次週説教

【音声&テキスト】4月5日(日)10:30 説 教:「あなたのために捨てられた 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:マタイによる福音書27章11~54節

ご承知のように、本日は「枝の主日」、または「受難主日」…、つまり、今日から「受難週」という一週間がはじまってまいります。

新型コロナウイルスの感染拡大のために、先週からこのような礼拝のあり方になってしまいましたが、今週金曜日のイエスさまの十字架を思う「聖金曜日礼拝」も行うことができなくなりました。そればかりか、ギリギリまでなんとか知恵を絞って復活祭の礼拝を共に…、とも考えてまいりましたが、こちらも断念せざるを得ない状況です。そんな中にあっても、ぜひ皆さんと心を合わせて、その場その場でイエスさまのご受難に思いを向け、復活の喜びに満たされていきたいと願っております。



イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。ひとりの人の死であっても、私たちに大きなインパクト(衝撃、影響)をもたらすものです。

先日、残念ながらコメディアンの志村けんさんが新型コロナウイルスによる肺炎ためにお亡くなりになられました。まだ70歳でした。この知らせは、日本中の多くの人々に深い悲しみを与えました。私も、その一人です。個人的には、ザ・ドリフターズの中では加藤茶のファンでしたが、それでも、小学生の時は「8時だよ!全員集合」を楽しみにし、加藤茶との掛け合いに笑い転げていました。クラスの男子は全員、『カラスの勝手でしょ』を歌い『ヒゲダンス』を踊っていたと記憶しています。もう随分と昔の出来事となってしまいましたが、小学時代の楽しい思い出の一つです。その志村けんさんが死んでしまった。

しかし、その「死」で社会の空気が一気に変わった、と言われます。新型コロナウイルス騒動にもどこか慣れてしまい、自粛疲れか、若者を中心に、危機意識が希薄になっていた、と言われます。自分は大丈夫だろう、罹ったとしても軽症で済むらしいから平気だ。多くの若者たちがそう思い、町に繰り出すようになっていた。しかし、志村けんさんの死の知らせで、若者たちの意識も随分と変わりました。ある若い女性がインタビューにこのように答えていたのが印象的でした。
「今まではどことなく他人事だと思っていた。しかし、よく知っている人が死んでしまったことによって、この感染症の恐ろしさが身近に感じられるようになった。これからは、もっと注意をしていきたい」。そんなことを話されていました。

また、ご遺族の方々も、この「死」をぜひとも教訓にしてほしい。故人もきっとそれを願っている。そんなことをおっしゃっておられた…。
ひとりの人の死の影響力は、何も著名人だけに限りません。私たちもまた、いろいろな身近な「死」に立ち会い、触れて、大きな、あるいは決定的な影響を与えられてきたのだと思います。祖父母の死によって、父親の死、母親の死によって、あるいは、夫の死、妻の死、兄弟姉妹の死、優しくしてくれた叔父さん叔母さんの死、息子の・娘の死、友の死、恩師の死…、そういった大切な、身近な人の「死」によって、私たちはいろいろなことを考えさせられてきた、気づかされてきた、思わされてきたのではなかったか…。そう思うのです。

イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。
愛した弟子に裏切られて、イエスさまは死なれました。

三年余り寝食を共にし、いつも一緒にいた、家族以上の絆で結ばれていたはずの弟子たちに見捨てられ、イエスさまは死なれました。不正な裁判のゆえに、権力者たちのねたみ、保身のためにイエスさまは死なれました。バラバ・イエスという札付きの、乱暴者の、人殺しの代わりにイエスさまは死なれました。人々から侮辱され、蔑まれ、辱められ、唾を吐きかけられて、イエスさまは死なれました。
「ユダヤ人の王」との罪状書きの元、十字架につけられてイエスさまは死なれました。

「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」との罵声の中で、イエスさまは死なれました。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」と叫ばざるを得なくなるほどに、神さまに見捨てられ、呪われて、イエスさまは死なれました。私たちのために…。なぜか。私たちが罪人だからです。

磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)



全人類が罪を犯したからです。イエスさまを十字架の死へと追いやった罪人の姿が、この私たちの中にもあるからです。そして、罪人を救うためには、この方法しかなかったからです。神さまに見捨てられ、呪われ、十字架で死ぬという以外に方法はなかった。彼らが馬鹿にしたように、十字架から降りてしまわれては、この救いは完成しなかった。パウロがロマ書で語っている通りです。(ローマの信徒への手紙8章3節)「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。

つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。「罪を罪として処断」する。「赦し」とは、罪を見逃すことでは決してありません。罪を見てみないふりをするのではないのです。そうではなくて、「罪を罪として処断」することです。罪を罪として、しっかり処断したからもう大丈夫、もうそこには罪は残っていない。そう言えるのが、言い切れるのが「赦し」なのです。それを、イエスさまは私たちの代わりにしてくださった。

だからこそ、かくも苦しい、辛い、逃げてしまいたい受難…、十字架の死を遂げられた。もちろん、その決断は、神さまにとっても、容易いものではなかったはずです。ご自分の子を殺すのです。罪のない方を殺すのです。罪のない方に、私たちの罪を担わせ、その罪に対しての怒りを、その裁きを、一心不乱にその身に注がれる。辛くないはずがない。苦しくないはずがない。痛くないはずがない。腹わたが引き裂かれるような思いで、まさに断腸の思いで、その決断をされた。なぜか。私たちを救いたいからです。罪の縄目から解放したいからです。滅びから救いだしたいからです。

私たちを愛しているからこそ、放ってはおけなかったからです。イエスさまも、まさに断腸の思いで苦しまれた。単なる概念ではなく、まさにその身を以て苦しまれた。そして、神さまもまた、その身を以て苦しまれた。愛する我が子の死という、しかも、自分の手にかけてという、あり得ない思いをもって苦しまれた。それが、十字架なのです。十字架の死なのです。イエスさまは、その十字架で、私たちのために死なれた。今日の使徒書、フィリピ書の言い方をすれば、神であることも、その命も、私たちのために捨てられた。あなたのために捨てられた。

この「死」と私たちはどう向き合ったらいいのでしょうか。この「死」から、何も感じないということがあるでしょうか。ひとりの人の死が、これほどまでに人に、私たちに影響を与えるのに、神の子の死が、救い主の死が、この私たちに、何の影響も与えないということがあるでしょうか。
イエスさまは死なれました。私たちのために、死なれました。罪人の私たちのために、その罪を一身に背負って、神さまの罰を受けて、死なれました。

 

・・・・  イザヤ書53章1~12節 ・・・・

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。


そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず その口に偽りもなかったのに その墓は神に逆らう者と共にされ富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らなげうち死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」。

私たちの罪を担い、私たちを救うために命を投げ出したのは、この人…、イエス・キリストであった。このことを、もう一度深く心に刻む、この受難週の歩みでありたいと思います。そして、その「死」の意味の大きさを、私たちのために捨てられた「いのち」の重さを、共々に噛み締めていく、そんな一週間でありたい。そう思います。

 

『祈り』

「神さま。新年度に入り、新しい歩みをはじめられる方もいらっしゃるでしょう。しかし、新型コロナウイルスの流行で予定が狂ってしまい、不安な中でのスタートとなってしまったかもしれません。どうぞ、そんなお一人お一人をお守りくださり、新たなスタートを豊かに祝してくださいますようにお願いいたします。ただでさえ環境の変化で大きなストレスを抱えておられると思いますので、心身ともにお守りくださいますようにお願いいたします。

今日から受難週がはじまり、来主日は復活祭(イースター)を迎えようとしていますが、新型コロナウイルスの流行のために、共々に礼拝堂に集うことができません。どうぞ、憐れんでください。それぞれの場所、ご自宅での礼拝を豊かに祝してくださり、私たちにとって最も大切な出来事、福音である十字架と復活を豊かに覚えることができますようにお導きください。また、日本中で、世界中で、同じような状況の中におかれている兄弟姉妹方が多くおられると思いますが、そのお一人お一人を豊かにお恵みくださいますようにお願いいたします。

新型コロナウイルスの勢いが一向に衰えません。世界のあちらこちらで医療崩壊が起こり、多くの死者が出ています。日本でも感染者が急激に増え、医療崩壊が危惧されています。どうぞ憐れんでください。本当に大変厳しい状況の中で懸命に働いておられる医療従事者の方々をどうぞ憐れんでくださり、お助けくださいますようにお願いいたします。

