次週説教

【 テキスト・ライブ版】2020年10月25日 説教「 真理はあなたを自由にする 」 浅野 直樹 牧師

宗教改革主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書22章34~46

本日の礼拝は、宗教改革を記念した礼拝でございます。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、いわゆる「95ヶ条の提題」が掲げられたことによります。ただ、宗教改革と言いましても、500年も前の時代も文化も状況も異なる中での出来事ですので、ぴんとこないのも無理からぬことでしょう。しかし、その時代にあっても、今日の私たちと同様に人は生きていました。生活をしていました。

ペストの大流行があり、貧困も、格差も、差別も、死の現実もあった。その中を、か細い期待と不安を持ちながら人々は生きていた。そんな人の営みということにおいては、今日の私たちと変わらないものがあるようにも思います。そして、その只中で…、その歴史の、現実の只中で神さまが働かれた。ある人(人々)を立てて、御心のままに時代を、世界を導いていかれた。

この宗教改革の出来事に思いを向けるとき、そんなことも考えさせられるように思います。そして、そんな神さまの働きは、あの宗教改革の500年前だけでなく、今日においても、私たちが生きるこの現代においても起こる、起こり得る、いえ、現に起きていると信じることができる。そうではないか、と思うのです。神さまが歴史に、この現実世界に働きかけられる。それも、宗教改革を記念する一つの大切な側面なのではないでしょうか。

「信仰による自由」。宗教改革者ルターが強く訴えたことです。ルターの最もよく知られた著作である『キリスト者の自由』の中にも、そのことがしっかりと記されている。しかし、それらをお読みになれば分かるように、ここでルターが語る「自由」と現代の私たちが考える「自由」とは随分と印象が違っています。ルターが語る「自由」とは信仰と、つまり神さまと深く結びつけられた「自由」だからです。

ここで私がいちいち言う必要がないほどに、この「自由」ということが人類共通の価値であることに異論はないでしょう。「自由」の大切さ、有り難さ、その恩恵を知っている私たちにとっては、いくら経済的な発展が著しいとしても、「自由」が抑圧されるような社会には生きたいとは思わないでしょう。そんな人類共通の価値である「自由」。その本来素晴らしいはずの「自由」が、悲しいかな歪んでしまう現実もある。この自由ということに限らないことですが、悲しいことに何故か私たち人類は、本来は良いものであったとしてもそれらを歪めてしまうことが多いのです。この幸いなる「自由」も、自分勝手・自己中心に歪めてしまうことが多い。人類共通の価値である「自由」の名に元に、他者を圧迫し、搾取し、苦しめることも起こってくる。

それは、今日の福音書の箇所で言えば、「罪の奴隷」ということになるでしょう。私たち人類は、悲しいかなこの「罪の奴隷」なのです。あらゆる良いものを、この罪のゆえに捻じ曲げてしまう。自分の都合の良いように。自分の願を叶えるために。それも、私たちが見ている世界の現実、また私たち自身の中にも巣食っている現実でもあるのだと思うのです。

だからこそ、人類共通の価値である「自由」であっても、それだけではダメなのです。自由でいるように思っていても、それは本当の自由ではない。罪のゆえに歪んでしまっている自由に過ぎない。ですから、その本来良きものである自由を取り戻すためには、私たち以外の別の何かが必要になってくるのです。それが、イエスさまが与える真理だ、と聖書は語る。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

Low panel (Martin Luther preaching before a Christ). By Attributed to Lucas Cranach the Younger – The Bridgeman Art Library, Object 23264, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30282859



最初にルターの「信仰による自由」ということを言いましたが、今朝の福音書の日課でも、この「自由」ということとイエスさまとが非常に強く結び付けられていることがお分かりになると思います。そして、自由ということを考える上でも、そのことは決して見落としてはならないのだと思うのです。

真の自由とは罪を認める、ということです。自己否定をする、ということです。無力さを知る、ということです。救いの御業(福音)を素直に、そのまま受け入れる、ということです。それらは、真の自由がなければできないことです。なぜならば、それらは、生まれながらの自分に、罪の奴隷である自分に反することだからです。私たちは、何かと理由をつけながら、自分を正当化し、それらを避けたいと思う。私たちにとっては好ましくも、嬉しくもないことだからです。

私たちにとって大切なこととは何でしょうか。何を優先させるのでしょうか。何を真実とするのでしょうか。何に信頼を置き、従うのでしょうか。己か、社会か、それともキリストか…。「真理はあなたたちを自由にする」と言われますが、その真理とはイエスさまの言葉を、み言葉を聞くところからしか、受け入れるところからしか生まれないのです。たとえば、「汝の敵を愛せよ」とのみ言葉を聞く。その言葉をしっかりと受け取る。そこからしか、憎しみを断ち切る、憎悪から、復讐心から解き放たれる自由な道は始まらないのです。

もちろん、それらは決して楽な道ではありません。ある意味、茨の道とも言えるのかもしれない。なぜならば、私たちは憎むことですっきりするからです。復讐心に燃えている方が楽だからです。真理は、イエスさまの言葉は、そんな自分たちの自然な思いを越えていかなければならなくする。それが、辛い…。しかし、そのみ言葉が、イエスさまが私たちの幸いを思って語ってくださっているそのみ言葉が、み教えが、うずくまってしまいそうになるそんな私たちの背中を押してくださる。決して自分では前に向かっていけそうにない思いを抱いていたとしても、力強く前へ、前へと押し出していってくださる。それが、み言葉。それが、イエスさまの真理。

み言葉があるから、イエスさまが私たちを教え諭してくださるから、変なこだわりを捨てる、偏見を捨てる、差別意識を捨てる、そんな自由な歩みが始まっていくのだと思う。もちろん、繰り返しますが、それは決して楽な道ではないでしょう。どうしても祈らざるを得ない道でもある。それでも、そこからしかはじまっていかないみ言葉に照らされた自由への、解放への道があるのだと思うのです。

ルターもそうです。私自身もそうです。皆さんもそうだと思う。このみ言葉によって変えられた人生がある。完全に、とまでは言えませんが、それでも自由とされた人生がある。支えられた人生がある。力づけられた人生がある。いろんな厳しさを乗り越えることができた人生がある。

そして、これからも…。これからも、このイエスさまのみ言葉が、真理が私たちを自由にしてくださいます。生きる上でばかりでなく、死の不安、恐れからも。そうではないでしょうか。そんなみ言葉の現実が、神さまの働きが、今を生きる私たちの上にも確かにあることを、この宗教改革を記念する日に、新たに心に刻んでいきたいと思います。

 

祈り

本日は宗教改革を記念した礼拝の時を持つことができましたことを心より感謝いたします。当時と今日の私たちの状況とは大きく異なっていますが、それでも、先人たちが力強く信じ証ししていった福音の真理を、またみ言葉に対する姿勢を、私たちもしっかりと受け取り、自分のものとして生きていくことができますようにお導きくださいますようお願いいたします。

私たちの敬愛する姉が、18日にあなたの元に召されていかれました。私たちにとっては悲しく寂しいことですが、今姉はあなたの懐に抱かれ、永遠の平安に預かっていることを信じます。どうぞ、残されたご家族の上に、あなたからの豊かな慰めがありますように。また、その信仰を強めてくださり、なおも力強くあなたにある希望に生かしていってくださいますようにお願いいたします。



本日は特に神学校を覚えて献金をお捧げしています。このコロナ禍にあって神学校も大変な状況にあると思います。どうぞ在校生たちをお守りくださり、このような状況下の中にあっても、その信仰と志を強めてくださり、良き訓練を受けていかれるようにお導きください。また、教職の先生方、チャプレン、職員の方々もどうぞお守りくださいますように。神学生が減少していますが、志をもつ者たちが与えられますようにもお導きください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報-  2020年10月25日 宗教改革主日礼拝



 

司 式   浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏 楽   苅谷 和子

前 奏   Trumpet Tune   Ⅾ.ジョンソン

初めの歌   教会119( 神の霊よ )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
全能の神、恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いでみことばのうちに堅く保ち、
あらゆる誘惑とみことばの敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平安を与えてください。
あなたと聖霊と共にとこしえにただひとりの神であり、世の終わりまで生きて治められる
み子、主イエス・キリストによって祈ります


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第1の朗読  エレミヤ書 31:31-34( 旧約 1237頁 )
第2の朗読  ローマの信徒への手紙 3:19-28( 新約 277頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読  ヨハネによる福音書 8:31-36( 新約 182頁 )

みことばのうた  教会240( み言葉によりて )

説教      「 真理はあなたを自由にする 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌    教会322( 主なるイェスは )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌   教会450( ちからなる神は )

後 奏    われわれの神こそ堅い砦   R.フレンツェル

-週報-  2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日礼拝



 

司 式   浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏 楽   上村 朋子

前 奏   強き王なる主をほめまつれ F. Zipp

初めの歌   教会172( つくりぬしを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
主よ。
み民の罪を赦してください。
私たちが弱く、悪に誘われるとき、闇の支配をみ力で打ち
砕いてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

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第1の朗読  イザヤ書 45:1-7( 旧約 1135頁 )
第2の朗読  テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10( 新約 374頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 22:15-22( 新約 43頁 )

みことばのうた  教会238( いのちのかて )

 

説教      「 真理を語る 」 浅野 直樹 牧師

 

感謝の歌    教会328( 主イェスに従う )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌   教会403( わが霊なやみて )

後 奏    我がイエスよ 我は離れず J. G. Walter

-週報-  2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日礼拝



聖霊降臨後第19主日礼拝

司  式  浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
説  教  浅野 直樹
奏  楽  萩森 英明

開会の部
前  奏  み門に入り給え G. Liardon

初めの歌 教会181( ここにいます )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
主なる神さま。
あなたは、私たちをあなたのぶどう園で働くように招き、
誰ひとり空しく立たせられません。私たちにみ国の務めを与え、
生涯あなたの知恵によって歩ませてください。
み子、主イエス・キリストによって祈(いの)ります。

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第1の朗読 イザヤ書 25:1-9( 旧約 1097頁 )
第2の朗読 フィリピの信徒への手紙 4:1-9( 新約 365頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 22:1-14( 新約 42頁 )

みことばのうた 教会348( たえなるめぐみの )

説教 「 あなたも招かれている 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌   教会382( ここはかみの )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   教会460( こころみうけ )

後  奏   おお主よ心より汝を愛しまつる J. F. Alberti

【 テキスト・音声版】2020年10月11日 説教「 あなたも招かれている 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十九主日礼拝説教(むさしの教会)



聖書箇所:マタイによる福音書21章1~14節

今朝の福音書の日課も譬え話でした。このところ、譬え話が続いていますが、テーマは共通しています。当時の宗教的指導者たちを非難するために語られたものです。

彼ら宗教的指導者たちは、「宮清め」をしたイエスさまを問いただします。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。なぜならば、宮清めをはじめとしたイエスさまの言動は、彼らにとっては自分たちの宗教的権威を傷つけているようにしか、あるいは挑戦して来ているようにしか思えなかったからです。

先週の繰り返しになりますが、イエスさまの言動は彼らの「当たり前」とはことごとく相入れないものでした。特に、彼らにとって我慢ならなかったのは、罪人たちとの向き合い方です。イエスさまは罪人たちを、正しくない人々を招いていかれた。それが、赦されざる背徳と彼らには映っていた。当然でしょう。私たちにだって同じような思いがある。

相手は徴税人です。特権を傘に私腹を肥やすような輩です。詐欺まがいのことをして稼ぐ悪徳商法と言っても良いのかもしれない。あるいは、娼婦。不道徳な生活をしている女性です。そんな人たちは地獄行きだ、とまでは思いませんが、しかし、あえて付き合いたいとは思わないでしょう。できれば、そんな人たちとは関わりを持ちたくないと思う。そんな社会で評判の人たちが教会に来て御覧なさい。あなたたちのような人々が来るようなところではない、と追い返すようなことはしなくとも、内心は何でうちに来たのか、早く帰ってくれないかな、もう二度と来ないでほしい、と思わないだろうか。そんな彼らを「ふさわしくない」と忌み嫌う気持ちも分からないわけではない。

しかし、イエスさまは彼らこそが神さまに招かれている、と語られる。正しく生きて来たあなた方以上に、神さまはそんな彼らをこそ待ち望んでおられるのだ、と教えられる。それは、自分たちこそが「ふさわしい」と思ってやまない宗教的指導者たちにとっては、とても受け入れられるようなものではなかったこともうなずけるように思います。

Parable of the Great Banquet by Brunswick Monogrammist (circa 1525), location: National Museum, Warsaw ワルシャワ国立博物館



