顕現後第2主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 萩森 英明
開会の部
前 奏 「神のみ子はきませり」J.S.Bach
初めの歌 教会149 ( 空も地をも )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)
特別の祈り
主なる神さま。
あなたはみ子によって多くの人々を信仰に導き、栄光を現されました。
私たちにも信仰の賜物を与え、み子のようにすべての人々に喜びを伝えることが
できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 サムエル記上 3:1-10(旧約 432頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙一 6:12-20(新約 306頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書1:43-51(新約 165頁)
みことばの歌 教会29(恵みふかきみ声もて)
説教 「 出会うことで 」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会372(イェスのみ名は)
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部(
派遣の歌 教会285(シオンよいそぎつたえよ)
後 奏 「神のみ子はきませり」J.G.Walther
顕現後第2主日礼拝説教
聖書箇所:ヨハネによる福音書1章43~51節
人生には、さまざまな出会いがあるものです。それらが私たちの人生を彩っていく。そして、人生を変えるような、あるいは大きな影響を与えるような良き出会いがあるということは幸いなことではないでしょうか。
思い返しますと、私にとっては特に次の三つの出会いが思い起こされます。皆さんはどうでしょうか。
一つは、中学時代の社会科の先生との出会いです。この先生との出会いがなければ、私はキリスト教に、教会に触れることはなかったのかもしれません。御多分に洩れず、と言いますか、私の中学時代は危うい思春期真っ只中の状態で、今から思えば非常に青臭い悩みでしたけれども、その頃は死を考えるほど深い悩みを抱えておりました。また、社会や周りの大人たちにも非常に反抗的でした。
そんな中、唯一好意を抱いていたのが、前述の社会科の先生でした。といっても、私の性格上、先生と親しくなれていたわけではありませんでしたが、先生の授業だったからこそ、先生の語ったキリスト教がすっと心に入ってきたのだと思います。そして、そんなキリスト教に憧れを抱きました。そのことがなければ、教会を訪ねることは恐らくなかったでしょう。
もう一つの出会いは、最初の神学校時代の学友たちとです。本当に彼らとの出会いは大きな支えになりました。素直に信仰の話が真剣にできたのは、彼らが最初だったと思います。それまでの私は、自分の信仰に自信が持てずにいました。洗礼を受け、神学校にまで行った訳ですが、自分の中に疑いの思いや反発心などが渦巻いており、本当にこれが信仰者なのだろうか、と悩んでもいたからです。かといって、そんな心の内を相談できる相手もおらず、悶々としていました。今から思えば、動機としては全く不謹慎だった訳ですが、そんな思いを何とかしたくて神学校に行ったようなものです。
しかし、いざ入学してみると、たちどころに「ここは自分のような人間が来るところではなかった」と思い知らされました。牧師を目指すような人たちばかりな訳ですから、周りは信仰の猛者ばかりだったからです。彼らからそのような話を聞かされるたびに、ますます自信を失い、本当に逃げ出したいばかりでした。彼らとの出会いがなければ、本当に逃げ出してしまい、牧師にもならなかったのかもしれません。その中にいることが、あまりにも辛くなりすぎて、ある日、非難されるのを覚悟の上でそんな心の内を打ち明けてみました。すると彼らは普段と何ら変わらず、あまりに当たり前の口調で「そんなの誰もが通る道だよ。僕たちだってそうだった」と答えてくれました。その言葉にどれほど救われたことか。本当に感謝に絶えません。
もう一つはルターとの出会いです。といっても、もちろん、本人自身にではありません。もっと言えば、彼の著書自体でもありませんでした。アメリカの神学者であるベイントンという人が書いた『我ここに立つ』が授業の課題図書とされ、読むことが求められたからです。これは、いわゆる伝記物です。その中に記されていた修道院時代の信仰的苦悩・葛藤にひどく共感を覚え、たちまちルターの虜になりました。その後、ルター関連の本を漁るように読んだことを覚えています。このルターとの出会いがなければ、信仰的自覚、信仰的成長、信仰的確信もなかったかもしれませんし、何より今現在ルーテル教会の牧師としてここに立っていることもなかったでしょう。もちろん、これ以外にも様々な出会いがあった訳ですが、そういった出会いが意図せずに人生を変えることになったことを深く思います。
先ほどは、私自身の特に三つの出会いを例として出させていただきましたが、出会いには大きく分けると二種類あるように思います。一つは偶然、たまたま、と言えるものです。前述の中学時代の先生にしろ、神学校時代の学友にしろ、たまたま同じ時期、同じ場所にいたからこそ生まれた出会いでしょう。場合によっては、すれ違うことだってあった。確かにそうなのですが、しかし、信仰の目で見れば違った景色も見えて来るように思います。それもまた、神さまが意図されたことなのだと。私の必要のために備えてくださった出会いなのだと。私は、そう思っています。
そして、もう一つは、誰かを媒介とした出会いです。私の場合は、前述のルターとの出会いがそうでしょう。その授業の先生が何らかの意図をもってその本を紹介してくれたお陰で、私はそれと出会うことができまし
た。たまたま、私自身はその先生の意図以上にルターとの出会いにハマってしまい決定的な意味を持つようになった訳ですが、そのような仲介がなければ出会うことがなかったのかもしれません。そういう意味では先生には本当に感謝しています。そのように、そんな偶然(神さまからすれば必然?)と仲介によって私たちは多くの出会いをしてきたはずです。
Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Philip:フィリポ:部分※手で自分を指している図 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Nathanael ( Bartholomaenus ):※左端部分 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
主の洗礼主日礼拝
聖書箇所:マルコによる福音書1章4~11節
本日は、主の洗礼を覚える主の日の礼拝です。ですので、ご一緒に、改めてイエスさまが洗礼を受けられた意味を、また私たちの洗礼の意味を考えていきたいと思っています。
その前に、本日与えられました第一の朗読、創世記1章1節以下の言葉にも思いを向けていきたいと思います。このみ言葉が、この新しい年のはじまりに与えられているということは幸いなことだと思っているからです。
ご承知のように、先週(7日に)一都三県に緊急事態宣言が出されました。東京においては、連日2000人を超える新規感染者数が出ています。予想をはるかに超えた急激な広がりです。個人的には、第一派のときに言われていた「ファクターX」などともう言え
なくなってきているほど、深刻な状況になっているようにも感じています。本来ならば、明るく希望に満ちているはずの年のはじめなのに、今年は、このような重苦しい雰囲気の中ではじめなければなりませんでした。
創世記の創造物語を、たわいもない神話のたぐいやおとぎ話のように受け止めておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、この創造物語こそがキリスト教信仰の根幹をなしていると信じています。だからといって、必ずしも字義通りに受け取ることを要求しているのではありません。そうではなくて、この世界を造られた方がおられる、その方を信じる、ということです。それが、私たちの信仰の一丁目一番地ではないか、そう思っているからです。
この創造主なる神さまは、闇に光をもたらされる方です。何よりも、闇の中に、そのただ中に光を生み出す、創造される方なのです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あ
れ。』こうして、光があった」。神さまは初めに「光」を創造されました。しかも、言葉によって。「『光あれ。』こうして、光があった」。
キリスト教は「ことばの宗教」とも言われたりいたします。言葉を…、聖書のことば、またその解き明かしである説教を大切にしているからです。また、その言葉の力を信じている。
言葉には力があります。それは何も、聖書の理解だけではありません。古来から日本にも「言霊」といった理解がありました。言葉には力、霊力が宿っていると考えられてきた。発せられた言葉が、現実を動かす、影響を与えると信じられてきたのです。ですか
ら、むやみやたらなことは言えなかったわけです。特に呪いの言葉などは…。本当にそうなってしまうことを恐れたからです。現代では、そういう意味ではあまりに言葉の力が軽んじられているのかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。不用意なSNS上の
誹謗中傷で、大切な一人のいのちが奪われてしまうことだってある。
新年早々、アメリカから驚くようなニュースが飛び込んできました。トランプ支持者たちが連邦議会を襲撃したというのです。よくよくそのニュースを聞くと、大統領自身ワシントンに集まっていた支持者たちを煽るような発言をしていたとか。トランプさんは、まさかそのようなことになるとは思いもしなかったかもしれませんが、この歴史的汚点とも言われる事件に対して、自分には責任がないかのような発言に呆れてしまいました。
言葉に力がなくなってしまったのではありません。その言葉に責任を取らなくなってしまったからこそ、言葉が軽んじられるようになったのです。それは、日本の政治家たちもそうでしょう。難しい舵取りだということは誰もが理解しているはずです。しかし、その言葉はあまりに他人事のように聞こえてしまう。言葉に責任を持つということは、自分の発した言葉にしがみつくことでも、無理強いすることではないはずです。立ち止まって考えてみること、吟味すること、反省すること、時にはきちんと謝罪すること。そうではないでしょうか。ともかく、神さまの言葉は責任を取られるからこそ力強いのです。語られた言葉は必ず成る。闇の中に光を生み出されたように。私たちはこの一年をはじめるにあたって、もう一度この神さまの言葉の力に信仰の目を向けていきたいと思います。
イエスさまはなぜ悔い改めを説いていた洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか。私たちのためです。私たちのために、罪のないイエスさまは罪の赦しを与える洗礼を受けられたのです。私たちと同じ、私たちの一員となるために。私たちの仲間となるために。私たちの友となるために。そして、この私たちをも神の子とするために。パウロもこう書いています。ガラテヤの信徒への手紙3章26節。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。
ところで、このマルコ福音書では、イエスさまの洗礼の出来事についても御多分に洩れず非常に簡素に記されていますが、しかし、このマルコならではの特徴も見られます。それは、洗礼を受けられた後での出来事ですが、「天が裂けて」と記されているからです。
後で並行箇所と見比べていただければと思いますが、マタイもルカも「天が開け」といった表現がなされています。天が開かれる。あたかも一面黒い雲に覆われ閉じられていた空が開かれて、天からの光が差し込んでくるような、神秘的で、穏やかな、そして神々しい光景を想像いたします。それに引き換え、「天が裂け」るとは、なんと荒々しい表現か。
あたかも、無理矢理に、強引にこじ開けるような、そんな荒々しい激烈な印象を受けるのです。そして、それこそが重要なのではないか、と私は思っています。
先ほどは、なぜイエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか、と言えば、それは私たちのためであった、と言いました。しかし、それは、決して、洗礼の出来事に限らないはずです。イエスさまの誕生からその生涯、また死と復活においても、すべてが私たちのためです。そして、この私たちのために、というのは、神さまにとっても、けっして楽な、安易なことではなかったはずなのです。私たちのために生まれ、私たちと同じ罪人の仲間となり、私たちを罪から救うために十字架に死に、私たちを神の子とされる。神さまにとっても、それらは決してスマートに、かっこよくできるものではなかった。
まさに、自分自身の身が引き裂かれるような思いで、自分の世界が引き裂かれ壊されるような思いで、それまでの私たちとの隔てられた関係を引き裂くような思いで、厳しく、辛く、苦しく、激烈で、本来ありえない、無理やりにとしか思えない強引な方法で、まさに神の子を、ご自分の愛するひとり子を十字架にかけるという方法でしか実現しえなかったことだったからではないか、そう思うからです。
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子
開会の部
前 奏 主キリスト、神のひとり子 H.シャイデマン
初めの歌 教会60 ( 父なる神の )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
天の父なる神さま。
あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで「わたしの愛する子」と言われました。
み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 創世記1:1-5 ( 旧約 1頁 )
第2の朗読 使徒言行録19:1-7( 新約 251頁 )
ハレルヤ唱 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書1:4-11 ( 新約 61頁 )
みことばの歌 教会182 ( 主の造りましし )
説 教 「 その時、天は裂けた 」 浅野直樹 牧師
感謝の歌 教会322 ( 主なるイェスは )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会402( うれしき恵みよ )
後 奏 キリスト、われわれの主はヨルダンに来た J.S.バッハ
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 小山 茂
奏 楽 小山 泉
開会の部
前 奏 「天のかなたから」J.S. バッハ
初めの歌 教会49(1~2節) ( あたらしいとしを )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)
特別の祈り
全能の神さま。
あなたはみ子をイエスと名付け、私たちの救いのしるしとされました。
すべての人の心に救い主への愛を植え付けてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈(いの)ります。
第1の朗読 エレミヤ書31:7-14 ( 旧約 1234頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙1:3-14( 新約 352頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書1:1-18 ( 新約 163頁 )
みことばの歌 教会272 ( 主なるかみをたたえ )
説 教 「 言葉を受け、神の子となる 」 小山 茂 牧師
感謝の歌 教会34(1~2節) ( われいままぶねの )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 教会307( まぶねのなかに )
後 奏 「神の子はきませり」J.S.バッハ
降誕節第2主日 礼拝
ヨハネによる福音書1:1-18
序 新年おめでとう
新年あけまして、おめでとうございます。昨年は新型コロナウィルスに翻弄された一年でした。日本国内だけでなく世界中の国々が、コロナ禍に巻き込まれ、どう対応したらいいのか分からずに、右往左往して今日に至っています。私たちが当たり前のように享受してきたものが、どれほどありがたいものであったか、あらためて認識をさせられました。私たちが生きていく上で何が大切なのか、どこに価値を見出したらいいのか、考えさせられた一年でした。そして、今年こそは落ち着いた生き方ができる年であってほしいと、心から祈っています。
先ほど歌いました讃美歌は、新年に神をほめたたえる49番を選びました。作詞は江口武憲牧師(江口再起先生のお父上です)、作曲は山田実先生(ルーテル神学校の聖歌隊を指導された)、お二人により作られたものです。1月最初の礼拝にこの賛美歌を歌って、主に向き合う気持ちを新たにされます。新年に欠かせない教会讃美歌です。また教団の讃美歌21にも載せられて、多くの方々にも歌われています。
2 言葉と神と主イエス
ヨハネ福音書の書かれた目的が、20章30~31節に記されています。「イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」共観福音書と呼ばれる、マタイ・マルコ・ルカ、その後に書かれたのがヨハネ福音書です。
降誕節第一主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ルカによる福音書2章22~40節
今年も残すところ後わずかとなりましたが、この一年は新型コロナの影響で、誰もが不安の中を歩んで来た、そんな一年ではなかったかと思います。新しい年は、そんな不安も払拭されて、穏やかな一年となればと心から願っています。
誰もが…、そう一人残らず全ての人、誰もが安心して生きられる。これは、一つの理想の世界、幸福な世界なのではないか、と思います。しかし、もう少し考えを進めてまいりますと、誰もが安心して死を迎えることができる、自分の人生の幕を閉じていくことができるのも、また、幸福な世界なのではないか。そうも思うのです。もちろん、それは、「死んで良い」ということではありません。人生の半ばで、志半ばで、死を迎えなければならないということは辛いことですし、年端もいかない子どもたちとの死別はできれば避けたいことですし、自ら死を選ぶしかないという現実というのもあってはならないこと、非常に残念なことです。もちろん、まずは「生きる」ということが大切なのです。
降誕節第一主日礼拝
司式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説教 浅野 直樹
奏楽 小山 泉 10:30
前奏 「 薔薇は咲きいでぬ 」による前奏曲 J.Brahms (着席)
初めの歌 教会16 ( 時は満てり )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
-特別の祈り-
全能の神さま。
あなたは人を造られました。救いのみ業によって、それをさらに輝かしい姿に
されます。
人となられたイエス・キリストによって、私たちをあなたのいのちに
生きる者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 イザヤ書 61:10-62:3(旧約 1162頁)
第2の朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4:4-7(新約 347頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 2:22-40(新約 103頁)
みことばの歌 教会38 (子の生まれた)
説教 「私の目は救いを見た」 浅野直樹牧師
感謝の歌 教会39 (マリヤの腕に)
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会343( たかくあげよ )
後奏 「 諸人こぞりて 」による後奏曲 北澤 憩
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 上村 朋子
前奏 キリストを私達は讃えよう J.S. Bach
初めの歌 教会 1( いまこそ来ませ )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
全能の神さま。
あなたは世界の贖い主、み子イエスによってご自分を顕されました。
人の子となられたみ子によって、罪に縛られた私)たちを解放してください。
あなたは父と聖霊と共にひとりの神であって、今もまた、永遠に生きて治められます。
福音書の朗読 ルカによる福音書 1:26-38( 新約 100頁 )
みことばの歌 教会14 ( わが心は )
説 教 「 驚きの知らせ 」 浅野 直樹 牧師
信仰の告白 ニケア信条
洗礼式 ( 第三部のみ )
転入会式( 第三部のみ )
奉献の部
聖餐の部
派遣の歌 教会 37( きよしこの夜 )
後 奏 イエス キリストよ、汝を崇めまつらん H.Chemin-Petit
2020年12月20日 待降節第四(降誕)主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書1章26~38節
これは毎年お話していることのようにも思いますが、今日は教会の暦としては待降節の第四主日になりますが、私たちのこの日本では、社会的な事情から大方のプロテスタント教会ではこの第四主日の日曜日にクリスマスを祝う礼拝をしている実情がある訳です。ですので、与えられた聖書の言葉(日課)も、なんだかクリスマスっぽくない感じがするのかもしれません。しかし、私は、こう思うのです。これこそ、クリスマスに相応しいみ言葉ではないか、と。
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 萩森 英明
開会の部( 式文A 1〜4頁 )
前 奏 「われいかに汝を迎えまつるべき」 J. G. Walther
初めの歌 教会 3( よろこべ主イエスは )
罪の告白
キリエ 待降節はキリエ(二)になります。グロリアは省略します。
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )
特別の祈り
全能の神さま。
あなたは洗礼者ヨハネによって、み子の来臨を告げ、その道を備えられました。
私たちにご計画を悟る知恵と、み旨を聞く耳を与えてください。
そして、キリストの来臨を語り伝え、その道を備える者にしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、今もまた、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 イザヤ書 61:1-4,8-11( 旧約 1162頁 )
【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は3番を全員で歌います)
主を待ち望むアドヴェント、第三のろうそく ともそう。
主の恵み 照り輝き、暗闇を照らす。
第2の朗読 テサロニケの信徒への手紙一5:16-24( 新約 379頁 )
詠 歌
全)キリストは おのれをひくくして、死にいたるまで、
しかも、十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 1:6-8、19-28( 新約 163頁 )
みことばのうた 教会 6( やすかれわがたみ )
説 教 「 証する者 」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会 34( われいままぶねの )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 教会 485( わが主よわれらに )
後 奏 「われいかに汝を迎えまつるべき」J. G. Walther
待降節第三主日礼拝
聖書箇所:ヨハネによる福音書1章6~8、19~28節
今週の福音書の日課も、洗礼者ヨハネの物語が取り上げられていました。その洗礼者ヨハネについて、ヨハネ福音書ではこのように記されています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。ここにありますように、このヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネとは「光」について証しをする者といった理解です。では、その「光」とは、一体どんなものか。
神の子羊 : Ecce Agnus Dei 1462~64: ディルク・ボウツ : Dieric Bouts アルテ・ピナコテーク バイエルン州立絵画コレクション Bavarian State Painting Collections
待降節第二主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書1章1~8節
待降節第二主日であります本日の福音書の日課は、マルコによる福音書1章1節からは じまっています。 ご存知のように、このマルコによる福音書には、直接的なクリスマスの出来事に関する 記事は記されておりません。クリスマスの物語といえば、マタイによる福音書とルカによ る福音書の二つに負っていると言って良いでしょう。
もっとも、ヨハネによる福音書に は、抽象的ではありますが、クリスマス…、つまりイエス・キリストの御降誕について、 神の「ことば」であられる、また「命」そのものであり、「人間を照らす光」であられる イエス・キリストの到来について、非常に印象深く記されていますので、このクリスマス の季節にも度々読まれたりいたします。そういう意味では、福音書の中でもこのマルコに よる福音書は、クリスマスの時期には蚊帳の外に置かれていると言えるのかもしれませ ん。
しかし、そのマルコ福音書は、このように書き始めています。「神の子イエス・キリ ストの福音の初め」。なんと印象深く力強い言葉でしょうか。確かに、このマルコ福音書 のは、クリスマスの物語は登場してこないのかもしれません。ヨハネ福音書のように、イ エス・キリストの到来についての心とらえるような美しい言葉も語られていないのかもし れない。しかし、このマルコによる福音書は、まさしく「福音書」なのです。イエス・キ リストによってもたらされた喜ばしき知らせの書なのです。イエス・キリストは確かに、 この世界に来られた。
たとえ、クリスマスの華やかな心躍るような物語がないとしても、 私たち人類を救うために、私たちによき知らせを告げるために、イエス・キリストは私た ちの只中にお生まれになった。その事実は、このマルコ福音書においても変わらないので す。そういう意味でも、今朝、このイエス・キリストの御降誕を待ち望む待降節に読まれ るのに、相応しいと言えるのではないでしょうか。 確かに、そうです。ここから、イエス・キリストの喜ばしき知らせの物語がはじまって いくのです。しかし、ここではたと私たちは歩みを止めてしまうのかもしれません。
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 中山 康子
開会の部( 式文A 1〜4頁 )
前 奏 教会讃美歌4番による前奏曲 G.F. カウフマン
初めの歌 教会 4( 主はわがのぞみ )
罪の告白
キリエ 待降節はキリエ(二)になります。グロリアは省略します。
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )
特別の祈り
主よ。
私たちの心を奮い立たせ、御独り子の道を備えさせてください。
み子の来臨によって、悩み多い世の旅路を照らし、導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 イザヤ書 40:1-11( 旧約 1123頁 )
【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は2番を全員で歌います)
第2の朗読 ペトロの手紙二 3:8-15a( 新約 439頁 )
詠 歌
全)キリストは おのれをひくくして、死にいたるまで、
しかも、十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。
福音書の朗読 マルコによる福音書 1:1-8( 新約 61頁 )
みことばのうた 教会 11( ともしびともせ )
説 教 「 神の子イエス・キリストの福音の初め 」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会 303( このままわれを愛し召したもぅ )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 教会 499( 神にまし王にます )
後 奏 教会讃美歌499番による後奏曲 北澤 憩
2020年11月29日 待降節第一主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書12章24~37節
今日からアドヴェント・待降節がはじまります。何度もお話しして来ましたように、教会の暦としては、このアドヴェント・待降節から新しい一年がはじまっていくことになります。これまで何週間か、「終末(世界の終わり)」について考えて来ました。それは、ちょっと重苦しい内容…、̶̶死といったことも取り上げて来ましたので̶̶だったと思います。それは、この一年の終わりに際して、「終わり」(世界の、あるいは自分自身の)について考えてみよう、ということだったのでしょう。
そんな重苦しい「終わり」の季節も終わり、ようやく今日から新しい一年がはじまっていくことになる。しばらく続いた「終末」といったちょっとおっかなびっくりのトンネルを抜けて、ようやく晴れやかな気持ちで一年をはじめることができる、と思いきや、なんと、もう皆さんもお気づきだと思いますが、今日の、この一年最初の日課も、終末に関する記事が取り上げられていました。ちょっと話が違うではないか、と言いたくもなります。しかも、今日から待降節です。クリスマスという喜びに満ちた時に向かって行くはずなのに…。
実は、待降節は、もう何度もお聞きになられて来たと思いますが、イエス・キリストの降誕・誕生を待ち望む時、という意味だけではありません。キリストの再臨を待ち望む時でもある訳です。そして、これもこれまで何度もお話しして来たことですが、キリストの再臨と終末はセットで考えるべきですから、この待降節に終末のテキストが取り上げられているということでしょう。
今日の第一の朗読の中でこんな言葉が出てまいりました。「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって わたしたちはとこしえに救われます」。素晴らしい言葉だと思います。聖書の歴史は「救済史」と言われます。救いの歴史です。私たち人類が罪を犯してから、どうしようもなく道を踏み外してしまうようになってから、神さまは常に私たちを救おうと動かれて来た。歴史に働きかけてこられた。時には厳しい叱責の言葉で、時にはいたわりの言葉で、立ち返るように立ち返るようにと、罪から離れ命を得るようにと、私たち人類の側が必死に救いを求めて来たのではない、神さまの方が必死に私たちを、人類を救おうと欲してこられた。それが、私たち人類の歴史であると聖書は語ります。まさに、その通りだと思います。
そして、そんな神さまの思い、救いの完成の時こそが、終わりのとき、最後に結論が出される時、イエスさまが裁き主として、救い主として再び来られる時、つまり、再臨の時なのです。ですから、以前もお話ししましたように、「終末」とは、一方では裁きを伴う恐ろしい時であると同時に、神さまの恵みの中に生きる者にとっては、救いが完成される、まさに喜びの時と受け止められて来たのです。
ですから、そこに希望がある。今は辛く、厳しい時代の中にあるとしても、一寸先は闇としか思えないような現実のただ中にあるとしても、いずれ、その時が来る。救われる時が、救いの完成の時が、必ずやってくる。だから、希望を持つことができる。希望に生きることができる。希望を見失わずに済む。そのように、数え切れないほどの先輩・先達たちが生きてこられた。希望を胸に抱いて生き、そして眠りにつくことができた。その希望を、この一年のはじめにあたり、もう一度私たち自身も心新たに刻んで行く必要があると思うのです。
今年は新型コロナの感染という途方も無い出来事に私たちは遭遇しました。そして、おそらく、来年になっても、簡単には消え去ってはくれないでしょう。もちろん、大変な出来事です。これで苦しんでいる人々も多い。仕事を失い、生活に困り、将来を見通せず、生きる力を失ってしまっている人々も決して少なくない。今回のそのような問題は、特に経済的な面が非常に色濃く出ていると思います。そういう意味では、国や地方自治体の指導者たちに、早急に具体的な対策を講じて欲しいと切に願っています。
場合によっては̶̶緊急事態です̶̶少し余裕のある人々から臨時に税金を取り立てても良いのではないか、と個人的には思っています。そういった分配に必要な基金に、私自身わずかかもしれませんが出したいとも思っている。手厚い援助をしていただきたいと心から願っています。簡単なことが言えないことは重々承知しているつもりですが、また精神論で片付けるつもりも毛頭ないのですが、それでも、人生とは、世界とは、そういうものでもあるのではないか、とも思うのです。良いことばかりではない。辛いこと、うまくいかないこと、苦しいことも織り込み済みなのが人生なのではないか、と。
私は最近、キルケゴールという人について書かれている本を読みました。私にとっては、非常に難解で分からないところも多々あったのですが、その中でキルケゴールの思想について、このように解説されているところがありました。「実存的な姿勢こそがそれである̶̶これがキルケゴールが与える答えである。永遠性から切り離され、時のうちに有限にして儚く生きるしかないという自己の否定的な現実を、とことん直視し、それを忘れることも誤魔化すこともせず、さらに人畜無害化することも技巧的に解釈することもせず、もちろん美化することもせず、それと真っ向から向き合い対決すること、たとえそれによって絶望が深まるばかりであるとしても、そうすることだ」。
このキルケゴールは実存哲学の先駆者と言われる人ですが、彼にとっての実存は有限で儚い存在でしかないといった否定的な理解だ、と言います。そして、むしろ、その現実を誤魔化さずに直視することこそが、たとえそれによって「絶望が深まる」としても、人が生きる、ということではないか、と問う。そして、彼はこんな言葉も残しています。「キリスト者は戦いのもとに、疑いのもとに、痛みのもとに、否定的なもののもとにとどまるのではない。そうではなく、勝利を、確信を、至福を、肯定的なものを享受するのである」。自分にも世界にも絶望するしかないのかもしれない。
しかし、それゆえに神さまに向かうことによって自らの内にはないありとあらゆるもの、彼の言い方で言えば勝利、確信、至福、肯定的なものを逆に手に入れることになる。そんなふうに言っているように思います。そして、それは、再臨の希望にも相通づるものになるのではないか、と思うのです。今は見えなくとも、今は感じられなくとも、今はそうは思えなくとも、必ず救いは完成する。なぜならば、それがイエスさまの約束だから。そのためにこそ、イエスさまは再び私たちの元に来られて、私たちと顔と顔とを合わせるように会ってくださるのだから。
今日の福音書では目を覚ましていることが求められていました。では、逆に、私たちはどういったときに眠り込んでしまうのか。もちろん、自然な眠気に襲われる時もあるでしょう。それは、私たち自身が本来的に持っている「弱さ」と言っても良いのかもしれない。しかし、意図的に、といったこともあるはずです。まず第一に、目を覚ましている必要性を感じない、ということでしょう。それは、救われる必要性を感じない、ということかもしれない。あるいは、現実逃避的に眠りに逃げてしまうことだってあるのかもしれない。
信仰していたって、祈ったって現実は何も変わらないのだ、と。そうではないはずです。それがいつかは私たちには知らされていませんが、イエスさまは必ず私たちのもとにやって来られます。救いの完成をたずさえて。そのことを信じて、この年をはじめていきたいと思います。
祈り
・先週、26日に敬愛する兄が92年のご生涯を終えて、あなたの元に召されて行かれました。生前与えられたあなたにあるお交わりに、心より感謝いたします。この新型コロナの流行もあって、28日にご家族のみでご葬儀を行いましたが、どうぞ、ご家族の上に、豊かな慰めと励まし、また、あなたにある希望をお与えくださいますようにお願いいたします。また、私たちも、兄との再会を胸に刻みながら信仰の歩みを全うすることができますようにもお導きください。
・今日からアドヴェント・待降節を迎えましたが、この日本においても新型コロナの感染拡大が収まりません。医療の現場も相当逼迫し、疲弊していると聞きます。どうぞ、憐れんでください。感染予防には、一人一人の意識と行動が物を言うのでしょう。どうぞ、もう一度気を引き締めて、特に重症化しやすいご高齢の方々に感染が広がっていかないような工夫をしていくことができますように、どうぞお助けください。
一方で経済を止めることによって、多くの方々が生活に困難を覚えておられます。国や地方自治体などには、それらの方々に対する対策を早急のうちに行えるようにお導きくださいますようお願いいたします。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
待降節第一主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子
前奏 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ J.S.バッハ
初めの歌 教会5( 来たりませ主イェスよ )
罪の告白
キリエ 待降節はキリエ(二)になります。グロリアは省略します。
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )
— 特別の祈り–
主キリストよ。力を奮って来てください。
み力によって私たちを守り、罪の危険から救ってください。
あなたは父と聖霊と共にひとりの神であって、今もまた永遠にも生きて治められます。
第1の朗読 イザヤ書 63:19-64:8( 旧約 1165頁 )
【21】242(主を待ち望むアドヴェント)(本日は1番を全員で歌います)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙第一 1:3-9( 新約 299頁 )
詠 歌
全)キリストは おのれをひくくして、死にいたるまで、
しかも、十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。
福音書の朗読 マルコによる福音書 13:24-37( 新約 89頁 )
みことばのうた 教会7( 道をそなえよ )
説教 「 救いの時は近づいている 」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会206( 来ませかがやく )
信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会413( 苦しみ悩みの )
後奏 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ c.Piutti
聖霊降臨後最終主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 上村 朋子
前 奏 王なる主をほめまつれ F. Zipp
初めの歌 教会172( つくりぬしを )
罪の告白
キリエ・グロリア
———————
特別の祈り
み子を遣わされた主なる神さま。
教会の交わりを通して、贖われたすべての人々と共に、
私たちを花婿のように、永遠のみ国へ迎え入れてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、
永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
———————
第1の朗読 エゼキエル書 34:11-16、20-24( 旧約 1352頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 1:15-23( 新約 352頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 マタイによる福音書 25:31-46( 新約 50頁 )
みことばのうた 教会139( よろこびむかえよ )
説教 「 報われる時 」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会388( とうとき血をもて )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 教会404( わが手をかたく )
後 奏 我らが悩みのきわみにあるとき M. Jacobi
聖霊降臨後最終主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書25章31~46節
このところ何週間か「終末(世界の終わり)」についてお話をしてきました。そして、今日は教会の暦としては今年最後の日、聖霊降臨後最終主日となりましたので、まさに日課も「終末」ということが取り上げられている訳です。ある方が言っておられますように、「終末」とは世界に結論が出される時です。
総決算の日…。もちろん、これまでも度々取り上げてきましたのように、私たち個々人の終わりについても言えることでしょう。ですから、不安にもなる。なぜならば、及第点をもらえるような人生だったかどうかが問われることにもなるからです。果たして自分はどうだったのか、と。今日の日課においても、そんな終わりに際しての「結論」が記されているように思います。これも、ここ一二週間お話ししてきたことですが、この「終末」ということと「キリストの再臨」とはセットで考えるべきです。
ここに、キリスト教特有の「終わり」の意味が見えてくることになる。イエスさま抜きに終わりは考えられないということです。繰り返しますが、これは世界の終わりだけのことではありません。私たちの終わりについても言えることです。イエスさまの存在とセットで終わりを受け止めるのとそうでないとでは雲泥の差が生じるからです。ここでのイエスさまは「裁き主」として登場しておられることも見落としてはならないでしょう。
Jesus separating people at the Last Judgement in Fra Angelico’s The Last Judgement, c.1431 Collection :Museum of San Marco
聖霊降臨後第24主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書25章14~30節
先週は終末…、つまり世界の終わりについてお話をしました。それは、年の終わりに差
し掛かり、聖書のテキストが終末に関するものが取り上げられるようになったからです。
今日のよく知られた譬え話もそうです。
このマタイ福音書の24章と25章には終末に関する記事が集められていますし、この譬え話の中にも主人の不在と帰還について語られているからです。つまり、イエス・キリストの再臨ということです。先週もお話ししましたように、この終末という出来事とキリストの再臨とはセットで考えるべきものです。この譬え話も、その視点で考えなければなりません。
確かにそうなのですが、世界の終わりと言われても、正直、私たちはピンとこないのかもしれません。もっとも、環境破壊や核兵器などの現実を見ると、いずれは…、といった思いが浮かばない訳ではありませんが…。
しかし、これは幸いなことでもあるのでしょうが、今にも、といった危機感はないでしょう。むしろ、私たちにとっての身近な終末・終わりについての関心事と言えば「死」の問題、人生の終わり、ということではないでしょうか。いずれにしましても、キリスト教の歴史観では…、これは何も仰々しくキリスト教の歴史観などと言わなくとも私たちの実感でもあると思いますが、昨日よりは今日、今日よりは明日と終わりに近づいているのは、終わりへと向かっているのは確かなことだと思うのです。
そこで、先週は「備え」が大切である、ということをお話ししたと思います。いざという時に対しての備え。それがあるかないかで結果が全然違ってきてしまうからです。
しかし、それは、生き方を問うことにもなると思います。どんな生き方をしてきたか。それが、結局は備えてきたかどうか、ということにも繋がっていくからです。そして、今日のこの譬え話は、そんな「生き方」ということにポイントが置かれているようにも思います。
「生き方」への問いと言えば、充実した生き方をしてきたか、一所懸命に生きてきたか、
後悔のない生き方をしてきたか、などといった思いがすぐにでも浮かんできますが、聖書
が問う「生き方」とは、果たしてそういったものなのでしょうか。
今日の譬え話の中には、3人の人が登場してきます。いずれも、ある同一の主人に仕える僕です。「僕」と聞きますと、下僕などあまり良いイメージが持てないかもしれませんが、ここで預けられた金額をみてみますと、かなり信頼されていた、重用されていた僕ではなかったか、と思います。一番少ない金額を預かった僕でも1タラントン、つまり6000日分の賃金に相当する額ということになるからです。
単純に一日の労賃を1万円とすると…、いくらくらいになるかはお分かりでしょう。そんな金額を預ける訳ですから、いくら気前の良い主人であったとしても、いい加減な人間には預けられなかったことでしょう。ということは、金額の差はあったとしても、この3人は主人に一目置かれていた存在だったのではないか、と想像できます。
ここで聖書は率直に個人差が生まれることを語ります。皆が同じ力量な訳ではない。これは、私たちがよくよく感じるところです。場合によってはその差が嫉妬にもなる。しかし、考えて見てください。確かに、5タラントンの人に比べて1タラントンの人は5分の1もの開きがあります。しかし、そもそもこれらの人々は「僕」なのです。預かったお金は決して自分のものではない。
このタラントンといった単位はタレントの語源ともなったと言われますが、そもそも自分の能力ということではなかったはずです。このことを考える時、あのヨブの言葉を思い出します。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」。全てが神さまから授かったもの。しかも、神さまは私たちを信頼してくださり、分不相応なくらいに手厚く賜物を与えてくださっている。
ならば、多い少ないと心騒がせるよりも、感謝しつつそれをどのように用いるかが大切になってくることが分かるはずです。もちろん、これらの人々は私たちを代表しています。それ以外の姿…、例えば全く「0」の人は描かれていないことにも心を留める必要があるでしょう。いずれにしても必ず賜物は与えられているのです。
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 小山 泉
前 奏 ただ御神のみ 委ねまつる者は J.S.バッハ
初めの歌 こどもさんびか 5-3節
(本日はこの部分でこども祝福式を行います。)
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
=特別の祈り=
主イエスよ。あなたは幼子をみ許に招き、彼らを祝福し、神の国を約束されました。
今、ここに集う子どもたちを顧み、あなたの愛する子どもとして成長し、彼らが実り
豊かな人生を送ることができるように祝福してください。
またこの子どもたちを祝福し、家族を永遠の喜びに導いてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読 ゼファニヤ書 1:7,12-18( 旧約 1470頁 )
第2の朗読 テサロニケの信徒への手紙第一5:1-11( 新約 378頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 25:14—30( 新約 49頁 )
みことばのうた 教会239( ひととなりたる )
説 教 「 動機はなあに?」 浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会413( 苦しみ悩みの )
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会470( 心いたみ悩むもの )
後 奏 退堂曲 二長調 C.フランク