むさしの教会の会堂建築
6. 未完成の完成 河野 通祐
むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。
建築は内なるものの外なるものへの証しであると申しました。それは、建築は思想であり文化であるからなのです。
近代建築史の流れの中で機能主義の時代がありました。建築家が権力からの解放を願ってプロフェッションとしての自由を得た頃です。機能主義は建築を人類すべてものとしてその本来の姿を取り戻すために建築の各部を構成していた飾りを権力の象徴として否定し、目的のために必要な行為を動線や人体寸法に求めて空間を構成する建築を創造しました。彫刻や絵画で飾られた建築からそれらを取り去ったシンプルな建築に美を求めたのです。しかし、日本では、人間性によるのでしょうか、機能主義を表面的にとらえ、日本的合理主義と結びついて心を忘れ、今日では経済と結びついた商品としての建築を生む結果となりました。プロフェッショナルな建築家不在の企業がつくる建築が多くなったからなのです。
むさしの教会の建築は今から35年前の昭和28年に計画され、32年に竣工したものです。その頃の日本はアメリカの占領からやっと解放されたとはいえ未だ敗戦の硝煙があちこちにくすぶっていて多くの人々がその日その日のくらしに精一杯気をつかっている頃でしたから、建築は思想であるとか文化であるとか言っても、資材もなく、経済的にも貧しかった当時は所詮、理想主義者の空言としてのひびきしかしなかったのです。しかし、むさしの教会の建築は日本福音ルーテル教会伝道60周年の記念すべき年であったとはいえ、貧しさの中でも青山先生を中心に教会員の一人一人が地域に根ざしたこれからの教会の働きを考え、教会建築上の伝統的な約束と阿佐谷教会から神学校教会への歴史を踏まえ、地域の風土に根ざした教会建築を創造させることに総意を集中させました。
教会建築は教会につらなるすべての人々がなんらかの形でその計画から建築に参加することに意義があります。そのために私は建築の基礎と骨組みに重点をおき、仕上げは徐々に仕上げてゆく方法をとることにしました。未完成の完成という方法で、仕上げを教会員の手で行う事によって実際に教会員の手が建築に加わることを願ってのことでした。
しかし、そのためにはその建築の思想が伝承されなければトータルな建築としての姿を見失うおそれがあります。むさしの教会の建築は日本の人々の心情に合ったキリスト教を確立させることを願って、この地域の風土に根ざす建築を創ることにありました。ヨーロッパの各地に存在する教会建築がシナゴーグから教会堂への伝統を持ちながら風土の違いに応じた表情を見せていますように、日本のキリスト教建築を創る意義を抱いて設計しました。したがって神社に表現されている神明造りでもなく、寺院に表現されている仏教建築でもなく、武家屋敷に見られる書院造りや数寄屋造りでもない、砂漠の地で生まれ育ってきたキリスト教の思想と伝統を持った日本の建築の創作にありました。
この意図は貧しい表現力ながら、真壁造りと無双窓と深い軒の出、白壁と黒い木部、オルター背後の格子窓(後にステンドグラスに変えました)、大壁で囲んだ塔、構造材をそのまま現した室内、床を高くして通風をはかったことなどに表現しましたが、これらは日本の風土に順応する建築という考えでした。また、阿佐谷教会が持っていた親しみと神学校の本館にあった塔から毎朝流されるチャイムの讃美歌が付近の人々の心を和らげていた姿をむさしの教会が伝承しようと考えて塔を道路側に造ったことと親しみを感じる空間として天井の高さと音響効果を考えた材料扱いをしたことなどはむさしの教会の歴史の表現でした。
礼拝堂内部の扱いについては、礼拝堂が礼拝とは別の目的に利用されても礼拝を行うための空間であることのために青山先生のご指導で教会建築の伝統を踏まえての簡素化を図り各部の扱いに意味を残しました。
私にとってむさしの教会の建築は生涯忘れることの出来ない思想の表現でした。現在この教会建築が私たちが考えた頃の意図とは別の扱いがなされていますが、それはそれで歴史の流れとしてうれしいことですが、キリスト教の教会建築を忘れた集会場や催し物の場とならないことを祈りつつ、この物語を終わります。 おわり
