次週説教

【説教】2021年4月18日(日) 10:30 説教 「 疑いの中で 」 浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書24章36~48節



今、私たちは復活節の中を歩んでいます。ですので、当然聖書のテキストはイエスさまの復活に関わる箇所が取り上げられて来ましたし、また、復活の出来事について思いを向けて参りました。しかし、正直、復活を信じることは、決して容易いことではないことも覚えます。むしろ、十字架と復活は、宣教的に考えるならばマイナス面と言えるのかもしれません。ですから、そういった躓きの要素を取っ払ってしまって、愛の教えや「山上の説教」に代表されるような人生の意義を説いていった方が、宣教の成果に苦しみ喘いでいる私たちの教会にとっては突破口になるのかもしれない。そういった考えが起こるのも不思議ではありません。現に、聖書の時代にも既に見られるものです。

「エマオのキリスト」(1648年)レンブラント ルーブル美術館



先週の日課であるヨハネによる福音書20章では、残された弟子たちは、「家の戸に鍵をかけ」閉じこもっていたことが記されていました。なぜならば「ユダヤ人を恐れて」いたからです。イエスさまの十字架の死は、弟子たちの「イエス・キリストの弟子としての命」を奪うには十分な出来事だったのです。彼ら弟子たちは、イエスさまの弟子としては死んでいました。もし、イエスさまが十字架ではなく、英雄として命を落とされていたならば…、志半ばでの非業の死を遂げられていたとしたならば、弟子としての命はまだ続いたのかもしれません。むしろ、その命は燃え立たされ、先生のためにと、新たな活動へと(たとえそれがレジスタンス的なものであったとしても)進んで行けたのかもしれない。

しかし、イエスさまは十字架で死なれた。罪人の一人として処刑された。全くの敗北者として。これは、イエスさまに敵対する勢力の圧倒的な勝利だと思います。弟子たちも同時に葬り去ることに成功したのですから。
もし、十字架で全てのことが終わってしまったとしたら、何も残らなかったでしょう。何も…。そう、前述の愛の教えも「山上の説教」も何一つ残らなかった。よくあるように、辺境の片隅で起こったひとときの出来事として、誰にも顧みられず、歴史の中に埋もれてしまっていたに違いない。弟子たちが立ち上がることがなければ、鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちが外に出て行くことがなければ、キリスト教なるものはこの世界に存在しなかったでしょう。私はそう確信する。

では、なぜ弟子たちは立ち上がれたのか。なぜ弟子たちは外の世界へ、しかもそこは未知なる世界、危険を孕んだ世界に飛び出して行くことができたのか。皆さんも自分のこととして考えてみて頂いたら良いと思います。もし、弟子の境遇にあった自分が立ち上がることができるとすれば…。いいえ、ただ立ち上がるだけではない。立ち上がって、悲しみを乗り越えて元の生活に戻るのではない。なおも十字架で死なれたイエスさまを救い主として、復活の主として証しして行くことができるとすれば、そこに一体何が起こったのかと、自分をそれほどまでに変えたものは一体何だったのかと、考えてみていただければと思います。ともかく、復活は信じ難いことです。それを否定したり、矮小化する必要はありません。むしろ、その真実にしっかりと目を向けるところからしかはじまらないのかもしれません。

当初からイエスさまの復活を信じた人は誰もいませんでした。復活のイエスさまを探す人もいませんでした。むしろ、人はイエスさまの亡骸を求めました。死を事実として受け止めるために。また、復活の証人の言葉も信じませんでした。それが、人の、私たちの偽らざる姿です。そうです。私たちは信じないのです。信じられないのです。イエスさまの言葉、約束も、その真実の姿も。私たちは、私たちの理解を超えたものをなかなか信じることができない。受け止めることができない。そんなことは、はじめから重々承知なのでしょう。だから、いつもイエスさまからはじめてくださる。イエスさまの方から来てくださる。亡骸を求め、見つけられずに悲嘆に暮れるマグダラのマリアに出会ってくださったのは、復活の主、イエスさまの方からでした。家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた、閉じこもることしかできなかった弟子たちを訪ねてくださったのは、イエスさまの方です。

とぼとぼと失意のうちに戻るしかなかった弟子たちに近づいてきてくださったのもイエスさま。イエスさまの方がいつも働きかけてくださった。今日もそうです。復活のイエスさまと出会ったと聞かされても信じることができず、途方に暮れている弟子たちの真ん中に現れてくださったのは、復活のイエスさま。その姿を見ても、まだ信じられず、幽霊だと思い込んでいる弟子たちに、手や足をお示しになったのもイエスさま。

トーマスの不信 レンブラントRembrandtプーシキン美術館 1634年



先週の福音書の日課は、「疑り深いトマス」の物語でもありましたが、今日の物語と似ていることに気づかれたでしょうか。ご存知のように、復活のイエスさまが現れた時、そこに居合わせなかったトマスは、イエスさまの手の釘跡に自分の指を突っ込んでみなければ、その脇腹の傷跡に自分の手を差し込んでみなければ、決して信じない、と言い放ったのです。そして、次の日曜日、今度はトマスも一緒にいた弟子たちの中に復活のイエスさまが現れ、トマスが望んだように、あなたの指をこの私の手の傷跡に触れてみなさい、私の脇腹の傷にあなたの手を入れてみなさい、と告げられました。そして、こう言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。イエスさまはいつもこうです。私たちを信じる者とするために、一所懸命にしてくださっている。今日の箇所でも、幽霊だと怯えている弟子たちにご自分の手や足を示されたのも、そうでしょう。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。その一心でしてくださっている。それでも、まだ信じ切ることのできない弟子たちのために、魚まで食べて見せられた。考えてみれば、ちょっと笑っちゃいます。全然、神秘的でも何でもない。神の子です。復活の主です。ご自分の復活を証明するために、もっとやりようがあったのではないか、とも思う。もっとこう神々しく…。しかし、弟子たちは美味しそうに魚を頬張っておられるイエスさまの姿を見て、思い出したのではないか、と思う。いつもの食卓のあの懐かしいお姿を。ああ、本当にイエスさまは復活されたのだ。紛れもなく、ここにおられるのは、私たちの先生だ、と。

おそらく、私たちは誰も復活を信じることはできないでしょう。人の力量としては無理なことです。ただし、それは、復活の主が本当におられなければ、の話しです。もし、本当に、十字架で終わってしまっているとするならば、私たちの信仰も何も残らなくなってしまうのかもしれません。復活がなければ、十字架も霞んでしまうからです。復活の主がいてくださる。イエスさまは私たちのために、確かに肉体を持って、紛れもなくご本人として復活してくださった。そして、誰一人信じようとしない弟子たちの中で、不思議なことをはじめてくださった。この私たちのためにも。

不信仰…。上等です。復活など信じられない…。当然です。それが、紛れもない私たちです。しかし、そんな私たちの只中で働いてくださっているイエスさまを否定してはいけません。私たちではない。イエスさまが働いてくださっている。イエスさまが信じようとしない私たちに向かって、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とご自身を示してくださっている。そして、私たちの中にそんなささやきが響き渡って何かが芽生えはじめるのです。私たちではない。イエスさまの業です。それを拒んではいけません。その芽を摘んではいけません。この時ばかりは、「信じられない」という自分に素直にならないで、ただ心を開くことです。自分自身を信じるのではなく、イエスさまを信じると。でないと、せっかくのそれは幽霊になってしまうかもしれません。そして、結局、何も残らなくなってしなうかもしれない。

もちろん、私たちはそんなことは求めていません。イエスさまを、その復活を、その意義を信じたいと思う。だからこそ、このイエスさまの働きに、もっと素直になっていきたいと思うのです。

祈 り
新型コロナの蔓延、また変異株の増加で、今大阪の医療現場が大変な状況になっていると聞きます。すでに重症患者数は確保病床を上回り、治療が行き届かなくなっています。また、医師、看護師たちも疲弊しています。どうぞ、憐んでください。このような状況下に
なっても、なかなか人の流れがおさまりません。どうぞ、一人一人の心に働いてくださり、他者を思いやる行動をすることができますようにお導きください。また、政府、行政の対応も速やかに行われますようにお導きください。首都圏も予断を許さない状況になって来ました。どうぞ、私たちをもお守りくださいますようにお願いいたします

ルーテル学院大学、神学校の新たな年度の歩みをどうぞ豊かにお導きくださいますようにお願いいたします。新型コロナの蔓延で、今後どうなるかは分かりませんが、新入生も多く与えられましたので、彼らの学びやまた学校生活などが守られて、整えられていきます
ように、どうぞお助けください。また、教師・職員もお守りください。
家族を亡くされ、辛い思いをされておられる方々が多くおられます。どうぞ、憐んでくださいますように。平安と希望に満たしていってくださいますようにお願いいたします。

悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月18日  復活節第3主日礼拝



復活節第3主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

前  奏  喜べキリスト者よ  J. S. Bach

初めの歌 教会190( 主のみ名によりて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
全能の神さま。
羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた全能の神さま。
私たちを羊飼いとして送り出し、失われた人々、傷付いた人々に、み言葉をもって仕える者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 3:12-19(新約 218頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 3:1-7(新約 443頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ルカによる福音書 24:36-48(新約 161頁)

みことばのうた 教会107( 死に勝ちたもう )3節

説  教 「 疑いの中で 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会344( み顔をあおぎて )1、5節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会361( 世につげよ )1節

後  奏 明るき太陽は今や輝きあらわる K. Brod

【説教・音声版】2021年4月11日(日) 10:30 説教 「 鍵がかけられていたのに 」 浅野 直樹 牧師 」

復活節第二主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~31節

先週は…、昨年は新型コロナの影響で残念ながら皆で集うことはできませんでしたが、復活祭を共々に祝えたことは、大変嬉しいことでした。また、クリスマス礼拝以来久しぶりに聖餐式も行うことができました。本当に感謝でした。

また、新規陽性者数が増え始め、変異株のこともあり、東京も『まん延防止等重点処置』が明日から適用されることになりましたので、今後どうなるかは分からなくなってしまいましたが、「当たり前」だと思っていたことが当たり前ではなかったということを、私たちは改めて噛み締めているのかもしれません。

レンブラント・ファン・レイン: マグダラのマリアに現れる復活したキリスト The Risen Christ Appearing to Mary Magdalene 1638年、Royal Collection of the United Kingdom



本日、復活節第二主日に与えられました福音書の日課には、あの有名な「疑り深いトマス」の物語りが出てまいりました。しかし、今日は、あまりこのトマスに触れるつもりはありません。そうではなく、主に前半の物語にポイントを置いて見ていきたいと思っています。

今日の箇所の出だしに、「その日」とあります。もちろん、これはイエスさまが復活された日です。先週の復活祭では、その日の早朝に起こったマグダラのマリアの物語を中心に見ていきました。彼女は、まだ日が上る前にイエスさまの墓を訪ねたのでした。それは、先週も話しましたように、自分なりにイエスさまの死を整理するために、あるいは、現実の死と受け止めながら今生の別れをするために、だったのかもしれません。そのマリアは復活のイエスさまとお会いすることになります。そして、今体験した出来事を伝えに弟子たちのところに向かいました。「わたしは主を見ました」と。

その同じ「その日」です。イエスさまが復活された「その日」の夕方に弟子たちは何をしていたか。「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。鍵をかけ、家の中に閉じこもっていた。先程のマリアと何と違っていることでしょうか。彼ら弟子たちは、イエスさまの墓を尋ねようともせず、その亡骸と相対そうともせず、ちゃんとした別れもしなかった。同じように、イエスさまの言葉の真意を、復活を信じられなかったかもしれない。

誤った動機だったかもしれない。しかし、それでも、やはり自分なりのイエスさまへの愛が勝ったマリアは復活のイエスさまと出会うことができた。しかし、弟子たちは、家の中に閉じこもることによって、それらのチャンスを自ら締め出してしまっていたのかもしれないのです。では、なぜ彼らは家の中に閉じこもっていたのか。「ユダヤ人を恐れて」と記されています。