しかし、実はそれが罪なのです。いかにそれが正しく思われても、正当な理由のように思えても、神さまの御心よりも自分たちの思いを優先させることが罪なのです。そういう意味では、宗教的指導者たちが忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちは、まさに罪人だった。いろいろと理由を挙げては、神さまから離れていることを、御心に従い得ないことを正当化し、自分たちの「生」を顧みることをしなかった彼らは、確かに罪人だったのです。そういう意味では、宗教的指導者たちの指摘もあながち間違ってはいなかった。

しかし、そんな彼らは預言者たちの言葉を聞いて、洗礼者ヨハネの宣教に触れて、そして何よりもイエスさまの招きによって悔い改めていきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そう、罪人が悔い改めていのちを得ることこそが、何よりの神さまの御心だから、なのです。だからこそ、悔い改めた罪人こそが神さまの御心に叶ったことになる。それが、今までの譬え話の言いたかったことですし、その思いが、今朝の譬え話の中にも流れている訳です。

今朝の譬え話の前半には、王さまが催された王子の婚宴に招かれていた人々が来なかったことが記されていました。王さまとは神さまのこと、王子とはイエスさまのことを指していることは明らかです。その婚宴に宗教的指導者たち、あるいはもっと広く言えばイスラエルの人々が招かれていた。これは、大変名誉なことでしょう。普通の人々が王族の婚宴に招かれるようなことはまずないでしょうから。

みなさん、どうでしょうか。ある日突然、皇族の婚礼の祝いの席に招かれたとしたら、腰を抜かすか、あるいはほっぺたをつねりたくなるほどに信じられないことが起こったと思わないでしょうか。そんな、そもそもありえないことが起こったわけです。いわゆる特別待遇です。しかも、招かれているのは婚宴です。婚宴とは、結婚する二人にとってはおそらく一生に一度の人生最大の祝福された時と言えるでしょう。誰もが、幸いを味わえるような時。

当事者はもちろんのこと、その祝いの席に連なる一人一人も、思わず笑顔が溢れるような、祝福と喜びが満ち溢れるような出来事です。お酒も入って、美味しい料理をいただきながら大いなる祝福をいただく。そんな幸いなる、また名誉溢れる婚宴に招かれたのですから、喜び勇んで行かない手はないはずです。なのに、招かれていた人々はことごとく行かなかった。なぜか。「畑に行った」「商売に出かけた」とも記されていますので、理由はいろいろと考えられるのでしょうが、私自身は王子の婚宴だったということも大きいのではないか、と思うのです。

王さまが催す宴会ならば、喜び勇んで出席したかもしれませんが、それが王子の、つまりイエスさまの祝いの席だったからこそ、彼らは無視した、拒絶した、と言えるのかもしれない。王子を、つまりイエスさまを神さまの子どもとして認めていないからです。受け入れていないからです。ともかく、本来その婚宴に招かれるにふさわしいと思われていた人々は、その婚宴に来ることを拒み、「ふさわしくない」者とされてしまったのです。そして、今度は、本来はその婚宴の名簿からは漏れてしまっていた、つまり「ふさわしい」者とは思われていなかった人々が、招かれることとなった。しかも、ちょっと乱暴とも思える手当たり次第の様子で、「善人も悪人」もおかまい無しに婚宴に連れて来られることになった訳です。

これは、先ほど来言ってきましたように、本来「ふさわしくない」と思われていた罪人や、またユダヤ人から見れば「ふさわしい」とは思えなかった異邦人に、イエスさまの婚宴の招きが移ったことを意味する訳です。確かに、そうでしょう。しかし、今日の譬え話には、今までとはちょっと違った意味も加わっていることにお気づきになられていると思います。なぜならば、そのように「ふさわしくなかった」者たちが招かれているにも関わらず、そこから取り除かれる人がいたからです。つまり、「礼服」を着用していなかった人のことです。

この「礼服」については、いろいろなことが言われていますが、婚宴にふさわしい服装から、この「ふさわしさ」という視点は見落としてはならないと思います。つまり、本来的には「ふさわしくなかった」者が「ふさわしくなる」という視点です。しかし、この「ふさわしさ」は資格ではありません。それを受けるに「ふさわしい」資格などないのです。善人でも悪人でも良かったのです。むしろ、本来資格ありと思われていた人々が招きに答えなかったが故に、ふさわしくないとされたほどです。

では、ここで言われている「ふさわしさ」とは何か。礼服を着ることです。ただ、それだけのことです。他の装いではない。婚宴にふさわしいのは、喜びを共に喜ぶ、祝福の中に招き入れられることを心から感謝していく、婚宴に招かれていることをただそのまま喜んで受け取る、素直に祝いの中に身を置く、祝福に預かる一員となる、その装いが婚礼の礼服だからです。言い方を変えれば、その招きをその招きのまま受け入れるということでしょう。

自分はふさわしいかどうかなどどうでも良い。たとえ悪人であってもここに招かれている。だから、その主人のもてなしをそのまま喜びと感謝をもって受け取る、受け入れることこそが礼服を着る者の姿なのではないか、と思う。この招きへの「ふさわしさ」とは、ただそれだけである、ということをもう一度自問自答しながら、その恵みを受け取っていきたいと思います。

《祈り》
・台風と前線による大雨の影響が心配されます。どうぞ大きな被害などが出ませんようにお守りください。

・先週木曜日(8日)に、あいにくの雨の中でしたが十字架の設置も無事に行われ、鐘楼の修繕工事が完了いたしました。まだ足場の解体工事は残っていますが、ここまでもお守りくださいましたことを心より感謝いたします。この新たにされた鐘楼と十字架もあなたが聖めてくださり、あなたのご栄光のためにお用いくださいますようお願いいたします。また、なおもこの教会堂を祝福してくださって、大規模修繕も残っていますが最善なる導きをお願いいたします。

・再び都内でも徐々に新型コロナの感染が広がっているように見受けられます。一旦は落ち着きを見せていた欧米でも再びロックダウンに踏切らざるを得ない状況にあるとも聞きます。長期間にわたるこの新型コロナの影響で、だんだんと注意力が削がれて行ってしまっているのかもしれませんが、あまり気持ちを緩めすぎることなく、個々人においても社会においても、しっかりと感染症対策に引き続き取り組んでいくことができますようにお導きください。

・今年のノーベル平和賞がWFP(「国連世界食料計画」)に決まったと報道されていますが、依然として7億人以上の人々が飢餓で苦しんでいるとも言われています。特に紛争地域では深刻で、またこのコロナ禍でより深刻度が増したとも言われています。どうぞ憐れんでくださり、私たちも含めて多くの人々が支援に動き出すことができますようにお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【 テキスト・音声版】2020年10月4日 説教「 実を結ぶ期待 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十八主日礼拝説教



マタイによる福音書21章33~46節

今日の日課も譬え話になります。この譬え話は、先週の二人の息子の譬え話…、父親からぶどう園で働くように言われた兄の方は、最初は嫌がって断った訳ですが、後で思い直してぶどう園に行った訳ですが、弟の方は最初は快い返事をしておきながら結局は行きま
せんでした。そこから、父親…、つまり神さまの望みに答えたのはどちらか、ということで、結局は弟のような祭司長や民の長老たちのような宗教的指導者たちではなくて、彼らが罪人と忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちの方が兄のように神さまの望みに答えたことになると結論づけられた訳です。つまり、早い話、イエスさまに権威についての問答を迫った宗教的指導者たちを非難するためだった訳です。そして、今朝の譬え話もその流れの中にある譬え話となる訳です。

今朝の譬え話は、イスラエルの歴史を、そして今を、これからを表しているように思われます。ここで言われている「ぶどう園」はイスラエルの民たちを表すのでしょう。その民たちを養い、成長させ、実を実らせるために、神さまは「農夫」たちにその管理をお任せになられました。そして、その「農夫」こそが宗教的指導者たちです。もちろん、それは、現在ばかりでなく過去をも含めてのことでしょう。神さまは必要な時期に、事あるごとに僕たちをこのぶどう園に遣わされました。つまり、預言者たちです。しかし、彼らはそんな預言者たちを、袋だたきにしたり、殺したり、石で打ち殺したりしてしまったと言います。

旧約聖書を読んでいきますと、迫害されなかった預言者などいないかのようです。では、なぜそんなにも神さまが遣わされた預言者たちを彼らは受け入れようとしなかったのか。悔い改めを迫られたからです。預言者たちは、民たちの誤りを説き、悔い改めを迫っていきました。しかし、それが気に入らない。望まない事柄ばかりを語る預言者たちが鬱陶しく思えて来る。自分たちが信じている、理解している、またそうであって欲しいと望んでいる神さまの姿とは別の事柄を語ってやまない彼らを、偽物としか思えない。神さまに反する者としか受け止められない。だから、神さまの名の下に迫害する。殺していく。本当は、そんな預言者たちこそ、神さまが遣わされた人々だったのに。

前述のように、先週の譬えのところでも、宗教的指導者たちが弟の側になってしまったのも洗礼者ヨハネを受け入れなかったからだと言われています。逆に、罪人であった徴税人や娼婦たちが兄の側になれたのは、洗礼者ヨハネを受け入れたからです。悔い改めを説いていった、赦される必要性を語り聞かせていったヨハネの言葉に心動かされたからです。ただ、それだけの理由で、罪人である彼らは神さまの望みに応える者になれた。

ぶどう園と農夫のたとえ Marten van Valckenborch Parable of the Wicked Husbandmen between 1580 and 1590 Kunsthistorisches Museum, Vienna, Austria イエス・キリストが中頃左上で2司祭に話しかけている。山間のぶどう園、遠景には美しくのどかな街並み、右下で集団で使用人を殺している農夫が描かれている



そして、彼ら宗教的指導者たちは、神さまが最後に送られたご自分の子・御子を受け入れないどころか、十字架にかけて殺してしまった。これから起こることです。では、なぜ彼らはイエスさまを受け入れなかったのか。殺すほどに憎んだのか。妬みのためだ、と言われます。確かに、そういった一面もあったでしょう。しかし、そんな彼らの信仰観とイエスさまの言動とが、ことごとく食い違っていたからでもあると思うのです。特に、彼らが許せなかったのが、イエスさまが罪人たちの友となられたことでした。彼らは神さまの戒めを守りません。汚れた不道徳な生活を送っています。宗教的熱心さも圧倒的に欠けています。そんな彼らは、指導者たちにとっては裁かれて当然な人々なのです。神さまに呪われて、罰せられて当然な人たちなのです。

自分たちとは明らかに違う。そんなやつらと同じ空気を吸うだけでも汚らわしい。そう思う。なのに、イエスさまはそんな彼ら罪人こそが神さまに招かれているのだ、と言う。彼らこそ、神さまに救われるべき人々だ、と言う。そして、同じ空気を吸うばかりか、食事さえも共にする。そんなやつは許せない。そんなやつが神の子であるはずがない。そうです。彼らからすれば、イエスさまを殺す理由があった。それこそが、正しい、神さまの望みに答えることだと疑わなかった。しかし、それこそが、神さまが遣わされた独り子を殺すことになるのだ、と語られているのです。

では、そんな宗教的指導者たちだけが問題なのか、といえば、そうではないでしょう。なぜならば、43節でこう記されているからです。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」。ここで「ふさわしい実を結ぶ民族」と言われているのは、異邦人のことです。彼ら宗教的指導者たちばかりではない。ユダヤ人全てが、異邦人を蔑視している。

なぜか。彼らは罪人だからです。神さまに従おうとしない人々だからです。だから、滅ぼされても当然だと思っている。つまり、どちらにしても罪人は滅びるのだ、それが神さまの御心なのだ、私たちは彼らとは違う、私たちこそ救われるのだ、といった思いは共通なのです。それが、神さまの御心なのだと彼らは信じ疑わなかった。しかし、イエスさまは違う、とおっしゃる。そうではない、とおっしゃる。悔い改めて(神さまに立ち返って)全ての人が、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが全ての人々が救われることが、赦されることが神さまの御心なのだ。

そう語られている。つまり、真に神さまが望まれる実りとは、そんな神さまが遣わされた御子、救い主を信じることなのです。そのために、預言者たちも、洗礼者ヨハネも、またイエスさまも来られた。

ぶどう園の小作人 Jan Gerritsz Sweelink October 作成: 1624年と1645年の間。背景にはある村と川が描かれ イエス・キリストが右下の2人の司祭に話しかけている 左側で使用人を殺している農夫の1人(邪悪な夫のたとえ話) が描かれている



