約 382 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 21:5-19( 新約 151 頁 )

みことばの歌 教会238番(1節) いのちのかて

1.いのちのかて 主よいま  与えたまえ この身に。
聖書(みふみ)学ぶ わがたま 生けることば あこがる。 アーメン

説 教 「始めの時にも終わりの日にも 」 坂本 千歳 牧師

感謝の歌 教会337番(2節) やすかれ

2.やすかれ わがこころよ、 なみかぜ 猛(たけ)るときも、
恐(おそ)れも 悲しみをも  みむねに すべてゆだねん。
み手もて みちびきたもぅ  のぞみの 岸はちかし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会351番(4節) われをとらえたもう

4.きみの十字架(じゅうじか)にぞ われはすがりまつる
ちりにかえる身にも つきぬいのちをば
あたえたまわん。

後  奏 おおイエス.キリストよ、わが生命の光 G.Waag

【 説教・音声版 】2022年11月06日(日)10:30 全聖徒主日(召天者記念)礼拝 説 教 「 神の国はあなたがたのもの 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書6章20~31節


これは、ある高名な先生の話です。この方は非常に立派なキリスト者で、また著名な大学教師でもありました。この方の最晩年、万死の床に臥された時、非常な不安感からひどく取り乱されたそうです。これまで数多く講演会などで、キリストにある救い、死に打ち勝つ命・永遠の命等の話をされて来られたのに、です。いくら熱心な信仰者で、キリスト教信仰の理解に長けておられたとしても、他人事ではなく自分事となった時に、人はそのようになってしまうのだ。若い頃、私もよく知っている先生の話でもあったために、ひどく衝撃を受けたものです。そして、自分はそうはなるまい、と心に堅く決めたのでした。

しかし、そうではありませんでした。あれから何年も経ってからのこと、息子がみるみる衰弱し、誰の目にも明らかなほどに死の時が近づいてきた時、私は恐怖に囚われたからです。息子との死別を恐れただけではありませんでした。息子の死にゆく姿を通して、己自身の死を映し見たからです。

父をガンで早くに亡くし、「お前はガンの時の子、お前は長生きできない」と言われ続けてきたせいか、私はどこかで死を覚悟していた気になっていたと思います。どうせ早死にするのだろう、と。しかし、それは、所詮他人事でしかなかったのです。まさに自分事となった時に、そんなふうに死を達観視してなどいられなかった。恐ろしかった。おそらく、はじめて死の恐怖を実感した時だったと思います。

私たちの先達であるマルティン・ルターもまた、死を恐れた人でした。彼は救いを求めて修道院入りをしていく訳ですが、その背景にあったものは、死への恐れではなかったか、とも指摘されています。ご存知のように、ルターが生きた時代は、黒死病・ペストが度々流行した時代でもありました。諸説ありますが、一説によると人口の3分の1が死亡したのではないか、とも言われています。3~4人に1人がペストで命を落としたのです。

そんなペストによったかどうかは分かりませんが、彼は大学卒業までに複数の友人と恩師の死を経験しました。また自身も不注意から致命傷的な怪我を負い、生死の境をさまよったとも言われます。私たち以上に、死を他人事としていられない現実の中で、死の問題の克服を願っていったのでしょう。そればかりではありません。彼にとっての死とは、単に肉体の死、消滅を意味しませんでした。死とは神さまとの関係の中で捉えるものです。

つまり、簡単に言ってしまえば、死んだ後、神さまの祝福の中に入れられるのか、それとも、刑罰の苦しみを味わうのか、です。これは、確かに、中世に生きたルター特有の悩みだとも言えるのかもしれませんが、では、現代に生きる私たちには無縁なのでしょうか。私はそうは思いません。生前は特定の信仰、宗教観をもっていない人でも、死の床にあっては無視できなくなるとも言われているからです。いわゆる、天国か地獄か、です。実は、この悩みは現代でも決して小さくないのです。多くの人が、このことに不安を覚えている。自分の死後に安心できないでいる。それが、死への恐れ・不安ともなっているのではないか。

先ほどお読みした今日の福音書は、よく知られたイエス・キリストの教えです。同様の内容がマタイによる福音書にも記されていますが、こちらは「山上の説教」(こちらの方がよく知られていると思いますが)と言われるのに対しまして、このルカ福音書の方はと言われたりします。6章17節で、「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。」と記されているからです。この箇所の細かな内容については、今日はお話しすることはできませんが、ひとことで言えば「人生の逆転」と言えるのではないでしょうか。

はじめに、「幸いな者」の例がいくつか記されていますが、どれも幸いとは言えないからです。「貧しい人々」「今飢えている人々」「今泣いている人々」、「人々に憎まれ」ている人々のどこが一体幸いなのでしょうか。今、アフリカでは何十年ぶりかの大旱魃で大変苦しんでいる方々が多くおられますが、そんな彼らに「あなたたちは幸いですね」なんて言ったら、おそらくタダでは済まないでしょう。

それに対して、「不幸」だ、と言われている人々は本当に不幸なのでしょうか。「富んでいる」者、「満腹している」者、「笑っている」者は不幸なんだろうか。いいえ、私たちは、それこそが幸福なのだと思って頑張っているはずです。少しでも豊かになれるように、家族においしい物を腹一杯食べさせるために、いつも笑っていられるように、私たちは身を粉にして働いている、働いてきた。むしろ、それを「不幸だ」と言われる方が心外です。頑張る意味がなくなってしまう。確かに、そうです。ごもっともな理屈です。私自身、それについて反論するつもりはありません。

ジェームズ・ティソ(1836–1902):「イエス、湖の辺りで人々に教える」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵



私自身、そうしているのですから。しかし、では、本当にそれで人は幸せになれるのか。それもまた、考えものです。確かに、必要なものに違いないかもしれませんが、しかし、富が、満腹が、笑いが、私たちの幸いの補償に本当になるのか、といえば、どうでしょうか。少なくとも、死に対しても、死後に対しての補償にも、本当になるのだろうか。なぜなら、私たちにとっての幸いの補償とは、人生だけでは済まないからです。必ず誰もが死を迎える。その時の幸いの補償はいらないのか。生きている間のことだけで、果たして十分なのか。それも問われる。

先ほども言いましたように、ここでは「人生の大逆転」が起きている訳です。本来「不幸」と思えるような人々が「幸い」となり、本来「幸福」だと思えるような人々が「不幸」になる。では、その違い、大逆転はどうして起こるのか。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」。そうです。神の国を得るからです。もっと言えば、神さまご自身を得るからです。神さまがいてくださる。そのことが大逆転を起こすのだ、というのです。

先ほども言いましたように、死に際しては、富も、権力も、名誉も、何も補償にはなりません。裸で生まれてきた私たちは、裸で帰るしかないからです。この世のものは何一つもっていくことなどできない。「地獄の沙汰も金次第」とはいかないのです。先ほどお話しした天国か地獄か、だけが私たちの不安ではありません。ひとりぼっちになることです。すべての関係性から断ち切られることです。

それもまた、不安で恐ろしいことです。そして、ひとりぼっちで全く未知なる世界へ飛び込まなければならないことも、不安で、恐ろしくて、たまらない。そこに、神さまがいてくださる。この世だけでなく、全てを超越して私たちを支えてくださる方がいてくださる。それが、どれほど心強いことか。これほど幸いなことがあるだろうか。そう思う。

確かに、そうです。私たちには神さまがいてくださる。だから、幸いなのです。もはや不幸ではないのです。たとえ、死におよんだとしても。確かに、そう。しかし、最初にお話ししたように、ことはそう単純ではありません。たとえそのことを十二分に信じていたとしても、不安に落とされ、取り乱してしまうのも、また死の現実でもあるからです。

先ほどはルターの話を少ししましたが、ルターはこのような小さな書物を書いています。『死への準備についての説教』です。ルターは福音の再発見によって、この死の克服をしていったと思いますが、それでも死の持つ力強さを強く認識していたのでしょう。彼はそのことに触れながら、対処法を語っていくのです。そこで必要になってくるのは、御言葉、イエス・キリスト、聖徒たちだ、と言います。御言葉については、いいでしょう。そこに、全ての始まりがある。イエス・キリストについては、その救いの業への注目もさることながら、その死にも視線を向ける必要がある、と言います。

イエスさまも私たちと同様に死を経験されたからです。イエスさまは最後の最後まで神さまを信頼して、死に臨んだ。それが、私たちの手本となるということです。そして、聖徒たち。今日は全聖徒主日ですので、ここにも注目したいと思うのですが、やはり私たちは、この先達たちの生き様、そして死に様にも思いを向ける必要があると思うのです。私自身、息子との死別は大変大きな痛みでしたが、しかし、彼の死によって自分自身の死を大きく乗り越えることができた、とも思っています。彼が神さまのもとで祝福の中に安らいでいることへの確信。そして、自分もまた時いたって、彼と再会できるという希望。このことが、私たちを待ち受けている。