確かに、イエスさまを排除することができたユダヤ人当局者たちが次にターゲットにするならば、弟子たちでしょう。弟子たちも当初は、甘く見ていたのかもしれません。たとえ捕まえられたとしても、死刑までとは考えてはいなかったのかもしれません。あれだけ民衆に支持されていた自分たちの先生が、まさか死刑にされることはないだろう、と。しかし、あれよあれよとイエスさまは十字架に磔にされて殺されてしまわれた。今度は、自分たちの番かもしれない。想像上のことでしかなかったことが、まさに現実のこととなったことの恐ろしさを私たちも知っているはずです。あの大災害のように…。だから、鍵をかけ締め切った。しかし、それだけを、つまり歴史的な現実だけを恐れてのことだったのか、と言えば、そうでもないように思うのです。つまり、心も閉ざして何人たりとも入れないようにしていたことも意味するのではないか、ということです。

私たちも心を閉ざしてしまうことがあります。誰の声も入ってこれないほどに、閉じこもってしまうことが。愛する者を、大切な人を亡くした時、私たちは慰めの言葉も受け付けなくなってしまうことがある。とてつもない不幸に襲われた時、誰も私の気持ちなど分かるまい、と善意を締め出し心を閉ざす。失敗をした時、大きな過ちをしてしまった時、自分を責めることに夢中になり、弁護の言葉さえも締め出してしまうことがある。そして、自分の惨めさを知った時。いかに自分が小っぽけな存在で意味のない人間なのか、と知らされた時、こんな自分であることを悟られることが恐ろしくなって心を閉ざす。弟子たちもそうだったのではないだろうか。愛する師、イエスさまが死んでしまった喪失感、絶望感。イエスさまに託していた夢、人生そのものが潰えてしまった失望感。イエスさまを見捨てたという罪悪感。たとえ囚われることになっても、命を落とすことになっても、決してあなたを知らないなどとは言わない、と大見えを切った自分の惨めさ。それらの心の殻は、イエスさまご自身をも締め出すものでもあったのでしょう。

ルカによる福音書では、復活のイエスさまを亡霊・幽霊だと錯覚したとの記事が載せられていますが、そういった思いがなかったとは言えないのかもしれない。たとえイエスさまの亡霊、幽霊であっても、来てもらっては困る、と。どうせ、恨みを晴らすために、怒りをぶつけるために来られるに違いないから、と。そして、彼らは孤独だったのかもしれない。弟子たちの何人がここに集まっていたのかは分かりません。しかし、恐らく誰も口を開かなかったのではないか。なぜなら、口を開けば、他の者を責める言葉、自分が責められる言葉しか出てこなかったでしょうから。最初に逃げ出したのは誰か、と。誰に責任があるのか、と。心のうちを打ち明けられない。自分の弱さを曝け出すことができない。それは、たとえ集団の中にいたとしても孤独なものです。そんなふうに、彼らは家の入り口に鍵をかけ、閉じこもっていた。後から来たあのトマスも同様です。彼もまた、鍵をかけ閉じこもっていた。

復活などとても信じられない、と。他の弟子たちには現れてくださったのに、なぜ自分の前には現れてくださらなかったのか、と、心を固く閉ざしていた。
その只中に、復活のイエスさまは現れました。鍵をかけ、家の中に、心の中に固く閉じこもっていたその中に、その只中に復活のイエスさまは来られた。「あなたがたに平和があるように」と。彼らが心底心配し、それゆえに固く閉ざしていたのに、イエスさまはそんなことには何一つ触れることなく、ただ「平和があるように」と祈り、祝福してくださった。これは、まさに赦し以外のなにものでもないでしょう。彼ら弟子たちの存在そのものが救われたのです。

みなさんは、「心の雪解け」を経験されたでしょうか。私の場合は、母との確執でした。母は大変厳しい人でした。他の兄弟たちには見られない厳しさを、私は受けてきました。それゆえ、幼い頃から母を求めつつも、恐れ、遠ざけてきた。そんな母が私に厳しくあたった理由を語り、謝ってくれた。私が18、9の時です。本当に雪解けとは良く言ったものです。私の冷たい、頑なになっていたものが、どんどんと溶けていくように感じました。全身の硬さがほぐれ、血が通う暖かなものになっていくのを感じた。もちろん、同じではありませんが、弟子たちにも、そんな頑なさが崩れていく、溶けていく、溶かされていく経験をしたのではないか、と想像するのです。冬の雪が溶けて、暖かな日差しの中で土が柔らかになり、草花が芽吹く春の大地のように。

もう、閉じこもらなくても良い。締め付けなくても良い。手をキツく握りしめ、頑なにならなくても良い。そんなふうに、何とかして自分自身を守り抜いて、保たせようとしなくとも良い。もう、全てを、洗いざらいを明け渡して良い。弱さも、醜さも、罪深さも、至らなさも、何もかも。なぜなら、もう責められることがないから。全てを赦し、こんな私を暖かく包み込んでくださる「復活の主」がいて下さるから。それが、それこそが、共に歩んできた私たちの主イエスさまの真の姿。それが、神の子の姿。だからこそ、そんな神の子の真の姿を味わった彼らだからこそ、罪の赦しの権限を授けられたのではないか。そう思うのです。

この物語は、誰もイエスさまを、復活のイエスさまを探しにいきません。誰一人として、です。むしろ、彼らはそんなことも出来ずに、ただ閉じこもるしかなかった。そこに、イエスさまが来てくださった。私たちには、この二つの物語り、マグダラのマリアの物語りと弟子たちの物語りが与えられていることに感謝したいと思う。そして、どちらの物語りにしても、結局はイエスさまの方から訪ねて来てくださっていることに心を向けたいと思うのです。私たちもまた、同じだからです。イエスさまが来てくださった。私たちの内に。不思議な力で。奇跡としか思えない方法で。だから、今の私たちがある。赦しと新しい命に踏み出していくことができる。そうではないでしょうか。

 

祈り

神さま。今、大阪をはじめとした関西方面が大変なことになっています。変異株による急激な感染者数の増加によって、医療現場、特に重症病床が逼迫していると言われています。また、この変異株は、従来型よりも感染力が強いばかりでなく、比較的感染しにくいと言われていた子どもたちも感染しやすいようで、また比較的若い30代、40代の人々でも重症化しやすいとも言われています。どうぞ、憐んでください。自粛疲れとはいえ、あまりに多くの人々が動き始めました。感染対策をしているとはいえ、やはり人の動きが感染を広げる原因になります。もう一度、意識を新たにして、うつらない、うつさないとの感染対策を市民一人一人がしっかりと意識づけていくことができますようにお導きください。

東京でも徐々に感染者数が増えており、しかも、変異株の割合が増えているとも言われています。明日から「まん延防止等重点措置」が適用されますが、感染が抑えられていきますようにお導きください。せっかく入学式も終え、これからという時に、また新型コロナの感染が拡大してしまいました。またどのような学校生活になるか、分かりませんが、新入生ばかりでなく、学生・学童・園児たちをお守りくださり、それぞれの歩みを豊かに送ることができますようにお助けください。

4月からこのコロナ禍に対応した教会学校の様々な取り組みがはじまっていますが、どうぞ子どもたちがイエスさまと出会っていくことができますようにお導きください。そのために奉仕して下さるお一人お一人の上にも、主の顧みがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月11日  復活節第二主日礼拝

復活節第二主日礼拝


司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 萩森 英明

前  奏  「死に勝ち給いし主」D. Buxtehude

初めの歌 教会157( ほめまつれ )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
全能の神さま。
主の復活を喜び祝っている私たちを助け、すべての言葉と行いによって、復活の力を伝えさせてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 4:32-35( 新約 220頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 1:1-2:2( 新約 441頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書20:19-31( 新約 210頁 )

みことばのうた 教会106( 憂いをさちに )1節

説  教 「 鍵がかけられていたのに 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会328( 主イェスに従う )1節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会344( み顔をあおぎて )1、5節

後  奏 「死に勝ち給いし主」J. Pachelbel

【説教・音声阪】2021年4月4日(日) 10:30 説教 「そして涙は拭われる 」 浅野 直樹 牧師 」

復活祭聖餐礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章1~18節

私たちは、愛する者の死の痛みを知っています。私は牧師ですので、これまでも多くの葬儀を行ってきましたが、時には棺にしがみつき、泣きじゃくる方もおられました。心が痛みました。そうではな くても…、たとえご葬儀の時に涙を流されなくても、死・死別の辛さ、悲しみはあるものです。それが、「死」というものです。

近頃、「曖昧な喪失」といった言葉がよく聞かれるようになりました。あの東日本大震災に代表されるような災害の時によく現れる現象だと言われます。突然の死別、ご遺体も見つからない、そんな、ちゃんとした別れの作業ができなかった心の穴が、長期間それらの方々を苛むからです。それは、最近の新型コロナにおいてもいえる、と言われます。ご存知のように、新型コロナに感染された方には、基本的に面会ができません。看取ることもできない。今でも通常のご葬儀が行えないことが多いようです。そういった「通常」とは違った死別が「曖昧な喪失」を生むと言われるからです。

今日の福音書の箇所に、マグダラのマリアが登場して参ります。マルコ福音書やルカ福音書によりますと、このマリアは「七つの悪霊」を追い出して頂いた女性だと言います。イエスさまによって救って頂いた女性。人生を変えて頂いた女性。生きる意味を取り戻すことができた女性。ですから、このマリアにとってイエスさまは大恩人な訳です。ですから、彼女はイエスさま一行と行動を共にし、彼らの身の回りの世話をした。自分にできることでイエスさまに仕えてきました。ほんの少しでも、イエスさまに恩返しがしたかったのかもしれません。そのマグダラのマリアは、「週の初めの日、朝早く」に、つまり日曜日の早朝、まだ日が上りきる前にイエスさまの墓を訪れていました。

ジョット 1303-06年ごろパドヴァ スクロヴェー二礼拝堂『 キリストの復活とノリ・メ・タブゲレ(我に触れるな)』



このマグダラのマリアをはじめとした女性たちにとっては、イエスさまの死は弟子たち以上にショッキングな出来事だったのかもしれません。なぜなら、弟子たちほどには、事細かにこれから起こるであろう出来事についての説明がなされていなかったでしょうから。つい数日前、皆がこぞってまるで王を歓待するかのようにイエスさまを迎えたのです。おそらく、その場にいたであろうこの女性たちも、誇らしかったのではないでしょうか。皆が私たちの主を喜んでいる、と。それなのに、あれから数日しか経っていないのに、捕らえられ、裁判にかけられ、死刑の判決がくだされ、あれよあれよのうちに十字架に磔にされて死んでしまわれた。誰が想像できたでしょうか。まさに、理解する間もなく怒涛のように過ぎ去った一日だったのではないか、と思います。

しかし、この女性たちは、イエスさまの死を受け止めざるを得なかったのではないでしょうか。なぜなら、見ていたからです。目撃していたからです。血を流し、磔にされたイエスさまを。苦痛に歪むその顔を。命を削るかのような粗い息遣いを。そして、とうとう動かなくなった。全身から力が抜け落ち、首を垂らしてピクリとも動かない。終いには、その死を確認するかのように、槍で脇腹を一突きされ、血と水が流れ落ちた。誰の目にも明らかでした。イエスさまの死が。それは、この女性たちにも否定できなかったことです。もう受け止めるしかなかった。しかし、それでも、このマグダラのマリアをはじめとした女性たちにとっては、

「曖昧な喪失」だったのかもしれません。受け止め切れない、事実だけれども真実になり切れていない死として…。だから、マリアは安息日が終わるとすぐに墓に行ったのかもしれません。イエスさまの亡骸に触れて、そのイエスさまに語りかけて、別れをするために。真実の死とするために。しかし、墓にはイエスさまの遺体はなかった。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン Rogier van der Weyden 「十字架降架」(1435-1438)プラド美術館(マドリード)



「マリアは墓の外に立って泣いていた」と言います。愛する者の死で悲しむのは当然ですが、しかし、ここでマリアが「泣いて」いたのは、遺体が見当たらなかったからです。彼女が求めていたのは、イエスさまの復活ではありません。イエスさまの遺体です。真実の死です。そして、その死にすがって、思い出に生きようとする自分自身のケジメです。それは、私たちにもよくわかることです。そうでないと、私たちもまた立ち上がることができなくなるからです。

実は、ここに大きな課題があるようにも思うのです。私たちは、「死」に対抗する手段は「死」でしかない、と思っている節がある。言葉を変えるなら、「諦め」です。なるべく良い死の捉え方をして、納得させようとする。そのためには、真実の死にするしかありません。もう彼は、彼女は死んだのだから、二度と戻っては来ないのだ、と。しかし、私たちには、そんな彼らとの暖かな思い出があるのだ、と。だから、大丈夫、立ち上がっていけるのだ、と。しかし、そんな私たちの死との向き合い方にイエスさまはチャレンジをされる。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。「マリア」…。

いくら立派なお葬式をしても、立派なお墓を立てても、いっぱい思い出を持っていても、踏ん切りをつけたつもりでも、勝てないものがある。その人自身です。その人自身の声、呼びかけです。「マリア」…。彼女はどんな思いで答えたでしょうか。「ラボニ(先生)」と。遺体が見つかるよりも遥かに嬉しかったに違いない。そして、それは、私たちも夢見てきたことです。愛する者が復活して、私の名前を呼んでくれることを…。

使徒パウロは、今朝読まれた使徒書の日課の後で、このように語っています。12節以下。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。イエスさまが真に復活して下さったこそ、マグダラのマリアの前に現れ、「マリア」と呼びかけてくださったからこそ、私たちもまた、愛する者の復活を、この私たち自身の復活を信じることができる。死を死でなんとか手懐け、心許ない慰めに生きるのではなくて、真の希望と喜びに
生きることができる。いいえ、たとえ死・死別の悲しみにのたうち回ることになっても、深いところから響き渡る安心・平安の調べに心委ねることができるようになる。復活のイエスさまがいてくださるから。そうではないでしょうか。

イエスさまは復活なさいました。私たちもまたこの復活の命と希望とに生きることができるようにと復活してくださったのです。本当に感謝です。
復活祭(イースター)、おめでとうございます。



祈り
本日は、コロナ禍ではありますが、復活祭を共々に祝うことができましたことを心より感謝いたします。また、礼拝前には、普段とは違った形になりましたが、子どもイースターの集まりをすることができましたことも感謝いたします。私たちの救い主、主イエス・キリストは、私たちのために十字架に死に復活してくださった。これが私たちキリスト教会にとって最も大切な出来事です。ここに、使徒の時代から今日まで、救いと希望と愛をキリスト者たちは見出してきました。どうぞ私たちもまた、そんな先人たちと共々に、この信仰に堅く立ち、希望と喜びと愛に生きることができるように、これからも豊かにお導きください。

また、この福音を宣べ伝えることも私たちには託されていますので、コロナ禍ではありますが、あらゆる機会を用いて証ししていくことができますように、私たちを聖めお用いください。

今日から神学生が当教会で実習をされます。どうぞ、神学生の学びを祝し、この教会での実習もこれからの働きに生かしていくためも良い経験となって行けるように、お導きくださいますようお願いいたします。

4月1日から5月末までの予定で大規模修繕工事が始まりました。すでに、足場の設置が完了していますが、どうぞ、これからの工事を導き、お守りくださいますようにお願いいたします。特に作業される方々をお守りくださり、事故などが起こりませんように、また、近隣の方々の迷惑などにもなりませんように、お導きくださいますようお願いいたします。

4月から就職、進学、進級など新しい環境になられた方々をどうぞお守りくださり、1日も早く慣れて、良い歩みをすることができますようにお助けください。悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月4日  復活祭聖餐礼拝

復活祭聖餐礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

前  奏 Festive Trumpet Tune D.German

初めの歌 教会87( うれしき朝をたたえよ )1節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部

– 特別の祈り-

御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。
み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行いのすべてを祝福してください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 25:6-9( 旧約 1098頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙第一 15:1-11( 新約 320頁 )
ハレルヤ唱 (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 20:1-18( 新約 209頁 )

みことばの歌 教会95( よみがえりの日 )1節

説教 「 そして涙は拭われる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会97( 主死にたまえり )1節

信仰の告白 ニケア信条

奉献の部 オーボエソナタ BWV1030 第2楽章 J.S.Bach oboe : 槙 智子

派遣の部
派遣の歌 教会453( われは信ず )3 節

後  奏 教会讃美歌453番による後奏曲 F.Nagler

【週報:司式部分】 2021年3月28日  枝の主日・主の受難主日礼拝



司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏 教会賛美歌80番のメロディによる前奏曲 N.W.ポーウェル

初めの歌 教会80( みさかえあれ )1、3節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部

特別の祈り

全能の神さま。
あなたはみ子イエス・キリストを世に送り、十字架の死に渡されました。
み子と共に、私たちがその従順と復活の勝利に与る喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります

第1の朗読 イザヤ 50:4-9a( 旧約 1145頁 )
第2の朗読 フィリピ 2:5−11( 新約 363頁 )
詠   歌 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 15:1−39( 新約 94頁 )

みことばの歌 教会81( 血しおに染みし )1、3節

説教 「 本当に、この人は神の子だった 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会313( 主はへりくだりて )1、2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会337( やすかれ )1、3節

後  奏 何ひとつ持たないで B.M.ハウベルス

【説教・音声版】2021年3月28日(日) 10:30 説教 「本当に、この人は神の子だった 」 浅野 直樹 牧師 」

受難主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書15章1~39節

アンドレア・マンテーニャ (1431–1506)  磔刑図 1457-60 ルーヴル美術館



主イエスは、十字架の上で死なれました。十字架に磔)にされ、血を流しながら、無惨な死を遂げられたのです。その死に間近に立ち会ったローマの百人隊長は、次のように語ったと伝えられています。「本当に、この人は神の子だった」と。
私たちキリスト者たちにとっては、これは何の違和感もなく受け止められるのかもしれません。なぜなら、私たちはイエスさまのことを「神の子」だと信じていますし、そして、私たちのために、私たちを救うために十字架の上で命を落とされたことを知っているからです。しかし、よくよく考えてみますと不思議に思います。なぜ異教徒であるローマの百人隊長が、罪人(ざいにん)の死を前にして「本当に、この人は神の子だった」と語れたのか、ということに、です。

私たちは、十字架刑を過小評価しているのかもしれません。その残忍性ではありません。「罪の刑罰」という意味において、です。当時、十字架刑は最も残虐な処刑方法でした。主に、見せしめの要素が強かった。ですから、ローマの市民権をもった人々に対しては、十字架刑は用いられなかったと言われています。そうではなく、ローマ帝国に仇なす者・反逆者たち、属国の反乱者たち、つまり、ローマ帝国側からすると「大罪人」に用い
られたのです。ですから、十字架につけられ死んでいったナザレのイエスのことを、このローマの百人隊長が大罪人の死と受け取っても、なんら不思議はないのです。「馬鹿なユダヤ人どもが、ローマ帝国に楯突いて何になる。また、力のない哀れなユダヤ人が一人処刑されたか」と思ったとしても、なんら不思議はない。しかし、彼は、こう言った。「本当に、この人は神の子だった」と。不意に、口を衝いて出てきたのかもしれません。

おそらく、この百人隊長にとって、イエスさまの死は不思議でならなかったからでしょう。彼は、これまでにも多くのユダヤ人たちを十字架にかけてきたのかもしれません。当時、度々ユダヤではローマ帝国に叛逆する試みがなされていたからです。今日の箇所に出てきます「バラバ・イエス」もその一人だったかもしれない。「暴動の時の人殺し」と罪状が記されていますが、この「暴動」は反ローマ運動の一つだったかもしれないからで
す。ここでイエスさまが登場してこなければ、この「バラバ」こそが十字架につけられる予定になっていたかもしれません。

ともかく、この百人隊長は、この地に赴任してきてから、幾度となく、そういった光景を目撃してきたはずです。実際に、反乱軍の鎮圧に当たったこともあったのかもしれません。自分が連行してきたユダヤ人たちが、次々と反逆罪で十字架につけられていったのかもしれない。その時の、ユダヤ人たちの姿を、十字架上の姿を、その振る舞いを、死に様を、侮蔑の思いで具に見てきたのかもしれない。「愚かなユダヤ人どもが」と。しかし、そのどれとも、一致しなかった。イエスさまの死は、そのどれとも明らかに違っていたのでしょう。

この百人隊長は、裁判の席でも片隅にいたのかもしれません。そして、あのピラトと同じように、不思議に思ったのかもしれない。なぜ一言も弁明しないのか、と。私たちは不当な裁判に、やっていもいないことを裁かれることに、耐えられません。
人々は、慣例に則り、囚人を一人釈放して欲しい、と願い出ます。総督ピラトはイエスさまが無実だと気づいていましたので、先ほどのバラバ・イエスとメシアといわれるイエス…、イエスさまとどちらを釈放して欲しいかと問いますが、人々はバラバを選びました。そして、イエスさまについては「十字架につけろ」と叫びました。私たちは、悪意のある人の声に、耐えられません。

マティアス・グリューネヴァルト キリストの磔刑 受胎告知 キリストの降誕 受難 復活 (キリスト教) 『イーゼンハイム祭壇画』Mathias Grünewald (–1528) ウンターリンデン美術館 https://www.musey.net/6867



ローマ兵たちは、イエスさまを愚弄し、唾を吐きかけました。ユダヤ人たちは十字架上のイエスさまを取り巻いて、こう言います。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。

私たちは、人に侮辱されることに、罵られることに、耐えられません。イエスさまは大罪人です。裁判を除いては、イエスさまならではの独特の面はあったでしょうが、人々から敵意・悪意を向けられ、罵られ、侮辱され、軽蔑の言葉を浴びせられるのは、ある意味、この百人隊長にとっては、ありふれた光景だったのかもしれません。

しかし、イエスさまは一言も発せられません。私たちは、ほんの些細な不当な扱いにも、悪意にも、侮辱にも、耐えられないのです。すぐに言いたくなる。弁明したくなる。自分の正当性を。そして、悪意には悪意で、侮辱には侮辱で返したくなる。自分をこんな目に合わせた奴らを呪い殺してやりたい、と。必ずお前たちの上に天罰が下るであろう、と。

百人隊長がこれまで見てきた十字架の囚人たちは、そうだったに違いない、と思うのです。私たちと同じように…。しかし、イエスさまは違った。イエスさまが発せられたのは、たったこれだけ。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」。人に対しての恨みつらみでも、ローマに(世に)対しての恨みつらみでもなかった。ただ、神さまのみに叫ばれた。これらをじっと間
近に見ていた百人隊長に電撃が走ったのではないか、と思います。「本当に、この人は神の子だった」と。

イエスさまは十字架で死なれました。神の子が十字架で死んだのです。罪のない方が、大罪人の一人として。これは一体、何を意味するのでしょうか。もちろん、私たちは答えることができるはずです。「私たちの罪を贖うため」であった、と。しかし、それでも、いいえ、その上で私たちはなおも問いたいと思うのです。安易に模範解答を導き出す前に、なぜイエスさまは、神の子は死なれたのか、と。この私のために死なれたのか、と。
このイエスさまの死を真摯に見つめる先にこそ、確かな答えがあると思うからです。「本当に、この人は神の子だった」という答えが。そして、この答えに辿り着いた者だけが、イエスさまのあの叫びが、「わが神、わが神」と叫ばれた叫びが、まさにこの私のためであったということが、そこに隠されていた神さまの愛が、心に深く刻まれていくようになるのではないでしょうか。