イエスさまの、神さまのこの思いは、この言葉に集約されていると思う。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人
を招くためではなく、罪人を招くためである』」(マタイ9:12~13)。兄の方と言われた徴税人や娼婦のような罪人以外の、宗教的指導者たちや多くのユダヤ人たちは、このイエスさまの思いを受け取ろうとはしなかった。では、私たちはどうか。本当にこのイエスさまの思いを素直に受け取っているだろうか。神さまの望みに応えているだろうか。

やはり、私たちにも、素直に、罪人のままで、欠け多き存在のままで、イエスさまの懐に飛び込んでいくのを躊躇してしまっているようなところがあるのではないだろうか。もっとしっかりしてからでないと、こんな自分ではダメではないかと思ってしまっているところがあるのではないだろうか。ありのままで、赦しを信じて、この招きに応えることができているだろうか。あるいは、自分のことは棚に上げて、人々の欠点にばかり目が向かってしまい、あんな人は相応しくない、と勝手にレッテルを貼っているようなことはないだろうか。

なぜあんな人が教会にいるのか、と批判的になってはいないだろうか。あんな人たちとは一緒にされたくない、と自分を特別視しているようなことはないだろうか。勝手に教会は敷居が高いと思い込んでいるようなところはないだろうか。赦しの中に生きていることを忘れて、殊更背伸びをして疲れ切ってしまってはいないだろうか。人の目が気になり、比較ばかりをして、自分は何もできない、役に立たない人間なのだ、と落ち込んではいないだろうか。

イエスさまはこうおっしゃる。イエスさまはそのために来たとおっしゃる。そして、イエスさまはそのためにこそ十字架で命を捨てられた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この方を信じることこそが、私たちに期待されている実りです。

 

祈り
・早いもので今年も10月に入りました。急に朝晩が涼しくなり体調も崩しやすくなっていますが、どうぞ心も体もお守りくださいますように。特に体調を崩しておられる方、闘病されておられる方、心身ともに疲れを覚えておられる方などをどうぞお守りくださいます
ようにお願いいたします。

・鐘楼の修繕工事も今週には完成予定です。これまでお守りくださいましたことを心より感謝いたします。また、心配された台風等も接近することなく、本当に感謝です。どうぞ、修繕された鐘楼、また新たになった十字架などもあなたのご栄光のために益々お用いくださいますようにお願いいたします。

・法律を無視するような強権的な政治的指導者たちがあちらこちらで立てられていることに危惧を覚えています。国民の支持もあるのでしょうが、力でごり押ししていくやり方は確かにスピード感はあるのかもしれませんが、大変危険でもあります。どうぞもっと冷静になって、国民一人一人が適切な人材を選んでいくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 

-週報-  2020年10月04日 聖霊降臨後第18主日礼拝



司 式    浅野 直樹

聖書朗読   浅野 直樹
説 教    浅野 直樹
奏 楽    小山 泉

開会の部

前 奏    我は汝に呼ばわる 主イエス.キリストよ   B.S.Bach

初めの歌   教会158( 主イェスのみ名こそ )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

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特別の祈り

神さま。
あなたの全能の力は、恵みと憐れみのうちにあります。
私たちが約束されたものを求め、
やがて天の栄光に与ることができるように、
あなたの溢れる恵みを注いでください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

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第1の朗読    イザヤ書 5:1-7( 旧約 1067頁 )

第2の朗読    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14( 新約 364頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読   マタイによる福音書 21:33-46( 新約 42頁 )

みことばのうた  教会295( 恵みふかきみ声もて ) (着席)

説  教     「 実を結ぶ期待 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌    教会339( イェスきみは恵みの主 )

信仰の告白   使徒信条

奉献の部
派遣の部

派遣の歌    教会271( 主は教会の 基となり )

後 奏     カンツォネッタ ト短調 D.Buxtehude

-週報-  2020年9月27日 聖霊降臨後第17主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 中山 康子

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏  讃美歌2番に基づく前奏曲 T.T.Noble

初めの歌   2( いざやともに )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの( 式文A 5〜7頁 )

==============
特別の祈り
全能・永遠の神さま。
あなたは私たちの弱さや問題を、ことごとく知っておられます。
あなたの力強い愛で私たちを助け、私たちが弱さを踏み越え、
堅い信仰を告白できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

==============

第1の朗読   エゼキエル書 18:1-4 25-32( 旧約 1321頁 )

第2の朗読   フィリピの信徒への手紙 2:1-13( 新約 362頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読  マタイによる福音書 21:23-32( 新約 41頁 )

みことばのうた  244( 行けどもゆけども )

説  教    「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師


感謝の歌   【21】471( 勝利をのぞみ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   502( いともかしこし )

後  奏  ヴォランタリー 作品5の5番 J. Stanley

【 テキスト・音声版】2020年9月27日 説教「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師

2020年9月27日 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書21章23~32節

今日の福音書の日課にも譬え話が出てきましたが、この譬え話は聖書の中に記されています数多くの譬え話の中でも、珍しくすぐにでも共感を覚えることができるものの一つではないか、と思います。なぜならば、私たちの道徳律と非常に親和性があるからです。

恐らく、その父親はぶどう園を所有し経営していたのでしょう。繁忙期で忙しくなる。猫の手も借りたい。そこで二人の息子に手伝ってもらおうとしました。始めに、兄の方に話しかけます。「今、とても忙しい時期だから、お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。

もうすでに就職していたのでしょうか。それとも、まだ学生だったでしょうか。「嫌だよ、父さん。僕にだって予定があるんだから」。弟の方にも声をかけました。「お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。「いいよ、父さん。特に予定もないし、手伝ってあげるよ」。父親は先にぶどう園に行き、忙しく働きながらも息子たちが来るのを待っていました。しばらくすると兄の方がやってきた。「お前、どうしたんだ。さっき予定があるから嫌だって言っていたじゃないか」。「いや、そうだけど、なんだか気になっちゃってさ。

父さんも大変だと思ったから引き返してきたんだ」。そういって兄は父の手伝いを始めました。しかし、弟の方は待てど暮らせど来ません。父親も、「おかしいな。そろそろ来ても良い頃なんだが。確かに来ると言っていたよな」。その頃、弟の方は友達と遊びに出かけていました。「確かお前ん家、ぶどう園やっていたよな。いいのか手伝わなくて。確か今が一番忙しい時期じゃなかったか」。



「いいの、いいの。あんなの親父にやらせておけば。どうせたいしてバイト代もくれないしさ」。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。子どもでも分かることです。私たちもそう親たちから教わって来ましたし、また子どもたちにもそんなことをしてはいけない、人の道ではないと躾けて来ました。そう、だから、この譬え話は何の違和感もなくすんなりと入って来るし、そんなの当たり前ではないか、とも思える。しかし、今日のこの譬え話を、そんな単なる教訓的な、あるいは倫理道徳的な話として読んでしまうと肝心なところが見落とされてしまうということは、もう皆さんもお分かりのことでしょう。

今日の箇所の前半部分では、「権威」についてのやりとりの様子が記されていました。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」。当時の宗教的、あるいは社会的指導者たちが腹立たしげにイエスさまを問い詰めていった訳です。ここに到るまでの物語があります。12節以下に記されていますいわゆる「宮清め」の出来事です。当時、犠牲として捧げられる動物の売り買いや神殿税を納めるための両替の場所などが神殿の境内に設けられていたわけですが、それらをひっくり返したり追い出したりして、少々乱暴な振る舞いをされたのが他ならぬイエスさまでした。

もちろん、イエスさまにはそうせざるを得なかった理由がありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。確かに、問題性もなかった訳ではないでしょうが、当時の宗教的利便性から、あるいはその必要性から生まれた制度でもあったわけです。そして、それらを決めていったのが、それらを決める、あるいは指導する権威を持っていた先ほどの祭司長や民の長老だったわけです。つまり、イエスさまのその行動は、彼らの権威を全否定することにも等しかったわけです。彼らにとっては面目丸つぶれです。ですから、彼らからしたら、先ほどの詰問は当然の思いだったのかもしれません。私たちの面子を潰すからには、相応の権威を持っているはずだろうな、と。

そんなやりとりの中から生まれたのが、先ほどから言っています今日の譬え話でした。つまり、イエスさまからすれば、彼らは譬え話の弟のように映っていたわけです。もっとも、当然彼らはそうは思っていなかったでしょう。自分たちこそが宗教的な重要な事柄を決める権威があるのだ、と。つまり、自分たちの信仰のあり方は神さまからお墨付きをいただいているのだ、と。しかし、イエスさまからすれば、それは表面的な面に過ぎなくて、譬えで言えば、あの弟のようにあたかも父親の意に添うかのように空返事をしているにすぎなくて、本質では何も父親の、つまり神さまの思いには応えてはいないのだ、と思えてならなかった。

むしろ、逆に、彼らが忌み嫌って軽蔑していた、つまり彼らからすれば神さまから遠く離れて裁きを受けざるを得ないような人間だと映っていた徴税人や娼婦たちの方が、実は譬え話で言えば兄の方であって、当初は神さまの御心から外れて神さまを悲しませては来たけれども、そんな彼らも立ち返って、後で考え直して神さまの思いに答えていくようになったと見られている訳です。そして、その両者の決定的な違いを生み出したのが、洗礼者ヨハネのメッセージに動かされたかどうか、でした。

洗礼者ヨハネのメッセージとは、罪を指摘し、悔い改めを説くことでした。罪の赦し、罪からの救いの必要性を訴えることでした。弟の方だと指摘された祭司長や民の長老たちは、このヨハネのメッセージに心が動かされなかった。逆に言えば、兄の方だと指摘された徴税人や娼婦たちはヨハネのメッセージに心が動かされたのです。彼らが自らの罪の自覚をしっかりと持っていたかどうかは分かりません。神さまからの罪の裁きを恐れていたのかどうかも分からない。罪の赦し、救いの必要性を感じていたかどうかも。むしろ、そんなことは考えないようにしていたのではないか。現実と割り切っていたのではないか。

ろくな家庭で育たなかったのだ。まともな仕事では食っていけなかったのだ。生きるためにはしかたがないではないか。社会が悪い、環境が悪い、貧乏が悪い、と自己弁護を繰り返してきたのかもしれない。しかし、どこかで問いが消えなかった。「本当にこれで良かったのだろうか」と。普段は、そんな問いは生きるための邪魔になるとして心の深いところに押し込んでいたのかもしれませんが、決して消え去ってしまうことはなかったと思います。それが、洗礼者ヨハネのメッセージによって浮き彫りになっていった。「救われるためには、どうすれば良いのだろう」と。

ここでイエスさまは洗礼者ヨハネとの向き合い方を問われています。罪を指摘し、悔い改めの必要性を説いた、罪の赦しの可能性を教え続けていった洗礼者ヨハネとの向き合い方を。そして、それは、イエスさまとの関係性にも結びついていくことになるのです。洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされた者たちは、イエスさまのところにもやってくる。逆に、洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされない者たちは、イエスさまとの距離もとってしまうことになる。これも、兄と、弟と指摘された者たちの中にみられるものです。

ニコラ・プッサン Nicolas Poussin「ヨルダン川の洗礼者ヨハネ」(1630)



今朝の旧約聖書の言葉も私たちは肝に命じていかなければならないと思います。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。神さまの御心は、誰もが罪を赦されて生きることです。一人として滅んで欲しくない。悔い改めて、立ち返って生きて欲しいと願っておられる。「最初」が問題なのではありません。結果的に父の元に、
神さまの元に行かなければ、戻らなければ意味がないのです。たとえ「最初」がどうであろうと、そこに神さまの御心がある。そのことを深く覚えて行きたいと思います。

《 祈り 》
・最近の新型コロナの問題は落ち着いているように見えますが、先日のシルバーウイークでは各地で多くの賑わいを見せ、経済活動が加速されているようにも見受けられます。そのために、また感染の拡大が危惧されてもいますが、このウイズ・コロナの時代、経済活動と感染予防という対極にある課題と同時に向き合わなければなりませんが、新たに誕生した政府も賢明な対策が取れるようにお導きくださいますようお願いいたします。また私たち市民一人一人も長期間にわたる緊張感のためか意識が緩みがちになっているようにも感じますが、しっかりと個々人においても感染対策に気を配っていくことができますようにお助けください。

・このところの天候不順もあって鐘楼の修繕工事が予定よりも若干遅れているようです。そのためもあってか、大工さんも雨天の中懸命に取り組んでくださっていますが、どうぞ体調面もお守りくださり、事故などもないようにお守りください。また、良い修繕がなされますようにお導きをお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報-  2020年9月20日 聖霊降臨後第16主日礼拝



司  式  浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏  楽  上村 朋子

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏 おおイエス キリストよ、わが生命の光   G. Waag
初めの歌  教会149( 空も地をも )                                   