皆さんもそうではないでしょうか。皆さんにも見習うべき聖徒、信仰の先達たちがいる。あるいは、今を共に生きている仲間たちがいる。この方々が私たちを力づけてくださる。御言葉を学びます。信じます。イエスさまを見上げます。信じます。それでも、不安になってしまう弱き私たちがいるのも事実でしょう。しかし、そこにも聖徒の交わりがある。すでに召された聖徒、今を共に生きる聖徒。この人たちに支えられながら、死を克服していく力が与えられる。ルターもそのことを語っているのではないか、と思うのです。

最後に、ルターのこの一文をお読みして終わりたいと思います。「キリスト者はだれでも臨終に際しては、自分がひとりだけで死んでいくのではないということを疑わず、むしろサクラメントの示すところに従って、多くの目が自分に注がれていることを確信しなければならない。第一に…、神とキリストご自身の目が注がれる。次には、天使と聖徒たちとすべてのキリスト者たちが見守っている」。

アーメン

【週報:司式部分】2022年11月06日(日)10:30 全聖徒主日(召天者記念)礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 南谷 なほみ 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 神、わがためにいませば W. Hennig

初めの歌 教会187番(1節)さかえにかがやく

1.さかえに輝(かがや)く 主のまえに集(つど)いて
かしこみひれ伏す 天地(あめつち)すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神様。あなたは信じる者を、御子イエス・キリストの聖なる交わりの中へと結び合わせてくださいました。
信仰と献身を貫いて生きた聖徒たちに倣い、あなたの民に備えられた言い尽くせない喜びで満たしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 ダニエル書 7:1-3,15-18( 旧約 1392 頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 1:11-23( 新約 352 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 6:20-31( 新約 112 頁 )

みことばの歌 教会371番(1節)

1.いつくしみ深(ふか)い 友(とも)なるイェスは
うれいも罪(つみ)をも ぬぐい去られる。
悩(なや)み苦(くる)しみを かくさず述(の)べて、
重荷(おもに)のすべてを み手(て)にゆだねよ。

説 教 「神の国はあなたがたのもの 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会337番(3節)やすかれわがこころよ

3.やすかれ わがこころよ、
つき日の 移(うつ)ろいなき み国は やがて来たらん。
うれいは 永久(とわ)に消えて かがやく みかお仰(あお)ぐ
いのちの さちをぞうけん。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会480番(5節)つみのこの世に

5.とうときイェスよ わが名前を
いのちのふみに しるしたまえ。
まことの自由 咲(さ)きかおらせ
主イェスの愛に したがいゆかん。

後  奏 イエス、我のよりどころ J.S.Bach

【説教テキスト・音声】2022年10月30日(日)10:30 宗教改革記念主日礼拝 説 教 「 御言葉を受け入れる自由 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章31~36節


※特別編集 1)聖書朗読 00:02~ 2)説教 06:48~ 3)派遣の歌 29:19~

悔い改めが先か、愛を知ることが先か。まだ若かった頃(20代半ばだったと思いますが)、神学らしき事をかじったばかりの若き神学生二人、家内と私とで熱く論争を戦わせていたテーマです。

キリスト者一代目である私は、自身の経験・体験から、また書物などを通して、まずは罪の自覚が生まれ、悔い改めへと導かれていき、福音に触れることによって神さまの愛を知っていく道筋がキリスト者としての基本的な筋道ではないか、と主張していました。対して、私よりも優秀な神学生であった家内は二代目ということもあり、生まれながらに教会に行っていて、神さまの愛も知らされて来ました。

だからなのか、そんな神さまの愛を、犠牲的な愛を自分事として知ったからこそ、罪の自覚が生まれるのだ(これも家内の体験でもあったのでしょう)と主張していた。

私からすると、全く逆方向と思えたのです。当時、結婚の約束をしていた私たちは、時折車を借りては愛知県の実家にいくことがあったのですが、道中私が眠気に襲われると、家内は決まってこの話題をふりました。すると、私が急に勢いづいて持論を展開するもんですから、眠気が吹っ飛ぶわけです。
よくも心えたものです。ともかく、今となってはどうでも良い議論だったと思います。どちらが先でも構わない。神さまの御業は多様である。いちいち目くじらを立てる必要もない。

そう思う。しかし、そんなことで眠気が吹っ飛んでしまうくらいに熱くなれたことにも意味があったのだと思っています。互いに、譲れないほどの大切な、ある意味自分にとって決定的な出来事・体験があった、ということです。

今日は宗教改革主日です。ですので、先ほどはそのために特別に定められた日課を読みました(ヨハネ8章31節以下です)。しかし、通常の日課、聖霊降臨後第21主日の日課も捨て難いと思いましたので、手短に触れたいとも思っています。皆さんもよくご存知の「徴税人ザアカイ」の物語(ルカ19章1節以下)です。イエスさまがエリサレムに向かわれる途中でエリコの町に寄られたとき、おそらくその町の住人であったザアカイが一目イエスさまを見たいと思うわけですが、背が低いがために、人混みの中では見ることができないでいました。

そこで、先回りして、いちじく桑の木の上に登って一目見ようとした。どんな興味関心でそうしたかは分かりませんが、ザアカイが期待したのは、それだけです。一目どんな人かと見ることだけ。それだけだった。なのに、木の上のザアカイをイエスさまは見つけられて、声をかけられた。しかも、今日はあなたのところに泊まることにしている、なんて言われてしまった。ザアカイはどう思っただろうか。私たちには、その詳細は分かりません。

しかし、ザアカイの中で何かが起こったことは事実です。彼はこう語っているからです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。ザアカイが貪欲な人物だったのか、金に汚い人だったのかは分かりません。しかし、彼は「徴税人の頭」でした。金を儲けることに一所懸命な人生であったことは間違いないでしょう。その彼が、変わった。金を、財産をいくらか手放しても良いと思えるほどに変えられた。そんなことが、このザアカイの身に起こったのは確か。それを、イエスさまはこう言われたのです。

「今日、救いがこの家を訪れた」と。このザアカイの変化は、私たちの考えるような「救いの出来事」とは違っているように思えるのかもしれません。彼は私たちの言うところの罪の自覚や悔い改め、福音の受容などをしているようには思えないかもしれない。しかし、イエスさまは、そんなザアカイに対して「救いが来た」と言われたのです。それが、彼の変化として示された。私たちは、そのことも覚えて良いのだと思います。

言わずと知れた宗教改革の立役者は、私たちルーテル教会の先達であるマルティン・ルターです。しかし、これもよく指摘されていますように、彼は宗教改革を起こそうとして何かを行ってきたのではありませんでした。むしろ、自分自身の救いへの関心が、結果的に多くの人々を巻き込み、歴史を大きく動かすことになっていったのです。

彼の父の名は、ハンス・ルダー。この父ハンスも世襲制が慣習であった当時としては、非常に珍しい一代で財を成した努力家、今で言えばスタートアッパー・起業家でした。そんな父ハンスのことを、徳善先生は著書で「上昇志向の生き方」の人と言っておられます。そんな父ハンスの長男として生まれ期待されていたルターにも、その影響は色濃くありました。ルターもまた努力の人でした。あの有名な落雷事件で修道院入りを果たしたルターについても、徳善先生はこのように書いておられます。「『修道院に入ったとき、私は「いかにして恵みの神を獲得するのか」という問いを抱いていた』と晩年のルター回顧している。なにものかを獲得したいと強い意志を抱き、自らの能力の限りを尽くし、なんとかしてこれを得ようと努力すること。

これは父ハンスの人生の大命題であり、生きる上での信条でもあった。父の望んだ人生の階段を上ることを止めたルターであったが、しかしやはり、別の人生の階段を上りはじめたのである」。そんな父から受け継いだ人生訓、また当時の神学の潮流も相まって、ルターは完璧な修道士になるべく努力に努力を積み重ねていったわけです。しかし、その結果はもうお分かりでしょう。努力をすればするほど、どうしようもない自分の傲慢さ、罪深さに気付かされ、救いの確信、心の平安を得ることができませんでした。後の学者が指摘していますように、ある意味、半ば精神疾患に陥っていたのかも知れません。

しかし、彼は、聖書から福音に、恵みに触れることになった。自分の力、努力で救いを勝ち取るのではなくて、神さまの一方的な恵みとして、イエス・キリストのゆえに、救いは私たちの前に差し出されているのだ、と気付かされた。それが、彼自身の救いの体験となり、また、それが宗教改革の原動力にもなっていったわけです。それは、その喜びを自分自身にだけにとどめておけなかったからでもあるでしょう。

今から500年以上も前のことです。「宗教改革」「宗教改革」と言われても、今日の私たちにとってはなかなか馴染まないのも正直なところだと思います。私自身、宗教改革期のルターの著作を改めて読みましたが、違和感を感じました。あまりに、当時の状況と現在の私たちの状況とが違うからです。違いすぎるからです。それでも、一人の人が、一人の悩める修道士が救われたという事実は重いと思います。闇の中に閉ざされてしまっていた一人の人に、救いという光が差し込んできた事実は重いと思います。その重い事実が、隔世の感を禁じ得ない現代に生きる私たちの心も熱くする。

そして、それが、たった一人の出来事で終わらなかったという事実も、大変重いのだ、と思うのです。もし、ルターが単に自身の研鑽から生じた神学の、学問の問題として、新たな神学を提唱したに過ぎなかったとしたら、もし、ルターが当時の教会の腐敗撲滅運動を展開しただけだとしたら、これほど民衆を動かす、世界を、歴史を動かす運動になっただろうか。一人の人の救いの出来事だったからこそ、一人の人の闇の中に光が差し込んできた出来事だったからこそ、同じように救いを求める、光を求める多くの人々に共感を、信頼を、希望を生んだのではなかったか。そう思う。それもまた、重い事実ではないだろうか。

2000年前であろうと、500年前であろうと、現代であろうと、世界が全く異なろうとも、人は救われるのです。罪理解が先か、愛が先か、救われるための道筋は正しいのか、そんなことはどうでもいい。いいえ、どうでもよい訳ではないかも知れませんが(それを正したのが宗教改革ですから)、

それよりももっと大切なことがあるはずです。それは、何かが起こる、ということです。その人の内に、何かを起こす力が、イエスさまにはある。イエスさまを語る聖書にはある。時代も文化も超えて、確かにある。その事実を、まず重く受け止めたいと思うのです。

その事実に気づかせ、問い直させてくれるのが、宗教改革を覚えて記念していく一つの意味ではないか、と思います。

【週報:司式部分】2022年10月30日(日)10:30 宗教改革記念主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 斎田 俊路 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  苅谷 和子

開会の部
前  奏 われわれを支えて下さい、主よ、みことばのもとに G.ベーム

初めの歌 教会184番(1節) きよきいしよ

1.きよき石よ イェス・キリスト
なれに勝(ま)さる いしずえなし。
み民は、 ここに宮をたて、 喜ぶ。  アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
恵み深い父なる神様。聖なる公同の教会のために祈ります。
教会をあらゆる真理と平和で満たしてください。
御子イエス・キリストのゆえに、堕落したときはきよめ、誤ったときは道を示して改革し、
正しいときに強め、欠けているときには備えてください。分裂したとき、再び一つにしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 エレミヤ書 31:31-34( 旧約 1237 頁 )
第2の朗読 ローマの信徒への手紙 3:19-28( 新約 277 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 8:31-36( 新約 182 頁 )

みことばの歌 教会119番(1節) かみのれいよ

1.神の霊よ 今くだり わが心 動かして
よわき身を つよくなし 愛に歩(あゆ)ませたまえ。アーメン

説 教 「 御言葉を受け入れる自由 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会240番(1.2.3節)  みことばによりて

1.み言葉によりて 主よわれを支(ささ)え
仇(あだ)をなす者を 打ちくだきたまえ。

2.主の主にまします 力なるイェスよ
主をほむる民(たみ)を とわに守りませ。

3.み霊(たま)なる神よ 民を一(ひと)つにし
死より命(いのち)へと 導きたまえや。 アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会450番(1節)  ちからなるかみは

1.ちからなる神は わが強きやぐら
悩(なや)み苦しみを 防(ふせ)ぎまもりたもぅ。
悪(あ)しき敵の 手だて尽(つ)くし 攻(せ)めきたるも
なにか恐(おそ)れん 神ともにませば。

後  奏 われわれの神こそ 堅い砦 K.スティラー

【説教・音声版】2022年10月23日(日)10:30 聖霊降臨後第20主日礼拝 説 教 「 うぬぼれてはいけない 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書18章9~14節



今日の日課のこのフレーズ、前にも聞いたことがあるな、とお思いになったかもしれません。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。そうです。ちょっと前になります。8月28日の日課に定められていました14章7節以下のところに、そのまま出てくる言葉です。14章11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。その時には、「謙遜のススメ」と題しまして話させていただきましたが、これらはどちらもルカ特有の記事でもありますので、ルカ自身が非常に関心を持っていたテーマだったのかもしれません。

ところで、今朝のこの言葉に、私自身はドキッとさせられました。9節「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても」…。私は、1学年1クラスしかない、非常に田舎の小さな学校に通っていました。その頃は、まだ今のように特殊学級といった制度も整っていませんでしたので、知的障害のある子とも一緒の教室で暮らしていきました。非常に重い症状で、ちょっとした会話も成立しない子です。時々、奇声を発したり、おかしな行動をすることもあった。ですので、男子を中心に、からかったり、馬鹿にしたり、侮辱したり、つまり虐める子たちがいたのです。私は、その様子を見ながら、腹立たしく思っていました。自分の小さな正義感から。そして、そういった虐めている子どもたち、クラスメイトたちを見下していたように思います。自分は何もその子を助けようともしなかったのに。この言葉を読んだ時、そんな時代のことが、ふっと蘇って来たのです。

「パリサイ人と取税人」バレント ファブリティウス(1624〜1673)



今日の箇所で言えば、この「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」というのは、イエスさまの譬え話に出てくる「ファリサイ派の人」のことでしょう。彼は、こんな祈りをしたと記されています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。うわ~、いかにも…、という鼻につく祈りです。先ほども言いましたように、多少私たちにも後ろ暗いところがあったとしても、多少「うぬぼれ」があって、「他人を見下して」しまったような記憶があったとしても、こんな祈りはまずしないでしょう。確かに、そうだと思います。

そういう意味では、この人の祈りは私たちの祈りからはるかに遠い。確かに、そう。しかし、この言葉にも少し注目したいと思うのです。11節「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った」。「心の中で」祈った。実はイエスさまは、祈りについてこのように警告し、教えておられるからです。

マタイによる福音書6章5節~「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

確かに、あのファリサイ派の人の祈りの内容自体は鼻につくものに違いない訳ですが、しかし、少なくともここで注意をされているような人前で見せびらかすような、偽善的な様子は見られないと思うのです。つまり、このファリサイ派の人の祈りは単純に傲慢で鼻持ちならない祈りだ、と言って済むような話ではない、ということです。彼は無自覚なのです。むしろ、彼にとっては至って真面目な祈りなのです。

私たちにとっては鼻につくような、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」という祈りの心もそうです。彼としては、真面目に、きちんと、神さまの戒めを守って生きたいだけなのです。そのために、少なからず努力もして来たでしょう。だから、その結果として、真面目に生きてこられたことを感謝している。ああはならずに済んだ、と感謝している。これも、あなたのおかげだと感謝している。そうです。嫌味でなく単純に感謝しているのです。そして、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という祈りも、単純に自分の頑張りを認めてほしい、という願いでしょう。これも、私たちにも良く分かることではないか。彼は、律法の規定以上に頑張ったのです。単に基準に則って、可もなく不可もなく、といった生き方もできたかもしれない。しかし、それでは満足できなかった。より熱心に、神さまにお仕えすることを求めた。何もそこまでやらなくても、って周りから思われるほどに、彼は信仰に熱心なだけなのです。しかし、それが、イエスさまの目には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」として映ってしまっているのです。自分にはそんな自覚はない。ただ一生懸命なだけ。真面目に、熱心に生きようとしているだけ。しかし、そこに、そんな人の姿に、イエスさまは鋭く切り込まれている。

実は、ここで「うぬぼれ」と訳されている言葉は、本来は「自分自身を頼りにする」という意味だというのです。つまり、私たちが普通に考える傲慢さを含むような「うぬぼれ」とは違う、ということです。根拠もないのに、ただうぬぼれて、人を見下しているのではない。そうではなくて、自分は正しいのだと自信を持っているということです。つまり、自分自身の手で救いを勝ち取ることができる、そういった自信。自分の人生に根拠づけられた自信。あるいは他者との比較による自信を持っている、ということです。「自分の力で何とかできる」「自分が頼り」。それが、この譬え話に出てくるファリサイ派の問題となる。

