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【説教・音声版】2023年3月26日(日)10:30 四旬節第5主日 説 教「 イエスこそ信ずべきお方 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1~45節
本日は、このむさしの教会に在任中としては最後の説教となります。いわゆる、「告別説教」です。そこで与えられました日課は、これもよく知られた「ラザロの復活物語」でした。
牧師というものは、自分の信仰、信念、理解、感覚、そういったものに囚われずに、ある意味客観的にみ言葉の真理を語るように訓練されてきているものです。しかし、牧師といえども人間ですので、これまでの体験や経験などの影響が少なからず出るのも事実でしょう。いわゆる「原体験」です。私にとっての原体験、少なくとも信仰的な原体験は、「なかなか思うようにはならない」といったところだと思います。
奇しくも、今日のこの「ラザロの復活物語」にもそんな節がある。イエスさまとも親交の深かったラザロが死の病にかかっていた。これまた聖書にも何度か登場してきますラザロの姉妹たちが、イエスさまに使いを送ってそのことを知らせる訳です。聖書にははっきりとは記されていませんが、早く戻ってきてラザロを癒して欲しいと願ったのでしょう。そういった信仰が、少なくともこの家族・兄弟たちにはあった訳です。
しかし、その知らせを受けて、イエスさまはその場になおも2日間留まっていたと聖書は記します。確かに、二日後その場を後にしてラザロたちのところに戻ってきた時には、ラザロの死から4日経っていた、と言いますので、果たしてすぐに戻ってきても間に合ったかどうかは微妙なところだったと思います。しかし、イエスさまの帰りを心待ちにしていたマルタとマリアはどうだっただろうか。
少なくとも、たとえ間に合わなくても、イエスさまが急いで帰ってきてくれたことに、大いに慰められたのではなかったか。なのに、予定よりも2日も遅れてやってこられた。そのことに、二人はやるせない思いをもっていたのかも知れません。マルタもマリアもイエスさまに向かって同じ言葉を発していることからも、その気持ち・想いが伝わってきます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」。確かに、この物語の頂点はラザロの復活です。
そういう意味では、このイエスさまの言葉も正しい。「そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。』」。そうです。確かに、神さまの、イエスさまのご計画はもっと大きなもので、より多くの人々の利益に叶うものであったのかもしれません。
しかし、では、当の当事者は? 病の苦しみの中でひたすらにイエスさまの帰りを待っていたラザロは? その兄弟を看取るだけで何もできない苦しみ・痛みの中で、ただひたすらにイエスさまが間に合うことを心から願い祈っていたマルタやマリアは? その気持ちは? 失意は? 失望は? 私には、その気持ちがよく分かるような気がするのです。なぜならば、先ほども言いました私自身の原体験がそこにあるからです。
度々、断片的にしろ説教の中でも私自身の体験・経験をお話ししてきましたが、今日は告別説教ということで、少しばかりお許しいただければと思っています。
何度かお話ししてきましたように、私がはじめて教会を訪れたのは、中学3年生の頃、14、5歳の時でした。当時、家庭環境に恵まれず、自暴自棄になっていた頃に、社会科の授業でキリスト教についての話を聞き、なんだか憧れを持ったといいますか、いわゆるキリスト教的な理解とは違っていたと思いますが、何らかの「救われたい」という気持ちがあったのだと思います。
今年の「るうてる」1月号にも書かせていただきましたが、当時私が住んでいたところは、村内に信号機が1箇所しかないような、いわゆるど田舎でしたので、当然近くに教会などありませんでした。何とか探して(実際に探してきたのは母でしたが)、片道自転車で小一時間ほどかかるようなところでしたが、ドイツ人の女性宣教師が開拓を始めたばかりの小さなプレハブの教会に行ったのが、私と教会との出会いとなりました。そこから、洗礼を受けるまでに5年ほどかかりました。

教会には、17、8くらいに戻ることができましたが、鳴かず飛ばず、行ったり行かなかったりの不忠実極まりない生活に明け暮れ、そのくせ、自分を越して洗礼を受けていく人々を羨ましくも、また妬ましく思っていたものです。本当に何をやってもパッとしなかった。それでいて、キリスト教と縁を切れない、不思議と後ろ髪を引かれるような状態が続いていきました。とにかく、自分に自信がなかった。特に、信仰的なことに何一つ自信を持つことができなかった。なのに、捨てることもできなかった。何とももどかしい日々でした。
そんな私を見かねたのでしょう。20歳の時に、当時の主任牧師が声をかけてくれました。そろそろ、洗礼を受けてみては、と。嬉しかった。何だか認められた気にもなりました。しかし、不安もあった。こんな心持ちの自分などが果たして洗礼を受けて良いものか、と。すると、その牧師はこう答えてくれました。「洗礼はゴールではなくスタートなのだ」。この言葉に押されるようにして、私は20歳で洗礼を受けました。
しかし、私の苦悶の日々、信仰の葛藤の日々はなくなりませんでした。正直に言いまして、24歳で最初の神学校に入りましたが、その後もしばらく続いたのです。何が言いたいのか。「なかなか思うようにはならなかった」ということです。
自分が思い描いていたようには、こうでありたいと思っていた方向性には、何一つ行かなかった、ということです。少なくとも、外面的には、例えば、大学進学や神学校へ進むなど、ある程度希望は叶った部分は確かにありましたが、心…、内面的、心理的、信仰的、霊的には、思うようには何一ついかなかったというのが、正直な実感です。誤解を恐れずに言うならば、そのようにある時期までは、私にとっての信仰的な歩みは、教会生活は、苦痛でしかなかった。

むしろ、そこから逃げたい、何とか縁を切りたい、そんな思いを抱き続けてきたのも本音です。しかし、不思議と…、そう、本当に不思議としか思えない、それこそ、振り返ってみれば、そこに神さまの働き、み業があったとしか思えないのですが、別の思いも私の心を捕らえて離さなかったのです。
ここから離れては、絶対にダメだ、と。ですから、逆説的ではありますが、私は自分が信じていることに、自信があるのです。すんなりと信じることができなかったが故に、激しく抵抗してきたが故に、実際に何度も逃げ出してきたが故に、それでも、ここに立たされている、ここに自分がいる、それでも、信じている、そこに、不思議な自信を覚えるのです。
これは、今でこそ言えることですが(前述のように、その只中にあった時には、単なる苦痛でしかなかった訳ですが)、この経験、この体験、つまり、この「なかなか思うようにはならなかった」という原体験が、私には良かったと思っています。それがなければ、私自身は、信仰について学ぶ機会を逃してしまったかもしれないと思うからです。自分が信じられることを信じる。自分が信じたいことを信じる。そういった、ある意味自分中心の信仰のあり方ではなく、自分を超えて信じる。この私自身の信心ではなくて、あくまでもイエス・キリストという方を、その存在を、その人格を信じる、信頼する、そのことを痛切に学ばせられたと思うからです。それが、私にとっての益になりましたし、また、今の私自身を作り上げてきたものだ、とも思っています。
私は、このことも大事にしているつもりです。つまり、私たちは常に「途上にある」ということを、です。パウロもこう言っています。
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到着したところに基づいて進むべきです。」。

今日の説教題は、「イエスこそ信ずべきお方」と付けさせていただきました。私が、この7年間、拙い中でも皆さんに伝えたかったことは、これに尽きると思っているからです。また私自身、先ほども多少なりとも触れましたように、紆余曲折ある中で、やはりこのイエス・キリストによって救われたと確信しているからです。イエスさまと出会わなかったら、果たしてどうなっていたことか…。だから、どうしても、皆さんにもそのことを届けたいと思った。
来週から、4月2日から、いよいよ李明生先生が説教を取り次いでくださることになります。もちろん、李先生の賜物が十二分に生かされることを願っていますが、やはり李先生の元でも、このイエスさまを信じていって頂きたい。たとえ、今は途上で、さまざまな誘惑、思い煩い、信仰の弱さから、イエスさまから思いが、気持ちが離れてしまうようなことがあったとしても、何度も立ち戻っていただき、この恵みを、幸いを、味わっていって頂きたい。
私自身の告別説教の最後にあたって、切にそう願っています。アーメン
【週報:司式部分】2023年3月26日(日)10:30 四旬節第5主日
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 佐藤 大司 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 上村 朋子
開会の部
前 奏 麗しき門を開きたまえ W.Hennig
初めの歌 教会155番(1節) みつかいこぞりて
1.み使いこぞりて 主をほめたたえよ、
ハレルヤ、 ハレルヤ。
み座(くら)をめぐりて よろこびうたえよ
ハレルヤ、 ハレルヤ、
ハレルヤ、 ハレルヤ、 ハレルヤ。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
全能の神様。御子はすべての人々を罪と死から解放するため世に来られました。
聖霊の力を吹き込み、キリストにある新しい命に生かし、生涯、義をもって仕えることができますように。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
第1の朗読 エゼキエル書 37章:1-14(旧約聖書 1357 頁)
第2の朗読 ローマの信徒の手紙 8章:6-11(新約聖書 284 頁)
詠 歌
福音書の朗読 ヨハネよる福音書 11章:1-45(新約聖書 188 頁)
みことばの歌 教会298番(全節)こころまよいゆくを
1.心まよいゆくをやめて 真(しん)の平和ねがい
いのち満つる歩み求め み国めざし進まん。
古き道を、いまぞあとに捨(す)てて
神の道に移(うつ)らん 、 新しきわが身。
2.神に助け祈(いの)るときに 重荷軽くなりて
またき平和うちに満ちて きよき力あふる。
悩(なや)み多きこの世(よ)なれば、 神よ
われは切(せつ)に祈る、 まごころの願い。
3.われを見たもぅ救い主(ぬし)の 愛に満つるひとみ、
罪をゆるし、 やすき与え いのち満たしたもう。
嘆(なげ)きいたむわれを 捕(とら)えたもう
神の愛のひとみ わが主のまなざし。
説 教 「 イエスこそ信ずべきお方 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会352番 (全節) 主イエスはわがはらから
1.主イェスはわが同胞(はらから) み国はわれにあり。
なにゆえ心みだれ うれいに閉(と)ざさるる。
2.主イェスはわが同胞 こよなきわが恵(めぐ)み。
くらやみせまるときも われらに恐(おそ)れなし。
3.信仰(しんこう)の弱きときも 変わらじ主の誓(ちか)い。
みことば畏(かしこ)みつつ ひたすらたより行け。
4.主イェスは教えたもう 「わが神わが父は
なが神なが父なり」 恵みは限りなし。
5.主イェスは同胞ゆえ われらをきよくなし、
み国をつがせたもう こよなき喜びよ。
6.み国に召(め)さるるとき 主イェスとともに住まん。
ああ主よ見させたまえ わが目にみさかえを。
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会402番(1節、4節)うれしきめぐみよ
1.うれしき恵みよ 愛なる主の手よ
いずこにありても われらを導く。
やさしき主の手に わが身をゆだねて
世の旅やすけく 歩むぞうれしき。
4.この世のつとめを 終わりしその時
主の手に守られ み国にかえらなん。
やさしき主の手に わが身をゆだねて
世の旅やすけく 歩むぞうれしき。
後 奏 我がイエスよ我は離れず J.G.Walther
【説教・音声版】2023年3月19日(日)10:30 四旬節第4主日 説 教「 イエスに救われた人 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1~41節
先週は、サマリアの女性とイエスさまとの対話の物語でしたが、今朝の日課は、生まれつき目の不自由だった一人の人の癒しの物語です。そんな先週の日課が、イエスさまとの出会いの物語…、このサマリアの女性がイエスさまと出会い、対話をしていく中で信じるようにされていった物語であるならば、今朝のこの物語は、その後の物語、つまりイエスさまの奇跡を体験して、その後の歩みを描いていった物語と言っても良いのではないでしょうか。
この生まれつき目の不自由だった人とイエスさまとの出会いも、まさに「偶然」の出会いと言っても良いのかもしれません。イエスさまはたまたま近くを通り過ぎようとしていただけです。ひょっとすると、弟子たちの問いかけがなければ、そのまま通り過ぎられたのかもしれません。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」。私たちにも、なんとなく分かる問い・疑問です。因果応報…、物事が起こるには原因がある、この人が生まれながらに不幸だとしたら、その不幸の原因が必ずあるからだ。この21世紀になっても、私たちの中からは完全に消えきってしまっていない思いがどこかにあるのも事実でしょう。
この人は、生まれつき目が見えませんでした。産み育ててくれた両親の顔も、自分自身の顔、姿、手足も、見ることができなかった。残念ながら、全くの闇に閉ざされていたのです。今でこそ、多少なりとも、障害のある方々への理解が深まり、社会に出ていくためのサポートも不十分とはいえ、整いつつあると思いますが、当時です、今から2000年も前のこと、当然そういった意識・認識もない社会です。むしろ、先ほども言いましたように、この不幸の原因は罪にあるとされるような社会。もちろん、同情もあったでしょうが、まともな社会生活が営めるはずもありません。ですから、彼もまた、御多分にもれず「物乞い」をしていたとあります。来る日も来る日も、真っ暗な中に、誰かに支えられ、運ばれていって、一日ただ座って、人々の同情に縋るしかない生活が続いていく。どんな思いで日々を過ごしていたのだろうか。想像もできません。
先日、読書会がありました。その中で、色々な話題が飛び交っていましたが、今の若者たちは、大変な苦境の中にいる、といった話題
となった。そこで、かつては努力が報われる社会だったが、今はそうではない、といった指摘・ご意見が出ました。私も、そうだと思っています。しかし、一方で、「努力神話」とも言えるような状況がいまだに強く社会を覆っていることに、私自身としては、いかがなものか、といった思いがあるのも正直なところです。もちろん、「努力」自体を否定しているのではありません。事実、度々自分の子どもたちに努力の必要性を説いているつもりです(彼らからはウザがられていると思いますが)。しかし、あらゆる局面で「努力」が評価、判断の基準になり、努力不足、頑張りが足りない、といったレッテルが貼られてしまうことに問題を感じるのです。
この生まれつき目の不自由だった人は、果たして努力不足だったでしょうか。いいえ、もっといえば、そもそも努力ができたでしょうか。生まれながらに、大きなハンデがあり、彼の置かれた環境・社会も、少なくとも障害を抱えた彼にとっては最悪だったでしょう。努力して、自分の人生を切り開くことなど、考えることも、思い描くこともできなかったと思います。
では、現在は、21世紀の今はどうか。確かに、かつてよりははるかに努力が報われる社会となったと思います。しかし、やはり今日においても、努力そのものをすることさえも難しくさせているものが多くあることも覚えるのです。家庭的な問題、経済的な問題、性格的な問題、精神的な問題、教育の問題、もちろん、肉体的なことも。それらによって、様々な傷を負い、トラウマを抱え、本人だけではどうすることもできない課題を抱えている、「努力」という基準だけでは推しはかることのできない人々も多くいることを私たちは忘れてはいけないし、また、私たち自身も、その呪縛に捕らわれないように気を付ける必要があるようにも思うのです。
私たちの周りには、この私たちの生きる社会には、多くの呪いがあるのです。本人次第という呪いが、努力次第という呪いが、運命論的な呪いが、私たちを縛り上げてしまっている。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」。確かに、彼が生まれながらに目が見えなかったことは、大変な不幸だったでしょう。しかし、それに輪を掛けるようにして、罪の結果だという因果応報的な呪いに、これは自分の力ではいかようにもしがたく、ただその運命を受け入れるしかない、といった運命論的な呪いに、何倍も苦しめられて、ますます彼を不幸へと突き落としていったのではなかったか、そう思うのです。
しかし、イエスさまはこう語られます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」。しかも、イエスさまのこの言葉は、口先だけでも単なる気休めでもありませんでした。彼の目は見えるようになった。まさに、イエスさまはご自分が語られた神さまの業を体現されたのです。これは、まさに奇跡です。もちろん、目が見えるようになったことも奇跡に違いないのですが、それよりも彼自身が救われたことが奇跡でした。
もし、たとえ奇跡的に目が見えるようになったとしても(現代の医療技術ならば不可能なことではないのかもしれません)、彼を捕らえて離さなかった呪いが、彼にまとわりついている限り、彼は自由に生きることはできなかったでしょう。それこそ、単に見えなかったものが見えるようになった、という出来事だけです。そうではなくて、彼は救われたのです。呪いから解き放なたれたのです。もう、自分の出自も、人生も、自分自身も呪う必要がなくなった。むしろ、その全てに神さまのみ業を見ることになった。この体験が救いでなくてなんだろうか。
ある方の説教集に、目の見えない方々の集会での体験談が記されていました。今回、改めてこの話をする中で、私自身としては少々申し訳ない気持ちを持っています。目の見えない方々のご苦労を知りもしないで話をしているからです。その牧師もそんな思いがあったのでしょうか。その集会の中で次々と目の不自由な方々が証をなさったそうです。しかも、この箇所を取り上げて、自分の物語のように、救いの喜びを語られたという。そこで、その牧師も少々戸惑いまして、実際にはこの男性のように目が見えるようにされたわけではないのに、どうして自分ごととしてこの物語を捉えることができるのか、と不思議に思われたようなのです。そうだとすれば、肉眼に光が戻ることだけが救いということではないのでしょう。もちろん、それに越したことがないにしろ、相変わらず肉眼では光を捉えることができなくても、違った光、イエスさまの光、救いの光、本当に心の中を照らす、様々な呪いをかき消す、そんな光がまさに見えるようになったのだ、と思うのです。

それにしても、この物語を読んでいて不思議に思うことは、この癒しの物語を誰も喜んでいない、ということです。この男性が何歳だったかは分かりませんが、すでに大人になっていたでしょう。生まれてこのかた何十年もの間、闇に閉ざされ不自由に生きざるをえなかった人が解放されたのに、その事実を共に喜んでくれる人が一人もいなかった。両親でさえも、社会の目を憚って喜んではくれませんでした。しかも、何か悪いことをしたかのように詰問されるような始末です。
ここのところについては、このヨハネ福音書と非常に関係の深い「ヨハネの教会」の実体験も込められているのではないか、とも言われています。ご存知のように、初期の頃は、キリスト者・教会はナザレ派といわれ、いわゆるユダヤ教の一派と考えられていた訳ですが、次第にその違いが鮮明になるにつれ、教会はユダヤ教側から迫害を受けるようになったのです。いわゆる「会堂追放」です。後に、この癒された男性も会堂から追い出されていますが、そういった「ヨハネの教会」の実体験が重ね合わせられていると考えられている訳です。
先ほども、先日行われました読書会について少し触れましたが、今回読書会のテキストとなったのが、加賀乙彦著の『片山右近』(講談社文庫)でした。ご存知のように、我が国日本でも、豊臣時代、徳川時代と、大変なキリシタン弾圧が起こりました。無数の殉教者が出たものです。その中でも出た話ですが、何もそういった時代だけでなく、あの太平洋戦争中もあった訳です。私たちルーテル教会の大先輩である岸千年先生も当時の特高にこっぴどくやられた、という話も伺いました。日本は必ずしも宗教に寛容ではない、ということです。もちろん、時代も違います。今日は、あの「ヨハネの教会」の時代とも、「高山右近」の時代とも違う。必ずしも殉教が奨励されるような時代ではありません。
しかし、と同時に、必ずしもキリスト者に寛容ではない、ということも私たちは覚える必要があるのかもしれません。この癒された人のように、救われたことを共に喜んでくれるどころか、むしろ、いぶかられたり、心無い視線を向けられることだって、無縁ではないでしょう。それでも、です。この物語から学ぶことの一つは、そのことだと思うのです。つまり、生きる、ということです。見えなかった、見えていなかったものが見えるようにされる。光が与えられる。呪いから解き放たれる。それは確かに救いの出来事であり、かけがえのない体験に違いないのですが、それでおしまいではない、ということです。この人の、私たちの人生はそこからはじまる。これまでとは違った問題、あるいは不幸にも直面せざるを得ないかもしれません。救われたら後は薔薇色とはいかない。

そこから、彼のように、時には迫害のような目にも遭うかもしれない。それでも、それでも、彼のあの体験はやはり大きかった。彼は、あの体験があったからこそ怯ま
なかった。むしろ、反対の声に、心無い声に晒されれば晒されるほど、彼はより自身の体験を、確信を確かにしていったのではなかったか。そう思うのです。もちろん、なかなか簡単なことではないことは私自身も百も承知しているつもりですが、彼のようになれ、とも言いませんが、少なくとも彼から学ぶことも少なくないのではないか、そう思っています。
最後にもう一つ、このことだけはお伝えしたいと思います。福音書の中には、度々このように目の不自由な方の癒しの物語が出てきますが、それらとこの物語とはちょっと違っているところがあると思っています。それは、目が見えるようになって最初に見た顔がイエスさまのお顔ではなかった、ということです。自分を癒してくれた、救ってくださった方の本当の姿を見るまでに、多少なりとも時間を要した、ということです。ここにも、なんだか意味があるように思っています。私たちもまた、イエスさまに救っていただきましたが、最初っからイエスさまのことが十全に分かるということではないからです。まだ、はっきりとイエスさまのお顔は見えていないかもしれない。
しかし、いずれ、必ず見えるときがくる。いいえ、イエスさまの方から訪ねてくださって、顔と顔とを合わせてくださる。だからこそ、この男性のように、「主よ、信じます」とも言えるようになるのだと思うのです。
【週報:司式部分】2023年3月19日(日)10:30 四旬節第4主日
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 八木 久美 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 中山 康子
開会の部
前 奏 教会讃美歌187番のメロディによる前奏曲 H.パウルミッシェル
初めの歌 教会187番(1節) さかえにかがやく 主の
1.さかえに輝(かがや)く 主のまえに集(つど)いて
かしこみひれ伏す 天地(あめつち)すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
主イエス・キリスト。私たちの祈りに耳を傾け、来てください(おいでください)。
私たちのため、恵み深い生と死によって、心の闇に光をもたらし、聖霊の油を注いでください。
父と聖霊とともに、あなたは永遠に唯一の主です。
アーメン
第1の朗読 サムエル記上 16章:1-13(旧約聖書 453 頁)
第2の朗読 エフェソへの信徒の手紙 5章:8-14(新約聖書 357 頁)
詠 歌
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 9章:1-41(新約聖書 184 頁)
みことばの歌 教会292番(1節) おもにをにないて
1.「重荷をにないて 苦しむもの
来たりていこえ」と み声聞こゆ。
つかれも悩(なや)みも 主にいやされ
みそばにやすらう さちぞ深き。
説 教 「 イエスに救われた人 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会76番 めぐみの主イエスよ
恵みの主イェスよ 心のうちに
とうときみ姿 しるさせたまえ。
十字架のイェスを 心に刻み、
われらの隠れ家(が)、 救いとしたまえ。
アーメン
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会322番(1節、4節) 主なるイエスは
1.主なるイェスは わが喜び、 わがたから、
弱きわれは 長き月日(つきひ)、 主をもとむ。
主はわがものぞ わが主よみそばに おらせたまえ。
4.主イェスこそは 選びとりし、 宝なり、
世(よ)のさかえの いざなうとも、 なにかあらん。
悩(なや)みも恥(はじ)も 主イェスの愛より はなすをえず。
後 奏 教会讃美歌322番のメロディによる後奏曲 C.H.リンク
【説教・音声版】2023年3月12日(日)10:30 四旬節第3主日 説 教「 イエスとの出会い 」浅野 直樹 牧師
2023年3月12日 四旬節第三主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書4章5~42節説教題:「イエスとの出会い」
今朝の福音書の日課も、よく知られた「サマリアの女」とも呼ばれる、イエスさまとサマリアの女性との対話の物語です。
皆さんはこの箇所について、どんな印象を持たれているでしょうか。私自身は、非常に興味深い「出会い」の物語だと思っています。今日は、そんな視点から少しお話ししていきたいと思っています。
「出会いは突然」といった歌詞もありましたが、このサマリアの女性とイエスさまとの出会いも、突然だったでしょう。予期…、あるいは意図していた訳ではなかった、ということです。たまたま、そう、たまたまイエスさまはサマリアの町の側を通りかかり、旅の疲れで「ヤコブの井戸」の傍で休んでおられただけです。そのタイミングに、まさに、そのタイミングでこのサマリアの女性は水を汲みにやってきただけ。ほんの数十分のズレで、二人は出会わなかったかも知れません。もちろん、ここにも神さまのご計画が背後にあったのかも知れませんが、彼女・私たちの感覚では、「偶然」としか思えなかったものでしょう。
私たちの人生には、そういった「偶然」がつきものです。少なくとも、その時には…、後に振り返ってみたとき、そこに神さまの介在・ご計画があったことを認めるようになったとしても、その時間の流れの只中にあったときには「偶然」「たまたま」「奇跡」としか思えないような出来事、出会いがある。イエスさまとの出会いも、そうでしょう。もちろん、個々に事情が違うことも承知しています。自ら進んで教会を訪ねた人もいれば、それこそたまたま、誘われて、なんとなく、といった方も少なくない、と思います。しかし、いずれにしても、例え自ら進んでといった人であっても、そのきっかけを作ったのは、ほぼ「偶然」と思えるようなものではなかったか、と思うのです。そんな「偶然」の中で、人生を変えてしまうほどの決定的な出会いもあるのです。
このサマリアの女性は、井戸の傍に佇んでおられるイエスさまを見つけて、躊躇したのかも知れません。会いたくない、関わりたくない、と思ったのかも知れない。されど、この井戸は町から1キロ以上離れたところにあったとも言われていますので、出直すことも躊躇われた。おそらく、相手はユダヤ人らしいし、サマリア人の自分とは関わってこないだろうから、無視を決め込もう、と井戸に向かって行ったのかも知れません。すると、突然声をかけられた。「水を飲ませてください。」と。
私たちは、聖書の中に、イエスさまとの出会いの物語を多く認めることができると思います。弟子の召命物語から、病人の癒し、悪霊の追放など。もちろん、突然イエスさまの方から声をかけられた、といったことも少なくなかったと思いますが、いずれにしても、なんらか関心なり好意なりを持っていたと思うのです。あるいは、自ら進み出ていく群衆もいた。そんな出会いの物語と自分たちの物語とを比べては、あんまりパッとしないな、劇的でもなんでもなく面白みに欠けるな、と忸怩たる思いになられることがあるかも知れません。しかし、大丈夫。先ほどの推測が正しいとすれば、敵意とまではいいませんが、無関心、無視からはじまった出会いもあったということです。
予期していなかった声がけに、このサマリアの女性は面食らいました。二つ主な理由があります。一つは、自分がサマリア人であり、イエスさまがユダヤ人だった、ということです。ご承知のように、両者は歴史的にも犬猿の仲であり、交流を一切持たなかったからです。もう一つは自分が女性であったということ。当時、女性は非常に身分が低くされており、ラビ、いわゆるユダヤ教の教師が女性を相手にすることなど考えられなかったからです。確かに、突然のことに面くらったかも知れませんが、不思議な感覚を味わったのかも知れません。後でも少し触れますが、この女性は多くの男性に嫁ぎ、別れを繰り返し、町でも悪評の高かった人物だったと考えられているからです。ですから、彼女は昼間に水を汲みにきていた。
普通の、一般の人々・女性たちは朝と夕、つまりまだ涼しい時間帯に水を汲みに来ていたと言われています。あるいは、わざわざこんなに遠くの井戸まで来なくても、町の中に井戸なり泉があったのではなかったか、と考えている人もいるようです。つまり、この女性は人に会いたくなかった。イエスさまだけではありません。町の人とも会いたくなかった。後ろ暗さも不満も怒りもあったのかも知れませんが、とにかく、人とはなるべく関わらないように生きてきたと思われるのです。
そんな女性に、イエスさまは声をかけられた。家族以外の者からは、久しぶりにかけられた声だったのかも知れない。しかも、自分を必要としてくれているという声。非難、叱責、陰口、悪口、心を抉るような、傷口に塩を塗り込むような、悪意ある声ではなかった。朗らかな、優しい声だった。
イエスさまの言葉には、何かを動かす、動き出させる力があるのです。このサマリアの女性にとってもそうだったでしょう。なぜなら、その後も会話が続いていることからも明らかだからです。彼女は、もう避けなかった。無視を決め込まなかった。逃げ帰るようなことはしなかった。何気ないたった一言の声で、彼女の心は動き出した。
イエスさまがこの女性に伝えたかったことは、たった一つのことです。「わたしを信じなさい」ということ。わたしを信じさえすれば、命を得るのだ、ということ。
「この水を飲む者はだれでもまた乾く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」。
先週のニコデモの時と同じように、このサマリアの女性とイエスさまとの会話は一見するとチグハグに見えます。なんとも噛み合わない、会話として成立していないようにも思える。しかし、イエスさまは彼女の一番欲していること、本人自身必ずしも自覚していないような、あるいは諦めてしまっているような、深いところにある飢え渇きをご存じだったのです。しかし、それが、会話としては突拍子もないように聞こえてしまうところに、私たち自身の不理解さがある。自分自身についても、神さまの愛についても。

ユダヤ教とサマリア教(サマリアの女性が信奉しているもの)とは、確かに随分と違うものですが、モーセ五書を聖典としていたりと共通性もあるものです。ならば、果たして、この女性に離婚の自由はあったのだろうか、と思う。ユダヤ教の律法理解では、女性からは離婚を申し出ることが許されていなかったからです。つまり、この女性の方が男性を取っ替え引っ替え、ということではなくて、男性の方が気に入らない、と離婚したり、死別したり、ということではなかったか。
つまり、この女性は単に男運が悪かった、と言えるのではなかったか、と思うのです。それでも、この女性は男性を頼らざるを得なかった。そうでなければ、生きていけなかった。だから、5人も6人も、ということになってしまった、まことに気の毒な女性のように思えてならないのです。だから、彼女の心は深いところで渇いていた。結局、どの男も自分のことをいいようにあしらい利用はするけれども、本当の意味で、私という存在を必要としてくれていたり、愛してくれる人はいないのだ、と、もうそんなこともとうに諦めてしまっている、と、自分の気持ちを深い深いところに閉じ込めてしまっていたのではなかったか。そう思う。
ある方は、イエスさまは対話の達人だ、と言われます。しかし、私はなかなかそうは思えませんでした。先週も言いましたように、突拍子もないことを言われるイエスさまの対話術は、会話としてはどうなのだ、と思っていたからです。しかし、今は改めて「すごい」と思っています。確かに、イエスさまは必ずしもその人に話を合わせるようなことはしていないのかも知れません。しかし、核心をついていき、その土俵に乗せていくのが、とても巧みです。私などのように、ついつい単なる世間話で終わってしまうのとは大違いです。
この女性も、最初はイエスさまの話についていけませんでした。しかし、イエスさまはそのことを察すると、急に角度を変えて、彼女が関心を示すような話題へと振り向けていかれる。そして、まんまと彼女が食いついていき、イエスさまが導こうとされていた信仰の事柄、霊的な事柄に、自ら関心を示すようにされていきました。「本当に礼拝すべき場所はどこなのでしょう」と。「ユダヤ人たちと私たちサマリア人たちのどちらが信仰的に正しいのでしょう」と。

この言葉を聞いて、この女性の中に、何かがストンと入ったのではないでしょうか。合点がいったとか、腑に落ちた、といった感じです。この女性は水がめをその場に置いて、町の人々にこれらの出来事を伝えに行ったのでした。会いたくもなかった人々に。身を隠していたかった人々に。触れ合うことも苦痛だった人々に。自分とは住む世界が違うのだと、勝手に線引きをしていた人々に。普通の当たり前の生活を営み、羨ましく思っていた人々に、彼女は、このサマリアの女性は、イエスさまがあのメシアではないか、と伝えていった。そして、この女性の言葉を受けて信じた人々が多くいたのです。しかも、彼ら自身もまたイエスさまと出会い、その出会いによって信じる者となっていった。
これは、一人の女性の出会いの物語です。当然、私たちと違っているところも多々あるでしょう。しかし、それでも、教えられるところ、気付かされるところがあるのではないか。私たちもまた、一人の傷ついた、渇いた人間として、この出会いの物語に連なっているからです。違った出会い方、違ったアプローチ、違った気づき、違った対話・やり取りだったかも知れませんが、それでも、やはり、私たちもまた、不思議と、偶然としか思えない不思議な神さまのご介在の中で、このイエスさまと出会うことができた。そのことを、もう一度新たに噛み締めながら、私たち自身のストーリー(物語)も紡いでいきたい。そう願っています。
【週報:司式部分】2023年3月12日(日)10:30 四旬節第3主日
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 石原 真由美 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 小山 泉
開会の部
前 奏 イエスよ どんなに あなたのお姿は J.S.Bach
初めの歌 教会157番(1節) ほめまつれ あまつきみ
1.ほめまつれ あまつきみ、
いざうたえ 主の愛を。
とわにいます わが神に
たたえのうた わきあふる。 アーメン
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
憐れみ深い神様。
いのちの水の泉であるあなたは、私たちの渇きを癒し、罪を洗い清めてくださいます。
私たちにいつもこの水を与えてください。
御子から溢れ出る真理の井戸から飲むことができるよう(私たちを)導いてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
第1の朗読 出エジプト記 17章:1-7(旧約聖書 122 頁)
第2の朗読 ローマへの信徒の手紙 5章:1-11(新約聖書 279 頁)
詠 歌
福音書の朗読 ヨハネよる福音書 4章:5-42(新約聖書 169 頁)
みことばの歌 教会66番(1節と2節) たよりゆくものに
1.たよりゆくものに いとちかく在(ま)して
み救いをたもう 造りぬしイェスよ。
説 教 「 イエスとの出会い 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会328番(1節) 主イエスにしたがう
1.主イェスに従(したが)う 群(む)れのさちよ、
めぐみの主の手に たよりゆけば、
なやみのときにも 主近くいまして
のぞみは消ゆとも 愛は尽(つ)きず。
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会344番(1節、3節、5節) みかおをあおぎて
1.み顔をあおぎて 主のみもとに
やすらうその日の さちやいかに。
3.求むるものをば 見捨(す)てまさず、
したがう民(たみ)には 望みをたもぅ。
5.主イェスのほかには よろこびなく、
とこよのさかえは 主にのみあり。
後 奏 おお けがれなき 神の小羊 J.S.Bach
【説 教・音声版】2023年3月5日(日)10:30 四旬節第2主日 説 教「 世を救うために 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:ヨハネによる福音書1章1~17節
今日の日課には、「聖書の中の聖書」とも、「小聖書」とも言われていますヨハネ福音書3章16節が含まれていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。なるほど、先ほどのような評価がされるように、聖書を、あるいは福音を凝縮したような素晴らしい内容の箇所です。皆さんの中にも、「愛誦聖句」とされておられる方も多いのではないでしょうか。確かに、そう。しかし、では、ただの素晴らしいみ言葉、ということだけで、果たして本当に良いのか。ただ赤線が引かれた聖句ということだけで満足して良いのか、といえば、もちろん、そうではないでしょう。それを、このみ言葉を「信じる」ことが大切なはずです。信じ受け入れることが必要になる。
今朝読まれました旧約の日課も、使徒書の日課も、共に「アブラハム」(旧約ではまだ
「アブラム」となっていましたが)が取り上げられていました。ご存知のように、このアブラハムはイスラエル民族の始祖であると同時に、「信仰の父」と称され尊敬されている人物です。そして、パウロは、そんな信仰の人であったアブラハムを引き合いにして、自身の福音理解、つまり、「信仰による義」(人は信仰によって救われるのだ、ということ)を述べていこうとしている訳です。その中で、アブラハムの信仰の真骨頂とも思える興味深いことが記されていました。ローマ4章17節です。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。」。これは、おそらく、最愛の息子イサクを犠牲として捧げた、といった創世記の出来事から言われていることだと思います。ともかく、神さまに不可能なことは何一つない、といった信仰ということでしょう。それが、私たちも見習うべき信仰だとパウロは見ている。
それに対して、今日の福音書の日課に登場してきますニコデモは、信じ切ることのできない人の代表といっても良いと思うのです。ある意味、私たちの代表でもある。このニコデモについては、「ファリサイ派に属する議員(これは、サンヘドリンという最高法院の議員ということのようですが)」と記されています。今で言えば国会議員のような、それなりの立場を持った人だった、ということでしょう。だから、彼は「夜」イエスさまを訪ねたのかもしれません。いわゆる、立場上、お忍びで、ということです。
しかし、多く聖書に登場してきますファリサイ派、議員たちとは違って、イエスさまに対しては非常に好意的なようにも思います。それは、直前にこう記されていることにも関係している、と指摘されています。ヨハネ2章23節です。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」とあるからです。つまり、このニコデモも、イエスさまがなさったしるしを見て信じた一人ではなかったか、というのです。そういう意味では、先ほども言いましたように、ニコデモは非常に好意的であったのでしょう。
そんな立場であったにも関わらず、お忍びで、夜にイエスさまを訪ねて話を聞こうとするくらいに、です。そういう意味では、まさに彼にも信仰があった、と言えるのかもしれません。しかし、重要なのは、いいえ、非常に興味深いのは、そのニコデモがイエスさまが語られた言葉を、一切受け付けなかった、ということです。イエスさまに興味を抱き、自ら進んで教えを乞おうとして来たはずなのに、その全てを拒絶してしまっているニコデモの姿がそこにある。そして、それもまた、私たちの姿に重なるのではないか。
実は、私はこのニコデモに同情的でした。「でした」と過去形を使ったくらいですから、かつては、ということです。なぜなら、あまりにもイエスさまのお言葉が突拍子もないように思えていたからです。
皆さんは、このヨハネ福音書にどんな印象をお持ちでしょうか。面白い、興味深い、難しい…。私は正直、複雑な思いを抱いていたのです。それこそ、他の福音書に比べても圧倒的に赤線を引くようなみ言葉(フレーズ)は多いのです。このヨハネ福音書の3章16節にももちろん赤線が引いてあります。しかし、それが文脈になると途端に難しくなる。特に、対話の場面になると、どうしてこんなやり取りになるのだろうと頭を抱えてしまうほどです。牧師になりまして、説教の準備をするときには、ほとほと困っていました。
ニコデモにも言い分があるでしょう。いきなり、こんなことを言われても、と思ったのかもしれません。そうだと思います。もし、皆さんが牧師に話を聞きに来て、こんなやりとりをされたら、どうでしょうか。もう二度とこの教会には来ない、と思われるかもしれません。それほどに、イエスさまのお言葉は突拍子もないし、私たちの期待とは随分と食い違っているものなのです。しかし、実は、それこそが重要なのではないでしょうか。信仰とは、実に、そういったものだからです。
私たちを超えた事柄を信じる。それが、信仰には求められている。イエスさまもニコデモにこのように語られました。12節「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」と。そうです。イエスさまが語られることは、神さまのことです。天上のことです。私たちの理解を遥かに超えた事柄です。私たちの延長線上にはない事柄。だから、私たちには突拍子もないことのように聞こえるし、縁遠いことのように聞こえるし、意味があるのかないのか分からないような言葉に聞こえるし、非現実的としか聞き取れないものでもあるのです。

現在、毎回6、7人の小さな集まりですが、zoomでの「聖書の学び・祈り会」をしています。その中で、メンバーから出た要望でもありましたので、創世記の学びをしていますが、私の任期中という制限がありますので、随分と乱暴な端折り方をしながらの学びになってしまい申し訳なくも思っていますが、とりあえず概観を見て、その学びもあと1回を残すのみとなりました。その中で、今日登場してきたアブラハムも見ていきましたし、イサクは直接的には取り上げませんでしたが、ヤコブも、その12人の子どもたち、つまり、のちの12部族の族長となっていく人たちの中でも特にヨセフを取り上げて来ました。
いずれも、イスラエルの歴史、信仰の歴史を見る上で重要な人物たちです。しかし、率直に言って、いわゆる模範的な信仰者とは言えないような人物たちでした。アブラハムは確かに「信仰の父」と呼ばれるだけの器ではありましたが、それでも、神さまの約束を待てず、人間的な策略でイシュマエルをもうけましたし、自分の身可愛さに妻のサラを妹と偽ったり、神さまの約束に対して笑ったりと人間らしい姿も持つ人でした。ヤコブは兄から長子の権利を奪ったり、祝福を騙し取ったりと、これまた一癖も二癖もある人物でしたし、ヨセフも父の溺愛のせいか傲慢に育ち、兄たちへの復讐に燃える面もありました。何が言いたいのか。偉大だとは言え、人とはそういうものだ、ということです。そんな彼らが信仰的な面においても、人間的な面においても鍛えられていくのが、創世記の物語でもあるのだと思うのです。
確かに、信仰とは神さまからの賜物でしかありません。恵みの賜物。私たち自身の力や努力で勝ち取れるようなものではない。そうです。しかし、と同時に、なおも「信じるように」と招かれているものでもあると思うのです。先ほど例として出させていただいたイスラエルの族長たちの姿からも、そのことを教えられる。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。このみ言葉を信じるのです。この突拍子もないみ言葉を、約束を、信じるのです。自分を超えて、理解を超えて、納得を超えて、この約束をしてくださっているのが、不可能を可能とする、無から有を生み出すことのおできになる神なのだ、ということを信じるのです。信じるように招かれている。そうでないと、私たちは、この自分たちから抜け出せない。
あのニコデモのように。そんなことはありえないことだ、とうずくまるしかなくなる。そうでないと、イエスさまがここで示してくださっている神さまの愛にではなく、相変わらず自分次第ということに、因果応報という大原則に捕らわれたままになってしまう。せっかくのこの素晴らしいみ言葉も、絵に描いた餅、赤線を引いただけの言葉、私自身においても、この世界においても、何ら意味を持たない言葉になってしまう。それで、いいのだろうか。

神さまは、御子イエス・キリストを与えるほどに、私たちのために十字架につけるほどに、この私たちを、信仰弱き、罪深き私たちを、うんざりするような世・世界を愛してくださった。救うことを決心してくださった。私たちは、それを信じる。信じて生きる。そんな思いと敵対するようなものと戦いながら、信仰を養うことに注力しながら、自分たちができることで、小さな業で、隣人に仕えることで、この世を愛された神さまのご栄光を表していく。それが、私たちの生き方。そのことを、この四旬節にもう一度、問い直していきたい、そう願っております。
【週報:司式部分】2023年3月5日(日)10:30 四旬節第2主日
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 西田 一郎 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子
開会の部
前 奏 イエス わが拠り所 M.レーガー
初めの歌 教会151番(1節) ひとの目には
1.ひとの目には 見えねども
神の知恵は かぎりなし。
力つよき そのみ名を
われらすべて ほめまつらん。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
私たちの導きの主である神様。あなたは洗礼の水によって、
あなたの子としての新たな誕生を私たちに約束してくださいます。
御約束を信じる信仰を強め、聖霊によってあなたの命を高く世に掲げることができるようにしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
第1の朗読 創世記 12章:1-4a(旧約聖書 15 頁)
第2の朗読 ローマへの信徒の手紙 4章:1-5,13-17(新約聖書 278 頁)
詠 歌
福音書の朗読 ヨハネよる福音書 3章:1-17(新約聖書 167 頁)
みことばの歌 教会69番(1節) 神のみ子よ
1.神のみ子よ 十字架のイェスよ
なわめしのび むちの恥うけ
悩みましし 救いぬしに
捧げまつる ふかき感謝を。
説 教 「 世を救うために 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会389番(1と4節) わがため主は
1.わがため主は 血をながして
そのいのちを 与(あた)えませり。
われ主のため なにをなせし。
4.主のためわれ いのちささげ、
生くるかぎり 仕えまつる。
主の恵(めぐ)みに われはこたえん。
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会414番(1節) やさしき道しるべの
1.やさしき道しるべの 光よ、
家路(いえじ)はなおも遠(とお)く 日は暮れ、
さびしくさすらう身の 行(ゆ)くてを照らしたまえ。
アーメン
後 奏 イエスの苦悩 痛み 死 M.レーガー
【説教・音声版】2023年2月26日(日)10:30 四旬節第1主日 説 教「 メシア、試練を受ける 」浅野 直樹 牧師 — 下書き
2023年2月26日 四旬節第一主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:マタイによる福音書4章1~11節説教題:「メシア、試練を受ける」
先週の説教では、皆さんにご理解いただいている、との前提に立ってのお話しだったので、言葉足らずの説明になってしまったかもしれませんが、改めて四旬節・受難節についての説明をいたします。
四旬節というくらいですから、四という数字が絡んでくることは予想できると思います。先週行われた「灰の水曜日」から復活祭の前日までの40日間を、四旬節・受難節と言います。ただし、その間の日曜日は除外されますので、正確には6週間と4日となります。ですので、水曜日が四旬節の出発点となる訳です。
今朝、四旬節第一主日に与えられた福音書の日課は、イエスさまが荒野で誘惑を受けられた場面でしたが、先ほどの40という数字・期間の一つの根拠ともなった出来事でした。ちなみに、この40という数字には、あのイスラエル民族が荒野での放浪生活を強いられた40年間(出エジプトの出来事からカナン定住までの期間ですが)も関係すると言われます。ですので、この40という数字は、苦難や試練などの期間を意味するとも考えられるようになりました。ですので、この四旬節の40日間は、伝統的には悔い改めの季節・紫の季節だと受け止められてきた訳です。
今朝のこの荒野の誘惑の出来事は、皆さんも良く知っておられる出来事だと思います。ですので、あまり多くの説明も必要ではないのかもしれません。しかし、まず押さえておきたいのが、この出来事がいつ、どのようなタイミングで起こったか、ということです。福音書によると、この出来事はイエスさまの洗礼の出来事の後、宣教のはじまりの前に起こったことだ、と記されています。しかも、“霊”(これは聖霊を表す表記ですが)の導きによるとありますので、この出来事は神さまが主導されて起こった、ということでしょう。私自身は、ここに大きな意味があると思っています。
一つは、この誘惑の出来事は、「メシアならではの誘惑」といった側面です。今からまさに宣教を開始されようとする時、イエスさまとしてはどのように宣教を展開されていくのか、それは、非常に重要なことだからです。何を、どのように伝え、実践していくべきか…。ですから、この試練を通して、メシアとしての使命をより明確にされたのではなかったか、と思うのです。
もう一つは、「人としての試練・誘惑」、つまり、私たちを代表して誘惑に遭われた、ということです。ヘブライ人への手紙に、こんな言葉があるからです。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」(ヘブライ4章14節以下)。私たちもまた、さまざまなところを通って洗礼へと導かれる訳ですが、洗礼を受けたからもう終わり、ということでは当然ない訳で
す。ここから、人々の中での、世界の中での、私たちを取り巻く現実世界・実生活の中での、キリスト者としての生がはじまっていくからです。そういう意味でも、私たちもまさに誘惑・試練がつきものです。ですので、そういった面においても、イエスさまは私たちを代表して、あるいは手本・模範として、私たちも遭遇するであろう誘惑・試練に遭って下さった、とも言えるのだと思います。
一つ目は空腹です。そんな空腹時にイエスさまは「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」との誘惑を受けました。それに対して、イエスさまはこうお答えになった。有名なお言葉です。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」。一方で、私たちも「なるほど」と感銘を受けるかもしれません。しかし、この時がどんな状態だったかといえば、40日40夜断食した後の極限状態です。つまり、余裕などないのです。信仰などというものは、余裕のある者が、余裕のある時にするものだ、といった思いがないだろうか。
本当に極限状態に陥った時、明日をも分からないような状態に陥った時、それでも、神の口から出る言葉で生きるものだ、と言えるだろうか。それは、私たち個々人の現実の生活においても、またこの世界の救済においても、大きな問いです。こんな時に、礼拝など、祈りなど、聖書の言葉など、役に立たないのではないか。こんな時こそ、パンが必要なのではないだろうか。物質面が必要になるのではないか、と思う。
ロシア軍によるウクライナ侵攻から1年が経過して、テレビなどでも様々な特集などが組まれています。私も興味深く見ていますが、案外ロシア国内では相変わらずプーチン大統領への支持率が高いというのです。もちろん、言論統制など様々な要因が考えられますが、その一つにロシア国民としては安定を求めているからだ、との分析がありました。この世界規模の経済制裁の中でも、国内は比較的安定をしていて、物価も上がってはいるものの、予想したほどは経済のダメージもなく、市民の生活が損なわれていないからだ、というのです。もちろん、政権もそのために必死になっている訳ですが、改めてローマ帝国の統治方法としての「パンとサーカス」という言葉を思い出しました。人々は政治信条や正義の問題よりも自分たちの生活こそを優先させる、ということです。
聖書にもこんな言葉があります。ヤコブの手紙です。2章15節「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」。ヤコブも現実的な支援の必要性を語っています。しかし、注意しなければならないのは、ここで言われているのは、信仰か実践かの二者択一ではない、ということです。そうではなくて、実践が伴わない信仰を問題視している。
今一つは、聖書・神さまの言葉を誤って、いいえ、むしろ自分勝手に、都合の良いように変質させて、神さまさえも己の目的のために利用しようとする、そんな誘惑。
3番目は解説する必要もないでしょう。そのままの意味です。神さまではなくて、この世界を牛耳っていると思われるものこそを信奉させようとする誘惑。単にこの世界の人々のニーズに応えようとするだけなら、この方が手っ取り早いのかもしれない。憎まれることも、命を落とすこともなかったでしょう。
今日の第一の朗読(旧約)もよく知られた「誘惑」の箇所でした。時間もありませんので、細かな説明は省きますが、端的にいえば、神さまの御言葉のみに心を向け、御心に従っていく生き方か、それとも、己の心の命じるままに、心の欲するままに生きる生き方か。そのように、悪魔とも理解される蛇の誘惑とは、結局は人類を神さまから引き離そうとするものだった訳です。結局、神さまはあなたたちを心に留めては、愛してはおられないのだ、と。自分の思うように使える駒にしておきたいだけなのだ、と。そこに、真の自由はないのだ、と。
では、その結果、彼らが手に入れたものは何だったのか。「二人の目は開」かれた。確かに、彼らは、私たち人類は、神さまのような類稀なる「善悪の知識」を手に入れたのかもしれません。では、その結果、私たちの世界はどうなったのか。誰もが平和の素晴らしさを知っています。差別・格差などない方がいいこともわかっている。互いに赦し合い、愛し合い、分かち合い、貧困も、争いも、苦しみもない世界を待ち望んでいる。なのに、それが実現できないのです。痛い目に遭ってようやく悟ったのに、また世界は混沌へと進もうとしている。そうです。神さまと違い、人類の最大の問題、最大の課題は、分かっているのに、それが出来ない、ということ。何週間か前にもパウロの言葉を紹介しましたが

(ローマ7章)、そのように何をすれば良いかが分かっているのに、それが出来ない惨めな姿を、パウロは「罪」と呼んだのです。ルターもまた、人は真の正しさを掴み得ない不自由さを見た。自己中心・歪んだ自己愛・エゴイズムから脱し得ない不自由さを。
イエスさまは、この誘惑・試練の中でも、あくまでも神さまにこそ、救いを、問題の解決を見たのです。それを確認し、心に刻んでいった。だからこそ、イエスさまは、私たち人類の救いのために、神さまの御心に従って十字架にまで進んでくださったのです。
私たちも知っているはずです。気づいているはずです。私たちの、私たち人類の力だけではどうにもない現実があるということを。この世界などと大きなことばかりでなく、自分の家族との関係においても、自分自身との関係においても、どうにもならない、まことに不自由極まりない真実がある、ということを、私たちは知っている。体験している。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」、
「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」。メシアとしても、また私たちの代表としても誘惑・試練を受けてくださったこのイエスさまの言葉を心に刻みながら、私たちもまた、この四旬節の歩みを進めていければと願っています。
【週報:司式部分】2023年2月26日(日)10:30 四旬節第1主日
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 佐藤 泰子 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 萩森 英明
開会の部
前 奏 いと愛しまつるイエスよ、我らここにJ.G.Walther
初めの歌 教会189番(1節)主のみことばに
1.主のみことばに 心をやしない
感謝あふれて み前にぬかずき
さんびのみ歌に いざ声あわせよ。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
私たちを強くしてくださる主である神様。
善と悪との戦いは、私たちの内と外にあり、悪魔とあらゆる勢力が空しい約束で私たちを誘惑し、
あなたに挑んでいます。私たちを御言葉に固く立たせ、罪に落ちても再び立ち上がらせてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
第1の朗読 創世記 2章:15-17;3章:1-7章(旧約聖書 3 頁)
第2の朗読 ローマへの信徒の手紙 5章:12-19(新約聖書 280 頁)
詠 歌
福音書の朗読 マタイよる福音書 4章:1-11(新約聖書 4 頁)
みことばの歌 教会299番(1、4節)心をくだかれ
1.心をくだかれ 憐(あわ)れみを祈(いの)る、
罪あるこの身に ゆるしをたまえや。
4.わが罪許(ゆる)され み国に入(い)るとき
み神の恵みを 永遠(とわ)にほめうたわん。
アーメン
説 教「 メシア、試練を受ける 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会64番(1、4節) 主イエスの十字架に
1.主イェスの十字架に みさかえあれや
とうとき君こそ みふみの光。
4.喜びなやみも 十字架はきよめ
はかりも知られぬ 平和は来たらん。
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会357番(1節) 主なるかみをたたえまつれ
1.主なる神を たたえまつれ、
真心(まごころ)ささげ ひれふし
聖(せい)なる主の み名をあがめて
み栄えを歌わん、 ときわに。
後 奏 父なる神よ、我らと共に住み給え J.Pachelbel
【説教・音声版】2023年2月19日(日)10:30 説 教 「 光り輝くイエス 」浅野 直樹 牧師
主の変容主日礼拝
聖書箇所:マタイによる福音書17章1~9節
本日の礼拝は、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」と記されていますように、イエスさまのお姿が変わられた「主の変容」主日の礼拝です。その日課の中で、このように語られているところがありました。
9節です。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」。つまり、この変容の出来事と主の復活とが関連づけられている、ということです。もっと言えば、このイエスさまのお姿が変わられた変容の出来事は、イエスさまの復活を先取りするような、象徴するような出来事だった、と言っても良いと思うのです。
教会の暦としては、今日で顕現節が終わり、今週水曜日には「灰の水曜日」を迎え、来週からはいよいよ四旬節・受難節となっていきます。そして、今年で言えば、4月の第一週から受難週がはじまり、聖金曜日(受苦日)、そして、復活祭(イースター)へと続いていくことになる訳です。つまり、教会、私たちキリスト者たちにとって最も重要な季節を迎える、ということです。
私たちの大先達でありますマルティン・ルター、そして、私たちルーテル教会は、この主の十字架の出来事を非常に大切にしてきました。ルターの神学の特徴を、「十字架の神学」と言われる程に、です。しかし、それも、復活があるからです。この復活の光に照らされるからこそ、十字架もまた色鮮やかに映し出されていきます。そうでなければ、私たちの心は重く打ちのめされるだけです。私たちの罪がイエスさまを十字架へと追いやってしまったのだ、と。私たちの罪がイエスさまの命を奪ってしまったのだ、と。しかし、そうではない。
イエスさまは復活された。死に勝利された。罪の縄目を打ち砕いてくださった。だからこそ、この復活の恵み・輝きという土台があるからこそ、私たちはイエスさまの十字架を見上げることができる。そのこともまた、私たちは繰り返し覚えておきたいと思うのです。
今日の変容の出来事には、弟子たちの中でも、特にペトロとヤコブとヨハネだけが付いていくことを許されました。皆さんもご承知のように、この3人は、特に重要な出来事の時には、例えば、ヤイロの娘を生き返らせた時とかゲツセマネの祈りの場面などに度々伴われた3人です。では、なぜこの3人が選ばれたのか。他の弟子たちよりも優秀だったからか。見込みがあったからか。そうかも知れません。しかし、私は、この3人はあくまでも私たちの代表だと思っています。特に、ペトロはそうです。なぜなら、今日の日課の冒頭に、「六日の後」とあるからです。
では、その六日前には一体何があったのか。ご存知のように、ペトロの信仰告白です。
16章13節以下です。イエスさまは弟子たちに、「わたしを何者だと言うのか。」と尋ねたところ、ペトロが率先して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたのでした。このペトロの応答にイエスさまも大層喜ばれて、ペトロに向かって、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と約束された程でした。しかし、この話には続きがあることも、皆さんはご存知でしょう。
この時、イエスさまははじめて弟子たちにご自分のご受難と復活について語られたのですが、それに対してペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と、逆にイエスさまをいさめはじめた、と記される始末です。
ここに、私たちの姿も重なる。イエスさまをメシア・救い主だと信じながら、神の子だと告白しておきながら、それでいて、そのメシア・神の子であるイエスさまの言葉をちっとも信じようと、聞こうとしない。むしろ、そんなはずはないと自論を主張して、あたかもイエスさまの方こそが間違っていると言わんばかり。不理解どころではない。これでは、どちらが「主(主従の主です)」か分かりません。これこそ、私たちの代表、私たち自身の姿と言えるのではないか。
そのペトロを「六日の後」に…、つい先ほど、六日前に、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と叱責されたばかりのペトロをあえて選んで、たった1週間では人はそうそう変われないと思いますが、そのペトロをも伴われて、変貌の山に登られたことにも、私は大変深い意味があると思っています。
そして、この超絶不思議な出来事を体験したにも関わらず、復活の先取りとも、神の子としての栄光とも言えるような、天上の世界の出来事を身をもって体験しておきながら、その後のペトロの姿も私たちは良く知っているのです。イエスさまを見捨てて、三度も知らないと言い逃れて、鶏の声に我に返らされ、男泣きに泣いたペトロの姿を私たちはよく知っている。結局彼は、紛れもなく復活されたイエスさまと出会って、聖霊を頂かなければ、本当の意味では、自分が告白したメシア・神の子の意味を理解し得なかった訳です。それもまた、私たちの姿でもある。
それでも、そんなペトロであることを十二分に承知の上で、イエスさまはご自分の真の姿を、メシア・神の子としての姿を、復活の姿を見せるために、決してペトロを見放すことなく、伴われたのではなかったか。そうも思う。
以前も何度かお話ししたことがあるかと思いますが、現在の日課では、詩編の言葉も毎主日選ばれています(今のところ私たちの教会では時間の都合もあり、読んではいませんが)。そして、本日の詩篇は第2編が選ばれていました。そこには、こんな言葉がございます。「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。』」。
もうお分かりのように、今日の日課は、どれも福音書の日課と深い関係があるものです。今日の第一の日課(旧約)は、モーセが神の山・シナイ山に登った時の出来事が記されていました。ここに、こういった言葉があります。15節、「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた」。もうお分かりのように、今日の変貌の山(主の変容)の出来事と非常によく似ています。つまり、このモーセの出来事と深く関連づけられている、ということです。
もっと言えば、イエスさまは神さまから十戒を受け取り、人々を教え導いていったあのモーセに代わる新たなモーセといった位置付け、と言うことです。そう言えば、先週も説教の中で触れましたが、先々週の日課であった5章17節以下で、マタイはこう記していました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と。今日の変容の出来事に登場してくる
二人の人物、モーセとエリヤは、まさに律法と預言者を象徴するような人物です。しかし、最終的に弟子たちが認めたのは、イエスさまただお一人だけでした。まさに、ここにも、律法や預言者の廃止者ではなくて、完成者であるイエスさまの姿が表されているのでしょう。だからこそ、神さまも雲の中からこう語られたのでした。「これに聞け」と。これからは、完成者であるイエスさまに聞くのです。ただ聞くだけではなく、聞き従うのです。それが、神さまの望みでもある。

では、これら神さまからの語りかけを聞いた3人の弟子たちは、どう反応したのでしょうか。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」とあります。神さまからの語りかけを聞いたのですから、「ひれ伏す」のは分かりますが、「非常に恐れた」と言うのは、どういうことなのか。単純に、神さまの前に出ることへの恐れがあったと思います。つまり、畏敬です。圧倒的な存在感の前に立たされる時に抱く、素直な、素朴な「恐れ」です。しかし、もう一つあると思うのです。
それは、義・正義なる神さまの前に立つことへの恐れ、です。つまり、私たちの罪を裁かれる方の前に立たざるを得ない圧倒的な恐れ、恐怖です。これは、大変厳しい恐れです。ペトロたち3人は、そんな圧倒的な、絶望的な「恐れ」に立たされたのではないだろうか。
そんな弟子たちに、メシア・神の子であるイエスさまが近づいてこられました。しかも、おそらくかがみ込むようにして、弟子たちに触れられて、こう言われた。「起きなさい。恐れることはない」と。これこそが、イエスさまの十字架と復活なのです。このイエスさまによって、私たちはもう神さまを恐れなくてもよい者とされたからです。私たちは、神さまの裁きを恐れなくてもよい者とされた。罪に、死に、絶望しないでよい者とされた。なぜなら、私たちはイエスさまによって神さまと和解させて頂いたのだから。この神さまが私たちの神さまになってくださったことによって、希望を見失うことがなくなったのだから。
だから、もう「恐れ」なくても良い。イエスさまが近づいてきてくださり、私たちを立ち上がらせてくださるから、もう何も恐れなくても良い。それが、私たちが味わうべき救いの力。神さまが語られたイエスさまに「聞け」とは、そういうことです。律法の完成者として、王として、山上の説教に代表されるような教えを聞くだけじゃない。もちろん、それらも大切に違いないのですが、それ以上に、イエスさまが語られた救いの出来事、赦しの約束をしっかりと漏らさずに聞くのです。
ペトロのように、弟子の心得としては十分な配慮だったかもしれませんが、それでも、イエスさまの十字架の出来事を、復活の出来事を、否定して、聞かないようでは、意味がない。あの圧倒的な恐れからは決して救われない。この救いを成し遂げてくださる、完成してくださるイエスさまの言葉を少しも漏らすことなく聞くしかない。
最初に言いましたように、来週から四旬節・受難節がはじまり、私たちは復活祭へと向かっていくことになりますが、改めて、このイエスさまに「聞く」ということを心に留めながら過ごして行きたい。そう思っています。
【週報:司式部分】2023年2月19日(日)10:30 主の変容主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 猿田 幸雄 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子
開会の部
前 奏 暁の星はいと麗しきかな C.フィンク
初めの歌 教会57番(1節) めぐみにかがやき
1.恵みにかがやき まことにあふるる
あしたの星よ、 ヤコブよりいでし
ダビテのみ子なる 花婿(はなむこ)イェスよ、
やさしく、けだかき主イェスの、
み名をば、 いざたたえまつらん。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
神様。あなたはモーセとエリヤが証する信仰の神秘を御子の変容において確かなものとし、
輝く雲の中から「これはわたしの愛する子」と宣言され、私たちもあなたの子としてくださることを示されました。
キリストと共にあなたの栄光を受け継ぐ者として、私たちを喜びで満たしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
第1の朗読 出エジプト記 24章:12-18(旧約聖書 134 頁)
第2の朗読 ペトロの手紙II 1章:16-21(新約聖書 437 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 17章:1-9(新約聖書 32 頁)
みことばの歌 教会148番(1節と2節) いとうるわし
1.いとうるわし 主のみ姿
衣とみ顔は 日と輝く。
2.ここにいるは いとも楽し、
モーセとエリヤも みそばに立つ。
説 教 「 光り輝くイエス 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会148番(3.4.5.節) いとうるわし
3.あがないの主 約束の主
栄光(さかえ)の主イェスを ここに仰ぐ。
4.いまぞ神の み国を見る、
われらの住家(すみか)を ここに定めん。
5.されどわれら ここをはなれ
悩めるこの世に くだりてゆかん。 アーメン
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会313番(1節) 主はへりくだりて
1.主はへりくだりて 罪人(つみびと)のために
十字架の苦しみ 耐(た)え忍(しの)びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天(あめ)なるみ国に 導きたまえや。
後 奏 汝明るき日なるキリスト J.S.バッハ
【説教・音声版】2023年2月12日(日)10:30 説 教 「 新しい戒め 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:マタイによる福音書5章21~37節
皆さんは、今日の日課をお聞きになられて、どうお感じになられたでしょうか。
私は若かりし頃、これらの御言葉に本当に悩まされてきました。ここに記されています「兄弟に『ばか』と言う者」、「『愚か者』と言う者」以上の思いが、私の心の中に渦巻いていたからです。また、決して褒められないような思いで女性を見てしまったことも、一度や二度ではありませんでした。ですから、この御言葉の基準からすれば、完全に「アウト」です。地獄に行くしかないような者です。本当に、目をえぐり出すしかない、手を切り捨てるしかない、とまで思い悩んだ。でも、出来なかった。そんな自分を、どうすることもできなかった自分自身に失望し、望みが断ち切られたような思いになっていたからです。
ご存知の方もいらっしゃると思いますし、また、以前そのこともお話ししたと思いますが、律法には三用法と言われるものがあります。一つは、「市民的用法」。これは、一般的な社会正義と言えるものです。もう一つは、「教育的用法」。これは、自らに罪の自覚を促し、キリストによる贖罪を求めるようにさせる、そういった「養育係」的側面です。今一つは、「第三用法」と言われるもの。これについては、後で触れることになりますが、つまり、このイエスさまの教えは、私にとっては2番目の用法、すなわち「教育的用法」…、罪の自覚を促し、イエス・キリストによる救いへと導く、そんな役割として機能した訳です。
先週は総会主日の礼拝として時間的制約がありましたので取り上げることができませんでしたが、先週の日課である17節でイエスさまはこのように語っておられました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。ここにありますように、私たちキリスト者には、多少なりとも誤解があるように思います。私たちの信仰にとって律法は無縁である、と。先ほど言いました律法の三用法にも見られるように、そうではないのです。キリスト者である私たちにとっても、律法とは意味があるものです。
私たちの大先輩であるルター自身もそれを認めています。むしろ、ルターは律法と福音とを混同しないことこそが最大の知恵である、とさえ言っています。つまり、それぞれには神さまから与えられた特有の使命があり、あたかも律法を福音…、すなわち救いの出来事と同列に扱ったり、律法を無意味化することとは違う、ということです。ですので、先週の日課でも、イエスさまは律法を廃棄するのではなく、完成させるために来たのだ、とおっしゃっておられるのです。
では、どのようにして完成させるのか。それは、正しく律法を解き明かすことによって、です。当時の人々は、ファリサイ派や律法学者たちをはじめ、現代人に比べてはるかに宗教的・信仰的な人々であったことは間違いないでしょう。彼らは、非常に熱心でした。しかし、熱心だからといって、それが正しいとは限らない。ここに、私たちの落とし穴もあるのです。彼らの多くは、いわゆる「律法主義」に陥ってしまっていた。それをイエスさまは問題視されているのです。
では、そんな「律法主義」の問題性はどこにあったのか。形骸化です。抜け道を作ることです。形式的に守ることを優先させ、その心を、本来の目的・意図を失わせることです。言葉を変えると、偽善性です。そして、これらは、決して彼らだけの問題ではないでしょう。人が営むところ、必ずそういった闇が忍び込んでくる。ともかく、そんなふうに彼らは自らが理解した律法をあたかも守っているふうにして、本当は神さまの御心からずっと離れてしまっていた訳です。それを、イエスさまは厳しく問われた。
では、そもそも律法の心とは何だったのか。イエスさまは、律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要」か、と問われたとき、このように答えられました。マタイ22章37節以下です。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。
『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。皆さんも良く知っておられるお言葉でしょう。そうです。律法とは、神さまを心から愛すること、そして人を、隣人を自分のように愛すること、この二つの事柄で成り立っているのです。しかし、その本来あるべき心が、彼らの律法からは消えてしまっていた。だから、罪人を赦されるイエスさまを彼らは受け入れることができなくなっていたのです。
今朝イエスさまが語られた「腹を立ててはならない」という戒めもそうでしょう。殺しさえしていなければ、本当に人を愛していることになるのだろうか。そうではないことを、私たち自身、よく分かっていると思います。手を上げずとも、危害を加えずとも、私たちは相手を傷つける術を知っている。言葉によって、無視することによって、存在を否定することによって、私たちはどれほど人の命を奪っていることか。
しかも、それらに正当な理由をつけては、正義ぶることさえもある。皆さんにもきっとそんな経験がお有りでしょう。言葉や態度で傷つけられてきた経験が。そんな傷は一生涯癒えないことだってある。それなのに、その痛みを知っているはずなのに、どうして私たちは同じように人を傷つけてしまうのだろうか。隣人を自分のように愛するということは、自分がされたら嬉しいことをしていくことだ、って分かっているのに、逆に自分がされたら苦しくて苦しくて仕方がないことを、どうしてしてしまうのだろうか。
「姦淫してはならない」もそう。ある方はここは注意しなければならない、と言います。そうだと思います。ここでイエスさまは女性一般に対して言っておられるのではなくて、「姦淫」…、つまり夫のある女性、婚約者のいる女性に対してを問題視しておられるからです。
もちろん、女性一般に対しても不埒な気持ちを抱いてはいけないことは当然のことですが、家庭がある相手ということは、その家庭を壊す、と言うことです。たとえ、本人同士は愛し合っているということだとしても、家庭を壊す、誰かを傷つける、それは、正しいことか、と問われる。たとえ、実際にそういった行為に及んでいなくても、心の中ででもそういったことを企んでいるということは、正しいことか、隣人を自分のように愛することに反してはいないだろうか、と問われる。
パウロが語っていますように、今更ながら、私たちの心の中に巣くう罪を思わずにはいられません。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:18~24)。
最初に言いましたように、この戒めを聞くだけならば、私たちは罪の自覚しか生まれないのかもしれません。しかし、パウロは続けてこうも語っています。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と。だからこそのメシア、イエス・キリストでもある。この惨めでしかない私たちをお救いくださるために、イエスさまが十字架についてくださったことも、私たちは決して忘れてはならないのです。
では、このイエスさまの新たな戒めは、最初に言いました養育係でしかないのか、といえば、そうではないでしょう。律法には、「第三用法」というものあるからです。この「第三用法」とは、キリスト者となった者たちがいかに生きるべきかの指針を与えるもの、といった理解です。かつては、ルターはこの「第三用法」は語らなかった、と言われていましたが、ルターの説教や著作からも分かるように、ルターにとってもキリスト者の生き方は無関心ではいられないものでした。ですから、このイエスさまが語られた戒めも、単に「教育的用法」というだけでなくて、新たに私たちの在り方、生き方を照らすものとしても、見ていくべきでしょう。
そもそも、先ほどは、17節に記されていました、イエスさまは律法の完成者であるといった側面を見てきましたが、それは、律法の正しい解説者のみならず、イエスさまこそが律法の心も含めた完全なる実行者、まさに「完成者」でもあることを見逃してはいけないはずです。つまり、ここでも、この戒めは私たちの単独行動が求められているのではなくて、常にイエスさまとの繋がりの中で、教えられ、気づきを与えられ、導かれていくものではないか、と思うのです。とどのつまり、この「新たな律法」においても、イエスさま不在ではあり得ない。あくまでも、このイエスさまから学び続けるしかない、ということでしょう。
私たちは、単なる律法主義でもない、ただ罪悪感・罪の自覚に打ちのめされるのでもない、第3の道…、あくまでもイエスさまと共に、福音の・罪の赦しの中を生かされながら、律法の心を受け取って、歩んでいきたい。もちろん、出来ない、反省ばかり、といった道中かもしれませんが、それでも、このイエスさまの恵みに立ち返りながら、「神さまを愛し、人を愛する」ことを祈り求め続ける者でありたい。そう思います。
【週報:司式部分】2023年2月12日(日)10:30 顕現後第6主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 南谷なほみ 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 中山 康子
開会の部
前 奏 教会讃美歌187番のメロディによる前奏曲 J.G.ワルター
初めの歌 教会187番(1節) さかえにかがやく主の
1.さかえに輝(かがや)く 主のまえに集(つど)いて
かしこみひれ伏す 天地(あめつち)すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
あなたに希望を置く者の力である神様。私たちは弱く、やがて死すべき者であり、あなたなしには何も良き業ができません。
私たちがなすべきことを悟り、行うための恵みと力を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
第1の朗読 申命記 30章:15-20(旧約聖書 329 頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙I 3章:1-9(新約聖書 302 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 5章:21-37(新約聖書 7 頁)
みことばの歌 教会296番(1節) みまえにひれふし
1.み前にひれ伏(ふ)し 神を呼(よ)びもとむ、
思いとことばと おこないによりて
罪をばおかしぬ。 主、 あわれみたまえ。
アーメン
説 教 「 新しい戒め 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会346番(1節) はかりもしられぬ
1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会409番(1節) この世のうみに
1.この世(よ)の海に 船出(ふなで)しゆけば
風は吹(ふ)き荒(あ)れ 波はさかまく、
主よ先(さき)だちて 導きたまえ。 アーメン
後 奏 “O du liebe” Hans Klotz
【説教・音声版】2023年2月5日(日)10:30 教会総会主日礼拝 説 教 「 世の光として 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:マタイによる福音書5章13~20節
皆さんは今、この聖餐卓の上のロウソクの光が見えるでしょうか。
現代人の私たちの周りには大きな光が溢れています。日中はもちろんのこと、夜になっても光が溢れており、こんなロウソクの小さな光など役に立たない程です。しかし、いったん大地震などが起こって、一斉停電で暗闇の中に閉じ込められてしまうと、このたった一本の小さなロウソクから溢れる光によって、私たちはどれだけ励まされ、力づけられ、心おだやかにさせられることか。こんな時に、私たちは改めて「光」の存在の意味・意義を、覚え直すのかもしれません。
今日の福音書の日課は、「あなたがたは地の塩である。」、「あなたがたは世の光である。」という非常に有名なみ言葉と、イエスさまの律法理解について記されています非常に重要な箇所がセットになっています内容盛りだくさんの箇所ですが、総会礼拝ということで、いつも以上に時間が限られていますので、今回は「光」についてだけ、少し考えてみたいと思っています。
イエスさまは、弟子たちに、またイエスさまに従ってきた群集に向かって、つまり、私たちに向かって「あなたがたは世の光である。」と言われました。そうです。私たちは「世の光」なのです。そう言われると、賛否はともかく、なんとなく「塩」と言われるよりはイメージがつきやすいとは思いますが、では、そんな「光」とは一体何か、と言われればどうでしょうか。はっきりと答えられるでしょうか。
今日の旧約の日課であるイザヤ書では、このように記されていました。イザヤ58章6節から、「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で あなたの傷は速やかにいやされる。」。ここでの「光」とは、悪の束縛を断ち切り、虐げられている人々を解放し、飢えた人、貧しい人、困難な目に遭っている人々を助ける、そういった具体的なイメージが語られています。そうです。この「光」のイメージとして最初に思う浮かぶのはイエスさまです。イエス・キリストです。
そういえば、ヨハネ福音書は最初っからイエスさまを「光」として描いていました。1章3節から、「万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」、今回は聖書協会共同訳で読ませていただきましたが、そのように記されていました。
そもそも、何週間か前に、イエスさまの宣教のはじまりの時にもお話ししましたように、マタイ自身イエスさまの出現をイザヤ書の実現と見ていた訳です。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」。そういう意味でも、ここでイエスさまが語られた「あなたがたは世の光である」とのお言葉と無縁ではないはずです。むしろ、この「光」である、いいえ、「光」そのものであられるイエスさま抜きでは、私たちに語られた「世の光」といった事柄も、決して理解できないでしょうし、むしろ、誤解を生むような捉え方にならないとも限らないのです。
イエスさまが語られたように、私たちはすでに「世の光」なのです。皆さんも繰り返しお聞きになられて来られたでしょうが、これから「世の光」になることを求められているのでも、努力目標でもないのです。すでに、「世の光」なのです。しかし、その私たちが輝かせるべき「光」とは、私たち自身のものではないはずです。私たちの努力、人格、能力などから生み出されるような光ではない。そうではなくて、イエスさまとの繋がりの中でもたらされる光です。イエスさまを信じる。イエスさまと共に生きる。イエ

繰り返しますが、私たちがどう自己評価しようと、否定しようと、イエスさまは今現在、すでに、「あなたがたは世の光である。」と言ってくださっているのです。そのように、イエスさまご自身が、私たちを輝かせてくださっているのです。しかし、注意しなければいけないことは、そんな「光」を升の下に隠してはいないか、ということです。光は光自身が輝くのです。むしろ、その光を消すことなどできないはず。しかし、それを隠して、輝かないようにすることは出来てしまうかもしれない。それが、問われている。
私には繰り返し繰り返し立ち戻らされるみ言葉があります。
テモテへの手紙1 1章1
5節以下です。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」。自らの罪に悩み、ただ恵みによって救われたことを心から喜んで、この恵みの手本となることを心に決めたのに、いつの間にかその恵みを忘れてしまって、人を能力や力で測ってしまったり、あまつさえ人を裁く心さえも持ってしまう。そのことに気付かされては、反省させられ、立ち戻らせてくれる大切なみ言葉。私ふうの理解でいえば、そのように恵みを忘れてしまうことが、私の升になっているのかもしれません。

人を元気づけ、励まし、温かい心にする。もともと光には、そんな力がある。それで、いいではないか。目が眩むほどの強烈なスポットライトでなくても良いではないか。そんな小さな光でも、イエスさまの光ならば、結局は神さまをあがめる光にもなるのだと、そう思います。
【週報:司式部分】2023年2月5日(日)10:30 教会総会主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 八木 久美 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 上村 朋子
開会の部
前 奏 世のもろ人の頼みなるキリストよ J.S.Bach
初めの歌 教会184番(1節) きよきいしよ
1.きよき石よ イェス・キリスト
なれに勝(ま)さる いしずえなし。
み民は、 ここに宮をたて、 喜ぶ。
アーメン
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
主なる神様。あなたは限りない憐れみによって、求めるすべての者の祈りを受け入れてくださいます。
聖霊によって、なすべきことを私たちに教え、恵みによって、それを行う力を与えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
第1の朗読 イザヤ58書:1-9a(旧約聖書 1156 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 5章:13-20(新約聖書 6 頁)
みことばの歌 教会298番(1節) こころまよいゆくを
1.心まよいゆくをやめて 真(しん)の平和ねがい
いのち満つる歩み求め み国めざし進まん。
古き道を、いまぞあとに捨(す)てて
神の道に移(うつ)らん 、 新しきわが身。
説 教 「 世の光として 」浅野 直樹 牧師
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会412番(1節)ちちのかみ このわれを
1.父の神、 このわれを
平和めざし導きて
生命(いのち)なるイェスきみに
たより進ませたまえ。 アーメン
後 奏 神のみわざはただしく J.Pachelbel
【説教・音声版】2023年1月29日(日)10:30 顕現後第4主日礼拝 説 教 「 イエスの幸福論」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:マタイによる福音書5章1~12節
本日の説教題は、「イエスの幸福論」といたしました。
誰もが、幸せ・幸福になりたいと思うものです。幸いにして、と言いますか、私たちの日本国憲法にも、この幸福追求の権利が認められています。第13条です。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」。確かに、ここに「公共の福祉に反しない限り」とありますので、幸福追求といっても、何でもかんでも良いということではないでしょうし、一人一人が違った幸福の理解、つまり多様性があるということでもあるのでしょう。必ずしも確固とした共通理解がある訳ではない。
ですから、私たちはいろんなことを考えては、思い巡らせては、それらを追求しようとする訳ですが、しかし、案外、本当の幸せ・幸福とは何か、ということが分かっていないのかもしれません。
その点、イエスさまははっきりしています。イエスさまには、幸福・幸せの基準がちゃんとあるからです。それが、今朝の「山上の説教」でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」。
よく知られている「八福の教え」です。が、正直、どうでしょうか。このイエスさまの幸福の理解についていけるでしょうか。確かに、後半の「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」というのは、分かる気がします。「情けは人の為ならず」ではありませんが、何か良いことをしておけば、巡り巡って自分も幸せになれるのではないか、と思えるからです。しかし、前半は、あるいは、最後の「義のために迫害される人々」というのはどうでしょうか。果たして、これが、これらが幸せと言えるのだろうか。これで、幸せになれるというのだろうか。むしろ、不幸ではないか、と思われないでしょうか。そうだと思います。単純に見れば、そうとしか思えない。
このイエスさまの一風変わった、と言いますか、なかなかに独創的な「幸福論」を理解するためには、一つのポイントを押さえておかなければならないと思います。それは、「天の国」です。先週の説教でも言いましたように、これは「神の国」と言っても良い。この「八福の教え」の最初と最後に出てくることからもお分かりになるように、実は、この「幸いなるかな」というのは、この「天の国・神の国」で包まれているのです。
今日の日課の冒頭には、このように記されていました。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。イエスさまは、「この群衆を見て」山に登られて教えられた訳ですから、これらの教えを「山上の説教」と言っている訳ですが、では、「この群衆」というのは一体誰のことかといえば、先週も少し触れましたイエスさまが宣教されていった人々だった訳です。少なくとも、マタイはこの連続性の中で語っているように思います。
では、そのイエスさまが宣教をされていった群衆とは一体どんな人たちだったのか。それは、先週もお話ししましたように、イザヤが語った「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」たちでした。具体的に言えば、病める者たちです。悪霊に苦しめられてきた者たちです。いわゆる、「神も仏もあるものか」と言いたくなるような不幸な人たちです。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」とある通りです。
ある方はそんな群衆と弟子たちとを分けて考えておられるようです。「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」と記されているからです。ですから、聞く耳のあった弟子たちにはしっかりと教えられたが、いわゆる一般群衆には教えておられないのだ、だから彼らは理解できなかったのだ、と言われる。しかし、私にはそうは思えないのです。少なくとも、マタイを読む限り、これまでで正式に弟子になったのは、たったの4人だけです。そんな4人だけに向けてイエスさまは話されたのだろうか。いいえ、違うと思います。
もちろん、集まってきた群衆の中にも温度差はあったでしょう。真剣に話を聞こうとする者もいれば、冷やかし程度の者もいたかもしれない。しかし、それでも、群衆はイエスさまを慕って、期待して従ってきた。その人たちに向かって、もちろん、その中にはあの4人の漁師たちも、また新たに弟子になっていった人々もいたでしょうが、つまり、先ほど言ったような、イザヤに言わせると「暗闇に住」んでいた人々が、「死の陰の地に住」んでいた人々が、不幸でしかなかった人々が、イエスさまの話を聞いたのではないか。

不幸だと思っていた事柄が取り去られたから。自分たちも生活が変えられて、羨ましいと思ってきたあの人たちと同じようになれたから。いいえ、そうではありません。あなたがたが貧しいからこそ幸いなのだとイエスさまはおっしゃるのです。なぜなら、だからこそ、あなたがたは天の国を手に入れるのだから、と。
箴言に非常に興味深い言葉が記されています。30章7節以下です。聖書協会共同訳で読みます。「私は二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それらを拒まないでください。空いものや偽りの言葉を私から遠ざけ 貧しくもせず、富ませもせず 私にふさわしい食物で私を養ってください。私が満ち足り、あなたを否んで 『主とは何者か』と言わないために。貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために」。豊かになりすぎて、何も困らなくなると、神さまから心が離れてしまう危険があるし、かえって貧しすぎると悪事に手を染めて、神さまの御名を汚すことにもなりかねない。だから、どちらにも傾かないようなバランスで私を支えてください、と願う。非常に考えさせられる言葉です。
マタイでは、「心の貧しい人々」となっていますが、元々はルカが記していますように、ただの「貧しさ」を意味していたと言われています。どちらにしても、「貧しい」のです。綺麗事では済まないのです。腹が減って盗みにまで手を染めてしまうかもしれない。それが、本当に幸いなんだろうか。「悲しい」のです。涙が溢れて仕方がないのです。愛する者との死別を経験する。信頼し切っていた人からの裏切りを経験する。突然に財産をみんな失って無一文になってしまう。余命後どれだけと宣告されてしまう。悲しくて悲しくて仕方がない。それが、幸いなのか。ここでは「柔和」と訳されていますが、どうやらそんないいものではないらしいのです。もともとは「卑しい」「取るに足りない」という意味らしい。
ですから、織田昭(おだ あきら)という方は、この「八福の教え」をこう意訳しておられます。「神の前に、恥ずかしくも文無し同然の人間の幸いよ。悲しみに打ちのめされる人の幸いよ。何とも無力でみじめな人の幸いよ。」と。まさに、暗闇に住む者、死の陰の地に住む者。その現実が、どうして幸いだなどと言えるのか。そうです。それでも、イエスさまは、彼らは幸いだ、と言われる。決して、あなた方は不幸ではない、と言われる。なぜなら、あなたがたは「天の国・神の国」を得ることができるからだ。そのために、そのためにこそ、私が来たからだ。そうおっしゃってくださる。

イエスさまはそうではない、とおっしゃる。天の国・神の国はあなた方の只中に来たではないか、とおっしゃる。そのための私ではないか、とおっしゃる。だから、あなた方は幸いなのだ、と。なぜなら、貧しい者には、神さまが天の国を与えてくださるのだから。悲しむ者には、神さまが慰めてくださるのだから。自分には何もない、と落胆している者にも、神さまはちゃんと地を受け継がせてくださるから。この世に本当に正義などあるものか、と嘆くしかないような者にも、神さまがちゃんと正義を成してくださることを教えてくださるから、だから、あなた方は決して不幸ではないのだ。むしろ、幸いな人たちなのだ、とおっしゃられるのです。
それでも、綺麗事だと思われるでしょうか。こんなことでは、幸いになどなれないと思われるでしょうか。では、イエスさまは、イエスさまご自身はどうだったでしょうか。イエスさまは不幸だったでしょうか。人々から冤罪を押し付けられ、弟子たちからも裏切られ、見捨てられ、十字架につけられていったイエスさまは不幸だったでしょうか。自分の生涯は、結局は不幸でしかなかったと嘆かれたでしょうか。そうではなかったでしょう。
私自身のことで言えば、父を早くに亡くし、再婚相手の義理の父から虐待を受け、実の 母からも虐待を受け、そのせいか人間不信・人間嫌いに陥り、正直、今も引きずっている部分がないわけじゃない、そんな私は不幸なのか。そうです。不幸です。不幸だと思って来ました。イエスさまと出会うまでは。そういう意味では、私自身も、このイエスさまによって幸いを知らされた者です。

【週報:司式部分】2023年1月29日(日)10:30 顕現後第4主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 中山 康子 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 小山 泉
開会の部
前 奏 ただ御神のみ 委ねまつる者は J.S.バッハ
初めの歌 教会152番(1節) いざや主をほめよ
1.いざや主をほめよ 声のかぎりに
あめつちを治(し)らす 愛のみ神を。
なやめる心に 安きをたまいし わが主をたたえん。
アーメン
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
聖なる神様。あなたは心の貧しい人々、心の清い人々に御国を与え、この世の知恵を空しいものとされました。
私たちのことばと行いを通して、この世が御子の生涯を受け止めることができますように。
(また)義に飢え渇き、平和を力強く求める心を私たちに与えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン
第1の朗読 ミカ書 6章:1-8(旧約聖書 1455 頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙I 1章:18-31(新約聖書 300 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 5章:1-12(新約聖書 6 頁)
みことばの歌 教会238番(1節) いのちのかて
1.いのちのかて 主よいま
与(あた)えたまえ この身に。
聖書(みふみ)学ぶ わがたま
生けることば あこがる。
アーメン
説 教 「 イエスの幸福論 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会339番(1節)イェスきみはめぐみの主
1.イェスきみは恵(めぐ)みの主、 罪びとあわれみたもう。
道なる主、 義(ぎ)なる主は ひかりといのちを示さん。
朝日のごとくに 現われ来たりて、
死のくさり解(と)きはなち 罪びと生かしめたもう。
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会346番(1節) はかりもしられぬ
1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。
後 奏 後奏曲 C.フランク
【説教・音声版】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝 説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師
聖書箇所:マタイによる福音書4章12~23節
本日の福音書の日課には、イエスさまの宣教のはじまりについて記されていました。
イエスさまは、こう語っていかれました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。マルコによる福音書では、「神の国」となっています。どちらも同じ意味です。ご存知のように、ユダヤの人たちは、神さまの名前をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に守っていましたから、「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っただけです。この「天の国」・「神の国」は、「国」とありますけれども、日本やアメリカ、中国など、どこかの特定の土地にある「国」を指すのではありません。むしろ、「神の支配」と言った方が良い、とも言われます。
もともとは、そういった意味です。よく「神の国運動」といった言い方がされますが、イエスさまがはじめられた、成された宣教とは、この神さまの国、神さまが支配される世界を宣べ伝えることにありました。これは、決して忘れてはならないことだと思います。ですから、後にイエスさまが成された具体的な事柄、例えば病を癒されたり、悪霊を追い出されたり、供食の奇跡をされたり、「山上の説教」に代表されるような教えを宣べられたりしたのは、この神の国・天の国のためだった訳です。
今日の日課の直後になりますが、4章23節以下に、このように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」。
ご存知のように、イエスさまの周りには、いつもこれらの人たち、病人、怪我人、悪霊に苦しんでいた人、罪人と言われる人たち、社会的弱者たちが取り巻いていました。医学・医療技術も発達していない2000年も前のことです。江戸時代よりも平安時代よりも、もっともっと昔のことです。医者や薬があったって、治せない、治らない。怪我をしたら仕事もできなくなる。収入がなくなる。親、兄弟、いろんな人々に傷つけられて、精神的に参ってしまった人たちは、悪霊憑きなどと言われ、余計に居場所がなくなってしまったかもしれない。
とにかく、今よりもはるかに「生きにくい」時代、世界です。しかも、それらの不幸は、お前たちの罪のせいだ、神さまから見捨てられたのだ、罰を受けたのだ、と責められる始末。救いなどない。希望など見出せない。それが、彼らの現実だった。
今日の日課の冒頭で、イエスさまはイザヤ書の言葉の実現のために、故郷のナザレを離れ、カファルナウムの町に来て住まわれたことが記されていました。それは、16節、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰に住む者に光が射し込んだ」と福音書記者マタイは理解したからです。そうです。ここにいる人々の現実は、「暗闇に住む民」「死の陰に住む者」だった。その人々のところに、光であるイエスさまが来てくださった。
少なくともマタイはそう理解した。そう確信した。だから、これはマタイしか記していませんが、イザヤ書8章から9章の言葉が実現したのだ、とわざわざ書いたのです。イエスさまは、そんな光なのです。暗闇を、死の陰を照らす光なのです。そして、それが、それこそが、神の国、神の支配。神さまからも見捨てられていたと思っていた。神さまから嫌われていると思って来た。神さまに罰せられていると思い込んで来た。そう思わせされてきた。だから、病にかかったんだと。病が治らないんだと。怪我をしてしまったんだと。精神を病んでしまったんだと。
不幸に見舞われているんだと。もう諦めるしかない。絶望するしかない。ただ、何も期待しないで生きるしかない。それが、それだけが、この過酷な世界、運命を生きる知恵。そう思ってきた。しかし、違っていた。そこにイエスさまが来られた。神さまは決してあなた方を嫌ってもいないし、見捨ててもおられないし、むしろ立ち返って、神さまの御業を見ることを、体験することを求めておられるのだ。神さまはあなた方の只中にいてくださる。これが、その証拠だ。ほら、ここに神さまの力があるだろ。
ここに、神さまのみ業があるだろ。これこそが、あなた方を神さまが救ってくださる何よりの証拠ではないか。愛して、気遣ってくださっている証拠ではないか。そう、神の国は近づいたのだ。だから、私が来た。私が来て、病を癒し、悪霊を追い出し、福音を伝えているのだ。それが、イエス・キリスト。人々を照らす光。

この賀川豊彦氏について詳しくお話しする時間はありませんが、身近な例で言えば、「生活協同組合」を作った人です。古屋先生も指摘されていますように、日本ではいわゆる「教会派」と「社会派」とが̶̶最近はあまり聞かなくなりましたが、かつては、特に日本基督教団では大 変な騒動でした̶̶長年対立して来たことが、日本における宣教の不振につながっている のではないか、というのです。
「教会派」とは、極端な言い方をすれば、社会の現状に無関心とまでは言いませんが、とにかく教会形成を第一に考えて、どちらかというと内向きな姿勢になっていると言われています。逆に、「社会派」の方は、これも極端な言い方になりますが、とにかく社会変革を考える、優先する。一頃では、そういった「社会派」と言われる教会での説教では社会問題ばかりを取り扱って、キリストの「キ」の字もでなかったと聞き及んでいます。
古屋先生は、そのどちらも違う、欠けている、「神の国」的でない、というのです。イエスさまの宣教とは、まさに社会の只中に切り込んでいくものでした。社会の現実の中で、暗闇に、死の陰に座り込まざるを得ない人々の只中で福音を宣べ伝え、神さまの御業を実現することでした。ですから、時に、そんな社会を作り上げていた主流派の人たちとぶつかることにもなった訳です。そういう意味では、社会変革とも言えるのかもしれません。
しかし、何でもかんでも社会を変えることが目的ではなかった訳です。あくまでも「神の国」の実現、神さまのご支配の実現をこそイエスさまは願い、働かれたのです。そこも見失ってはならない。ですから、古屋先生も、「宣教」の大切さを指摘しておられます。しかし、ただ「教会」を作っていくためだけの宣教ではありません。イエスさまがなさったように、神の国を宣教していくのです。それが、それこそが、日本においてキリスト教の不振を打開する術ではないか、と訴えておられる訳です。私自身は、大いに刺激を受けた思いが致しました。
ともかく、イエスさまは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教されていきました。そして、このマタイ福音書は、その直後に、弟子の召命物語を記しています。当然、このイエスさまの宣教と弟子たちとが無縁ではないからでしょう。ここで今日考えたいことは、この漁師たちが、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちが、私たちが良く知っている使徒たちが、ごくごく普通の漁師だった、ということです。なんら特別な人ではなかった。イエスさまがまず宣教の業に加わらせるために弟子として選ばれたのは、普通の人です。
生涯を禁欲的に生き、厳格に自分を律し、正義のために殉じた、人としては罪から最も遠かったであろう洗礼者ヨハネではなかった。確かに、弟子の中にはパウロという特別な存在はいたと思いますが、その多くは普通の人だったと思います。私は、それが大切なのだと思うのです。

イエスさまに声をかけられ、イエスさまと一緒の生活がはじまった、ということ。そういう意味では、他の人たちと何ら変わらない普通の人間だけど、その普通さの中にイエスさまが入ってこられ、その普通の出来事の中にイエスさまの御業を経験してきた、体験してきた、それだけが唯一の違いです。私たちだって、イエスさまの弟子だって、「普通」に夫婦喧嘩だってする。親子の諍いだってある。口は災いの元とばかりに後悔する。いろんなことに落ち込んだり、悩んだりの毎日。他人がどう評価しようと、私たちなりの暗闇を、死の陰を経験するのです。
でも、そこで光を感じた。イエスさまが助けてくださった。信仰を持っていて良かった。そう言える、そう感じられる日々、出来事がある。それだけの違い。それが良いのです。その普通さこそが、このイエスさまの宣教に用いられるのだと思うのです。だからこそ、イエスさまは、ただの、普通の漁師たちを弟子として選ばれた。そうではないでしょうか。
私たちは今日、もう一度心新たにして、宣教の志を立てたいと思う。それは、あえて誤解を恐れずに言えば、教会の、私たちルーテル教会、ルーテルむさしの教会のためだけではないはずです。そうではなくて、神の国のために、神の国がもっともっと広く世界を、この日本を包み込むためです。そのために、私たちは宣教する。普通人の私たちが宣教するのですから、そんな大したことはできません。
大それたことなど、はなから求められてもいないのかもしれません。普通の私たちが、普通の生活の中で味わった神さまの恵み、イエスさまの力、そのありがたさを証しすればいい。イエスさまから学べば、もっと生き方が楽になるかもしれないし、小さな良いことを積み重ねることができるようになるかもしれないし、社会が少しずつでも御心に叶うように、弱き人たちも報われるような世界になっていけるのではないか、そう共感し合えればいい。それも、神の国の宣教。そうではないでしょうか。
【週報:司式部分】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝
司 式 浅野 直樹
聖書朗読 市吉 伸行 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 萩森 英明
開会の部
前 奏 「今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ」J. Pachelbel
初めの歌 教会190番(1節) 主のみ名によりてつどう
1.主のみ名によりて 集(つど)うところに
主は ともにいまし なかに立ちたもぅ。
いまなお主イェスは われらの閉ざせる
戸のなかに在(ま)す。
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部
特別の祈り
“主なる神様。あなたの慈しみはいつも私たちと共にあり、
進む道を先立って導き、またその後ろを守ってくださいます。
御光の中へと招き、御子の十字架によって与えられる善き道の歩みを導いてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン”
第1の朗読 イザヤ書 8章:23-9章:3(旧約聖書 1073 頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙I 1章:10-18(新約聖書 299 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 4章:12-23(新約聖書 5 頁)
みことばの歌 教会293番(1節) つみあるものをも
1.罪あるものをも 愛する神は
ほろびを好(この)まず 救いをたもう。
心にいたみを 覚(おぼ)ゆる時にも
み言葉かしこみ み神にたよらん。
説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師
感謝の歌 教会287番(1節) 主イエスのみたみよ
1.主イェスのみ民(たみ)よ 目を高くあげよ 春は来たりぬ。
世界の果てまで みことばの種は 芽生えそだちぬ。
主よ主よ 捕(と)らわれびとらはゆるされ 喜びうたえり。
アーメン
信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会409番(1節) この世のうみに
1.この世(よ)の海に 船出(ふなで)しゆけば
風は吹(ふ)き荒(あ)れ 波はさかまく、
主よ先(さき)だちて 導きたまえ。 アーメン
後 奏 「われに従えと、われらの強き主は言い給う」K. Roeder