罪の告白
キリエ・グロリア

みことばの

=====================

特別の祈り

神さま。
み子がすべての人のため、苦難の道を歩まれたことを感謝します。
どうか、み子の従順に従い、与えられた道を戒めに従って、
謙虚に歩む力を私たちに与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

=====================

第1の朗読   ヨナ書 3:10-4:11( 旧約 1447頁 )
第2の朗読   フィリピの信徒への手紙 1:21-30( 新約 362頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読  マタイによる福音書 20:1-16( 新約 38頁 )

みことばのうた   教会391( 主よわがいのち )

説教  「 救いたいという思い 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌   教会398 なにをも惜しまず

信仰の告白
使徒信条
派遣の歌   教会424( この世のつとめ )

後  奏  神のみわざはただしく  J. Pachelbel

【 テキスト・音声 】2020年9月20日 説教「 救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師

2020年9月20日 聖霊降臨後第十六主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

今朝の福音書の日課も、良く知られた譬え話です。この譬え話自体も、それほど難しいものではないでしょう。しかし、読み手によって、これほど印象の違う譬え話も珍しいのではないか、と思います。そして、大方の人にとっては、なんだかすっきりしないと言いますか、もやもや感が残るものではないでしょうか。



この譬え話、「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と小見出しにはありますが、この物語の主人公は「ぶどう園の労働者」ではなく、非常識なほど気前の良いこのぶどう園の主人だと思います。そして、この主人の立ち居振る舞いが、先ほど言ったような印象をそれぞれに与える訳です。では、なぜもやもやするのか。不公平だからです。いいえ、賃金自体は公平です。どの人も1デナリオンの賃金を貰っている。しかし、それは、不公平に思える。なぜなら、労働時間がそれぞれ違っているからです。

サロモン・コニンク ぶどう園の労働者のたとえ Salomon Koninck:The Parable of the Laborers in the Vineyard. 1647



12時間働いた人、9時間働いた人、6時間働いた人、1時間しか働かなかった人。そのどれもが同じ賃金、1デナリオンを貰っている。それが、私たちの目には不公平に映る。当然です。労働に見合った代価ではないからです。先ほど、このぶどう園の主人を「非常識なほど気前の良い」人だと言いましたが、気前の良さは良いのです。ちゃんと自分の労働に見合った賃金ならば、つまりちゃんと「差」をつけてさえくれたならば、その気前の良さはむしろ大歓迎なのです。

1時間しか働かなかった人が1デナリオン貰えたとしても納得ができる。むしろ、この主人のそんな気前の良さを評価できたかもしれない。すごく良い人だと。しかし、働いた時間が違うのに同じ賃金だというのが許せない。腹が立ってくる。しかも、この主人の「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」との言葉に、なんだかカチンとくる。言っていることは当然だと思いつつも、この不公平な扱いにイラっとしてしまう。そうではないでしょうか。

この物語を理解する上で大切なことは、この譬え話が「天の国」を示すための譬え話だ、ということです。つまり、この地上での事柄、常識とは違う、ということです。こんな非常識なことを、この地上世界で、私たちのこの社会・現実世界で、日常で行ったのなら、とたんに大混乱を起こすでしょう。そして、その不満は大暴動に発展するかもしれません。または、こんなおいしい目に合うならばと、労働に無気力な人も多く生まれてしまうかもしれない。ですから、私たちの現実とは、ちょっと切り離して考えなければならないのかもしれません。しかし、それでも、神さまがそんな不公平なことをしても良いのか、との問いは残ります。

いくら天の国のことだとしても、むしろ、天の国がそんな不公平なところか、と思うと、がっかりされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで立ち止まって、よくよく考えてみていただきたいのです。先ほどから、不満を持つ側から話してきましたが、では、なぜこの物語を読んで不満を持つのか、といえば、「自分は出来る人間だ」と思っているからです。今日の譬え話で言えば、自分は最初に雇われた人間、少なくとも最後の人、たった1時間しか働かなかった人とは違う、と思っているからです。では、なぜそう思えるのか。誰が「出来る人間」だと、最初っから雇われていた人だと評価するのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。

それとも、神さまでしょうか。誰が、確信をもって一番働いた者、最初っから雇われた者、と言えるでしょうか。自分では「俺は(私は)出来る人間」と思っていても、結局最後まで雇われなかった人だったかもしれない。それでも、世間は俺を見る目がない、誰も私を正当に評価してくれない、といきり立っていただけかも知れないのです。

レンブラントぶどう園の労働者のたとえ  Rembrandt:The Parable of the Laborers in the Vineyard,1637



先週は王に莫大な借金をして赦してもらった家来の譬え話が取り上げられていましたが、果たして彼は決済まで自分の負債に気づけていたのでしょうか。彼は1万タラントンの借金があったといいます。それは、約6000万日分の賃金ということになる訳ですが、とても返せる額ではありません。しかし、彼からはそんな危機感は微塵も感じられないからです。

ひょっとして、「俺は出来る人間だ」、王から借りた金で行った事業もうまくいっているし、何の問題もない、と思っていたのかもしれない。しかし、蓋を開けてみれば、ずさんな経営でうまくいっていると思っていたのは本人だけで、途方も無い借金に膨れ上がっていたのかもしれません。しかし、彼は決済の時まで、つまり最後の最後まで、審判の時までそれに気づかないのです。「俺は出来る人間だ」と。これは、私たちだって他人事ではないはずです。

誰が私の評価を決めるのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。それとも、神さまでしょうか。私たちは、もっともらってもおかしくない働きをしてきた、もっと評価されてもおかしくない人生を歩んできた、と本当に、本気で堂々と言えるのでしょうか。それは不公平だと。私の働きに見合っていないと。私の人生には低すぎる評価だと。


確かに私たちは、朝一で雇われて、夜明けとともに働けた者かもしれません。1時間しか働かなかったものと同じ賃金なんて納得できない、と正当な文句を言えた人間だったかもしれません。では、明日はどうでしょうか。明日も同じように、朝一で雇ってもらえる保証は一体どこにあるのでしょうか。明日はその人選から漏れてしまうかもしれない。いいえ、来年の今頃は、10年後の今頃は、同じように朝一で雇ってもらえるのか。あんな1時間しか働かない者と同じ扱いにしないでほしい、と言える者であり続けられるのか。

人間、だんだんと年を取っていくと、かつて出来ていたことも出来なくなってしまうこともある。それでも、そう言い続けられるのだろうか。いつも健康でいられるわけでもない。誰からも評価されるとも限らない。だんだんと9時からの者、昼からの者、午後3時からの者となっていくのかもしれない。そして、誰からも雇ってはもらえない、と嘆かざるを得ない日も来るのかもしれない。

この主人の非常識なほどの気前の良さは、何も最後の賃金の支払いだけではないのです。この主人にとっては、最初の人たちとの契約だけで十分だったのかもしれないからです。にも関わらず、この主人は探しにいかれた。誰にも雇ってはもらえない人をも救いたいと動かれた。仕事として雇うには、あまりにも遅すぎた人たちさえも何とかしたいと出かけられた。どんな人の人生も、必ず報われる人生なのだと惜しみなく恵みを注がれた。

誰一人滅びることなく、皆が救われるようにと、生かされるようにと願われた。それが、この非常識な主人、私たちの信じる神さまなのではないか。そう思う。そして、この方のもとだからこそ言えるはずです。私たちは救われている、と。誰でも、躊躇することなく言うことができる。この方によって救っていただけるのだ、と。この変わり者の神さまによって。そうではないでしょうか。

教会花壇 日々草



《 祈り》
・本日の礼拝は敬老主日の礼拝ですが、残念ながら例年通り80歳以上の先輩方を礼拝にお招きしての敬老主日となることはできませんでした。しかし、今日それぞれの場におられるむさしの教会につらなるご高齢の先輩方を、この一年の間も日々豊かにお守りくださり、豊かな祝福をお与えくださいますようにお願いいたします。特に、体調面をお支えください。この新型コロナは特に高齢者を重篤化させやすいと言われていますので、このコロナからもお守りくださいますようにお願いいたします。

先輩方の中には入院治療をされておられたり、体調を崩しておられたり、思うように身動きが取れなくなられたり、と様々な辛さを抱えておられる方も多くおられますので、どうぞ必要な助けをお与えくださり、健やかなる日々をお過ごしになることができますようにもお導きください。健康が守られ、来年の敬老主日には多くの先輩方と共々に祝いの時を持つことができますようにお導きください。

・8月18日に小林憲弥さん・佳奈さんご夫妻にご長男準弥(じゅんや)くんが与えられたという嬉しい知らせが入ってまいりました。本当に感謝をいたします。どうぞ、あなたの守りと祝福の中で準弥くんがすくすくと成長していかれますように、またそのご家庭を豊かに祝福してくださいますようにお願いいたします。また、どうぞご夫妻に子育てに必要な力を豊かにお与えくださり、必要な助け手も備えてくださいますようにお願いいたしす。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

2020年むさしの教会敬老カード (Design:Kan Yasuma、Church Photo:Reiko Noguchi)

-週報-  2020年9月13日 聖霊降臨後第15主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 小山 泉

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏  キリストよ 汝は明るき日(前半) J.S.Bach

初めの歌   教会 181( ここにいます )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの( 式文A 5〜7頁 )

==============
特別の祈り
すべてのものの造り主なる神さま。
あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。
あなたが世界の隅々から、弟子たちを召し招かれるとき、
「み子イエス・キリストは主」と、
大胆に告白する者の群れに、私たちも加えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
==============

第1の朗読   創世記 50:15-21( 旧約 92頁 )

第2の朗読   ローマの信徒への手紙 14:1-12( 新約 293頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読  マタイによる福音書 18:21-35( 新約 35頁 )

みことばのうた  教会 303( このまま、われを愛し召したもぅ )

説教 「 赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師


感謝の歌   教会 399( わが神わが主よ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   教会 412( 父の神 )

後  奏  キリストよ 汝は明るき日(後半) J.S.Bach

【 テキスト・音声 】2020年9月13日 説教「 赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十五主日礼拝説教(むさしの教会)

聖書箇所:マタイによる福音書18章21~35節

本日の福音書の日課は、これもまた良く知られた譬え話だと思いますが、人を赦すことの大切さが語られている譬え話だと思います。内容自体としては、それほど難しいものではないと思います。むしろ、すんなりと入ってくる、ある意味、私たちの常識とそんなに違わないものだとも思います。しかし、現実となると、実践となるとどうか、といった問いは常に付きまとってくるのではないか、そうも思うのです。

なぜならば、私たちはなかなか赦すことができない、といった経験を嫌という程積み重ねても来ているからです。いいえ、厳密に言えば、実は赦せていないことにも気づけていないのかもしれません。聖書が語る「赦し」とは、綺麗さっぱり忘れてしまうことだからです。赦すべき事柄を二度と思い出すことはない、ということです。ですから、「忍耐」とは似て非なるものなのです。

内心、「またか」と思いながらも忍耐することは、実は赦していることにはならないのです。あるいは、赦していると自分の心に言い聞かせながら、その人を遠ざけていくことも赦しているとは言い難い。ですから、先ほども言いましたように、今朝の譬え話も物語としては良く分かるのですが、「あなたはどうか」と問われるならば、とたんに難しさを感じてしまうのだと思うのです。



今朝の譬え話は、ペトロのある問いをきっかけに語られたものでした。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロはペトロなりに、これまでのイエスさまの話を聞く中で、そんな思いを持ったのでしょう。ここでペトロは「兄弟が」と言っています。これは、教会の仲間たちのことです。ですから、この問いの前提は教会の人たちがペトロに罪を犯した時のことを考えているわけですが、完全にではなくとも、より一般化しても良いのではないか、と思います。

例え教会と同じルールで、とは言えなくとも、やはり「赦す」ことが私たちの日常生活の中で(家族や職場の同僚、友人、クラスメート等々)求められているからです。
ここでペトロは七回まで赦すべきでしょうか、と尋ねます。これは、ペトロにとっては随分と思い切った数字だったと思います。私たち日本にも「仏の顔も三度まで」といった言葉がありますが、当時のユダヤにも似たような表現があったようです。神さまはあなたがたを三度まで赦してくださるのだから、あなたがたも三度は赦してあげなさい、と。つまり、せいぜい三度が限界ということでしょう。四度目はない…。それが、私たちの一般的な感覚でもある。

しかし、ペトロはそれを大きく超えて、まさに清水の舞台から飛び降りるような思いで、なんとかイエスさまに認めてもらおうと、評価してもらおうと、決死の覚悟で言ったのかもしれません。しかし、イエスさまは、あの有名な言葉を語られました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。ペトロの決死の覚悟の言葉により高いハードルを設けられたのか。

そうではない、と思います。実は、三度にしろ七度にしろ、本質的には同じだからです。限度を設けるという意味では変わらない。そうではない、とイエスさまは語られるのです。はじめっから限度を設けてはいけない、そんな思いで赦しを考えてはいけない、と言われる。

ところで、先ほどはペトロの問いがきっかけになって譬え話が語られたと言いましたが、よくよく見ていきますと、この譬え話はペトロの問いの答えとは全くなっていないことに気づかれると思います。そうではなくて、赦す前に赦されている現実に気づくようにと語られているからです。赦すことの大切さ以上に、赦されていることの大切さ、です。

いいえ、むしろ、両者が連動していることが大切なのです。 ここに王に負債を負っている家来が登場して参ります。その内の一人は一万タラントンの借金がありました。そう言われてもピンときませんが、聖書巻末の度量衡を見てみますと、1タラントンは6000日分の賃金に相当しますので、6千万日分の賃金ということになります。この家来は返済を待って欲しい、必ず返すから、と言いますが、一体何日働けば返せるのでしょうか。1年は365日。1日も休まずに働いても10年で3,650日分、100年で36,500日分、1,000年で…。とても人の一生では償いきれない負債です。

一体何回人生を繰り返せば返しきれるのか。私たちの教会の伝統には「煉獄」といった考え方はありませんが、そんな負債を返済し切るのに途方も無い年月がかかることを考えますと、そういった発想が生まれるのも頷けるような気がいたします。ともかく、それほどの負債を王は「憐れに思っ」たが故に赦してくださったのです。それが、この譬え話の第一のポイントなのです。


この王は神さま、そして、赦された家来は私たち一人一人と置き換えても良いでしょう。私たちは神さまに対してそれほど大きな負債があるのです。考えてみてください。なぜ私たちを救うために神の子が命を捨てなければならなかったのかを。それほどの大きな代価を払わなければ穴埋めなど決してできない大きな亀裂があるからです。十字架によらなければ償い得ない負債がある。だから、神さまは神の子を十字架につけられた。私たち
を赦すために。救うために。

なのに、この家来は自分に負債のある人を赦さなかった。ついさっき、決して償いきれない負債を、ただ憐れみの故に赦していただいたのに、あたかもそんなことなど一切なかったかのように負債を負債として取り立てようとした。そこに、この家来の問題性があるのです。そして、私たちの…。

確かに、この家来の傷は決して小さなものだとは言えないでしょう。100デナリオン、つまり100日分の賃金です。決して小さくはない。そうです。自分がこうむった被害だけを見ていれば、決して小さくはないのです。しかし、赦していただいた大きさを見るならば、そんなものは決して比較にもならないはずなのです。

そうです。私たちは自分ばかりを見つめるから赦せないのです。自分が受けた負債、被害ばかりに心を向けるから、事実以上に大きくも見えてくる。そうではなくて、まず赦されている事、ここに目を向ける必要がある。しかし、もちろん、簡単なことではありません。簡単に赦せないのは痛みがあるからです。傷つけられたからです。だから、そんなに簡単に忘れられない。でも、それでいいのでしょうか。そんな言い訳ばかりをして、自分の都合ばかりを並び立てて、赦されている事実にも目を閉ざして、この家来のようになっていくことが、果たして私たちの望みでしょうか。決してそうではないでしょう。

むしろ、だからこそ、私たちには祈りの生活が必要なのです。自分自身にではなく、神さまに、神さまがしてくださった赦しに目を向けるためにも、それでもなかなか人を赦すことの出来ない自分の心と向き合って、素直に神さまに助けを求めていくためにも、祈りの生活が欠かせないのだと思います。

ヴァランタン・ド・ブーローニュ: Valentin de Boulogne「聖マタイ」 1591-1632 、フランス、バロック・カラヴァッジェスキ一派



《 祈り 》
・いよいよ明日から本格的な鐘楼の修繕工事がはじまっていきますが、どうぞ安全に工事がなされますようにお守りください。また、工事期間中の台風襲来なども心配されますが、天候も含めて全ての危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

・先週から集会形式の礼拝が再開されましたが、まだまだ新型コロナの問題が沈静化していませんので、どうぞお守りくださいますように。秋から冬にかけて感染拡大が心配されていますが、適切な準備がなされて、有効なワクチンや治療薬なども整えられていきますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

教会の鐘楼修繕用に11日に足場がかけられた

-週報-  2020年9月6日 聖霊降臨後第14主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹 小山 茂

説  教 小山 茂

奏  楽 萩森 英明

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏  イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ    J.S. Bach

初めの歌   教会 190( 主のみ名によりて)

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

全能・永遠の神ま。
あなたは信じる者にまことに尊い約束を与えられました。あなたの約束を信じて、あらゆる疑いに打ち勝つ強い信仰を与(あた)えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
第1の朗読   エゼキエル書 33:7-11( 旧約 1350頁 )            (着席)

第2の朗読   ローマの信徒への手紙 13:8-14( 新約 293頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読  マタイによる福音書 18:15-20( 新約 35頁 )

みことばのうた  教会 293( 罪あるものをも )

説教  「 二人の求めを叶える父 」 小山 茂 牧師

感謝の歌   教会 346 はかりも知られぬ

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   教会 388( とうとき血をもて )

後  奏  いざ我ら主なる神に J. Pachelbel

【 テキスト・音声版 】2020年9月6日 説教「二人の求めを叶える父」小山 茂 牧師

聖霊降臨後第14 主日 説教


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。
アーメン

罪の自覚、救いの喜び
今朝の福音書のテーマは、教会の中に罪を犯した人がいるなら、群れはどう対応したらいいかです。私たちは他人の罪に敏感に気付きますが、自分の罪に鈍感ではないでしょうか。罪を赦されるには、自らの罪を認めて悔い改め、相手に許しを請い求めます。相手から許され、天の神がそれを追認されて、罪の赦しが完成されます。なぜなら、罪の赦しは神の専権事項だからです。「ゆるし」を辞書で調べますと、罪は「赦し」の漢字が相応しいと思われます。赤はゆるめる、攵(ぼくにょう)は鞭打つ、両者から鞭打つことを緩める。つまり罪を赦す意味になります。そういえば、総督ピラトは主イエスを、十字架につける前に鞭打たせました。彼は鞭打つことで自分は主の罪を問わない、と意思表示をしたのはないでしょうか。

今朝の福音は語ります、「あなた方が地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる。」私はこの言葉、つなぐ・解く、両者を逆の意味に理解していました。正しくは、つなぐとは罪に結び付けることであり、解くとは罪から解くことです。私たちにとって誰かが罪を犯した、と判断するのは心の重いことです。できれば避けたいことであり、放置しておきたいことです。

罪と言えばルターの宗教改革は、贖宥状〔免罪符〕の販売をめぐり、異議申し立てから始まりました。生きている間に罪の罰を自らの責任でとる、または死んでから煉獄で償う、と当時考えられていました。贖宥状を買うことで、それらの償いを免れることができる、と教会が主張したからです。私たちは罪からの赦しをどのようにされるのでしょうか。

今日のルーテル教会では、礼拝の中で「罪の告白」と「ゆるしの祈願祝福」があります。前の一週間の行いと思いを振り返ります。その告白は一般告白であり、個別告白を求めるなら、牧師に面談を求めることができます。罪の自覚なしに赦された、と安堵してしまうのは、安価な恵みと言われます。神の恵みといいながら、あらゆる罪が神の愛のマントに覆われ、悔い改めなしに済まされるからです。主イエス・キリストが自らの命に代えて、私たちに与えられた救いの賜物を、心から感謝して受け取りたいものです。

神学生時代にルーテル神学校のS 先生が、教職神学セミナーで耳の痛い話をされました。最近の説教は罪を語らない、牧師が罪を語れない、と言われました。そう言われると、確かに説教で罪を語ることを、避ける傾向があります。牧師にとって罪の認識を語るのは、難しく感じられるからでしょう。罪がしっかり語たられた後、福音が力強く伝わります。私たちは罪をきちん自覚した後に、罪を赦され救われた喜びがあります。



教会内で罪の赦し
今朝の福音は二つの譬えに挟まれた、サンドイッチの中身になります。直前の「迷い出た羊」の譬え、直後の「仲間を赦さない家来」の譬え、両方の文脈の中にあります。ですから、前と後ろの譬えの意図をきちんと捉えて、福音を納得して受け取れます。「迷い出た羊」の譬えは語ります、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」また「仲間を赦さない家来」の譬えは、「7 回どころか7 の70 倍までも赦しなさい。~あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」私達にどこか怖い話に聞こえます。

主イエスは「兄弟の罪を全て赦しなさい」、さらに「兄弟を救う努力を惜しむな」と求められます。教会における罪の赦し方をどのように捉えるのか、御言葉に聴いてまいります。

個々人の罪に対する責任は、教会の群れの問題であると考えられます。つまり、罪は個人的なものではなく、共同体の問題として捉えられます。教会の群れにいる兄弟が罪を犯したなら、皆さんはどうされますか。聖書には、三段階にわたる方法が示されています。

第一段階は、「行って二人だけのところで忠告しなさい。」相手の心を傷つけないよう、密かに忠告をします。忠告すると訳されたギリシア語は、「罪を明らかにする」という意味です。もし聞き入れられたなら、失いかけた兄弟を取り戻すことができます。百匹のうち一匹の迷い出た羊を、捜し当てたのと同様です。そこには迷子の羊だけでなく、群れの99 匹にも喜びがあります。

第二段階は、「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。~二人または三人の証人の口によって確定されるためである。」自分以外の証人を加えて話し合いに及びます。兄弟の罪を素直に戒めることは、旧約聖書にも記されています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」《申命記19:15》罪の認定を二三人で行います、訓戒をする目的は非難や中傷することではなく、罪を確認して兄弟を取り戻すことにあります。

第三段階は、「それでも聞き入れなければ、教会に申し入れなさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様にみなしなさい。」兄弟が教会の忠告に耳を貸さないなら、罪を明らかにして教会から排斥しなさい。でも教会が共同体の仲間を裁いて、拒絶してもいいのでしょうか。なぜなら、兄弟を群れから追い出すことになるからです。

主イエスはかつて言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」ですから教会から排除しなさいとは、主のお言葉とはどうしても思えないのです。教会の群れの一人を裁いて、罪人とするからです。私たちの知る主は諦めずに、悔い改めを待たれる方ではありませんか。

私たちも罪を犯す
今朝の福音から、あなたが罪を犯して忠告を受ける立場になれば、どうされるか考えてみてください。立ち位置が変わると聖書の御言葉が、全く違って聞こえてきます。第三段階で言われる、異邦人か徴税人と同様に看做されるとは、罪人とされて神の前に立てなくなります。神とのつながりがなくなり、天の国へ招かれるチャンスを失う、それはキリスト者にとって一大事です。18 節の言葉がポイントになります。

「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」つなぐとは罪と認定することであり、反対に解くとは罪を赦すことです。教会の判断する罪は、天においても追認されます。教会は罪を犯した人を罪に結びつけるか、罪から解き放つか、軽々しく判断できません。

罪を犯した人が罪を認めて、悔い改めるよう、私たちは共に祈ります。主の御心は一人も滅びることなく、全ての人を天の国に招きたいのです。それゆえ、私たちは仲間の罪が赦されるよう祈り、主が祈りをきっと叶えられます。主イエスはこう言われます、「どんな願い事であれ、あなた方のうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」

その他に怠りの罪もあります。やるべきことをしないことも、罪のひとつに数えられます。旧約聖書はこう語ります、「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。」《レビ19:17》兄弟が罪を犯したと気づいたのに、彼を戒めない、彼に忠告をしない、それも罪だと言われます。教会の群れの中に、罪を犯した人がいるなら、放っておけないのです。彼を容易く切り捨てず、悔い改める手立てを尽くすよう、私たちに求められます。滅びることが父の御心ではないので、兄弟を罪から救う努力を惜しんではなりません。

共におられる神
福音の結びの言葉に注目しましょう。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」地上で教会の群れが共に祈る時、天の父も祈りに加わられ、祈りが聞き届けられます。主イエスの御名によって、私たちが必死に祈るならきっと聴かれます。なぜなら、主が私たちと共にいてくださるからです。主イエスが降誕された折、主の天使から約束されています、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエル〔神は我々と共におられる〕と呼ばれる。」

《1:23》また、復活された主イエスは大宣教命令でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」《28:20》と約束されています。小さな者が一人も滅びないよう、主の名によって集められた教会は、罪を犯した者に悔い改めるよう心を尽くします。兄弟同士の交わりは、仲間を群れの中に止めるよう最善を尽くします。父の御心は私たちが滅びることではなく、九十九匹を残して迷い出た一匹を捜し出される、その御心から兄弟に忠告するよう促されます。

忠告することは、相手に正面から向き合わなければできません。忠告されることは、気持良いものではありません。時に相手が頑なになったり、相手から恨みを買ったりします。兄弟として受け入れる時、互いに赦し合うことが求められます。私たちの努力だけでは難しいかもしれません。しかし、私たちの祈りが主イエスに聞かれる時、兄弟に寄り添って忠告ができます。ルターは「罪人にして同時に義人である」と言いました。罪人と義人は紙一重の違いであり、時に両者の逆転が起こります。私たちが滅びることは、天の父の御心ではありません。

カラヴァッジオ 「聖マタイの召命」 Caravaggio “The Call of Saint Matthew”



主イエスは約束されました、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心をひとつにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」教会は悔い改める者を赦して、その者を罪から解き放つ共同体です。教会が罪を犯した者を赦す時、天でも父はその者を赦されます。それは教会が罪を解くという、赦しの喜びとなります。共同体がひとつになり、主イエスはいつもその中におられます。一人の祈りが他の人の祈りとひとつになり、主は私たちをひとつの群れに結び合わされます。

《祈り》

恵み深い主よ。あなたが臨在される礼拝に招かれ、感謝をいたします。私たちと共にいると約束された主イエスは、私たちの集まる中におられます。地上で心をひとつにして祈るなら、主はそれを叶えてくださいます。私たちが共に祈りながら、地上で兄弟の罪を解くことを、神が天上から解いてください。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって、御前にお捧げ致します。アーメン

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン

【 テキスト・音声版 】2020年8月30日 説教「キリストにならいて」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十三主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書16章21~28節

今朝の福音書の日課は、いわゆる「受難予告」と言われる箇所です。
先週は、ペトロの信仰告白の場面を見てまいりました。ペトロは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とのイエスさまからの問いに、「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をいたしました。そのペトロの信仰告白をイエスさまは大変に喜ばれ、その告白の上に教会が建てられる、と言われるほどでした。

しかし、今朝の箇所では、その舌の根も乾かないうちに大失態をしてしまいます。イエスさまの受難予告を聞いたペトロがそれを諌めたからです。先ほどの祝福とは打って変わって、「サタン、引き下がれ」と言われてしまうほどに、イエスさまを不快にさせてしまいました。なぜ、そんなことが起こったのか。

ペトロが「メシア」の意味を全く履き違えていたからです。確かに、ペトロは立派な信仰告白をしました。それは、神さまからの賜物でした。しかし、その内実について、果たしてペトロがどのように理解していたか、といえば、イエスさまの思いとは、もっと言えば、神さまのご計画とは遠くかけ離れていたわけです。ここに、私たちの信仰告白の姿を見るような気もいたします。

Christ’s Charge to Peter (1515) Raphael ラファエロ・サンティ ヴィクトリア&アルバート博物館



私たちもまた教会を訪れ、いろいろな経験を経て、信仰告白へと至りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。しかし、どこまで分かっていたのか、と言えば、心もとない限りです。特に、受難…、十字架の意味など全く分かっていなかったのかもしれません。もっとも、受洗前教育などで教えとしては理解していたとしても、自分のこととして、その出来事がどれほどこの私にとって決定的な意味を持つ出来事であったか、といったことには、なかなか気づけていなかったのかもしれません。

そういう意味では、私たちもまた、イエスさまから「サタン、引き下がれ」と言われてしまう者であったのかもしれない。

それでも、やはり今朝の箇所を読んでいきますと、そんな不甲斐ない信仰告白であったとしても、意味があるように思わされます。21節でこう語られているからです。「このときから」。今日の箇所を含めて、マタイによる福音書には3つの受難予告が記されています。もっと正確にいえば、受難・十字架と復活の予告です。つまり、私たちキリスト者にとっての肝心要の教えが、この時からなされた、ということです。この信仰告白の前には、そのことは一切伏せられていた。

つまり、後に「サタン、引き下がれ」と言われてしまうような不理解なペトロの信仰告白であったとしても、その告白がなければ受難と復活の教えは出てこなかった訳です。たとえ不完全であっても、十字架と復活の意味が全く理解できていなかったとしても、この「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白からはじまっていった。しかも、その告白を与えてくださったのも、神さまに他ならない訳です。それもまた、私たちの信仰告白の道筋ではないか。その信仰告白を確かなものとしてくださるためにも、まず神さまの恵みによってその告白へと導かれ、その告白の意味するところを十二分に理解する歩みへと導いてくださるのではないか。そうも思うからです。

ペトロはなぜこのとき、「サタン、引き下がれ」などと言われてしまったのか。先ほども言いましたように、受難を予告されたイエスさまを諌めたからです。しかし、それが、どうしてそれほど悪かったのか。実は、私たちにも良く分からないのだと思う。なぜならば、ペトロとしては良かれと思ってやったことに過ぎないからです。ペトロなりにイエスさまのことを慮ってのことだったからです。ペトロなりの親愛の情から生まれたものだったからです。

現在、アメリカの大統領選が熾烈を極めていますが、自分が心酔し押す大統領候補がもし弱気な様子を見せたならば、「何弱気になってるんですか。大丈夫です。あなたならやれます。もっと堂々としていてください」と励まし、発破をかけないでしょうか。

それと同じことをペトロはやっただけです。イエスさまをメシア・救い主と信じて止まなかったからです。しかし、それこそが間違いなのです。ここで非常に重要なことが語られている。「神のことを思わず、人間のことを思っている」と。



私たちの間違いの原因は、大抵がここにかかっていると言っても言い過ぎではないでしょう。私たちは神さまのことを誤解している。何が本当に正しいことなのかも分かっていないのかもしれない。そして、悪魔のことも誤解しているのかもしれない。以前もご紹介したと思いますが、この悪魔のことを知りたければ、C.S.ルイスの『悪魔の手紙』を読まれたら良いと思います。ともかく、悪魔は私たちが想像するような毒々しい存在というよりも、いかにも善良そうにして近づいてくるのかもしれません。

そして、私たちを神さまから引き離そうとする。もし、このペトロの提案通りにイエスさまが十字架の死と復活を辞めてしまわれたなら、それこそ人類の救いはありません。一見良さそうな、イエスさまのことを慮った提案のように思えても、文字通り、ペトロは人類の敵、悪魔になってしまうのです。しかし、当の本人はそんなことはちっとも思っていないのです。自分の心配が当然だと思っている。自分がちゃんとイエスさまを補佐して、その道筋を正してあげなければと思っている。これは、愛から生まれていることだ。善意から生まれていることだ。だから、間違うはずがない。

ペトロは自分の信仰告白に確信をもってそうしたに違いないのです。しかし、その実は、善意のはずが、愛から出たはずが、神さまのご計画を破壊することになり、人類を救うというイエスさまの思いを踏みにじることになり、人類の救いの道を閉ざしてしまう人類の敵にさえなってしまいかねなかったわけです。それは、十二分に私たちも肝に命じておかなければならないことだと思う。なぜならば、私たちもペトロも全く同じだからです。自分ばかりを、人間ばかりを見ているからです。あなたは「神のことを思わず、人間のことを思っている」。私たちも、この過ちに真に気づき、戒めなければならない。

24節以下の自分を捨てよ、自分の十字架を背負え等の言葉も、このことを抜きにしては、おそらく理解しえないでしょう。「人間のこと」、つまり、私たち自身の思いとは全く正反対のことを言っているようにしか思えないからです。私たちは自分で自分の命を守ることこそ最良の道だ、と思っている。だから、何よりも自分を大切にしようとするわけです。しかし、本当にそれで人が幸せになれるのか、といえば、私はそうは思いません。

私自身のことも含めてですが、多くの悩み相談などを受けると、大抵自分を苦しめているのは、当の自分自身だということが多いからです。自分自身に縛られているからこそ、生きにくくしていることが多い。自分の過去に、自分の性格に、自分の経験に、自分の考えに、自分の感覚・感性に、自分の生い立ち・生育歴に、自分の問題性に本当に人は縛られている。そこから解放されることは至難の技です。

私たちとは逆に、「神のことを思わず、人間のことを思っている」ことと正反対の生き方をされたのがイエスさまでした。「自分を捨て、自分の十字架を背負」われたのも、何よりもイエスさまご自身でした。イエスさまはご自分の命においてさえも自由でした。神さまの御手に一切を委ねておられたからです。だからこそ、イエスさまは命を得ていた。真の自分を持っておられた。真の自由の中を生きることがおできになった。



イエスさまは「わたしのために命を失う者は、それを得る」とおっしゃいます。命とはもちろん、私たちにとって最も大切なものです。私の存在自体と言い換えても良いでしょう。そして、本来の私とは自由な存在である。自分自身の命に雁字搦めになるならば、かえって自分に縛られて真の自由を奪われてしまうことになってしまいますが、̶̶それは命を失うと言っても良いでしょう̶̶イエスさまに命を、私たちの存在すべてを預けて、委ねてしまうならば、真の私に、真の自由な私になっていける。それが、命を得る、ということでもあるのではないか。そう思うのです。

確かに、ペトロは大変な叱責を受けてしまいましたが、それは、この命に招かれているが故であることを忘れてはいけないと思います。私たちも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をいたします。しかし、それは、まだまだ不十分で、「サタン、引き下がれ。あなたは、神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われてしまうような有様かもしれません。しかし、それは、見放されているのではないのです。むしろ、招かれているのです。私に命を預けよ、と。私に、お前自身を委ねよ、と。そこに、真のあなた自身の姿になり得る道筋があるのだ、と。命を得る道筋が…。その招きを大切にしていきたいと思います。また、それが、イエスさまに…、「キリストにならう」ということでもあると思います。

Raphael (Urbino 1483-Rome 1520) Christ’s Charge to Peter c.1514 Drawing



《祈り》

・我が国の首相が体調不良のために辞任されました。個人的には思うところもありますが、長年重責を担ってこられたことは事実です。治療を導いてくださり、1日も早い回復をお与えくださいますようにお願いいたします。
新たな首相が選ばれて行くことになりますが、これまでの反省を生かしながら、このコロナ禍にあって、また緊迫した国際情勢の中にあって、適切なリーダーが選ばれていきますようにどうぞお導きください。

・来週、9月6日から会堂での集会式の礼拝を再開することといたしました。まだまだ新型コロナがおさまりきらない中での再開で心配もありますが、どうぞ全てを守り導いてくださり、良き礼拝の時となっていきますようにお助けください。

・日本では徐々に感染者数が減って来ていると言われていますが、依然として多くの方々が感染をされています。また、重症の方、残念ながらお亡くなりになられているかたもいらっしゃいます。どうぞ憐れんでください。医療現場も大変な状況が続いていることで
しょう。どうぞ、働かれているお一人お一人をもお守りくださいますように。世界ではもっと多くの方々が感染をされています。重症化する方、亡くなられる方々も多くおられます。どうぞ憐れんでくださり、一日も早い終息へとお導きくださいますようにお願いい
たします。

・いよいよ台風シーズンがやってまいりました。先日の台風8号は朝鮮半島を襲い、北朝鮮でも大きな被害が出ているとも聞いています。このところ北朝鮮では食糧難が言われていますが、今回の台風被害によっても多くの国民が苦しむことになるのかもしれません。体制にはいろいろな思いがありますが、どうぞ人々をお守りくださいますように、国の指導者たちも何よりも国民のことを考えて行くことができますようにお導きください。また、台風9号が発生し、非常に勢力を強めながら九州地方に近づく予報がされています。先の大雨でも大変な被害が出てしまった地域です。どうぞ憐れんでくださり、被害がでませんようにお助けください。また、この台風シーズン、むさしの教会の会堂もお守りくださいますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。

アーメン

-週報-  2020年8月30日 聖霊降臨後第13主日礼拝



司    式     浅野 直樹

聖 書 朗 読    浅野 直樹

説    教     浅野 直樹

奏    楽     上村 朋子

開 会 の 部   ( 式文A 1〜4頁 )

前    奏     汝ら敬虔なるキリスト者よ、神をほめまつれ   K. Kohler

初 め の 歌    1( 神のちからを )

罪 の 告 白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

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主よ。
永遠・全能の神さま。
あなたは心のうめきにも耳を傾け、私たちが望む以上のものを与えられます。

豊かな恵みで罪の縄目から解放し、人の望みをはるかに超えた幸いに与からせてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります


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第 1の 朗 読     エレミヤ書 15:15-21( 旧約 1206頁 )
第 2の 朗 読     ローマの信徒への手紙 12:9-21( 新約 292頁 )
ハ レ ル ヤ
福音書の朗読    マタイによる福音書 16:21-28( 新約 32頁 )

みことばのうた   242(「なやむものよ、われに来よ」と )

説    教   「 キリストにならいて 」 浅野 直樹 牧師

感 謝 の 歌    【21】411( うたがい迷いの )

信 仰 の 告 白   使徒信条

奉 献 の 部( 式文A 8〜9頁 )

派 遣 の 部( 式文A 10~13頁 )

派 遣 の 歌     【21】469( 善き力にわれかこまれ )

後   奏     わが心の底より    F. Metzler

-週報-  2020年8月23日 聖霊降臨後第12主日礼拝



司    式    浅野 直樹

聖 書 朗 読      浅野 直樹

説    教    浅野 直樹

奏    楽    萩森 英明

開 会 の 部   ( 式文A 1〜4頁 )

前    奏     キリエ  F. Couperin

初 め の 歌    教会188( わがたまよろこび )

罪 の 告 白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り

 

=====================================================

主よ。
恵みの父なる神さま。
み子はすべての人に、まことのいのちを与える糧として、この世に下られました。
私たちにこの糧を与えて、み子が私のうちに生き、私たちがみ子のうちに生きることができるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります


=====================================================

第 1の 朗 読   イザヤ書 51:1-6( 旧約 1146頁 )
第 2の 朗 読   ローマの信徒への手紙 12:1-8( 新約 291頁 )
ハ レ ル ヤ
福音書の朗読    マタイによる福音書 16:13-20( 新約 31頁 )

みことばのうた   教会272( 主なる神を称え )

説    教   「 小さなキリスト 」 浅野 直樹 牧師

感 謝 の 歌    教会339( わが神わが主よ )

信 仰 の 告 白   使徒信条

奉 献 の 部( 式文A 8〜9頁 )

派 遣 の 部( 式文A 10~13頁 )

派 遣 の 歌     教会375( 神の息よ )

後  奏     我が魂よ、主を讃えよ    J. Pachelbel

【 テキスト・音声版 】2020年8月23日 説教「小さなキリスト」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十二主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書16章13~20節

有名なマルティン・ルターの『キリスト者の自由』には、こんなことが記されています。少し長いですが引用したいと思います。「ここで、パウロが私たちの前に示しているキリスト者の理想の姿について考えてみましょう。パウロは私たちのすべてのわざが隣人の益となるように努力すべきだと勧めています。私たちひとりびとりにとって信仰は十分であり、私たちの働きと生涯のすべてが、隣人への惜しみない愛の奉仕に用いられるようにと、主の御手にゆだねられています。神は、この無価値で罪に定められた私に、何のいさおしもないのに、計り知ることのできない救いと愛の宝を与えてくださいました。キリストにあって惜しみのない純粋の愛をもってです。

それ以外の何事をも考えずに専念できるようになったのです。しかし一方、私はこのようにあふれるばかりの祝福を注いでくださった、父なる神に喜んで心から仕え、主のみこころにかなうことをせずにおられません。またキリストが私に対してそうであったように、隣人に仕えるキリストとなり、その人の救いのために役立つあらゆることをせずにいられません。信仰によって私の足りないところはすべて、キリストにあって満たされているからです。このようにして、信仰からは、神に対する愛と望みがあふれ、愛からは、隣人に対して惜しみなく奉仕する喜びに満ちた自由な生活があらわれてきます」。



ルターは神さまの恵みを力強く主張していきましたが、それは「行い」自体を否定した、ということではありませんでした。救われるための行いを…、つまり、私たちの何らかの業が救われるためには必要なのだ、私たちが持つ何らかのものをもって救いを勝ち取らなければならないのだ、といった「行い」の理解を強く否定したのです。そうではなくて、人が救われるのは、ただただ神さまの一方的な恵みによるのだ、と。ですから、先ほどの『キリスト者の自由』でも、救われるための行いはもう必要ではない、と言います。そんな労力はもはや必要ではないのだ、と。

むしろ、だからこそ、その労力を他者に向けるべきではないか、というのです。すでに、神さまの恵みによって私たちは救われているのだから、今度は私たちの持てる力で、隣人のために奉仕すべきではないか、と。つまり、「行い」のシフトチェンジです。自分のためにと向けられてきた「行い」を、今度は隣人のためにと向け直す。今までは自分の救いのためにあくせくしてきた労力を、その必要性がなくなった以上、今度は隣人の方に振り向けるべきではないか。

それが、恵みによって救われるという神さまの御心なのではないか、ということです。ですから、このようにも言われている。「またキリストが私に対してそうであったように、隣人に仕えるキリストとなり」。イエスさまの恵みによって救われた私たちは、今度は私たち一人一人が隣人のためのキリストになるのだ、という。いわゆる、「小さなキリスト」です。当然、私たちなど等身大のイエスさまには到底なれないのですから、小さなキリストにならなれるかもしれない。

いいえ、たとえ小さくても、ほんの小さな貧しいイエスさまの姿しか写し出せないとしても、私たちだって小さなキリストにはなっていける。ならしていただける。そう期待されている。確かに、そうだと思います。キリスト者である私たち一人一人は、隣人に対しての小さなキリストになっていく。

しかし、今朝の使徒書の日課…、ローマの信徒への手紙12章1節以下を読んでいきますと、それだけでもないように思えて来ます。一人一人が小さなキリストになることも大切ならば、キリストの体である教会が一人の隣人のための小さなキリストになっていくこともまた大切なことではないか、と思えてくるからです。

San Pedro arrepentido, por El Greco- National Gallery of Norway



今朝の福音書の日課は、よく知られた「ペトロの信仰告白」の場面でした。イエスさまは弟子たちにこう尋ねられます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」。
「人の子」とはイエスさまのことです。人々、民衆はイエスさまのことをどう理解し受け止めているのか、と問われるのです。そこで、弟子たちがこれまでの関わりの中で聞いてきた様々な答えを伝えます。人々は「洗礼者ヨハネ」だと言ったり「エリヤ」だと言ったり「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と言ったりしています。つまり、只者ではない、ということでしょう。

大方の人々の認識は、イエスさまは特別な人だ、ということです。それに対して、今度は弟子たちに問われます。「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。これは、非常に重要な問いだと思います。周りの人々がどう言っているかではない。どう評価しているかではない。あなたがた自身はどう思っているのか。もっと言えば、「あなたは、わたしをどう思っているのか」と問われているからです。

「あなたは、わたしをどう思っているのか」。皆さんがイエスさまにそう問われたとしたら、どうお答えになるでしょうか。「あなたは、どう思っているのか」…。
私はこの箇所を思い巡らせる中で、ふとヨブ記を思い起こしました。このヨブ記はご存知のように、旧約聖書の中でも特異な物語だと思います。ある意味、不条理を語っている。しかし、私は、だからこそそこに信仰のリアリティーがあるように思っています。

ヨブは神さまの御心にかなった正しい人でした。ですから、その人生も祝福されていたわけです。彼はあらゆるものに恵まれ、何不自由のない生活を送っていましたが、しかし驕り高ぶることなく、常に神さまに対しても謙遜であり続けました。しかし、そんな彼を試すようにと悪魔が神さまに進言するわけです。彼が従順なのは神さまが祝福されているからであり、不幸になれば彼もまた変わるだろう、と。彼はその試みのゆえに子どもたちも財産も全てを失うことになりました。しかし、彼は不平を口にしません。有名な言葉がここで語られます。

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。あっぱれです。しかし、悪魔も諦めません。再度神さまに進言します。彼の肉体が苦しめば今度こそ彼も落ちるだろう、と。そして、彼の全身はひどい皮膚病に侵されて大変な苦痛を味わうことになりました。とうとう彼も問わずにはいられなくなります。なぜならば、理由がわからないからです。なぜこんな不幸な目にあうのか。これが神さまからの裁きだとしても身に覚えがない。

どうしてか理由が知りたい。そうして、悶々とした苦悩が続いていきました。あるとき、ついに神さまからの答えが返って来ました。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは」(ヨブ記38章1節)。長い沈黙のあと、ようやく耳にしたのは、ヨブにとって大変厳しい言葉でした。

しかし、それでも、この神さまの語りかけが、答えがヨブの救いになったと思います。こう語られているからです。42章5節「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」。彼は確かに立派な信仰の持ち主でしたが、それは、まだ「出会い」にまではなっていなかった、ということではないでしょうか。

つまり、噂の域を出ていなかった、ということでしょう。しかし、今はそうではなく、この試練の只中で真剣に神さまを呼び求めずにはいられなかった。そんな彼に神さまはご自身を現してくださった。その出会いが、彼のこれまでの問いを覆い尽くし、苦悩を癒して行ったに違いない、と思います。その出会いが、真実の力になる。

ですから、イエスさまも問われるのです。「あなたがたは、どうか」と。一般論でも、教科書通りの答えでも、周りの人々の評価でもない。「あなたは、わたしをどう見ているのか」と問われる。そこで、ペトロは答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

これは、後のイエスさまの言葉にあるように、神さまがしてくださったことです。しかも、後のペトロの様子からも、この信仰告白を十分に理解していなかったことも明らかです。しかし、それでも、「あなたはどう思うか」との問いかけに対して、自分の口で、自分の言葉で、「私はあなたをこう信じております」と告白することは大切なことだと思うのです。

「あなたは(わたしの)メシア、生ける神の子です」と。その信仰告白が、その出会いが土台となって教会は建て上げられていく。

そんな信仰告白を、出会いを土台として建てられた教会を、今日の使徒書では、「キリストの体」と表現されていました。これは、パウロの好む教会理解です。そこで大切なのが、多様性です。コリント書にはこう書かれています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。

つまり、一つの霊によって、わたしたちはユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。……あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(第一コリント12章12節以下)。

私たちは一人で何でもできるわけではありません。出来ることもあれば、できないこともある。進んでやれることも、苦手なこともある。それで、いいのです。それが、キリストの体である教会なのです。皆手の働きをしなくても良い。足の働きをしなくても良い。
出来ることできないこと、得意なこと苦手なことがあっても良い。だから、そんな私たちが集まるからこその教会なのです。パウロもこう語っています。6節「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい」。なにもかも、あれもこれも、でなくて良い。一つのことだけでも良い。小さなことでも構わない。目立たないことの方が必要なのかもしれない。

Job’s wife grieves behind Job, while his friends, Eliphaz, Bildad, and Zophar, observe his impoverished condition. Collection Russian Museum



最初にキリスト者は隣人の小さなキリストになることが期待されていると言いましたが、一人では自信が持てないかもしれません。しかし、私たちキリストの体であるならば、皆で持てるものを持ち合って、出来ることをし合って、小さなキリストになっていけるのかもしれない。
パウロはこうも語っています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。

一緒に集えないからといって教会でなくなるわけではないはずです。確かに、皆で一つのところに集まり、共に神さまの御前に出て祈ることも大切な礼拝の姿だと思いますが、ここでパウロはそれだけが礼拝ではないことを教えてくれているようにも思います。たとえ、物理的には離れていても、み言葉によって一人一人が神さまと出会い、自分の口、自分の言葉で信仰を告白し合い、神さまの御心に従って生きていく。それも、立派な礼拝になっていくのではないか。

そして、お互いにキリストの体の一部として、補い合いながら、助け合いながら、自分たちのできることを用い合いながら、小さなキリストの業を隣人に、兄弟姉妹たちに、周りの人々にしていくことも「なすべき礼拝」となっていくのではないでしょうか。

祈り
・毎日毎日、災害級の猛暑が続いています。各地で毎日のように熱中症で病院に搬送される方々が出ています。また、残念ながら命を落とされる方々も多くいらっしゃいます。どうぞ憐れんでください。特に、ご高齢の方々、幼い子どもたちをお守りくださいますように。これも、私たちがもたらした環境破壊によるのかもしれません。私たちのあくなき便利さへの追求の結果かもしれません。どうぞ一人一人が、この環境問題にも関心を持ち続け、社会全体としても共生・共存を何よりも優先させていく取り組みがなされていきますようにお導きください。

・新型コロナの第二波のピークが来たと言われていますが、まだまだ新規感染者も多く出ています。また、重傷者も徐々に増え、亡くなられる方々も増えています。どうぞ憐れんでくださり、終息へと導いてくださいますようにお願いいたします。医療関係、医療従事者の方々もお守りください。また、教会再開の良き時が与えられますように。
世界では日本よりもはるかに深刻な状況です。どうぞ憐れんでくださり、命が守られていきますように、どうぞお助けください。ワクチン、治療薬等も速やかに開発されていきますように。

・モーリシャス沖での重油流出被害も深刻です。生態系への影響も心配ですが、どうぞ世界が知恵を出し合い、適切な方法で速やかに除去されていきますように。深刻な影響が出ませんように、どうぞお守りください。

・先日の書面式の臨時総会で鐘楼の修繕が承認され、近々工事に取り掛かることになると思います。台風シーズン前にと希望していますが、この炎天下の中での作業ともなりますので、全てをお守りくださり、良き修繕がなされますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【 テキスト・音声版 】2020年8月16日 説教「それでも諦めない」浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十一主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書15章21~28節

私たちは昨日75回目の終戦の日(ある方々は「敗戦の日」と言った方がふさわしいと言っていますが)を迎えました。今年はコロナ禍で、いつもとは違う夏を過ごしていますが、その中で広島、長崎をはじめたとした様々な平和記念式典も縮小を余儀なくされました。しかし、その記憶、また平和への思いは決して小さくしていいものではありません。

むしろ、新たな冷戦構造と言われる今日、改めてその記憶を呼び覚ましていく必要性が、歴史から学び取っていく必要性があるように感じています。そして、祈っていく必要性が…。もちろん、これまでも私たちは祈ってきました。平和を願い、祈り求めてきました。しかし、その祈りが実現されているとは思えない現実に、私たちは疲れてしまっているのかもしれません。しかし、今朝の日課は、そんな私たちに、諦めずに祈ることを教えてくれているように思います。

今日の福音書の日課は、イエスさまから信仰を褒められた女性の物語です。では、この女性の何が素晴らしかったのか。それは、ひとことで言えば「諦め」なかった、ということでしょう。イエスさまから無視されたり、冷たい態度をとられたり、辛辣な言葉をかけられても、諦めなかった。最後の最後まで食い下がった。願い続けた。祈り続けた。それが、「あなたの信仰は立派だ」と評価されたことのように思われるからです。そして、その結果、彼女の願い通りに娘は癒されました。祈りが叶えられたのです。こう聞くと、私たちは途端に不安になります。なぜならば、私たちにはこの女性のような信仰はない、と思わされるからです。

私たちは、これまで数え切れないほど祈ってきました。もちろん、その中には習慣化された祈りや、心のこもっていない祈りも多々ありますが、それでも真剣に、切なる願いを捧げた祈りもあったはずです。しかし、はっきりいって、祈りが叶えられたことはありませんでした。少なくとも、願い通りになったと思えることはなかったように思います。そして、おそらく、私たちはこう思ったはずです。私たちの信仰が至らなかったからではないか、と。祈りの真剣さが、熱心さが足りなかったからではないか、と。

つまり、自分のせいで祈りが聞かれなかったのではないか、と思ったはずです。つまり、この女性のようにはなれなかった、この女性の信仰には遠く及ばなかった、と。ですから、私たちはこういった物語を読むと、確かに素晴らしいな、と思いつつも、どこか距離感を感じるといいますか、自分とは縁遠い物語と思ってしまうようなところもあるように思うのです。

確かに、この女性の信仰は素晴らしいのかもしれません。イエスさまがお褒めになったくらいですから…。しかし、こういった可能性も否定できないのではないか、と思います。もともと彼女の信仰が素晴らしかったというよりも、そのような信仰が引き出されていったのではないか、と。私自身、振り返ってみたとき、そうとしか思えない…、つまり自分自身がもともと持っていたというよりも、不思議と与えられたといいますか、どこからともなく引き出されてきたといいますか、そうとしか思えない体験を幾度も積み重ねてきたからです。

この女性は「カナンの女」だったと記されています。つまり、ユダヤ人からすれば異邦人、異教徒です。ご存知のように、ユダヤ人は異邦人、異教徒を蔑視していました。他の神々を信奉する、律法を守ろうとしない異邦人を、神さまから呪われた者とみなしていたからです。もちろん、これは聖書の曲解から来ているわけですが、今日の偏見、人種差別と似ているところがあるのかもしれません。

ともかく、大方のユダヤ人…、信仰に熱心であればあるほどそういった態度を異邦人にしてきた訳ですが、一方の異邦人はと言えば、そんな態度に出ているユダヤ人たちを当然快くは思っていなかったはずです。この女性も、そうだったのではないでしょうか。どこかでイエスさまのことを耳にしたのでしょう。

しかし、果たしてすんなりと助けを求めに行けたかどうか…。あんなユダヤ人の助けなど借りたくもない、と思っていたのかもしれません。もちろん、娘のためにあらゆる手を尽くしてきたと思います。高名な医師、呪術師がいると聞けば、遠方であろうと訪ねにいっていたのかもしれません。それこそ、借金をしてまで娘のために、と頑張ってきたのかもしれない。しかし、一向に娘は良くならない。むしろ、悪くなる一方です。もう他に打つ手はありません。あのユダヤ人イエスを頼るほかないのかもしれない。

 

しかし…。そんな葛藤を日に日に繰り返していたのかもしれません。しかし、目の前で苦しんでいる娘の姿を見て、ついに覚悟を決めました。この娘が助かるのならば何でもしよう。恥も外聞もない。もうなりふり構ってなどいられない。娘が助かるのなら、もう怖いものなどなにもない。そう、「母は強し」。一度心が決まれば母親は子どものためならばなんでもできる。そんな強い覚悟をもってイエスさまを訪ねたのではないでしょうか。

そこで、この女性はイエスさまに嘆願します。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。スルーです。鬼スルーです。イエスさまは何もなかったかのように、歩みを進められます。しかし、この女性はめげません。そんなことは織り込み済みです。ユダヤ人を相手にするのですから、それも覚悟の上です。女性はあらんかぎりの声を張り上げて叫び続けました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。どうか、娘を助けてください」。鬼気迫る様子だったのでしょう。

とうとう鈍感な弟子たちを動かすほどでした。「そこで、弟子たちは近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」。一見すると鬱陶しいから追い払って欲しいと願っているように聞こえますが、ある方は、この女性の願いを叶えてやってください、という意味ではないか、とおっしゃっています。私もそう思います。弟子たちは、あまりにこの女性が不憫になって、願いを叶えてやって欲しいととりなしたのではないでしょうか。ところが、イエスさまも負けていません。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。ある意味、正論です。確かに、イエスさまはまず契約の民であるイエスラエルの人々を立ち返らせるために宣教の業を行なっていたからです。おそらく、この女性はこのやりとりも聞いていたのでしょう。しかし、怯まず、イエスさまの前に回り込み、ひれ伏して願いました。「主よ、どうかお助けください」。

最初に、この箇所を「祈り」と言いましたが、祈りに置き換えてみますと実によく分かります。私たちも、同様の体験をしているからです。切羽詰まって覚悟を決めてイエスさまに助けを求めました。しかし、何も答えてはくださいません。しかし、それも、覚悟の上です。おいそれとは諦められないからです。ますます熱心に祈ります。果たして私なんかの祈りに応えてくださるのだろうか、と不安になりながらも、叶えていただきたい願いがあるからです。この女性をここまで突き動かして来たのも、そんな思いがあったからでしょう。どうしても娘を救っていただきたかった。ただ、その一心で…。

そんな彼女に対して、あろうことかイエスさまはこんなことを言われました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。一瞬、この女性は固まってしまったのではないでしょうか。犬? 小犬だって? 私の愛する娘を、自分の命と引き換えても惜しくないと思っている私の娘を小犬だって? もういい。疲れた。この人は助けてはくれないのだ。娘と一緒に死のう。そこまで考えたのかもしれない。しかし、この女性の口から出て来た言葉は不思議なものでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。この女性はそう言いながら、自分でも驚いていたのかもしれません。

私は、この女性のような良い祈りができたわけではありません。むしろ、噛みついた方です。私も祈りました。涙を流しながら切に祈りました。のたうち回りながら祈りました。しかし、神さまは何も応えてはくださいませんでした。だから、噛み付きました。恨みをぶつけました。悪態の限りを尽くしました。しかし、不思議と悔い改めの祈りを捧げていたのです。私の願ったことは何一つ叶いませんでしたが、神さまの存在自体を知らされたように思います。

この女性は、「主よ、ごもっともです」と応えます。愛する娘を犬呼ばわりされても、「ごもっともです」と応えます。あなたのところには遣わされていないので、あなたの希望に応えることはできないと言われても「主よ、ごもっともです」と応えるのです。ここには、もはやただ自分の願望だけを叶えたいという女性の姿は見えません。むしろ、あなたに賛成します、という相手への全幅の信頼を感じさせます。その上で、私の願いにも心を留めてください、との信頼関係からの祈りの姿が見えてくるように思うのです。

皆さんは12年間も出血の止まらなかった女性の物語をご存知でしょう。この女性も藁にもすがるような思いでイエスさまを訪ねたのでした。その衣に触れることができれば癒されるだろうと信じて。そして、その通りになった。この女性の病が癒されたということは、その信仰が働いたことは明らかです。しかし、イエスさまはそれだけでは終わらせなかった。人混みに紛れているこの女性を必死に探された。なぜならば、願いが叶っただけでは本当の出会いにはならないからです。

出会うということはそういうことです。一人の人格的な存在と向き合うということは、そういうことです。イエスさまは、私たちの願いをなんでも「はい、はい」と聞いてくれる便利屋でもロボットでもないのです。そんな関係性をイエスさまは望んではおられない。イエスさまが望まれているのは人格対人格の触れ合いだからです。そこまで、その出会いにまでイエスさまは私たちを引き上げてくださる。

私たちの祈りなど、所詮願望を叶えるためだけのものです。苦しい時の神頼みにすぎません。目的が達成されれば、もう用済みです。そんなものは、真の祈りにもならないし、真の信仰にもならない。イエスさまと、神さまと出会ってこそ、真の信仰、祈りになっていくのです。いいえ、そのように整えられていく、変えられていく、引き出されていくのです。

私たちは、何を諦めないのか。自分たちの願いを、願望を押し付けていくことを諦めないのではありません。イエスさまの前に立ち続けることを、求め続けることを諦めない、ということです。たとえ無視されているように思えても、望みが断ち切られているように感じることがあっても、そこには必ず意味が、御心があるからです。そして、自分の願いがその通りに叶うとしても、そうでないとしても、必ず私たちの祈りが聞かれた結果でもあるからです。そのことを覚えながら、神さまの御前に立ちつつ、御心を尋ねつつ、諦めずに平和を祈っていくものでもありたい。そう願わされています。

Christ and the woman of Canaan キリストとカナンの女 ピーテル・ラストマン(Pieter Lastman)アムステルダム国立美術館



《 祈り 》
・戦後75年を迎えました。あの戦争を体験した方々も少なくなり、ますます国としての記憶が薄れていっているように感じます。また、私たちの国は、なぜあのような悲劇が起こってしまったのか、しっかりとした検証を行わずに来てしまったようにも感じます。ですから、体験者の減少と共に、教訓もまた薄らいでいるように感じています。次の世代に記憶を、教訓を継承していくことにも熱心ではありませんでした。あれほどの大きな犠牲の上で学ばされたことです。

また、唯一の被爆国としての苦しい経験もあります。また、被害者としてだけでなく、加害者としての意識も忘れてはいけないと思います。私たちは、多くの命を失い苦しみましたが、同時に、多くの国々の多くの人々の命を奪い、苦しめてもきました。戦争の愚かさを、これほど味わってきた、噛み締めてきた国、国民もそうそうないのではないか、と思います。そんな私たちの国だからこそ、もっと世界の平和に貢献できるはずではないでしょうか。しかし、残念ながら、そのようには見られない現実があります。私たちは、大いに反省する必要があるのかもしれません。

これは、この国に住む私たち一人一人の問題でもあるからです。どうぞ、赦してください。そして、憐れんでください。尊い犠牲の上に学ばされたことを忘れないように。多くの叫びと涙ではじめて気付かされたことを見失わないように。どんなに高尚な理由があろうとも、武力では何も解決しないのだ、ということを見落とさないように。平和を作っていく国になっていけるように、どうぞ私たち一人一人を、国民を、国を導いていってくださいますように、切にお願いいたします。

・都内ばかりでなく、全国的に新型コロナウイルスの感染が広がっています。沖縄などでは、すでに医療機関が逼迫している状況です。医療機関の負担が増している地域も多いでしょう。どうぞ憐れんでください。医療従事者の方々をお守りくださいますように。また、感染がおさえられ、重篤化する方もでませんように。

また、この夏も災害級とも言われる暑さが続いて熱中症が心配されますが、特にご高齢の方々をこの熱中症からもお守りくださいますようにお願いいたします。新型コロナも落ち着いて、通常通り礼拝が再開されるようにもお導きくださいますようお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン