次週説教

【 説教・音声版 】2022年8月7日(日)10:30  平和主日礼拝 「 新しい人 」三浦 慎里子 神学生

ミカ 4:1-5、エフェソ 2:13-18、ヨハネ 15:9-12



本日は平和主日です。

77年前、8月6日に広島、9日に長崎にそれぞれ原子爆弾が投下され、その後終戦を迎えました。

唯一の被爆国である日本では、毎年 この時期になると、各地で平和を願う集会が開かれ、二度と戦争を繰り返しては いけないと、人々が心をひとつにして祈ります。戦争の苦しみを経験したのは日 本だけではありません。第二次世界大戦で犠牲になった方は、全世界で何千万人 にも及ぶと言われています。私は子どもの頃から、祖父母の戦争体験の話を聞い て育ちました。社会科見学で長崎に行った時には、原爆資料館で語り部の方のお 話を聞いた記憶もあります。また、自分でも本を読んだりドキュメンタリー映像 などを見たりして、戦争は人間が人間でなくなる大変恐ろしいものなのだとい う考えを持って生きてきました。多くの日本人のように、私もこのような教育を 通して、戦争について学んできたのです。

しかし、隠された不都合な事実があっ たことを後になって知りました。日本もアジア諸国の人々に対して、世界中の 人々に対して残酷な仕打ちをしてきたという事実です。今でも痛みと怒りと憎 しみの中で苦しんでいる人たちがいるということを知らずに、今は平和な世の 中だと思ってきたことを恥ずかしく思い、胸が痛みました。「当時の状況を知ら ないからそんなことが言えるんだ。戦争の時は皆同じことをしていたんだ。」と 言われるかもしれません。その通りだと思います。しかし、皆が同じことをして いたとしても、多くの人の命を奪い傷つけたこと、それが罪であることに変わり ありません。私たちは、戦争で受けた傷を語り継ぐと同時に、自らが犯した罪に ついても真摯に受け止め、語り継いでいかなければならないでしょう。なぜなら、私たち人間は同じ過ちを繰り返してしまう者だからです。そのことは聖書にも 記されているし、今日の私たちが置かれた状況からも明らかです。

ロシアとウク ライナの戦争だけでなく、日本も近隣諸国との関係が常に緊張しています。国と 国は互いに牽制し合い、何かあればすぐに報復措置を取ります。私たちは、非常 に不安定な社会情勢の中にいます。戦争が過去のものではなく、現実の問題とし て我が身に迫っている今、私たちは何を学ばなければならないでしょうか。

私たちが平和を考える時、真っ先に注目するのは戦争のことです。しかし、戦争が無ければ平和かというと、そうではないでしょう。先日テレビで、ウクライナの戦争で教育が受けられなくなった子どもたちのために、避難先のポーランドで小さな教室を開いて勉強を教えている女性のことを紹介していました。その女性のインタビューの中で、「子どもたちは、未来を思い描くことができないのです。」と話していた言葉が心に残りました。「未来を思い描くことができない。」その言葉を心の中で繰り返していると、画面がコマーシャルに切り替わりました。保険会社のCMでした。出演者が優しい笑顔で「未来のはなし!」と語りかけています。未来は明るいと思わせてくれるような雰囲気でした。

ウクライナの子どもたちの話と保険会社のCM。一見まったくつながりがないものですが、その根底に共通してあるものは、未来への希望です。戦争が無いことが平和だと一般的に考えられているのは、戦争が人間から未来を奪うものだからではないでしょうか。平和というのは、安心して未来に希望を持てることではないかと思うのです。本日は、与えられたみことばから、未来に希望を持つということについて、共に考えてみましょう。

先ほどお読みしたミカ書には、未来の平和の預言が書かれています。ミカは紀元前8世紀後半のユダ王国で活動した預言者で、同じ時代の預言者にはイザヤがいます。この時代は、アッシリア帝国に侵略され、政治は緊張状態にありました。また、本日の箇所よりも前に書いてあることを読みますと、政治的にも経済的にも不正が蔓延していたようです。権力者たちは人々から搾取して私腹を肥やそうとし、弱い者が家から追い出され、祭司も預言者も買収されていました。人々は心から安心できない、不安定な日々を生きていたのです。

今日の私たちのように。ミカは、堕落してしまった国に滅びを預言すると共に、来るべき日には平和が実現することをも預言しています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」手にするのは戦いの道具ではなく、大地を耕し生きるための道具。もはや戦う必要がなくなり、人々が安心できる平和な時が来る。未来には希望がある。戦いや不正が蔓延する生活に疲れた人々にとって、この希望がどれほど大きな意味を持っていたことでしょうか。

ここで本日の使徒書エフェソの信徒への手紙 2 章を見てみましょう。ここに 書かれていることの背景となっているのは、ユダヤ人と異邦人の間の隔たりで す。ユダヤ人は神様に選ばれた民として、律法に固執していました。そもそも律 法は、神様が民を祝福し、良く生きるために与えられたものでしたが、彼らは次 第に律法を自分と他者を区別するもの、自分の優位性を保つものとして用いる ようになりました。律法を守っている自分たちは優れており、律法を知らない 人々は劣っていると。律法という名の壁が、ユダヤ人と異邦人を隔てていたので す。時代は変わっても、人々の間には敵意があり、平和な世の中ではなかったの ですね。そこに、イエス様が来られた。イエス様は律法の本来の意味を問い直し、自らが十字架の上で死ぬことによって、人々の罪の負債を贖ってくださいまし た。エフェソの信徒への手紙 2 章 15 節には、「キリストは、双方を御自分にお いて一人の新しい人に作り上げて平和を実現し」たと書かれています。イエス様 がご自分において「一人の新しい人」を作り上げたとはどういうことでしょうか。

私は先ほど、安心して未来に希望を持てることが平和なのではないかと申し上げました。安心して未来に希望を持つためには、安定した土台が必要です。戦地の人々がそうであるように、安心できない環境の中では、明日のことさえ思い描くことができません。先ほどのユダヤ人たちも、本来の意味を失い空虚なものとなった律法にしがみ付き、土台が揺らいでいました。ガラテヤの信徒への手紙3章の中でパウロは、イエス様につながることについてこう言っています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」この世のものを否定するつもりはありません。確かに、他人に自分を証明できる国籍や身分があって、生きていくための蓄えがあることは大切なことです。しかし、私たちがそれを持つことによって安定していると思ってしまいがちなこの世の基準は、実際は違いを生み出しはしても、私たちを一つにすることはできません。状況が変われば、今ある価値も無くなってしまうかもしれない、不安定なものです。

イエス様が私たちを、そのようなものに支配されることのない新しい人として一つにして生かしてくださることは大きな恵みです。なぜなら私たちは、空虚で不安定なものに必死にしがみ付いて生きる生き方から解放されるからです。イエス・キリストという安定した土台の上に立つことができるからです。イエス様は、本日の福音書の中で、「わたしの愛にとどまりなさい」と語りかけておられます。そうです。イエス様という土台は、永遠にとどまり続けることができるものなのです。しかも、イエス様ご自身がそれを求めておられます。この箇所はもともと命令形では書かれていません。イエス様が私たちにこうあって欲しいと求めておられる心の中の思いが投げかけられているのです。イエス様は、安心して未来を築くことのできる土台の上に、私たちを招いてくださっています。

しかしながら、私たちを取り巻く物事に目を向けると、イエス様が平和を実現なさったというのは本当なのかと疑いたくなるような現実があります。平和はまだ実現していないじゃないか。世界には今も争いがあり、人々は憎み合い、殺し合っている。私たちひとりひとりの間にも差別や偏見がはびこり、むしろ、人々の心の中にある悪い思いが露わにされているではないか。過去の失敗から学ぶことができず、人類は破滅への道を歩んでいるようにも見えます。確かに、私たちが願う平和はまだ実現していません。私たちは、しばらくは頑張れても、うまくいかなくなると、心が折れて諦めたくなるものです。しかし、思い通りにならない時にこそ、私たちが、あらゆる隔ての壁を越えて私たちを一人の新しい人となさったイエス様の僕であることを思い出したいのです。心を乱される時こそ、イエス様という揺るがない土台に立つ者であるということを確認するのです。

私は、本日がむさしの教会での実習最終日です。2年生の時から一年半の間お世話になりました。むさしの教会は日本福音ルーテル教会の中では規模がとても大きく、在籍する信徒の方の人数も多い教会です。それだけ年齢の幅も広く、様々に違った背景や考え方を持つ信徒さんたちが集まっておられます。つまり、それだけ隔ての壁が生まれやすい環境にあるということです。しかし、そのような環境にあるにも関わらず、私は、むさしの教会でお会いする皆さんが、イエス様によって一つにされているのを何度も目撃しました。コロナ渦にあって、今までのように集えない中でも、お互いを思いやり、声を掛け合い、共に生きて行こうとされる姿。議論することを恐れず、近くにいる人のためにも遠くにいる人のためにも働く教会の未来について、愛をもって考えておられる姿が、そこにはありました。それは、むさしの教会のみなさんが、イエス様という土台にしっかりと根を張って生きておられるからだと思います。週に一度の実習ではありましたが、多くのことを学ばせていただきました。

さて、最後にミカ書の一節に注目してみましょう。ミカ書4章5節の終わりには、「我々は、とこしえに 我らの神、主の御名によって歩む。」と書かれています。これは、人々の信仰告白です。主の呼びかけをただ聞くだけではなく、「私たちは主の御名によって歩む」と決断しています。そこには、神様への信頼と未来への希望によって強められた人々の意志が込められています。

では私たちは、「私の愛にとどまりなさい」と言われるイエス様の呼びかけにどう答えるべきでしょうか。平和を祈り求めるこの日、私たちは、イエス様という揺らぐことのない土台に立っていることを確認し、私たち自身が未来に希望を持つ者でありたいのです。そして、豊かに与えられた者であるからこそ、今度は与える人となって私たち一人一人が、むさしの教会が、ルーテル教会が、できることをあきらめずに行う決意をしたいのです。誰もが未来への希望を奪われることのない平和を共に築いていくために。

【週報:司式部分】2022年8月7日(日)10:30 平和主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹牧師
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹牧師
説  教 三浦 慎里子神学生
奏  楽 苅谷 和子 姫野 智子

開会の部
前  奏 J.S.バッハ "アリオーゾ“:(オーボエ:姫野智子、オルガン:苅谷 和子)

初めの歌 教会・増補 分冊1 15番 めぐみの平和を

恵みの平和を、神よ 与えて、
み力のうちに、守ってください。
こころに平和を!

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神様。真理と平和への思いはすべてあなたから与えられます。
すべてのあなたの子どもたちの心に平和を愛する心を燃やし、あなたの知恵で諸国の指導者を導き、
御国が平和のうちに前進し、全地があなたの愛を知る知識で満たされるようにしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 ミカ書 4:1-5( 旧約 1452 頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒の手紙 2:13-18( 新約 354 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネよる福音書 15:9-12( 新約 198 頁 )

みことばの歌 教会337番(3節) やすかれ わがこころよ

3.やすかれ わがこころよ、
つき日の移(うつ)ろいなき
み国は やがて来たらん。
うれいは 永久(とわ)に消えて
かがやく みかお仰ぐ
いのちの さちをぞうけん。

説 教 「 新しい人 」 三浦 慎里子 神学生

感謝の歌 教会346番(1節) はかりもしられぬ

はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて  ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部 J.S.バッハ BWV208"羊は安らかに草を食み“:
(オーボエ:姫野智子、オルガン:苅谷 和子)
派遣の部

派遣の歌 讃美歌21 578番(4節) 平和を求めよう

4.世界の平和を 求め祈ろう、
「地上(ちじょう)にみ国が 来ますように」

後  奏 「Ubi Caritas et Amor」Gerald Near 慈しみと愛のあるところ、神はそこにおられる

 

【説教・音声版】2022年7月31日(日)10:30  聖霊降臨後第8主日礼拝 「 何が一番大切か 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書 章13~21節



「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」。

今日の第一の朗読・旧約の日課は、この一度聞いたら忘れられないような、独特の世界観が醸し出されている『コヘレトの言葉』(以前は『伝道者の書』と言われていましたが)からでした。この書は、聖書の中でもちょっと変わり種、と言いますか、異質の書だとも考えられています。ある方は、「悲観的厭世的(厭世…「世の中をうとましく思うこと」ですね)」だとも表現しています。一見すると、その通りだと思います。

しかし、そういった感覚は、何もこの『コヘレトの言葉』に限りません。実は、普段私たちの礼拝では朗読していませんが、教会手帳をお持ちの方はお分かりだと思います、数年前に新しい日課になりまして、毎主日(日曜日)の日課として、詩篇も選ばれているのです。今日の日課として選ばれているのは、詩篇49編ですが、先ほどの『コヘレトの言葉』と非常に共通しているところがありますので、ちょっと読んでみたいと思います。詩篇49編2~13節です。

「諸国の民よ、これを聞けこの世に住む者は皆、耳を傾けよ人の子らはすべて豊かな人も貧しい人も。わたしの口は知恵を語りわたしの心は英知を思う。わたしは格言に耳を傾け 竪琴を奏でて謎を解く。災いのふりかかる日わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも どうして恐れることがあろうか 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高くとこしえに、払い終えることはない。人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは 知恵ある者も死に 無知な者、愚かな者と共に滅び 財宝を他人に遺さねばならないということ。

自分の名をつけた地所を持っていても その土の底だけが彼らのとこしえの家 代々に、彼らが住まう所。人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい」。「財宝を頼み」とし、「富の力を誇」ったとしても、何になるのか。それで、果たして命が贖えるというのか。知恵ある者も亡き者も、みな等しく死ぬだけではないか。名を残し、広大な土地を得たとしても、人の永遠の住処は、結局は土の中、死者の国に過ぎないではないか。いっとき栄華を極めたとしても、そんなものは時が移れば過ぎゆくもの。そんなものにより頼んで、一体何になるというのか。そうこの詩人は問う。今の政治家たちに聞かせたいくらいです。いいえ、これは私たち自身の問題でもあるでしょう。なぜなら、「諸国の民よ、これを聞け この世に住む者は皆、耳を傾けよ 人の子らはすべて 豊かな人も貧しい人も。」と語りかけられているからです。そうです。一部の人ではない。私たち全てが聞くべき言葉です。

先ほどは、これは『コヘレトの言葉』と非常に似ている、と言いましたが、「空しい」という言葉は直接的には出てきませんでしたが、この『コヘレトの言葉』を読んだことのある方なら、なるほど似ている、と思われるのではないか、と思います。では、なぜそんな「空しさ」を生むのか。私は、ある種の不確実性だと思っています。つまり、方程式通りにはならない、ということです。こうこうこういった原因があるからこうなるのだ、といった式と想定される答えとが、必ずしもイコールでは結びつかない、ということです。

例えば、悪は栄えない。悪は必ず滅びる。罪を犯せば必ず報いがある。しかし、コヘレトも指摘していますように、この世の中は必ずしもそうなっていない現実がある。むしろ、悪の方がかえって栄えているのではないかとさえ思えてくる。逆に、正直者、正しき者が報われない現実もある。かえって、「正直者が馬鹿を見る」なんて言われる始末です。そんな正直者、純粋な人たちの弱さにつけ込んで貪り尽くそうとするハゲタカたちも後を断たない。あるいは、努力は必ず報われる、と言われる。しかし、果たして本当に全ての人が平等に、同じように努力が報われているのだろうか。私は、そうは思わない。実はこう
した矛盾(「努力は必ず報われる」「本人の努力次第」とは必ずしも言い切れない)を無視した現代社会のあり方が、以前もお話しした「無理ゲー社会(ある人たちにとってはディストピア)」を生んでいる要因になっているのではないか、と思うのです。

ともかく、人はそんな不確実性が生み出す「空しさ」をなんとか回避しようとするのでしょう。そこで、確実なものだと思われている地位、名誉、権力、富・財産、自己の才覚、あるいは生命力・健康を追い求めていくことになる。しかし、果てして、それらは本当に確実なものなのか、それで本当に「空しさ」を埋め合わせしていけるのか、と先ほどの詩篇の言葉は問うわけです。

今日の福音書の日課は、群衆の中の一人の言葉がきっかけとなりました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。これは、色々とイエスさまの教えを聞いている最中のことだったようですが、何もこんな時にこんなことを、と思わない訳ではありません。しかし、どうやらそうでもないようです。当時は長男が遺産の大部分を相続したようですが、長兄以外の兄弟たちにもいくらかばかりの分け前はあったようです。

しかし、この人はそんな正当な相続分さえももらえなかったらしい。そんな時、律法の規定に詳しいラビ(教師)たちに調停を願うことは一般的なことでした。この人も、イエスさまからいろんな話を聞きながら、自分の正当な権利を弁護してくれるに違いない、と思って、ああいった申し出をしたのでしょう。ところが…。イエスさまはこう答えられました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と。

正直、私はこういった所に躓くんですね。冷たいな~、と。案外、聖書には私たちが思っているのとは違ったイエスさまの姿も描かれているんです。しかも、イエスさまは「どんな貪欲にも注意を払い」なさい、と話を進められる訳です。あたかも、あの願い出た人が「貪欲」であるかのように。これを聞いた人は「え~」と思ったでしょう。私たちも、その場に居合わせたら、そう思ったかもしれない。もう一度繰り返します。この人は正当な要求をしただけです。律法にも何ら反していない。兄の分をよこせ、というのではない。兄の分は分でとったらいい。しかし、律法で許されている範囲の自分の取り分はもらって当然ではないか、と言っているだけです。むしろ、そんな小さな権利さえ蔑ろにする兄の方が悪いと思う。

ここで語られた譬え話だってそうです。この人はなんら不正はしていない。悪いことをして、人から搾取して財産を増やしたのではないのです。自分が所有していた畑がたまたま豊作だっただけです。むしろ、ユダヤ的理解で言えば、それは神さまのお恵みとさえ思えることです。そういった予期せぬ幸運を、むしろこの人は巧みに用いたと言えるのではないでしょうか。そんな幸運がいつも起こるとは限らないからです。不確実性です。そんなものに依存するようではダメです。創世記のヨセフ物語りなんかにも記されていますように、場合によっては飢饉が何年も続くことだってある。それは、来年かもしれない。収
穫物を売ってお金に換えても、もし来年以降飢饉が続くようならば、いくらお金を出しても食料が買えなくなるかもしれません。そういう意味では、この食糧を蓄えておく方がより確実でしょう。むしろ、この譬え話の金持ちは、熟慮に熟慮を重ね、何度もシミュレーションをしては、そんな賢い選択をしたのではなかった。どこぞの経済界に採用したいほどです。しかし、イエスさまは、「愚か者」と言われる。

こう考えていきますと、私たちの常識からすれば、これらは、むしろ普通のこと、当然のこと、賢い選択のように思われます。聖書の他の箇所から見ても、そうではないでしょうか。「蛇のように賢く、鳩のように無垢」であれ。であれば、それらのことと私たちの「命」とを結びつけていることこそが問題なのでしょう。こうあるからです。「人の命は財産によってどうすることもできないからである」。事実、先ほどの譬えでも、知恵の限りを尽くして最善を講じたとしても、命を無くしたら一体何になるのか、と言っている訳です。そうです。私たちは、それらの確かさを「命」の確かさと結びつける所にこそ、問題がある、と言われるのです。財産にしろ、権力にしろ、自己の才覚にしろ、それら自体は決して悪いものではないでしょうが、それらは命の確かさとは何ら関わりがないのだ、と。だから、先ほどの詩篇でも「死」が問題とされる。死によって失われてしまうものにしがみつくことに、頼ることに、一体どんな意味があるというのか、と。それは、結局は「空しい」ことではないか、と。

「最後の晩餐」(1625-1626)ヴァランタン・ド・ブーローニュ



ですから、今日の結論でイエスさまはこう言われるのです。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。私は、この言葉を聞いて、まずは「天に宝を積む」といった言葉を連想致しました。しかし、それだけでもないように思います。自分の命を支え、守り、豊かにし、永遠に生かして下さるのは、神さまなのだ、との信頼です。つまり、信仰です。ですが、ここで私たちは問う。果たして、信仰とは確実なものなのだろうか。先ほどの「空しさ」も、結局は神さまはおられないのではないか、神さまは働いてくださらないのではないか、助けてはくださらないのではないか、といった
不確実性、不安・不満から生まれていたのではなかったか、と。

確かに、そうです。しかし、私たちはこのことを忘れているのかもしれません。信仰は試されるものだ、ということを、です。信仰は試されるのです。しっかり、その確さの上に立っているのか、と。では、その確かさとは何か。私たちの信心ではありません。信じる力、熱意ではないのです。そうではなくて、私たちが信じるイエス・キリストの確かさ、です。これほど確かな方はおられない。それを、私たちは信じる。

名誉、権力、力、財産、夢・理想、やり甲斐、友・愛すべき者たち…。私たちが確かだと思うもの。いいです。それらは、私たちの「空しさ」を回避するモチベーションになる。しかし、残念ながら、私たちの命の補償にはならないのです。その確かさにはならない。最後は誰も、何も助けてはくれないからです。そうではない。イエス・キリスト。私たちには、十字架と復活によって私たちへの愛を、永遠の命の確かさを示して下さったイエス・キリスト、イエスさまがいるのです。私たちの最も大切な「命」を託すことのできる方が。そのことを、もう一度改めて確認していきたいと思います。

【週報:司式部分】2022年7月31日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹牧師
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹牧師
説  教 浅野 直樹牧師
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 「今こそ人みな」G. Liardon

初めの歌 教会182番(1節)
1.主の造りましし きよき主の日、
あめつちよろこべ み座(ざ)のまえに。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
慈しみ深い神様。あなたは私たちの命の源、道しるべ、そして目標です。
愛すべきものを愛し、あなたに逆らうものを拒み、
あなたの目に貴いものを大切にすることを教えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 コヘレトの言葉 1:2,12-14;2:18-23( 旧約 1034 頁 )
第2の朗読 コロサイの信徒の手紙 3:1-11( 新約 371 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書 12:13-21( 新約 131 頁 )

みことばの歌 教会346番(1節)

1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

説 教 「 何が一番大切か 」 浅野 直樹牧師

感謝の歌 教会375番(1節と4節)

1.神の息(いき)よ われに満ちて
み旨(むね)のままにぞ 生かしたまえ。

4.神の息よ われを生かし
とこよの生命(いのち)に 入らせたまえ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会416番(1節)

1.わがゆくみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん。
そなえたもぅ 主の道を ふみて行(ゆ)かん ひとすじに。

後  奏 「いざ、もろびと神に感謝せよ」J. H. Knecht

【説教・音声版】2022年7月24日(日)10:30  聖霊降臨後第7主日礼拝 「 祈ることを教えてください 」 浅野 直樹牧師

聖書箇所:ルカによる福音書11章1~13節



今日の福音書の日課は、「祈り」についてです。

ところで皆さんは、この「祈り」、あるいは「祈ること」について、どんな思いをお持ちでしょうか。必要なこと、大切なことであることは分かっているが、なかなか難しい、と感じておられる方もいらっしゃるかも知れません。以前もお話ししたことがあると思いますが、私自身、正直、悩んできました。教会生活や聖書を読んでいく中で、先ほども言いましたように、祈ることの大切さ、その必要性を教えられ、祈るわけです。しかし、祈りながら、どうも空々しい自分に気づく。本当に真剣に祈っているのだろうか。

ちゃんと答えられると期待しているのだろうか。どうも「しなければならないこと」と義務的に祈っているだけになっているのではないだろうか。こと執り成しの祈りになると、その人のために本当に心を込めることが出来ているのだろうか。祈りの結果が思うように与えられていないと感じると、ますますそんな思いに取り憑かれてしまい、祈ること自体が苦痛で苦痛で仕方なくなっていきました。そんな中で、私にとっては本当に幸いなことでしたが、一冊の本と出会うことができた。以前もご紹介したことがあると思いますが、O.ハレスビーというノルウェーのルター派神学者が書かれた『祈りの世界』という本でした。

そこには、あなたの祈りが神を動かすのではない、とはっきり書かれていました。それは、私にとっては「コペルニクス的転回」とも言えるものでした。当時の私は、無意識的にも、私の祈りが神さまを動かす(動いていただく)キーになるのだ、と思っていたのでしょう。ですから、祈る相手よりも、祈っている自分にばかりに注意が向けられていたのです。果たして私の祈りは誠実なのか、熱心なのか、心がこもっているのか、少しの不実もない清らかなものになっているのか、そうでなければ神さまを動かす力、神さまに動いていただく鍵にはならないだろう、そんなふうに思い込んでいた節がある。ですから、先ほどの言葉は私にとっては天地が、これまでの常識がひっくり返るような衝撃だったわけです。ともかく、祈りとは決して自明なことではなくて、ちゃんと学ぶべきものなのだ、ということを最初に抑えておきたいと思います。

今日のこの日課は、まずこの言葉によって生まれたことを確認したいと思います。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」。このように、弟子たちの祈りを教えて欲しい、との願いから、この祈りの教えがはじまった、ということです。この弟子たちも、ユダヤ教の伝統の中で生きてきたわけですから、祈ることを全く知らなかった、ということではないでしょう。しかし、それでも、おそらくイエスさまは、祈ることの難しさも知っておられたのではないか。だからこそ、この弟子たちの求めに応えていかれたのではなかったか。そう思うのです。

そこで教えられたのが、主の祈りです。私たちもよく知る祈りです。今日は、この主の祈りについての細かな解説は致しません。ぜひ、徳善先生が訳されたルターの『エンキリディオン 小教理問答』をお読みください。この主の祈りの意味を再確認することができると思います。しかし、いくつかのことについては、手短に触れていきたいと思います。

まずイエスさまはこう教えられました。「父よ」と祈れ、と。もちろん、私たちは神さまに向かって祈る訳ですが、その神さまを「父」として祈れ、ということでしょう。実は、これは非常に画期的なことなのです。このように、神さまのことを「父」と呼ばれたのは、イエスさまだけだからです。つまり、ある意味特権とも言える神さまとイエスさまとの関係性を弟子たちにまで広げて下さっている、ということです。私と同じように、あなたたちも神さまを「父」と呼び求めても良いのだ、と。しかも、ここは、「アッバ」という言葉が使われている。これには色々と議論があるようですが、幼い子どもが父親を呼ぶときの呼び方であることは間違いないようです。今風に言えば「パパ」ということでしょうか。たとえ、「パパ」でなくとも、私たちは神さまを親しく「お父さん、お母さん」と呼び求めることができるのだ、とおっしゃる。これは、後でもお話ししますが、非常に心強いことです。

そして、まず祈るべきことは、「御名が崇められますように」ということ。別の翻訳では、「御名が聖とされますように」となっています。こちらの方が本来の意味を表していると言えます。「聖とされる」、つまり、聖別です。これについては、エゼキエル書の言葉が非常に参考になると思います。エゼキエル書36章22節以下、「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」。

当時のイスラエルの民は、罪のゆえなのか、不信仰のゆえなのか、とにかく、彼らの振る舞い、存在によって、国々から不評を買っていた訳です。それは、原因を作った彼らだけに止まらず、彼らが信じる神さまにも向けられることになった。御名が汚された、とは、そういうことです。つまり、神さまの顔に泥を塗ったのです。だから、泥を塗られた神さまはご自分で名誉を回復されようとしている、と言われている訳です。

正直に言いまして、私が信仰を持ちましてから随分と長い間、この主の祈りの一番目の祈り「御名を崇めさせたまえ」に強い抵抗感を抱いてきました。それこそ、祈りに応えてくれないような神さまの名前を、なぜいの一番に称えなければならないのか、との不満もあったのだと思います。素直に祈れなかった。しかし、曲がりなりにも信仰生活を続けていく中で、もちろん、その間には悩みも痛みも不満もあった訳ですが、不思議と自分が信仰者として生きる意味、目的は、混じり気のない真心から神さまを褒め称えることなんだ、と思えるようになってきました。何よりも、この主の祈りの第一の祈りが大切なのだ、と。もちろん、これは目標であり祈りでありますので、現在そうだとはとても言えない訳ですが、しかし、確かに主の祈りを祈る姿勢が変わっていったことは感じています。

御名が聖とされる、神さまが神さまとしてありのままにちゃんと受け止められて、ふさわしく崇められることは、ごく自然のことであるはずです。しかし、この世界も、そして私たち自身も、そうはなっていない。それは、やはりどこかに歪みがあるとしか思えないのです。ですから、やはりこの祈りの大切さを噛み締めていきたいと思っています。

そのように、神さまを父よと呼びかけ、御名が崇められることを、御国が来ることを、日毎の糧が与えられることを、赦し合いを求めることを、誘惑から救われることを願い求めるようにと「主の祈り」を教えられた訳ですが、もちろん、この祈りをそのまま私たちの祈りとして祈ることも大切だと思いますが、これらを祈りのエッセンスとして、自分なりの祈りの生活を作り上げていくことも大切ではないか、と思います。そこで、もう一つ大切なことは、祈りの持続性です。諦めない、ということです。先ほど、イエスさまは弟子たち、私たちの祈りの難しさを知っておられたのではないか、と言いましたが、まさにここがそうでしょう。つまり、なかなか祈った答えが得られない、といった実感です。そこで、イエスさまは一つの譬え話を語られました。もうこれは良く分かる譬え話なので、解説は必要ないと思いますが、とにかく、諦めないで「しつように」ということが語られている訳です。今日の旧約の日課のアブラハムの執り成しも共通しているでしょう。

最初は50人だった条件を10人にまでもっていけたのも、その「しつようさ」だったと思います。しかし、では、ただ執拗に祈れば良い、ということを言いたいのでしょうか。そうではないように思うのです。アブラハムのところでも、彼が執り成す前に、ご計画をわざわざ伝えているからです。つまり、あたかもアブラハムの執り成しを期待しているかのように。むしろ、私はこれらのことから、私たちの「執拗さ」が重要というよりも、神さまが私たちに「執拗に」求めることを許して下さっていると写ってならないのです。

今日の日課の8節、「しつように頼めば」の「しつよう」という言葉は、他に「恥知らず」や「図々しさ」などの意味もあるようです。確かに、たとえ友達であったとしても、この人の振る舞いは、「恥知らず」「図々しい」と言えなくもない。しかし、イエスさまは、祈りの時には、それで良い、と言われるのです。しかも、イエスさまは、ただでさえそうならば、親子の間ではなおさらではないか、と言われる訳です。つまり、先ほど言った、「アッバ父よ」ということです。他人であれば、ある意味「執拗さ」は、「恥知らず」にも「図々しさ」にもなる訳ですが、親子の間では、そうではありません。たとえ、子が親に対して、図々しく見えるような「駄々を捏ね」てみても、むしろ、それは正常な親子関係が成立しているからこそのことです。

「キリストとマグダラのマリア」(1890)アルベルト・エーデルフェルト(1854–1905) アテネウム美術館



ですから、イエスさまは「父よ」と祈りなさい、と言われる。他人であっても、「執拗に」頼めば聞いてくれるのだから、まして親子の関係であれば、当然ではないか、と言われるのです。しかも、イエスさまは、父なる神さまは、聖霊をくださるとも約束して下さっていると言われるのです。聖霊とは、私たちが信仰者として生きる上で、必要不可欠な存在であり、力そのものの方です。その聖霊を与えて下さると約束して下さっている。しかも、執拗に聖霊を願った結果でもないのです。私たちは、それぞれの思いで、その必要に迫られて、執拗に、「求め」「探し」「門を叩く」しかできない。この苦しみから救ってください、と。この問題から解放してください、と。時に、ピントはずれの願いを「執拗に」繰り返すだけなのかもしれない。しかし、その結果どうなるか、と言えば、父なる神さまは私たちに聖霊を与えて下さる、というのです。

先ほどは、少しばかり私の祈りの遍歴をお話ししましたが、それらは、まさに、私が何かをした結果ではなく、いろんなことにぶつかりながらも、曲がりなりに「執拗に」祈ることが許されてきたが故に、必ずしも自分の意図、願いとは違っていたのかもしれませんが、知らず知らずの内に聖霊が与えられてきた結果なのだと、今では感謝しています。

「わたしたちにも祈りを教えてください」。そうです。私たちもまた、そこから祈りの生活をはじめていかなければならないのかもしれません。

【週報:司式部分】2022年7月24日(日)10:30 聖霊降臨後第7主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹牧師
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹牧師
説  教 浅野 直樹牧師
奏  楽 小山 泉

開会の部
前  奏 おお主よ 心より汝を愛しまつる G.F.カウフマン

初めの歌 教会152番(1節)いざや主をほめよ
1.いざや主をほめよ 声のかぎりに
あめつちを治(し)らす 愛のみ神を。
なやめる心に 安きをたまいし
わが主をたたえん。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
生きておられる全能の神様。あなたは私たちが祈る前から私たちの祈りに耳を傾け、
思いと願いをはるかに超えて聞き届けてくださいます。あなたの豊かな憐れみを注いでください。
良心の咎(とが)を赦し、ただ御子のみが賜ることができる良きものを与えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記 18:20-32( 旧約 24 頁 )
第2の朗読 コロサイの信徒の手紙 2:6-15( 新約 370 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書 11:1-13( 新約 127 頁 )

みことばの歌 教会290番(1節)ガリラヤのかぜ
1.ガリラヤの風 かおるあたり
「神のみ国は 近づけり」と
告(つ)げられしより すでに久(ひさ)し、
「来たらせたまえ 主よ、み国を」。 アーメン

説 教 「 祈ることを教えてください 」 浅野 直樹牧師

感謝の歌 教会364番(1節と8節)てんにいますちちは
1.天にいます父は 愛の交わりに
われを召(め)し給(たま)い 子よと呼びたもう。
きよき言葉もて 祈(いの)らしめたまえ。

8.悪よりわれをばとりいだしたまえ。
永遠(とこしえ)の死より われを救いだし
父の平安に いこわしめたまえ。  アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会435番(1節)ぜんのうのかみは

1.全能の神は いかずちも
風もみ手に 統(す)べたもぅ。
主のあわれみ いまぞ示し、
平和をあたえませ。

後  奏 天のみ国にいます 我らの父よ F.W.ツァウハウ

【週報:司式部分】2022年7月17日(日)10:30 聖霊降臨後第6主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 渡邉 進 牧師
聖書朗読 三浦 慎里子 渡邉 進 牧師
説  教 渡邉 進 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 全能の神に賛美せよ J.S.Bach

初めの歌 教会203番(1節)ちちのかみよ
1.父の神よ、 夜(よる)は去りて
われらいま み前に立ち
さんびのうたを かしこみ捧(ささ)ぐ
声もたかく。  アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
永遠の神様。あなたは御子キリストの姿で私たちのもとを訪れてくださいます。
日々の雑用に追われても、あなたに気づき、御言葉を何よりも大切にすることが
できるように導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記 18:1-10a( 旧約 23 頁 )
第2の朗読 コロサイの信徒の手紙1:15-28( 新約 368 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書10:38-42( 新約 127 頁 )

みことばの歌 教会333番(1節)やまべにむかいてわれ
1.山べに向かいてわれ 目をあぐ、
助けはいずかたより 来たるか。
あめつちのみ神より
助けぞわれに来たる。  アーメン

説 教 「 おもてなし 」 渡邉 進 牧師

感謝の歌 教会337番(1節) やすかれわがこころよ
1.やすかれ わがこころよ、 主イェスは ともにいます。
いたみも くるしみをも しずかに しのび耐えよ。
主イェスの ともにませば たええぬ なやみはなし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会474番(1節) ギレアドのにゅうこうは

ギレアドの乳香(にゅうこう)は きずをいやす、ギレアドの乳香は きずをいやす。
しごとにはげむ 気をなくしても みたまは元気に してくださる。
ギレアドの乳香は きずをいやす、 ギレアドの乳香は きずをいやす。

後  奏 黄金の太陽よ、無上の喜び K.Hessenberg

【 説教・音声版 】2022年7月17日(日)10:30  聖霊降臨後第6主日礼拝 「 おもてなし 」 渡邉 進 牧師

聖書 ルカ:10:38~42

【物語の背景】8:1~3にイエスが、ガリラヤの村々を宣教して回っていることが記されている。ルカは、読者にイエスの活動、働きに、それはまだ小さく、もろいものではあっても、その動きに協力し、支えている人たちがいたことに注意を向ける。このことは大変重要であった。宣教は、イエスと弟子たちが行い、それを周りにいて支援する人たちがいた。その中心は、女性たちであったのである。そのような流れにおいて、今日の出来事が起こっているのである。そのことをまず踏まえねばならない。

同時に、イエス一行の旅は、新たな段階に入ったのである。それは、【イエスは天に上げられる時期が近ずくと、エルサレムに向かう決意を固められた。】(9:51) この時点で何が起こっているかを認識しなければならない。つまりギヤ―チェンジがされているのである。ここでは、地理的問題よりも、ルカの神学的観点が重要視されている。以前のムードと異なった雰囲気が醸し出されていると言っても過言ではない。少なくとも以前とは違う緊張感が漂っている。そのような背景が前提になっていることを前置きしておかなくてはならない。

【一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタと言う女が、イエスを家に迎え入れた。】(10:38)
この物語では、明らかに【歓迎】することの二様の姿が、二人の女性の接待を通して表されている。別の表現を使えば、【おもてなし】である。イエスは、どちらも受け入れる。しかしこの場合は、優先順位をつけている。み言葉を聞くことの優位性、優先性が示されている。それはなぜか? 今やイエスは、エルサレムに向かう決意をされたからである。即ち、十字架への道を歩んで行かれたのである。

【彼女にはマリアと言う妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞き入っていた。】(V39) まるでラビとその弟子のように、マリアは、イエスの話を夢中になって聞き入っている様子が浮かんでくる。勿論この風景は、当時としては画期的である。何故なら、女性が生徒となって、師の話を聞くなどあり得なかったからである。しかしこの描写には明らかに、当時のラビと生徒の学ぶ姿が描かれている。

マリアとマルタの家のキリスト:ヨハネス・フェルメール



【足元に座って】、マリアがイエスの話に耳を傾けていたことが、それを証明している。更にマリアのこの姿は、キリスト教が、神の国、福音を宣べ伝える証し、説教へと展開して行くことへの言及がされている。マリアは、その先駆けとなった。即ち、その後の教会の働き、神の国、福音の宣教が、イエスの言葉を聞くことから始まるという、先駆者となったのである。

【マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか?手伝ってくれるように仰ってください。」】(V40) マルタの返答は、当然である。当時女性は、お客さんを歓待するため、食事の用意をするのが当たり前であった。それが大変重要なおもてなしであった。誰が、男たちに混ざって、イエスの話に耳を傾けるであろうか?男勝りと罵りさえされるであろう。あるいは誰がそんな女を嫁に貰うであろ
うか? 嫁の貰い手が無くなる。それは当時の女性にとって、致命的な風評となった。マルタは、当たり前の気遣いをした。

【主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。(気を遣い、思い煩って)しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」】(V41) イエスの答えは、【マルタ、あなたの主張は十分わかる。あなたのしていることは全く正しい、あなたは、私たちが、この家に来てから、十分過ぎるほどのもてなしをしてくれた。ありがとう!感謝している。しかし必要なことは一つなんだ。マリアは、それを選んだのだよ。】と諭すよう
に語られた。

【良いほう】とは、英語では、‘ Good portion ’となっている。つまり良い分け前を選んだとの意味である。
マリアの選びは、伝統的なしきたりからは、大分離れている、しかも女性が、学ぶことは、許されない時代であれば、革新的な行為である。イエスは、決してマルタのもてなしを否定はされない。否むしろ大いに歓迎したに違いない。しかしヤコブが語っているように、聞くことを重んじる人は、行動が伴わず、単なる口先だけの人になりやすい。信仰は、行動が伴ってはじめて、完成される。人々は良く見ている、私たちは、観察されている。

前の記事が、【善いサマリア人】のたとえ話である。イエスに、律法の専門家が、【何をしたら永遠の生命を受け継ぐことができるか?】との問いに、イエスは、正解を答えたのに対して、次のように返答した。【正しい答えだ。それを実行しなさい。】と。実行しなければ、何の意味もない。しかしマルタのように、おもてなしをするのに、不平が出てくるのは、興ざめである。もてなしとは、気づかれずにするのが本来のもてなしである。それこそがもてなし上手である。

今日の聖書は、イエスの置かれた状況の変化に目を止める必要がある。つまり、イエスは、エルサレムに向かう決意をされたのである。今までの穏やかな、弟子や民衆と親しく、平和に、和やかに語らい、過ごす様子が一変する。それが【エルサレムに向かう】と言う言葉に表れる。み言葉は、私たちの生きている状況の中で、読むべきである。
私たちの生きている、今の状況はどんな時代であろうか? この3 年近く、コロナと言う感染症のため、世界中が苦しめられてきた。今もなおそれは続いている。世界中の人々が変化を求められた。教会も例外ではない。以前は、教会に集まって集会をし、み言葉を聞いてきた。それができなくなってしまった。誰しも慌てふためきながら、どうしたら良いかの模索が始まった。また、今の世界を【不寛容な世界】と表現した。分断が世界中で起こっている。

数年前は、やっと戦争の悲劇から抜け出しつつあるような平和が日本に訪れつつあった。戦後の日本社会は、復興に始まり、発展、そして世界平和に貢献してきた。オリンピックが日本で開催されたのも、新たな時代を迎える、幕開けと考えられた。ところが実際は全く違っていた。
コロナ禍が落ち着いてきたかと思いきや、ウクライナにロシアが侵略するという戦争が勃発した。日本もこれに巻き込まれ、多くの犠牲を払っている。今や世界戦争になりつつある。コロナ禍で、緊急事態宣言が、数回にわたり発出された。今や違った形で、緊急事態が発生している。物価の高騰、それだけではない。家庭にまで、分断は影響を与えている。

【コロナ離婚】と言う言葉が生まれた。兎も角【不寛容な時代】を私たちはいやがうえにも生きていると言えないだろうか? マリアは、イエスの言葉に耳を傾けた。弟子たちに交じって。男勝りと言われようが構わなかった。それこそが今なすべき最も重要なことと考えたのである。平和な、何も起こらない時代ならいざ知らず、今日のように、いつ分断が起こるかわからない時代に生きていて、私たちのなすべきことは一つしかない。み言葉に聞くことである。
それではなぜ、み言葉に耳を傾けるのであろうか? み言葉を聞くとき、重要なのは、それが神の言葉であると言うことである。私たちの、敬虔さ、感情、また経験でさえない。格言のような知恵以上のものである。聖書が、イエス・キリストを啓示する神の言葉であるからである。私たちの救いの源は、神の言葉だけである。それ故、言葉への集中が、キリスト者であるために、必然的結果なのである。私たちは、聖書に耳を傾ける。それは、救いを見出すためである。私たちの人生に於ける救いではなく、イエス・キリストにおける救いを見出すためである。

【聖書は単なる道徳的ガイダンスではない、むしろ神の言葉を含んでいる。それは単なる信仰の情報ではない、信仰を生み出す。喚起すると言って良い。
信仰を知らない人に、信仰を失ってしまった人に、また未だに迷っている人に信仰を届けるのである。だから私たちは、聖霊の働きを祈りながら聖書に耳を傾ける。】(Mcgrath)
今日の旧約聖書の日課を読みましょう。イサク誕生の約束が記されている。アブラハムと神との約束は、二つあった。一つは土地であった。もう一つは、子孫の繫栄である。しかしアブラハムには、なかなか子供が生まれなかった。そこでサラは、自分のつかえめハガルに子を授かることを提案する。しかしイシマエルは、約束の子ではなかった。再び神は、アブラハムにイサク誕生の知らせを伝える。その記事が、18 章である。【主はマムレの樫の木のそばでアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。ふと目を上げると三人の人が近くに立っていた。それを見ると、アブラハムは彼らを迎えようと天幕の入り口から走り出て、地にひれ伏して、言った。】(18:1~3) アブラハムは、3 人の客人を、もてなした。最高のもてなしであった。当時の習慣に従ったまでなのか、あるいは神の使いであると知ってか、それは定かではない。いずれにしても、随分と厚いもてなしをした。

明らかに彼らは神の使いであった。彼らは妻のサラに告げた。【わたしたちは来年の今ごろ、、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。】(18:10) それを聞いてサラは笑った。そんな約束、聞くに堪えないというのでしょうか? あるいはあまりにも現実離れしているので、チャンチャラおかしいというのでしょうか? いずれにしても、神の約束を聞くには、全く相応しくない態度です。

否彼らには、すでに約束の信仰は失っていた。ただ残っていたのは、微かなこの世的に生じた処世術であった。それが彼らの信仰であった。
ルターの言葉を聞こう。【私たちは、神の約束に、我々の心をしっかりと留め、そこに信仰の土台を築く以上のことはできない。聖書は、そのような我々を導いて、キリストへと連れて行ってくれる。しかしまず人間としてのキリストへである。神としてのキリストへではない。何故なら、知者たちは、賢い者は、この世の高みからまずはじめようとする。しかし私たちは、最低の地点から、無の地点から、はじめねばならない。】そして箴言の言葉を引用する。

【蜂蜜を食べ過ぎればうまさは失われる。名誉を追い求めれば名誉は失われる。】(25:27)聖書を聞くものは、常に謙虚な姿勢ではじめねばならないというのとである。

【説教・音声版 】2022年7月10日(日)10:30  聖霊降臨後第5主日礼拝 「 隣人になる 」三浦 慎里子 神学生

申命記 30:9-14、コロ 1:14、ルカ 10:25-37

「隣人になる」 於:むさしの教会福音書には、イエス様が語られたたとえ話が数多くおさめられています。たとえ話の背景には、当時の社会の状況や人々の生活習慣、考え方などが反映され ていますから、現代の私たちにとっては馴染みの無い言葉も出てきます。しかし、イエス様がたとえ話を通して教えようとされる物事の本質は、現代を生きる私 たちにとっても常に新しく、気付きを与え、私たちの生きる道標となるものです。クリスチャンでなくても知っているほど有名なものもいくつかあります。

本日の福音書の箇所でイエス様が語られたたとえ話も「善きサマリア人のたとえ」として広く知られています。今日の福音書の箇所の前半部分、律法についての会話はマルコとマタイにそれぞれ並行箇所がありますが、この善きサマリア人のたとえの部分はルカだけに記されたものです。それは、ある律法の専門家がイエス様に質問をしたことから始まりました。イエス様は語ることも素晴らしく、人々の病を癒し、奇跡を起こしていましたから、人々の中には、イエスは預言者だとか、エリヤの再来だとか言う人もいました。この律法の専門家は、人々が噂をしているイエスという人物がどんな人なのか、律法の知識はどれほどのものなのか見てやろうと確かめに来たのでしょう。

永遠の命を得るには何をすべきか、という律法の専門家からの質問に、イエス様は、律法には何と書かれているかと問い返されます。相手は律法の専門家ですから、答えはもちろん完璧な模範解答です。「神を愛し、隣人を自分のように愛することです。」イエス様は律法学者の答えを正しい答えだと肯定し、それを行いなさいと言われます。質問したのは自分の方なのに、質問で返された上に、それを行いなさいとまで言われた律法の専門家は面白くなかったでしょう。彼は更に食い下がって質問します。「では、わたしの隣人とはだれですか。」これはひっかけ問題です。

「隣人」というのは、ユダヤ教では厳密な概念です。同じ信仰を持ち、ユダヤ人として生きている人のことを意味します。隣人とは、あくまでもユダヤ教の共同体のことを言うのであって、異邦人や違う信仰を持つ汚れた人々は隣人に含まれていなかったのです。当然、この律法の専門家も自分の隣人はユダヤ人だと考えていたでしょう。律法の専門家はイエス様が答えるのを待ち構えます。イエス様が「それは律法を守っている人だ」と答えれば、狙い通りです。なぜならイエス様は、当時世間から罪深い人たちだと蔑まれていた人々と共に過ごしておられたから。律法の専門家は、イエス様のことを責める口実を得て、自分の正しさを証明しよ うとしたのです。さて、イエスというやつは、何と答えるだろうか。ところが、 この考えを見抜かれたイエス様は、「わたしの隣人とは誰か」という問いに答える代わりに、たとえ話を語り始めました。

とても印象的なたとえ話です。ある人と追いはぎ、祭司とレビ人、そしてサマリア人が登場します。祭司とレビ人は、追いはぎに襲われて瀕死の状態の人を見ても、助けることなく通り過ぎました。反対に、サマリア人は瀕死の人を憐れに思って介抱しました。祭司とレビ人はユダヤ教の信仰を持ち、神殿で神のために仕える働きを担っていた人々です。ユダヤ教の共同体の中にいるという点で、律法の専門家にとってはお仲間というわけです。隣人を自分のように愛せという律法にも精通しているはずのこの祭司とレビ人が通り過ぎたのは、他でもないその律法に従ったからでした。倒れている人は動くことができません。この人が生きているのか死んでいるのか確かめるには、手を触れなければならなかったでしょう。

しかし、律法では祭司は死体に触れて身を汚してはならないとされていました。汚れた体では、神殿で働くことができません。だから死んでいるかもしれない人に触れることができなかったのです。彼らは決して冷酷な人たちではなかったと思います。きっと倒れた人を見て、同情する気持ちが湧いたはずです。しかし結局、祭司とレビ人は倒れている人を避け、わざわざ道の反対側を通っていきました。目の前の命よりも儀式的なきよさの方を選んだのです。

ここに、本来の意味を失い形式的なものに傾いた律法に縛られる人間の姿が示されています。マルコによる福音書 2:23-28 には、イエス様の弟子たちが律法で何の仕事もしてはならないと定められている安息日に麦の穂を摘んだことを、ファリサイ派の人々が非難する様子が書かれています。この時、イエス様はファリサイ派の人々に向かってこう言われました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」律法のために人間がいるのではなく、人間がよく生きるために律法があります。いくら律法を言葉通りに守っても、それが人を生かすことができなければ何の意味もありません。

善きサマリア人:ドラクロワ 1849年



祭司とレビ人の姿とは対照的に、サマリア人は道に倒れている人を助けます。ユダヤ人とサマリア人の間には歴史的な対立がありました。ユダヤ人はサマリア人を異教徒、汚れた者として毛嫌いしていました。そんな嫌われ者のサマリア人がこの人を助けたのです。愛に身分や民族による区別は無いからです。サマリア人はこの人を「見て、憐れに思い、近寄った」と書かれています。「憐れに思う」とは何でしょうか。私たちクリスチャンは説教や祈りの中で日常的に「神の憐れみ」とか「憐れんでください」とか言っているのですが、どういうことなのか深く考えずに使っているかもしれません。新約聖書の原文となるギリシャ語には憐れみを意味する言葉がいくつかありますが、この箇所に使われている「憐れむ」という動詞は、ルカ 15 章に出てくる放蕩息子を許す父親のように、神様を思わせる人物やイエス様ご自身のみに使われています。

「内臓、はらわた」を意味する言葉がもととなっていて、はらわたが揺さぶられるほどの最も強い憐れみを意味しているそうです。適した言葉が見つかりませんが、あえて日本語で言い換えるなら、「断腸の思い」という感じでしょうか。神様が、苦しむ人間を見てはらわたが揺さぶられるほどに、深く強く人間を愛しておられるということに大きな感動を覚えます。更に私たちにとって深い慰めとなるのは、この憐れみが、倒れた人を助け介抱するという、具体的な行為を伴っているということです。この「憐れむ」という動詞が使われた後には、必ず人間に何かが与えられています。例えば、ルカ福音書 7 章にある、やもめの死んだ一人息子を生き返らせる話や、15 章にある放蕩息子のたとえなどにも、憐れみ+行為という形を見ることができます。律法の専門家に向かって、イエス様は 2 度も「行いなさい」と言っておられます。イエス様の愛は、同情するだけに終わらず、必ず行いが伴うものなのです。

聖書は私たちに「行いなさい」と命じています。しかしながら、その言葉を素直に受け取ることができないと思う方もいらっしゃるのはないでしょうか。それは、特に私たちルター派の教会に属する者たちが示す反応であるかもしれません。なぜなら、ルター派の教会では、「信仰義認」の教理を最も大切にしているからです。私たちは行いによって救われるのではなく、神様からのまったくの賜物、恵みとして信仰を与えられ、救われるのだという考え方です。だから善い行いを奨励されることに関して、それは行いによって救われようとすることにならないだろうか、などと考えてしまって、どうしても消極的な感情を持つことを否めない。行いの話になると、なんとなく言葉を濁してしまう。勉強中の神学生の身で生意気なことを言ってしまいますが、信仰義認の教理が本来の意味を離れてひとり歩きしてしまっているように思えます。

ルター本人は、自身の著作『キリスト者の自由』の中で、行いは救いにとって重要なものではないとしながらも、神様から恵みをいただいた者は、身体と行いとによって隣人を助けるべきだと言っています。私たちの信仰から神への愛と喜びが流れ出て、その愛から隣人に仕える喜ばしい生活が流れ出ると。

イエス様の十字架と復活を通して、神様が私たちを憐れみ、近寄り、必要としていたものを見返り無しに与えてくださったのだから、私たちも自分のためにではなく、純粋に他人のためを思って行うことができるのです。それは、私たちが一人のキリストになることなのです。愛には行動が伴うもの。私たちこそ、信仰義認を表面的に理解した気持ちになり、それに固執して、自分自身が律法主義に陥ってしまわないよう、注意しなければならないと思います。

しかし、そうは言っても一体私に何ができるのだろうか。そんなにお金も持っていないし、体だって自由に動くわけではないし、自分が生活するだけで精一杯だし、と私たちは色々なことを考えてしまいます。ここで再び、たとえ話の中のサマリア人に注目してみましょう。サマリア人は宿の主人に2デナリオンを手渡しました。1デナリオンは、当時の労働者の一日分の賃金だったと言われていますから、彼は宿の主人に二日分の賃金に相当する金額を支払ったことになります。苦労して得た、大切なお金であることには違いないのですが、考えてみれば2デナリオンという金額はさほど大金ではありません。サマリア人がその時持っていたお金の中から出すことができた金額です。また、翌日には予定通り旅を続けようとしていますし、お金が足りない分は帰りに支払うと言っています。サマリア人は特別に大きな犠牲を払っているわけではありません。

彼は目の前にある命を慈しみ、その時自分にできる最善のことをしているのです。本日の旧約の日課である申命記 30:11 以下は、主から与えられた戒めは、難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもないと語ります。「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」大げさで難しいことは求められていません。私たちはそれぞれの置かれた立場で相手を思いやり、その時にできる最善を尽くせばよいのです。大切なのは、「憐れに思い、近寄る」こと。私たちを憐れに思い、近寄ってくださったイエス様の心を、私たちの心とすることではないでしょうか。

最後に、イエス様は律法の専門家に対して、「誰がこの人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。これにははっとさせられます。律法の専門家が質問したように、隣人とは、初めから愛を向ける対象の範囲を決めておくようなものではなく、助けを必要としている人と出会った時、自分の方から「なる」ものなのですね。「あなたは、誰の隣人になるのか。」そのように、イエス様が私たちに問いかけておられるように思います。

【週報:司式部分】2022年7月10日(日)10:30 聖霊降臨後第5主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 三浦 慎里子 神学生
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前  奏 主イエスキリストよ 我らを顧みたまえ J.S.バッハ

初めの歌 教会171番(1節)かがやく日をあおぐとき

1.かがやく 日を仰ぐとき 月星 ながむるとき、
いかずち 鳴りわたるとき まことの み神をおもぅ。
わがたま いざたたえよ 大いなる み神を、
わがたま いざたたえよ 大いなる み神を、

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主なる神様。あなたの憐れみに私たちは喜び踊り、
世はあなたの慈しみを待ち望みます。
貧しい者たちの叫びを聞いてください。
御子の愛をもって隣人を愛することができるようにしてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 申命記30:9-14( 旧約 329 頁 )
第2の朗読 コロサイの信徒の手紙 1:1-14( 新約 368 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書10:25-37( 新約 126 頁 )

みことばの歌 教会239番(1節)ひととなりたる

1.ひととなりたる 神のことば
変わらぬまこと 知恵(ちえ)なる主よ、
聖書(みふみ)に満つる そのひかりは
かがやきいでて やみを照(て)らす。 アーメン

説 教 「 隣人になる 」三浦 慎里子 神学生

感謝の歌 教会410番(1節と4節)

1.救いのぬし主よ わたくしたちを
牧場(まきば)に導き お守りくださぃ、
とうといイェスさま わたくしたちは
恵みを喜ぶ あなたの子ども。

4.救いの恵みを 心にみたし
あなたのみむねを なさせてください。
とうといイェスさま 救いのきみよ
子どもを愛する 恵みの神よ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会289番(1節) すべてのひとに

1.すべてのひとに 宣(の)べつたえよ
神のたまえる よき知らせを。
父なる神は み子をくだし
救いのみちを ひらきませり。

後  奏 Allegro moderato maestoso F.メンデルスゾーン

 

【説教・音声版 】2022年7月3日(日)10:30  聖霊降臨後第4主日礼拝 「 二人で働く 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書10章1~11節、16~20節



 

今日の日課は、福音宣教に弟子たちが派遣されたといった内容だったと思います。
と、その前に、今日の旧約の日課に非常に興味深いことが記されていましたので、そのことにも少し触れていきたいと思っています。こう記されていたからです。イザヤ書66章12節後半から。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」。一般的に私たちが信じている神さまは「父なる神さま」といった理解が強いように思いますが̶̶事実、イエスさま もそう語っておられますし、聖書にも多くそのように記されていますので、そのこと自体は決して間違ってはいませんが̶̶、数は決して多くはありませんが、先ほどの箇所のよ うに聖書にはこのように母性的な神さまのお姿も描き出されているわけです。

遠藤周作は日本的なキリスト教理解に貢献したと言われていますが、それは当時のカトリック教会の厳父的な信仰理解に耐えられず、より日本的な母性的信仰理解を求めたからだ、と考えられてもいます。現代においては、「カミナリおやじ」的な父親像はすっかり鳴りを潜めていますが、少なくとも私たちが信じる神さまは、今日の箇所にありますように、幼い我が子を膝に乗せ、愛情豊かに愛おしむ「お母さん」の姿も併せ持っておられるということを忘れないでいたい、と思います。

福音書に戻りますが、今日の箇所でまず目につくのは「72人」という数です。これは、別の翻訳によると70人とも記されるものですが、それは、それぞれが翻訳に使う底本(写本のことですが)に違いがあるからです。これには色々な解釈があり、72(あるいは70)という数字は、当時考えられていた世界の民族の数だとか、あるいは、モーセを補佐した指導者たちが72人(70人)いたからだ、などの説があるようですが、それらを踏まえて、ある方はこのように言っています。「いずれにせよ、そこに浮かび上がってくるのは、世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿です」。先ほども言いましたように、全世界の民族が72であり、神の民イスラエルを代表する人たちが72人なわけですから、「世界全体の中に遣わされて行く神の民の姿」が表されているのだ、ということです。

そうかも知れません。しかし、私はこの数を見て、単純に「意外と多いな」と思いました。なぜなら、私たちが常に意識している弟子たちは、あの12弟子だからです。その他にも女性の弟子たちがかなり同行していたようですが、私たちはどうも、イエスさまとこの12人の弟子たちだけが旅をしていた、と思ってしまっているところがあるように思うからです。しかし、実際にはもっと多くの人がいたのです。しかも、私たちはこの72人の人たちの名前すら知らない。先週は、「弟子」とはキリスト者の一部の人たちだけを指すのではなくて、私たち全てが「弟子」であるといった話をしたかと思いますが、ここでもまさにそういった印象を受けるのです。

私たちがよく知っている12弟子、ペトロもヨハネもヤコブも含まれているあの12弟子は、ルカによるとすでに9章のところで宣教に遣わされていました。今度の72人は、それ以外の名も無い「弟子」たちだったと言っても良いと思います。そんな弟子たちも、あの12弟子と同じように、同じ権威を頂いて宣教に遣わされていく。そのことも、私たちは忘れてはいけないのではないか。しかも、イエスさまはこうおっしゃるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に願いなさい」と。これは、あの12弟子を派遣した時にはない言葉です。収穫は多い。しかし、働き手が少ない。だから、収穫の主に願いなさい、とおっしゃる。それは、新たな働き手を送ってください、との祈りだけなのだろうか。この自分も一人の働き手としてください、との祈りも込められているのではないだろうか。

私たちの教会は大きな課題を抱えています。ご存知のように、牧師のなり手が少ないということです。昨年、今年と神学校の卒業生はいませんでした。三浦さんが卒業される再来年は複数の牧師の誕生を期待することができますが、その後はあまり続かない様子です。ですから、「働き手を送ってください」との祈りは喫緊の課題でしょう。しかし、奇しくも、72人という数はコロナ前の私たちの礼拝の人数と近い訳ですから、皆さんの中からも「働き手の一人としてください」と祈る方が与えられることも願っています。それは、必ずしも「牧師になる」ことを意味しない、と思います。信徒のままで、皆さんの出来る範囲でいい、と思う。それでも、祈っていただきたい。なぜなら、「収穫は多いが、働き手が少ない」とイエスさまが語っておられるからです。

そんな派遣される72人は、一体何をするのか。もちろん、宣教です。では、具体的には何をすれば良いのか。「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」と記されている。ここを読みますと、一気にハードルが高くなったように思えてきます。先ほどは、牧師が「出来る範囲でいい」と言ったではないか。だから、「ならば…」と祈ってみたのに、求められていることがこんなこととは。この私に、果たして病人を癒せるだろうか。無理に決まっている。そう思われるかも知れません。もちろん、牧師だって病人を癒すことなどできない。確かに、そう。しかし、こうも思う。

「病気」といっても、色々な病気がある。医者でしか治せない病気もあれば、そうでもない病気もあるではないか、と。
先日、ある新聞記事を読みました。それは、子どもたちの幸福度が、何ヵ国だったかはっきりとした数字は忘れてしまいましたが、確か30数カ国のうちでワースト2位だったというのです。下から2番目。今の子どもたちは、全然自分が幸せだと感じていないらしい。正直、ショックでした。色々と考え込んでしまった。物質的に豊かだから、かえって幸福感が湧かないのではないか、とも考えた。しかし、調査した国の中には、日本と同様に物質的な豊かさを持った国々も多くあるはずです。なのに、この違いはなんだろうか。もし、これが事実だとしたら、原因は一つ二つではなく、国自体が病んでいるのかも知れない、そう思いました。

確かに、牧師としていろんな悩みを聞く機会があります。「病気」としか思えないようなこともあります。若い頃は、それこそ「癒さなければ」と無理をして、かえって失敗してしまったことも多々ありました。今は、相手の話を聞いて、意見を求められれば、一つの参考にしてと自分の体験談を話して、相手のために祈ることくらいです。それでも、「助けられた」と言ってくださる方が少なからずいてくださいます。一人一人にできる癒しの業があるのかも知れません。そんな「癒しの業」とももちろん関係する訳ですが、最も大切なことは「神の国はあなたがたに近づいた」と告げることです。このことを考える上でも、今朝の使徒書の日課、ガラテヤ書6章7節以下の言葉も非常に大切になってくるのではないでしょうか。なぜなら、「神の国」とは「神さまの御支配」を意味するからです。つまり、神さまとの関係性を無視しては、決して成り立たない、ということです。

ご存知のように、このガラテヤの教会はパウロが生み出した教会の一つですが、パウロが不在の間にユダヤの律法主義が入り込んでしまい、混乱を起こしていました。パウロはそれを正すためにこの書簡を送った訳ですが、ここでパウロが非常に強調しているのは福音の重要さ、です。律法主義とは、一言でいってしまえば、己の力で救いを勝ち取る、ということでしょう。それに対して福音とは、神さまの恵みにただ身を任せる、ということです。幼子のように。出来のいい熱心は子どもは、父親の高い期待に応えたいと強く願い、あらん限りの努力をするものです。

それもまた、正しい生き方なのかも知れない。しかし、人はそうとばかりに生きられない。それに、そういった子どもは、親の愛情を勘違いすることも多いのです。自分に何か価値がなければ、愛してはもらえないのだ、と。そのままの、ありのままの自分では受け入れてはもらえないのだ、と。期待に応えなければ、そういった自分でなければ愛される資格がないのだ、と。しかし、親は、いいえ、少なくとも私たちが信じる神さまはそうは思っておられないはずです。私たちが信じる神さまは、我が子を膝に乗せ、愛おしまれる方だからです。子どもが何をしたか、どんな能力があるか、ではない。その存在自体が愛おしい。確かに、期待はされている。しかし、期待に応えなければ愛されないのではありません。その存在自体を愛し、愛おしんでおられるからこそ期待しておられるのです。愛の中に生きていって欲しい、と。だから、やはり律法主義は間違っている、と言わざるを得ない。

知らず知らずの内に、幸福感を抱けない病人を生み出していってしまうかも知れないからです。しかし、私たちは、福音を知っている。イエスさまの十字架と復活のみ業を、その意味を知っている。それは、この言葉に示されている通りです。「あなたたちは乳房に養われ 抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように わたしはあなたたちを慰める」。
その神の国が近づいたことを、私たちは告げるのです。神さまの愛の御支配が、あなたのすぐそばに来ているのだ、と。それでも、私たちは、勇気が出ないのかも知れません。

この私たちに一体何ができると言うのか、と。しかし、この言葉も忘れないでいたいと思います。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。二人ずつ、です。決して一人ではない。励まし合える仲間がいる。そして、私たちの後からイエスさまご自身が来てくださるというのです。そうです。人を救われるのは、私たちの後から来られるイエスさまです。私たちではない。私たちはただ、イエスさまより先に、神の国が近づいたことを伝えればいい。自分のできる範囲で。自分もまた味わったものとして。それだけでいい。ならば私たちも、「働き手の一人としてください」と祈れるのではないでしょうか。

【週報:司式部分】2022年7月3日(日)10:30 聖霊降臨後第4主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 主イエスよ、我らにみ霊を送りて J.Ph.キルンベルバー

初めの歌 教会157番(1節)ほめまつれ あまつきみ

1.ほめまつれ あまつきみ、
いざうたえ 主の愛を。
とわにいます わが神に
たたえのうた わきあふる。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

私たちの主イエスの父である神様。あなたはシオン、私たちを守る町、慰めの母です。
あなたの平和を世界中に広めるために、私たちの人生の旅路をあなたの霊が共に歩んでください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書66:10-14( 旧約 1170 頁 )
第2の朗読 ガラテヤの信徒の手紙 6:7-16( 新約 350 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書10:1-11,16-20( 新約 125 頁 )

みことばの歌 教会238番(1節)いのちのかて

1.いのちのかて 主よいま
与(あた)えたまえ この身に。
聖書(みふみ)学ぶ わがたま
生けることば あこがる。アーメン

説 教 「 二人で働く 」浅野直樹牧師

感謝の歌 教会287番(1節)主イエスのみたみよ

1.主イェスのみ民(たみ)よ 目を高くあげよ
春は来たりぬ。 世界の果てまで
みことばの種は 芽生えそだちぬ。
主よ主よ 捕(と)らわれびとらはゆるされ
喜びうたえり。アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会335番(1節) 世にたぐいもなき

1.世にたぐいもなき 友はイェスきみ、
はかりも知られぬ 愛をそそぎて
変わることなく われらを愛す。

後  奏 神の恵みを我にたたえしめよ J.C.バッハ

 

【説教・音声版】2022年6月26日(日)10:30  聖霊降臨後第3主日礼拝  説教 「たとえ嫌われても 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書9章51~62節

今日の日課は、後半の小見出し(「弟子の覚悟」)にもありますように、弟子のあり方、弟子としての心構え、といったことが中心主題になるでしょう。
ところで、皆さんは、この「弟子」という言葉を聞かれて、何を、あるいは誰を連想されるでしょうか。イエスさまの12弟子でしょうか。それとも、特定の誰か、でしょうか。私たち信仰者は誰でも、牧師であろうと宣教師であろうと、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれます。また、そのようにも自覚しています。しかし、こう呼ばれるようになったのは、イエスさまが昇天されて(天に帰られて)何年も経ってからのことです。使徒言行録11章26節にこう記されているからです。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。

ちなみに、キリスト者(クリスチャン)とは、「キリストに属する者」という意味です。では、それ以前はなんと呼ばれていたのか。先ほどの箇所にも記されていましたように、「弟子」と呼ばれていました。この「弟子」というのは、後に「使徒」と呼ばれる特別な使命が与えられた12弟子に限りません。イエスさまの存命中から、また、その後仲間として加わっていった名も無いキリスト者たちも、「弟子」であった訳です。これは非常に大切なことです。つまり、今日の箇所の教えは、牧師や宣教師などの特別な使命に生きる者たちにだけ語られているのではなく、弟子である皆さん一人一人にも語られている、ということです。確かに、内容としても非常に厳しいことが記されていますが、是非とも他人事ではなく、自分のこととしても向き合っていただきたいと思っています。

そのように言っておきながら、少し矛盾したような話になってしまいますが、私が牧師となって心打たれた物語がいくつかあるのですが、その一つが今朝の旧約の日課であるエリヤの物語でした。私はこの物語から、使命に生きることの厳しさと慰めを受けたのです。旧約聖書には度々、預言者と偽預言者の対比、対決が記されていますが、大抵の場合、偽預言者たちは希望的観測を語り、本当の預言者たちは悔い改めを求めるための裁きを語っていきます。当然、本物の預言者たちの方が嫌われ者になる。大変厳しいことです。このエリヤもそんな大変厳しい戦いを経験しました。エリヤが活躍した時代のイスラエルではアハブという王様が統治していましたが、異教の神であるバアル信仰が盛んになっていました。当然、エリヤたち正統な預言者たちは弾圧を受けることになる。そんな中、エリヤはたった一人でバアルの預言者400人以上と戦うことになりました。

今日は詳しくお話しする時間がありませんので、ぜひ列王記上の18章をお読みいただければと思いますが、結局はエリヤが勝利を収め、ユダヤ人たちの心を本来の神さまへの信仰へと立ち戻らせることに成功する訳です。しかし、その勝利で王妃イゼベルの怒りを買うことになり、命を狙われることになります。エリヤは逃げました。そして、こう祈りました。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。そして、何日も何日も眠り込んでしまいました。今で言えば、鬱のようになっていたのでしょう。そんな彼を神さまは不思議な方法で養い、旅立たせ、ご自身と出会わせてくださり、そして、後継者作りへと送り出してくださいました。それが、今日の箇所です。あの大預言者エリヤだって孤独な戦いで心が折れてしまいそうになる。そんな彼を無理矢理に叱咤激励したり、追い立てたりするのではなく、回復するのを待ってくださり、新たな使命へと送り出してくださった。そこに、先ほども言いましたように、厳しさと慰めを感じたわけです。

キリストの変容 ティツィアーノ サンサルバドル(ヴェネツィア) 1560年頃(右上:エリヤ 左上:モーセ)



今日の福音書の日課の前半部分は、直接的には弟子のあり方と関係がないようにも思えますが、そうではありません。なぜなら、弟子とは「師」と同じ道を歩くからです。つまり、師であるイエスさまが歓迎されなかったのであれば、弟子である私たちもまた歓迎されないということが起こる、ということです。

では、なぜイエスさまは歓迎されなかったのか。そもそもユダヤ人とサマリア人とでは、歴史的な経緯もあって犬猿の仲だったということもあるでしょうが、どうやらイエスさまが「エルサレム」を目的地と定めていたことが関係していたとも言われています。先ほど歴史的に犬猿の仲と言いましたが、それは民族的にもそうですが、もう一つは信仰的な側面が強く出ていました。サマリアでは独自の信仰文化を作っており、礼拝場所はエルサレム神殿ではなく、ゲルジム山としていたことも大きな対立点でした。ですから、イエスさまがあくまでも「エルサレム」に向かっていこうとされたことは面白くなかったのでしょう。ともかく、イエスさま、あるいはイエスさま一行が彼らの意に沿わなかったことは事実だと思います。

ご承知のように、日本では長らくキリスト者人口は1パーセント未満ということもあり、宣教が大きな使命となっています。そのためにも、なるべく来やすいような環境を作ったり、いわゆる「敷居を低く」したり、世の中の人々にも受け入れやすいことを企画したりと私たちは頭を悩ませながら取り組んでいる訳です。もちろん、私自身、そういったことは大切なことだと思っていますが、しかし、それでも忘れていけないのは、先ほども言いましたように、イエスさまご自身でさえもなかなか受け入れてもらえない、認めてもらえない、歓迎されないことが多々あった、という事実です。

なぜなら、私たちの信仰のあり方には、世の中の人からすれば「意に沿わない」ことも含まれてくるからです。その最たることが、神さまに従う、ということでしょう。イエスさまはなぜ拒絶されても、疎んじられても、敵視されても、歓迎されなくても、福音を伝え、エルサレムに向かって行かれたのか。それが、神さまの御心だったからです。それに従われたからです。イエスさまの最大の関心事、志は、そこにあった。それは、何も人を無視することではありません。むしろ、人を救うためです。それが、何よりの神さまの御心だからです。

しかし、それは、必ずしも人々が期待するような、理解できるような、意に沿うようなものではなかったのです。その最たるものが、十字架と復活です。これは、世の人々はなかなか受け入れられないこと。しかし、私たちは、そこに神さまの救いを見ているわけです。パウロがこう語っている通りです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。イエスさまご自身がそのように歩まれたということは、弟子である私たちにもそのことが期待されているということです。

57節以下にも大変厳しいことが記されている。一つ目は、単に住まいのことだけでなく、衣食住などの安定が期待できないことが言われているのかもしれません。あるいは、親に対する最低限の義務さえも果たせないような、死に目に遭うこともできないような状況も想定されているのかもしれない。最後はより厳しい、家族に別れを言うことさえも許されないような内容です。これらは最初に言いましたように、ある意味牧師・宣教師なら覚悟しているところです。最近は状況も随分と変わってきましたが、先輩牧師などから、このような実体験も度々聞いてきました。しかし、これも最初に言いましたように、これは牧師・宣教師に限らないことです。大なり小なり、全ての弟子たちに求められている。しかし、注意していただきたいのは、この言葉だけで全てが決まるわけではない、と言うことです。

聖書は他にもいろいろと語っているからです。衣食住の心配を神さまご自身がしてくださっていること。家族を大切にするように求められていること、など。つまり、文字通りに、こうすることが良いと言うことでは、必ずしもないのでしょう。そうではなくて、私たちがこれらのものに縛られない自由さを得ているか、と言うことです。親、兄弟、家族、妻、夫、子ども、家庭、仕事、友人、仲間…。当然、私たちにとって大切なものが多くある。しかし、それらに縛られているようではダメだ、と言うことです。それらにだけ支えられているようではダメだ、と言うことです。大切なものに違いないが、しかし、同時に自由であることの大切さ、です。そうでないと、むしろ、そんな大切だと思っているものに悪影響(不健全な依存などの)を与えないとも限らないからです。

私たちが真に必要としていることは「魂の救い」です。これは、神さまとの繋がりがなければ決して与えられないものです。そこから、決してなくなることのない信仰と希望と愛が生まれてくる。それは、この私たちだけでなく、当然愛する者たちにとっても必要なことです。だからこそイエスさまは、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われるのです。

イエスさまはこんな譬え話も語っておられます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。無理矢理に、嫌々・渋々に弟子としての心得を持つのではありません。そうではなくて、すでに与えられている宝の大きさに、その素晴らしさに気づくのです。そうすれば、自ずと他のものからは自由となり、弟子として生きていきたいと願うに違いない。家族・愛する者のためにも、真に自由となって、魂の救いを得た者として、この宝を隠しては置けない、と思うに違いない。たとえ、辛く、厳しいことがあったとしても。そうでは、ないでしょうか。

【週報:司式部分】2022年6月26日(日)10:30 聖霊降臨後第3主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 来ませ、聖霊よ、心を満たしたまえ H. Grabner

初めの歌 教会165(1節)いともとうとき

1.いともとうとき 救いぬしよ
ちからのみ名は たぐいあらず、
み前にふして きよけき主の
とうときみいつ たたえまつる。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

すべての人の心を知っておられる、いと高き神様。
あなたはご自分に従うように私たちを招き、真の自由を与えてくださいます。
御子の道に従って、妨げとなるものをことごとく捨て、
あなたの道をまっすぐに進むことができるように、私たちを助けてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 列王記上19:15-16,19-21(旧約 566 頁 )
第2の朗読 ガラテヤの信徒の手紙 5:1,13-25( 新約 349 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書9:51-62( 新約 124 頁 )

みことばの歌 教会293(1節)つみあるものをも

1.罪あるものをも 愛する神は
ほろびを好(この)まず 救いをたもう。
心にいたみを 覚(おぼ)ゆる時にも
み言葉かしこみ み神にたよらん。

説 教 「 たとえ嫌われても 」浅野直樹牧師

感謝の歌 教会313(1節)主はへりくだりて

1.主はへりくだりて 罪人(つみびと)のために
十字架の苦しみ 耐(た)え忍(しの)びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天(あめ)なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会287(1節)主イエスのみたみよ
1.主イェスのみ民(たみ)よ 目を高くあげよ
春は来たりぬ。 世界の果(は)てまで
みことばの種は 芽生えそだちぬ。
主よ主よ 捕(と)らわれびとらはゆるされ
喜びうたえり。  アーメン

後  奏 我がイエスよ我は離れず J.G.Walther

【週報:司式部分】2022年6月19日(日)10:30 聖霊降臨後第2主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 「愛しまつる主よ、我れ汝に感謝しまつる」J.C.Bach

初めの歌 教会188番 (1節)わがたまよろこび主を
1.わがたまよろこび 主を待ちのぞむ。
とびらを開きて 迎えたまえや、
ひかりと恵み うちにかがやく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主なる神様。
悲しみ多い世の叫びをお聞きください。
私たちを憐れみ、囚われの鎖から解き放ち、すべての悪から守ってください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書65:1-9( 旧約 1167 頁 )
第2の朗読 ガラテヤの信徒の手紙 3:23-29( 新約 346 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書8:26-39( 新約 119 頁 )

みことばの歌 教会244番(1節)ちからとめぐみの
1.ちからと恵みの 神のことばは
この世に下(くだ)りて 悪魔(あくま)をくだき
みむねをさやに さとらせたもう。

説 教 「解放された人」浅野直樹牧師

感謝の歌 教会311番(1節) われらをすくうは
1.われらを救うは キリストのみぞ、
変わらぬ基(もとい)は 主のほかあらず。
罪人(つみびと)み前に 目覚(めさ)むるときも
キリスト(いま)在せば 恐(おそ)れはあらず。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会412番(1節)ちちのかみこのわれを
1.父の神、このわれを
平和めざし導きて
生命(いのち)なるイェスきみに
たより進ませたまえ。アーメン

後  奏 「我ら今聖聖霊に願いまつる」J.G.Walther

【説教・音声版 】2022年6月19日(日)10:30  聖霊降臨後第2主日礼拝  説教 「解放された人 」 浅野 直樹 牧師

ルカによる福音書8章26~39節

教会の暦も「聖霊降臨後主日(いわゆる「緑」の季節)」になり、日課も久しぶりにルカ福音書に戻ってくることになりました。これから待降節までの間、よほどの祝日がない限り、このルカ福音書から学んでいくことになります。

そこで、今日の日課は、悪霊に取り憑かれた人の癒しの物語り・解放の物語りが取り上げられていますが、小見出しの下にもありますように、この記事はルカ特有のものではありません(マタイもマルコも記すところです)。それが、いわゆる「共観福音書」と言われる所以ですが、しかし、それでも、やはりルカ福音書の特徴はあるわけです。ある方は、その特徴を、イエスさまの救いの出来事が強調されている、と語っていましたが、その通りだと思います。36節に「救い」という言葉が明確に記されていることからも明らかです。この言葉は、マタイにもマルコにも出てきません。

ところで、皆さんは、なにがしからの解放を願ったことはないでしょうか。何か抑圧的な外的要因(社会人として、夫として、妻として、「こうあるべきだ」みたいなものも含めて)、あるいは性格的…、心配や不安などの内的要因など、案外私たちはいろいろなものに囚われているものです。
では、囚われている、というのは、どういうことか。その典型的な例が、今日の「悪霊に取り憑かれた人」でしょう。つまり、自由がない、ということです。自分で自分がコントロールできない。自分の思うようにできない、いうこと。悪霊に支配されているのですから。叫びたくもないのに叫んでしまい、したくないことをしてしまい、逆にしたいこと、成さなければならないことをすることができない。それが、悪霊に支配されている、ということでしょう。この男性のように。

こう考えていきますとどうでしょうか。確かに、私たちは悪霊に取り憑かれてはいないでしょう。この人のように、正気を失って、奇行を繰り返すようなことはない。むしろ、至って普通の善良な市民です。しかし、先ほど申し上げたような「囚われの姿」、つまり、したくないことをしてしまい、しなければいけないことができない、ということを考えてみれば、案外本質は変わらない、と言えるのかもしれません。

実は、私たちは、それほど不自由な人間なのです。パウロもそんな人の、自分自身の姿を嘆いて、こう語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。パウロがここで語っていることは、悪霊のことではありません。罪のことです。しかし、今日の悪霊に取り憑かれている人と同じように、私たちの内には罪が住み着いており、私たちを虜にして、本来あるべき私たちの自由を奪い取ってしまっているというのです。それは、まさに「惨め」な状態だとパウロは嘆いている。私たちの姿です。

そんな惨めな私たちの典型的な姿は、何もこの悪霊に取り憑かれている人ばかりではありません。この人を取り巻く人々もまた(親、兄弟、親類等も含めて)、惨めな人です。この人が度々悪霊に取り憑かれて一体何をしでかしたのか、よくは分かりません。突然人を襲うようになったのか、家を壊そうとしたのか、分からない。ただ、手がつけられなかったのでしょう。親も匙を投げた。だから、彼は「鎖につながれ、足枷をはめられて監視されていた」とあります。それでも、彼はそれらを引きちぎって、荒野へと出て行ってしまったようです。果たして、そんな彼を親は、町の人々は連れ戻そうとしたのだろうか。

もちろん、時代が違います。そもそも、こういった現象を「悪霊に取り憑かれた」と表現するくらいですから、今日の我々の状況とは全く違うわけです。しかし、果たして、本当にそう言えるのでしょうか。

神学校のカリキュラムの一つに、「病院実習(CPE:臨床牧会教育)」というのがあります。私は特例で、神学校には1年しか在籍しませんでしたが、やはり実習することが求められ、2年生と一緒に(私はその時4年生でしたが)精神科の病院に行くことになりました。私にとっては初めての経験でしたが、正直、思ったほどには大変ではありませんでした。むしろ、興味深くもありました。荒唐無稽な話を永遠と聞かせて下さった方もおられました。

しかし、今から思えば所詮は他人事だったからでしょう。神学生であり、ただ実習に来ているだけといった外野的なお気楽さがあったことは否めません。もし、身近に、自分の親、兄弟、子どもに、そういった方々がいたら、どうだったろうか。世間の目、社会の目を気にしながら、身内ならではの不寛容さで追い詰めていたのではないだろうか。そんなことも思うのです。

もちろん、難しいのも事実です。簡単なことじゃない。手に余るのも仕方がないのかもしれない。しかし、それでも、このことは引っかかる。この人は、イエスさまによって癒されたのです。解放されたのです。救われたのです。しかし、この文章からは、その喜びが伝わってこない。「そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである」。

確かに、こんなことはこれまで見たこともないし、聞いたこともなかったでしょう。まさに、衝撃的なことです。悪霊に取り憑かれて、縛り付けていても抑えきれなかった人が、今や正気に戻っているのですから。その光景に、恐れを抱くのも無理からぬことに違いない。しかし、目撃者たちから、その人の「救われた次第」の説明を聞いたにも関わらず、つまり、単に事の次第を説明したのではなく、この人は「救われたのだ」と説明したにも関わらず、人々の恐れが止まず、イエスさまに出て行って欲しいと願った、というのです。いかに、この町の人々は、この人の存在を見ていなかったことか。ひょっとすると、その中に親・兄弟・親類縁者、かつての友人たちも含まれていたのかもしれない。なのに、この人が救われたという事実に思いがいかない、注目できない、喜べない、感謝できない、そんな人の姿の中に、やはり惨めさを認めずにはいられないのです。それも、私たち自身の姿なのかもしれない。

それに対して、イエスさまはどうか。その人を見るのです。ただ、その人の苦しみを見るのです。そして、その人の救いを見るのです。人々の反応がどうかなど気にしない。ただ、その人が救われて、解放されて、自由とされることを願われる。たとえ、この町からつまみ出されるようなことになろうとも、このたった一人の人が囚われから解き放たれ、救われたことを喜ばれるのです。イエスさまこそ、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈し」まれる方です。実は、これらは決して簡単なことではないのです。私たちは憐れに思いながらも、色々な囚われの中でなかなか憐れむことができないでいる。そういう意味でも、イエスさまほど真に自由な方はいません。

イエスさまには、囚われの、惨めな私たちを救う力がおありです。解放する力がおありなのです。私たちを自由にする力が…。その囚われの典型的な例である悪霊さえも、例外ではあり得ないのです。よく神さまと悪魔とは好敵手(ライバル)のように思われがちですが、そうではありません。神さまが、悪霊さえも認める神の子イエスさまが圧倒的なのです。悪霊はただ従うしかない。

しかし、私たちはこうも思うのかもしれません。解放されることを願っている私たちは、果たして本当に解放され、自由とされているのか、と。むしろ、ますます不自由な、囚われの中にいるのではないか、と。それも、率直な感想なのかもしれない。しかし、少なくとも今はそれが必要だからこそ残されているのでしょう。実は、私たちが願う解放とは、心が軽くなることに過ぎないからです。罪悪感、劣等感、フラストレーションなどから。

もっと言えば、それは、神さま抜きで、神さまに頼らずに、自分のやりたいように生きたいという欲求の追求にすぎない。つまり、神さまからも解放されたい、と思っているのかもしれないのです。自分を照らす信仰がかえって重荷なのだ、と。しかし、その結果は明らかです。いっとき解放されたように感じることがあったとしても、別のものに囚われ、結局はもっと悪い不自由さの中に生きることになるのかもしれない。「自己中心」という不自由さの中に。だから、残る。そんなまやかしの解放は御心ではないので、むしろ残っているのです。かえって神さまとの繋がりを保つために。

では、悪霊から解放されたこの人はどうなったか。「正気になってイエス(さま)の足もとに座っ」たのです。この「足もとに座る」とは、弟子入りを意味する、と言います。そして、彼は神さまが自分にして下さったことを、家族に、自分の町の人々に伝えたのです。ここに、真の解放がある。神さまがこの私をお救い下さったということが明確に分からされることこそが、真の解放、自由につながって行くからです。このイエスさまが、今、私たちとも出会ってくださいます。解放を、真の自由を願う私たちと…。

 

【週報:司式部分】2022年6月12日(日)10:30 三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 教会讃美歌187による前奏曲      H. パウルミッシェル

初めの歌 教会187番(1節) さかえに輝く主の

さかえに輝(かがや)く
主のまえに集(つど)いて
かしこみひれ伏す 天地(あめつち)すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の創造者、生きておられる神様。唯一にして三(み)つであるあなたの栄光をあがめ、
三(み)つであり唯一のあなたの大いなる御力をたたえます。
この信仰に堅く立ち、逆境の中で守り、ついには、御前にあって永遠の喜びと愛のうちに住まわせてください。
いまも、そして永遠(えいえん/とこしえ)にいます、父、御子、聖霊の唯一の神に祈ります。

第1の朗読 箴言8:1-4,22-31( 旧約 1000 頁 )
第2の朗読 ローマの信徒の手紙 5:1-5( 新約 279 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書16:12-15( 新約 200 頁 )

みことばの歌 教会131番(1節)せいなるせいなる

1.聖なる 聖なる 聖なる主よ、
夜(よ)ごと、 朝ごとに ほめたたえん。
三(み)つにいまして ひとりなる
主こそ力(ちから)に 満(み)ちあふる。 アーメン

説 教 「信じることは信頼すること」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会126番(1節) めぐみふかき父

1.恵みふかき父なる神 救いぬし、み子イェスきみ、
われを守るみ霊(たま)の神よ、 永遠(とわ)のひかり。
アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会337番(1節) やすかれわがこころよ

1.やすかれ わがこころよ、主イェスは ともにいます。
いたみも くるしみをも  しずかに しのび耐えよ。
主イェスの ともにませば たええぬ なやみはなし。

後  奏 聖霊を受けし、わが心よ  J.S.Bach=園田順夫編

【説教 】2022年6月12日(日)10:30  三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝  説教 「信じることは信頼すること 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書16章12~15節

先週は、聖霊降臨・ペンテコステの出来事を覚える礼拝を共々にもつことができましたことを、大変嬉しく思っています。特に、私たちにとって喜びだったのは、礼拝式の中でお二人の洗礼式を行うことができたことではなかったでしょうか。

では、なぜお二人は洗礼をお受けになられたのか。聖霊が働かれたからです。ご自身たちがどう自覚していようと、聖霊の働きがなければ、誰も「イエスは主」と告白できないからです。それは、聖書が明確に語っているところです。しかも、この聖霊の働きは、洗礼を受けられたご本人に限ったことでもないでしょう。今回受洗されたお二人は、共にご家族に信仰者・キリスト者がおられました。そんなご家族の熱心な働きかけがあったからだ、ということでも必ずしもないのかもしれません(そうだったのかも知れません。分かりませんが…)。

私の両親兄弟も未だに信仰者ではありませんが、身内だからこその難しさがあることも実感しているつもりです(特に私の親は捻くれていますので)。
しかし、それでも、そんなご家族の姿は決して小さくはなかったと思います。たとえ言葉で語ることがなくても、ご自身が礼拝に出かけられる姿を通して、祈る姿を通して、信仰者として生きている姿を通して、やはり何らかの影響はあったと確信しています。そうです。それらご家族にも聖霊の働きがあったからです。たとえ、無意識・無自覚だったとしても、そこに聖霊の働きがなければ、そのような影響は与えられなかったでしょう。あるいは、ご家族だけでもなかったのかも知れない。受洗準備会の中で、お一人は「教会員の仲間になれるのが楽しみだ」と明確に語られました。つまり、皆さんにも聖霊が働いていたのです。そんな聖霊の働きがあったからこそ、お二人は洗礼へと導かれたのです。

先ほども言いましたように、先週は聖霊降臨祭を共に祝ったわけですが、ここでもう一度改めてお伝えしたいのは、聖霊降臨の出来事が宣教・伝道と深く結びついている、ということです。聖霊降臨の出来事があったからこそ、宣教がはじまっていった。逆に言えば、聖霊降臨の出来事がなければ宣教は起こらなかったのかも知れないのです。あの聖霊降臨の出来事が起こる前の教会は何をしていたか。皆集まって熱心に祈っていました。

天と地の三位一体(1675 – 1682):バルトロメ・エステバン・ムリーリョ


使徒言行録1章12節以下に記されていることです。それ自体は大変素晴らしいことですが、しかし、もしそれだけなら、数年後、数十年後には、その集まりは衰退し、消えてしまっていたのかも知れないのです。聖霊降臨の出来事を受け、弟子たちを代表してペトロが福音を語っていった時に何が起こったか。新たに3000人が仲間に加わった、という。もちろん、それだけではありません。当初はユダヤ人だけにしか福音宣教はなされていませんでしたが、次第にサマリヤ地方や異邦人の地にも福音が伝えられていき、また教会が生まれて、パウロやバルナバなどが、それらの教会から宣教へと遣わされて行くようにもなりました。まさに、聖霊降臨の出来事から、教会の歴史ははじまっていったのです。

誤解を恐れずに言うならば、今私たちの教会の教勢が徐々に落ちてきているから、といった危機感から宣教・伝道を頑張ろう、と言うのではありません(改めて必要性に気づくきっかけにはなったかも知れませんが)。そうではなくて、イエスさまがそう望まれているからです。イエスさまがそう命じておられるからです。それが、教会のアイデンティティーだからです。そのために、聖霊は降られた。しかも、皆さんお一人お一人が今この場にいるのも、先ほども言いましたように新しい仲間が加えられたことも、聖霊の働きがあるから。つまり、2000年前の出来事ではなく、現実に、この現代にも、この私たちの教会においても起こっていることなのです。そのことを、もう一度心に刻みたいと思います。

今日は三位一体主日ですので、三位一体なる神さま…、つまり父なる神さま、子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神さまが登場してくるこの箇所が日課として取り上げられているのでしょう。この箇所については、前後を含めて非常に多くのことを教えられるところですが、今日は細かい話しはしません。一つだけ。つまり、皆同じ思いである、と言うことです。こうあるからです。聖霊については、イエスさまは「自分から語るのではなく、聞いたことを語」るのであり、「わたしのものを受けて」という訳ですから、イエスさまの思いを忠実に語る、教える、と言うことでしょう。そして、イエスさまも、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」という訳ですから、ここにも一致が見られる訳です。

つまり、この三位一体なる神さまの何よりの特徴は、「一致」ということです。「同じ思い」ということです。そういう意味で、齟齬はあり得ない。では、どんなことで一致しているか。私たち人類の救い、と言うことです。しかも、罪人である私たちの救いです。私たちをお創り下さった、生みの親と言ってもいい神さまから離れてしまい(まさに恩知らずです)、御心から外れて自分勝手な道を行き、他者を傷つけ、自分自身をも傷つけ、しまいには自己正当化して戦争まで引き起こす、そんな身勝手極まりない私たち人類を救うためです。罪を赦し、罪ある生から解き放つためです。そのためなら、なり振り構わない、どんな犠牲をも厭わない、そんな思い、志の一致です。

私は、二十代の頃、北森嘉蔵の『神の痛みの神学』に出会い、衝撃を受けました。それまで、もちろん信仰はもって生きてきましたが、「苦しまれる神さま」(イエスさまではありません。父なる神さまです)といった理解は、想像もしていませんでした。考えてみれば、当然かも知れません。ご自分の独り子を殺すのですから。あの実の子イサクを捧げるために自らの手で命を奪おうとしたアブラハムの心境と重なるところがあるでしょう。ご自分の意志で、敵対する私たちのために、罰すべき咎を愛する独り子に全て負わせて、自らの手で命を奪う。苦しくないはずがない。辛くないはずがない。痛くないはずがない。まさに、はらわたが引き裂かれるような思いです。

何度も、躊躇したのかも知れない。そんな計画、止めてしまえ、と思われたのかも知れない。それでも、神さまは私たち人類を愛された。不出来でどうしようもない不良息子・娘であるのかも知れないが、どうしても見捨てることなどできなかった。どんな犠牲を払ってでも、救いたい、と願われた。たとえ、ご自身が引き裂かれるような思いを味わうことになろうとも。それは、イエスさまも同じなのです。だからこその十字架。そして、そのことを聖霊は忠実に私たちに伝えてくださる。教えてくださる。悟らせてくださる。その思いを。そこに込められている神さまの、イエスさまの愛を。

そんな救いを、ヨハネ風に言えば、「命を与えること」と言えるのかも知れません。ヨハネ20章30節以下に記されている本書の目的の中に、このように記されているからです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。また、小聖書とも言われるヨハネ3章16節にもこのように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちをこの命に生かすために、三位一体なる神さまはみわざをなしてくださったのです。

ところで、今日の使徒書の日課には、こんな言葉も記されていました。ローマ5章5節、「希望はわたしたちを欺くことがありません」。そうです。私たちが生きるためには、この希望も必要不可欠です。希望がなければ、人は生きていけないからです。しかし、パウロは、そんな希望が希望としてすんなりと手に入るものではないことも記すのです。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。むしろ、苦難が、忍耐が、希望を生むと言うのです。

なぜか。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。これは、いわゆる机上で生み出した神学ではないと思うのです。パウロは教会を迫害した人です。知らなかったとはいえ、無知だったとはいえ、とんでもない過ちを犯してしまった。償いようがありません。その彼が赦された。彼は生涯、自分の過ちの痛みと同時に、その深い愛に生かされていったことでしょう。だからこその言葉だとも思うのです。たとえ、苦難があったとしても、忍耐しなければならないような出来事があったとしても、そこにも聖霊が働かれて、神さまの、イエスさまの愛を心に注ぎ込んでくださり、決して見失うことのない、欺くことのない希望へと至らせてくださる、と。

この恵みを、愛を、希望を伝えるのが教会です。私たちです。それが、教会のアイデンティティーです。そのために、聖霊は来てくださった。なぜなら、人には、それらが必要だからです。私たちの人生は決して簡単じゃない。罪に揉まれ、道を見失い、失意と不安の虜になってしまう。だから、救われなければならない。聖霊の働きがなければ、それを伝えることもできない。だから、聖霊をいただいている、すでに心に注がれている私たちが、私たちの教会がそれを伝える。証する。たとえ言葉にならなくとも、行動で、自らがその恵みの道を歩み続けるといった姿で示す。それが、私たち自身の存在意義でもあるのではないか。そうでは、ないでしょうか。

【週報:司式部分】 2022年6月5日 聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 三浦 慎里子 神学生
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前  奏

初めの歌 初めの歌 教会190番(1節)主のみ名によりて

1.主のみ名によりて 集(つど)うところに
主はともにいまし なかに立ちたもぅ。
いまなお主イェスは われらの閉ざせる
戸のなかに在(ま)す。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神様。
私たちの創り主である神様。地上の民はみな、
御子の復活によって命をいただきます。
聖霊によって愛の炎を燃え立たせ、私たちを強めて奉仕と賛美の生活へと
向かうことができますように。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記11:1-9( 旧約 13 頁 )
第2の朗読 使徒言行録 2:1-21( 新約 114 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書14:8-17( 新約 196 頁 )

みことばの歌 教会123番(3節) あめつちこぞりて

3.救いのみわざは 世界にあまねく
ひろがりわたる。
「ゆたかな祝福 うえよりくだれ」と
ひたすら祈る。
いのちのもとなる み霊(たま)にみたされ
み神の恵み、日ごとに加わり
たまもの受けつつ この世をおくる。

説 教 「 聖霊の力 」 三浦慎里子 神学生

感謝の歌 教会123番(3節) あめつちこぞりて

3.救いのみわざは 世界にあまねく
ひろがりわたる。
「ゆたかな祝福 うえよりくだれ」と
ひたすら祈る。
いのちのもとなる み霊(たま)にみたされ
み神の恵み、 日ごとに加わり
たまもの受けつつ この世をおくる。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会272番(2節) 主なる神をたたえ

2.み霊(たま)ここに宿り みことば働き
恵み絶えずあれば み民はやすけし。
愛と信仰によりて われら支えられ
主にある交わりは 命(いのち)にあふるる。

後  奏

【説教・音声版】2022年6月5日(日)10:30  聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝  説教 「聖霊の力」 三浦 慎里子 神学生



私たちの教会は、ペンテコステの日を迎えました。約束された聖霊が、使徒たちに降った日です。この時起こった出来事から、多くのキリスト教会では、この日を教会の宣教が始まった日、教会の誕生日として祝っています。神様から送られた聖霊が何をしたのか、その働きについて紐解いてまいりましょう。先ほど読まれました旧約聖書の箇所は、バベルの塔の話でした。世界中が同じ言葉を同じように話していた頃、人々は天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう、散らされないようにしようと考えますが、その企みを知った神様によって言葉が混乱させられ、全地に散らされてしまうという内容です。人々が「散らされないようにしよう」と言っているということは、散らされることを恐れているからでしょう。人々は安全な場所に留まろうとします。自分たちを守るためにひとつにまとまろうとします。しかし、創世記1章28節に書かれているように、神様は初めから、ご自分が創造された被造物を全地に広がらせようとなさるのです。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。自分たちの保身と欲望のために天まで届く塔を作り、神様に反抗した人々には、言葉が混乱させられた上に、全地に散らされるという裁きが下されます。散らされる、分断されるということは、悲しく、恐ろしいことです。私たちの生きる今の世界においても、人間の自己中心的な思惑は、あらゆる分断を生み出しています。戦争、環境破壊、差別、富の偏りなど、向き合わなければならない問題はたくさんあります。社会的な問題だけではなく、私たち個人の日々の生活の中にも妬みや憎しみなど、分断は存在するでしょう。そのような状況を少しでも改善しようと努力してみても、問題の闇の深さに打ちのめされ、自分の無力さを思い知ることも少なくありません。私たちはばらばらです。しかし、この旧約聖書のみことばによって、聖霊降臨の出来事は、私たちへの希望の福音として光を放ち始めます。これは、神に反抗した人間たちに裁きが下った、という単純な話ではありません。確かにばらばらに散らされたことは裁きであったけれども、同時に救いの始まりでもあったのです。なぜなら、聖霊降臨の出来事において神様は、ばらばらに散らされた人々を一つに集めておられるからです。

本日の使徒書の箇所は、使徒たちに聖霊が降った時の様子を生き生きと臨場感たっぷりに伝えています。先週の主の昇天主日で読まれた使徒言行録1章で、イエス様は使徒たちに、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられました。使徒たちはイエス様から言われたことを守り、エルサレムに留まり、集まって祈っていました。すると突然、その時はやってきました。

激しい風が吹いて来るような音が鳴り響き、炎のような数々の舌が現れ、使徒たちの上に留まります。聖霊はまず、人の聴覚と視覚に対するしるしとして現れました。神がご自身の臨在を、目に見える形で示されたのです。しかし、これで終わりではありませんでした。聖霊に満たされた使徒たちが、それぞれに他の言語で話し出したのです。非常に迫力のある、異常な光景が広がっていたことでしょう。ここで使徒たちは「霊が語らせるままに」語ったと書かれています。使徒たちは、自分で努力して外国語を習得したのでもなければ、自分が思ったこと伝えたいことを話しているわけでもありません。聖霊は、使徒たちの中に入り、使徒たちを満たし、内側から突き動かす力となったのです。さらに聖霊は、ペトロを雄弁に語らせています。

ペトロというと、イエス様が捕まった時、イエス様のことを知らないと言って裏切ってしまった、あの場面を思い出します。イエスの仲間ではないかと聞かれて、「そんな人は知らない」と答えたあのペトロが、イエス様によって預言が成就されたことを語っているのです。公然と、大胆に。聖霊は、臆病だったペトロに命を吹き入れ、大胆に語る賜物を持った人へと創り変えました。本日読まれた箇所には含まれていませんが、この後の部分で、ペトロの説教を聞き心を打たれた三千人もの人々が、洗礼を受けて仲間に加わったと書かれていますから、ペトロが語った言葉がどんなに力に満ち溢れていたかが想像できます。こうして聖霊が降った使徒たちの様子を見ていきますと、聖霊の数々の働きは、ひとつのことを成すためにあることに気付きます。それは、「語る」ということです。聖霊は使徒たちの中に入り、満たし、創り変えて、語らせています。何を語らせるのか。イエス様の死と復活についての証言です。聖霊降臨の出来事において、神様は、キリストを証言するということによってばらばらに散らされた人々を一つにし、ご自分のもとに立ち返らせ、ご自分と結ばれた生き方へと招かれるのです。私たちはキリストによって一つにされるのです。この証言を語らせるのが聖霊の力です。

語る者だけでなく、聞く者の存在も、宣教には必要です。聖霊が降った日は、五旬節の祭の日でした。ユダヤ教の大きな例祭の一つです。エルサレムは、当時すでに周辺の様々な地域から多くの人が集まる国際都市でしたが、祭りの時には、イスラエル全土から、そしてその他の地域からさらに多くの人々が巡礼に訪れました。ですから、五旬節の祭の日、エルサレムは人々の熱気や興奮に満ち、大変な賑わいを見せていたと思われます。聖霊は、そのような時と場所において使徒たちに降りました。聖霊降臨は、使徒たちの集まりの中だけで起こった内輪の出来事ではなく、公の出来事として起こったのです。物音を聞きつけ集まってきた大勢の人々の耳に飛び込んできたのは、それぞれの土地の慣れ親しんだ言葉でした。私は九州の生まれですが、東京で自分の出身地の方言を聞くと、即座にアンテナがピーンと立ち、その人の話が良く耳に入ってきます。その人のことを知らないのに、まるで友達のような親近感さえ湧いてきます。海外に行った時に日本語を耳にするとどこかほっとした気持ちになる、あの感覚を経験されたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ここに書かれている、この場に集まってきた人々は、エルサレムからはかなり遠く離れた、広い範囲の地域からやって来た人々でした。ユダヤ人ではない人々もいました。自分の出身地の言葉で語られる偉大な神様の言葉は、エルサレムで話される共通語で聞くよりももっと、はっきりと、鋭く、一人一人に届いたことでしょう。神様は、ばらばらになった言語の違いをそのままにされ、統一しようとはなさいませんでした。むしろ、その違いの中で一つの証言を聞き、一人一人が豊かに福音を受け取ることができるようにし、国境を越えて救いが広がっていくようになさいました。キリストについての証言は、多くの人に聞かれ、世の果てまで広がっていかなければならないのです。私たちキリストの教会は、使徒たちが担ったこの役割を引き継いでいます。そんな大それたことが自分にできるのかと重荷に感じるでしょうか。今の教会にそんな力はないと思われるでしょうか。

イエス様はヨハネ福音書14章においてこう語っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」イエス様は、聖霊を送ることを約束してくださっています。そして、イエス様が約束してくださることは必ず果たされます。確かに、私たちの生きる現実には悲しい分断があります。私たちはばらばらです。しかし、イエス様が約束してくださった聖霊が与えられ、イエス様を証言するものとされることを、そしてその証言によって、分かたれたものが一つにされることの確かな希望を、私たちは聖霊降臨の出来事から受け取ることができます。遠い昔、使徒たちは、聖霊の力によって心の目が開かれ、自分の内にイエス様がおられることを知り、確信を持って神様の言葉を伝えてゆく者とされました。ペンテコステのこの日、教会を受け継いだ私たちは、再びこの始まりの出来事に立ち返ります。そして、燃える心でここから押し出されていきたいのです。