(この文章は、むさしの教会だより1986年11月号~1987年6月号に連載された記事に著者ご自身に少し手を加えていただいたものです。 なお、パソコン入力は教会員の橋本直大兄のご奉仕によりました。 1998/10/05)
5. 礼拝堂の入り口と前庭 河野 通祐
むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。
むさしの教会の礼拝堂の入口は公道から門を入って前庭を通った奥にあります。玄関の扉の赤い色の意味は青山先生が『シンボル』の中で説明されていますが、この玄関の位置を決めるにも建築委員会でいろいろ意見が交わされました。この章では建物の配置について簡単に説明いたします。
敷地は北側の幅4メートルの公道に接した東西約23メートル、南北約36メートルの長方形ですが西側に幅2メートルの私道があって、都市計画ではこの私道を4メートルにすることが決まっていました。したがって使用できる敷地は東西の長さ21メートルで、この中に礼拝堂と牧師館とを建てる計画でした。
配置計画は玄関(入口)の位置をどこにするかによって決まります。図2は道路から直接礼拝堂に入ることが出来る案で、一般的によく採用される案ですが同じ道路から直接出入りする案といっても図3にすることも考えられます。教会堂はオルターを東に置くという伝統がありますが、この伝統を本当に守ろうとしますと北側の道路と平行に礼拝堂をつくることになります。つまり図3の配置ですが、この案は道路に面して窓やその他の開口部を設けることになり、問題になりましたのは、外の音を遮断することの困難であること、そのため外の音が直接礼拝堂の中に入ってきて礼拝の邪魔になるおそれがあること、礼拝堂の拡張が困難であること、そして、最も重要な環境をつくるうえの敷地内のゆとりが建物にさえぎられてなくなること、などでした。
初期の教会堂の多くは、会堂の前に前庭と呼ばれた部分がありました。ギリシャ語ではオーレーとかアイトリオンとか言い、ラテン語ではアトリウムとかポルティクスなど、いろいろな名称で呼ばれていましたが、一方を教会堂の建物に接し、その他の周囲あるいはその一部を柱廊で囲まれた内庭のことでした。コンスタンティヌス大帝によってキリスト教が公認されましたが、それ以後の4乃至5世紀の教会堂の多くがこの空間を備えていました。柱廊の屋根はこの中庭に向かって傾斜し、雨水は中庭の中央におかれた貯水槽か泉盤に導かれるようになっていました。中庭は人々が手や足を洗うという儀式的な洗浄を行う場であり、また祭日などに多くの信者が集まって儀式を行ったり、雨の日の退避の場として柱廊が使われたり、あるいは悔悟者が信者に懇願する場であったり、信者が寄進物を持ち込み、ここで詩編や聖歌、祈祷、朗読からなるオルトロスを行い、それから聖職者と信者とが行列して礼拝堂に入ってゆくための場所であったりしました。
図4はむさしの教会の配置で、前庭を設けて玄関をその奥に設けましたのは、このような伝統を少しでも残そうと考えたからで、門から玄関までのアプローチが道路と礼拝堂という囲まれた空間との中間の空間として、そこを通る人々に安定感がえられるような空間として山本常一さんに壁面をデザインしてもらいました。今は駐車場となりましたが。
4. 礼拝共同体 河野 通祐
むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。
教会建築は教会がその働きのために必要な空間であり、環境であります。
教会の働きとして最も重要なのは、主日ごとの礼拝であり、教会員はそれに参加することを信仰生活の原則としています。これは初代教会から今日まで、どのような地域においても、一貫して変わらない行為でありますから、この主日礼拝は教会成立の基本線であり、それを守ることによって教会の存在を確保し、生命を持続してきました(礼拝辞典より)。教会建築の規模はこの主日礼拝に参加する教会員の数とサクラメントと礼拝の形式を基礎にして創作するのが理にかなった方法と思います。
