次週説教

【 説教】2021年12月5日(日)10:30  待降節第2主日礼拝 説教 「神から遣わされた人 」 浅野 直樹 牧師

待降節第二主日礼拝(むさしの教会)
聖書箇所:ルカによる福音書3章1~6節

今日は待降節第二主日。アドベント・クランツ(アドベント・リースとも言いますが)の2本目のローソクにも火が灯りました。
そんな本日と来主日の2週間に渡りまして、福音書の日課は洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)が取り上げられることになります。それは、このヨハネがイエス・キリストの先駆者と受け止められているからでしょう。

 そんな洗礼者ヨハネですが、ご存知のようにこの人も不思議な生まれ方をした人でした。彼の両親はザカリアとエリサベトと言います。このエリサベトは「不妊の女」と言われていまして、二人の間には子どもはいませんでした。二人とももう高齢になっており諦めていたのかもしれません。この二人は祭司の家系の出身で、夫のザカリアは祭司としての職務についていました。どうやら当時の祭司たちはいくつかの組に別れており、当番制で神殿の職務についていたようです。あるとき、彼の組が当番となり、しかも滅多に回ってこない聖所で香をたく務めにクジで当たったのです。その奉仕にあたっていると、そこに天使が現れ、このように告げたと言います。

「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。

すでに、ここで洗礼者ヨハネが神さまから遣わされた特別な人であることが明らかにされていると思います。しかも、彼の使命も明らかです。彼の使命は、イスラエルの多くの人々を神さまのもとに立ち帰らせることです。そのために、彼は主に先立って出ていき、「準備のできた民を主のために用意する」のだ、と言われています。しかし、ザカリアはこのお告げを信じることができませんでした。このように語られています。「そこで、ザカリアは天使に言った。

『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」。結局、これが不信仰とみなされ、彼は口をきくことができなくなりました。確かに、このことは「罰」といった側面がないわけではないと思います。しかし、私には別の側面もあるように思えてならないのです。彼は口がきけなくなることによって神さまの力を体験したからです。確かに、ザカリアにとって口がきけなくなることは不幸なことです。不自由なことです。罰とみなされてもおかしくないことです。しかし、いくら口をきこうとしても出来ないそのもどかしさの中で、彼は考えたことでしょう。否応なく、考えさせられた。現実のこととは思えない、夢幻のような、非常識なあの出来事、そこで語られた言葉を、彼は何度も何度も反芻していったのだと思うからです。そして、時間の経過とともに、確実に妻であるエリサベトの肉体が少しづつ変化していくさまをも見せられていくことになったからです。

そして、ついにお告げの子ヨハネが誕生し、口がきけるようになったとき、彼は溢れるような思いをもって神さまを讃美しました。

「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。そして、こうも語っていきました。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである」と。まさに、先ほどの天使が告げた思いが、ここに溢れていると思います。この言葉がザカリアの口から溢れ出たのも、ヨハネが生まれるまでの10ヶ月間、先ほど言ったような熟考に熟考を重ねてきたからではないかと、私は思います。

その洗礼者ヨハネが成人しまして、歴史の表舞台に登場してきたのが、今朝の福音書になります。そこでルカはこう書き始めていきました。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき」。この福音書を記したと考えられていますルカなる人物は、医者ルカとも言われています。医者というのは、古今東西論理的思考を求めるものなのかもしれません。

ルカも例外ではなかったようです。この福音書の冒頭でこのように記しているからです。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」。このルカの性質もあって、先ほどの文章があるのでしょう。

つまり、この出来事が歴史上現実に起こった、ということです。皇帝ティベリウスはアウグストゥスの後継の皇帝です。これは、歴史上はっきりしていることです。ですので、その「治世の第十五年」というのは、紀元28年から29年頃であることもはっきりしています。また、その時代にポンティオ・ピラトがユダヤの総督であったことも、ヘロデ(正式にはヘロデ・アンティパスですが)がガリラヤの領主であったことも、その他のことも歴史的事実であることが分かります。つまり、ルカは念入りに調べて、これから語ろうとする事柄が単に絵空事などではなく、歴史の中で、つまり人の営みの中で現実に起こった出来事であることを伝えたいわけです。確かに、そうです。洗礼者ヨハネが、そして後にイエスさまが活動される紀元28年、29年のパレスチナの現実世界がそこに描かれている。しかし、ただそれだけでもないように思うのです。後に、またこのルカが福音書を記した頃にはローマ帝国による迫害がすでに起こっていたでしょう。

ピラトは言うまでもなくイエスさまを十字架刑にした総督です。ヘロデ・アンティパスも異母兄弟であるフィリポも、幼子イエスを殺そうとしたあのヘロデ大王の息子たちです。また、大祭司であったアンナスとカイアファとはイエスさまと敵対し、十字架刑へと追いやっていった張本人たちです。つまり、ここに登場してくるほとんどの人物たちは、イエスさまを排斥した者たちなのです。つまり、その時代とは、彼らに代表されるようなイエス・キリストを排斥するような時代であったと言っても言い過ぎではないようにも思うのです。

また、それは同時に、イエスさまが愛された人々…、貧しく、生活のために、生きるために、右も左も分からず罪を犯さずにはいられなかった人々を排斥するような時代でもあったのでしょう。私は次のような言葉が浮かんできます。ヨハネによる福音書1章10・11節、「言(イエス・キリストのことですが)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。そんな現実の世に神さまから遣わされたのが、洗礼者ヨハネでした。

彼の活動はすでに旧約聖書に預言されていた、と言われます。それは、イザヤ書40章の言葉です。この箇所をご覧いただければお分かりのように、新共同訳では「帰還の約束」との小見出しがつけられています。では、どこからの帰還なのか。あのバビロン捕囚からです。今日は詳しくお話しする時間はありませんが、ご存知のように新バビロニア帝国により南ユダ王国は滅ぼされ、多くの国民が連行されていきました。そこからの帰還の約束、希望がイザヤ書40章だ、と言うのです。その帰還を困難にさせるのが、山であり谷でした。パレスチナにはそういった地域が多いので、その困難さは手にとるように分かったと思います。ですから、その山が低くされ、谷がなくなり、全てが平坦になる、と言うことは、帰還(国に戻ること)を困難にさせるものが取り去られることを意味したのでしょう。

人生山あり谷あり、といったりします。人生には困難がつきものだ、と言うことでしょう。それに対して平坦にされると言うことは、そういった困難が取り去られて、楽な、平安な人生が与えられることを意味するのかもしれません。しかし聖書は、必ずしもそのように期待通りには語ってくれないのです。なぜならば、これは次週の日課になりますが、洗礼者ヨハネは人々に悔い改めを説いていくことになるからです。しかも、辛辣な言葉によって。

私たちはここでもう一度思い起こさなければなりません。洗礼者ヨハネの使命とは一体なんだったのか、と言うことを。彼の使命とは、神さまのもとに人々を立ち帰らせるということです。つまり、先ほどのイザヤ書の帰還と重ね合わせていえば、山や谷が変えられて平坦にさせられるのは、帰還を困難にさせるものの除去にあったわけですから、神さまのもとに人々が立ち返ることを困難にさせるものの除去という意味合いがあるのかもしれません。ならばむしろ、私たちの山や谷とは、困難や不幸などではなく、神さまを求めなくする、必要としなくする、自分たちだけで十分にやっていけるという思い、あるいは生
活全体なのかもしれないのです。

洗礼者ヨハネについては、次週より深く考えていくことになると思います。しかし、忘れてならないのは、このヨハネがイエスさまの先駆者だと考えられているということです。もちろん、このヨハネと同じ方法をイエスさまは用いられなかった訳ですが、しかし、イエスさまの目的もヨハネと同様に、人々を神さまのもとに立ち帰らせることにあったということは、忘れてはならないことだと思うのです。

【週報:司式部分】 2021年12月5日 待降節第2主日礼拝



2021年12月5日 待降節第2主日

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏  神のみ子は世に来られた J.G.ヴァルター

初めの歌 教会讃美歌 5番(来たりませ主イエスよ)5節
5.時を待つわれらを み教えの中に
守りませかたく、約束の日まで。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主よ。
私たちの心を奮い立たせ、御独り子の道を備えさせてください。
み子の来臨によって、悩み多い世の旅路を照らし、導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、今もまた、
永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 マラキ書 3:1-4( 旧約 1499 頁 )
アドヴェント・リースのローソクに火をともします。
【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は2番を全員で歌います)
2主を待ち望むアドヴェント、
第二のろうそく ともそう。
主がなされたそのように、
互いに助けよう。
主の民よ、喜ベ。
主は近い。

第2の朗読 フィリピの信徒への手紙 1:3-11( 新約 361 頁 )
詠 歌
福音書の朗読 ルカによる福音書 3:1-6( 新約 105 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌11番(ともしびともせ)1節
1.ともしびともせ 主の民らよ
夕日は沈み よるは近し
花婿やがて 来たりたもう。
目覚めて祈り 備えをなせ。 アーメン

説 教 「 神から遣わされた人 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌244番(ちからと恵みの)2,3節
2.自由のひかりの 神のことばは
さ迷う者らの 心をひらき
み神のほまれ 仰がせたもう。

3.平和と愛との 神のことばは
憎みとうらみの 思いをしずめ
あまねくひとを 家族としたもぅ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌277番(さかえにかがやくシオンの)1節
1.栄えに輝く シオンの都は
変わらぬみ言葉 豊かにあふれ、
千歳(ちとせ)のいわおを もといとなして
救いの石垣 み民を守る。

後  奏  後奏曲 変ホ長調 P.Piel

 

 

 

【 説教・音声版】2021年11月28日(日)10:30  待降節第1主日礼拝 説教 「頭を上げよ 」 浅野 直樹 牧師

2021年11月28日 待降節第一主日礼拝
聖書箇所:ルカによる福音書21章25~36節



今年も色々ありましたが、いよいよ待降節になりました。私たちはこれから4週間、クリスマスを待ち望んでいきます。しかし、正直、どのような祝い方をすれば良いのかと悩む気持ちもあります。まだまだコロナが終息してはいないからです。コロナで傷ついた方々が多くおられるからです。当たり前の生活さえもできない方々が多くおられる。

ご存知のように、ヨーロッパでは再び新型コロナの感染拡大が起きています。ドイツでも過去最多を記録する勢いです。そのような情勢下の中、急遽ミュンヘンのクリスマス市が中止になったというニュースを見ました。今年こそは、と期待していた方々の落胆ぶりに心が痛みました。悔し涙を流される女性もいました。

あるいは、アフガニスタンの現状を取材した報道番組も見ました。このままでは、この冬に百万人もの餓死者が発生するのではないか、と言われるほど悲惨な状況です。とにかく、現金がありません。市場に食品が並んでいるのに買えない。売れないからその人たちにも現金が入らない。少しでも現金を稼ごうとして、これから冬を迎えるのに暖房器具や布団などの家財道具を売りに出す人々が軒を連ねています。栄養失調の子どもたちで病院は溢れ、医薬品等も不足している。運ばれてくる子どもたちの4人に一人はその日の内に亡くなるそうです。
もちろん、それ以外にも私の知らない悲しい、辛い現実が多くあるでしょう。そんな中で、果たしてクリスマスなど祝っている場合なのか、との思いが浮かばない訳ではない。

ホーファールト・フリンク: Angels announcing Christ’s birth to the shepherds ルーヴル美術館



クリスマスとは、確かにお祭り騒ぎになるほどに「めでたい」ことなのです。そのことを否定するどころか、もっともっとその「めでたさ」を強調しても良いと思うくらいです。しかし、なぜそれほどに「めでたい」ことなのかを、私たちは決して忘れてはいけません。神の子、私たちの救い主であるイエス・キリストがお生まれになったのです。どこに。私たちの只中に、です。この世界の只中に、です。おそらく貧しかったであろうごく普通の夫婦の元に、です。

普通ならそんな場所で出産などしないだろうと思われる家畜小屋の中に、です。生まれたばかりの赤ん坊を寝かせるには全く相応しくない飼い葉桶の中に、です。それが、神の子であり、私たちの救い主であるお方がお生まれになった、まことに「めでたい」場所なのです。つまり、私たちの神さまは、そんな場所さえも決してお忘れではなかった、ということです。むしろ、そんな場所にこそ、ご自分の愛する子をお送りになりたかった、ということです。なぜか。そここそが、そこに生きる人々こそが、愛すべき場所、愛すべき人々だったからです。救いたいと望んでおられた場所、人々だったからです。

先ほどのアフガニスタンばかりではありません。私たちは、これは現代社会の恩恵の一つだとも多いますが、遠く離れた地に生きる栄養失調で肋骨が浮いてしまっている多くの子どもたちを見る機会がある。その子どもたちを胸に抱きながら途方に暮れている親たちの表情を見る機会がある。私は思う。イエスさまもひょっとしたら、そうだったのかもしれない。貧しかった母マリアも十分に母乳が出ず、イエスさまも空腹を覚えられて、米のとき汁みたいなもので育ってこられたのではないか。痩せ細っているイエスさまを案じながら、母マリアも無事に成長できるようにと祈ってきたのではないか。そんなことも想像する。

クリスマスの時によく読まれる旧約聖書の言葉があります。イザヤ書8章23節以下ですが、「先に ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた 異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。イエスさまの誕生をよく現す言葉だからでしょう。しかし、ここでもう一度確認したいのは、光…、つまりイエスさまを見たのは、「闇の中を歩む民」であり、「死の陰の地に住む者」なのだ、と言われていることです。

先ほども言いましたように、ここまで、この私たちの、世界の現実にまで降ってきてくださった方だからこそ、しかも、この方が神の子であられるからこそ、このような人たちの、つまり、私たちの、底辺の底辺に住む人たちの「光」となることができたのだと思うのです。だからこそ、「めでたい」のです。どんな現実の中にあっても、むしろ辛い現実になればなるほど、私たちはこの「めでたさ」を忘れないで祝いたいと思うのです。

そんな待降節に与えられました福音書の日課は、終末に関わる箇所からでした。なんだか、これからクリスマスを迎えようとする私たちに水を刺すような箇所ではないか、と思われたかもしれません。しかし、もしそのような印象を持たれるならば、先ほどから言っていますように、本来クリスマスのメッセージとは、どこに「光」を与えるものなのか、ということを誤解してしまっているからなのかもしれないのです。

ここ2~3週間ほどは、「終末」ということを考えてきたと思います。この「終末」、あるいは「終末の期待・希望」ということを抜きにしては、聖書…、少なくとも私たちの言うところの新約聖書はなかなか理解できないのかもしれません。なぜならば、最初期のキリスト者たちは、すぐにでも終末がやってくると期待していたからです。皆さんもよくご存知のパウロもそうです。パウロの初期書簡として考えられているのが第一テサロニケですが、この書は非常に終末論的だと指摘されています。あるいは、使徒言行録に出てきます初期教会の財産共有制共同体も、終末が近いという意識だったからこそ出来たことでしょう。しかし、彼らが期待したようには終末は起こらなかった。

ですから、次第に「忍耐」の必要性が説かれることになっていきました。今日は、そのことを詳しくお話しするつもりはありませんが、ともかく、ではなぜ彼らはそれほどに「終末」を期待していたのでしょうか。もちろん、救われたいからです。これまでもお話ししてきましたように、「終末」とは救いの完成の時でもあるからです。しかし、もう少し踏み込んで考えていきますと、それは、この現実の中では救いをなかなか実感し得なかったからではないでしょうか。今日の私たちは、救いといえば「魂の救い」「心の平安」といった内面の問題に特化しすぎてしまっているようにも感じます。しかし、聖書が語る本来の救いとは、神さまの国の到来なのです。

神さまがご支配される世界で、身も心も救われて神さまと共に生きる世界です。そんな世界に憧れる。ですから、待つ。その時を待つ。現実は何一つ変わらないように思えても、イエスさまの約束を、その言葉を信じて待つ。耐えて待つ。それが、少なくとも聖書の時代に生きた人々の姿だったようにも思うのです。

はじめの方で、アフガニスタンを取材した番組の話をしましたが、その番組である家族が取り上げられていました。夫婦とその母と幼い娘の4人暮らしです。日本円で数百円の家賃さえ払えなくなり、無料で貸し出されている洞窟の中で現在は暮らしておられます。
お金もなく、食料もなく、冬の寒さをしのぐ燃料もなく、途方に暮れておられた。そのご主人がこう言われました。神さまがきっと良い仕事を下さると信じています、と。もちろん、同じ信仰ではありません。強がっているだけと受け止められなくもない。しかし私は、途方に暮れていても絶望はしていない信仰からくる希望の力を教えられたような気がしたのです。

もちろん、支援すべきです。色々と政治的な思惑があろうとも、人道的な視点に立って急いで支援すべきです。国だけでない、私たちも民間のルートを通して支援すべきだと思う。と同時に、私はあの素朴な信仰を見習いたいとも思うのです。
「再臨」。私たちにとっては、どことなく縁遠く思える信仰理解です。しかし、この信仰に希望を見出してきた先達たちが確かにいるのです。厳しくて、厳しくて、現実世界に救いを見出せなくなってしまっても、「やがて」という希望を抱きながら生きることを諦めなかった信仰が…。

待降節とは、イエス・キリストのご降誕を待ち望む時ではありますが、と同時に、イエス・キリストの再臨をも待ち望む時でもあるのです。この私たちの只中に、まさに降ってこられたイエスさまも、これから救いの完成のために来てくださるイエスさまも、同じイエスさまです。私たちを案じ、愛し、何としてでも救い出したいと願っておられる方です。だから、待つのです。待てるのです。心待ちにすることができる。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。「マラナ・タ(主よ、来てください」。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の(救いの)時が近いからだ」。アーメン

【週報:司式部分】 2021年11月28日 待降節第1主日礼拝



待降節第1主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前 奏 今来てください、異邦人の救い主よ Helmut Walcha

初めの歌 教会讃美歌 3(よろこべ主イエスは)1節と3節

1.喜べ主イェスは 来たりたもう、
心にみ座(くら)を 備えて待たん。
3.貧しき心に 主は来たりて
恵みのたからに 富ませたもう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

主キリストよ。
力を奮って来てください。み力によって私たちを守り、罪の危険から救ってください。
あなたは父と聖霊と共にひとりの神であって、今もまた、永遠に生きて治められます。

アーメン

第1の朗読 エレミア書 33:14-16( 旧約1241頁 )

アドヴェント・リースのローソクに火をともします。
【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は1番を全員で歌います)

第2の朗読 テサロニケの信徒への手紙1 3:9-13( 新約376頁 )
詠 歌
福音書の朗読 ルカによる福音書 21:25-36( 新約152頁 )

みことばの歌 教会讃美歌 134(ほめたたえよ神の) 1節

1.ほめたたえよ 神の民、
日のひかり かがやきぬ。
救いぬしは やがて来たらん、
ながつとめ 励めよ。

説 教 「 頭を上げよ 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌 348番(たえなるめぐみの)1節

1.たえなる恵みの 主よとく来ませ
暗きになやめる こころのうちに。
上なきあわれみ 絶えせずあれば
救いのよろこび たぐいもあらじ。 アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 408番(あてもなくさまよい) 1節と4節

1.あてもなく さ迷い
行き悩む 時にも
わが歩み 守りませ、わが主よ。

4.終わりの日 来たりて
主を仰ぐ 時まで
導きを 与えませ、わが主よ。 アーメン

後 奏 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ Robert Frenzel

【 説教・音声版 】2021年11月21日(日)10:30  聖霊降臨後最終主日  説教 「イエスとピラトの対話 」 浅野 直樹Sr.牧師



11月第3週のきょうが、聖霊降臨後の最後の主日となりました。次週から教会の暦は新しくなり待降節です。きょうが終わりで次週からは新たな暦が始まります。

きょうの三つの聖書日課は、先週に引き続き終末を描いたテキストとなっています。私たちに終わりということを強く意識させるみことばです。終わりというのは区切りです。楽しいことがずっと続いていたあとに来る終わりには、終わってしまったという残念な気持ちが残ります。反対に、辛抱の時期が続いたあとに来る終わりというのは、長く続いた辛い時期がようやく終わったという安堵のため息がつけます。私たちの受け止め方はそのときそのときによって様々ですが、終わりという区切りそのものが私たちに何かを語りかけてくるのです。

終末ということを告げるきょうの三つの聖書箇所ですが、それぞれに特徴があります。最初は旧約聖書からダニエルが聞き取った預言です。王座に座るのは神様でしょう。雪のように白い衣装をまとっています。そして王座は燃える炎に包まれています。そこに「人の子」のような人物が天の雲に乗ってやって来て前に進み出て、人の子は玉座に座る王からみっつのものを授かります。三つのものとは、権威、威光、王権、それらを受けとったのです。

この三つをもって人の子が諸国、諸部族、諸言語の民を支配統治するという幻が語られたのです。14 節の「諸国、諸族、諸言語の民」というところに、旧約聖書らしさが感じられます。国籍、民族、言語の違いが強く意識されていて、民族間の争いを繰り替し、領土を奪い合っていた時代を彷彿とさせます。けれどもやがて人の子がやってきて、そうした時代は終わり、すべての国々と民族が人の子の支配のもとにおさまります。国とか民族、支配とか統治という言葉づかいから、ダニエルの預言の言葉では、争いの絶えなかった当時のイスラエル社会が見えてきます。そういう時代を生きた人たちにとって、このような預言はとても大きな励みになったことと思います。

続いて第二朗読は、ヨハネによる黙示録からです。その1 章8 節の言葉、「わたしはアルファであり、オメガである」、これはヨハネが幻のなかで聞き取った、神の声です。神様の語りかけです。神様のみ旨がここにあります。「わたしはアルファであり、オメガである」、とても象徴的であり、心に残るみことばなので覚えている方も多いことと思います。アルファとはギリシャ語のA のことでアルファベットの始まりのこと、オメガはZ ですから、同じくアルファベットの終わりの文字です。ですから「わたしはアルファであり、オメガである」とは、私は初めであり終わりであるということになります。初めも終わりも神様のことですから、すべて神様の支配のなかにあるということが語られています。

さきほども言ったように、始まりとか終わりというのは言葉にしなくても私たちに迫ってくるメッセージがあります。わくわくしたり、緊張したり、寂しくなったり、ほっとしたりするのです。そそうした刹那を私たちは日頃感じながら生活しているわけですが、始まりも終わりも、すべて神のうちにあるのです。これから起こるかも知れない様々な終わりということに心を向けると、何もわからない不安とか恐れの感情が湧いてきたりすることもあるでしょう。たとえどんな感情が私たちの心の内に広がろうとも、それらはすべて神のオメガのなかの出来事なのです。

本日の福音書に表れているのはどんな終わりかというと、イエスの生涯の終わりの場面でした。イエスが取り押さえられて、ローマ総督ピラトの前に連れてこられてピラトから尋問を受けているところです。イエスに十字架刑が宣告される直前の様子です。そこでのピラトとの会話が、福音書が示す終わりです。ピラトはイエスに尋ねます、「みんながお前がユダヤ人の王だと名乗っていると言っているが、お前はユダヤ人の王なのか」。ここにも王という言葉が出てきています。ダニエル書にも王座とか王権がありました。黙示録にも王様が出てきます。そしてピラトの言葉からも。それに対してイエスの口からは、「私は王です」という言葉は出ませんでした。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。」これがイエスの返答でした。興味深いやりとりです。イエスは「私はユダヤ人の王です」とは言わなかったのです。

ムンカーチ・ミハーイ (–1900) イエスを尋問するピラト 1881年ハンガリー国立美術館



王様という言葉から私たちがイメージするのは、最高の権力者でしょう。その国で最も力をもった人物が王という共通の認識があります。イエス・キリストを主と仰ぎ礼拝する私たちにしてみても、イエスは王様というイメージはあまりピンときません。それはイエスの十字架のことを知っているからです。けれどもイエスの時代を生きた民衆はそうではありませんでした。ただならぬ人イエスと出会い、そのお話しと数々の奇跡と癒しのわざから、ユダヤ人が抱いたイエスのイメージ、それは王様だったのです。

数週間前の日曜日の福音書に、盲人バルティマイがイエスによって目が見えるようになったという奇跡のお話しがありました。あのお話を思い出してください。バルティマイはイエスに向かってなんと叫びましたか。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫んだのです。イスラエルの王ダビデの子です。人々はイエスにダビデ王をみたのです。そうした民衆の声をピラトは聞いていました。ピラトはローマから来ました。ローマ皇帝の命を受けて、ローマの支配下にあったユダヤを監督するのが仕事です。喜んでこの仕事をしていたかというと、そういう印象はありません。

地方に飛ばされたという気持ちがくすぶっていたように見うけられます。めんどうなことに煩わされるのはだれも好まないですが、そういうタイプと言って差し支えないでしょう。彼の頭の中にあること、それをひとことでいうならこの世の力です。高い地位について部下を従えて、誉れを受けること。彼が一番なりたかったのは間違いなくローマ皇帝でしょう。王様にあこがれた人がピラトです。そういうピラトがイエスと対話しているのです。イエスは彼にはっきり言いました、「わたしの国は、この世には属していない。」この世にどっぷり属しているピラトは、これを聞いてきょとんとしたことでしょう。

王様というのもこの世の言葉です。国という言葉もこの世の言葉です。人としてこの世に生を受けたイエスもまたこの世に属することになりました。けれどもピラトの前に立ったときイエスは言ったのです、「私の国は、この世には属していない」。パウロがフィリピの教会に宛てた手紙のなかで書いた一言が思い浮かびます。「私たちの本国は天にあります。」この世に属していながらも、この世には属さない人、それがイエス・キリストを信じる私たちだといえます。

「私はこの世には属していない」、そう言われて、ピラトは言葉が出なくりました。ただ同じ質問を繰り返すだけです、「それでは、やはり王なのか」。するとイエスは答えます。ここでイエスは真理という言葉を持ち出すのです。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」真理がこの世に属さない何かであることを、イエス様のこの言葉は指しています。真理は、ヨハネ福音書に度々登場するキーワードです。真理、もっとも具体性に欠ける言葉です。無理もありません、この世に属していない何かを指し示しているのですから。ピラトには何も響かなかったことでしょう。たぶんこれを聞いてキョトンとしたのではないでしょうか。ただこういうしかありませんでした。

「真理とは何か?」。ピラトが発したこの問いは哲学的でも神学的問いでもありません。「真理ってなあに?」その程度の意識から出ています。しかしながらそれに答えたイエスの次の言葉は、私たちに語りかけてきます。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」イエスはここで初めて自分を結びつけたのです。真理という何かに結びつけて自身を証したのです。


きょうは聖霊降臨後最終主日です。そして次週からは待降節となります。救い主イエス・キリストの降誕を待ち望みます。アドベントからクリスマスにかけて、私たちはヨハネ福音書の次の言葉をきっとどこかで聞くことでしょう。「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」・・・恵みと真理に満ちた方が、肉となって私たちの間に宿られました。来週からその方を待ち望みます。真理。最も具体性に欠ける言葉が、肉をとりました。そして人となりました。真理は、イエス・キリストとして最も具体的になられたのです。

【週報:司式部分】 2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日



聖霊降臨後最終主日

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹Sr.
説  教 浅野 直樹 Sr.
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前 奏 「神のなし給うことはすべて善し」J. Pachelbel

初めの歌 教会讃美歌187(さかえにかがやく)1節
1.さかえに輝く 主のまえに集いて  かしこみひれ伏す
天地(あめつち)すべては とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と 聖なるみ神を ほめたたえうたう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

み子を遣わされた主なる神さま。
教会の交わりを通して、贖われたすべての人々と共に、
私たちを花婿のように、永遠のみ国へ迎え入れてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 ダニエル書 7:9-10、13-14( 旧約 1392頁 )
第2の朗読 黙示録 1:4b-8( 新約 452頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 18:33-37( 新約 205頁 )

みことばの歌 教会讃美歌306 (あるがままわれを)
あるがままわれを 血をもてあがない、
イェスまねきたもう、 みもとにわれゆく。アーメン

説 教 「 イエスとピラトの対話 」 浅野 直樹 Sr. 牧師

感謝の歌 教会讃美歌291 (さかえかがやく)1節
1.さかえかがやく 神のくにを
主よいまここに 成らせたまえ。
きよきみ国の 群れのうちに
四方のくにたみ あつめたまえ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌394(主よおわりまで)1節
1.主よ終わりまで 仕えまつらん
ときわに近く 在(いま)したまえ。
主ともにませば おそれはなく
みちびきあれば さまようまじ。アーメン

後 奏 「われ汝に別れを告げん」J. S. Bach

 

【週報:司式部分】 2021年11月14日 全聖徒主日礼拝


聖霊降臨後第25主日 子ども祝福式礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前 奏 ガリラヤの村を こどもさんびか改訂版61番から H.W. Davies=髙浪晋一編曲

子ども祝福式礼拝

初めの歌 こどもさんびか5番(こどもをまねく)1節、3節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

全能の神さま。
昔、サレプタのやもめは預言者エリヤを最後の粉で養い、
貧しいやもめは神殿で最後のレプトンを献げました。
私たちもいのちの糧、主イエス・キリストに与るため、
自分のすべてをあなたに喜んで献げることができるように助けてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 ダニエル書 12:1-3( 旧約 1401頁 )
第2の朗読 ヘブライ人への手紙 10:11-14、19-25( 新約 413頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 13:1-8( 新約 89頁 )

みことばの歌 教会讃美歌290(ガリラヤの風) 2節

説 教 「 忘れた頃にやってくる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌298 (こころまよいゆくを) 1節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 350 —I (わがたましいを) 1節

後 奏 後奏曲 Jan Bender

【 説教・音声版】2021年11月14日(日)10:30 聖霊降臨後第25主日 子ども祝福式礼拝  説教 「忘れた頃にやってくる 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二十五主日(祝福式)

聖書箇所:マルコによる福音書13章1~8節

今年も終わりに近づいてまいりました。次週はいよいよ教会の暦としては最後の主日、最終主日となります。ですので、テキストも「終末」(世界の終わり)について取り上げられているものでした。
振り返るまでもなく、今年も昨年に続いてコロナ一色の一年であったと思います。新型コロナに翻弄される日々でした。もちろん、未曾有の出来事です。多くの「痛み」が生まれました。しかし、ある方の言葉が耳に残っています。「このコロナ禍に全然危機感を感じない。戦争はこんなものの比ではなかった」と。戦争体験者の言葉です。実は、私自身も同様の思いを抱いてきました。

もちろん、これだけ日本国内だけでなく世界中の人々を苦しめてきたわけですから、軽んじるつもりはさらさらありません。コロナなど平気だ、何の問題もない、などと言うつもりはない。むしろ、このコロナ禍で改めて浮き彫りになった様々な問題、特に弱者に優しい社会への変革を真剣に求めなければならないとも思っています。しかし同時に、このコロナ禍だけなのだろうか、との戸惑いは常にありました。

私自身、牧師の端くれとして、興味がありまして、あのナチス・ドイツの迫害下にあった「告白教会」について、私なりに少し学んだことがありましたが、本当に過酷なものでした。戦争を知らない者が語る甘さがあるということは重々承知していますが、本来的な姿ではありえない中での「信仰の戦い」というものを垣間見させていただいたように思います。もちろん、ウィルスと戦争とを同列に語ることはできません。

しかし、個々人の歩みにおいても、人類史においても、そういった災い、不幸というものは常に起こり得るということを知ってきたはずです。そして、それらに対して、どう対抗していくのか、対処していくのかを学んできたのではないか。それが、人類の「知恵」というものなのではないか。そんなことを感じてもいるからです。

新型コロナは多くの方々を苦しめました。経済的・実際的に、精神的に苦しめていきました。そして、人生を閉じてしまわれた方々も多くおられます。これは、先ほども言いましたように、私たちの住む社会の大きな課題です。もちろん、私たちも無関係ではありえません。もっと出来ることがあったのではないか、と問われる。無力感も感じる。しかし、私は、もう一つのことを感じています。神学的な言い方をすれば「終末論」が希薄になってしまったためではないか、と。「終末論」というものは、世界の終わりを意味するものです。そこには、戦争や天変地異、禍い、迫害などのおどろおどろしさも出てくる。

しかし、それだけではありません。新しい世界の到来を告げるものです。この世の矛盾が全て消え去って、人類を脅かす死も苦しみも病も争いも罪も全てが無くなって、愛なる神さまが支配される全てが整った、調和に満ちた、誰もが夢みる、憧れる世界がやってくることを告げるものです。つまり、私たちが生きるのは、この世界だけじゃない、ということです。そして、必ず報われる、ということです。残念ながら、自ら人生を閉じてしまわれた方々の多くが、そんな世界を見ることができなかったのではないか、と思う。この世・この世界のことしか見えていなかったのではないか、と思う。そうであれば、当然、どこかで行き詰まってしまうのでしょう。この世界で展望を見出せない人たちは特に…。

どうせこの先、何も変わらないではないか。あいも変わらずギリギリの生活で追い立てられるだけではないか。こんな自分が幸せになれるだろうか。幸いな家庭を築けるだろうか。全く不可能としか思えない。良くはならない。年をとって悪くなる一方だ。そんな人生なら辞めてしまえ。気持ちは分かる。私自身、そう思ったことがなかった訳じゃない。

そうです。私たちの世界は不公平なのです。どれほど社会が変革しても、恵まれた人と、そうでない人とが生じてしまう。しかも、その原因は自分のせい、お前の努力が足りなかったからだとされてしまう。そんな世界を生きたい、と思うだろうか。しかし、私たちが生きる場所は、この世界だけではないのです。たとえ、この世界では不遇であったとしても、恵まれない人生だったとしても、必ず報われる世界がある。評価されなくても、認められなくても、取るに足らないことだとしても、誰もがしていることに過ぎないとしても、それをつぶさに見ていてくださる、評価していてくださる、報いてくださる方がいる。そんな世界が待っている。だから、生きていける。

だから、正直に生きていける。この世界ではバカを見るだけかもしれないが、神さまが見ておられて、必ず報いてくださることを知っているからこそ、嘘をつかないように、誤魔化さないように、人の功績を奪い取らないように、正直に生きていける。道端に捨てられたゴミを拾い、見知らぬ人の倒れている自転車を起こし、余分にお釣りをもらったら正直に申告し、みすぼらしい食卓かもしれないが皆で分け合い、自分よりも困っている人がいるとささやかながら義捐金を捧げ、挨拶し、元気と声を掛け合い、笑顔で答え、祝福を祈り、時に些細なことで笑い合う。

負け組でしかない人生かもしれない。つまらない、目立たない、流行らない人生かもしれない。しかし、希望を持って、小さな幸せに喜んで生きることができるのかもしれない。神さまがちゃんと見ていてくださるから。ちゃんと答えて、報いてくださるから。幸いな世界へと導いてくださるから。きっと…。そう信じて…。

ミケランジェロ 最後の審判 システィーナ礼拝堂



「終末論」なんていう堅苦しい言葉など使う必要はありません。しかし、この現代よりももっと困難な時代に希望を持って生きてきた人々の「希望の拠り所」を私たちは見失ってしまっていたのではないか、伝えて行くことを怠ってしまっていたのではないか、と、今更ながらに反省させられています。
「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた」。今日の福音書の言葉です。「神殿の方を向いて座っておられると」と言われていますが、イエスさまはそこで何を見ておられたのでしょうか。普段と変わらない礼拝の様子でしょうか。人々の動きでしょうか。祈る姿でしょうか。もっと先の姿…、ローマ兵によってエルサレムが陥落し、神殿が破壊されていく姿。街に火の手が上がり、人々が逃げ惑う姿。あるいは、もっと先の姿…。そう、イエスさまはこの先に何が起こるのかをご存知でした。

それは、単に紀元70年に起こった歴史上の出来事だけではありません。戦争がある。自然災害、飢饉が起こる。苦しみが、試練が、不幸が、悩みがある。そんな世界を、私たち人類の営みを知っておられた。見ておられた。だからこそ、宣教をされたのかもしれない。神の国のことを伝えて行かれたのかもしれない。そんな世界の中にあっても、希望を見失わないように、と。

今年も大雨が降りました。地震も火山の噴火もありました。日本は自然災害国だと言われます。しかし、普段私たちはそのことをすっかり忘れてしまっている。この時代の人たちもそうでしょう。ローマに対しての、現政権に対しての不満もある。少しでも世の中が良くなれば良いのに、自分たちの生活が改善されれば良いのに、と思っていたに違いない。しかし、今が永遠に続くとは思わないにしろ、少なくとも自分たちが生きている間に神殿が崩されるようなことになるなど誰も思っていなかったでしょう。むしろ、イエスさまだけが現実をしっかりと見据えていた、と言えるのかもしれません。そんなイエスさまはこう語られた。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。

「耐え忍ぶ」とは、しっかりと自分の足で立つ、と言うことです。最後まで立ち続ける。もちろん、自分一人で立ち続けられるならば申し分ないかもしれませんが、杖をついてでも、誰かに支えられながらでも良いと思います。ともかく、最後の最後まで立ち続ける。この信仰に。そして、私たちの目には見えていないと思いますが、その背後には、しっかりと神さまの手があるのだと思うのです。私たちを立たせてくださっている力強い手が。それを信じていく。

人生には、世界には、苦難・困難はつきものです。この世界もやがて終わりを迎える。しかし、それは、虚しいもの、絶望ではないはずです。そこに、救いの御手が伸ばされている。私たちの悩み、労苦が報われる世界が待っている。その信仰をもう一度見つめ直したい、と思う。困難な時代だからこそ、そう思うのです。

【週報:司式部分】 2021年11月7日 全聖徒主日礼拝



全聖徒主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前 奏 おおイエス・キリストよ、わが生命の光  G.Waag

初めの歌 『讃美歌』7番(主のみいつとみさかえとを)1節
1. 主のみいつと みさかえとを
声のかぎり たたえて、
またき愛とひくきこころ
御座(みざ)にそなえ ひれふす。アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神さま。
あなたは信じる者を主キリストのからだ、
唯一の聖なる教会に結び合わされました。
恵みを注いで、私たちを聖徒たちの信仰と献身の生涯に倣わせてください。
あなたの民のために備えられた喜びで満たしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、
永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 イザヤ書 25:6-9( 旧約 1098頁 )
第2の朗読 ヨハネの黙示録 21:1-6a( 新約 477頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 11:32-44( 新約 189頁 )

みことばの歌 『讃美歌』312番(いつくしみふかき)1節
1.いつくしみ深き 友なるイエスは、
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて、
などかは下(おろ)さぬ、負える重荷を。

 

説 教 「 死に打ち勝つ 」 浅野 直樹 牧師

 

感謝の歌 教団讃美歌482番(なつかしくも)1節
1.なつかしくも うかぶおもい
あまつ故郷(ふるさと)は ややにちかし。
ふるさと、ふるさと、
こいしき故郷(ふるさと) ややにちかし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教団讃美歌405番(かみともにいまして)1節と3節
1.かみともにいまして ゆく道をまもり、
あめの御糧(みかて)もて ちからをあたえませ。
また会うひまで、また会うひまで、
かみのまもり 汝(な)が身を離れざれ。

3.御門(みかど)に入る日まで、いつくしみひろき
みつばさのかげに たえずはぐくみませ。
また会うひまで、また会うひまで、
かみのまもり 汝(な)が身を離れざれ。

後 奏  われらは生命のただ中にありて H.Grabner

【 説教・音声版】2021年11月7日(日)10:30 全聖徒主日礼拝  説教 「 死に打ち勝つ 」 浅野 直樹 牧師

全聖徒主日(召天者記念)礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書11章32~44節

今年も、何名もの仲間たちが召天(亡くなられ)されました。それぞれの在りし日のお姿が目に浮かんできます。寂しい限りです。
昨今は、人生90年時代、100年時代と言われ、ますます「死」の現実感が遠のいていった感が致しますが、昨年からのコロナ禍で、特に第5波によって医療現場が逼迫し、自宅で命を落とされた方々が頻発したことから、改めて「死」の実感が…、より率直に言いますと「死の恐怖」が身近になった気が致します。現在は、ひと頃からすれば信じられないくらいに落ち着いた状態にあります。

そのためもあって、今日から礼拝の人数制限を撤廃いたしました。今でも、この急激な減少傾向の理由が分からない、と専門家も言っています。もちろん、ワクチンの効果もあるのでしょうが、それだけでは説明がつかない、と言うのです。私は、連日マスコミ等で取り上げられた自宅で重症化していく姿に、やはり「恐れ」を抱いた人たちが多くいたからではないか、と個人的には思っています。あの初期の頃、志村けんさんの死をきっかけに潮目が変わったように…。

そう、「死」はやはり恐ろしいのです。なぜなら、全てのものから…、愛する者たちから、社会から、この世の営み・生の営みから、そして、自分自身からも断ち切られてしまうとしか思えないからです。そう、やはり「死」は終わりなのだ、全くの「暗闇」なのだ、と思えてくる。ですから、できれば避けたいと思うのです。しかし、誰もがその現実からは逃れられないことも知っています。全ての人が、私たちの誰もが死を迎える。では、どうすれば良いのか。諦めか、無関心か、絶望か。このことに、真剣に向き合ったのが聖書だと私は思います。なぜなら、聖書の中には、この「死」に対して、諦めも、無関心も、絶望も記されているからです。まさに、死に向き合わされた人々の歴史でもある。しかし、聖書が語るのは、それだけではありません。この人類最大の敵とも言われる「死」の克服をも語っていきます。今日の日課も、そうでしょう。先ほど読んでいただいた最初の箇所には、このように記されていました。

「主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」。2番目に読まれた箇所も、同様のことが記されていました。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。

もうお分かりのように、鍵になるのは神さまです。神さまの存在です。人は自分たちの死の問題をどうにも解決のしようがない。そこで取り得る人の対策は、諦めか、無関心か、絶望でしかないわけです。どうせ人はいつかは死ぬ。それは、仕方がない定めだ、と諦めるしかない。

あるいは、どうせ解決のないことなら、見ぬふりをして生きるしかない。そんなこと気にしないで、生きている間を楽しもうではないか。今ひとつは、死んだらお終い、と不安を抱えながら、絶望感に苛まれながら生きるしかない。そのどれかか、あるいは、互いに混じり合いながら死を見つめるしかない。しかし、聖書は、そうではなく、神さまに目を向けなさい、と言います。人によって解決がいかないのなら、人を越えた存在である神さまにこそ、思いを向けなさい、と語るのです。

レンブラント「ラザロの復活」Los Angeles County Museum of Art


今日の福音書の箇所は、ラザロの復活物語りでした。このラザロには、先ほど読んだ箇所に出てきましたように、マルタとマリアといった姉妹がいました。一般的に、このラザロはこの姉妹たちの弟ではなかったか、と考えられています。この物語には両親の存在は出てきません。おそらく、二人ともすでに他界していたのでしょう。この兄弟たちが、どれほど歳が離れていたのか、あるいは、彼らは何歳くらいだったのか、それらの情報も私たちは持っていませんが、おそらく、それほど年齢を重ねていなかったと思います。まだ、年若かった。姉たちは、末っ子のラザロを可愛がってきたと思います。そして、両親亡き後、兄弟3人で支え合って生きていく中で、より絆も深められていったのではないでしょうか。

そのラザロが重病に倒れてしまった。その様子から、姉妹たちは危険だと悟ったのでしょう。すぐさま、イエスさまに使いを出しました。弟を助けて欲しいと。この兄弟たちとイエスさまとの間には、深い親交があったと思われます。そして、彼らはイエスさまを尊敬し、その力を、奇跡を起こす力を信じていました。だからこそ、使いを出したのです。姉妹たちは苦しむラザロを看病しながら、ひたすらイエスさまを待っていました。

なんとか間に合って欲しいと祈る思いで待ち続けました。しかし、ラザロは息を引き取ってしまった。後に、姉のマルタがラザロが墓に葬られてから「4日も経っている」と語っていることから、イエスさまが到着なさったのは、ラザロが死んでから3~4日後だったと思われます。そのイエスさまがマリアに会いたがっていると知らされて、マリアは飛んでいきました。そして、イエスさまに会うや否や「足もとにひれ伏し」て、というよりも、へたり込むようにしてだったのではないかと思いますが、こう語らずにはいられなかったのです。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。少し非難の思いがこもったきつい言い方だったのか、涙で途切れ途切れの言葉だったのか分かりませんが、マリアの素直な気持ちをぶつけた言葉だったと思います。

私たちも、どこか似たような思いを持ったのではないでしょうか。奇跡を願った。死なないで済むように、と祈った。私から奪い取らないで、と心の中で叫んだ。「主よ、もしここにいてくださいましたら」と。
今日の箇所で、多くの人たちが立ち止まらされる箇所があります。皆さんも、そうかもしれません。それは、イエスさまが「憤り」を覚えられた、という言葉です。愛する者を亡くし、嘆き悲しむ人々を前に、なぜ憤られたのか。これは、なかなかに難しい問題です。色々な解釈もありますが、今日は時間の関係もありますので、代表的なものを一つだけご紹介したいと思います。この「憤り」は、実は「死」そのものに、あるいは「死」の
背後にあると考えられていた悪魔に対する憤りではないか、というものです。これほど人々を悲しみに、失意に引き落とす死に対する憤り。

それが、神さまの思いとも重なるのです。人を死の縄目から解き放ちたい、と。そして、イエスさまは事実、死んだラザロを復活させられます。死から救い出されたのです。しかし、私たちはこう思います。そんなことは起こるはずがないだろう、と。現に、私たちの愛する者たちは死んでしまったままではないか、と。

そうです。人は死ぬのです。このラザロもやがては死んだはずです。死なない人など、一人もいない。しかし、死に打ち勝つことはできる。死を乗り越えることはできる。ある方は、この後のラザロの歩みを想像するのも面白い、と言います。程なくして、ラザロは自分を復活させたイエスさまの十字架の死を体験したことでしょう。他の弟子たちのように、愕然としたはずです。死なれたこと自体が信じられなかったのかもしれない。しか
し、イエスさまの復活を知ることになった。あのイエスさまは、本当に神の子であったと知ることになった。やがて、自分も歳をとった。姉たちを看取っていったのかもしれない。そこで思うことは、希望です。このイエスさまによる希望です。死を打ち破る力を持っておられる方が、この私を、私の姉妹たちを愛してくださっているという希望です。
このお方が私たちに良いことをしてくださらないことなどありえない。これは、単なる気休めでしかないのでしょうか。そうかもしれません。しかし、私は、この信仰の力を信じております。なぜなら、自分の死期を悟りながらも、天国でイエスさまと共に生きる姿を望み見ながら、穏やかに旅立っていった人を知っているからです。いいえ、身近に・間近に見てきたからです。そして、死別の苦しみ・痛みの中にも消えてしまわなかった希望の光を体験してきたからです。

今日、共に覚える召天者の方々…、先に召された私たちの先達たち、愛する者たち、大切な仲間たちもそうでしょう。その希望を私たちに証してくれている。死に打ち勝つ希望があるということを。死は決して終わりではない、暗闇ではない、ということを。断絶ではなく、再会の喜びが待っているということを。神さまの、イエスさまのもとで。そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】 2021年10月31日



 

宗教改革日礼拝式文

司式 浅野直樹Jr.牧師
説教 松岡俊一郎牧師
奏楽 苅谷和子姉
聖書朗読 三浦慎里子神学生

 

前奏 「深い悩みから私はあなたを呼びます」  Paul Geist

招 き
父と子と聖霊の御名によって
会衆:アーメン

憐れみ深い神さま。
私たちはあなたを賛美し、聖なる御名を崇めます。
私たちの心を開き、聖霊によって清めてください。
主イエス・キリストによって。
会衆:アーメン

告 白
神と会衆の前で、私たちの罪を告白しましょう。
全員:神さま 罪に囚われている私たちは、みずから自由になることはできません
思いと言葉行いと怠り、また無関心によって御前に罪あるものです
私たちは心を尽くしてあなたを愛さず
隣人を自分のように愛しませんでした
御子イエス・キリストのゆえにわたしたちを憐れんでください
私たちを赦し、新たにし、導いてください
み旨を喜び、あなたの道を歩み、御名の栄光を現すものとしてください
アーメン

赦 し
全能の神は、御子イエス・キリストを死に渡し、その死によって、
私たちのすべての
罪を赦してくださいます
会衆:アーメン

招きの歌
教会讃美歌184番(きよき石よ)1節
1.きよき石よ イエス・キリスト
なれに勝さる いしずえなし
み民は、ここに宮をたて、
喜ぶ。  アーメン

キリエ
平安のうちに祈りましょう
会衆 : 主よ憐れんでください
神からの平安と、私たちの救いのために祈りましょう
会衆 : 主よ憐れんでください
世界の平和と神の教会の成長と主の民の一致のために祈りましょう
会衆 : 主よ憐れんでください
この聖なる教会と、ここに集い礼拝にあずかる者のために祈りましょう
会衆 : 主よ憐れんでください
恵みの主よ、私たちを救い、守り、助け、憐れんでください
会衆 : 主よ憐れんでください
会衆 : アーメン

グロリア
いと高きところには栄光、神に
会衆:地には平和、み心にかなう人々に
全員 : 主をあがめ、主を仰ぎ、主を拝み、主を讃えます 
主なる神、天の王、全能の父。あなたの栄光に感謝します
主なる神、神の小羊、父の独り子、主イエス・キリスト
世の罪を取り除く主。わたしたちを憐れみ、祈りを聞いてください
父の右におられる主。私たちをあわれんで下さい
あなただけが聖なる主、いと高きイエス・キリスト
あなたは聖霊と共に、父なる神の栄光のうちに 
アーメン

つどいの祈り
祈りましょう。
全能の神、めぐみの主よ
あなたに忠実な民に聖霊を注いで、みことばのうちに堅く保ち
あらゆる誘惑とみことばの敵から防ぎ守り
キリストの教会に救いと平安を与えてください
あなたと聖霊と共にただ一人の神であり
永遠に生きて納められる御子、主イエスキリストによって祈ります
アーメン

第一の朗読
エレミヤ書 31章31節~34節(旧約 1237 P)
31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

第二の朗読
ローマの信徒への手紙3章19節
ローマの信徒への手紙3章19節~28節(新約277 P)
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。
それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

福音書の朗読
ヨハネによる福音書8章31節〜36節(新約 182 P)
31 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。
32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」
34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

 

説教 「真理は自由を与える」 松岡俊一郎牧師(東教区長)

 

みことばの歌教会讃美歌450番(ちからなる神は)1節
1.ちからなる神は わが強きやぐら
なやみ苦しみを 防ぎまもりたもう。
悪しき敵の 手だて尽くし 攻めきたるも
なにか恐れん  神ともにませば。

使徒信条
全員 : 天地の造り主、全能の父である神を私は信じます
そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを私は信じます
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け
十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り
三日目に死人のうちから復活し 、天に昇られました
そして全能の父である神の右に座し
そこから来て、生きている人と死んだ人とを、さばかれます
聖霊を私は信じます、また聖なる公同の教会、聖徒の交わり
罪の赦し、からだの復活と永遠のいのちを信じます アーメン

主の祈り
天におられる私たちの父よ、み名が聖とされますように
み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり地にも行われますように
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。私たちの罪をお許しください
私たちも人を赦します。私たちを誘惑に陥(おちい)らせず、悪からお救いください
国と力と栄光は永遠にあなたのものです

ヌンクディミティス
今 私は主の救いを見ました。主よあなたはみことばの通り
僕を安らかに去らせてくださいます
これはすべての民に備えられた救い、
諸国民の心を開く光、み民イスラエルの栄光です

派遣の祈り
世界の造り主、全能の神様
イエス・キリストにより、
私たちを一つの体として結び合わせてくださり感謝いたします
私たちを希望と忍耐と勇気で満たし
隣人を愛することができるようにしてください
今ささげられたものがあなたを証しし
世界の人々に届けられますように痛み悲しむ人々を隣人とし
私たちを聖霊によって送り出してください
主イエスキリストの御名によって祈ります
アーメン

派遣の歌
教会讃美歌394番(主よ終わりまで)1節
主よ終わりまで 仕えまつらん
ときわに近く 在(いま)したまえ。
主ともにませば おそれはなく
みちびきあれば さまようまじ。

祝福
主があなたを祝福し、あなたを守られます
主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられます
主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わります
父と子と聖霊の御名によって
会衆 : アーメン

派遣の言葉
行きましょう、主の平和のうちに。仕えましょう、主と隣人に
会衆 : 私たちは行きます。 神の助けによって

 

後奏 「われわれの神こそ堅い砦」   Emil Weidenhagen

 

【 説教・音声版】2021年10月31日(日)10:30 東教区 宗教改革日礼拝 説教「 真理は自由を与える」松岡俊一郎牧師(東教区長)

宗教改革日礼拝


※説教音声版

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

この時期は、街のあちらこちらでオレンジのカボチャの飾りを目にします。ハロウィンの飾りものです。さすがに去年と今年はコロナの影響で、フィーバー具合は少ないですが、10月31日というと一般の方はハロウィンと思われると思います。時々誤解されていますが、ハロウィンはヨーロッパで始まった習慣ですからキリスト教とまったく無関係というわけではありませんが、キリスト教のお祭りではありません。もともとはヨーロッパのケルト民族の収穫祭であり、一年の終わりである10月31日に精霊や魔女が集まると考えられていました。カトリック教会では11月1日を「諸聖人の日」として守っていますので、その前に精霊や魔女が大騒ぎをするというのです。しかしカトリック教会もハロウィンを教会の行事としてはいません。

中世の時代には10月31日は諸聖人の日の前夜ということで教会の周りに人々が集まってきていました。諸聖人の日には、聖人の聖遺物なども公開されていました。その人が集まる時を考慮して、修道士であり、神学教師であったマルティン・ルターがヴィッテンベルグの城教会の扉に「贖宥の効力を明らかにするための討論(いわゆる95カ条の提題)」を貼りだしたとされています。当時は、そのような議論を巻き起こすための行為が普通に行われていたといわれています。これが宗教改革の発端と言われていますが、実際には騒動になったのはもう少し後のようです。いずれにしろ、当時絶大な権力を有していたローマカトリック教会に、疑義を申し出たのですから、大変なことであったことは違いありません。

この贖宥というのは私たちにはあまり聞きなれない言葉ですが、当時の教会は資金集めのために、贖宥券(免罪符)を購入すれば死んだ後に行く試練の場所である煉獄で苦しんでいる先祖の魂が救われると勧めていたのです。ルターはこれに対して疑義を唱えたのです。キリストの十字架と復活による贖いでは救いが十分でないかのような教えは正しくない。また救いは贖宥券購入というような行為によって得られるものではなく、ましてやお金がチャリンと音を立てて投げ込まれた時に霊が解放されるなどというのはまやかしであると主張したのです。

この主張の背景は、今日の使徒書のある「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」これらのことばに端的にあらわされています。このような主張に当時の教会は、厳しい反応を示します。審問官をたて、ルターに真意を問いただし、国会において撤回を求めるのです。しかしルターはそれを拒否し、破門され、宗教改革のうねりが広まっていくのです。

ルターの主張のもう一つの面は、律法の問題です。それは今日の使徒書や福音書の日課のポイントでもあります。

イエス様の時代のユダヤ教の教えの中心は、神殿礼拝と律法の遵守です。モーセの律法に加えて、多くの戒めが加えられ、膨大なものになっていました。律法が人々の生活の規範であり、この律法を守ることが救いの条件です。まさに律法が人の行動の規範、心の規範として支配していたと言っていいと思います。そこには束縛ということはあっても、自由という発想はなかったと思います。あえて言えば、律法を守ることによって得られる満足感と守らない人への優越感はあったかもしれません。旧約聖書で「自由」という言葉を検索すると、奴隷や捕らわれからの解放という意味での自由という言葉は出てきますが、今日私たちが考えるような信仰的に救われ、精神的に解放された自由ということはほとんど出てきません。ルターが問題としたのは、ユダヤ教が律法によって人々を束縛し、支配していたと同じように、中世では教会が、ことにローマ法王を中心とする教皇性が人々の心を束縛し、支配しているということでした。

Ferdinand Pauwels (1830–1904) 「ヴィッテンベルク城教会の門に95ヶ条の論題を貼り出すマルティン・ルター」1872年



それでは私たちはどうでしょうか。もちろん今の時代の私たちは、ユダヤ教の律法にも、教会の力にも束縛されてはいません。しかし、本当に自由であるかというと、それも怪しい。確かに時代が変わり、価値観が多様化し、何でもあり、何をするにしても自由になりました。それでは私たちの心が本当に解放されているかといえば、そうではないように思います。心の病にかかる人が増え続けています。本当に自由であるならば、解放されているのであれば、こんな現象は起こっていかないのではないかと思います。自由に行動できる半面、人目を気にし、監視され、評価され、批判され、束縛されていると感じているのではないでしょうか。

最近ではバッシングや炎上という言葉に代表されるように、他者を批判することが当たり前、よりエスカレートしているように思います。自由と言いながら、本当のところで、一人の人間として自由な考えをもち、自由な気持ちをもち、自由な行動がゆるされているとは思っていないのではないでしょうか。プレッシャー、ストレスなど様々な抑圧、緊張、攻撃を受けながら、それに締め付けられながら、耐えながら生きているのです。それは外からの束縛だけではありません。自分の心を自分で縛りつけている何かがあるように思うのです。

イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。真理とは何でしょうか。真理とはどんなときにも変わらないもの、確実な根拠に基づく正しさとされています。私たちの身の回りを見ると不変なものと考えられていたものが、時代や場所、環境によって絶えず変わり続けているように思います。むしろ今日は多様性が重んじられるようになりました。そのような中で変わらない確かさ、正しさとは何でしょうか。

 

ヨハネ福音書14章6節でイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われています。聖書はイエス・キリストこそが真実なお方であり、私たちを様々な捕らわれから解放し、自由にし、生かしてくださるお方だと言います。人間の力で自由にされる、自由を獲得するのではなく、このキリストを信じる時にこそ、本当の自由が神様から与えられるのです。様々なルールからの自由、常識からの自由、世間体からの自由、批判や評価の目からの自由、優越感からの自由、劣等感からの自由、欲望からの自由、様々なものからの自由がキリストを信じることによって与えられるのです。

しかしそれは無秩序を意味するのではありません。マルティン・ルターは著書「キリスト者の自由」の中で「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する」と言っている通りです。キリストによって自由を与えられた人は、強いられてではなく喜んで他者に仕え、社会に仕えるのです。キリストによって与えられた自由は愛を生みだします。神様の自由が愛と一つだからです。パウロもまたガラテヤの信徒への手紙5章13節で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と言っているからです。

自由によって生み出された愛は他者へと向かうのです。イエス様は、わたしの掟は互いに愛し合う事だと言われます。キリストを信じる者に求められる愛と奉仕の業は、この自由に基づき、強いられてではなく、喜びをもって他者に仕えることが出来るのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

【 説教・音声版】2021年10月24日(日)10:30 聖霊降臨後第22主日礼拝  説教 「 助けを求めてみるもんだ 」 浅野 直樹牧師

2021年10月24日 聖霊降臨後第二十二主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書10章46~52節



今日の福音書の日課は、ひとりの人の救いの出来事・物語りだと受け取っても良いと思います。
ところで、皆さんは誰かに助けを求めたことがお有りでしょうか。日課の、あの目の不自由な人のように…。私自身、考えてみました。案外、思い当たらないものです。もちろん、色々なお願い事はしてきました。こうして欲しい、ああして欲しい、と。しかし、この人のように、真剣に、心の底から誰かに助けを求めたことがあっただろうか。無論、誰の助けも借りずに生きてきた、などとは思っていません。むしろ、多くの人の助けがあったからこそ、ここまで来れたとも思っています。しかし、それは、必ずしも明確な助けを求めた結果ではなかったようにも思うからです。むしろ、周りが気を利かせてくれた結果だ、と言っても良いのかもしれません。

では、なぜ助けを求められなかったのか。こんなことくらいで助けなど呼べない。自分で何とかしなくては。迷惑になるんじゃないか。理由は色々とあります。しかし、もっと探っていくと、そこに「信頼感の欠如」というのもあったように思うのです。どうせ助けを求めたって、何ともならないのだ、と相手の力不足もさることながら、果たしてこのことを受け止めてくれるのだろうか、私の味方であり続けてくれるのだろうか、逆に傷つきはしないだろうか、と心開けずにいたようにも思うからです。

助けを求めるということは、自分の問題・課題を曝け出すことにもなるからです。
今日の福音書に登場してまいります目の不自由な人は、バルティマイと言いました。「ティマイの子」(子というのが「バル」ですので)なので「バルティマイ」です。実は、これは非常に珍しいことなのです。福音書には多くの奇跡物語り、癒しの物語りが記されていますが、そのほとんどに登場人物の名前は記されていないからです。

そういう意味では、非常に珍しい。では、なぜここでわざわざ名前が記されているのか。多くの注解書が記していますように、おそらくこのバルティマイは良く知られた人物だったからでしょう。今日の日課の最後には、「なお道を進まれるイエスに従った」とありますように、この後生涯に渡ってキリスト者として生きたことが伺われます。ある方が記していますように、ひょっとして、この出来事に関しては、このバルティマイ自身があちこちの教会で語っていったのかもしれません。自分の身に起こった出来事として。ですから、「バルティマイ」といえば、「ああ、あの人のことね」って分かったんじゃないかと考えられているわけです。

この人は生まれながらだったかどうかは分かりませんが̶̶ある翻訳によると、「また(再び)見えるように」なりたい、と訳されているからです̶̶長い間、盲目だったのでしょう。当然、当時では普通の職業にはつけませんので、物乞いになるしかなかった。イエスさまがエリコの街を出られてすぐのことのようですので、街の門のすぐそばに座っていたのかもしれません。エリコの街は高低差はありましたがエルサレムから27キロほどしか離れていませんでしたので、多くの巡礼者たちが行き交っていたようです。その人たちからの施しを期待して、このエリコの道沿いには多くの物乞いたちが並んでいたとも言われています。ともかく、ユダヤの律法では施しは徳を積むことになりますので、生活にはそれほど困っていなかったかもしれません。しかし、だからといって、彼は今の生活に満足できていたわけではなかったでしょう。できれば、他の人たちのように、普通に、自由に生きていきたかったと思っていたに違いない。

目の不自由な人は、その分聴力が優れていると言われます。バルティマイもそうだったに違いありません。彼は目は不自由だったかもしれませんが、街に溢れかえっていた噂話には詳しかったかもしれない。そこに、おそらくイエスさまの話も出ていたでしょう。

今日もいつもと変わらない朝を迎えたのかもしれません。おそらく、いつも世話をしてくれている人が定位置に連れてきてくれたのでしょう。今日もまた、いつもと変わらない一日が始まる。真っ暗な一日が。太陽の熱で肌が焼かれる一日が。誰かも分からない人の善意に頼るしかない一日が。なんの当てもない、確証もない一日が。ただ座っていることしかできない不自由な一日が。空しい一日が。なんら希望を見いだせない一日が始まる。そう思っていたのかもしれない。すると、いつもとは違う街の様子が聞こえてきました。

多くの人の塊が近づいてくる。しかも、どんどんとその数は増えているようです。みんな口々にいろんなことを言っています。おい、見に行ってみようぜ、といった野次馬的な言葉も聞こえてくる。ご一緒します、といった敬虔深い言葉も聞こえてくる。何事が起こったのだろうか、彼は考えたでしょう。すると、「イエス」という言葉が飛び込んできました。イエス? ひょっとすると、あの噂のナザレのイエスのことか? 彼は、咄嗟に叫んだに違いありません。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」。彼は、何度も何度も叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」。

これは、バルティマイにとっても、ある種の賭けだったでしょう。なぜなら、単なる噂でしかなかったからです。何の確証もない。癒していただけるといった保証もない。むしろ、反対に、それはお前の罪が招いた罰なのだ、と叱責されてしまうかもしれません。これまで、多くの人々から散々聞かされてきたように…。賭けだった。しかし、恐らく彼には、イエスさまに賭ける十分な根拠があったのでしょう。それは、第一に自分の置かれている現実です。この機を逃したら、一生この現実から抜け出せないと思った。もう一つは、彼が聞いてきた噂は、単に奇跡だけの噂ではなかった。イエス・キリストという人物の言動、為人についても聞いてきた。そして、そんな噂を聴きながら、ぜひ会ってみたい、との思いを膨らませてきたのではないか。そう思います。

しかし、すんなりとは行きません。人々の雑踏に自分の声はかき消されていきます。そして、近くにいる人々は口々に、自分の声を殺そうとさえする。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」。これも、深く考えさせられることです。イエスさまに向けられた声を黙らせようとしてはいないだろうか、と。ともかく、それでも彼は諦めませんでした。ますます叫び続けた。そして、ついに、その声が勝った。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。彼は、イエスさまに癒していただきました。そして、イエスさまはこう語られた。

「あなたの信仰があなたを救った」と。最初に、このバルティマイは教会にとっては良く知られた人物だったのではないか、ということを話しました。しかし、では、なぜそれほど彼が教会で有名になったかといえば、彼のこの出来事に多くのキリスト者たちが共感したからです。もちろん、皆が皆、彼のように奇跡を、癒しを経験したわけではなかったでしょう。しかし、彼のこの救いのプロセスに、何ともいえない共感が生まれたのだと思うのです。私も、その一人です。

最初は、噂でしかなかった。何の確証もなかった。むしろ、不安さえあった。果たして、本当に私は救われるのだろうか、と。こんな私を受け入れてくださるのだろうか、と。お前など救われる値打ちなんかないのだ、と門前払いを食うのではないか、と。それでも、今の自分を変えたかった。今の現実を変えたかった。何とかしたかった。すがるような思いで、賭けのような覚悟で、勇気を振り絞って救いを求めていた。しかし、何も起こらなかった。内に、外に、そんな自分の思いを殺すような何かが迫ってきた。どうせ無駄だ。お前の声など届かないのだ。お前のことなど心に留められていないのだ、と。怯む思いがした。しかし、どうしても諦められなかった。そして、ついに…。そんな共感。

初めに、誰かに助けを求めたことがありますか、と問いました。皆さんがどうかは分かりませんが、少なくとも私自身はあまり思い当たらなかった。しかし、神さまには、イエスさまには、助けを…、本当に腹を割って、心を開いて助けを求めてきたな、と思い起こします。

イエスさまの「あなたの信仰があなたを救った」との言葉は、バルティマイのこの熱心さが、信仰深さが救いを勝ち取ったかのように聞こえますが、必ずしもそうではない、と思います。私たちは、全てが神さまの恵みでしかないことを信じています。この信仰でさえも、神さまから与えられた賜物です。しかし、その上で、このバルティマイのような物語りもあるということを忘れないでいたいと思うのです。

バルティマイはこの後、イエスさまに従う人生をはじめました。イエスさまは「行きなさい」、つまり家に帰りなさい、と言われたにも関わらず、です。彼は、最後の最後までイエスさまの後を、その道を歩み続けた。そこには、あの私の決断が、あの熱心さが、あの信仰深さが、などの思いは微塵も感じられないのです。彼は、その全ても恵み、神さまの憐れみと感じながら生きていったことでしょう。それも、覚えていきたいと思います。

【週報:司式部分】 2021年10月24日



聖霊降臨後第 22 主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽

開会の部
前 奏

初めの歌 教会讃美歌158(主イェスのみ名こそ)1節

1.主イェスのみ名こそ ちからなれや、
み使いこぞりて 主とあがめよ、
み使いこぞりて 主とあがめよ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
愛の神さま。
あなたは私たちの脆さや欠点をことごとくご存じです。
私たちにそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、
生涯、救いの道を歩ませてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 エレミヤ書 31:7-9( 旧約 1231 頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 7:23-28( 新約 409 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:46-52( 新約 83 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌295(ひかりにそむき) 1節

1.ひかりにそむき 閉ざす門を
おとずれたもう 客人あり。
神のしもべの 名にそむきて
などむかえざる 神のみ子を。

 
説 教 「 助けを求めてみるもんだ 」 浅野 直樹牧師

感謝の歌 教会讃美歌313(主はへりくだりて) 1節

1.主はへりくだりて 罪人のために
十字架の苦しみ 耐え忍びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌398(なにをもおしまず) 5節6節

5.主イェスは同胞ゆえ われらをきよくなし、
み国をつがせたもう こよなき喜びよ。

6.み国に召さるるとき 主イェスとともに住まん。
ああ主よ見させたまえ わが目にみさかえを。

後 奏

【週報:司式部分】 2021年10月17日



聖霊降臨後第 21 主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹 三浦 慎里子
説  教 三浦 慎里子
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前 奏 「ただ神にのみゆだねまつる者は」G.Bohm

初めの歌 教会讃美歌203(ちちのかみよ)1節
1.父の神よ、 夜は去りて
われらいま み前に立ち
さんびのうたを かしこみ捧ぐ
声もたかく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主よ、憐れんでください。
危険が私たちを取り囲み、誘惑は私たちに牙をむいています。
私たちに、この世の挑戦に決然として臨む勇気を与えてください。
挫けるときには赦しを、傷付くときには癒やしを、
謙虚に叫び求めることができるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 53:4-12( 旧約  1149 頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 5:1-10( 新約 405 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:35-45( 新約 82 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌271(主はきょうかいの) 1節
2.主は教会の 基となり、
みことばをもて これをきよめ、
われらを死より ときはなちて、
仕うる民と なしたまえり。

説 教 「 イエスが与えるのは 」 三浦 慎里子 神学生

感謝の歌 教会讃美歌285(シオンよ いそぎつたえよ) 2節
2.すべての民らに告げよ 「み神は愛にませば
われらの救いのために ひとり子をたまえり」と。
よろこびのおとずれ いざやいそぎ世につたえん。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌398(なにをもおしまず) 4節

4.救いのたまもの 主イェスの血しお
恵みといのちを 願いもとめて、
み旨にしたがい 雄々しく進み
栄えの冠を よろこび受けよ。

後 奏 「ああ神よ天よりみそなわし」F.W.Zachow

【 説教・音声版】2021年10月17日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 イエスが与えるのは 」 三浦 慎里子

聖霊降臨後第21主日


イザヤ53:4-12 ヘブ5:1-10 マルコ10:35-45

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」本日の福音書のみことばの中でイエス様が放たれたこの言葉が、胸に刺さります。なぜイエス様はこのようなことをおっしゃるのでしょうか。みことばから聞いてまいりましょう。

イエス様と弟子たちの一行は、エルサレムに近づいてきました。本日の箇所には入っていませんが、この場面のすぐ前に、イエス様は3回目となる受難と復活の予告をなさいました。前の2回と同じく、ご自身が祭司長や律法学者たちに引き渡され、殺され、三日後に復活すると、弟子たちに告げられたのです。

本日の福音書で描かれるのは、この3回目の受難と復活の予告がなされたすぐ後の出来事ということになります。イエス様の弟子たちの中でもペトロと並んでイエス様が特に可愛がっておられた、ヤコブと弟のヨハネが登場します。二人は、イエス様から「ボアネルゲス(雷の子ら)」というあだ名をつけられていたほどに激しい性格だったという話をよく聞きますが、彼らは野心家でもあったようです。この兄弟がイエス様の所に来て願ったことは、イエス様が栄光の座につかれる時、自分たちをイエス様の右と左に座らせてほしいということでした。

なかなかに大胆なお願いをするものだなと思います。王様の隣に座るということは当時も今も特別なことです。それは、権力や威厳や栄光を意味しています。イエス様が何度も受難と復活の予告をなさったことを、彼らなりに真剣に受け止めたからこそ、二人は思い切った願い事をしに来たのでしょう。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」とイエス様から問われ、「できます」と答えるところからも、イエス様に従って行こうとする二人の決意が伝わってきます。しかし、エルサレムで待ち受けている苦しみを前に、二人が固める覚悟は、栄光の座への期待と強く結びついたものでした。

イエス様と共にどんな苦難も受けよう!イエス様が王となられた暁には、私たちも栄光の座に引き上げていただけるのだ。となれば、今のうちにイエス様に話を通しておかなければ。二人はそう思っていたのではないでしょうか。他の弟子たちは、皆を出し抜こうとしたヤコブとヨハネに腹を立てたと書かれています。他の弟子たちも、きっと二人と同じ気持ちだったのでしょう。

聖書を読む私たちは、ヤコブとヨハネの姿、そして腹を立てた他の弟子たちの姿の中に、自分自身を見つけます。自分を他人と比較して優越感に浸ったり、成功しようとする人を心のどこかで妬んだりする気持ちは、誰にでもあります。今の時代に偉くなりたいと思う人は少ないのかもしれませんが、偉くなりたいと思っていないとしても、私たちは職場で、学校で、家庭で、あらゆる人間関係の中で、認められたいと思っているし、努力が報われることを願うものではないでしょうか。頑張れば結果が付いてくると思えばこそ、試練にも耐えることができるのです。ところが、イエス様はこのように言われます。「私の右や左に誰が座るかは、私が決めることではない。」聖書は、ただ一つの目的に向かって歩まれているイエス様を指し示します。それは、私たちに与えられている特別な贈り物です。イエス様は弟子たちを呼び寄せて言われます。

部分:幼子イエス(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 「大工の聖ヨセフ」) (1640)



「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである。」イエス様が私たちに与えてくださるもの。それは、華々しい栄光や権力、見返りなど、私たちが求めているものよりはるかに大きなものです。イエス様が与えてくださるのは、他でもないイエス様ご自身なのです。多くの人の身代金として、と言われます。身代金は、奴隷や人質を解放するために支払われるものです。罪に囚われた状態の私たちを解放するため、救いに与らせるために、自分の命を犠牲にする。私はそのために来たのだ、と言われるのです。

イエス様は、十字架の死によって、私たちにご自分を与え尽くされました。何の見返りもなく、ただ神の御心に従うためにです。イエス様の弟子として、イエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受ける洗礼を受けるということは、イエス様の生き方を自分の生き方とすることです。これは、私たちにとって厳しい教えです。見返りを求め、自分のことに心を煩わせてばかりいるこんな自分は、到底イエス様の弟子であるなどと言うことはできない。天の国に入ることなんてできない。私たちは、弱く小さな罪人に過ぎない自分の姿を痛いほど認識します。でも、弱く小さな罪人だからこそ、イエス様に救っていただくことができるのです。

本日の使徒書、ヘブライ人への手紙5章2節。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」イエス様は、神の御子でありながら、私たちと同じ人となり、私たちと同じ悩み苦しみをこの世界で味わわれました。私たちが囚われている苦しみをご自身の身をもって分かっておられるからこそ、私たちを決してお見捨てになることはありません。

キリスト教において、イエス・キリストのことを預言していると理解されているイザヤ書53章5節からお読みします。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」イエス様は私たちの救いのためにご自分の命を与えてくださるお方です。私たちはイエス様から命を受け取ります。

それは、私たちが何か良いことをしたからもらえるご褒美ではありません。神様が私たちを愛されるから、救われて欲しいから、与えてくださる恵みです。そして、恵みの命を与えるイエス様は願っておられます。弟子である私たちが、皆に仕える者となり、すべての人の僕となることを。私たちは、新しい命をいただいて、既に神様のものとして生きています。私たちは、互いに仕え合い、平和をつくる者へと変えられているのです。

この救いの業を喜びをもって受け止め、今日もまた、このむさしの教会からそれぞれの場所へ、隣人のもとへと遣わされていきましょう。

【週報:司式部分】 2021年10月10日

聖霊降臨後第 20 主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子
説  教 中村 朝美 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前 奏  麗しき門を開きたまえ  W.Hennig

初めの歌 教会讃美歌188(わがたまよろこび主を)1節

1.わがたまよろこび 主を待ちのぞむ。
とびらを開きて 迎えたまえや、
ひかりと恵み うちにかがやく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
天の父なる神さま。
あなたは私たちに「あなたの父と母を敬え」と命じ、
主イエスはご自分の家族の中でその模範を示されました。
聖霊を注いで、私たちを自分の家族の中で、神の家族である教会の中で、
すべての民族の中で、互いに愛し尊敬しあう者にしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 アモス書 5:6-7,10-15( 旧約 1434 頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 4:12-16( 新約 405 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:17-31( 新約 81 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌360 (かみをほめまつれ) 1節

1.神をほめまつれ、 恵みとまことは
ときわに絶えせず み神のものなり。 アーメン。

説 教 「 主のまなざし 」 中村 朝美 牧師

感謝の歌 教会讃美歌289 (すべてのひとに) 1節

1.すべてのひとに 宣べつたえよ
神のたまえる よき知らせを。
父なる神は み子をくだし
救いのみちを ひらきませり。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌328 (主イエスにしたがう) 1節

1.主イェスに従う 群れのさちよ、
めぐみの主の手に たよりゆけば、
なやみのときにも 主近くいまして
のぞみは消ゆとも 愛は尽きず。

後 奏 プレリュードとフーガ 変ロ長調 J.S.Bach

【 説教・音声版】2021年10月10日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 主のまなざし 」 中村 朝美 牧師

マルコ10:17-31聖霊降臨後第20


アモス5:6-7 ヘブライ4:12-16

私たちの父なる神と 主イエス・キリストから 恵みと平安とがあなた方にありますように。

私は35年程前、賀来先生の時代に、この場に立たせて頂きましたので、今日で2度目となります。その日の様子、雰囲気は今でも鮮明に覚えているのですが、何を、どの箇所から語ったのかは全く覚えていません。賀来先生は、むさしの教会の歴史の中で初めて女性からの説教を聞くということで皆も緊張しているのでしょう、とおっしゃっていました。その言葉通り、教会全体の空気が違っていました。針を落としても聞こえるくらいシーンとしていました。

礼拝が終わりますと、今は亡き川上範夫さんが真っ先に私のところに、このような声をかけてくださいました。「内村さん(旧姓です)、久し振りにきれいな日本語が聞けた。ありがとう。」 とても複雑な思いでした。

当時も神学生が何人かいまして、司式の補助はさせていただいていましたが、説教は神学校生になってからでした。私も神学校生になって初めてここに立たせていただき、そして、現役の牧師生活の最終段階で、またここに立たせていただけていることに感謝しております。

 

学生時代むさしの教会で、牧会に出てからも多くの方々との様々な出会いがありそこで多くのことを学び、教えられました。

福音書は、イエスさまと出会った多くの人々のことを伝えています。この出会いによって、ある人たちはイエスさまに従い弟子になりました。信仰をほめていただいた人、その信仰にイエスさまが驚かれたこともありました。多くの人々は自分の生活の場に戻ってゆきました。その人々の、その後について何も語られていませんので想像するしかありませんが、慰めに、喜びに包まれて生活していったに違いないでしょう。

しかしながら何事にも例外がありますように、本日の日課は、その例外が語られています。イエスさまを求め、そして出会ったにもかかわらず、悲しみながら去っていったこの男の人の話を人々は忘れることができなかったと思われます。

 

イエスさまに、確信の持てない自分に確かな答えを求めて走り寄って来た人は、

「あなたに欠けているものが一つある」と、慈しみに満ちた言葉と眼差しを受けながらも、気を落とし、悲しみながら立ち去って行きました。

この出来事は、マタイ、ルカ福音書にも並行記事が伝えられています。そのいずれも、イエスさまが幼子を祝福した後の出来事として伝えています。マタイ福音書は「金持ちの青年」、ルカ福音書は「金持ちの議員」、そしてマルコ福音書では「金持ちの男」というタイトルが付けられています。どの福音書もこの男の人を、「金持ちの」と説明しています。3つの福音書を併せ見てゆきますと、この人は資産家で、ルカ福音書では「議員」であると語っていますので社会的地位が安定し、しかも、幼い時からユダヤ人としての教養を身に着け、礼儀正しい、非の打ちどころのない人物であるように紹介されています。

 

ユダヤ人にとって、言葉が話せるようになると、まず暗唱させられるのが「十戒」だと言われています。八王子教会の礼拝は、ルターの小教理問答書の交読から始まります。10数年前の高井先生の時代から始まったようです。十戒、主の祈り、聖なる洗礼の礼典、聖晩餐を、毎回、少しずつ交読しています。八王子教会の特徴の一つと言えると思います。

ユダヤ教では、モーセの十戒を中心にした律法を守ることが「永遠のいのちを受け継ぐこと」と教えられていました。マルコ福音書においては、「永遠のいのち」という言葉は、この箇所と10章にしかない、それだけに特別な意味を持つ言葉として使われています。

イエスさまのもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねたこの人の悩みは、幼い時から十戒を忠実に守っているのにもかかわらず、救いの確信が持てない、ということでした。

「何をすれば永遠のいのちを受けることができるのか」は、切実な問いでありました。

イエスさまは善い先生であるから、その答えを教えてもらえる、永遠のいのちに至る特別な業を教えてもらえると期待していたのでしょう。

イエスさまはこの人の問いを、『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』と、神さまだけがそれに答えられると、まず、神さまに向くようにと促されました。そして、神さまの教えられる命への道は十戒に込められていることを語られました。その答えはこの人にとって意外であり、望んでいたものではありませんでした。

彼は、今まで守ってきたことだけでは未だ、何か足りないと思っていたからでした。

イエスさまの言われる「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」、これらは十戒の中の「人間関係の戒め」です。そのようなことは幼い時から守って来た、と答えています。

イエスさまは、ご自分のことを「善い先生」と呼んだこの人に、神さまに対して人間が守るべき戒め、「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との、神さまと自分の関係に目を向けるように促されたのでしょう。

そして、「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。

聖書には「一つ」という言葉がしばしば出てきます。

マルタがもてなしで忙しくしている時、マリアは主の足もとで話に聞き入っている、そのことでイエスさまに不満を言うと、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ11:38~)と教えられました。

生まれつきの盲人だった人がイエスさまの言われた通り、シロアムの池で泥を塗られた目を洗うと見えるようになりました。そのことでユダヤ人たちに尋問された時、このように答えています。

「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。「(ヨハネ9章)

ルカ福音書の並行記事(18:22)では、「あなたに欠けていることがまだ一つある」となっています。おそらくこの男性は、この「一つ」のことさえ分かれば永遠のいのちを得ることになると、積み重ねてきてたものの上に何か一つを乗せればと、ずっと考えていたのでしょう。

ハインリヒ・フェルディナント・ホフマン (1824–1911) ゲッセマのキリスト1886年 Riverside Church, ニューヨーク.



この時のイエスさまは、十字架への道を真っすぐに進んで行かれていました。ということは、ユダヤの指導者たちからは、危ない存在として見られていた時期です。

そのようなイエスさまに、ひれ伏して願ったということは、本当に切羽詰まっていたのでしょう。けれども、この人は、イエスさまの慈しみ溢れる眼差しを受け入れることができませんでした。「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

この男の人が忘れている最も大切なことに気付いてもらいたい、という思いが含まれている言葉でした。

イエスさまのところに来るまでに、この人は助けを求めている人々への施しはしていたでしょう。イエスさまのこの言葉は、お金を所有するということに対しての厳しさを語っているのではないと思えるのです。確かに私たちは、しばしばお金の魅力に取りつかれることもある、お金は危険なものであることも知っています。けれどもイエスさまがこの箇所で伝えようとしたのは、それとは別なことだったと思います。

この人は、イエスさまの慈愛に満ちた眼差しを受けながらも、悲しみながら立ち去って行きました。マルコはその理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と語ります。もし、イエスさまの言われる通り、持っているものを全て売り払ったとしますと、この人は施しを受ける側に、貧しい者の側になります。この青年は、それができなかったのでしょう。釜ヶ崎の喜望の家の8月のニュースレターの1面に、「炊き出しに並ぶ人の列」というタイトルの写真が載っていました。炊き出しに並ぶ人々の真ん中にイエスさまの姿が描かれています。この人は、炊き出しの列に並ぶ側に、自分を置くことができなかったのでした。「貧しい者と共に生きる」という、イエスさまの招きに応えられなかったのでした。

 

この人は律法で決められていることを守ってきました。けれどもそれは、財産なり、地位などを“持ち続けること”を前提にしていました。それが、「先生、そういうことは皆、小さい時から守ってきました」という言葉に表れています。

この人と似たような境遇の人物が聖書の中にいました。

「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見直すようになったのです。…」(フィリピ3:5-9)

パウロは、「持つことを大切にする生き方」から、「存在を大切にする生き方」へと、イエスさまとの出会いによって変えられていきました。

 

気を落としながら立ち去って行く男の人に注がれたイエスさまのまなざしは、この男性が再びご自分の前に現れることを期待されていたのだと思うのです。そして、何よりも、神の愛に目を向けることを願われたのでしょう。神の愛、「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」手放すことの意味に気付くことを望まれたのだと思うのです。

ユダヤ人の考えでは、財産というものは決して悪いものではありませんでした。

財産は基本的に神さまの祝福の「しるし」でした。ヨブ記を読むとそれがはっきりしています。財産、子孫の繁栄、長寿、これらの祝福は旧約聖書では当たり前のことでした。それ故に、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に弟子たちは驚いたのでした。誰もが、自分の努力では神の国に入ることができない。その難しさに弟子たちは、では誰が救われるのだろうか」と、ますます驚くのでありました。

金持ちが神の国に入れない理由は、はっきりと示されていません。

けれども考えられることの一つに、お金があれば、どうしてもそれに頼ってしまう、ということがあるのかも知れません。イエスさまが語られる「神の国」は、自分の持っているものに頼って、それで到達するようなものではないのです。この人は、人間のできることを基にして生きる世界の中にいました。イエスさまはこの男性を、そうではない世界、善い行いを積み重ねて救いを求める生き方から解放されること。救いを与えて下さる神さまの眼差しに心を向ける。この人は、それに気付けなかったのでした。持っているものに頼る生き方ではなく、隣人に心を開くように招かれたのでした。

 

この物語が子どもを祝福された出来事の後に語られている、ということに深い意味が込められているように思います。イエスさまのもとに連れて来られた子どもたちは、この男性と対極にいる存在です。財産も無ければ、社会的な地位も力もありません。ユダヤ教の教えを、まだきちんと受けていないのです。まして、他者に与えられるようなものは何一つ持っていません。そのような子どもたちをイエスさまは近くに呼び寄せ、抱き上げてくださいました。

『神は何でもできるからだ』、このイエスさまの言葉に私たち自身を委ねる、そのような生き方に思い巡しながら、今週1週間を過ごしたいと思います。

 

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

【週報:司式部分】 2021年10月3日



聖霊降臨後第 19 主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前 奏  教会讃美歌164番のメロディに基づいた前奏曲  H.ビーツ曲

初めの歌 教会讃美歌164(わがたまよ、主をほめよ)1節

1. わがたまよ、 主をほめよ いのちある限り
大いなる主のみ名を ほめたたえまつれ。
いのちのもとなる み神をたたえよ。
ハレルヤ、 ハレルヤ。 アーメン。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能・永遠の神さま。
あなたは、私たちの弱さや問題をことごとく知っておられます。
あなたの力強い愛で私たちを助け、私たちが弱さを踏み越え、
堅い信仰を告白できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記2:18-24( 旧約 3頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 1:1-4,2:5-12( 新約 401頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:2-16( 新約 81頁 )

みことばのうた 教会讃美歌303 (このまま、われを愛し)

1. このまま、 われを愛し召したもぅ。
罪と汚れかこむとも 深き悩みおそうとも
主のもとに迎えたもぅ、 このまま。

説 教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌470 (こころいたみ) 1節

1. 心いたみ悩むもの 恵みの座に来たれや、
「主の力のいやし得ぬ 悲しみは世にはなし」。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 414(やさしき道しるべの)4節

4. み恵みたしかなれば、今なお
わが主は導きたもう 旅路を、
み国の朝 あけ初(そ)め み顔を 仰ぐ日まで。アーメン。

後 奏 変イ長調の後奏曲  J.ディーボルト曲

【 説教・音声版】2021年10月3日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝  説教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十九主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書10章2~16節

「信仰とは生活である」。以前、そんなことをお話ししたことがあると思います。教会に来る時だけが信仰の歩みではありません。生活の隅々までが信仰の歩みである、ということです。何を今更、と思われるかもしれません。しかし、私は、ここに日本のキリスト教の弱点があるのではないか、と長年考えてきました。いいえ、感じてきた、というのが実情でしょう。信仰理解と実生活とが乖離しているのではないか、と。

しかし、それは、必ずしもキリスト者としての模範的な生き方を意味しないのだと思います。模範的な生き方ができているかどうか、ということではない。むしろ、模範的になりえないことに対する悩みです。信仰者としての悩みを抱えながら生きているか、ということです。信仰が生活になるということは、そういうことではないか。悩みつつ生きる、ということが、生きた信仰と言えるのではないか。私は、そう思っています。

今日の日課は、結婚と離婚について、また子どもについて、ということが主なテーマになっていると思います。そして、次回の日課では、財産について、ということが取り上げられている。結婚、離婚、子ども、財産…。まさしく生活そのものです。私たちキリスト
者の生活そのものについてイエスさまは語っておられるのです。

まずは、結婚と離婚について。これは、ファリサイ派の問いから発生しました。これも良くあることですが、純粋な問いから発生したのではなく、ある種悪意からなされたものです。イエスさまの答え如何によっては、ツッコミどころが満載だと思ったからでしょう。いつの時代でも、権力闘争、主導権争い、政治の世界は変わらない、ということでしょうか。彼らはこう質問した。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。後程の「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」との回答から分かるように、ある意味、答えは明白です。律法では離縁・離婚は認められていたからです。

しかし、彼らはイエスさまの答えを待っていました。もし、許されていないと答えたならば、「ほら見たことか。こいつは人々を教え回っているようだが、律法に反することを教えているのだ」と聴衆の前で非難できる。逆に、許されていると答えたならば、では、どんな時に許されているのか、とツッコムことができる。

実は、これは申命記24章1節に起因するものでした。こう書いてある。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。そこで問題になるのが、では「恥ずべきこと」とは一体何か、ということです。その理解の仕方について、当時は大きく二つのグループに分かれていた、と言われています。一つはより厳格なグループ。浮気などの不貞行為を除いては一切認められない、という立場です。もう一つは、ゆるいグループ。極端な例でしょうが、料理が下手ということだけで当てはまると考えていたようです。もしイエスさまがどちらかに近い判断を下されたとすれば、少なくとも今の人気は切り崩せると考えたのかもしれません。厳格な理解を示せば、おそらく多くの男性の支持を失うでしょうし、ゆるい理解を示せば、女性たちは去っていくかもしれません。なんだか、与野党の攻防のようです。

鈴木浩先生が『ガリラヤへ行け』(これは、マルコ福音書の注解書のようなものですが、非常に良い本だと思います)という著書を出されていますが、このように記されていました。「実は、申命記の規定は弱い立場の女性を保護する目的を持っていた。…当時のユダヤ人の間では、結婚の当事者は対等ではなかった。女は自分の意志で『結婚する』のではなく、父親の意志で『結婚させられた』のである。そのような一方的な慣習の中で、男の身勝手さを幾分かでも緩和させようとしたのが、この規定であった」。今日のマルコには記されていませんが、平行箇所であるマタイ福音書では、イエスさまの回答を聞いた弟子たちがこのような反応をしたことが記されています。

19章10節「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った」。ここに至っても、男性の優位性を手放したくないのです。ともかく、いずれにしても、ここにあるのは、男性の身勝手さに違いない。男性優位の立場に違いない。結婚関係では、それは譲れない、と思っている。イエスさまの話を聞いた弟子たちでさえも、そこは引けないと思っている。しかし、イエスさまはどう語られたのか。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」。イエスさまは彼らの、いいえ、私たちの議論、関心事、つまり、どこまでが許されて、どこからがダメなのか、これは正当化できることなのか、できないことなのか、どちらが優位で優先されるべきなのか、そういった現実生活の関心事、課題を超えて本質へと、つまり本来の神さまの御心へと私たちを向かわせておられるのです。

今日の旧約の日課は、創造物語の一つでした。確かに、ここには男性の「助け手」としての女性、男性の肋骨から作られた女性、といった男性優位的なところも見えなくはないですが、しかし、それでも、他の生き物とは全く違う女性の特異性、男性と女性との一体性は伝わってくると思います。男性と女性、この深い結びつきは、やはり特別なのです。しかも、その特別な姿は神さまの姿とも重なってくる。なぜなら、この男性と女性とで命を生み出し、命を育むといった神さまの大いなる御業に連なるからです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。命の出来事に関わることができる。

これが、何よりの夫婦の特権です。神さまにかたどって造られた男と女の姿です。つまり、結婚というものは、創造の初めから神さまの大いなる祝福にもとにある、ということです。神さまは祝福するために男と女とを造られた。祝福するために男と女とを結び合わされた。それが、本来の神さまの御心なのです。ですから、生まれてくる子どもたちも当然祝福されることになる。神さまに、イエスさまに祝福されるのです。たとえ大人たちがどう思おうと、いいえ、場合によっては親たちでさえも好ましく思っていないのかもしれない。

しかし、生まれてきた子どもは祝福されている。創造の御業として祝福されている。それなのに、お前たちは、離婚の理由として正当化できるものはなにか、事あれば別れてやれ、当然の権利だ、自分の子どもを好き勝手して何が悪い、とそんなことに心向けながら生きること自体、神さまの本来の思いから大きくズレてしまっているのではないか、と問われるのです。

このイエスさまの教えを律法的に捉えるのは間違いです。つまり、離婚は絶対に許されない、ということではない。もっと言えば、このイエスさまの言葉を、残念ながら結婚生活に終止符を打たざるを得なかった方々を苦しめるために用いられるべきではない、ということです。現に、イエスさまが離婚した女性を拒絶されていないことは、あのヨハネ福音書にあるサマリアの女性とのやりとりからも明らかです。むしろ、この言葉は、今、結婚生活を営んでいる者たちこそが真に聞かなければならないのかもしれません。神さまが本来意図されたように、この結婚生活を、結婚相手を見ているのか、と問われるのです。そこで生まれるのは、そう、反省です。その通りにはなかなか生きられないという悩みです。神さまの真実の前に立たされるということは、そういうことです。

アンソニー・ヴァン・ダイク (1599–1641): 子ども達を私のもとへ来させなさい 1618–20 カナダ国立美術館



最初にキリスト者というものは、悩みながら生きるものだというようなことを言いましたが、それは悔い改めつつ生きる、ということです。先ほどの悩みが悔い改めへと導くきっかけになるからです。イエスさまは唯一神さまの御心を知っておられる方です。そのイエスさまが神さまの真の御心を示されるとき、私たちはどうしても悩まざるを得なくなる。悔い改めざるを得なくなる。しかし、それも、神さまの本意ではないのです。なぜなら、悩みをもった者を、悔い改める者を赦しへと、祝福へと招き入れることこそが、神さまの本意だからです。イエスさまはその真実の姿をもはっきりと私たちに示してくださっている。十字架と復活が、それです。

今日の箇所では、このようにも記されていました。「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。大人になればなるほど、人の善意に素直になれないものです。それは、多く傷ついてきたからです。傷つけてきたからです。結婚に破れた者だけではない。たとえ結婚生活を続けられたとしても、傷つけ、傷ついてきた。そんな私たちをイエスさまは手招きされる。さあ、私のところにおいで、と。

その時、いつも間にか私自身小さくなって、子どもになって、イエスさまに引き寄せられて、「大丈夫、私が赦す。君は神さまに徹底的に愛され祝福されているのだから」と、その膝に抱き上げられ、力強い温かい手を私の頭の上に乗せて祝福で包み込んでくださっているのを想像するのは、私だけでしょうか。