祈 り

今日から再び、集会式の礼拝を再開できますことを感謝いたします。しかし、新規陽性者数が上昇傾向になっており、ある試算では4月末頃に都内だけで2000人を超えるといった予想も出ているようです。自粛疲れとも言われますが、感染の広がりは、死に直結する人々が増えるということでもありますので、なおも皆が心がけていくことができますようにお導きください。また、集会式の礼拝が再開できても、まだまだ参加することのできない方々も多くおられますので、どうぞそのお一人お一人の上にもあなたの恵みを豊かに届けてくださり、常にあなたが共にいてくださることを実感していくことができますようお導きください。

今日から受難週が始まりました。私たちのために、あなたの御子であられるイエスさまが十字架上で命を捨てられたその意味を深く噛み締めていくことができますように、どうぞお導きください。そして、十字架のイエスさまは復活のイエスさまでもあることを深く覚えていくことができますように、来週の復活祭を待ち望ませてくださいますようにお願いいたします。

今年も、卒業・入学・進級などの季節になりました。昨年からのコロナ禍でなかなか通常のようにはいきませんが、どうぞ子どもたち、学生たちが、このような状況下ですが、その年代でしか経験できないことをしっかりと経験して、人生を豊かに育んで行けますように、どうぞ憐れみお導きください。連日のように、ミャンマーの出来事が伝えられています。そして、多くの市民の命が奪われていることに心を痛めます。どうぞ、人の命が奪われることのないように、平和的に解決されていきますように、お助けくださいますようお願いいたします。悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【週報:司式部分】 2021年3月21日  四旬節第5主日礼拝



四旬節第5主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 小山 泉 10:30

開会の部
前  奏 おお けがれなき神の小羊  J.S.Bach

初めの歌 教会189 ( 主のみことばに )1、2節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
私たちの贖い主なる神さま。
私たちは弱く、み力によらなければ、
世界にあなたの赦しと希望の福音を伝える
ことができません。みことばに従い、
愛のご支配を伝えるために、聖霊によって
私たちを新しくしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、
永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 エレミヤ書 31:31-34( 旧約 1237頁 )
第2の朗読 ヘブライ人への手紙( 新約 406頁 )
詠   歌 (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 12:20-33( 新約 192頁 )

みことばの歌 教会73( 主はわが隠れ家 )1、3節

説教 「多くの実を結ぶために 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会460( こころみうけ )1、3節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 教会403( わが霊なやみて )1、4節

後奏 救い主は罪もなしに J.S.Bach

 

【説教・音声版】2021年3月21日(日) 10:30 四旬節第5主日礼拝  説教 「多くの実を結ぶために 」 浅野 直樹 牧師 」

四旬節第五主日礼拝説教

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章20~33節

いよいよ来週は受難週となり、復活祭へと向かうことになります。
まだまだ新型コロナが落ち着いたとは言えませんが、緊急事態宣言が解除され、人数は限定されるでしょうが、それでも集まって受難週を、復活祭を迎えることができることは、個人的には大変嬉しいことだと思っています。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。今日の日課の言葉ですが、みなさんもご存知のように、大変有名な言葉です。この言葉が語られたのは、いわゆる「エルサレム入城」(この出来事が「棕櫚(枝)の主日」のいわれとなったわけですが)と言われる出来事の直後のようです。

これから行われる「過越の祭り」を祝うために遠方から来ていたのでしょう。そこで偶然、先ほどの「エルサレム入城」の場面を目撃していたのかもしれません。数人のギリシア人がイエスさまを訪ねてきました。「お目にかかりたい」と。その人々がその場にいたかどうかは定かではありませんが、その訪問をきっかけに語られたのが、先ほどの言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。これは、明らかにイエスさまの死を表すものです。このギリシア人たちの訪問で、イエスさまはご自分の死の時を、直近に迫っていたその時を悟られました。「時が来た」と言われているからです。

しかし、ちょっと不思議なのです。イエスさまはこうも語られているからです。「人の子が栄光を受ける時が来た」。ここでイエスさまは明らかに、ご自分の死と栄光とを結びつけておられる。ご自分の死は栄光なのだ、と。
果たして「死」とは、それほど栄光に輝くものなのでしょうか。悲しむべきこと、悼むべきこと、後悔・未練がつきまとうものであることは、私たちにもよく分かる。出来れば、避けたいとも思う。そんな「死」が、果たして「栄光」と結びつくものなのだろうか…。しかし、私たちにも、そんな「死」があることを知っているはずです。それは、誰かのために死ぬ、ということ。そんな死を、私たちは賞賛して止まないのではないでしょうか。

三浦綾子さんの代表作の一つだと思いますが、『塩狩峠』という小説があります。これは、実際にあった鉄道事故をもとに書かれたものだと言われます。主人公が婚約者と結納を交わすために札幌へと向かう道中のこと、塩狩峠の頂上付近に差し掛かった頃に、主人公が乗っていた最終車両だけが連結が外れて逆走してしまいます。これまで峠を登ってきたのですから、当然下り坂となり、また急なカーブも多かったのでしょう。このままでは脱線・転覆の危険がある。主人公は鉄道会社の庶務係でしたが、ある程度は知識もあり、まずはハンドブレーキで停止を試みますが、減速はしても停止にまでは至りませんでした。そこで、彼は自分の体を犠牲にして停止させることを思いついた。彼は線路の上に飛び降り、それが車両の勢いを殺して停止させることに成功します。彼は自分の命を犠牲にして多くの人の命を救ったのです。

これは、先ほども言いましたように、実際にあった鉄道事故をもとにして書かれた小説ですので、実際に行われた詳細については分かっていません。ハンドブレーキを操作しているときに、誤って転落した、といった説もあるようです。しかし、彼が熱心なキリスト者であったことは事実のようですし、その車両に乗り合わせていた人の証言からも、あながち全部が作り話しだとも言えないように思います。ともかく、そんな「死」を私たちは称賛します。栄光を讃えます。しかも、そんな「死」はこれだけではないでしょう。あの3・11の時にも、そんな「死」が多くあったのかもしれない。いちいち取り上げられたり、脚光を浴びることがなくとも、そんな「誰かのための死」というのは、枚挙にいとまがないのだと思います。そして、そんな「死」の数々が世界を支えてきた、といっても言い過ぎではないのではないでしょうか。

イエスさまの死は、どんな死だったのか。私たちのためです。私たちを、全人類を救うためです。滅びるしかないような罪の、歪んだ自己愛・自己中心の虜になっている私たちを、人類を、そこから救い出すためです。そのためにイエスさまは死なれた。十字架の上で死なれた。裏切られ、蔑まれ、人々の…、救うべき人々の憎悪と悪意の中で死んでいかれた。私たちのために…。だから、栄光を受けられる。当然だと思います。前述のように、私たちは、そんな誰かのための死を、惜しみなく賞賛するからです。ならば、なおさら、このイエスさまの死は称賛されて然るべきです。栄光を受けられて然るべきです。しかも、この死は神さまに従ったが故の死でもある。こう記されているからです。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。だから、神さまからも栄光をお受けになりました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と。

イエスさまは、そんなご自身の死について、こうも言われています。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。イエスさまは、ご自分の死が、この世が裁かれる時、この世の支配者が追放される時でもある、とおっしゃっておられます。

フィンセント・ファン・ゴッホ (1853–1890) Arles, June 1888 穀物の束のある麦畑 Wheatfield with sheaves of grain ホノルル美術館



今も、「またか」と思うようなスキャンダルで政財界が揺れています。国会の場でも平気で嘘がつかれている。誤魔化しがまかり通っている。「記憶にございません」。いつの時代かと思う。何十年も前に一気にタイムスリップしたような感覚にもなりました。上に立つ人々がするのは、いつもトカゲの尻尾切り。役に立たないと分かると直ぐに切り捨てる。下の者たちは、捨てられないようにと顔色を伺い、忖度に走る。これが世、世の中。これが支配者がやること。力のない者、役に立たない者、自分に反対する者、気に入らない者、弱者たちは、いつも捨てられて、見捨てられて行きました。そう、世の常識では、救われるのは、上に立つごく一部の人たちだけです。しかし、イエスさまはご自分の死によって、そういった世界は変わるのだ、とおっしゃるのです。

「わたしが地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。「地上からあげられるとき」、イエスさまが十字架の上で死なれるとき、「すべての人を」…、そう全ての人、人種・民族・文化を超えて、性別も超えて、できるできないの能力も超えて、健康な者も、そうでない者も、傷を負って生きてきた者も、平穏に生きてきた者も、社会の片隅に追いやられていた者も、この世の成功を収めた者も、なんの差もなく、区別もなく、その死のゆえに、イエスさまの死のゆえに、全ての人をご自分のもとへ引き寄せる、と言ってくださっている。救いへと導いてくださる。それが、イエスさまの死の意味するところでもあるのです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスさまという一粒の麦は十字架の上で死なれましたが、その実は、さまざまな違いを超えて、時空を超えて、この日本にももたらされました。先ほどお話しした『塩狩峠』のモデルとなった人物もそうでしょう。そして、この私たちも…。その実りとしての「誰かのための死」という実が、また新たな実りをもたらすことにもなる。いい
え、それは肉体の死だけを意味するものでもないのでしょう。なぜならば、イエスさまは「自分の命を憎む」ことも求めておられるからです。自分を優先させていては、決して「誰かのため」とはなりません。「自分の命を憎む」…。自分よりもイエスさまの思いを、その教えを優先する。そこに、はじめて「誰かのために」も生まれてくるように思うからです。

イエスさまという一粒の麦は、「誰かのために」という実を結ばせるために死なれました。しかも、それは、自分にとって徳になる「誰か」でも、利益になる「誰か」でもなく、全く見返りのない「誰か」のために…、そう、愛の実を結ばせるためにイエスさまは死なれたのです。その結果(実り)である私たちであることを、受難週を前にして、もう一度イエスさまの十字架を見上げながら、噛み締めて行きたいと思います。



祈り
今日で非常事態宣言が解除され、来週から再び集会式の礼拝を再開できますことを心より感謝いたします。しかし、依然として新型コロナは収まってはおらず、徐々に感染の拡大傾向にもなりつつあると指摘されたり、また感染力のより高い変異株の心配なども出ています。どうぞ、私たちをお守りくださり、引き続き、しっかりと感染対策をしていくことができますようにお導きください。

昨日は、zoomを使ってのという新たな試みの中で無事に教区総会を終えることができましたことも感謝いたします。今、東教区では牧師不足という大きな課題に直面しつつあります。そのため、教区上げて、新たな教会のあり方を模索しているところです。どうぞ、御心に叶った歩みができますように。ここにも、何らかのあなたの思いがおありなのでしょう。これまでの歩みに感謝しつつも、牧師たちと信徒の皆さんとの協力の中で新たな
教会の姿を目指していくことができますようにお導きください。昨日は、また大きな地震が東北地方で起こり、津波注意報も出されました。

10年前のあの出来事を経験してこられた方々にとっては、その心中いかばかりだったかと思います。あの時の恐怖を思い起こされた方も少なくなかったかもしれません。どうぞ、憐んでください。そういった地震、津波の多い地域ではありますが、みなさんが平和に暮らせるよう
に、どうぞお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年3月14日  四旬節第4主日礼拝

四旬節第4主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前奏 最愛なるイエスよ J.ブラームス
初めの歌 教会176 ( 朝日をうけ )1、5節
罪の告白
キリエ(二)

みことばの部

–特別の祈り–
恵み溢れる神さま。
癒しと赦しのみ力によって、私たちをすべての罪から清め、強くしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン

第1の朗読 民数記 21:4-9( 旧約 249頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 2:1-10( 新約 353頁 )
詠歌 (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 3:14-21( 新約 167頁 )

みことばの歌 教会72( したわしき )1、4節

説教 「神さまの決意 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会320( しあわせなことよ )1、4節

信仰の告白 使徒信条

奉献の部
派遣の部
派遣の歌  教会394( 主よ終わりまで )1、2節

後  奏  ああ 汝の恵みがわれらと共にあれ F.ペータース

【説教・音声版】2021年3月14日(日) 10:30 四旬節第4主日礼拝  説教 「神さまの決意 」 浅野 直樹 牧師 」

四旬節第四主日礼拝説教


聖書箇所:ヨハネによる福音書3章14~21節

今日の福音書の日課には、ルターが「小福音書」̶̶つまり、福音書の内容がここに凝縮されている、という意味でしょうが̶̶と表現したと言われています非常に有名な言葉が記されていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

確かに、実に素晴らしい恵みのみ言葉です。ここで神さまが愛されたと言われている「世」とは、世界の全てを指すのでしょう。つまり、世界中の全ての人を神さまは愛しておられる、ということです。そこには、なんら分け隔てがありません。当時の状況で言えば、ユダヤ人と異邦人という大きな区別が存在していました。ユダヤ人は神さまに愛されている人々。異邦人はそうではなく、神さまに疎まれている人々。そんな区別が、少なくともユダヤ人サイドからはあった訳です。

しかし、そうではなくて、あらゆる国・民族・身分を超えて、出来る出来ないといった能力の差を超えて、どんな人でも…、そう、どんな人でも、自分には愛される資格などない、誰からも愛されない、と思い込むしかないような人であっても、神さまはその全ての人々を、その一人一人を愛しておられる。しかも、この福音書において「世」とは決して信仰深い、立派な世界を意味しないのです。むしろ、不信仰で罪に塗れた「世」でもある。そのことを重々承知の上で、それでも、なおもご自分の大切な独り子を与えるほどに愛し、愛し抜かれた。それが、福音書を凝縮していると言われる…、この「小福音書」と言われるみ言葉の意味するところだからです。

ですから、私自身も含めて、多くの人々の心を捕えて離さないのでしょう。確かにそう。素晴らしき『良き知らせ』。しかし、そのような普遍的で、寛容で、優しい「愛」のメッセージだけで十分か、といえば、それだけでは足りないようにも思うのです。なぜならば、このみ言葉には「一人も滅びないで」という言葉もあるからです。神さまの目的は、イエスさまを信じることによって全ての人に「永遠の命」を与えること。

しかし、その前提に「滅び」という現実が横たわっているのです。この「滅び」という現実があるからこそ、神さまは何とかして全人類をそこから救い出したいと欲せられた。なぜならば、神さまは私たち全人類を愛しておられるからです。ですから、御子を…「独り子」を与えられた。この「与える」は明らかにイエスさまの十字架を意味すると言われる。ですから、私には、先ほどの言葉は、人類を救うために御子イエス・キリストを十字架につけるという神さまの決意表明のようにも思えてならないのです。私たち人類への愛の決意表明。

必ず救うという決意表明…。先ほどから言ってきましたように、ここには神さまの全身全霊をかけた「愛」の言葉が記されていますが、と同時に、「滅び」「裁き」などの愛に似つかわしくない言葉も多数記されていました。現代に生きる私たちは、このような「罪」「裁き」「滅び」といった言葉がどうも苦手なようです。「愛」の言葉だけで十分だ。それ以外の言葉は捨て去ったほうが良いとさえ思っているのかもしれません。「罪」「裁き」「滅び」などと言われる神さまは、神さまらしくない、と思っているのかもしれない。教会では、たびたび救われなければならない、赦されなければならない「罪人」だと言われるけれども、自分のことをそれほど悪くはない、と思っているのかもしれない。

たとえ、神さまの手が下されなくても、私たち人類は滅びへと向かいつつあるようにも思えてきます。NHKスペシャル『2030未来への分岐点』という番組をご覧になられたでしょうか。ある専門家は、2030年が世界の分岐点になると警鐘を鳴らしています。つまり、この10年の間の私たちの取り組みが明暗を分ける、ということです。

事実、その通りになるかどうかは意見が分かれるところでしょうが、少なくとも「このままではダメだ」といった危機感は多くの人々が共有しているところではないでしょうか。この番組ではシリーズで「温暖化」の問題、「水・食料危機」の問題、「プラスチック汚染」の問題などが取り上げられていましたが、どれも衝撃的なものでした。これらの迫り来る課題と、罪の問題(自分たちの欲望を満足させようとする、自己都合ばかりを考える等)とは決して無縁とは言えないでしょう。そういう意味では、この「罪」と「滅び」の問題は、私たちの身近に迫っている課題とも言えなくないのかもしれません。

しかも、聖書ははっきりと「神さまの裁き」を語っていきます。私たち人類の罪を、悪を放ってはおけないからです。そして、実は、私たちもそのことが正しいことだと分かっているのです。なぜならば、罪や悪を野放しにしておけば、やがて混沌と暗黒をもたらし、破滅へと向かわせることを知っているからです。ただし、問題なのは、私たち自身は、そんな「神さまの裁き」に値するほどに罪深くはない、悪くはないと思っていることです。思い込んでいることです。果たして、他国を侵略し、強圧的に植民地化していった人々は、自分たちがやっていることは罪だとか、悪だとか思っていたのでしょうか。

果たして、戦争を終わらせるためだと、一度に十万人以上もの人々の命を奪うことができる原子爆弾を開発し、投下していった人々は、自分たちがやっていることは罪だとか、悪だとか思っていたのでしょうか。平和的なデモをしている市民を実弾で排除しようとしている軍事政権の人々は、自分たちがやっていることを罪だとか、悪だとか思っているのでしょうか。日々の食事にも事欠いている人々が何億人もいるのに、毎日、まだ食べられる食材を大量に捨てている私たちは、それを罪だとか悪だとか思っているのでしょうか。自分たちの豊かで快適な生活を維持するために、ある特定の地域の人々に多大な危険を強いている私たちは、そのことについて疑問さえも抱いていないのではないでしょうか。私たちの罪とは、悪とは、そんなにもあからさまなものばかりなのでしょうか。自覚していないだけ、ということはないでしょうか。それでも、本当に私たちは、それほど悪くはない、罪深くはないと胸を張って言えるでしょうか。神さまの裁きは、滅びは、私たちにとっては無縁だと言い切れるのでしょうか。

しかし、聖書は語ります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。確かに人は自らの罪によって「滅び」へと向かいつつある現実があったかもしれない。しかし、神さまは、その現実を放っておくことも、また諦めて裁きに任せておくこともお出来にならなかったのです。なぜならば、世を…、不信仰で罪に塗れていた世を、この私たちを愛しておられたからです。ですから、どうしても救いの道を求めずにはいられなかった。それが、「独り子」を与える、つまり、独り子であるイエス・キリストを私たちに代わって十字架につけるという方法でした。

キリストの祝福 Christ blessing the children (1545–1550) ルーカスクラナッハ Lucas Cranach the Younger メトロポリタン美術館 Metropolitan Museum of Art,N.Y.



あの3.11から10年が経ちました。しかし、その10年という年月で痛みが和らぐものではないということも、この間の様々な報道等からも知らされました。そして、私たちも知っている。愛する者を失う悲しみを。その痛みを。神さまは違うのか。私はそうは思いません。私たち以上に、痛かったに違いない。苦しかったに違いない。しかも、そんな思いをしてまでも救おうと願った相手は、神さまに逆らい、自らの罪によって滅びへと向かおうとしていた人々。その愚かさ、過ちにも気づかなかった私たち人類です。矛盾と悲しみを孕んだ、この世です。

私たちはこの「独り子」を与えるほどの神さまの愛を受け止めるところから始めなければなりません。そして、この神さまの愛を知った者だけが、この愛に触れた者だけが、本当の意味で自らの罪深さにも気付いていけるのでしょう。だからこそ、なおもこの愛の言葉に寄りすがっていくことにもなる。まさに、この恵み深い言葉に。良き知らせに。
私たちはもう一度心新たにして、この神さまの愛に生かされていきたいと思うのです。そして、自分自身のためだけでなく、この世、この世界のためにも罪の気付きにチャレンジして、罪・罪の力からの開放を求め続けていきたいと願っています。



祈 り
本日は午後1時より教会総会が行われます。このコロナ禍で例年より1ヶ月以上遅れ、開催方法も大きく異なりますが、昨年一年間の恵みを感謝し、また新たな思いでこの一年をはじめて行けますように、どうぞお導きください。また、ITを使った初めての総会となります。機器のトラブル等もないようにお守りください。

東日本大震災から10年が経ちました。一つの区切りということでしょうか、最近はニュース等で当時の映像が多く流されていますが、改めて当時の被害の大きさを思い起こしています。また、被災された方々にとっては、なかなか踏ん切りのつかない月日でもあったのでしょう。まだ悲しみの癒えていない方々も多くおられると思います。また、人災とも言える原発問題で、苦しい思いをされておられる方々も多いと思います。どうぞ、憐んでください。癒しと希望をお与えくださり、一歩一歩前へと進んでいくことができますようにお導きください。

また、これらの経験を風化させることのないようにもお導きください。私たちは、本当に反省の足りないもの、喉元を過ぎるとすぐにでも忘れてしまうものです。あれだけ多くの日本中の人々が様々なことを学んだはずなのに…。私たちはどこかで自然を、世界を手中に収めているような錯覚、傲慢さがあったのかもしれません。もっと謙遜になって、様々な歴史的教訓からも学びとって、持続可能な節度ある生き方、文化が育っていきますようにお導きください。

今週土曜日(20日)には教区総会も行われます。教区総会も通常の総会とはいきませんが、この東教区においても様々な課題がありますので、少しでも改善に取り組んでいくことができますように、執行部をはじめ、それぞれの教会を豊かに導いていってくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【週報:司式部分】 2021年3月7日  四旬節第3主日礼拝

四旬節第3主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 小山 茂
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 前奏曲 おお神よ、汝いと高き恵の神よ A. Ludeke

初めの歌 教会76 ( めぐみの主イエスよ )1節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部

– 特別の祈り-
永遠の主なる神さま。
あなたはみ子の生涯と死と復活によって、
悩み多いこの世にみ国をもたらされました。
私たちがみ言葉に聞き従って、愛の器となることができるように助けてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、
永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 出エジプト記 20:1−17( 旧約 126頁 )
第2の朗読 コリントへの手紙一 1:18-25( 新約 300頁 )
詠歌 (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 2:13−22( 新約 166頁 )

みことばの歌 教会238( いのちの かて )1,2節 (着席)

説  教 「 主イエスの実力行使 」 小山 茂 牧師

感謝の歌  教会271( 主は教会の )1,4節
信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌  教会339( イェスきみはめぐみの主 )1,2節

後  奏 汝のうちに喜びあり W. Borngasser

【説教・音声版】 2021年3月7日 「主イエスの実力行使 」 小山 茂 牧師

四旬節第3主日


出エジ20:1~17 Iコリ1:18~25 ヨハネ2:13~22

エルサレム神殿

福音書の舞台はエルサレム神殿です。説教黙想をしていて、神殿がどのようなものであったか、調べてみました。神殿は3000年前に建てられ、紀元70年に破壊されました。神殿の始まりはダビデの子ソロモンが、紀元前950年頃に第一神殿を建立しました。しかし、南ユダ王国のバビロン捕囚のあった折、バビロニアのネブカドネザル王により紀元前586年に破壊されました。紀元前515年以降ネヘミヤやエズラにより新たに第二神殿が完成され、主イエスと同時代のヘロデ大王によって改築されました。その神殿も70年にローマによって破壊されました。取り壊された神殿の上に現在は、金色の丸屋根をもつ「岩のドーム」があり、イスラム教が大切にしています。残された神殿の城壁の一部が「嘆きの壁」として、ユダヤ教徒の巡礼地となりました。宜しければウェブサイトで、「エルサレム神殿」と検索してみてください。3D画像で神殿を散策するように見ることができます。ヨハネ福音書に過越祭が3度登場することから、主イエスが宣教活動された3年間、西暦30年頃に第二神殿は未だ残されていました。