私たち市民一人ひとりも、医療崩壊を招かない行動をしていくことができますように、意識を高めていくことができますようにお導きください。また、治療中の方々をお守りください。重篤化しませんように。また、残念ながら命を落とされた方々のご遺族の上に、豊かな慰めをお与えください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン」

【音声・テキスト】2020年3月29日(日)10:30 礼拝説教:「涙を流されたイエス」

四旬節第5主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1~45節



ある注解書(解説書)を読んでいましたら、雨宮神父が書かれた文章ですが、非常に興味深いことが書かれていましたので、少し長いですが、そのまま引用したいと思います。

「『尊敬する』と『信じる』に違いがあるのは分かりますが、どこが違うのかあいまいだったので、国語辞典を引いてみました。すると、『尊敬』の項には、①他人の人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うこと。とあり、その用例として『政事家となりて郷里の人々に尊敬せらるるを喜ぶよりも』(花間鶯)があげられていました。
続いて『信ずる』を引くと、①物事を本当だと思う。また、信頼する。信用する。②神仏を信仰する。帰依する。とあり、その用例として『世俗の虚言(そらごと)をねんごろに信じたるもをこがましく』(徒然草)とか、『浅草観音にくらぶれば、八幡大菩薩を信ずる』(洒落本・辰巳之園)があげられていました。これで違いが明瞭になってきました。

尊敬心の根底には『人格、思想、行為などをすぐれたもの』とみなす判断があり、そのすぐれた長所を知るがゆえに『尊び敬う』という気持ちが生じます。一方、信仰心の場合には、『物事を本当だ』とする思いが根底にあり、そこから『信頼する』という全人格的な帰依が生じるのだと思います。そうであれば、『イエスを尊敬する』といえば、イエスの人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うことですから、イエスの人間性に注目していることになります。しかし、『イエスを信じる』といえば、イエスに関する出来事を本当だと思い、イエスに信頼をおき、イエスに帰依する(よりすがる)ことですから、イエスその人というよりは、イエスを通して働く神に目を向けていることになります。

今週の福音が伝えるラザロの復活の結びには、『イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた』とあります。イエスを『信じた』というのですから、彼らはイエスの人格や思想や行為そのものというよりは、神と一体であるイエスを『本当だ』と認め、イエスに信頼し、イエスを通して働く神に帰依したということです」。私自身、この文章に思うところがないわけではありませんが、それでも、非常に興味深いと思っています。イエスさまを尊敬しているだけなのか。それとも…。

今日の福音書の日課は、よく知られた「ラザロの復活物語り」です。♪「し~んだラザロがよみがええった~」と子どもの歌(子ども用の讃美歌)にも出てくる有名なお話しです。そして、25節には「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」との決定的な言葉も出てきます。

以前も言いましたように、私自身は「死の克服」ということが、聖書の最大のメッセージだと考えています。人類最大の敵にして課題である死を乗り越えることができる。罪の赦しも、永遠の命も、聖化も、このことと無縁ではないでしょう。死を打ち破ることができる。死に打ち勝つことができる。別の言い方をすれば、安心して、希望をもって死ぬことができる。それが、信仰の、聖書のメッセージ。福音…。

聖書によると、私たちの「死」には、二つの側面、理解があるように思われます。一つは、被造物ゆえの「死」です。つまり、私たちは神さまによって形造られた訳ですが、しかし、それは有限なる存在として…、神さまは永遠なる方ですから、神さまとは異なる者として(似てはいても)生み出された、ということです。そういう意味では、私たちの死というのは、ごく自然な営みでしかない、ということでしょう。人は生まれてきた以上、必ず死を迎えるのが自然なことなのです。しかし、もう一つの「死」の理解は、罪によってもたらされた、というものです。罪の結果、と言っていい。人間は確かに有限な存在と
して創造されたかもしれませんが、それは、決して永遠の生の道が閉ざされていたわけではなかったのです。

しかし、人は罪を犯した。神さまの愛を信用・信頼することができずに、罪を犯してしまった。その結果、楽園を追い出され、二度と「命の木」に近づくことが許されなくなってしまった。ご存知のように、その辺りのことは創世記の2章から3章にかけて書かれていることです。そういう意味では、こちらの「死」の問題の方がより深刻なのかもしれません。