先ほどから言っていますように、この「自分自身を頼りにする」ということは、自信を持つということとも繋がっていくことでしょう。では、人はそんな自信をどのようにして獲得していくのでしょうか。一つは、自他共に認める圧倒的な優秀さでしょう。そんな自信を獲得するために、人は努力する。もう一つは、自分の方が優っているという比較による自信です。ある方は、人はそんな自信を獲得するために、常に自分よりも一段劣った存在を探し求めている、といったようなことを語っておられましたが、まさにその通りだと思います。あの人よりはマシだ、と。そんな自信の獲得によって、人は安心しようとする。ですから、ある意味、それは無自覚に起こることも多い。必ずしも自覚的に「うぬぼれて」「他人を見下して」いる訳ではないのです。そうではなくて、自信を得ようと、己自身を頼りにしようと、そんな自信からくる平安を得ようと、かえって無自覚的に、結果論的に「うぬぼれて」「他人を見下して」しまうことになってはいないだろうか。だから、悪びれもせずに、平気で、むしろ本人はいたって真面目に、側から見れば鼻につくような祈りさえもしてしまうようになってしまうのではないか、そう思うのですそれに対して徴税人の方はどうだったか。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」。とても自信なんて持てません。他の人と比較のしようもありません。それほど、この自分が罪人だと分かっている。だから、もう周りの反応なんか気にしてなどいられないのです。彼は胸を打ちながら声に出して言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と。周りに聞かれたって、どう思われたって関係ない。それよりも、ただ神さまの憐れみによりすがるしか、もう私には何も残されていない。そんな徴税人の気持ちが伝わってくるようです。そして、イエスさまは言われた。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と。「義」とされるとは、救われる、ということです。赦される、ということです。この徴税人の方が救われたのです。

ある方は、このようにも言いました。この徴税人の祈りは、私たちプロテスタント教会にとっての模範的な祈りとなった、と。そうかもしれません。この両者の祈りを比較した時に、私たちは単純に後者、この徴税人の祈りの方が私たちの祈りに近い、と思われたのではないでしょうか。そうです。私たちは前者のように、自信満々になど祈れません。むしろ、自信なさげに、後者のように、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」としか祈れない。確かに、そう思います。しかし、私はそれなりの牧師生活の中で、度々このような声にも出会って来ました。「私は本当に罪深い者です。救いに与れるような者ではありません」と。「そうですね。確かに、私たちは罪人で、自分の力で救いを手に入れることなどできない者です。ですから、イエスさまが来てくださり、そんな私たちを救うために十字架に死んでくださって、復活してくださったのではありませんか」。「しかし、私には、そんな恵みを受ける資格などありません」。

そう言って、一向に意見を変えようとしませんでした。私はそれを、弱さの中にある強さ・頑固さ、と呼んでいます。相手は未信者ではありません。求道中の人でもない。キリスト者です。キリスト者でありながら、そういったやりとりをして来ました。いいえ、実は、私自身がそういった思いに囚われていたのです。この徴税人の祈りのような思いに。しかし、果たして、イエスさまはそのことだけを望んでおられるのか。違う訳です。

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であっ」た、というところまで含めて、この徴税人のようになって欲しい、と願われているのだと思うのです。なぜなら、「自分自身を頼り」にすることが問題だからです。自分自身を頼りにし、うぬぼれるのも、逆に、自分など相応しくないと恵みを拒否・拒絶するのも、どちらも同じだからです。結局は、どちらも、神さまを、イエスさまを頼りにしていない。単に、謙遜ぶることが求められているのではありません。最初に言いました14章でもそうでした。そうではなくて、私たちを引き上げてくださる、救い上げてくださる神さまを、己ではなくて神さまを頼りにする、その神さまの救いの御業にこそ自信をもつ、信頼を寄せる、絶対的な確信を持つことが重要だからです。たとえ自分には何も誇るものがなくても、自信を持てるものがなくとも、確信など持てなくても、ただ単純に神さまの憐れみによりすがった人が救われた、そのイエスさまの言葉を信じればいい。

そう語ってくださったイエスさまに信頼すればいい。そのことが、この私自身の身にも起こっているのだ、ということに自信を持てばいい。それで、いい。それが、私たちに求められている信仰の世界。そのことをもう一度、今朝確認していきたいと思います。

【週報:司式部分】2022年10月23日(日)10:30 聖霊降臨後第20主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 中山 康子 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  萩森 英明

開会の部
前  奏 「今こそ人みな」G.Liardon

初めの歌 教会167番(1節) いざや声あげて

1.いざや声あげて たたえまつれ、
み使いもうたう 主なる神を。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
恵みの裁き主、聖なる神様。あなたの限りない赦しは、日ごとに私たちを驚かせます。
主にある希望を増し加え、あなたの栄光を全地が見出すことができるようにしてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 エレミヤ書 14:7-10,19-22( 旧約 1203 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙二 4:6-8,16-18( 新約 394 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 18:9-14( 新約 144 頁 )

みことばの歌 教会299番(1節) 心をくだかれ

1.心をくだかれ 憐(あわ)れみを祈(いの)る、
罪あるこの身に ゆるしをたまえや。  アーメン

説 教 「 うぬぼれてはいけない 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会377番(1節)  主をもとむ

主をもとむ きよき願い
抱(いだ)きしは 主のみわざ、
主みずから われを求め 捕(とら)えましぬ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会403番(1節)  わがたまなやみて

1.わが霊(たま)なやみて くるしむときにも
主よともにまして みちびきたまえや。   アーメン

後  奏 「いざ我ら主なる神に」F.W.Zachow

【説教・音声版】2022年10月16日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝 説 教 「 絶えず祈りなさい 」 浅野 直樹 牧師



聖書箇所:創世記 32:23-33、テモテへの手紙二 3:14-4:5、ルカによる福音書 18:1-8

今日の福音書の日課と第一の朗読・旧約の日課との共通性は、「諦めない」と言うことでしょう。「諦めない」…。

今日の旧約の日課は、「ヤボクの渡し」と言われる有名なお話しです。叔父であるラバンの元を離れ、故郷に帰ろうとするヤコブですが(その辺りの詳しい事情についてお話しする時間はありませんが、大変興味深いお話しなのでぜひお読みいただければと思います)、その途中、ヤボクの渡しで「何者か」と「夜明けまで」「格闘した」というものです。このヤコブと格闘した「何者か」というのが一体どんな存在なのかは良く分かりませんが、後に「お前は神と人と闘って勝った」、あるいは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見た」とありますので、神、あるいは御使いだとも考えられています。そんな神、あるいは御使いとヤコブは一晩中戦った。なぜか。祝福が欲しかったからです。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」とある通りです。しかも、ヤコブはその戦いの最中で腿の関節を外されてしまったようです。さぞかし痛かったに違いない。しかし、祝福を求めて、彼は執拗に、諦めずに、最後の最後まで戦った。

それに対して、今日の福音書の日課に登場してくる「やもめ」はどうだったか。彼女もまた、執拗に、諦めずに、訴え続けました。不正な裁判官に対しても。現在でも、この「やもめ」の立場に立たされている人々は、大変厳しい状況に置かれていると思いますが、この時代ではなおさらそうでした。社会的身分の低い女性、しかも夫を失い一人で生きざるを得ない人、社会の底辺の人物と言えるのかもしれません。ですから当時、そんな弱者を不当にも貪るような人々がいたのでしょう。この女性は必死に裁判所に出向いては訴えるわけです。しかし、ちっとも取り合ってくれない。そういう意味では、彼女も痛みを知っていた。訴えを退けられ、突き返されるたびに、途方に暮れたのかもしれません。悲しみ、怒りさえ抱いたのかもしれない。それでも、彼女は諦めなかった。それが、結果的に功を奏した。

両者ともに諦めなかった。しかも、ただ諦めないだけでなくて、そのために痛みを負いながらも、辛い思いを繰り返しながらも、諦めなかったのです。それが、今日の日課に共通して出てくる。つまり、この「諦めない」ということを、今日は言いたいのでしょう。そうです。確かに、諦めないことの大切さは分かっているつもりです。でも、難しいの です。少なくとも、私はそう感じる。皆さんはどうかは分かりませんが、私自身は、自分の人生を振り返ってみた時、諦めの多かった人生だったな、と思うのです。もちろん、自分なりには努力もし、頑張りもし、忍耐もしてきたつもりです。足りない、と言われるかもしれませんが…。

天使とヤコブの闘い(1659) レンブラント・ファン・レイン



しかし、諦めてしまったものがある。後悔もしている。では、なぜ諦めてしまったのか。思ったような結果・成果が出なかったからです。不可能としか思えなかったからです。続けても無駄だと思ってしまったからです。だから、諦めた。諦めざるを得なかった。

今日の福音書の日課は、こんな言葉からはじまっていきます。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。先ほどは、今日のテーマは「諦めない」ことだ、と言いましたが、少なくとも福音書の日課では、特に祈りについて「諦めない」ことを教えているわけです。もっと言えば、諦めてしまうような現実がある、ということです。気を落としてしまって、絶えず祈ることのできない信仰者の現実がある、ということです。なぜか。私たちにも良く分かるでしょう。祈りの結果が見えないからです。少なくとも、私たちには感じられないからです。祈ったって現実は何も変わらないではないか。この現実を祈りだけで変えることなど不可能ではないか。そう思っても仕方がない現実があるからです。祈ることの虚しさに陥ってしまうような現実が、確かにある。

何度かお話したと思いますが、初代教会ではキリストの再臨が間近に起こると期待されていました。それは、古き世界・現世界の終わりの時であり、新しき世界の到来をも意味しました。つまり、救いの完成の時。この世に蔓延っている不正、悪、不平等、格差、人権侵害、争い、戦争は取り除かれ、全き神さまの国、愛と正義が支配する世界が到来する。しかも、もうすぐにでもやってくる、そう信じていた。期待していた。そんな期待を込めてキリスト者たちは祈ってきた。一日も早くそんな再臨が実現して、この世界が変わるようにと祈ってきました。熱心に。しかし、待てど暮らせど再臨の時は来なかった。相変わらず、暴力が世界を支配し、強き者が弱き者を虐げ、搾取し、普通に真面目に生きている庶民が浮かばれないクソのような世界が広がっていた。むしろ世界が変わらないどころか、キリスト者、教会は迫害の対象とされ、ひどい扱いを受けるようにさえなってしまった。約束が違うではないか。祈りに疲れてしまっても、無理からぬことではないでしょうか。

そして、現在の私たちも…。そんな私たちに、イエスさまはこの「やもめと裁判官」の譬え話を語られるのです。私たちが、祈りに疲れてしまうことを、気落ちしてしまうことを、諦めてしまうことを、祈れなくなってしまうことを知っておられるからこそ、イエスさまはこの話を私たちに、この私たちにしてくださったのです。

先ほどから言っていますように、この譬え話は明快です。「諦めない」ことです。たとえ、訴えが取り上げられなくても、門前払いを食らっても、ちっとも成果が見えなくても、期待すること自体が無駄のように思えても、とにかく諦めない。何度突き返されようと、その度に苦しい思いを、悲しい思いを、切ない思いをしようと、諦めない。必死だからです。そこにしかすがるところがない、希望がないからです。だから、諦めない。

あの旧約聖書のヤコブもそうでした。滞在先の叔父ラバンのところには戻れない。かといって、故郷に帰ろうにも待ち受けているのは、長子の権利を奪い取ったことに腹を立て、ヤコブを殺したいと思うほど憎んでいた、あの兄エサウです。八方塞がりです。自分だけじゃない、家族みんなの命運がかかっている。だから、彼は必死になって、食い下がって、執拗に、諦めないで、祝福を願ったのです。そうです。ヤコブもやもめも必死だったのです。そこにしか救いがなかったからです。それは、私たちにも覚えがあるでしょう。普段は祈りに対していい加減になってしまっているような私たちも、いざという時には、窮地の時には、必死に祈った経験、記憶が…。

では、やはりこの「必死さ」が祈りの鍵なのか。そうではありません。ここは、しっかりと押さえておきたいところです。なぜなら、イエスさまはこう語っておられるからで
す。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」。そうです。この譬え話のような人でなしの裁判官ならば、必死さは必要なのかもしれません。善良さではなくて、私たちの必死な執拗さで聞いてくれるかもしれない。

しかし、私たちが信じる神さまは、そんな裁判官とは違うのです。「まして神は」と言われる方なのです。神さまは昼も夜も叫び求める者たちの声を聞いてくださる。それが大前提。だから、「諦めない」ということです。聞いてくれない人に無理矢理に聞かせるために「諦めない」のではない。そうではなくて、聞いてくださっている。すでに聞いてくださっている。もちろん、それは、私たちの思うような形ではないのかもしれませんが、それでも、はっきりと聞いてくださっていると言われているのです。だからこそ、「諦め」てはいけないのです。いいえ、諦めなくても良いのです。

では、私たちは諦めずに、何を祈ったら良いのか。その一つの答えが今朝の使徒書にあると私は思っています。それは、「聖書」です。聖書を学ぶ・聖書に聴くことです。なぜなら、イエスさまはこうも語られているからです。ルカ18章8節「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」。先ほど来言っていますように、イエスさまは私たちの弱さを知っておられるのです。祈ることさえも、気落ちしないで、諦めないで祈り続けることさえもできない私たちであることを知っておられるのです。そして、「果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とも危惧されている。心配されている。だから、聖書を学ぶために、聖書に聴くために私たちは祈らなければならない。祈り続けなければならない。なぜか。「この書物(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができる」からです。聖書こそが、私たちを救いへと導く。私たちの生きるべき・歩むべき道を、あるべき姿を示していく。「聖書はすべて神の霊の導きの下(もと)に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。

私たちは失いやすいのです。忘れやすいのです。新鮮さを失い、マンネリ化し、すぐに当たり前になってしまう。夫婦でもそう。だから、努力が必要なのです。それに気付いたからこそ、それではダメだと努力することを求めるようになる。それは、私たちの信仰生活においても、同じでしょう。私たちが、この信仰生活を有意義なものにするためには、ある程度の努力が必要。問題は、その努力がどこに向かうか、です。私たちに向かうのか。私たちの信心、熱意、熱心さに向かうのか。それらを高めるために努力するのか。

そうではないのです。そんな努力は、結局は虚しさを生むだけ。そうではなくて、祈ること。聖書の言葉を、約束を、知恵を、真理を、私たちのものにしてください、と祈ること。祈り続けること。そうであれば、例え私たちが弱っても、飽きても、虚ろになっても、御言葉が私たちを立ち上がらせてくれる。その力が御言葉にはあるのです。それが、聖書。だからこそ私たちは、失敗を繰り返しながらも、気落ちしながらも、何度でも祈りに立ち戻らされていくのではないでしょうか。神さまの恵みによって。

私たちは、今日の御言葉から、「諦めない」ことを学びたいと思います。それは、生きるためです。キリスト者として生きるためには、祈ることを諦めてはいけないからです。そして、御言葉に教えられることも。そのことをもう一度、深く覚えていきたいと思います。

【週報:司式部分】2022年10月16日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 市吉 伸行 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 主イエス キリストよ、至高の善よ J. Proger

初めの歌 教会158番(1節) 主イエスのみ名こそちから

1.主イェスのみ名こそ ちからなれや、
み使いこぞりて 主とあがめよ、
み使いこぞりて 主とあがめよ。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
まどろむことなく民を見守ってくださる神様。
あなたは私たちの叫びを受け止めてくださいます。
昼も夜もあなたの顧みに依り頼み、苦しみ悩むこの世を救う、
変ることのないあなたの義を求めることができますように導いてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記32:23-33(旧約 56 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙II 3:14-4:5( 新約 394 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 18:1-8 ( 新約 143 頁 )

みことばの歌 教会300番(1節) なやみのなかより

1.悩みのなかより われは呼ばわる、
わが主よ憐(あわ)れみ かえりみたまえ。
罪あるこの身に み赦(ゆる)しあらずば
たれかは立つをえん。

説 教 「 絶えず祈りなさい 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会369番(1節と2節)主よいのることを

1.主よ祈ることを 教えたまえ、
み前にかいなき この身なれど。

2.祈りの絶えなば われはほろぶ、
主よ祈るちから あたえたまえ。 アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会374番(1節) たよりまつる

1.たよりまつる わが主よ み声聞きて 安けし。
われはただ主に たよりまつる 恵(めぐ)みあふるる わが主よ。

後  奏 われ汝に依り頼む、主よ J.S.Bach

【 説教・音声版】2022年10月09日(日)10:30  聖霊降臨後第18主日礼拝 「キリスト信仰のかたち 」 吉村 博明 宣教師

列王記下5章1~3、7~15節第二テモテ2章1~15節
ルカ17章11~19節


わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北、ガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前 8 世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10 人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はどうしたかと言うと、その場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに体を見せに行きなさい、とだけ言います。これは、レビ記 13 章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかと いう規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス
様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10 人の男たちは、イエス様が命じられたのだから、と言う通りにただちにエルサレムに向かいました。

すると出発後ほどなくして、10 人はみな病気が治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10 人のうち 9 人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記 14 章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム訪問の目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが 1 人だけ、律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方のサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に贈って下さった神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは 10 人ではなかったか。ほかの 9 人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。

本日の個所はキリスト信仰のかたちをよく表していると思います。キリスト信仰のかたちとは何かと言うと、2 つ大きなことがあります。まず、律法の規定を行って神から義とされ救われるというのではない、イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされ救われるということ。それと、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この 2 つがサマリア人の行動から見て取れます。ところで、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起きていません。なので、キリスト信仰のかたちがもう表れているというのは早急ではないかと言われるかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。

2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味

感謝するために戻ってきた一人の重い皮膚病患者と一緒のイエス William Hole, 1846-1917.



この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみましょう。一見するとこの言葉は、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。それだったら、戻ってこなかった 9 人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだ、と言うべきです。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。これに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。それで、この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみることにしましょう。
マタイ 9 章 22 節、マルコ 10 章 52 節、ルカ 18 章 42 節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ 9 章では、12 年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを救った(後注)」と言います。この言葉をかけられてから女性は健康になります。マルコ 10 章 52 節とルカ 18 章 42 節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願するところです。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。

本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意します。これはギリシャ語の現在完了です
(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語のより少し意味が狭く、「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味が主です。それで「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今日この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

これは驚くべきことです。12 年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負
っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?普通は、癒された時に救われたと考えます。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間的な目から見て境遇が良好であるということと同義ではないのです。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。

そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。

さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は 9 人には言われませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、他の事例と同様に癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。

 

3.サマリア人の行動に見るキリスト信仰のかたちと私たち

先ほども申しましたが、レビ記 14 章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その 3 節をみると、祭司が治ったと診断した場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14 章 20 節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないか、と思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。

ここでもう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。目に見える状態ではなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロは罪の報酬として死がある(ローマ 6 章 23 節)と教えています。人間が死ぬということが、人間が罪を持っていることの表れなのです。

さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを褒めます。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要の和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったからです。先ほど見たように、モーセ律法には「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためにする「清めの儀式」がありました。実はそれだけでなく、律法には人間の罪を償って神との和解が得られるために様々な儀式とそこで捧げられる生け贄の規定が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記 16 章、 23 章 27-32 節)。

しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10 章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。

ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10 章 1-4 節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので、神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。

神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、復活の日までひと眠りした後で目覚ましてもらって、神の栄光に輝く復活の体を着せられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。

こんなに大きなことを実現して下さった神はなんと素晴らしい方であることか!キリスト信仰者はこの神に心から感謝するようになり、これからは神の意志に沿うように生きようと心に決めます。神の意志は十戒に集約されています。イエス様はそれをさらに二つの掟に集約しました。神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するがごとく愛することです。キリスト信仰の中で律法の作用の仕方が大きく転換しました。かつて神の意志というのは、それをすることで神から義とされ救われるというものでした。ところが、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖いだして、一足先にさっさと神との和解をもたらして下さったのです。人間は先を越されてしまったのです。そうなったらあとは、この受け取ったものを手放さないようにしっかり携えていくしかありません。

ところが、現実に生きていると、自分にはいろいろ神の意志に反する罪があることに気づかされることが起きてきます。神の意志に沿おうと志向しているので、かえって信仰者の方が神の意志に敏感になり、自分の内にある罪が気づきやすくなります。その時キリスト信仰者は、神との結びつきは弱まってしまったか、あるいは失われてしまうかと心配します。もし神がせっかくひとり子の犠牲に免じて罪を赦してくれたのに、こんなことでは復活と永遠の命に向かう道から外されて自分は行き先を失ってしまうのではと不安に陥ります。

まさにそのような時、神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこに打ち立てられて今も微動だにせずにそのままである。お前がイエスを救い主と信じているのはわかっている。我が子イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦される。お前の信仰がお前を救ったのだ。これからは罪を犯さないように。」この時キリスト信仰者の心には信仰に入った時と洗礼の時の感謝が蘇り、これからは神の意志に沿うようにしなければと再出発します。この罪の自覚と赦しをキリスト信仰者はこの世の人生の間ずっと繰り返します。やがてそれが終わる日が来ます。復活の日です。ルターも言うように、キリスト信仰者が完全な信仰者になるのは、この世から別れて復活の栄光の体を着せられた時です。

このように、律法の規定を行って救われるということではなくて、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われるということ、それと、先に救われてしまったことで全身全霊が感謝で一杯になるということ、これらキリスト信仰を形作る 2 つのことは本日のサマリア人の行動から見て取れます。キリスト信仰の形が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後で、キリスト信仰者はどう立ち振る舞うかを本日のサマリア人の出来事を例にして前もって教えているのです。

救われたら律法に戻らない救われたら大きな感謝が生まれて、救ってくれた主のもとに戻る感謝は神の意志に沿うように生きようとする心を燃え立たせる皆さんの心がいつも神への感謝で満たされますように。

後注 θαρσει は「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと健康になりなさい、とこれから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。

【週報:司式部分】2022年10月09日(日)10:30 聖霊降臨後第18主日礼拝



 

司 式  浅野 直樹
聖書朗読 秋田 淳子 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  小山 泉

開会の部
前  奏 教会讃美歌181番による前奏曲 M.ガルビンス

初めの歌 教会181番(3節) ここにいます

3.主なる神よ くだりたまえ まずしき心に、
われをきよめ みわざのため 宮居(みやい)としたまえ。
主なる神よ なさせたまえ 汝(な)がみむねを。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神様。あなたが創られたものは、憐れみによって良いもので満たされています。
あらゆる危険から私たちを守り、心も体も健やかに、感謝をもって託された働きに励むことができるようにしてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 列王記下5:1-3,7-15(旧約 583 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙II 2:8-15( 新約 392 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 17:11-19( 新約 142 頁 )

みことばの歌 教会241番(4節)  夕べのとばりおり

4.たかぶる心(こころ)を 主ようちくだきて
み教(おし)え離れず 仕えしめたまえ。 アーメン

説 教 「 キリスト信仰のかたち 」 吉村 博明 宣教師

感謝の歌 教会 271番(1節)  主はきょうかいの

主は教会の 基(もとい)となり、
みことばをもて これをきよめ、
われらを死(し)より ときはなちて、
仕(つか)うる民(たみ)と なしたまえり。 アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会393番(4節) わが主イエスよ われをとらえ

4.わがこころは 主のものなり
ほまれを求めず み前に伏(ふ)し
主のいのちに 生かされつつ
とこしえのさかえ み手より受けん。 アーメン

後  奏 フーガ 二長調 G.ヘンデル

【 説教・音声版】2022年10月02日(日)10:30  聖霊降臨後第17主日礼拝 「すべき事をしたまでです 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書17章5~10節



 

本日の日課では1~4節までは除かれていましたが、新共同訳聖書では一つのまとまりとして捉えられており、と同時に、小見出しにもありますように、三つのそれぞれ独立したテーマ̶̶ある解説を読みますと、4つのテーマ、罪(つまり、つまずきを与える事ですね)、赦し、信仰、奉仕に分けられていました̶̶を持った箇所のように思われます。確かに、そうだと思いますが、しかし、その中でも中心になるのは、テキスト自体も真ん中に配置されていますように、「信仰」ということになるのでしょう。なぜなら、「信仰」がなければ人を赦すことも、また正しき動機のもとで奉仕することも、ままならないからです。

では「信仰」とは何か。実は、これがなかなか難しい。もちろん、私たち信仰者にとって「信仰」とは、なくてはならないもの、非常に大切なもの、であることに違いないわけですが、しかし、実はよく分かっていないようにも思うからです。個人的には、これは信仰人生を賭するような大きなテーマではないか、とも思っています。

ともかく、先ほど読んでいただいた今日の旧約の日課は、そんな「信仰」について、私たちが考える上で一つのきっかけを作ってくれるような、そんな御言葉だと思っています。これも、開くのが大変難しい、あまり読むことのない旧約聖書の後ろの方、12小預言書の一つ、ハバクク書1章です。2節から、「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに あなたは助けてくださらない。

どうして、あなたはわたしに災いを見させ労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」。私たちもまた、このハバククの嘆きを知っているのではないでしょうか。個人的にも、社会的にも…。

またロシアは、大変なことをしでかしました。国際社会では到底許されない暴挙です。これによって、ますます核戦争の危険度が高まった、との指摘もあります。私たちは祈ってきました。一日も欠くことなく祈り続けてきました。なのに、この有様です。まさに「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに あなたは聞いてくださらない」です。祈りが虚しくさえ思います。ロシアだけではありません。私たちの耳に入ってくるだけでも、世界の彼方此方に、あるいは国内さえも「律法は無力となり 正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」という現実を見せられている。神さま、あなたは本当におられるのですか、と問いたいくらいです。

このハバクク、エレミヤと同時代、紀元前7世紀の終わり頃に南ユダ王国で活躍した預言者のようです。先ほどもご一緒に見てきましたように、この時代の南ユダ王国では、不正義と混乱が蔓延っていたのでしょう。神さまを見出せないような社会が広がっていた。そんな中で、たびたびご紹介しています雨宮慧(さとし)神父が非常に興味深いことを記しておられますので、少し読ませて頂きたいと思います。「ハバククと同じように、彼の同時代人エレミヤも『神に逆らう者の道が栄えている』という現実に納得できず、神に問いかけています〔エレ12:1〕。

エレミヤを苦しめる原因は、信仰と現実との遊離(離れて存在しているの意味)にあります。このような場合、信仰を捨てて現実に流れることもできるし、逆に現実から目をそらして信心の世界に閉じこもることもできますが、エレミヤやハバククが選んだ道は、信仰と現実のどちらも否定せず、『なぜですか』と神に問いかけるという道です。……神に『いつまでですか、なぜですか』と問うことは、不信仰の現れではなく、むしろ信仰の表明です」。そうです。なぜ私たちが悩むのかといえば、信仰と現実が遊離・乖離しているように思えるからです。そこで、問わずにはいられなくなる。「神さま、なぜですか」と。どうして「祈りに答えてくださらないのですか」と。しかし、それは不信仰の印ではなくて、むしろ「信仰の表明」なのだ、と雨宮神父は語るのです。ここに、「信仰」の一つの姿がある。

種を蒔く人 :ジェームズ・ティソ(James Tissot、1836年10月15日-1902年8月8日)



続けて、日課はこう語っていきます。2章1節「わたしは歩哨の部署につき 砦の上に立って見張り 神がわたしに何を語り わたしの訴えに何と答えられるかを見よう」。そうです。問うことだけではない。問うことで終わらない。神さまの答えを待つ。これも、私たちの信仰。その結果、どうなったのか。「『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。

人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。』」。神さまには、私たちには見えてないご計画があるのだ、と言います。それは、定められた時に、必ず実現されるのだ、と。しかし、こうも語られる。「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る」。ここがいい。つまり、遅くなることがあり得る、ということです。

つまり、私たちが思う、期待するようなタイミングでは必ずしもない、ということです。これも、私たちの知るところです。私たちが願ったような答え、助け、タイミングではなかったかも知れませんが、しかし、振り返ってみたとき、あの時には見えていなかった、気付けなかった神さまの恵みが、答えが、ここかしこにあったことに気付かされてきたからです。だからこそ、私たちは今でも信仰者として生き続けている。

祈り求めることも信仰。問うことも信仰。待つことも信仰。聞くことも信仰。気付くことも信仰。私たちの信仰には、いろんな側面がある。
そんな「信仰」を今日の日課で、弟子たちは「増してください」と願う訳です。然もありなん。4節で「一日に七回」罪を赦すようにと言われたのですから、自分達の力では不可能だ、と思ったからでしょう。その気持ち、私たちにも良くわかる。しかし、そんな弟子たちに対して、イエスさまはこう答えたのでした。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と。これは、なかなか解釈が難しいところですが、要するに、ほんのわずかな信仰でさえも、奇跡の力がある、ということでしょう。そこで、私たちははたと立ち止まってしまうのかも知れない。果たして、私たちには、そんな奇跡を起こすような信仰があるのだろうか、と。

そこで、もう一度考えてみたいと思います。信仰とは、誰のものなのか、と。弟子たちは、先ほども言いましたように、自分達の信仰を増してください、と願いました。それは、自分達の信仰心・信心を強めてください、と言うことでしょう。それに対してイエスさまは、信仰はからし種一粒で良い、と言われるのです。つまり、自分の信仰心・信心ではない、と言うことでしょう。そうではなくて、与えられるものです。いいえ、すでに与えられているものです。その信仰だけで、奇跡が、つまり不可能が可能になるのです。考えてみてください。信仰のなかった頃のことを。その頃の私たちは、今のような考え方を、受け止め方を、痛みを、悩みを、願いを、希望を、持っていたでしょうか。

つまり、先ほども言いましたように、信仰者だからこそのわたしたちへとすでに変えられている、ということです。人を赦せないことに悩み、人を赦せるようにと祈り、なぜ祈っているのにと問い、また御言葉へと帰っていく。そんなことは、かつてはなかった。それが、奇跡でなくて何だろうか。頑なな私たちの心が、たとえ不十分だとしても、そのように変えられたのは、御言葉に捉えられているのは、不可能を可能にする神さまの力ではないか。そんな信仰ではないか。そう思う。そうです。自分の力ではないのです。相変わらず、私たちはそれを求めてしまいますが、そうではない。そうではなくて、自分には出来ないことを神さまはしてくださったという体験です。その体験の積み重ねが、信仰になる。

そんな信仰を頂いた者はどうなるのか。「僕」となる。ここに一つの譬え話が記されていますが、ここにある「僕」とは奴隷のことです。私たちには、もちろん馴染まない訳ですが、しかし、奴隷とはこのような者のことです。私たちは、この僕の姿を見てどう思うか。理不尽だと思うか。嫌悪するのか。そうかも知れない。主人の言いなり、そんな姿に私たちは耐えられないのかも知れない。

しかし、それは、果たして単純に、奴隷制に対する嫌悪なのだろうか。もちろん、今日奴隷制など全く認められないことですが、そんな嫌悪感の中に、私たち自身が仕える相手に恵まれなかったこともあるのではないか、と思うのです。夫、妻、親、家族、教師、上司、先輩たち。奴隷だからといって直ちに不幸だったのか。もちろん、そうです。しかし、中には、その主人に仕えることができることに喜びと誇りを感じる者たちもいた。主人が素晴らしいからです。私たちの主人は誰か。私たちは誰の僕・奴隷なのか。イエス・キリスト。私たちを愛し、愛し抜き、私たちのために、ご自身の命まで差し出し、私たちを悪の、罪の奴隷から買い取って下さった方。この方が私たちの主人(あるじ)。

ならば、この僕の「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という言葉は、どんな響きで聞こえてくるのだろうか。悲壮感・絶望感漂う響きか。それとも、感謝と誉れ、喜び伴う響きか。

私たちは信仰に生きています。これからも生きて続けていきます。だからこその悩みも多い。時に、御言葉に躓きそうになったり、潰されそうな思いになることだってある。だから、問う。問わずにはいられなくなる。果たして、私には信仰があるのだろうか、と。信仰に生きられるのだろうか、と。しかし、それが信仰です。信仰者です。その度に、自分ではなく神さまの恵みに、へと移らされていくのが、信仰なのです。そこに、赦しに、奉仕に、生きる道筋もまた生まれてくる。そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】2022年10月02日(日)10:30 聖霊降臨後第17主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 石原 真由美 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子

開会の部
前  奏  前奏曲 A.ギルマン

初めの歌 教会151番(1節)ひとの目には

1.ひとの目には 見えねども 神の知恵は かぎりなし。
力つよき そのみ名を われらすべて ほめまつらん。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
慈しみと憐れみに溢れる神様。私たちが虚しい時に満たし、信仰が弱い時に強め、愛が冷めた時に温めてください。
御子に倣って隣り人を愛し、仕える熱い心を私たちに与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 ハバクク書 1:1-4;2:1-4(旧約 1464 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙II 1:1-14( 新約 391 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 17:5-10( 新約 142 頁 )

みことばの歌 教会372番(1節) イエスのみ名は

1.イェスのみ名は たぐいあらず いともきよくとうとし。
力(ちから) まこと あいとめぐみ すべてみ名にあふるる。

説 教 「 すべき事をしたまでです 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会372番(1節) イエスのみ名は

1.イェスのみ名は たぐいあらず いともきよくとうとし。
力(ちから) まこと あいとめぐみ すべてみ名にあふるる。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会416番(1節) わがゆくみちいついかに

1.わがゆくみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん。
そなえたもぅ 主の道を ふみて行(ゆ)かん ひとすじに。

後  奏  後奏曲 G.F.ヘンデル

【 説教・音声版 】2022年9月25日(日)10:30  聖霊降臨後第16主日礼拝 「どちらを望む? 」 浅野 直樹牧師



聖書箇所:ルカによる福音書16章19~31節

本日の福音書の日課も、大変有名な「金持ちとラザロ」という譬え話になりますが、その譬え話に入る前に、これまでの流れ・経緯を少しおさらいしておきたいと思っています。なぜなら、今日の譬え話も、そんな一連の流れの中で語られたものだからです。

まず、この一連の流れは、15章1節からはじまりました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。この様子を見ていたファリサイ派や律法学者たちは、面白くなかったのでしょう。こう不平を言う訳です。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。「この人」とは、もちろんイエスさまのことです。イエスさまが、いわゆる「罪人」たちを仲間として迎え入れていたことが我慢ならなかった訳です。そこで、あの有名な三つの譬え話が語られました。「『見失った羊』のたとえ」、「『無くした銀貨』のたとえ」、そして「『放蕩息子』のたとえ」です。どれもが、罪人たちを迎え入れようとされる神さまの御心を語るものでした。

そして、先週の日課です。この箇所では、話の対象が弟子たちにまで広げられたものでした。16章1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」。そこで、光の子である弟子たちにも、この世の子らに負けず劣らずの「抜け目のない」賢さを求められ、この世の富で友を得るようにと語られたのでした。そして、こうも語られた。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

この一連の話を聞いていたファリサイ派の人々がこのように反応したと16章14節には記されています。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」と。それが、今日の譬え話が語られるきっかけとなった訳です。

先ほども言いましたように、これらの話の対象が、ファリサイ派・律法学者、弟子たち、そしてファリサイ派と移っていったように思われますが、どの話もこれらファリサイ派の人たちは聞いていたことになります。そして、こと先ほどの「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」の話に及んだ時、「何を馬鹿馬鹿しいことを…」とイエスさまをあざ笑ったのです。なぜなら、彼らは「金に執着」していたからだ、と聖書は語っていきます。ですので、今日のこの譬え話に登場してくる「金持ち」は、そんなファリサイ派の人々がモデルになっていることは間違いないでしょう。

ところで、今日のこの譬え話でイエスさまはこう言われました。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。つまり、「モーセと預言者に耳を傾け」ることで十分だ、と言うことでしょう。いわゆる、私たちの言うところの旧約聖書です。この旧約聖書に触れながら何も起きなければ、どんなことをしたって信じないだろう、ということです。たとえ、死者の復活という途方もない奇跡を体験したとしても。なぜか。私たちの信仰とは、あくまでも神さまの言葉に基づくものだからです。

よく誤解されやすいことですが、新約聖書を持っている以上、もはや旧約聖書など必要ない、といった意見が一方ではあります。あるいは、イエスさまは旧約聖書を、律法を廃棄されたのだ、と。しかし、この譬え話からも、それらの間違いは明らかでしょう。16章17節では、もっと直截的に語られています。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」と。そうです。イエスさまは、「モーセと預言者」、旧約聖書を非常に大切にされているのです。ここが、ポイントです。なのになぜ、同じように旧約聖書を大切にしているはずのファリサイ派、律法学者たちとこうも違うのか、ということです。彼らは聖書から、律法を守らない徴税人や罪人らは救われない、という。イエスさまは同じ聖書から、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と語られる。同じ聖書であるはずなのに、どうしてこんなにも違うのか、ということが、私たちも考えなければならない重要な点だと思うのです。

先ほどは、イエスさまが語られた「神と富とに仕えることはできない」との言葉にあざ笑ったのは、彼らが「金に執着」していたからだ、と言いました。しかし、どうも、この「金に執着」するという言葉の印象が、私たちのとは違うようなのです。果たして、この譬え話に出てきます「金持ち」は、私たちのいうところの「金に執着」しているような印象があるでしょうか。私たちは、この「金に執着」していると聞くと、なんだか不正の匂いを感じ取る訳ですが、この「金持ち」にはなんら不正はないのです。誰かから騙し取ったり、このラザロのような貧しき者から搾取したり、権力を傘にして私服を肥やしていたり、といったことがまるでない。
ただ、「金持ち」だった、というだけです。ですから、この「金持ち」が死後陰府で苦しんでいる理由を聞いて、私たちも困惑するのではないでしょうか。25節「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。

ラザロの魂が死後天使によって天国に運ばれ、金持ちの魂が悪魔によって地獄に連れて行かれ、拷問される様子を示す11世紀の絵画。 https://ja.wikipedia.org/wiki/金持ちとラザロ



先ほども言いましたように、「金に執着」する悪事という理由があれば、彼が陰府・死者の国で苦しむのも、ある意味理解できます。しかし、単に金持ちであったという理由で、何不自由なく快適に暮らして来たという理由で、死後苦しまなければならないなど、納得できるでしょうか。ですから、この「金持ち」に何らかの落ち度を見つけようとさえする訳です。このラザロを無視して、助けなかったことが、死後の苦しみの原因になったのではないか、と。しかし、聖書はそうは語らない。むしろ、この「金持ち」はラザロの存在を知っていた。ある方は、この「ラザロ」を自分の家の門前にいることを許していただけでも大したものではないか、と言われます。

もし、あなたの家の前に、同様の全身おできだらけの貧しい身なりをした男がいたとしたら、同じようにできたか、と。また、ある方は、ある程度の援助はしたのではないか、と言われる。「ラザロ」という名前を知っていたということは、何らかの関係性があったからではないか、と。そうかも知れません。しかし、聖書は、そういったことには関心がないのです。苦しみの理由探しをしたい訳ではない。そういったある種の天国と地獄の分かれ道といったことが、この箇所の目的ではない、ということは、押さえておく必要があるように思います。

なぜファリサイ派の人々は、イエスさまをあざ笑ったのか。イエスさまが語られた「神と富とに仕えることはできない」がナンセンスに思えたからです。なぜなら、富とは神さまがもたらされるものだ、と信じていたからです。両者は切り離せないと考えていたからです。むしろ、富とは神さまの恵み、祝福の象徴だった。だから、信仰心とも深く結び付けられていた。神さまに従う者が富み、神さまに従わない者は貧しくされるのだ、と。これも、聖書からです。確かに、聖書には、そういった事柄も書いてある。ですから、彼らの金の執着心とは、彼らなりの信仰理解とも深く結びついていた訳です。富が与えられているということは、神さまに認めていただいている証拠なのだ、と。

ですから、彼らの理解からしたら、このイエスさまの譬え話は、全くあり得ないことです。神さまに祝福されているはずの金持ちが、陰府で苦しむことになり、神さまから見捨てられているような貧しきラザロが、アブラハムの懐に抱かれるなど、あってはならないことなのです。
繰り返します。これは、同じ聖書から来ているのです。同じ聖書から、一方は、神さまに従い、一所懸命に生きてきた正しい人こそが、救われるのだ。神さまは、そんな正しい人たちを、この地上の生活においても報いておられ、そんな祝福の象徴である富める者こそが、天の宴会に連なることが許されているのだ、と信じている。一方、同じ聖書から、神さまは罪人の一人でさえも救いたいと欲しておられるのだ。そのためには、なりふり構わず、その罪人を探そうとされているのだ。たとえ、この世では不遇な・不幸な生涯を送ろうとも、それは滅びに定められているからではなくて、むしろ救いに与らせようとされておられるのだ。あなたも、その一人なのだ、とイエスさまは語られる。

同じ聖書です。なのに、どうしてこれほどまで違いが出てしまうのだろうか。しかも、同じ聖書を尊んでいるはずなのに、どうして彼らファリサイ派、律法学者たちは、イエスさまの理解を受け入れようとせずに、むしろ否定し、殺してしまおうとするのか。これは、2000年前のイエスさまとユダヤ人との間のことだけではないように思うのです。現代においても、大きな問いになるのではないでしょうか。

イエスさまは、御言葉だけで十分だ、と言われます。たとえ、途方もない奇跡を体験しようと、御言葉に取って代わるようなことはないでしょう。ここに、私たちの信仰の基本的な立ち位置がある。では、御言葉を尊ぶとはどういうことなのか。まずは、御言葉は多様な解釈が可能だ、ということを謙虚に受け止める必要があるでしょう。私たちの理解だけが絶対であり、その他は間違っている、というのは、先ほど来言っていますように、あのファリサイ派の人たちの間違いを繰り返さないとも言えないからです。

では、自分達の思うままに自由に理解すれば良いのか。それも違う。私たちは自分を信じるのではないからです。私たちは、イエスさまを信じる。イエス・キリストを信じる。ですから、イエスさまから聞くこと抜きに、私たちの信仰はあり得ないのだ、ということも覚えていきたいと思います。

【週報:司式部分】2022年9月25日(日)10:30 聖霊降臨後第16主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 酒井 瞳 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 キリスト者よ 神をほめまつれ K. Kohler

初めの歌 教会162番(1節と7節) すぎにし代々にも

1.過ぎにし代々(よよ)にも 神はたすけ
ときわのかくれが かたき望み。
7.過ぎにし代々にも 神はたすけ
やすきをあたうる 永遠(とわ)のすみか。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
憐れみ深い神様。あなたは悩めるこの世を憐れんでくださいます。
私たちを恵みで養い、あなただけが持っている宝物を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 アモス書 6:1,4-7(旧約 1436 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙I 6:6-19( 新約 389 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 16:19-31( 新約 141 頁 )

みことばの歌 教会295番(1節) ひかりにそむき
1.ひかりにそむき 閉(と)ざす門(かど)を
おとずれたもう 客人(まれびと)あり。
神のしもべの 名にそむきて などむかえざる 神のみ子を。
アーメン

説 教 「 どちらを望む? 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会399番(1節)  わがかみわが主よ

1.わが神わが主よ 恵(めぐ)みをそそぎて
われらの叫(さけ)びに とくこたえたまえ。
主を仰(あお)ぐわれに 愛をましたまえ。アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会404番(1節) わが手をかたく

1.わが手をかたく 捕(とら)えて 導きたまえ わが主よ、
ひと足ごとに ふみしめ 歩ませたまえ み国へ。  アーメン

後  奏 汝の道を示したまえ G.Gothe