神殿の礼拝

神殿での献げ物の調達方法を知ると、福音物語が分かり易くなります。旧約の申命記14:24~26に記されています。「あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主のみ前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。」神に献げ物をして、家族が共に祝う様子が描かれています。

エル・グレコ El Greco (1541–1614) 神殿を清めるキリスト Christ cleansing the Temple ナショナル・ギャラリー・オブ・アート National Gallery of Art, Washington DC



ユダヤ人には、エルサレム神殿に巡礼する祭りが年に3つありました。その中で最も盛大なものが過越祭で、イスラエルの民が神の助けにより、エジプトを脱出したことを記念するものです。その過越祭が近づいたので、主イエス一行はエルサレムに上られます。神殿は異邦人の庭まで、誰もが入ることを許されています。ディアスポラ〔離散〕のユダヤ人は、遠方からエルサレムにやって来ます。神殿に献げる犠牲の動物を、遠くから連れて来るのは大変なことです。そこで境内には犠牲の動物を売る者、神殿税の支払いのためユダヤ貨幣に両替する者がいます。遠くから来るユダヤ人が通常使う、ローマやギリシア貨幣を神殿では使えません。皇帝の顔や銘が刻まれていたからです。神殿ではユダヤのシュケル銀貨が必要です。過越祭の神殿礼拝には、生贄動物の売買と両替は必要不可欠なことでした。

主イエスが神殿の境内に入って来られると、生贄を売る商人と両替商人が目に入ります。主は縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出し、両替商の台をひっくり返されます。神殿の前庭はかなり広く、主お一人での商売の邪魔を止められなかったのでしょうか。神殿警備隊が介入したり、ローマの駐屯兵が気づいたりしなかったのでしょうか。周りの人たちから見れば、突然の過激な実力行使でした。しかし、境内での商売を慣例として、神殿当局は許可していました。

熱情に食い潰される

鳩の商いをする者たちに、主イエスは言われます。「このような物は、ここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」神殿は神が住む家であり、神は主イエスの父ですから、神殿は「わたしの父の家」に間違いありません。弟子たちは主の豹変に驚き、その訳を詩編69編10節から思い起します。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしている。」ヨハネ福音書では熱意と訳され、詩編では熱情とあります。旧約の日課は出エジプト記20章で、神がイスラエルのリーダーであるモーセに、十戒を授ける物語です。

その中に神ご自身が「わたしは熱情の神である」と言われます。さらに、「わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」神を拒む者には何代に渡り懲らしめがあり、神を愛する者には何代に及ぶ慈しみがあります。それも、当人だけならまだしも、子や孫何代にも及ぶとあります。旧約の神はイスラエルの民を愛されるあまり、神を拒む者に妬(ねた)みさえされます。私たち人間ならそれもあるでしょうが、ちょっと失礼な言い方になりますが、神の執念深さには驚かされます。

また食い尽くすと訳されたギリシア語は、滅ぼすと言う意味もあります。自らを滅ぼすとは、主イエスの十字架を指しています。自ら動物の犠牲の代わりとなられ、人間の罪を一人で背負われます。それゆえ神殿礼拝における、犠牲の動物は必要なくなります。主イエスこそが羊や牛の代わりに、私たち人間のため生贄となられます。境内の動物をあれほど激しく追い出された、過激な実力行使には主の御心がありました。

福音書の小見出しは「神殿から商人を追い出す」とありますが、短く「宮清め」とも言われます。この物語は4つの福音書すべてにあります。ヨハネ福音書では2章「カナの婚礼」の直後、主イエスの宣教活動の初期にあり、十字架に向かわれる伏線となります。共観福音書マタイ・マルコ・ルカでは、エルサレム入城に続き宮清めがあり、主は十字架に向かわれます。

主イエスの根拠

ユダヤ人たちは、主イエスの実力行使を非難します。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」主の無礼な行いが正当である根拠を、自分たちに見せてくれと要求します。主イエスは答えられます、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主は敢えて、誤解される言い方をされます。主の言われる神殿はご自分の体のことであり、ユダヤ人の言う神殿は目の前にある構造物です。両者の会話はすれ違い、全く噛み合いません。その行き違いを解く鍵は「建て直す」と訳された、ギリシア語動詞にあります。「呼び起こす、目覚めさせる」と言う意味もあり、主イエスは自らの甦りについて言われ、十字架から三日後に復活すると語られたのです。しかし、ユダヤ人の言う神殿は建造物であり、三日で建て直すと理解したのです。

ジョット・ディ・ボンドーネ (–1337) Expulsion of the Money-changers from the Temple  スクロヴェーニ礼拝堂



彼らは主イエスに呆れたように言います。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」

ユダヤ人の無理解、それは弟子たちも同様です。福音の結びに語られています。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」ユダヤ人と主イエスの会話を聞いていた彼らも、主の言葉をその時は理解できません。弟子たちは復活された主イエスに出会って、初めて本当の意味が分かります。ヨハネ福音書14:26に記されています、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」弟子たちが主イエスは救い主と分かるまで、復活後に送られる聖霊の助けを待たなければなりません。

ルターも宮清め

主イエスのお言葉、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」、それにルターの宗教改革が重なります。1517年10月31日にルターが、95か条の提題をウィッテンベルクの城教会に張り出しました。当時のヨーロッパはペストの流行から、四人に一人が亡くなり、人々は死と隣り合わせでした。贖宥状〔免罪符〕というお札をお金で買えば、罪からの償いを免除され、亡くなった方にも及ぶとされました。教会が商売の家とされ、莫大な金銭を得る場所になりました。ルターは強く抗議して、イエス・キリストへの信仰によってのみ救われると、命の危険を顧みず一歩も引きませんでした。その百年前にチェコの神学者ヤン・フスは、宗教改革の先駆者として登場し、異端者とされ火あぶりの刑に処せられました。もしザクセン選帝侯の庇護がなければ、間違いなくルターも異端者として殺されていたでしょう。

ルターはヨハネ福音書2章から、コメントしていました。教会のサクラメントが牛や羊の代わりに売られるなら、商取引となるから邪悪になる。贖宥状やミサやその他のインチキなものをお金で売るのでなく、こう言うべきである。「愛する友よ、私はあなた方に、我々の主イエス・キリストの福音を説教しましょう。福音を通して我々は、恵みにより罪の赦しを得るのです。あなた方が、キリストを信じるためです。私は神のために、あなた方の救いのために、私の説教によって奉仕しましょう。求められれば赦免によりただで、あなた方の罪を赦しましょう。

私はそれをあなた方にお金で売るつもりはありません。」いかにもルターらしいメッセージではありませんか。ルターも「わたしの父の家を、商売の家としてはならない」と、主イエスから1500年後に語りました。宗教改革は「ルターの宮清め」とも言えるのではないでしょうか。でもそんなことを言ったら、きっと恐れ多いとルターに怒られることでしょう。

【週報:司式部分】 2021年2月28日  四旬節第2主日礼拝

四旬節第2主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 前奏曲(教会讃美歌181のメロディ)H.A.Metzger

初めの歌 教会171(かがやく 日を仰ぐとき)1,4節

罪の告白
キリエ(二)

みことばの部

-特別の祈り-
憐れみ豊かな天の父なる神さま。
あなたの道を離れて迷うすべての者を連れ戻し、今いちど、みことばの真理を
与えて信仰を強くしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記 17:1−7,15−16( 旧約 21頁 )
第2の朗読 ローマ 4:13-25( 新約 278頁 )
詠   歌 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 8:31−38( 新約 77頁 )

みことばの歌 教会240(み言葉によりて)1,3節

説  教 「 イエスの死を恥じてはいけない 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会69(十字架のもとに)1,4節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会472(なにゆえこの身は)1,5節

後  奏 苦しみ悩みの(教会讃美歌468のメロディ)E.Magnus

【説教・音声版】 2021年2月28日 「イエスの死を恥じてはいけない 」浅野 直樹 牧師

四旬節第二主日礼拝

聖書箇所:マルコによる福音書8章31~38節

本日、四旬節第二主日に与えられました福音書の日課は、マルコによる福音書8章31節以下、いわゆる「受難予告」と言われる箇所でした。
今朝は、このことについて考えていく前に、使徒書のテーマであった信仰について少し考えてみたいと思います。

ここでパウロは信仰の父とも言われるアブラハムを引き合いに出して律法による救いではなく、信仰の重要さを語っていきます。先ほども言いましたように、アブラハムのことを「信仰の父」というくらいですから、信仰について知りたければ、アブラハムから学べ、ということでしょう。それほどに、このアブラハムの信仰は評価されてきました。パウロも、そんなアブラハムの生涯の一場面を切り取って、こう語っています。

「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。

彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。このように、パウロはアブラハムの例を出しながら信仰の大切さを語っていったわけですが、その出来事が今日の旧約聖書の日課になります。

ご承知のように、神さまからの「子孫と土地を与える」との約束を信じて、命じられるままに未知なるパレスチナの地に旅立ったのが、アブラハム75歳の時でした。あれから、約四半世紀。待てど暮らせど子どもが生まれる気配がない。

これは単に時間の経過だけを意味しないわけです。アブラハムも妻のサラもどんどんと年をとって、ますます不可能に思えてくるからです。途中で痺れを切らして、すでにアブラハムはサラの女奴隷であったハガルによってイシュマエルという子どもをもうけてもいました。

それなのに、ようやく神さまからの語りかけを聞けたかと思えば、妻サラとの間の子どもが約束の子孫だと言われる。その語りかけを聞いたアブラハムの心境も頷ける気がいたします。創世記17章17節以下。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』アブラハムは神に言った。『どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように』」。

「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った」。神さまの言葉を「笑う」。痛烈な言葉です。聖書は本当に素直だな、と思います。信じられないのです。アブラハムは100年も生きてきた訳ですから、この世の酢いも甘いも噛み分けて、人間的な常識というものを否が応でも身につけてきたことでしょう。その結果、「不可能」という判断に至った。

当然です。そんな話し、聞いたことがない。だから、彼は笑うしかなかった。馬鹿馬鹿しいとさえ思ったのかもしれない。だからと言って、決して神さまのことを信じていない訳ではないのです。神さまは信じている。敬っている。だから「ひれ伏す」。しかし、他のことならともかく、少なくともこの件に関しては不可能としか人間理性では、常識では思えないので、無理だ・有り得ないと笑うしかないのです。そんなアブラハムの気持ち、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。

それでも、やはりアブラハムは「信仰の父」なのだと思うのです。このアブラハムから信仰というものを学ぶ必要がある。しかし、それは、アブラハムの信仰を、ということを必ずしも意味しないと思います。そうではなくて、このアブラハムを「信仰の父」「信仰の人」としていった神さまを学ぶ。人間的な常識、知識、経験などを超えて、ただ神さまの言葉のみに信頼を寄せる、そういった信仰へと導いていかれた神さまのお姿を学ぶのだと思うのです。

最初に言いましたように、今日の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。もっと正確に言えば、「受難と復活の予告」ということでしょう。これは、以前もお話ししましたように、直前のペトロの信仰告白を受けての出来事ということになります。イエスさまは、人々のご自分に対する認識を問われた後、弟子たちにも尋ねられました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。

その時にペトロは即座に答えます。「あなたは、メシアです」と。メシアとは、元々は「油注がれた者」ということを意味していましたが、次第に救い主を意味するようになっていきました。そして、このメシアに当たるギリシア語が「キリスト」ということです。