ともかく、いずれにしましても、この「死」の問題は、私たちだけでは、私たち人類だけでは解決できないことなのです。神さまによらなければ乗り越えることのできないもの。私たちの有限性も、罪の問題も。そして、私たち人類にとって「死」は、相変わらず不安で恐ろしいものであり続けている。死の先に望みを見出せないでいるからです。その死の問題を解決してくださったのがイエス・キリストなのです。神さまから遣わされた神の御子、メシアであるイエス・キリスト。そして、そのイエスさまが死の問題を解決してくださった最も顕著な例として、今朝のラザロの復活物語りがあるのだと思います。

イエスさまには、死んだ人間を復活させる力がおありになることを公に示されたからです。神さまから遣わされたイエスさまが、ラザロの復活によって、あるいはご自分の復活によって、死の問題を打ち破る扉を開いてくださった。なぜならば、人に命を与えることが神さまの御心だったからです。人を生かすことが、人の死を望まず、来るべき世の命を与えることが神さまの御心だった。その御心を実現させるためにこそイエスさまはこの世に来られた。そういう意味では、この時のラザロの死は、御心を実現させるためには必要だったのかもしれません。

ラザロの復活イコン(15世紀ロシア)



イエスさまもこうおっしゃっておられるからです。14節「そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである』」。ラザロが病気の時点でその場に居合わせなかったことの方が良かった、と言います。もし、その場に居合わせていたら、おそらく病気を癒されたでしょうから、死人の復活という奇跡を弟子たちが体験する機会がなくなってしまったからです。

イエスさまが死の問題にさえも勝利されることを、それを信じる機会を奪われてしまったかもしれない。だから、ラザロが死んだことを「あなたがたにとってよかった」と言われている。確かに、ラザロが死んだことによって、私をはじめ、多くの人々に慰めと希望を与えたこの言葉も語られたわけです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか』」

そして、ラザロは復活した。その光景を、出来事を目撃した多くの人々が、イエスさまの栄光を、イエスさま上に確かに神さまの力が働いていることを、死人を復活させる力がおありだと言うことを、死の問題を克服することがおできになるということを、信じた。信じることができた、のです。

そうです。確かに素晴らしい福音のメッセージです。しかし、なんだか納得のいかないような思いを持ってしまうのは私だけでしょうか。確かに、それは、神さまの御心だったのかもしれない。全人類を救う希望だったのかもしれない。しかし、未知なる死へと赴かざるを得なかったラザロの思いはどうなるのか。不安と恐れの中でラザロを看取り、悲しみに打ちひしがれているマルタとマリアの思いはどうなるのか。そう思う。マルタとマリアは瀕死のラザロのためにイエスさまに来て欲しいと懇願します。

しかし、イエスさまは動かれませんでした。なお、そこに二日間留まられた、とあります。ラザロの姉妹たち
は、すぐにでも駆けつけてくれるものと期待していたのかもしれません。あるいは、たとえ遠く離れていたとしてもラザロを癒すことができると信じて、期待したのかもしれません。しかし、イエスさまは来られない。ラザロは癒されない。そして、死んでしまった。

少し冷静そうに見えるマルタと感情的になっているマリアとの違いはありますが、両者共にイエスさまを迎えてこう語ります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。無念だったと思います。私たちにも、この気持ちが痛いほど分かる。誤解を恐れずに言えば、いつだってそうだ、といった思いが私たちにはあるからです。本当に助けが必要なときにはいてくださらない。本当に求めている時には答えてくださらない。なぜ、その時、そのタイミングで助けてはくださらなかったのか。

私たち自身、そういった思いを嫌という程積み重ねてきたからです。確かに、人類の救いという大事の前では、この三人のことは小事なのかもしれません。イエスさまは大事のために、人類の救いという神さまの御心を実現するために来られたからです。それは、私たちの世界でも多く見受けられることです。

ちょっと話は違うかもしれませんが、今、私は猛烈に反省していることがあります。日々刻々と変わるニュースの中で、特に欧米で何万人の感染者、何千人の死者などの報道がなされるとき、その数字にあまりにも無感覚になっていたことに気づかされたからです。例えば、私が感染したとします。ニュース等では「1」といった数字が追加されるだけでしょう。そして、そのために死亡すれば、死者欄に「1」という数字が追加される。

しかし、少なくとも私の家族にとっては、その「1」は決して数字では表せないものだからです。それを、私は見失ってしまっていた。ともかく、ことが大きくなればなるほど、小さなこと、小事が見えなくなる、顧みられなくなるということは往往にしてあることです。しかし、イエスさまは決してそうではありませんでした。35節「イエスは涙を流された」。その前後の「心に憤りを覚え」というのは、なかなか難しいところですが、ある方は「死に対しての憤り」と解説されていましたが、ともかく、イエスさまは悲しみに暮れる人々を前にして、涙を流されました。辛かっただろう。苦しかっただろう。寂しかっただろう。不安だったろう。途方にくれただろう、と涙を流された。イエスさまは決して、大事の前だからといって小事
を無視されたり、軽んじられるような方ではないのです。ずっとラザロのことを、マルタ、マリアのことを気にかけておられた。

できれば、駆けつけて癒したい、助けたい、とも思われた。苦しませたくない、悲しませたくない、と思われた。しかし、人類の救いもイエスさまの肩にかかっていた。それもまた、その涙に含まれていたのではないか。そう思う。

イエスさまは人類の救いという使命を、何よりも大切にされておられる方です。と同時に、私たち一人一人の救いも、心の動きも大切にしてくださっている。だから、私たちは、イエスさまを尊敬するのです。イエスさまほど素晴らしい方はいないと。と同時に、私たちはイエスさまを信じる。イエスさまこそ、神さまがお送りくださった救い主なのだと。死に打ち勝つ命を与えてくださる方なのだと。そう信じる。信じてよりすがる。そうではないか、と思います。

『祈り』

神さま。新型コロナウイルスの影響で、今日からしばらく教会堂で集う礼拝ができなくなりましたが、どうぞそれぞれの所でもたれる礼拝を豊かに祝してください。

むさしの教会ばかりでなく、多くの教会でも同様の対応がとられていると思いますが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。東京都では、感染爆発の危険性が高まっていると言われています。どうぞ私たちをお守りください。私たちの家族も、地域の方々も、またことは東京都だけではありませんので、
日本中の一人一人をお守りくださいますように。感染し、治療を受けておられる方々が回復へと向かわれますようにお助けください。また、一人一人が自分が感染しないことばかりでなく、感染させないという意識をもって行動することができますようにもお導きください。

欧米では非常な拡大をみせ、一部の国では医療崩壊も起こっていると報じられています。医療資源が枯渇していく中で、世界中の感染拡大からなかなか援助の手が挙げられないのが実情でしょうが、それでも、助け合いの手が広げられますように。疲弊している医療従事者の方々をどうぞお助けくださいますように。また、ご家族を亡くされた方々の痛みに触れてくださいますようにお願いいたします。

長い戦いになりそうですが、ワクチン、治療薬の開発などが速やかに行われるようにもお導きください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

 

【週報】3月29日(日)10:30 四旬節第5主日礼拝

四旬節第5主日礼拝

前  奏

初めの歌 6(われら主をたたえまし)/  教会 175( うるわしき 救いぬし )2、4

特別の祈り

私たちの贖い主なる神さま。
私たちは弱く、み力によらなければ、世界にあなたの赦しと希望の福音を伝えることができません。みことばに従い、愛のご支配を伝えるために、聖霊によって
私たちを新しくしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1 の朗読 エゼキエル書 37:1-14( 旧約1357 頁 )

第2 の朗読 ローマの信徒への手紙 8:6-11( 新約 284 頁 )

福音書の朗読 ヨハネによる福音書 11:1-45( 新約 188 頁 )

みことばのうた 250( つみのちから )/  教会 80( みさかえあれ )1、3、5

説教「 涙を流されたイエス 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 142( さかえの主イエスの )/  教会 302( ああ罪のくさりに )1、3、5

派遣の歌 344( とらえたまえ わが身を )/ 教会388( とうとき血をもて )1、4

後  奏

【音声】3月22日(日)10:30 説 教:「 信仰の道筋 」浅野 直樹 牧師

四旬節第4主日礼拝
聖 書:サムエル上 16:1-13、エフェソ 5:8-14、ヨハネ 9:1-41
讃美歌:12(1、3)、142(1、3、5)、【21】446、270(1、4)



テキスト版はこちらから

【音声】3月15日(日)10:30  説 教:「 全てのことを教えてくださる方 」浅野 直樹 牧師

四旬節第3主日礼拝
聖 書:出エジプト 17:1-7、ローマ 5:1-11、ヨハネ 4:5-42
讃美歌:教会64、教会279、教会328、教会344



テキストでご覧のかたはこちらから

【音声】3月8日(日)10:30 説 教:「永遠の命を得る」 浅野直樹 牧師

四旬節第2主日礼拝
聖 書:創世記12:1-4a、ローマ4:1-5、13-17、ヨハネ3:1-17
讃美歌: 7、254、【21】303、536



テキストでご覧になる方はこちらから

【音声】3月1日(日)10:30 説 教:「 神の子なら、自分の力で 」小山 茂牧師

四旬節第1主日聖餐礼拝
聖 書:創世記2:15-17、3:1-17、ローマ5:12-19、マタイ4:1-11
讃美歌:教会71、240、450、266



テキストでご覧になる方はこちらから

2月23日(日)10:30 説 教:「 光り輝くイエス 」浅野直樹牧師

主の変容主日礼拝 
聖 書:出エジプト 24:12-18、II ペトロ 1:16-21、マタイ 17:1-9
讃美歌:教会167、教会148、教会397、教会370

2月16日(日)10:30 説 教:「 神さまの御心とは 」浅野直樹牧師

顕現後第6主日礼拝 
聖 書:申命記30:15-20、Ⅰコリント3:1-9、マタイ5:21-37
讃美歌:2、250、【21】505、354

2月9日(日)10:30 説 教:「 世を照らす光として 」浅野直樹牧師

顕現後第5主日聖餐礼拝 
聖 書:イザヤ58:1-9a、Ⅰコリント2:1-12、マタイ5:13-20
讃美歌:教会184、教会370、教会298、教会421

2月2日(日)10:30 説 教:「 幸いなこと 」浅野直樹牧師

教会総会主日礼拝 
聖 書:ミカ6:1−8、マタイ5:1–12
讃美歌:6、324、225

1月26日(日)10:30 説 教:「 ガリラヤ中を回って 」 浅野直樹牧師

顕現後第3主日礼拝 
聖 書:イザヤ8:23-9:3、1コリント1:10-18、マタイ4:12-23
讃美歌:教会157(1,3,5)、教会288、教会350、教会307

1月19日 10:30 説教:「見よ、あの方こそ救い主」 浅野直樹牧師

顕現後第2主日礼拝 
聖書:イザヤ49:1-7、Ⅰコリント1:1-9、ヨハネ1:29-42
賛美歌:3、262、【21】358、529

2020年1月12日 10:30 説教:「天が開かれるとき」 浅野直樹牧師

聖書:イザヤ42:1-9、使徒 10:34-43、マタイ 3:13-17
讃美歌:教会181、教会60、教会317、教会320

1月5日(日)10:30 説教:「星に導かれる道」小山茂牧師

聖書:イザヤ60:1-6、エフェソ3:1-12、マタイ2:1-12
賛美歌:教会54、教会60、教会172、教会499

2020年 11:00 元旦礼拝 説教:「新たなチャンス」浅野直樹牧師

聖書箇所:コヘレト3:1〜13、黙示録21:1〜6a、マタイ25:31〜46

讃美歌:411、234A、312、413

2月29日(日)10:30  説 教:「 悲しき現実の中に 」 浅野直樹牧師

降誕後主日礼拝

聖 書:イザヤ63:7-9、ガラテヤ 4:4-7、マタイ 2:13-23

讃美歌:2、102、【21】469、421

12月22日(日)10:30 説 教:「 神の恵みに満ちて 」石居基夫牧師

降誕主日聖餐礼拝・洗礼式 
聖 書:イザヤ7:10-16、ローマ 1:1-7、マタイ 1:18-25
讃美歌:教会1、教会26、教会34、教会37

12月15日(日)10:30 説 教:「天使の御告げ」 浅野直樹牧師

待降節第3主日礼拝 

聖 書:イザヤ7:10-14、ローマ1:1-7、マタイ1:18-23

讃美歌:3、94、【21】243、504

12月8日(日)10:30 説 教:「 心を備えて 」 浅野直樹牧師

待降節第2主日礼拝 
聖 書:イザヤ11:1-10、ローマ15:4-13、マタイ3:1-12
讃美歌:教会151、教会4、教会13、教会279