むさしの教会は今の礼拝堂が出来るまでは近くにあったルーテル神学校(その頃は専門学校でした)のチャペルを借りて礼拝を守っていましたが、その頃の主日礼拝に出席した平均人数は50名余りでした。建築委員会はこの数を少なくとも100名にすることを目標にし、クリスマス礼拝など特別礼拝の時には150 名位の収容が出来る規模にすることをきめました。また、礼拝の形式については特別な意見もなく、神学校教会で行っていた形式をそのまま継承することでした。
むさしの教会の建築にはいろいろな考えがこめられています。第一に地域のコミュニティー教会として親しみが持てるような木造建築の特徴を造形に表わそうとしたことです。それは何よりも高温多湿の風土の中で育まれてきた木造建築の特徴を踏まえて床を高くし、軒を深く出し、真壁作りにしたこと。通風と採光と外気との遮断を考えて、網とガラスによる無双窓を採用したこと。
第二に教会建築の伝統を採り入れチャンセルの長さをネーブの長さの三分の一とし、聖餐卓の位置を青山先生のご指示に従って壁より前に出して設け、聖餐卓の背後から会衆に向かって司式が出来るようにしたこと。ネーブとチャンセルとを区別するレールを取り外したこと。将来の希望として、パイプオルガンを設置することを考え、木岡英三郎先生のお宅に伺っていろいろ助言をいただき、天井や壁、タワーの設計に反映させたこと。その他山本常一さんの制作によるいろいろなシンボルを用いたこと(青山先生が『むさしの教会とシンボル』でくわしく紹介されていますから、ぜひ読んでください)など。
第三に教会建築の基本的な思想を保ちながらの経済設計として、建築費に大きな比重をしめる構造材の使用量を少なくすること、そのために市場の規格品で構成したこと、そして、その規格品を無駄を少なくした使い方をしたことです。さらに、最終の仕上げは何年もかかって徐々に行うことが出来るような未完成の完成という考えで壁は中塗りで仕上げ、床は一重張り仕上げとし、やねは安くて長もちのするものとして大波型の石綿スレート葺きとしました。また、屋根の単純化ということも経済設計の一要素でもありますが、それよりも、教会員の力で徐々に仕上げることに意義を見いだしていました。
3. 地域に根ざした木造建築 河野 通祐
むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。
むさしの教会は1978年(昭和53年)に50周年を迎えました。その折まとめられた『私たちの教会50年』によりますと、建築の計画が具体的に始まったのは1953年(昭和28年)の4月19日に開かれた臨時総会で決議された時からでした。そして工事が始まったのが1957年(昭和32年)ですから計画から設計が終わるまで4年かかったことになります。
今、この建築を外から見ますと、特に専門家を自負する人々は、何故こんなバラックのような建物に四年もかかったのか笑止の沙汰のように思われるかも知れませんが、この四年間は私にとって忘れることの出来ない教会建築についての勉強の時でした。中世のヨーロッパの建築史は教会建築の歴史ですから教会建築の様式についてはいろいろ勉強させられて来ましたが、実際に教会建築を設計する立場に立ちますと、あらためてその様式を創りだした背後の思想を考えてみる必要がありました。それは、どのような建築でも、設計するということは創造することであり。単に外見の形を模倣することではなくその建築が持つ内なるものを証しすることだからなのです。
キリスト教は砂漠の風土の中から生まれた思考であり、仏教は森林地帯の中で育った思考と言われています。日本の地域はどちらかといえば、森林地帯でありますからこの森林思考の地域に砂漠思考のキリスト教を根付かせる証しとしての教会建築をどのように創るか、という課題に対する答えを求めるための私の勉強がその四年の間続きましたが、答えを見いだすことも出来ないままに模索のむさしの教会の建築が出来ました。ですから、見た目には「貧しい予算の実用的な建築」というように受け取られたのかも知れませんが、私なりに、かつて信仰のために時の権力からの迫害を受け、死んでいった日本のキリスト者に想いを馳せ日本という地域に住む人々の生活の中に砂漠的思考のキリスト教を定着させるための容器としての建築の在り方を考えながら設計を試みました。
その頃は混乱した経済事情の中で、地域に合った木造建築をつくりたくても、資材事情がそれを挫折させることが多くありました。それでも、年輪や木肌に自信を持つことは出来なくても、日本という地域の自然の中で育った木を使って、日本の工匠が培ってきた木組みの技術を出来る限り採用し、気候風土に調和させるプランニングで建築の経済性を考えた造形で設計をまとめることが出来ました。それが具体的にどのようにあらわされたかについては次章で説明いたしますがむさしの教会の建築を設計するに当たってのもう一つの考えは地域の人々の生活思想の中にキリスト教を定着させるための聖書の解釈と教会の働きそして証しとしての建築の在り方に関してでした。一言でいえば、教会建築の地域性ということだったのです。
人間の側には絶対はありません。キリストの教えでも、今日私たちが使用する日本の文字と文であらわされた聖書で本当の教えの意味が理解出来るかどうか疑問です。たとえキリストから直接教えを受けたとしても、受け取る側の人間の条件次第によって理解のしかたは違うでしょう。キリストの教え、そしてその信仰は教会にあって一つであるとはいえ、人々の暮らしと地域によって違うのは当然と思います。それが教会建築の地域性を承認する私の考えだったのです。『教会建築』の中で建築家の岩井さんは、むさしの教会を日本の木造建築として紹介されましたが、私はそれを地域に根ざした木造建築と言ってほしかったのです。むさしの教会の建築には経済的な貧しさを超えて、地域に根ざす教会建築を創るというロマンがあったからです。
2. 日本の風土 河野 通祐
むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。
むさしの教会の建築は木造建築です。木造だから日本建築であるとは言えませんが木造建築は日本という地域に定着し、独特な扱い方をして、独特な日本の木造建築を創りあげました。
何故日本で木造建築が発達し、独特な木の扱い方をして、世界的にすばらしい建築を生んだのでしょうか。そこに木があったから、と言ってしまえばそれまでですが、その木が日本の風土の中で育った木であったからと思います。そして、その風土が、そこに住み、生活の営みを持った人々に思考の仕方を根づかせ、木と人間の交わり方に独特なものを創りだしたからではないかと思うのです。
その一つは、木が豊富にあったということでしょう。日本の地形や土質など、気候風土が木の生育に良い環境をつくり森や林をつくり育ててきたことです。そして、この森林におおわれた地域に住んだ人々は木とともにある生活を通して習慣を育み、その習慣はやがてその地域の人々の思考の仕方を培い、人間性を築く結果をもたらしました。
日本の建築が木造に特徴づけられると言われますのは、まさにこのような風土があったからだと思うのです。
第二に、日本という地域が災害の多い地域であったということです。自然の営みである災害を謙虚に受け止め、それをおそれ人間のなす業の無力さを自覚した人間が、自然に抵抗する構造をさけて、建築に加わる自然の力を分散させる、いわゆる免震構造ともいわれる軟構造を考え出し、木の性質を理解した木組みという日本独特の木構造を創造しました。さらに、自然の中で調和を図ろうとする謙虚な考えは、木が持っている自然の肌をそのまま生かすデザインを創作し、外気に直接木を見せ、気候の条件によって行われる、木の呼吸を止めない真壁(しんかべ)造りや荒木田の土壁、その他いろいろな工法を考え出し、通風や防湿、防暑、防寒など自然現象に対する対応策を考え出しました。
最近日本基督教団から出版された『教会建築』という美しい本があります。岸先生も推薦の言葉を述べられていますが、この本は単なる建築専門の書ではなく、キリスト教の思想と建築を結ぶ内面的なものを認識することが出来るとともに、建築が内なるものの外なるものへの証しであることが理解出来る立派な本なのですが、その中で建築家の岩井要さんが「福音ルーテル武蔵野教会は、日本の木造建築の特徴である真壁造りや化粧たる木をたくみに用い、無双窓にガラスを併用するなど、新しい工夫が試みられている」と書いていられます。
日本の木造建築をこのような外観にあらわれたもので特徴づけることはできませんが、たしかにむさしの教会の建築を設計するにあたって、日本の木造建築をつくることを意識しました。それは、日本という思考形態の異なった地域で受け入れられるキリスト教と教会の働き、そしてその生活拠点となる建築との相関についての試みとして建築を考えようと思ったからです。この試みは羽村教会の設計に考え続けてきたものでした。
しかし、なにぶんにも三十年も前のことですから、戦時中伐採されつくされた日本の山々には、建材として使える木も少なく、外国から輸入するにもその頃の経済が許さなかった頃ですから、私が求めたような日本の木造建築など、先ず、予算の面から考えても出来ませんでした。それが『むさしの教会とシンボル』の中で青山先生がいわれた「日本的な貧しい予算と資材にしばられたきわめて実用的な建築物」となったのです。
しかし、いくら貧しい予算であったとはいえ、決して貧しい建築になったとは思いません。それは新制作派の彫刻家、山本常一さんが私と同じ想いで協力してくださったからです。その他今は故人になられた、音楽家の木岡英三郎さんや家具設計者の熊井七郎さん、それにパウル・ジョンセン先生など多くの方々の協力が経済的な貧しさの中にも豊かなものを内に秘め今日のむさしの教会の建築を創りあげることが出来たのです。
1. タイムカプセル 河野 通祐
むさしの教会を設計してくださった河野通祐兄が、月報むさしのだよりに6回に分けて書いてくださった貴重な記事を以下に掲載いたします。会堂建築に関心のある方は必見です。
どなたでしたか、受洗された時の御挨拶で「床下に宝物があるというので小さい頃床下にもぐって探したことがありました」と想い出を話されたことがありました。そういえば、コンクリートの基礎面にある床下換気孔の金網がこわされていて気になっていました。床が高いので、床下にもぐって遊んでいるうちに床を支えている束石がゆるんだり、束と束をつないでいる根がらみぬきという板がはづされたりして床が沈んだりしないかと心配したからです。それよりも、うっかり床下で火を使われて思わぬ事故になることが一番心配だったのです。
ところで宝物ですが、確かにコンクリートの基礎の中に埋めてあります。玄関に入る前のポーチの左側の基礎面に「キリストは隅の首石なり」と記された石がはめ込んであります。宝物はその裏側、つまり床下のコンクリートの基礎の中に埋められてあるのです。それは銅板でつくった密閉した箱なのです。
その箱の中には、礼拝堂がつくられた頃の教会の姿を示す教会員の名簿、週報、聖書、讃美歌、礼拝式文など。また、その頃の日本の社会の様子が記されている新聞。それにその頃流通していた少額の貨幣や紙幣。この建築をつくった建築会社や職人の方々の名簿、設計図などがはいっているのです。この宝物はコンクリートをこわさないかぎり見ることは出来ませんが、その中身を知っているのは神様以外では青山先生と私と亡くなった森川鞠四郎さんだけだったと思います。
この風習はヨーロッパから伝わって来たもので基礎にはめ込んだ石は石造建築の礎石で隅に置かれる重要な石なのです。ヨブ記やイザヤ書には「隅の石」と記され、詩編には「隅のかしら石」と記されています。
むさしの教会の礼拝堂は木造建築ですから、この石に石造の場合のような役目はありませんが、その思想を形で残そうと思って建築の重要な場所である玄関脇の基礎に取り付けたのです。
むさしの教会の建築には、この他いろいろ意味を持ったものが沢山あります。その全部を言いつくすことが出来るかどうかわかりませんが、思い出すままにしるして教会員の方々に知っていただき、後に伝えていただくことが建築家としての私の責任でもあるように思い、この紙面を借りることにいたしました。
青山先生は、『むさしの教会とシンボル』で、この教会建築について、「様式は乗り越えて、日本的な、貧しい予算と資材にしばられた、極めて実用的な建築物」と言っておられますが、それは日本という風土に根ざした教会建築を創造しようとしたキリスト者としての貧しいながらも精一杯の試みだったのです。今から30年前のことでした。