沈黙のキリスト:Le Christ du silence (1890-1907) Odilon Redon (French, 1840-1916) オディロン・ルドン(Odilon Redon)



イエス・キリスト…、イエスはキリスト、救い主。これが、私たちの信仰告白です。ここでその信仰告白をペトロが最初にしたことになる訳です。しかし、その直後になされた受難予告を聞いてからのペトロの言動を見ますと、ペトロの抱いていた救い主の認識とイエスさまが成そうとされていた救い主の認識とが、大きく異なっていたことが分かると思います。

「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」。「イエスさま、何てことをおっしゃるのですか。私がメシアだと認めたあなたが、人々から排斥され、殺されることなど、あるはずがないではないですか。そんな弱気な発言は困ります。そんなことでは、誰もついて来なくなりますよ」、そんなことを語ったのかもしれません。

しかし、先ほどの言葉をよくよく見ていきますと、単に認識の違いでは済まないことも思わされるのです。先程の「いさめ始めた」の「いさめる」という言葉は、後の「ペトロを叱って」と記されている「叱る」と同じ言葉が使われているからです。ですから、ペトロはイエスさまを「叱り始めた」と言っても一向に差し支えないのです。

では、なぜペトロはイエスさまを叱ったのか。自分の方が正しいと思ったからです。少なくとも、このメシアについての認識は、イエスさまの方が間違っている。受難のメシアなどありえない。自分の理解の方が合っている。だから、馬鹿なことを言うんじゃない、と叱る。

そんなペトロに対して、今度は逆にイエスさまが叱責なさいました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。これも、大変厳しい言葉です。いくら間違いを犯したとはいえ、愛弟子に対して「悪魔よ、引き下がれ」などというのは、ちょっと言い過ぎなのではないかとさえ思えてきます。パワハラだと訴えられてしまうかもしれない。しかし、そんな厳しい口調にではなく、なぜそう言われたのかという意味をしっかりと考えなければなりません。

つまり、ペトロの言動は、図らずも悪魔のやり口そっくりだった、ということです。そして、悪魔のやり口とは、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ということ。しかし、本当は人間のことも思ってはいないのです。いかにも人間のことを思っているように装って仕掛けてくるのが悪魔のやり口。それは、創世記3章の記事を見ても明らかだと思います。

「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存なのだ』」。いかにも、人間の利益になるように唆してくる。それが、人類悲劇の始まりになる。しかも、現代に生きる私たちにとっては、この問題は抜き差しならぬ問題になっているように感じます。神さまの思いよりも、人間の思いの方が価値があると思い込んでいるからです。信仰になんて…、しかも、十字架に死んだ過去の人イエスを信じることに果たして意味があるのだろうか、と。キリスト者である私たちであっても、この問いは無縁とは言えないのかもしれません。

C’est moi, Jean, qui ai vu et qui ai oie ces choses (And I John saw these things and heard them (1899) Odilon Redon (French, 1840-1916)



使徒パウロははっきりとこう語っています。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。神さまの意思、神さまの力、神さまのご計画は、私たちの知識、認識、常識からすれば、「愚か」「ありえないこと」「馬鹿げている」としか思えないのかもしれないのです。ですから、信仰が必要になってくる。悪魔の策略を打ち破り、自分(あるいは人・人間)にではなく、神さまにこそ信頼を寄せる信仰が必要になってくる。

そして、そんな信仰を養い、育むためには、この神さまのためには十字架への道をも厭われなかったイエスさまのお姿が是が非でも必要なのだと思うのです。一見私たちの目には正しそうに、有益そうに見えるものでも、実は滅びへと向かわせる悪魔の策略なのかもしれない。一見役に立たないような愚かなものの中にこそ、私たちを救う真実の知恵と力があるかもしれない。

私たちも「引き下がれ(元々は「私の後ろに廻れ」という意味ですが)」と叱責されながらも、あのペトロたちと同じようにイエスさまと共に歩んでいく中で、信仰のなんたるかも学ばせていただきたいと思います。

 

祈り

・先日も、この地上の生を全うされ天に帰られた姉妹がおられます。み約束の通りに、どうぞ姉を永遠の安息と祝福とに与らせてください。また、どうぞ、憐んでくださり、ご家族・ご親族の上に天来の豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

・一都三県以外の地域の緊急事態宣言が解除されましたが、リバウンドも心配されています。どうぞお守りくださり、また上昇傾向にならないようにお導きください。一都三県でも随分と減少してきましたが、新規感染者の下げ止まりがあり、医療機関等もまだまだ大変なようです。

また、春先の様々なイベントによる懸念もあるようです。ワクチン摂取も予定より遅れ気味ですが、どうぞお守りくださり、少しでも感染者数を抑えていくような日常を送ることができますようにお助けください。

あるいは、若い方々は感染を広げている元凶のように見られがちですが、しかし、学校にも行けず、アルバイトもままならず、自粛もして大変な思いをしている学生、若者たちも多いと聞きます。どうぞ、彼らへの理解も深まって、また、彼らが少しでも当たり前の青春時代を過ごしていくことができますように、どうぞお助けください。

・悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、怪我をされている者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。また、ご家族を亡くされた方々に、あなたからの豊かな慰めと希望をお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【説教・音声版】 2021年2月21日 「 備えの時 」浅野 直樹 牧師

四旬節第一主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書1章9~15節

「備えあれば患なし」。人生において、あるいは世界では何が起こるか分かりませんので、「備えがある」ということは、非常に重要なことだと思います。
もうすぐ、あの大震災から10年になります。先日も、福島県沖を震源とする非常に大きな地震がありました。あの10年前の地震の余震だと言います。先日の地震の時には私はリビングにいましたが、その異様な揺れの長さにすぐに10年前の惨劇が脳裏に浮かびました。これは、また大変なことが起きているのではないか。津波が襲ってこないと良いが、と。今回は津波の心配はないということでホッと致しました。もちろん、被害にあわれた方々もいらっしゃいますので、単純には喜べませんが…。あの3.11の時も、「備え」があるかどうかで大きく明暗が分かれてしまったように思います。

今はコロナ禍の真っ最中ですが、感染症対策についての「備え」ということでは大失敗だったと言えるでしょう。ある方は、このような感染症の問題は「安全保障」上の問題だ、と指摘されていましたが、私も同感です。安全保障といえば、すぐに軍備ばかりに目が行きますが、人類はそんな軍備に力と知恵と財力を使う前に、こういった感染症の問題、気候変動の問題、食糧危機の問題などに力と知恵と財力を注ぎ込み、「備え」て行くべきではなかったか、と今更ながらに思っています。そうすれば、これほどの感染の拡大もなかったかもしれませんし、被害も、経済的な落ち込みも回避できたかもしれない。ともかく、私たちは、これらのことからも「備え」の大切さを学び直さなければならないのかもしれません。人生に、世界に何が起こるのか、本当に分からないのですから。


今日から四旬節の礼拝がはじまって参ります。例年ですと、先週の水曜日は「灰の水曜日」として、棕櫚の十字架を灰にしたものを用いた礼拝を行なってきましたが、今年はそれも叶いませんでした。少なくとも、今年は聖金曜日の礼拝と復活祭の礼拝は共に過ごしたいものです。

この四旬節第一主日に与えられました福音書の日課は、マルコ1章9~15節と短い箇所でしたが、その短い中に、三つの事柄が記されていました。一つは、イエスさまの洗礼の出来事。そして、いわゆる「荒野の誘惑」の出来事。そして、福音宣教開始の出来事。イエスさまの誕生物語を記していないマルコ福音書にとっては、ようやくと言っても良いと思いますが、14節になってはじめてイエスさまの言葉が記されていきます。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。ここから、いよいよ福音宣教がはじまっていく訳ですが、この福音宣教こそがご自身の何よりの使命だったことが1章38節を読むと分かります。「イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである』」。

では、イエスさまにとって福音宣教とは何だったのか。もちろん、先ほども言いましたように、第一にそれは神さまから託された使命です。どうしてもやり遂げなければならないもの。そして、その結果、多くの人々がイエスさまを信じるようになりました。いわゆる「ガリラヤの春」と言われる時期です。行く先々で好意的に迎え入れられ、人々は熱心にイエスさまの話を聞き、イエスさまに付き従う者も多くいた。まさに、絶好調と言える時期です。全てがうまく行くかのように思われた。時の宗教的指導者たちも、当初はど田舎の片隅で起こっていることとして、気にも止めていなかったでしょう。

しかし、その評判は首都エルサレムにまで届くようになった。もはや黙って見過ごすこともできなくり、調査隊を派遣するようになります。調べてみると、どうやらこれまでの宗教的慣習を否定するような言動をしているように見られる。このまま放っておいて良いだろうか。警戒されるようになる。そして、敵意は強まり、溝は深まり、ついには十字架の死へと追いやられていく。つまり、イエスさまにとって宣教とは、使命であると同時に、苦難の道でもあった訳です。

十字架へと行き着く道。もちろん、それらも含めてご承知の上でのことだったでしょうが、流石のイエスさまでも険しい道のりには違いなかったでしょう。あのゲッセマネでの祈りの時に、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈らざるを得なかったほどに、あの十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばざるを得なかったほどに、その道は大変厳しかった。それが…、その人生がこれからはじまろうとしている。福音宣教の開始とは、そういった意味もあったのではないか、と思うのです。

アンドレア・デル・ヴェロッキオ&レオナルド・ダ・ヴィンチ 「キリストの洗礼」 (1475年頃):ウフィツィ美術館 https://www.musey.net/1745



その福音宣教の前に起こった出来事が、今日の箇所の二つの出来事でした。一つは洗礼の出来事。そして、もう一つは、「荒野の誘惑」の出来事。私にはこれら二つの出来事は、これから始まる福音宣教という大変重要な、しかも大変厳しい歩みをはじめるに当たっての準備・備えだったのではないか、と思えてならないのです。そして、この両者の出来事を一つの言葉で言い表すならば、「神さま体験」ではないか、と思う。イエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられた時に、天から発せられた「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれました。

また、40日間にも及ぶ荒野での生活では̶̶このマルコにはマタイやルカにあるような悪魔とのやりとりといった具体的な内容も全て省かれて非常にシンプルに記されている訳ですが、そのシンプルさの中にも、悪魔との熾烈な争い、その葛藤などが感じ取れるように思います。この悪魔との熾烈な争いは、これから始まるイエスさまの宣教活動における戦いをも表しているのでしょう̶̶

神さまから遣わされた天使たちが自分に仕え、支えていてくれたことが記されていました。神さまが自分のことを愛する我が子と言ってくださり、苦難・試練…、その厳しさの中にあっても、神さまは決して見捨てておられるのではなく、常に守り支えてくださっていることを体験したからこそ、体験できたからこそ、あのイエスさまであっても、厳しい人生に漕ぎ出せていけたのではないか、と思うのです。私たちの先頭に立って。そう、イエスさまは私たちに先立って、その人生の極意をご自身で体験しながら示していってくださったのではないか。そう思う。

先週、教会員のある兄のご葬儀を行いました。教会の内外で大変に活躍された兄ですので、その報に触れられて様々な思いを抱かれた方も多いと思います。私も何だか信じられないでいる。元気そうな兄のお姿しか思い浮かびません。ご遺体のお顔も、本当に眠っているようでした。兄は生前から事細かにご自身の死後のことなどもご家族に書き留められていかれました。本当にあまりにも詳細だったのでご家族もびっくりしたそうです。そんな兄の死への備えが、また、そんな備えがお出来になった信仰の生涯が、兄の不意の死においても、ご家族を大いに慰めたのだと思います。

人生は、世界は、何が起こるか分からない。そして、私たちの誰もが、死という瞬間を必ず迎えることになる。だからこそ、備えが必要なのだと思うのです。いいえ、私たちの人生そのものが、備えのための人生なのではないか、とさえ思うのです。不意な困難、試練、苦しみに対処するために。また、必ずやってくる死という現実に対処するために。だから、私たちもまたイエスさまを見習っていきたいと思うのです。私たちも常に、神さまが私たちの味方であることを知っていきたいと思うのです。洗礼の事実を通して。そして、神さまの守りの真実を通して。

 

祈り
・先日、2月10日に敬愛する兄がまた一人天に帰られました。私たちにとっては寂しい限りですが、御約束の通りに、今兄はあなたの懐で永遠の安息に与っていることと信じます。私たちもまた、兄との再会の希望をしっかりと胸に抱いて、信仰の生涯を全うすることができますようにお助けください。悲しみの中にあるご家族の上に、天来の豊かな慰めをお与えくださいますようにお願いいたします。

・随分と新規感染者数が減ってきているようですが、まだまだ医療現場は大変な状況です。また、気持ちが緩むと、一気に感染が拡大することにもなりかねません。感染の問題、精神的な問題、経済的な問題など、この新型コロナでは難しい舵取りが求められますが、どうぞ一人一人が良い道を探り求めながら歩むことができますように、お導きくださいますようお願いいたします。

また、新型コロナに関する差別発言も絶えないようです。どうしてそのような発言をするのか理解に苦しみますが、発言する人々にも色々な負荷がかかっているのでしょう。どうぞ、このような時だからこそ、人の痛みを思いやる気持ちを皆で持っていくことができますように、そのような社会となっていくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年2月21日  四旬節第1主日礼拝



司式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 小山 泉

開会の部
前  奏 我らの主 キリスト ヨルダン川に来たり F.W.Zachow
初めの歌 教会151(ひとの目には)1,4節

— 罪の告白 —
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
主なる神さま。
あなたは昔、その民を約束の地へ、荒野の中を導かれました。
今、この世の荒野で、救い主に従って歩む民の群を、栄光のみ国へ導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン

————

第1の朗読 創世記 9:8−17( 旧約 11頁 )
第2の朗読 ペトロの手紙一 3:18−22( 新約 432頁 )
詠   歌 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 1:9−15( 新約 61頁 )

みことばの歌 教会69( とうとき主イェスの )1,4節

説教 「 備えの時 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会386( 十字架のもとに )1,3節

信仰の告白 使徒信条

奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会419( 主のみ民よ )1,4節

後奏 イエス 我が生命の生命よ J.S.Bach

【週報:司式部分】 2021年2月14日  主の変容主日礼拝



司式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説教 浅野 直樹
奏楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 「主キリスト、神のひとり子よ」J. S. Bach
初めの歌 教会60( ちちなるかみの )1,4節
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
全能の神さま。
あなたはみ子の変容によって、モーセとエリヤに伝えられた信仰の神秘を明らかにし、
輝く雲の中から、私たちをあなたの子として迎えることを示されました。
どうか、私たちを栄光のみ国の世継ぎとして、毎日を喜び生きる者にしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 列王記下 2:1−12( 旧約577頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙二4:3−6( 新約329頁 )
ハレルヤ唱 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 9:2−9( 新約 78頁 )

みことばの歌 教会277( さかえにかがやくシオン )1,4節

説  教 「 あなたはイエスをどう思っている? 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会313( 主はへりくだりて )1,2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会376( あなたのちからは )1,4節

後  奏 「主キリスト、神のひとり子よ」J. Pachelbel

【説教・音声版】 2021年2月14日 「 あなたはイエスをどう思っている? 」浅野 直樹 牧師

主の変容主日礼拝説教


マルコによる福音書9章2~9節

相手が何者であるのか、どんな存在であるのかを正確に掴むことは決して容易いことではありません。私たちは年齢を重ね、人生経験を積んでいく中で、無意識の内にもこれまでの情報と照らし合わせながら、「あの人はこういう人だ」「こんなタイプだ」とやってしまいがちです。もちろん、あながち間違っているとは言えないこともあるでしょうし、確かにそういった面もあるでしょうが、だからといって正確に捉えているとは言えないはずです。むしろ、そういった経験則に基づく先入観が私たちを捉えてしまって、なかなか相手との距離を縮められないことも多く経験して来ているのではないでしょうか。

本当に相手を知るためには、時間がかかるのだと思います。時間をかけ、しっかりと相手の言葉に耳を傾けていく。じっくりと知っていくことが大切になってくるのではないでしょうか。そうでないと、前述の先入観によって、身勝手な思い込みによって、大変なことにならないとも限りません。

今日の福音書の日課は、いわゆる「主の変容(変貌の山)」の物語です。その出だしでこう記されていました。「六日の後」(9章2節)と。では、何から6日後だったのか。それを知るには、日課の前の箇所を読まなければなりませんが、そこには、ペトロの信仰告白の記事と、それに続く、いわゆる「受難予告」…、もっと正確に言えば、イエスさまの受難…、その死と復活の予告が記されていました。つまり、「主の変容」の出来事は、それらの6日後ということになる訳です。そこで、なぜわざわざそれらの6日後と記す必要があったのか、ということです。つまり、わざわざ6日後と記したからには、「主の変容」の出来事は、それら、ペトロの信仰告白の出来事と、その後の受難と復活予告の出来事とも深く結びついている、ということでしょう。

8章27節以下に先ほど言いましたペトロの信仰告白の記事が記されています。このペトロの信仰告白の前にイエスさまはこういった問いかけをされました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。弟子たちにご自身の認識を問いかけられる前に、人々の認識、評価を尋ねられた訳です。そこで、様々な答えが返って来ました。ある人々は「洗礼者ヨハネ」が復活したのだと言っています。その他にも「エリヤ」の再来だとか、他の預言者の一人だと言っていたりしています、と答えました。ここで興味深いのは、今日の日課に登場してきます「エリヤ」といった答えが、ここに出てきているということです。これらの人々の認識、評価を受けて、今度は弟子たちに尋ねられました。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。そこで、ペトロはあの有名な信仰告白をした訳です。「あなたは、メシアです」。人々はあなたのことを色々と言っているようですが、私はそうは思いません。あなたこそ、私たちが長年待ち望んでいた「メシア・救い主」その人です、と告白いたしました。「あなたのことは誰よりも理解しています」、そんな思いを内に秘めながら、目を輝かせ、胸を張って、少し誇らしげに答えたのかもしれません。そのペトロの信仰告白を受けて、先ほどから言っていますように、イエスさまはご自分の受難と復活を弟子たちに語っていかれました。

「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」と記されています。するとペトロは、なんとイエスさまをいさめ始めた、というではありませんか。ここに、ペトロが抱いていた「メシア」のイメージと、イエスさまがなさろうとされていた「メシア」の姿が大きく異なっていたことが分かります。

そのズレを埋めるためにも、これまで以上に熱心にイエスさまは弟子たちを教え導いて行かれたのかもしれません。ある方は、先ほどの6日後、つまりこの間の6日間とは、そういった教育期間だったとも言っておられます。そうかもしれません。しかし、果たしてペトロの認識は変わっていったのでしょうか。私には、そうは思えない。人はそう簡単に自分の認識を改めることなど出来ないからです。むしろ、ペトロは不安になっていったのかもしれません。どうも話を聞けば聞くほど、私が抱いてきたメシアとイエスさまとは違っているとしか思えない。私は時の権力者たちに殺されていくようなメシアなど望んでいない。むしろ、メシアとは、そんな甘い汁を吸って民たちを顧みない権力者たちをやっつけるものではないか。このまま、この人に付いていっていいんだろうか。そんな問いが芽生えていたのかもしれません。

ラファエロ・サンティ (1483–1520) : キリストの変容 1518-1520 バチカン美術館



そんな最中に、イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて山に登られました。そこで、イエスさまの姿が変わった。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」。白く輝くとは、神的な姿を表します。弟子たちは、そのあまりの光景に腰を抜かさんばかりだったでしょう。そして、エリヤとモーセも登場してくる。この二人は、ご存知の通り旧約聖書を代表する人物です。ツートップと言っても過言ではないでしょう。そんな二人が光り輝くイエスさまと共に立って話し合っている。ペトロは、「俺の目に狂いはなかった」と思ったのかもしれません。一時は、イエスさまの言葉に心も揺れたけれども、やはり俺たちの先生は凄い方だ。あの偉大なエリヤとモーセと並び立っている。まさに、俺が見込んだメシアに違いない。そんな思いに、恐れ戸惑いながらも、打ち震えていたのかもしれません。しかし、この時のペトロの様子を聖書が肯定的には捉えていないのも確かだと思います。

ペトロは恐らく、直前の受難予告など忘れてしまう程に、どこかに飛んでいってしまうほどに、感動したに違いないと思います。そして、恐らく、より強く「この方に付いていこう」との思いを新たにしていったことでしょう。しかし、それでも、やはり彼は自分の先入観を捨て切ることが出来ないでいることに違いはないのです。メシアの認識のズレは一向に埋まらないのです。相変わらずイエスさまを誤解したままでいる。メシアだと告白しておきながら、その実、イエスさまの真のお姿をちっとも理解してはいないのです。私たちのように…。

そんな彼らをイエスさまたち諸共に神さまは雲に包まれてしまわれます。雲とは旧約聖書では神さまのご臨在を示すものです。その神さまの力に覆われた時に、神さまの声が聞こえて来ました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。気づけば、その声の先にはイエスさまお一人しかおられなかった。「これはわたしの愛する子」と言われたのは、イエスさまただお一人でした。いくら偉大な人物であるエリヤやモーセであっても、イエスさまと同じではない。神の子と言われる方はイエスさまお一人だけ。

Proportion and Design of Part of Raphael’s Tranfiguration ラファエロの変容のトライアングル構成図 William Turner ウィリアムターナー



その神の子としての栄光を彼らは目の当たりにしたのです。光り輝く栄光を。しかし、忘れてならないのは、「これに聞け」という言葉。つまり、神の子としての栄光は、イエスさまがお語りになられたように、受難と復活によって示されるものだからです。ペトロにとっては、とても受け入れられるものではなかった受難と復活のメシアによってこそ、イエスさまは神の子として光り輝かれる。そして、イエスさまは最後にこうも語られます。

「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と。まだまだ時間が必要だ、ということでしょう。イエスさまのことをより深く知っていくための時が。そして、恐らく時だけでも不十分なのでしょう。復活のイエスさまと出会わなければ、真のイエスさまのお姿は理解できないからです。あの弟子たちのように。

先入観や身勝手な思い込みを打ち破ることは容易ではありません。それこそ、復活のイエスさまと出会うような決定的な出来事が必要でしょう。それを、聖霊なる神さまは今日の私たちにおいてもしてくださるはずです。しかし、人にはそれぞれ時がある。その人にとってのタイミングが。早い人もいれば、遅い人もいるでしょう。瞬間的な人もいれば、長い時間をかけて徐々に、ということもあるのかもしれない。しかし、いずれにしても、時間は掛かるものです。相手を知るためには。共に生き、相手の話をじっくりと聞いていく時間が。そんな弟子たちの姿からも、私たちは学ぶ必要があるのかもしれません。

祈 り
・まだまだ新型コロナで大変な思いをされておられる方々が大勢おられます。どうぞ憐んでください。落ち着きを取り戻し、皆で集う日が一日も早く来ますように。お一人お一人の心も体もお守り下さいますようお願いいたします。
また、経済的な苦しみの中にある方々も多くおられます。どうぞ、必要な政策が速やかに行われ、生活が守られますようにお導きください。
・ご家族を亡くされて辛い思いをされておられる方々いらっしゃいます。どうぞ憐んでくださいまして、その心をお支えくださいますようにお願いいたします。
・大きな病気をされておられたり、様々な困難、課題と向き合っておられる方々が私たちの仲間にも多くおられます。どうぞ、憐れんでくださり、お一人お一人に必要な助けをお与えくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン