次週説教

【週報:司式部分】 2021年9月19日



聖霊降臨後第 17 主日礼拝

司  式  三浦慎里子
聖書朗読  三浦慎里子
説  教  浅野直樹
奏  楽  中山康子

開会の部
前 奏  教会讃美歌190番のメロデイによる前奏曲   J. パッヘルベル

初めの歌 教会190( 主のみ名によりてつどう )1節
1.主のみ名によりて 集つどうところに
主はともにいまし なかに立ちたもぅ。
いまなお主イェスは われらの閉とざせる
戸のなかに在ます。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
すべてのものの造り主なる神さま。
あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。
あなたが世界の隅々から、弟子たちを召し招かれるとき、「
み子イエス・キリストは主」と、大胆に告白する者の群れに、私たちも加えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 エレミア書 11:18−20( 旧約 1198頁 )
第2の朗読 ヤコブの手紙 3:13-4:3,7-8a( 新約 424頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 9:30-37( 新約 79頁 )

みことばのうた 教会403( わがたまなやみて )1節
1.わが霊たまなやみて くるしむときにも
主よ ともに在まして みちびきたまえや。

説 教 「 一番になりたい者は・・ 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会388( とうとき血をもて )1節
1.とうとき血をもて われらを救い
ひとりのほろびも 主は嘆なげきたもぅ。
つきせぬめぐみを そそぎたまいて
罪あるものをも あわれみたもう。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会416( わがゆくみちいついかに )1節
1.わがゆくみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん。
そなえたもぅ 主の道を ふみて行かん ひとすじに。

後 奏 後奏曲 J. Boyvin

【 説教】2021年9月19日(日)10:30 聖霊降臨後第17主日礼拝  説教 「 一番になりたい者は・・ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書9章30~37節

前回は、曲がりなりにも「あなたは、メシアです」とのペトロの信仰告白があったからこそ、イエスさまは次の段階へと…、つまり受難・十字架と復活を、十字架と復活のメシアを教えることに進むことができたのではないか。そういったことをお話ししたと思います。あれから今日の日課までにはどれくらいの時間が経ったのか。9章2節を見ますと、「六日の後」とあります。いわゆる、「変貌の山」の出来事です。そして、一行(イエスさまと弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネだけが山に登ったわけですが)が山から降りると、麓で待っていた弟子たちにはできなかった「汚れた霊」に取り憑かれていた子どもを癒す出来事が起こりました。つまり、少なくとも一週間以上は経っていた、ということでしょう。

そこに、二度目の受難予告が起こります。前回も言いましたように、これは単なる予告ではないと思います。実は、今日の受難予告にも、新共同訳でははっきりとは訳されていませんが、「教える」という言葉が使われているからです。一番新しい聖書協会共同訳ではこのように訳されています。「しかし、イエスは人に気付かれるのを好まれなかった。それは、弟子たちに教えて、『人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」。ここにも、「教える」という意図がはっきりと示されているからです。 先ほどは、今日の日課は「二度目の受難予告」だったと言いましたが、「教える」という目的からすれば、二度に限らなかったでしょう。おそらく、この一週間、何度も取り上げては弟子たちに語っていかれたのではないか、と思います。

しかし、その結果はどうだったか。後の弟子たちの様子、つまり、「誰が一番偉いか」などと議論していたことからすれば、あまり芳しくはなかったということではないでしょうか。なぜなら、「誰が一番偉いか」との議論の背後には、やはりイエスさまを政治的リーダーと考えていた節があるからです。つまり、近い将来、イエスさまがローマの支配から解放してくださり、新しい政府を樹立した暁には、弟子たちの中で重要ポストに着くのは一体誰か、と考えていたからです。つまり、受難予告を聞いて、ペトロが「そんなことはあってはならない」といさめた時と同様に、他の弟子たちもまた、受難と復活のメシアではなく、勝利者、解放者のイメージからいまだに離れることができていなかったことが窺われるからです。ここで誤解のないように言っておきたいのは、勝利者、解放者のイメージが間違っている、というのではありません。この勝利者であり解放者であるイエスさまが、同時に受難・十字架と復活のメシアだということです。

しかし、残念ながら、弟子たちにはなかなかこれらのことが浸透していかなかった。自分たちの思い(期待と言っても良いのかもしれませんが)、理解に固まってしまっていた。それが問題だ、ということです。一週間が、果たして長いのか、短いのか。もちろん、色々な思いがおありだと思いますが、この弟子たちの姿に慰めを見出すのは、私だけでしょうか。あのイエスさまがみっちりと教えてくださっているのです。一週間、何度も何度も繰り返し説いてくださったことでしょう。

しかし、弟子たちは変わらなかった。人の心の頑なさを覚えると同時に、この私自身の心が頑ななのも仕方がないのかもしれない、と思えてくる。だからといって、それで良いということではありません。仕方がない、と終わらせて良いということではないはずです。では、何が問題なのか。聖書はこのように語ります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」と。分からないのは、ある意味仕方がない。なぜなら、私たちの常識を超えたことだからです。神さまから遣わされたメシアがなぜ殺される必要があるのか。全く分からない。それが、私たちの素直な・素朴な感性でしょう。それは、仕方がない。では、なぜ尋ねないのか、ということです。分からないなら、理解できないなら、なぜ尋ねないのか。弟子たちは、怖かったから尋ねられなかったのだ、と言います。

確かに、自分たちが尊敬してやまない師が殺されてしまうなんて、それは恐ろしいことに違いない。そんな未来など想像もしたくない。しかし、ここの「恐れ」とは、単にそういうことを言っているだけなのだろうか。分かってしまうことの、理解してしまうことの恐れというものがあったのではないか。つまり、自分が持っていた、抱いていたメシア理解が変わる、変えられるということは、自分自身が丸ごと変えられることにもつながるからです。期待していたこと、手に入れられると思っていたこと、将来の展望、心の支え、それら全てが覆ってしまう。それを受け入れることが恐ろしい。もし、本当に自分たちが信じるメシアが、人々に見捨てられて十字架で死んでしまうようなメシアならば、お先真っ暗としか思えないからです。だから、そんな事実は見ないように素通りしてしまいたい。あえて、分かりたいとも思わない。だから尋ねない。そんな心理状態も、「恐れ」ということだったのではないか。そう思うのです。

最後の晩餐 メアリー・フェアチャイルド・ロー (1858–1946)



ともかく、少なくともここまでのイエスさまの弟子教育はあまりうまくいっていなかったように思われます。「誰が一番偉いか」などと論じ合っているくらいですから。「誰が一番偉いか」といっても、十二弟子皆が、俺だ、俺だ、と言っていたわけではないでしょう。先ほど、「変貌の山」の時にも触れましたように、イエスさまはこの時、弟子の中でもペトロとヤコブとヨハネだけしか連れて行かれませんでした。つまり、弟子たちの中にも、あの三人は特別だ、といった意識があったかもしれないのです。つまり、あの三人のうちで誰が一番偉いのか、です。一番の重要ポストにつくのは、三人のうちで誰か。つまり、他の弟子たちは、ひとりを押すわけです。俺はペトロが一番だと思う。俺はヤコブだと思う。俺はヨハネだと思う、と。つまり、たとえ自分が一番にはなれなくても、自分が押す人材が一番になれば、自分もまた引き上げてもらえるだろう、ということです。

今は自民党総裁選の真っ最中です。みな、自民党の一番になろうと躍起になっている。そこで行われているのは、力を持っている人をいかにして味方につけるか、です。それによって、今までの主義主張を変える人まで出ている。勝たなければ意味がありませんので、当然そうするのも分かります。しかし、それは、損得勘定です。権力を得るためには、結局は損得勘定になる。つまり、票に結びつきそうにない人たち、立場の弱い人たちが、いつも置いてきぼりになる。いくら口先では色々と言っても、権力闘争というのもは、そういったことに必ずなる。勝ち馬に乗ろうとする人たちも同じことです。結局は損得勘定です。もちろん、政治家たちだけのことではありません。私たちの話しです。

そんな弟子たちを前に、イエスさまは座られました。「座る」というのは、教師が正式に教えることを意味します。そして、十二弟子たちを呼び寄せ、小さな子どもを示されました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。子どもが可愛いから受け入れるのではありません。そうではなくて、何の役にも立たないような子どもを受け入れるのです。権力闘争、損得勘定とは、全く真逆のことです。しかも、イエスさまは、ご自分と小さな子どもとを、あたかも同列のように置かれる。子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのだ、と。いかに、小さな存在に心を注がれているかが分かると思います。

イエスさまは弟子たちにこう言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と。イエスさまは、一番になりたいという思いを否定なさいません。しかし、それは、偉くなるためのものではない、とおっしゃるのです。確かに、一番でなければできないこともあります。しかし、それは、権力闘争でも損得勘定でもないはずです。一番小さな人たちが、人々から、社会から受け入れられて生きるためです。そのために、一番を目指して欲しい、と願っておられる。私と同様に、この役に立たないような小さな子どもを受け入れる一番になって欲しいと望んでおられる。それは、私のように、仕える生き方なのだ、と示してくださっている。そうです。

この一番の歩みを送られたのは、イエスさまなのです。そして、この歩みのためには、十字架と復活が欠かせない。そうでないと、これを除いて一番を求めてしまうと、結局は権力闘争に、損得勘定にいってしまうからです。いくら、崇高な志を抱いて、勝利を、解放を目指しても、それだけでは、あの弟子たちのように、結局は「誰が一番偉いのか」ということになってしまうからです。だから、イエスさまは正されるのです。どれほど時間が掛かろうとも、十字架と復活の真実を分かって欲しいと教えて行かれるのです。

先ほど私は、心頑なな弟子たちに慰められると言いました。それは、自分の姿と重なるからです。しかし、本当に慰められるのは、この弟子たちをあくまで教え続けてくださっているイエスさまのお姿に、です。道々「誰が一番偉いか」と論じておきながら恥じ入っている弟子たちを身元に呼び寄せ、懇ろに語り聞かせ、子どもを抱き上げ、愛を示し続けてくださる、ご自身の道に引き寄せ続けてくださるイエスさまの姿。このお姿があるからこそ、私たちもまた反省しながらも歩き続けていけるのではないでしょうか。

【 説教・音声版】2021年9月12日(日)10:30 聖霊降臨後第16主日礼拝  説教 「 チャレンジされるイエス 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十六主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書8章27~38節



本日の福音書の日課は、ペトロの信仰告白の出来事でした。
ところで、皆さんはご自身が洗礼を受けられた時のことを覚えておられるでしょうか。ご存知のように、私はこのルーテル教会とは違う伝統の教会・教派で生まれ育ちました。ですので、洗礼式の様子も随分と違います。洗礼を受ける前に、まず会衆の前で証しをす
るのです。自分はこのようにしてイエス・キリストを信じるようになった、と証する。つまり、自分なりの信仰の告白です。

そして、全身水につかる洗礼(これを「浸礼」と言いますが)を受けました。正直、水の中に押し倒された衝撃的な出来事は今でもはっきりと覚えていますが、そこで何を語ったのかは全く覚えていません。二十歳です。まだ青臭さが残る、少しトゲついた時代です。これまでの人生の不条理を、不満を長々とぶつけていたのかもしれません。しかし、そんな中でイエス・キリストと出会えた、イエス・キリストを信じることができるようになった、と告げることができたのではないか、と思います。そして、そんな青二歳の告白を、会衆は自分たちの仲間の告白として受け入れてくれたのではないか、とも思うのです。

当然、同じではありません。同じである必要もありません。しかし、みなさん一人一人も、そんな信仰の告白からはじめられていることを、もう一度、思い起こして頂きたかったのです。青式文の洗礼式の項目では、このように記されています。「主と会衆の前で、あなたに尋ねます。あなたは、悪魔と、その力と、その空しい約束をことごとくしりぞけますか。全能の父なる神をあなたは信じますか。父の独り子、私たちの主イエス・キリストを、あなたは信じますか。聖霊を信じますか。また聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちをあなたは信じますか。あなたは、この信仰の元に、キリストのからだに連なる者となり、み言葉の教えを守り、恵みの手段を尊び、生涯を送りますか」。

もちろん、みな「はい」で応えるわけです。あるいは、皆さんの中には幼児洗礼を受けられた方もおられるでしょう。堅信式の式文にはこうある。「今、あなたに尋ねます。あなたは、洗礼において神が与えられた約束に堅く立ち、み言葉を聞き、聖餐にあずかり、神の忠実な民の中に生き、聖霊の賜物に従って、主のために身を献げて、分に応じて働き、言葉と行ないによって、キリストにおける神の救いを宣べ伝え、主イエスに従って隣人に仕え、神の国の正義と平和の確立のために努めますか」。

ゲツセマネの祈り:オリーブ園のキリスト 1889年 ポール・ゴーギャン Norton Museum of Art アメリカ



もちろん、「はい」と答えて、会衆とともに使徒信条によって信仰の告白をすることになります。何が言いたいか。信仰告白から始まる、と言うことです。キリスト者というものは、キリストを信じる信仰告白からはじまる。式文が異なっていても、洗礼の仕方が違っていても、ここからはじまる。しかし、ここで注意していただきたいのは、ここから「始まる」ということです。始まりであって、終わりではない。むしろ、この信仰告白から始まる、続いていく生、歩みがある、ということです。

ある方は、今日のこの箇所をマルコ福音書の分岐点だと言われます。別の方は、これまでは序文であって、ここから本当に言いたいことがはじまっていくのだ、とも言われる。私たちで置き換えるならば、これまでは求道生活と言えるのかもしれません。イエスさまと出会って、しばらく一緒に過ごしてみて、興味・関心が湧いて、様々な言動を見聞きして、この方なら信じてもいいかなっと信仰の告白に至っていく。しかし、後半の部分を見れば明らかなように、ペトロは「あなたはメシア・救い主です」と立派な信仰告白をした
にも関わらず、何も分かっていなかったことが暴露されてしまうのです。「引き下がれ、サタン」などと言われてしまうようなペトロの無理解な、誤解だらけの信仰告白など、一体何だったのか、とさえ思ってしまう。

しかし、こうも考えられるのではないか。確かに、イエスさまからすればペトロの信仰告白は誤解にまみれた非常に不十分なものだったかもしれないが、この信仰告白があったからこそ、ご自分の受難…、十字架と復活を打ち明けられたのではないか、と。つまり、このペトロの「あなたはメシア・救い主です」との告白があったからこそ、次の段階へと進むことができたのではないか。そう思うのです。なぜなら、このように記されているからです。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。ここのところは、よく「受難予告」と言われます。しかし、お読みいただければ分かるように、単なる「予告」ではないのです。弟子たちを「教える」ためだったのです。これまでにも、イエスさまは様々なことを教えてこられたでしょう。そんな教えを受けたからこそ、弟子たちは信仰の告白ができたはずです。

しかし、これまでは受難・十字架と復活のことは教えてこられなかった。少なくとも、「はっきり」とした形では、示してこられなかった。だから、この時の弟子たちの反応も当然と言えば当然かもしれません。今日、初めて、そのようなことを聞いたのですから。今まで一度も聞いてこなかったのですから。しかも、それは、全く信じがたい理解を超えた内容だった。神さまが送ってくださった救い主が、人々から排斥されて殺されるなんて、全く有り得ないことだと思った。

いいえ、決してあってはならないことだと思ったでしょう。だから、「いやいや、先生。そんな弱きなことを言われては困りますよ。あなたは私たちが信じる神さまから遣わされた救い主なんだから、どんと構えていてください」、そう言いたくなる気持ちも分かります。しかし、それでは、全然足りないのです。そのような理解だけでは困るのです。だから、イエスさまは、ここからもう一歩先に進んだ事柄を、彼らが信じ受け止めるべき最も大切な事柄を、この時から、あの信仰の告白の時から、残された時間の限りを尽くして教えていこうとされたのです。

信仰の告白自体が恵みなのです。並行箇所のマタイ福音書では、このようにも記されているからです。「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』」。ここにありますように、信仰告白自体が神さまからの賜物なのです。恵みでしかない。しかし、これは始まりなのです。十分だとは言い難いのです。

私たちも振り返ってみると、洗礼を受けるときに十字架と復活のことは、確かに情報としては頭にあったかもしれませんが、良く分かってはいなかったのではないでしょうか。だから、教えていただくしかない。教えられ続けていくしかない。イエスさまに。なぜなら、私たちもまたペトロだからです。十字架と復活の救い主など、私たちの中からは決して生まれてこないからです。

むしろ、拒絶したくなる。そんなはずはない、と言いたくなる。私たちが信じ、期待している救い主とは、このような方です、と言いたくなる。ペトロの時代のような、外国の勢力から救ってくれる政治的救い主を私たちは求めてはいないかもしれませんが、しかし、いつも優しく、傍にいて寄り添ってくださるイエスさまであってほしいと思っているのかもしれません。十字架と復活など持ち込まないで欲しい、と思っているのかもしれない。

繰り返しますが、それが間違っている、というのではないのです。私たちが信じ、期待しているメシア、イエスさまの姿が間違っている、と言いたいのではない。そうではなくて、それだけでは不十分だ、ということです。その上で、教えられなければならないことがある、ということです。なぜなら、神さまは私たちへの愛を、イエスさまの十字架と復活によって貫かれることに決められたからです。ここを見失うと、神さまの愛自体が霞んで行ってしまうからです。だから、ここは譲れないのです。イエスさまも譲れなかったのです。

私たちは、神さまの恵みによって信仰告白へと導かれました。「あなたこそメシア・救い主です」と言えるようになったのです。それは、本当に感謝なことです。しかし、私たちは、ここから始まります。始めるのです。そのために、イエスさまご自身が、私たちの背中を押し出し、あるいは引っ張り込み、時には叱責されることもあるかもしれませんが、それも神さまの愛を受け止めて欲しいからであって、私たちを決して見放すことなく、教え諭していってくださるのです。あのペトロや弟子たちのように。

そのことをもう一度覚えて直して、ここからはじめていきたい。そう願っています。

【週報:司式部分】 2021年9月12日



聖霊降臨後第 16 主日礼拝

司 式 三浦慎里子
聖書朗読 三浦慎里子
説 教 浅野 直樹
奏 楽 萩森 英明

開会の部
前 奏 「愛しまつるみ神にのみ」D. Buxtehude

初めの歌 教会讃美歌149(空も地をも)1節

1.空も地をも あまねく統べ
愛と力 満つる神に
ものみな 感謝のほめうた捧げよ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
愛する救い主よ。
私たちがあなたを見いだせないときにも、あなたは私たちを捜しだしてくださいます。
慈しみとみ力を顕して、私たちの耳と心をみ言葉に対して開いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 イザヤ書 50:4-9a( 旧約 1145頁 )
第2の朗読 ヤコブの手紙 3:1-12( 新約 424頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 8:27-38( 新約 77頁 )

みことばのうた 教会讃美歌76(めぐみの主イエスよ)1節

1.恵みの主イェスよ 心のうちに
とうときみ姿 しるさせたまえ。
十字架のイェスを 心に刻み、
われらの隠れ家、 救いとしたまえ。
アーメン。

説 教 「 チャレンジされるイエス 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌313(主はへりくだりて) 1節

1.主はへりくだりて 罪人のために
十字架の苦しみ 耐え忍びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会讃美歌407(汝がみ手に力あり) 4節

4.この民を力づけ とこしえに導きて
恵みもて生かしたもぅ、 みさかえは主にあれや。

後 奏 「喜べわが魂よ」J. Pachelbel

【週報:司式部分】 2021年9月5日



聖霊降臨後第 15 主日礼拝

司 式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子
説 教 浅野 直樹
奏 楽 上村 朋子

開会の部
前 奏  明るき太陽は今や輝きあらわる K. Brod
初めの歌 教会讃美歌171(かがやく 日を仰ぐとき)1節

1.かがやく 日を仰ぐとき 月星 ながむるとき、
いかずち 鳴りわたるとき まことの み神をおもう
わがたま いざたたえよ、大いなるみ神を、
わがたま いざたたえよ、大いなるみ神を。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能・永遠の神さま。
あなたは、信じる者に、まことに貴い約束を与えられました。
あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち克つ強い信仰を与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 イザヤ書 35:4-7a( 旧約 1116頁 )
第2の朗読 ヤコブの手紙 2:1-17( 新約 422頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 7:24-37( 新約 75頁 )

みことばのうた 教会讃美歌322(主なるイエスは)1節

1.主なるイェスは わが喜び、 わがたから、
弱きわれは 長き月日、 主をもとむ。
主はわがものぞ わが主よみそばに おらせたまえ。

説 教 「 この人が救われたのは・・」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌332(主のまことは)4節

4.主のまことと そのめぐみを、
のぞみて我らは 安らぎをえん。
とうときかな 天の神は、
力にあふるる とこしえの主。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌460(こころみうけ)3節

3.うれい悩み 苦しみも
主の恵みの わざなれば
すべてを主に ゆだねつつ
み手に頼り われはゆかん。

後 奏  み神より離れまつらじ O. Abel

【 説教】2021年9月5日(日)10:30 聖霊降臨後第15主日礼拝  説教 「 この人が救われたのは・・ 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十五主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書7章24~37節

今日の福音書の日課は、二つの奇跡物語…、癒しの奇跡の物語が取り上げられていました。この二つ、場所も奇跡の様子も全く違うものですが、よく見ていきますと共通点もあるように思います。それは、癒された当事者があまり見えてこない、ということです。聖書には様々な癒しの奇跡が記されていますが、その多くは当事者とイエスさまとのやりとりなどが、非常に大雑把ではありますが記されているのが普通だと思います。しかし、こ
こにはほとんどない。最初の奇跡物語に至っては、イエスさまと出会ってさえいない。

登場してくるのは、なんとか娘の危機を救って欲しいと訪ねてきた母親だけです。後の耳が聞こえず、明瞭に言葉を発することができなかった人も、イエスさまによって「はっきり話すことができるようになった」と記されているだけ。非常に印象が薄い。むしろ、周りの人々…、この人をイエスさまの元に連れてきた人々、また奇跡を目撃し、あるいはその様子を聞いて驚きをもって受け止めた人々の方が目に付く。本来主役であるはずの人々が脇役に周り、脇役だった人々が全面に出てきているようにも感じます。むしろ、ここでは、マルコはそのことを伝えたかったのではないか、とさえ思う。つまり、困難の中にあった二人を救ったのは、もちろんイエスさまに他ならないわけですが、周りの人々もその業に用いられている、ということです。そういった人々の存在は、決して小さくはなかった。

それは、私たちにも言えることなのではないでしょうか。私自身のことで言えば、教会に誘ってくれた人はいませんでした。自分の意思で教会に行った。しかし、間接的ではありますが、中学の社会科の授業の時にキリスト教について熱心に語ってくれなかったならば、母が近隣の教会を探し出して車で連れて行ってくれなかったならば、今の私はなかったかも知れない。もちろん、それだけではありませんが、多くの人のおかげで、ということは確かにあるのだと思うのです。

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ (1571–1610) Basket of Fruit 静物画 1599年頃 アンブロシアーナ絵画館



実は、皆さんもよくご存知の姉妹が、8月27日に急にお亡くなりになり、昨日葬儀を行って参りました。姉妹は1997年2月号の「むさしのの輪ッ」のインタビュー記事でこのように答えておられました。「聖書の箇所ですか、あらたまってきかれるとこまるのね。何年か前に外出先で体調をくずしそのまま入院したことがあったのね。娘に持って来てもらった聖書をなにげなく開いた時の箇所がヨハネ第一の手紙1章5節から6節、ずきんと反省させられ、忘れられない箇所になりました。マルコ7章24節から30節、イエス様と、ギリシャ人で、スロ・フェニキアの女性のやりとり、あの女性のひたむきな心、感動してしまいます」。まさに、奇遇だと思いました。おそらく、好きな聖書の箇所はどこですか? といった質問だったのでしょう。皆さんにも好きな聖書の言葉、印象深い言葉などがおありだと思いますが、少なくとも牧師生活20年を過ごしてきた中で、この箇所を取り上げられた方は初めてだったと思います。ここに、なんだか姉妹の信仰観・人生観に触れさせていただけたように感じました。

この箇所は決してすんなりと読める箇所ではないと思います。ましてや好きな箇所とはなかなか言えないのではないでしょうか。悪霊に取り憑かれた幼い娘を抱えている母親が必死の思いでイエスさまに救いを求めたのに、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」などと言われてしまったのですから…。今日、このことを詳しく取り上げる時間はありませんが、今はこの言葉を
語られたイエスさまに少し注目していきたいのです。

先ほども少し触れましたように、私は牧師の働きを20年ほどしていますが、言葉の難しさを常に感じてもきました。思うように伝わらなかったり、誤解されることも少なくなかったからです。言葉というものは、ある意味生き物でもあります。同じ言葉を語っても、その時の表情や声のトーン、その時の受けて側の状態、信頼関係等によって、受ける印象が全然変わってしまうことがままあるからです。先程のイエスさまの言葉を皆さんは
どのように受け止めたでしょうか。突き放すような冷たい印象でしょうか。確かに、翻訳上の問題もあるのかも知れませんが、一般的にそう受け止められても仕方がないと思います。

しかし、もしこの時、イエスさまが微笑みながら話されたとしたら…。たとえば、の話であって、ニコニコしながらこんなことは話されなかったでしょうが、つまり表情や声のトーンなどで印象がガラリと変わるということです。この物語の場合、大抵はこんなひ
どいことを言われたのに怯まなかったこの女性が賞賛されることが多いと思いますが、もちろんそういったことも軽視できないとは思いますが、ある意味イエスさまがこの女性がなおも食い下がることができるようなスキを与えられたのではないか、とも想像するのです。二人のやりとりの中では、取り付く島がなかったということでは必ずしもなかったのではないか、と。ともかく、この母親の頑張りで、人々の熱意で、今日の二人は癒しの奇
跡に与ることができたのです。

しかし、私たちはこう思うのかも知れません。確かに、人々をイエスさまの元に連れて行くことが大切だ、ということは分かっている。しかし、奇跡など起きないではないか。何も変わらないで、ただ恥を受けるだけではないか、と。それも、率直な私たちの現実感覚なのかも知れません。
そのことを思い巡らす中で、たびたびご紹介していますカトリックの雨宮神父の解説が非常に有効だと思いましたので、少しご紹介したいと思います。雨宮神父はまず聖書が示す奇跡とは「自然法則から逸脱した現象」ということではなくて、と語り、次のように言われます。「旧約聖書で『奇跡』といった意味合いを表すことのできる言葉は、まず〈モーフィート〉ですが、……(これは)『不思議な現象』といっても、神が与えた『しるし』
であることを強調しています。次に〈ニフラーオート〉ですが、……人間の理解を超えた神の業を強調します。最後の〈ノーラーオート〉は、……神への畏怖を引き起こす出来事を表します。このように旧約聖書では、そこに『しるし』や『偉大さ』を見て、『畏怖心』を持つべき出来事として奇跡が捉えられています」。少し飛び飛びになってしまいましたが、そのように記しておられました。どうしても私たちは、癒しの事実といった奇跡の現
象に心が奪われやすいものです。そう言ったことで、奇跡を判断する。

しかし、雨宮先生がおっしゃるように、奇跡とは本来、神さまが働いてくださっていることの「しるし」なのです。確かに神さまは生きて働いておられるのだ、ということの「証し」なのです。そういう意味でも、私は人生が変えられることが最大の奇跡だと思っています。今日の幼児も、耳も口も閉ざされていた人も、単に癒されただけではないはずです。人生が変えられたのだと思う。そして、それは、当事者である彼らだけでもなかったのです。彼らの周りの人たち、あの母親も障害を抱えた人を連れてきた人々も、この奇跡、しるしによって人生が変えられたのだと思う。

人生が変わる、変えられる、というと、何かよほど大きな出来事でもない限り起こらない、と思われるかも知れません。しかし、そうではないはずです。私たちも変わった、変えられた。人を赦すことなど考えもしなかった私たちが赦せるようにと願うようになった。祈れるようになった。これは、人生が変わった、変えられた、と言えるのではないでしょうか。

私自身、自分が変わったなどとはとても思えませんでしたが、何年かぶりに再会した宣教師の方に、「浅野さんは本当に変わったね~」と言っていただけたことを、もう20年以上も前のことですが、今でもはっきりと覚えています。それほど、自分自身では気づかないほど、気づけないほど小さな変化かも知れませんが、しかしそれでも、人生が変わった、変えられた証拠だと思うのです。そこに、奇跡を、神さまの働きの確かな「しるし」を見ることができるからです。

今日の箇所でもう一つ気になる言葉があります。それは、37節の「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉です。もちろん、これはイエスさまのことを言っているものです。しかし、正直に言いまして、求道者時代も含めますともう40年近くになりますが、このような言葉を教会の中で聞いたことは一度もありませんでした。これは、非常に残念なことです。なぜなら、奇跡を体験した者たちを取り巻く人々からごく自
然な形で「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言い合えるのが、信仰共同体の姿だとも思うからです。

では、なぜこの言葉がすんなりと出てこないのか。奇跡だと思っていないからです。神さまが働いておられる「しるし」だと受け止めていないからです。こんな小さな変化など、単なる偶然に過ぎない、本人の努力の賜物に過ぎない、と思い込んでいるからです。そうではない。奇跡はおきている。おそらく私たちの誰もが、それを体験している。だからこそ、今の私たちがあるはずです。それは、イエスさまの働きであり、「すばらしい」ことなのです。

今日のこの箇所を「感動する」と言えたのは、この姉妹の上にも神さまの奇跡が、確かなしるしがあったからでしょう。その姉妹は88年間の生涯を閉じるまで、信仰の道を歩み続けられました。これもまた「奇跡」。姉妹をこのように守り支えてくださった神さまを褒め称えていきたいと思います。

【週報:司式部分】 2021年8月29日



聖霊降臨後第 14 主日礼拝

司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽

開会の部
前 奏  教会讃美歌154番による前奏曲 T.Tertius Noble
初めの歌 教会 154( もろ国の民よ )1 節

1.もろ国の民よ み前にひれふせ、
主こそわがみ神 わがつくりぬしぞ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
恵みの神さま。
多くのことに心を煩わされている私たちが、あなたの教えに耳を傾け、
欠くことのできない、ただ一つのものを選び取ることができるように助けてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

アーメン

第1の朗読 申命記 4:1-2,6-9( 旧約 285頁 )
第2の朗読 ヤコブの手紙1:17-27 6:10-20( 新約 421頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 7:1-8,14-15,21-23( 新約 74頁 )

みことばのうた 教会 460( こころみうけ )1節
1.こころみうけ 悩むとき
祈りたまえ わがために
迷えるとき 呼びかえし
落ちゆく身を ささえませ。

説 教 「 神の思い、人の思い 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会 361( 世に告げよ )1節

1.世に告げよ、たからかに
いとくしき 主のみ名を。
イェスきみこそ勝利の主
地の果てまで治めたもぅ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会 279( みことばもて )2節

2.病めるものを いやしませる 主イェスよ、
とく来たりて もろびとらに
てらしたまえ ひかりを。

後 奏  主イエスよ われらに  J.S.Bach

【 説教・音声版】2021年8月29日(日)10:30 聖霊降臨後第14主日礼拝  説教 「 神の思い、人の思い 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書7章1~8、14~15、21~23節

今日から、またマルコ福音書に戻って参りました。
ところで、本日の日課に記されていました「偽善者」という言葉をどう思われたでしょうか。「偽善者」…。この言葉は、私にとっては非常に痛い言葉です。キリスト教と出会った若い頃から、ことあるごとに自問自答を迫られている言葉でもある。「お前は偽善者なのではないか」と。信仰者になってからの、私自身の悩みの一つでもあります。

「偽善者」。手元の国語辞典で引いてみますと、「偽善をする人」とあり、「偽善」とは、「本心からではない、うわべだけの善行」とありました。私たちにも、よくわかることです。ところが、新約聖書が書かれているギリシア語では、「偽善」とは、元々は仮面をつけて芝居を演じる役者のことだと言われます。そして、ある方はこうも言う。「見栄えの良い面をつけて、人々を喜ばせる」ことだと。私自身が時折問われる「偽善者」とは、おそらく後者に近いと思います。最初っから「うわべだけの善行」をしたいとは思っていない。できれば、本心からしたいとも願っている。

しかし、その目的は何か、と問われると、本当にその善行そのものにあるのか。もっと言えば、その人のために、となっているのか、と問われるのです。知らず識らずのうちに、その目的が評価されるため、自分が少しでも良く見られるため、と変質してしまっているのではないか、と問われる。騙したい訳ではありません。見せびらかしたい、訳でもない。できれば、本心から、誠心誠意と思っている。しかし、その目的がいつの間にか、結局は「自分自身のために」と成り果ててしまっているのではないか、と悩むのです。それが「罪」なのだと言われれば、その通りでしょう。

イエスさまは、ここでファリサイ派の人々や律法学者たちを「偽善者」だと断罪されました。度々お話ししていることですが、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、決して悪人ではないのです。おそらく、善人の部類と言っても良いでしょう。ともかく、彼らは信仰熱心なのです。私たちは、どうしても善と悪といった二分化をしたがる者なのかもしれません。ことあるごとにイエスさまに反対・反抗し、結局は十字架へと追いやっていったファリサイ派、律法学者たちは悪人なのだ、と。今、アフガニスタンで何が起こっているかは、皆さんもよくご存知でしょう。タリバンが復権し、非常な混乱が起こっています。また、特に女性の権利など、さまざまな懸念がもたれてもいます。事実、流血沙汰や女性に対する弾圧が起こっているといった報道もされています。

そんな中で、二年前に凶弾に倒れた中村哲さんが取り上げられることが多くなったように感じます。中村哲さんのことを詳しくお話しする時間はありませんが、アフガニスタンの内情をよく知る者として、2001年の国会に参考人として呼ばれていたときの様子が新聞記事に掲載されていました。この時は、米国の同時多発テロ直後であり、自衛隊が米国の対テロ活動を支援できるように国会で法整備を急いでいた時のようですが、中村哲さんは自衛隊派遣を「有害無益」と言われたようです。その意見を撤回するように求められた時には、「日本全体が一つの情報コントロールに置かれておる中で、率直な感想を述べているだけ」と突っぱねた、とか。つまり、聖戦を目指す米国は善であり、テロリストを匿うタリバンは悪といった構図です。

もちろん、哲さん自体、タリバンの方針を全面的に支持する訳ではなかったわけですが、それでもアフガニスタンの内情を深く知るものとして、そのような単純な図式は百害あって一利なし、と訴えた訳です。そんな中村哲さんを取り上げた藤原辰史(京都大学准教授)氏の記事も印象深いものでした。

「『正義』の野蛮な二分法が国会から人気アニメまで貫徹し、日本の思考様式が複雑な状況に耐えられなくなったのも、そして、国会での議論で首相が答弁をごまかすようになったのも、ちょうどこの頃である」。物事は善悪という単純な二分法で測れるようなものではない。しかし、あのアフガニスタンに対する対応の時から、日本はそんな複雑さを推し量る思考に耐えられなくなっているのではないか。そのような指摘は非常に重いものがあると思うのです。

随分と話が逸れてしまったかもしれませんが、今日の箇所で言えば、イエスさまがファリサイ派・律法学者たちを「偽善者」と言われたのだから悪だ、と単純化するのではなくて、なぜそうなってしまったのか、といった理由を探ることが大切だと思うのです。なぜなら、それらは決して他人事とは言えないからです。

最初に言いましたように、ファリサイ派の人々、律法学者たちは、当時の人々の誰よりも信仰熱心でした。彼らの出発点が「熱心さ」にあったことは、疑いようのないことでしょう。信仰の熱心さとは、神さまが与えてくださっている律法への熱心さということです。つまり、如何にして律法を守るか、ということです。しかし、皆さんもご存知のように、律法の代表格である十戒を見ても分かるように、律法は非常に大まかなことしか記されていません。当然、その熱心さは、果たして私は本当に適切に律法を守れているのか、といった問いになる訳です。

そして、そのような不安な気持ちを解消してくれるのが、いわゆるハウツー本なのです。初めての子育てで不安だった時、このようなハウツー本に飛びついたことを思い出します。ともかく、何が良くて何が悪いのかの詳細を知りたくなる。そのために、学者たちがさまざまな解釈を施すことになりました。それが、今日の箇所でいう「昔の人の言い伝え」ということです。これは、単なる伝承ではありません。どうすれば、律法を厳格に守ることができるか、といった昔からの知識の積み重ね、でした。その中でも、特に注意していたことは「汚れ」ということです。なぜなら神さまは「汚れ」を厭われるからです。ですから、汚れから身を守るためにはどうしたら良いのか、と昔から熱心に探究されてきたのです。食事の前に手を洗わないことがどうしてこれほどの問題を引き起こすのか。

私たちにとってはピンとこないところですが、当時の彼らにとっては非常に重要なことでした。しかし、そんな熱心さが裏目に出てしまった。熱心になればなるほど、本来の目的から逸れていってしまったからです。そのことをイエスさまは問題視されるのです。

ヨハネス・フェルメール マリアとマルタの家のキリスト1654年 – 1656年 スコットランド国立美術館 (イギリス)



一方で、そのような熱心さが問題だ、といった指摘もあるでしょう。私たちの世界を見回しても、独りよがりな熱意がかえって問題を引き起こしていることも事実です。しかし、だからと言って、熱意・熱心さを否定すればよい、ということではないでしょう。熱心であろうが、あるいは冷めていようが、問題は本質・真意を見失っている、ということだからです。その具体例として、イエスさまは「コルバン」のことを持ち出されました。今日の日課では飛ばされていましたが、「コルバン」とは神さまへの捧げ物ということです。

例えば、本来は両親に対する扶養義務があるはずなのに、それらがコルバンになれば、その扶養義務が免責されている、と言われます。確かに、神さまを第一にするといったことを考えるならば、一応の筋は通っているのかもしれません。しかし、これは、いくらでも抜け道になります。両親を養うのが嫌ならば、コルバンになったと言えばいいのですから。私たちが今聞いても、これは馬鹿らしいことです。しかし、こんな馬鹿らしいことが熱心さのもとで堂々と行われている。全く本質を、神さまの真意を見失っている。

しかし、残念なことに、この私たちの現代世界では、そんな馬鹿らしいことは起こっていない、と果たして言えるのでしょうか。イエスさまは旧約聖書を引用して、このように言われました。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」。本当に心に突き刺さる言葉です。今日の日課の最後のところを読みましても、イエスさまが私たちの内面を問われていることは明らかだと思います。

ここに登場してきたファリサイ派、律法学者の人たちと私たちとは、決して無縁とは言えないでしょう。最初は正しい動機であったとしても、それがいつの間にか歪んでしまうからです。本質を見失い、百害あって一利なしってことにもなってしまう。私たちもまた、すぐにでも本質を見失い、神さまの真意・御心から外れ、自分を良く見せることだけに心奪われてしまう「偽善者」になりやすいのです。だからこそ、内面を探る必要性が出てくる。本当の意味で私たちを汚すのは、外からではなくて内から出てくるからです。だから、悔い改めがどうしても必要となる。

近年は自虐的と称して、自省を軽視するような傾向がなかったでしょうか。それは、世の中だけでもなく、キリスト者である私たちにとっても、決して軽視できないことでもあるように感じるのです。確かに、内面を見つめることは辛いことです。なぜなら、ここに記されていますように、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などの私たち自身を、また私たちの周りの人たちを傷つけ、汚すものが渦巻いていることに気付かされるからです。

しかし、実はここに福音がある。悔い改めることができるのは恵みに他ならないからです。なぜなら、悔い改めることができるからこそ、私たちは立ち止まることができるからです。神さまから離れていってしまっていないだろうか、と内省することができるからです。そして、このような弱さを、汚れを、罪を持つ私たちを救うために来てくださったイエスさまに思いを向けることが、救いを求めることができるからです。

それが「偽善」の、善悪の単純化の暴走を止めることにもつながると思うからです。どうぞ、ルターの伝統に生きる者として、生涯悔い改めを重視していく私たちでありたい、と願わされています。

【週報:司式部分】 2021年8月22日


司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 萩森 英明

前 奏  強き王なる主を誉めまつれ」J.G.Walther
初めの歌 教会 172( つくりぬしを )2 節

2.つばさひろげ われらをはぐくみ
世を統べたもぅ 主をたたえまつれ。
すべては 主のみ手にあり いかで忘るべき。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
私たちを守られる神さま。
この世の嵐が荒れ狂い、私たちを脅かすとき、み民をあらゆる不安と恐怖から
解き放ち、不信に陥らぬように防ぎ守ってください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 ヨシュア記 24:1-2a,14-18( 旧約 376頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 6:10-20( 新約 359頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 6:56-69( 新約 176頁 )

みことばのうた 教会 238( いのちのかて )1,2節

1.いのちのかて 主よいま
与えたまえ この身に。
聖書学ぶ わがたま
生けることば あこがる。

2.まことの道 主よいま
示したまえ この身に、
罪のなわめ 除かれ
永遠のやすき あらわれん。

説 教 「 イエスと共に歩む 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会 256( すがたは見えねど )3節

3.イェスのからだと きよき血とを
みことばかしこみ 受くる恵み。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会 374( たよりまつる )1節

1.たよりまつる わが主よ
み声聞きて 安けし。
(おりかえし)
われはただ主に たよりまつる
恵みあふるる わが主よ。
(おりかえし)

後 奏 「いざ我が魂よ主をほめまつれ」 J.Pachelbel

【 説教・音声版】2021年8月22日(日)10:30 聖霊降臨後第13主日礼拝  説教 「 イエスと共に歩む 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十三主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書6章56~69節

今週も前回の続きです。しかし、今日の日課には、キリスト者である私たちにとっては、大変厳しいことが記されていました。「わたしは天から降ってきた命のパンである。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ永遠の命は得られない」といった一連の話を聞いた多くの弟子達がイエスさまの元を去っていったからです。先達て「五千人の供食」の出来事の時には、人々はイエスさまを自分たちの王として迎えようとしたほどでした。いわゆる「ガリラヤの春」と言われる時期、ということでしょう。ご承知のように、ガリラヤ地方における初期の伝道活動は大いに成功していました。

いく先々で熱狂的に迎え入れられ、多くの病人が連れて来られ、熱心に話を聞く群衆が多く起こったのです。その中から、弟子集団に加わった人々も少なくはなかったでしょう。ともかく、イエスさまの周りにはいつも多くの人々がいた、といった印象です。まさに、一大イエス・ブームが起こっていた、と言えるのかもしれません。我が国においても、プロテスタントが入ってきた明治期以降においても、何度かキリスト教ブームなるものが起こりました。

しかし、その結果がどうなったのかと言えば、皆さんもお分かりだと思います。残念ながら、熱は冷めていくものです。もちろん、マイナス面ばかりではないと思います。物事には功罪の両面があるからです。しかし、それが一過性のブームであるならば、終わりを迎えるのも必然だと言えるのかもしれません。

今日の弟子達の離反は、そんなブームの終焉よりも深刻だと言えるでしょう。なぜならば、彼らの離反の理由がこうだからです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。こう語ったのは「弟子」と言われる人々です。イエスさまに敵対する勢力の人々でも、単にブームに乗っかって話を聞きにきていた人々でもない。弟子集団に入るからには、それなりにイエスさまへのリスペクト・敬意、思いがあったはずです。つまり、この話を聞くまでは、尊敬してやまなかった、ということです。この人のためならば、戦って死んでも本望だ、と思っていたかもしれません。

しかし、この話…、「わたしは天から降ってきた命のパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲まなければ永遠の命は得られない」といった話を聞くや否や、「こんな話など聞いていられるか」と踵を返す…。私は、これこそ私たち人の姿だと思えてならないのです。「こんなはずではなかった」と冷淡にも見限る私たちの姿です。

以前も何度かお話ししたかと思いますが、私はあの出エジプトの出来事から約束の地カナンに入植するまでの出来事は、私たち信仰者の歩みそのものを表しているように思えてなりません。エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民たちは、そこから解放されて意気揚々と旅立つのです。まさに、キリスト者の旅立ちです。そこから、信仰の旅がはじまる。しかし、すぐにも危機がやってきます。エジプト兵たちが連れ戻そうと追いかけてくる。まさに危機的な状況ですが、神さまは紅海渡渉という大きな奇跡で救い出してくださいました。その後も、決して順風満帆ではありませんでした。むしろ、試練が多かった。食料や水が乏しくなると、不平を言っては、かつての奴隷状態を懐かしむ有様です。

救われても、すぐには理想的な新天新地は現れなかったのです。ようやく、やっとの思いで約束の地を目の前にしても、怯んでしまって入ることを拒んでしまった。まさに、当初思い描いていたことからすれば、「こんなはずではなかった」の連続だったと思います。しかし、それが、約束の地へと向かう「旅」というものです。

「こんなはずではなかった」ということが付き纏うのが、信仰者の歩みだと思うのです。だからこそ、この歩みには、旅路には「信仰」が欠かせないのです。自分の思いではなく、神さまに信頼する心です。それが求められる。

先ほどの、イエスさまの言葉に躓いた弟子達にも同情の余地があるのかもしれません。なぜなら、彼らはユダヤ人として育ってきたからです。つまり、ユダヤの律法を叩き込まれてきたのです。そして、ユダヤの律法では、血を口にすることは厳に禁じられていたからです。悔やまれるのは、なぜもっと食らいつかなかったのか、ということです。なぜ先生は律法に反することを言われるのですか。私はあなたを信頼していましたのに納得がいきません、と「ひどい話だ」と切り捨てるのではなくて、もっと食らいついて欲しかったと思う。いずれにしても、価値観・意識の変更が求められていたように思います。そして、それが一番難しいのです。それが、躓きになる。私たちにとっても同様です。

では、なぜ「こんなはずではなかった」が起こるのか。自分で勝手に自分の信仰心・信心を、期待を押し付け、祭り上げるからです。だから、自分の願い、思いが叶わないと失望感も大きくなる。つまり、「独りよがり」なのです。逆に言えば、「こんなはずではなかった」という思いを乗り越えるためには、関係性が必要なのです。私たちはどうしても自己中心的になりやすいので「こんなはずでは」といった思いを抱いてしまい易いですが、関係性が豊かにあるのとないのとでは大いに違ってきてしまうからです。例えば、おそらく誰もが抱くであろう結婚後の「こんなはずではなかった」です。しかし、それで切れてしまえばそれまでの関係でしょうが、それを乗り越えることができるのは、互いにそれ以上の関係性を深めることができたからだと言えるからです。

イエスさまはこうおっしゃいました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。私たちキリスト者に与えられる恵みとして「永遠の命」ということがよくいわれますが、では「永遠の命」とは一体何なのでしょうか。同じヨハネ福音書17章3節には、このように記されています。「永遠の命とは、唯一まことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。ここで言われている「知る」ということは、単に知識として知る以上のことを指していることはお分かりでしょう。より深い関係性のことです。ですから、今日の日課にもこのように記されていました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と。

いつもイエスさまと共にある深い関係性、それがイエスさまの肉を食べることによって、その血を飲むことによって、つまり聖餐式によって、イエスさまの十字架によって与えられるのです。この恵み、この命こそが、私たちにとって最も幸いなことなのです。奴隷から解放されても、救われても、この世の旅はまだ続くものです。決して、一挙に新天新地・楽園に行ける訳ではない。信仰者だって色々な問題にぶつかります。家族の問題、職場での問題、学校での問題…。人間関係だって、決して楽ではない。経済的にも厳しい状況に追い込まれるかもしれない。病気にだってなる。介護も必要になる。新型コロナだって無縁ではいられない。

残念ながら家族が召されることだってあるでしょう。祈っているのに、ちっとも改善されない、解決されない、といった思いだって浮かんでくる。「こんなはずではなかった」のオンパレードです。しかし、イエスさまが、神さまがいてくださるのです。いいえ、それにさえ気づけない。気づけなくて、文句、不平ばかりになってしまう。でも、イエスさまに、神さまに支えられてきた、守られてきたのです。そのことに気付ける時が必ずくる。私も、それなりの人生を歩んできました。正直、信仰を捨てたいと思ったこともなかったわけじゃない。でも、本当に感謝しています。イエスさまが、神さまがいてくださったからです。祈ることができたからです。たとい迷い出たとしても、帰って来られるところがある。この心強さが何よりも祝福だと思うのです。

そんな命に、神さまとイエスさまと共に生きることができる命に永遠に生きることができる、死の間際にあっても、死の先にあっても、この命に生き続けることができる。これほどの幸いがあるだろうか、と思うのです。

ヤコポ・バッサーノ (1510–)最後の晩餐 ボルゲーゼ美術館



残念ながら去ってしまう人がいることも、私たちの知るところでしょう。ですから、イエスさまもこう仰った。「そして、言われた。『こういうわけで、わたしはあなたがたに、「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言ったのだ』」と。しかし、これは杓子定規に救われる人とそうでない人とがすでに定められている、ということではないと思うのです。なぜなら、イエスさまはこうもおっしゃっておられるからです。「あなたがたも離れて行きたいか」。

12弟子に言われた言葉です。ここに、イエスさまの不安と、そして残ってくれたことでホッとされた姿を想像するのは、私だけでしょうか。確かに、救いは神さまからの一方的な恵みです。しかし、それは、単に機械仕掛けの選別機ではないはずです。イエスさまは去っていった者たちに心を痛められ、残った者たちを喜んでおられるからです。

幸にして、残ることが許された私たちは、ペトロ達と共々にこう告白していきたいと思うのです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。そして、去っていった者たちも悔い改めて、再び戻って来れるようにと祈っていきたいと思います。

【週報:司式部分】 2021年8月15日



聖霊降臨後第12主日礼拝

司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 上村 朋子

開会の部

前奏 愛するイエスよ われらはここに F.Zipp

初めの歌 教会 189( 主のみことばに )1節
主のみことばに 心をやしない
感謝あふれて み前にぬかずき
さんびのみ歌に いざ声あわせよ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

〜特別の祈り〜
恵みの父なる神さま。み子はすべての人に生命を与えるまことの糧としてこの世にくだられました。
私たちにこの糧を与えて、み子が私たちのうちに生き、私たちがみ子のうちに生きることができるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 箴言 9:1-6( 旧約 1002頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 5:15-20( 新約 358頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 6:51-58( 新約 176頁 )

みことばのうた 教会 298( 心まよいゆくをやめて )1節
心まよいゆくをやめて 真の平和ねがい
いのち満つる歩み求め み国めざし進まん。
古き道を、いまぞあとに捨てて
神の道に移らん、新しきわが身。

説 教 「 生きるために 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会 256( すがたは見えねど )1,3節
1.すがたは見えねど ちかく在す
み神をあおぎて いまぬかずく。
3.主イェスのからだと きよき血とを
みことばかしこみ 受くる恵み。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会 272( 主なる神を称え )1節
主なる神を称え 感謝の歌捧げん。
神は我を招き 主の民としたもぅ。
選ばれし民らの 集えるみ国は
あふるるみ恵みと 慰めに満てり。

後 奏 わが心の底より F. Metzler

【 説教・音声版】2021年8月15日(日)10:30 聖霊降臨後第12主日礼拝  説教 「 生きるため 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十二主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章51~58節

今日の福音書の日課は、先週に引き続き「聖餐式」と深く関係のある箇所だと言われています。
ところで、皆さんは今日の箇所をお読みになられて、どんな印象を抱かれたでしょうか。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」などの言葉を読まれて…。「人の肉を食べ、人の血を飲まなければならない」。

非常に生々しい言葉です。むしろ、少しグロテスクと言いますかオカルトチックな印象さえ持たれるかもしれません。事実、そうでした。初期キリスト教、教会が迫害を受けていたことは、皆さんもよくご存知でしょう。それには、色々な理由があります。例えば、皇帝崇拝を拒否したから、とか。しかし、その迫害の理由の一つとして、この「聖餐式」があったことは、あまり知られていないのではないでしょうか。当時の教会は、迫害の危険もあったことから、堂々と、とはなかなかいかずに、どちらかと言えば、コソコソと集まっては礼拝をしていたわけです。

それだけでも、周りの人たちからは、怪しく思われていたのかもしれません。あいつらキリスト者(クリスチャン)たちは、こそこそ集まって何をしているんだ、と。そして、どうやら、あの中で人間の肉を皆で食べ、血を飲んでいるらしい、とのデマが飛び交ったらしいのです。あるいは、時々子どもたちもその建物に入っていく。その子どもたちの血を飲んでいるのではないか、と。つまり、キリスト教・教会というのは、人肉嗜食(これを「カニバリズム」というようですが)者たちの集まりではないか、と恐れられていたからです。それが、民衆の迫害意識を助長させていった、という。

もちろん、間違いです。「聖餐(式)」についての大きな誤解です。ですから、この箇所についての注解書などをいろいろと読んでみましても、「字義通りに捉えてはいけない」とか、「文学的表現だ」とか、「象徴に過ぎない」とか、もちろん現代の私たちが前述のように誤解することなどあり得ないと思いますが、誤解しないようにと注意を促していたりする訳です。もちろん、そうだと思います。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とイエスさまが言われたのも、一つの表現手段、文学的表現方だと思う。

しかし、同時に、あまりにもそういった「象徴」ということに向かいすぎて、この言葉の持つインパクトを薄れさせてしまっていいのだろうか、とも思うのです。今日の箇所ではありません。次回の日課になりますが、この言葉を受けた民衆の反応はどうだったのか。好意的であった多くの人々がイエスさまの元を去っていったという。こんな酷い言葉など聞いていられるか、と。そう、誤解かもしれない。誤解をしたままで去っていってしまったのかもしれない。

では、なぜイエスさまはわざわざ誤解を生むような表現をしたのか。意地悪でそうしたのか。私には、そう思えない。むしろ、この言葉の力強さ・衝撃を、生々しさを分かって欲しい、と願っておられたのではないか。そう思うのです。ひと頃の笑い話ではないですが、当時の子どもたちは、魚はスーパーで売っている切り身の状態で泳いでいると真剣に思っていた、と言います。その真偽の程は分かりませんが、食卓に並ぶ食材の実際の姿をあまりにも知らなさすぎる、というのは事実でしょう。
家庭で魚をおろすことも少なくなった。つまり、生きるということの生々しさを知らないのです。私たちが生きるためには、他者の命を糧として得なければならないという、まさに生々しい現実です。

皆さんは、「独立学園」という学校をご存知でしょうか(正式名称は「基督教独立学園高等学校」というようですが)。山形県にあります全寮制の学校で、非常にユニークな教育をしている学校です。その一つに、自分たちで飼育した動物を屠るというのがある。例えば、鶏を飼育する。卵からかどうかは分かりませんが、丹精込めて育てる訳です。そして、大人になる。すると、頃合いを見て、その鶏の首をはねて、血抜きをする。食べるためです。私は正直、実際に見たことはありませんが、昔の農家などではよく見られた光景だと言います。私は、おそらくその肉を食べる気にならないでしょう。

可愛がって育てた鶏を、自分の手で殺して食べることなど、できそうにない。しかし、生きていくためにはそうするしかない。人が生きるとは、本来そういうものだ、ということを、この学校ではしっかりと教えようとする。あなたがたは、命によって生かされているのだということを身をもって体験することで…。最初に言いましたように、今日の日課は「聖餐式」と結び付けられて解釈されることの多いところです。

あるいは、「血を流す」ということは死を意味しますから、イエスさまの十字架の死を表している、とも言われます。私も、そうだと思っています。しかし、このイエスさまの言葉を、素直に受け取っても良いのではないか、とも思うのです。旧約聖書にはこんな記述があります。列王記下6章28節以下ですが、「彼女は言った。『この女がわたしに、「あなたの子供をください。今日その子を食べ、明日はわたしの子供を食べましょう」と言うので、わたしたちはわたしの子供を煮て食べました。しかしその翌日、わたしがこの女に「あなたの子供をください。

その子を食べましょう」と言いますと、この女は自分の子供を隠してしまったのです』」。なんともむごたらしい話しです。これはエリシャという預言者が活躍していた時代のことですが、アラムという国の軍勢がサマリアの町(北イスラエル王国の首都ですが)を包囲したのです。つまり、兵糧攻めです。ついにサマリアの町の食料がつき、鳩の糞でさえも高値で取引される程でした。極度の飢餓状態に陥ったこの母親達は、自分たちの子供を食べることで命をつなぐことにした。そう取り決めしていたのに、片方の母親は自分の子供を隠してしまったと訴え出ている。まさに狂気の沙汰です。

しかし、これが戦争というものです。今日は76回目の終戦記念日ですが、戦争に参加した多くの兵士たちがその体験を一切語らなかったのは、そんな狂気の沙汰が現場では起こっていたからだとも言われます。とても話せるようなものではなかった。ともかく、地獄です。まさに、地獄です。自分の飢えを凌ぐために我が子の肉を食べるなんて…。しかし、逆もあったのではないか、とも思うのです。この地獄の中で、我が子を生かすために、自らの肉体を与えた親達もいたのではないか、と。これは究極の選択です。

子供達を生かすためには、命を与えるためには、これしか方法がなかった。だから、子供達が生きていくために、生きて行けるように、自分の肉を食べよと告げて、自ら命を絶った親達もいたのではないか。そんなふうにも思う。そして、そんな親達の姿と、このイエスさまの姿とが重なるようにも思うのです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲んで命を得よ。それしか、もう方法がないのだ。この地獄から救い出すには、滅びから救い出すためには、これしかない。だから、食べてくれ。飲んでくれ。わたしは、お前達を愛している。我が身など惜しくないほどに愛している。これでお前達が生きることができるならば、それが本望なのだ。だから、安心していい。お前達が生きることをわたしは何よりも願っている。だから、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」と。

今日のこの箇所が、「聖餐式」を意味しているのか、「十字架」を意味しているのか、あるいは、私が想像した通りなのか…、いずれにしましても、そこにあるのは愛です。私たちに対する愛です。この私たちを、何とかして救いたい、生かしたい、そのためには犠牲を厭わない、といった愛です。イエスさまの愛が、この衝撃的な言葉に溢れている。生きるとは、生々しいのです。この私たちを生かすためにも、多いの命が注がれている。その上に、私たちの命は成り立っている。ならば、「永遠の命」ということならば、尚更でしょう。何の犠牲もなくして得られるものでは決してない。しかし、その犠牲は、私たちが支払うのではないのです。そうではなくて、イエスさまが支払ってくださっている。

私たちを生かすために、自らを犠牲として捧げてくださっている。そして、わたしによって命を、永遠の命を得よ、とおっしゃっていてくださっている。そのことを、今日、改めて心に刻んでいきたいのです。願わくは、一日も早く共に「聖餐式」の恵みに与る日が来て、このイエスさまの思いを身をもって味わい知ることができるようにと願っています。

【週報:司式部分】 2021年8月8日  平和主日礼拝



聖霊降臨後第11主日礼拝

司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子

前 奏 主イエスキリスト、汝こよなき宝 J.S.バッハ

初めの歌 教会157(ほめまつれ)1節
1.ほめまつれ あまつきみ、
いざうたえ 主の愛を。
とわにいます わが神に
たたえのうた わきあふる。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
私たちの造り主、救いの神さま。
新しい祭司の群れに入れられた私たちが、誠実にあなたの召しに応え、福音の証し人として、
あなたの約束を全世界に告げ知らせる者にならせてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 列王記上 19:4-8( 旧約 565頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 4:25-5:2( 新約 357頁 )
ハレルヤ

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 6:35,41-51( 新約 175頁 )

 

みことばのうた 教会239(ひととなりたる)1節
1.ひととなりたる 神のことば
変わらぬまこと 知恵なる主よ、
聖書に満つる そのひかりは
かがやきいでて やみを照らす。

 

説 教 「 世を生かすもの 」 浅野 直樹 牧師

 

感謝の歌 教会313( 主はへりくだりて )1節
1.主はへりくだりて 罪人のために
十字架の苦しみ 耐え忍びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会348( たえなる恵みの )1節
1.たえなる恵みの 主よとく来ませ
暗きになやめる こころのうちに。
上なきあわれみ 絶えせずあれば
救いのよろこび たぐいもあらじ。

後 奏 教会讃美歌348番による後奏曲 R.H.プリチャード

【 説教・音声版】2021年8月8日(日)10:30 聖霊降臨後第十一主日礼拝  説教 「 世を生かすもの 」 浅野 直樹 牧師

2021年8月8日 聖霊降臨後第十一主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章35、41~51節

今日の日課は、新共同訳(聖書)の小見出しである「イエスは命のパン」とまとめられているものの中にある箇所になります。先々週の「五千人の供食」の出来事と繋がっているものです。ちなみに、先週は「平和主日」として特別な礼拝を行いましたが、教会手帳を見てみますと、聖霊降臨後第十主日としての福音書の日課は、ヨハネによる福音書6章24~35節が指定されていました。「五千人の供食」の後、今日の日課の前、と言うことになります。つまり、来週以降もしばらくは繋がっていくことになりますので、ここ数週間は連続してここから学ぶように、と言うことでしょう。

先ほども言いましたように、先々週は「五千人の供食」の出来事から学んでいきました。そして、この箇所は「聖餐式」と強く結び付けられている箇所だ、とも言われています。昨年からの新型コロナウィルスの流行によって、私たちの教会も大きく変化せざるを得ませんでした。かつて経験したことのないような危機と言っても良いでしょう。共に礼拝に集うことが難しくなったからです。これについては、さまざまな方々の尽力もあって、代替ということではありませんが、ライブ配信等によってある程度は補うことができました。しかし、聖餐式は違います。聖餐式は実際に「飲食」という体験が伴うものです。ですから、なかなか替えがききません。感染症の対策をしっかりと講じた上で、なんとか特別な祝祭日であるクリスマスとイースターにできたくらいです。私たちの教会ばかりでなく、このことについては多くの教会が頭を悩ませていることでしょう。感染症が落ち着いて、一日も早く共に礼拝し、聖餐の恵みに与る日が来るようにと願っています。

「五千人の供食」の出来事では、男性だけで五千人、女性や子どもたちも含めると一万人以上となるでしょうか、ある奇跡を体験いたしました。食事で満たされるという体験…、奇跡です。ですから、彼らはイエスさまを王として立てようとします。「イエスは、人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り」とある通りです。王様とは、政治的力をも表すのでしょう。安心・安全を与え、生活を豊かにしてくれる存在。そんな力を群衆はイエスさまに認め、自分たちの王となって欲しいと願ったのです。それは、私たちにもよく分かることです。今で言えば、新型コロナの脅威から人々を守り、経済的にも立て直してくれるような政治的指導者を人々は、私たちは求めています。逆に言えば、そうでないと失望してしまう。

政治家一人でできることなど限られていると思いますが、そういった空気感も漂う今日です。当時の人たちにも、自分たちの政治的指導者たちはいたはずです。ガリラヤ地方で言えば、ヘロデ・アンティパスという王様がいた(実際は領主に過ぎませんでしたが)。しかし、民衆は失望していたのでしょう。

一向に、安心・安全が手に入らず、自分たちの生活も改善されなかったからです。ですから、そんな思い、願いを、奇跡の力で五千人を、一万人を養うことができたイエスさまに向けたのも無理からぬことだと思うのです。しかし、そんな民衆の期待に対するイエスさまの反応はどうだったのか、と言えば、「ひとりでまた山に退かれた」と記されていることからも分かると思います。「よろしい、あい分かった。そう願わずにはいられないお前たちの窮状もわたしは良く知っている。だから、お前たちが望むような安心・安全を与える、お前たちの生活を今よりもずっと豊かにする王にわたしはなろう」とは、ならなかった。そんな民衆の期待に応える王になれる自信がなかったからではありません。こう記されているからです。26節「はっきり言っておく。

あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。そして、こう言われた。「わたしが命のパンである」と。私は、これらを読んだときに、「荒野の誘惑」の場面で語られたイエスさまの言葉を思い出しました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。

以前、国際援助の働きをされておられた方からこんな話を聞いたことがあります。飢饉などに際して食料援助などをする訳ですが、それだけでは本当の解決にはならない、というのです。援助を受ける人たちは、それが当たり前になってしまうというのです。働かなくても、食べていけることが当たり前になる。つまり、無気力です。

言葉としては適切ではないのかも知れませんが、いわゆる「飼い殺し」の状態になってしまう。善意でのパンの援助が、かえって現地の人たちを悪くしてしまうこともある。そんな現場をよく見たと言います。ですから、援助の方法を変えることした。単に食料を与えるのではなくて、自立を促していく、しかも持続的な自立を促す方法に変えたと言います。しかし、これがなかなか骨が折れることだったようです。

なぜなら、なかなか言うことを聞いてくれないからです。その方法ではダメだ。それでは気候にあまりに左右されすぎるので、こういった方法にしなくてはダメだ。そんなふうに、ある意味先端的な技術支援をしようとするのですが、自分たちはずっと代々こういった方法をとって生きてきたから、今更変えるつもりなどない、と突っぱねられる。それでも、地道に、時間をかけて説得していくと、一人二人は興味を持ってくるようです。大抵は若い人のようですが…。そういった興味を持ってくれた人たちを手取り足取り指導していく。すると、みるみる違いが出てくる訳です。従来型では、あまり収穫できないのに、新しい方法で取り組むと市場に売りに行けるほどの収穫量になる。そんな様子を間近に見ると、流石に考えを変えざるを得ないのでしょう。次々とその支援を受ける人々が出てくる。

そして、自分たちで技術支援ができるようにと現地の人を指導者として教育することも大切だと言います。いつまでも、そこに残ることができないからです。私は、それらの一連の話を興味深く聞かせていただきました。先ほどの話でもお分かりのように、意識を変えることが非常に大切になってくるのです。そんなことは言われるまでもない、と思われるかも知れません。その通りです。みんな分かっている。でも、現実はそれほど簡単ではありません。頑なに大切な技術を拒んできた現地の人を私たちも笑えないでしょう。私たちは、どうしても目の前にある現実、そう信じている現実に、また私たちの体験・経験に囚われて頑なになってしまうからです。確かに、人類は進歩しています。技術だけじゃない、仕組みも思想…、人格、人権理解も良くなっている。安心・安全、生活の向上を目指してきた結果です。

それらを実現させていった偉大な指導者たちも多く出てきたのかも知れません。しかし、人類はいまだに、平和の問題、差別の問題、格差・貧困の問題等、乗り越えることができていないものも数多くあるのです。本当に私たちの幸せ、あるべき姿は、これらの延長線上だけにあるのでしょうか。それとも、もっと別に、別の次元に飛躍すべきなのでしょうか。いずれにしても、その道筋を、私たちの必要を本当の意味で知っている者だけが(あの援助者たちのように)、その人々を救いへと導いていけるはずです。

今日の日課でイエスさまはこうも語っておられます。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」。この言葉は、あのニコデモとのやりとりを連想させるものでもあると思います。なぜなら、こう記されていたからです。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。ニコデモもなかなか自分自身を抜け出せないでいた中で語られた言葉です。

神さまだけが、この世界の、私たちの救い主であり解決者である。少なくともキリスト者である私たちはそう信じている。考えてみてください。もし、全ての人が心から神さまの御心に、イエスさまの教えに従えたのなら、この世界がどうなるのかを。パンどころの話ではないはずです。しかし、現実の私たちには、途方もなく難しいのです。理解さえ及ばまい。超えられない。求めることさえもできない。だから、イエスさまが来てくださった。真に向かうべき道を示すために。そして、神さまもそんな私たちを引き寄せてくださった。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われている通りです。それらのことを身をもって体験するためにも聖餐式がある。

残念ながら、今しばらくは共々に聖餐式に与ることはできないかも知れませんが、しかし、それらがなくなってしまうことはないはずです。本当の道を示してくださるイエスさまがいてくださる。神さまも、私たちをイエスさまへと引き寄せてくださっている。だからこそ、信じて生きることができる。希望を失わずに済む。自分を超えて進んでいける。そうではないでしょうか。

【 説教・音声版】2021年8月1日(日)10:30 平和主日礼拝  説教 「 私たちは何を学んだのか 」 浅野 直樹 牧師

平和主日礼拝説教

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書15章9~12節

八月になりました。今日は「平和」について思いを巡らす、ある意味特別な礼拝です。
今年は、終戦後七六年になりますが、「平和の祭典」と言われるオリンピックが日本で開催されている特別な年となりました。
私は、昭和四二年生まれです。前回の東京オリンピックは昭和三九年でしたので、まだ生まれていません。戦争に敗れ、一面焼け野原となった東京でしたが、その後目覚ましい復興を成し遂げ、「再び国際社会の中心に復帰するシンボル的な意味を持つ」(Wikipedia)と言われたようです。誇りを取り戻すため、国家の威信をかけて、といった思いもあったのでしょう。

今日では当たり前のように利用されていますが、オリンピックに合わせて東海道新幹線も首都も造られました。そんな建設風景もテレビで流れていましたが、今とは違って人夫・作業員さんたちが手作業に近いような形で造っていく姿に、改めて驚きを覚えました。

先ほども言いましたように、私は昭和四二年生まれです。そんな前回の東京オリンピックから三年後です。そして、物心がつくまでには数年がかかる。つまり、戦争終結から三十年近く経っている、ということです。まさに、「戦争を知らない子どもたち」。戦争とは無縁だと思って歩んできました。少なくとも、ある年代までは…。しかし、戦後七十年以上経った今日からすれば、まさに「戦後の人間」だったということを強く思わされるのです。

少なくとも、私の子どもの頃、少年時代までは、まだ戦後の空気感が残っていたようにも感じるからです。周りの大人たちの多くは、戦争体験者でした。もちろん、詳しくそんな体験談を聞くことはありませんでしたが、ここ彼処で感じるようなところがあった。母は昭和二十年生まれですが、自分が少女時代に経験した戦後の食糧難の話をよく聞かせてくれました。もちろん、食べ物を粗末にしてはいけない、といった躾としてですが…。あるいは、小学校では毎年一回(そう記憶していますが)戦争に関する映画の上映会が行われていました。

当時は、あまり関心もなく、ただ単に「見ていただけ」といった感じだったと思いますが、それでも、その風景は私の中にしっかりと残っています。そんなふうに、決して意識していた訳ではなかったのかも知れませんが、知らず識らずのうちにも、戦争・戦後を体験した人々の「反省」の思いが心に刻まれていったのだと思うのです。あれから四十年以上。自分の子ども世代の人たちとの意識の差を、正直感じます。時の流れの中で、それも仕方がないことなのかも知れません。しかし、敗戦後七六年経った新たなコロナ・オリンピックの中で、あの戦争時代が思い起こされていることに、私は非常に興味を覚えるのです。

これは、『西日本新聞』に出ていたものですが、長崎市の被爆者が語ったインタビュー記事として掲載されていたものです。引用しますと、「いま、世界を覆う新型コロナウィルス。自粛要請や新しい生活様式など国が掲げる方針に、従わぬ者を排除する『自粛警察』のような行動も現れている。何が正しい情報か確信を持てぬまま、一丸になって突き進んだ75年前の光景が現在に重なる。あのとき、爆心地から約1.8キロの師範学校で壁にたたきつけられ、爆風で飛んだガラス片が全身に刺さったまま逃げ込んだ防空壕。目にしたのは体の一部をもがれた人々の姿だった。

『地獄』を招いた当時の空気感と今は『どこか似ている』と●●さんはつぶやいた」。これは今から約一年前の記事ですので、今とは多少空気感が違っているのかも知れませんが、しかし、「何が正しい情報か確信を持てぬまま、一丸になって突き進んだ」といった当時と今との重なりは、耳を傾けるところがあるように思います。

あるいは、『週刊ポスト』ではこんな記事が掲載されていました。「歴史家の島崎晋氏は、政府とメディアが“ここまで来たらやるしかない”と突き進む現状が、不利な戦況を隠して戦争を続け、国を敗戦へと追い込んだ太平洋戦争と重なって見えるという。『コロナ禍で五輪開催を強行する政府のやり方は、第2次大戦の最悪の作戦といわれるビルマ(ミャンマー)でのインパール作戦とそっくりです。

作戦立案段階から補給が無理だと参謀は反対したのに、司令官の牟田口廉也中将は決行、失敗が明らかになっても保身のために中止せずに日本兵は死屍累々となった』コロナ対策でも菅政権は過去の教訓に学ぶことなく被害を拡大させている。感染『第4波』にあたって最初は飲食店への時短を要請し、感染拡大が止まらないと、次に『まん延防止等重点措置』、それでもダメで『緊急事態宣言』に追い込まれ、感染者は増えていった。『ガダルカナル島の戦いの失敗とされる「戦力の逐次投入」と同じです。米軍に占領された飛行場を奪回するため、日本軍は900人の部隊で奪還作戦を行なったが、1万人以上の米軍が待ち構えていて部隊は全滅。次に6200人の部隊を投入したが敗退、3回目の作戦で日本軍はようやく1万5000人の軍を投入したが、米軍もその2倍に増員していて完敗した。正確な情報収集と分析を怠り、戦力を小出しにした結果でした』」。

それ以外にも、科学的根拠を軽視し、楽観論で突き進んだ当時の軍部と現政権とを重ねるなど、さまざまな意見が飛び交っています。私自身は、ここでこれらの意見を評価するつもりはありませんが、ただ、現在の問題と七十年以上も前の、あの特異とも言える時代の出来事とが重ねられて思い起こされていることに、興味深さを感じるのです。つまり、何を学んだか、ということです。ここでの「学び」とは、単なる知識・情報ではありません。自身の生き方、考え方の元になる、つまり、「教訓」となる強い「学び」です。それを、戦後日本は、あの戦争からどれほど学んできたのか。そんなことが改めて問われているようにも思えるからです。

私たち日本人は、特に政治を司る人々は、そういった「学び」に疎いのかも知れません。戦争だけではない、バブルの崩壊、リーマンショック、福島第一原発の事故等々、「教訓」とすべき大きな痛みを経験し、みな「学んだ」つもりになっていましたが、喉元過ぎれば…、となってしまっているように感じられるのは、私だけでしょうか。 私自身にも責任があることを感じています。「教訓」になるような学びは、受け継がれていくべきだからです。一代限りで終わって良いような学びではないからです。そういう意味では、私自身が受け継いだものを子どもたちに渡していけたのだろうか、と反省させられる。しかし、遅すぎることはないのだと思うのです。今からでもいい。ちゃんと学び、受け継いでいくことが大切なのではないか。そう思う。

先ほどは、ガダルカナル島での戦闘で九百人が全滅した、という記事を淡々と読んでしまいましたが、これは、大変なことです。人の命が奪われるのです。殺されるのです。殺し合うのです。しかも、もちろん九百人で収まらない。何十万、何百万という人々の命が奪われる。それだけでもない。戦場で戦っている人々だけでもない。周りの人々、普通の市民と言われる人々、それらの人々も殺されていくのです。それだけでなく、当然、命を奪われた側は恨みを抱く。その恨みは何代にも渡って、何十年にも渡って受け継がれていくことにもなる。だから、戦争など決して起こしてはならないのです。

私は、今日、もう一度旧約聖書の精神も取り戻す必要があるのではないか、と考えています。つまり、悔い改める、ということです。神さまは、さまざまな出来事を通して、特に不幸とも思えるような出来事を通して悔い改めを求められるからです。反省し、そこで学んだ教訓を心に刻ませるのです。二度と同じ過ちを繰り返さないように、と。そして、その教訓を代々受け継がせるのです。

本日の旧約の日課では、こうも言われていました。「もろもろの民は大河のようにそこに向かい 多くの国々が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。…もはや戦うことを学ばない」。もちろん、イエスさまがおっしゃるように、「互いに愛し合う」ことです。これが、一番です。しかし、一気にそこにいくのはなかなか難しい。しかし、反省し、学び合い、平和を、互いに愛することを追い求めていくことは、そのために祈っていくことはできるのではないか。そう思うのです。

【週報:司式部分】 2021年8月1日  平和主日礼拝

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平和主日礼拝

司式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説教 浅野 直樹
奏楽 中山 康子

前奏 ヴォランタリー H.ヘロン

初めの歌 【21】287( ナザレの村里 )2節
ガリラヤの湖の 逆まく波をも
たちまち静めた 昔を偲んで、
平和の主イェスの み力を想う

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

~特別の祈り~
主なる神さま。
人々の心に上よりの平和を与え、平和を実現するために聖霊を注いでください。
平和の君、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 ミカ書 4:1-5( 旧約 1452頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 2:13-18( 新約 354頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:9-12( 新約 198頁 )

みことばのうた 【21】371( このこどもたちが)1節
このこどもたちが 未来を信じ、
つらい世のなかも 希望にみちて、
生きるべきいのち 生きてゆくため、
主よ、守りたまえ、平和を、平和を。

説教 「 私たちは何を学んだのか 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 【21】373( 戦い疲れた民に )1節、5節
今こそ地上に 主の平和を。
朽ちることのない 主の平和を。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 【21】494( ガリラヤの風 )1節、3節
1.ガリラヤの風 かおるあたり、
「神のみ国」は 近づけり」と、
告げられしより 既に久し。
「来たらせたまえ、主よ、み国を」。

3.憎み、あらそい 後を絶ちて、
平和と愛は 世界に満ち、
み旨の成るは いずれの日か。
「来たらせたまえ、主よ、み国を」。

後 奏  パストラール L.ボエルマン

【週報:司式部分】 2021年7月25日  聖霊降臨後第9主日礼拝



聖霊降臨後第9主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 萩森 英明

前  奏 「イエスよ、わが喜びよ」J. S. Bach

初めの歌 教会187( さかえに輝く )1節
1.さかえに輝く 主のまえに集いて
かしこみひれ伏す 天地すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
神さま。あなたは思いにまさる喜びを愛する者に与えられます。
すべてにまさってあなたを愛する心を私たちの中におこし、
私たちの願いを越えたあなたの約束に与からせてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン

第1の朗読 列王記下 4:42-44( 旧約 583頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 3:14-21( 新約 355頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 6:1-21( 新約 174頁 )

みことばのうた 教会293( 罪あるものをも )1節
1.罪あるものをも 愛する神は
ほろびを好まず 救いをたもう。
心にいたみを 覚ゆる時にも
み言葉かしこみ み神にたよらん。

説  教 「 弟子を試すイエス 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会372( イェスのみ名は )1節
1.イェスのみ名は たぐいあらず
いともきよくとうとし。
力 まこと あいとめぐみ
すべてみ名にあふるる。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会171( かがやく 日を仰ぐとき )1節
1.かがやく 日を仰ぐとき
月星 ながむるとき、
いかずち 鳴りわたるとき
まことの み神をおもぅ。
わがたま いざたたえよ
大いなる み神を、
わがたま いざたたえよ
大いなる み神を。

後  奏 「目覚めよと我らを呼ぶ声」J.G.Walther

【 説教・音声阪 】2021年7月25日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝  説教 「 弟子を試すイエス 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第九主日礼拝説教


聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1~21節

今日からしばらくの間(約一ヶ月間)は、ヨハネ福音書からの学びとなります。以前お話ししましたように、これも日課が変わったことによるものです。
今日はその中から、「五千人の供食」と言われる出来事、そして「湖上歩行」と言われる出来事、つまり二つの奇跡物語が日課として取り上げられていました。
ご存知のように、聖書には四つの福音書がおさめられています。もちろん、関連する記事も多いわけですが、しかし、意外にも四つとも共通して載せられているものはそれほど多くはないのです。しかも、奇跡物語としては、この「五千人の供食」の出来事だけです。

イエスさまの復活を「奇跡物語」だとするならば、別ですが…。つまり、いずれの聖書記者たちも、是非ともこの出来事は載せたい、と思ったのでしょう。それほどのインパクトをもった出来事だったということです。

近年は、なかなかこういった奇跡物語を素直に読むことができなくなってきました。いわゆる「合理的」な解釈をする人たちが多くなった。例えば、今日の日課にはこんなことが記されていました。「弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。『ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。』」。ここで「少年」と訳されている言葉は、「少年奴隷」と訳した方が良いのではないか、という方もいらっしゃいますが、ともかく、ある少年が、しかも奴隷だったかもしれない、大麦のパンということは貧しさの象徴でもあった、そんな彼が五つのパンと魚二匹を持っていた訳です。数からしても、それほど大人数で食べるようなものではありませんので、自分用だったのか、あるいは仲間数人分だったのか、とにかく自分たちが食べられるようにと用意しておいた食料だったでしょう。年端も行かないような貧しい少年が、そんな自分たちが食べる分を差し出したのです。

それを見ていた大人たちも、流石に自分の分だけをとっておくことはできなくなった。次々と本当は密かに自分の分、自分の家族の分、仲間の分と隠し持っていた食料を出し合ったところ、あら不思議、五千人以上の人々が満腹して有り余るほどになったという。そう解釈した。確かに合理的で分かりやすい解釈だと思います。助け合いの精神、分かち合いの精神などもよく伝わってくる。しかし、ある方が指摘されているように、そんなことをわざわざ四人の福音書記者たちがどうしても載せたいものとして記しただろうか。そうも思うのです。イエス・キリストを信じるということは、命懸けなのです。福音書を最初に受け取った初期の教会はまさにそうだった。命を懸けてでも信じるには、合理的な助け合いの精神、分かち合いの精神だけでは、やはり弱いと思う。

それでは、命は懸けられない。もっと命を懸けてでも良いと思えるような驚きがなければ、福音書記者たちも、わざわざ書き残したりはしなかったでしょう。ですから、やはりここは奇跡が起こったのだと思うのです。ただし、奇跡といっても単に摩訶不思議なことが起こった、ということではありません。神さまの力が、神の子の力が示された、ということです。神さまの力がイエスさまによって明らかにされた、ということです。そのことを、その驚きを、福音書記者たちは伝えたかったのだ、と思う。そして、同時に福音書記者たちが伝えていることは、それを人々はなかなか受け入れることができなかった、という現実です。

残念ながら、一番身近にいたあの弟子たちでさえも、そうだった…。「五千人の供食」の出来事を、まさに体験したあの弟子たちが、その直後の湖上歩行のイエスさまを見て「恐れた」のも、その証拠です。他の福音書では、「幽霊」だと思ったとも記されています。

私は時々、「無力感」に襲われることがあります。今も、そうです。もっと自分に財力があれば、もっと教会に財力があれば、多くの人たちを助けられるのに。そう思う。そんな無力感に苛まれながら悶々と祈っていると、いつも自分の不信仰に気付かされるのです。私は神さまの、イエスさまの力を信じていないのではないか、と。ちなみに、私が「不信仰」という言葉を使う時は、これは私自身が勝手にそう思って使っていることですが、「不良信仰」…、あまりよろしくない信仰ということで、「無信仰」(これも私が勝手に使っているものですが)、つまり信仰自体がからっきし無い、あるいは自らの意志で否定することとは分けて考えています。ともかく、私の中では正直、そんなせめぎ合いが起こっています。

今日の日課の中で、弟子の一人であったフィリポがイエスさまによって「試された」ことが記されていました。「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」。試み・試すという言葉は、色々な意味で捉えることができると思います。

しかし、ここではフィリポを教え導くために、訓練するために、つまり、しっかりとイエスさまのことを、その力を理解させるために、あえてそうされたのではないか、と思います。フィリポはそこで瞬時に計算しました。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

相手は男性だけで五千人です。そこには家族連れで来ていた人もいたのかもしれません。女性や子どもたちも含めたら、もっと数は多かったでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、一デナリオンは一日分の労賃と言われます。単純に一デナリオンを一万円とすると、二百デナリオンは二百万円になる。これも単純にですが、それを五千人で割ると一人当たり四百円になります。女性や子どもたちを合わせて単純に二倍の人数にすると、一人当たり二百円になる。確かに、これでは満腹にはなりませんが、「めいめいが少しずつ食べる」には妥当な数字です。そういう意味では、このフィリポは随分と有能な人だったのかもしれません。瞬時に状況を把握し、必要量を計算したのですから。しかし、これはもちろん不可能な数字です。手元に二百万円なんて大金はありません。万が一あったとしても、そんな大量のパン

を購入できるような店もありません。つまりは、結局何もできないのです。確かに、五つのパンと二匹の魚はありました。しかし、それは弟子たちのものですらなかった。少年のものだった。たとえそれをかき集めたとしても、焼石に水どころか無いに等しかった。無力です。分かっているのに…。こうすればこの人たちは助かるに違いない、少なくとも一時凌ぎにはなるかもしれない。分かっている。そのための必要な手段も計算も出来ている。それなのに、自分たちには何もできない。それが、フィリポが試された、あるいは気付かされた現実だったのかもしれません。

しかし、むしろ、だからこそ、彼らは体験したのです。不可能を可能とする神さまの力を。神の子の力を。そして、これこそを彼らは学ぶべきだった。イエスさまには出来ないことは何一つないのだ、ということを。ただし、ここには注意が必要でしょう。私たちが知るべきは神の子の力です。ただの力、奇跡をなす力ではない。その力をいつ、どのような時に、どのような所で使うかを決められるのは、神の子お一人だ、ということです。だから、こう記してある。

「御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」。初めから、ここで五千人に供食することをイエスさまは決められていたのです。少年がパンと魚を持ってこようと持ってこなかろうと、最初っからすることを決めておられた。そのことは、忘れてはならないのだと思うのです。にもかかわらず、イエスさまが少年のパンと魚を用いられたことも事実でしょう。僅かな、しかも貧しい、全く役に立たないような、あってないようなものでさえも、しかも、本来自分のものでもなかったものさえもイエスさまは用いられてご自分の栄光を表してくださった。人を助ける、救うという神の子の力という栄光を。そのことも、しっかりと心に刻んでいきたいと思うのです。

最初に、この奇跡物語に対する合理的な解釈を少し否定的にお話ししましたが、実は、私はそれでも良いと思っています。一人の少年の善意に触発された助け合い、分かち合いの精神も。ただし、ここにも神の子イエスさまの存在を忘れてはいけないのだと思うのです。人の心が動かされたのも、不可能を可能とする神の子の力があったからこそだと思うからです。その力が働かなければ、何も起きなかったでしょう。私は、そう信じる。だからこそ、私たちもまたあの弟子たちのように、常にイエスさまから神の子の力を学び、不良な信仰ではなくて、正されていく必要があるのではないか。そう思わされています。

【週報:司式部分】 2021年7月18日  聖霊降臨後第8主日礼拝



司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏  “朝ごとに主に祈る” ジュネーヴ詩編歌 M.ヴァン・デル・マイデン

初めの歌  教会203( 父の神よ )1節

1.父の神よ、 夜は去りて
われらいま み前に立ち
さんびのうたを かしこみ捧ぐ
声もたかく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
私たちを守られる神さま。この世の嵐が私たちの周りを荒れ狂い、
私たちを脅かすとき、み民をあらゆる不安と恐怖から解放し、不信に陥らぬように防ぎ守ってください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン

第1の朗読   エレミア書 23:1-6( 旧約 1218頁 )
第2の朗読   エフェソの信徒への手紙 2:11-22( 新約 354頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読  マルコによる福音書 6:30−34,53-56( 新約 73頁 )

みことばのうた 教会294( 恵みふかきみ声もて )1節

1.恵みふかきみ声もて イェスは呼びたもぅ。
「われに来よ」と今もなお われを待ちたもぅ。
来よ、来よ、来よ、われにとく来よ、
疲れはてし罪人よ、 われにとく来よ。

説  教 「 イエスの動機 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会372( イェスのみ名は )2節

2.なやむときも みこえ聞こゆ
主イェスちかくいませば、
力 みつる イェスのみ手に
たよるものはやすけし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会333( 山べに向いてわれ )4 節
4.み神はわざわいをも 避けしめ
疲れしたましいをも やすます。
出ずるおり入るおりも 絶えせずなれを守らん。

後  奏  教会讃美歌333のメロディによる後奏曲 小泉 功

 

【 説教・音声版 】2021年7月18日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝  説教 「 イエスの動機 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章30~34、53~56節

今日の福音書の箇所を読みまして、改めて当時の人々の窮状を思い知らされたような気がいたしました。まずは、病気です。「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめて
その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」。ある方は、この箇所はこれまでのイエスさまの働きをまとめたものだ、と記しておられましたが、確かにそうかもしれませんが、つまりはどこに行っても病人たちが多くいた、ということでしょう。

今日でも、残念ながら医療の発達していない国々・地域では、私たちには想像もできないような病で命を落とすことがあります。なおさら2000年も前なら、そういったことは想像に難くありません。医療技術も薬も圧倒的に足りない。衛生面、栄養面でも乏しい。ちょっとしたことでも病気になり、重篤化し、命の危険に晒されていく…。コロナ禍にある私たちよりも、はるかに「死」が身近にあった世界です。そんな世界の中で人々は生きていた。それが、彼らの唯一の現実だった。ですから、治る、癒される可能性があると聞けば、人々が殺到するのも無理からぬことです。

あるいは、イエスさま一行が休息をとるために、湖の向こう・「人里離れた所」に向かおうとされた時に、先回りしていた群衆はどうだったか。少なくとも彼らは、イエスさまたちよりも早く移動できたくらいですから、病人、あるいは体に不具合があった人々ではなかったでしょう。いわゆる、健康な人々です。しかし、イエスさまは、そんな彼らの様子を見て、「飼い主のいない羊」のように思われたのです。

では、「飼い主のいない羊」のような人々とは、一体どのようなことなのでしょうか。一つは、どこに行けば良いのか分からない。どうすれば良いのか分からない。そんな導き手がいないがために途方に暮れている人々と言えるのではないでしょうか。今一つは、羊飼いとは羊たちを外敵から守る存在でもありますから、そういった保護を受けられない人々、常に不安を、心配事を抱えていた人々と言えるのかも知れません。そんな人々が、イエスさまを求めて駆けつけてき
たのです。

ご存知のように、当時のユダヤはローマ帝国に実質的に支配されていました。だからといって、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と言われますように、必ずしも悪政を敷いていたのではないと思います。しかし、それでも、占領されている側としては、当然面白くはなかったでしょう。駐留しているローマ軍による犯罪も起こっていたかもしれません。あるいは、武力による無言の圧力を常に感じていたかもしれませんし、多額の税を
取られるのも不満に感じていたのかもしれません。そんな中で、当時、大きく二つの流れが起こっていたようです。

一つは、そんなローマとうまくやっていこうという現実主義的なグループです。宗教的には、主に祭司階級、つまりサドカイ派と言われるような人々がそうでした。もう一つは、律法を重視する、ある意味理想主義的と言えるのかもしれませんが、いわゆるファリサイ派と言われる人々です。方や、保身のためにローマにへつらっているように見える人々、方や厳格な律法主義・理想主義を押し付けようとする人々。そんな中で、このどちらにもついていけない民衆も多くいたのではないか、と思うのです。つまり、心理的・精神的・霊的に飢え渇いていたのではないか、と想像するのです。

身体的にしろ、精神的・霊的にしろ、当時の多くの人々は飢え渇いていた。何かを必死に求めていた。それが、イエスさまとの出会いとなった。

エルサレム滅亡を嘆く預言者エレミヤ 1630年、レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) アムステルダム国立美術館



以前、むさしの教会の方ではありませんが、ある方のご葬儀をしたとき、こんな話を伺いました。その方は、とても辛いことがあって、娘さんと一緒に死のうと線路に向かわれたそうです。そんな思いで彷徨っていると、ある教会の前に来ていた。そして、その中に入ってみると、暖かい光に包まれて、なんだかホッとされたそうです。私たちにも、大なり小なり、そういった経験があるのではないでしょうか。なんだか飢え渇いていて、何か
で満たしたくて、求めて、イエスさまにたどり着く。そういった経験が…。

この当時の人々も、必ずしもイエスさまを求めていたのではなかったのかもしれません。もっと言えば、神さまのことさえも求めていなかったのかもしれない。自分の病気が治れば、それでいい。愛する者の病気が治れば、それでいい。動機は至って不純だったかもしれない。しかし、そんな当てもなく彷徨うわたしたちを、イエスさまは「飼い主のいない羊」のようだ、と「深く憐れ」んでくださったのです。弟子たちと一緒に、休息に向かわれたのです。お疲れのことだったでしょう。それなのに、オロオロあたふたしている私たちを、まことに自分勝手な願いしか持っていないような私たちを、つまり、罪深い私たちを、深く憐んで下さった。深く憐れみ、時間を惜しまず、教えて下さった。神さまのことを、この世のことを、私たち自身のことを。どこに向かえば良いのか、何をすれば良いのか、懇切丁寧に教えて下さった。

今日の旧約聖書の日課、」と言われる箇所です。つまり、良い羊飼いであるイエスさまの到来を予告、預言しているということです。その前に、当時の悪い羊飼い、これは具体的には当時の王を指すわけですが、その王たちを断罪する言葉が記されていました。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰
する」。当時の羊飼い・王たちは、極端な圧政を敷いて国民を苦しめていた、ということでは必ずしもないと思います。当時の南ユダ王国は、大国バビロンとの間で非常に難しい舵取りを迫られていました。そこで、方針の違いなどもあったのでしょう、主導権争い、権力争いなどが起こってくる。そうなると、民衆のことはそっちのけです。自分たちの保身のことに、みんなが躍起になっていく。

だから、「顧みることをしなかった」と叱責されます。常に、自分を優先させてしまう。これが人間の性でしょう。それは、王たちに限らないことですが、こと羊たちを養い、保護し、導いていく羊飼いならば、その責任を問われる訳です。そして、ここで預言されている「良き羊飼い」は、それら人間的弱さをもった羊飼いたちとは全く異なるのだ、という。そして、イエスさまこそが、そんな「良き羊飼い」なのです。なぜならば、この羊飼いは何時如何なる時も、何よりも羊たちのことを優先される方だからです。この羊飼いのあらゆる動機は、自分を頼ってくる羊たちに対する深い憐れみにあるからです。

この羊飼いは、まことの良き羊飼いイエス・キリストは、たとえどんな動機であったとしても、不純な動機、罪にまみれた身勝手な動機であったとしても、飢え渇いて訪ねて来るものたちを決して拒まれることはないからです。その人たちに、必ず羊飼いの使命を果たされる。彼らが迷うことなく、一筋に光に向かえるように、教え諭していかれる。そういう方だからです。

ここで、もう一つ注意したいのは、この羊飼いの周りの人々の事です。まず弟子たちがいます。6章7節以下に、弟子たちを二人ずつ組にして宣教に送り出されたことが記されていますが、今日の箇所は、そんな弟子たちの宣教報告からはじまっているからです。つまり、ここに集まってきた人々の中には、この弟子たちの宣教の結果だった人もいたかもしれないからです。あるいは、一行がゲネサレトに向かった時には、そのことを知った名も無き人たちが、必死にそのことを周辺一帯に知らせに行ったことが記されています。また、その知らせを聞いた人々が病人たちを連れてきました。つまり、それら救いを必要としている人々が癒やされたのは、多くの人々がいたからだ、とも言えるわけです。

私たちは、決してイエスさまに取って代わることなどできません。まことの良き羊飼いは、イエスさまだけです。しかし、私たちもまた、飢え渇きを覚えている人々のために、口に、手に、足になれるのかもしれない。私たちもまた用いられて、イエスさまと出会って救われる人々が起こされていくのかもしれない。そうも思う。

願わくは、イエスさまがお持ちの「深い憐れみの心」を、ほんの少しでも私たちにも分けていただきたい。そのように願わされます。