ヨハネ

【 説教・音声版】2021年8月8日(日)10:30 聖霊降臨後第十一主日礼拝  説教 「 世を生かすもの 」 浅野 直樹 牧師

2021年8月8日 聖霊降臨後第十一主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章35、41~51節

今日の日課は、新共同訳(聖書)の小見出しである「イエスは命のパン」とまとめられているものの中にある箇所になります。先々週の「五千人の供食」の出来事と繋がっているものです。ちなみに、先週は「平和主日」として特別な礼拝を行いましたが、教会手帳を見てみますと、聖霊降臨後第十主日としての福音書の日課は、ヨハネによる福音書6章24~35節が指定されていました。「五千人の供食」の後、今日の日課の前、と言うことになります。つまり、来週以降もしばらくは繋がっていくことになりますので、ここ数週間は連続してここから学ぶように、と言うことでしょう。

先ほども言いましたように、先々週は「五千人の供食」の出来事から学んでいきました。そして、この箇所は「聖餐式」と強く結び付けられている箇所だ、とも言われています。昨年からの新型コロナウィルスの流行によって、私たちの教会も大きく変化せざるを得ませんでした。かつて経験したことのないような危機と言っても良いでしょう。共に礼拝に集うことが難しくなったからです。これについては、さまざまな方々の尽力もあって、代替ということではありませんが、ライブ配信等によってある程度は補うことができました。しかし、聖餐式は違います。聖餐式は実際に「飲食」という体験が伴うものです。ですから、なかなか替えがききません。感染症の対策をしっかりと講じた上で、なんとか特別な祝祭日であるクリスマスとイースターにできたくらいです。私たちの教会ばかりでなく、このことについては多くの教会が頭を悩ませていることでしょう。感染症が落ち着いて、一日も早く共に礼拝し、聖餐の恵みに与る日が来るようにと願っています。

「五千人の供食」の出来事では、男性だけで五千人、女性や子どもたちも含めると一万人以上となるでしょうか、ある奇跡を体験いたしました。食事で満たされるという体験…、奇跡です。ですから、彼らはイエスさまを王として立てようとします。「イエスは、人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り」とある通りです。王様とは、政治的力をも表すのでしょう。安心・安全を与え、生活を豊かにしてくれる存在。そんな力を群衆はイエスさまに認め、自分たちの王となって欲しいと願ったのです。それは、私たちにもよく分かることです。今で言えば、新型コロナの脅威から人々を守り、経済的にも立て直してくれるような政治的指導者を人々は、私たちは求めています。逆に言えば、そうでないと失望してしまう。

政治家一人でできることなど限られていると思いますが、そういった空気感も漂う今日です。当時の人たちにも、自分たちの政治的指導者たちはいたはずです。ガリラヤ地方で言えば、ヘロデ・アンティパスという王様がいた(実際は領主に過ぎませんでしたが)。しかし、民衆は失望していたのでしょう。

一向に、安心・安全が手に入らず、自分たちの生活も改善されなかったからです。ですから、そんな思い、願いを、奇跡の力で五千人を、一万人を養うことができたイエスさまに向けたのも無理からぬことだと思うのです。しかし、そんな民衆の期待に対するイエスさまの反応はどうだったのか、と言えば、「ひとりでまた山に退かれた」と記されていることからも分かると思います。「よろしい、あい分かった。そう願わずにはいられないお前たちの窮状もわたしは良く知っている。だから、お前たちが望むような安心・安全を与える、お前たちの生活を今よりもずっと豊かにする王にわたしはなろう」とは、ならなかった。そんな民衆の期待に応える王になれる自信がなかったからではありません。こう記されているからです。26節「はっきり言っておく。

あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」。そして、こう言われた。「わたしが命のパンである」と。私は、これらを読んだときに、「荒野の誘惑」の場面で語られたイエスさまの言葉を思い出しました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。

以前、国際援助の働きをされておられた方からこんな話を聞いたことがあります。飢饉などに際して食料援助などをする訳ですが、それだけでは本当の解決にはならない、というのです。援助を受ける人たちは、それが当たり前になってしまうというのです。働かなくても、食べていけることが当たり前になる。つまり、無気力です。

言葉としては適切ではないのかも知れませんが、いわゆる「飼い殺し」の状態になってしまう。善意でのパンの援助が、かえって現地の人たちを悪くしてしまうこともある。そんな現場をよく見たと言います。ですから、援助の方法を変えることした。単に食料を与えるのではなくて、自立を促していく、しかも持続的な自立を促す方法に変えたと言います。しかし、これがなかなか骨が折れることだったようです。

なぜなら、なかなか言うことを聞いてくれないからです。その方法ではダメだ。それでは気候にあまりに左右されすぎるので、こういった方法にしなくてはダメだ。そんなふうに、ある意味先端的な技術支援をしようとするのですが、自分たちはずっと代々こういった方法をとって生きてきたから、今更変えるつもりなどない、と突っぱねられる。それでも、地道に、時間をかけて説得していくと、一人二人は興味を持ってくるようです。大抵は若い人のようですが…。そういった興味を持ってくれた人たちを手取り足取り指導していく。すると、みるみる違いが出てくる訳です。従来型では、あまり収穫できないのに、新しい方法で取り組むと市場に売りに行けるほどの収穫量になる。そんな様子を間近に見ると、流石に考えを変えざるを得ないのでしょう。次々とその支援を受ける人々が出てくる。

そして、自分たちで技術支援ができるようにと現地の人を指導者として教育することも大切だと言います。いつまでも、そこに残ることができないからです。私は、それらの一連の話を興味深く聞かせていただきました。先ほどの話でもお分かりのように、意識を変えることが非常に大切になってくるのです。そんなことは言われるまでもない、と思われるかも知れません。その通りです。みんな分かっている。でも、現実はそれほど簡単ではありません。頑なに大切な技術を拒んできた現地の人を私たちも笑えないでしょう。私たちは、どうしても目の前にある現実、そう信じている現実に、また私たちの体験・経験に囚われて頑なになってしまうからです。確かに、人類は進歩しています。技術だけじゃない、仕組みも思想…、人格、人権理解も良くなっている。安心・安全、生活の向上を目指してきた結果です。

それらを実現させていった偉大な指導者たちも多く出てきたのかも知れません。しかし、人類はいまだに、平和の問題、差別の問題、格差・貧困の問題等、乗り越えることができていないものも数多くあるのです。本当に私たちの幸せ、あるべき姿は、これらの延長線上だけにあるのでしょうか。それとも、もっと別に、別の次元に飛躍すべきなのでしょうか。いずれにしても、その道筋を、私たちの必要を本当の意味で知っている者だけが(あの援助者たちのように)、その人々を救いへと導いていけるはずです。

今日の日課でイエスさまはこうも語っておられます。「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである」。この言葉は、あのニコデモとのやりとりを連想させるものでもあると思います。なぜなら、こう記されていたからです。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。ニコデモもなかなか自分自身を抜け出せないでいた中で語られた言葉です。

神さまだけが、この世界の、私たちの救い主であり解決者である。少なくともキリスト者である私たちはそう信じている。考えてみてください。もし、全ての人が心から神さまの御心に、イエスさまの教えに従えたのなら、この世界がどうなるのかを。パンどころの話ではないはずです。しかし、現実の私たちには、途方もなく難しいのです。理解さえ及ばまい。超えられない。求めることさえもできない。だから、イエスさまが来てくださった。真に向かうべき道を示すために。そして、神さまもそんな私たちを引き寄せてくださった。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」と言われている通りです。それらのことを身をもって体験するためにも聖餐式がある。

残念ながら、今しばらくは共々に聖餐式に与ることはできないかも知れませんが、しかし、それらがなくなってしまうことはないはずです。本当の道を示してくださるイエスさまがいてくださる。神さまも、私たちをイエスさまへと引き寄せてくださっている。だからこそ、信じて生きることができる。希望を失わずに済む。自分を超えて進んでいける。そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】 2021年5月2日  復活節第5主日礼拝



復活節第5主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏  教会讃美歌307番のメロデイによる前奏曲 -土屋知明

初めの歌 教会93( 喜びつどいて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
すべての良きものの源である神さま。
あなたの聖なる息吹を与えて、正しいことを考え、
それを実行できるように導いてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 8:26-40(新約 228頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 4:7-21(新約 445頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 15:1-8(新約 198頁)

みことばのうた 教会307( まぶねの中に )3節

説  教 「 豊かに実を結ぶ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会374( たよりまつる )2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会391( 主よわがいのち )2 節

後  奏 イエスは人の望みの喜びよ J.S.バッハ -園部順夫

 

【説教・音声版】 2021年3月7日 「主イエスの実力行使 」 小山 茂 牧師

四旬節第3主日


出エジ20:1~17 Iコリ1:18~25 ヨハネ2:13~22

エルサレム神殿

福音書の舞台はエルサレム神殿です。説教黙想をしていて、神殿がどのようなものであったか、調べてみました。神殿は3000年前に建てられ、紀元70年に破壊されました。神殿の始まりはダビデの子ソロモンが、紀元前950年頃に第一神殿を建立しました。しかし、南ユダ王国のバビロン捕囚のあった折、バビロニアのネブカドネザル王により紀元前586年に破壊されました。紀元前515年以降ネヘミヤやエズラにより新たに第二神殿が完成され、主イエスと同時代のヘロデ大王によって改築されました。その神殿も70年にローマによって破壊されました。取り壊された神殿の上に現在は、金色の丸屋根をもつ「岩のドーム」があり、イスラム教が大切にしています。残された神殿の城壁の一部が「嘆きの壁」として、ユダヤ教徒の巡礼地となりました。宜しければウェブサイトで、「エルサレム神殿」と検索してみてください。3D画像で神殿を散策するように見ることができます。ヨハネ福音書に過越祭が3度登場することから、主イエスが宣教活動された3年間、西暦30年頃に第二神殿は未だ残されていました。

神殿の礼拝

神殿での献げ物の調達方法を知ると、福音物語が分かり易くなります。旧約の申命記14:24~26に記されています。「あなたの神、主があなたを祝福されても、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が遠く離れ、その道のりが長いため、収穫物を携えて行くことができないならば、それを銀に換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、銀で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主のみ前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。」神に献げ物をして、家族が共に祝う様子が描かれています。

エル・グレコ El Greco (1541–1614) 神殿を清めるキリスト Christ cleansing the Temple ナショナル・ギャラリー・オブ・アート National Gallery of Art, Washington DC



ユダヤ人には、エルサレム神殿に巡礼する祭りが年に3つありました。その中で最も盛大なものが過越祭で、イスラエルの民が神の助けにより、エジプトを脱出したことを記念するものです。その過越祭が近づいたので、主イエス一行はエルサレムに上られます。神殿は異邦人の庭まで、誰もが入ることを許されています。ディアスポラ〔離散〕のユダヤ人は、遠方からエルサレムにやって来ます。神殿に献げる犠牲の動物を、遠くから連れて来るのは大変なことです。そこで境内には犠牲の動物を売る者、神殿税の支払いのためユダヤ貨幣に両替する者がいます。遠くから来るユダヤ人が通常使う、ローマやギリシア貨幣を神殿では使えません。皇帝の顔や銘が刻まれていたからです。神殿ではユダヤのシュケル銀貨が必要です。過越祭の神殿礼拝には、生贄動物の売買と両替は必要不可欠なことでした。

主イエスが神殿の境内に入って来られると、生贄を売る商人と両替商人が目に入ります。主は縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出し、両替商の台をひっくり返されます。神殿の前庭はかなり広く、主お一人での商売の邪魔を止められなかったのでしょうか。神殿警備隊が介入したり、ローマの駐屯兵が気づいたりしなかったのでしょうか。周りの人たちから見れば、突然の過激な実力行使でした。しかし、境内での商売を慣例として、神殿当局は許可していました。

熱情に食い潰される

鳩の商いをする者たちに、主イエスは言われます。「このような物は、ここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」神殿は神が住む家であり、神は主イエスの父ですから、神殿は「わたしの父の家」に間違いありません。弟子たちは主の豹変に驚き、その訳を詩編69編10節から思い起します。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽くしている。」ヨハネ福音書では熱意と訳され、詩編では熱情とあります。旧約の日課は出エジプト記20章で、神がイスラエルのリーダーであるモーセに、十戒を授ける物語です。

その中に神ご自身が「わたしは熱情の神である」と言われます。さらに、「わたしを否(いな)む者には、父祖の罪を子孫に3代、4代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」神を拒む者には何代に渡り懲らしめがあり、神を愛する者には何代に及ぶ慈しみがあります。それも、当人だけならまだしも、子や孫何代にも及ぶとあります。旧約の神はイスラエルの民を愛されるあまり、神を拒む者に妬(ねた)みさえされます。私たち人間ならそれもあるでしょうが、ちょっと失礼な言い方になりますが、神の執念深さには驚かされます。

また食い尽くすと訳されたギリシア語は、滅ぼすと言う意味もあります。自らを滅ぼすとは、主イエスの十字架を指しています。自ら動物の犠牲の代わりとなられ、人間の罪を一人で背負われます。それゆえ神殿礼拝における、犠牲の動物は必要なくなります。主イエスこそが羊や牛の代わりに、私たち人間のため生贄となられます。境内の動物をあれほど激しく追い出された、過激な実力行使には主の御心がありました。

福音書の小見出しは「神殿から商人を追い出す」とありますが、短く「宮清め」とも言われます。この物語は4つの福音書すべてにあります。ヨハネ福音書では2章「カナの婚礼」の直後、主イエスの宣教活動の初期にあり、十字架に向かわれる伏線となります。共観福音書マタイ・マルコ・ルカでは、エルサレム入城に続き宮清めがあり、主は十字架に向かわれます。

主イエスの根拠

ユダヤ人たちは、主イエスの実力行使を非難します。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」主の無礼な行いが正当である根拠を、自分たちに見せてくれと要求します。主イエスは答えられます、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」主は敢えて、誤解される言い方をされます。主の言われる神殿はご自分の体のことであり、ユダヤ人の言う神殿は目の前にある構造物です。両者の会話はすれ違い、全く噛み合いません。その行き違いを解く鍵は「建て直す」と訳された、ギリシア語動詞にあります。「呼び起こす、目覚めさせる」と言う意味もあり、主イエスは自らの甦りについて言われ、十字架から三日後に復活すると語られたのです。しかし、ユダヤ人の言う神殿は建造物であり、三日で建て直すと理解したのです。

ジョット・ディ・ボンドーネ (–1337) Expulsion of the Money-changers from the Temple  スクロヴェーニ礼拝堂



彼らは主イエスに呆れたように言います。「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」

ユダヤ人の無理解、それは弟子たちも同様です。福音の結びに語られています。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」ユダヤ人と主イエスの会話を聞いていた彼らも、主の言葉をその時は理解できません。弟子たちは復活された主イエスに出会って、初めて本当の意味が分かります。ヨハネ福音書14:26に記されています、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」弟子たちが主イエスは救い主と分かるまで、復活後に送られる聖霊の助けを待たなければなりません。

ルターも宮清め

主イエスのお言葉、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」、それにルターの宗教改革が重なります。1517年10月31日にルターが、95か条の提題をウィッテンベルクの城教会に張り出しました。当時のヨーロッパはペストの流行から、四人に一人が亡くなり、人々は死と隣り合わせでした。贖宥状〔免罪符〕というお札をお金で買えば、罪からの償いを免除され、亡くなった方にも及ぶとされました。教会が商売の家とされ、莫大な金銭を得る場所になりました。ルターは強く抗議して、イエス・キリストへの信仰によってのみ救われると、命の危険を顧みず一歩も引きませんでした。その百年前にチェコの神学者ヤン・フスは、宗教改革の先駆者として登場し、異端者とされ火あぶりの刑に処せられました。もしザクセン選帝侯の庇護がなければ、間違いなくルターも異端者として殺されていたでしょう。

ルターはヨハネ福音書2章から、コメントしていました。教会のサクラメントが牛や羊の代わりに売られるなら、商取引となるから邪悪になる。贖宥状やミサやその他のインチキなものをお金で売るのでなく、こう言うべきである。「愛する友よ、私はあなた方に、我々の主イエス・キリストの福音を説教しましょう。福音を通して我々は、恵みにより罪の赦しを得るのです。あなた方が、キリストを信じるためです。私は神のために、あなた方の救いのために、私の説教によって奉仕しましょう。求められれば赦免によりただで、あなた方の罪を赦しましょう。

私はそれをあなた方にお金で売るつもりはありません。」いかにもルターらしいメッセージではありませんか。ルターも「わたしの父の家を、商売の家としてはならない」と、主イエスから1500年後に語りました。宗教改革は「ルターの宮清め」とも言えるのではないでしょうか。でもそんなことを言ったら、きっと恐れ多いとルターに怒られることでしょう。

【音声・テキスト】2020年3月29日(日)10:30 礼拝説教:「涙を流されたイエス」

四旬節第5主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1~45節



ある注解書(解説書)を読んでいましたら、雨宮神父が書かれた文章ですが、非常に興味深いことが書かれていましたので、少し長いですが、そのまま引用したいと思います。

「『尊敬する』と『信じる』に違いがあるのは分かりますが、どこが違うのかあいまいだったので、国語辞典を引いてみました。すると、『尊敬』の項には、①他人の人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うこと。とあり、その用例として『政事家となりて郷里の人々に尊敬せらるるを喜ぶよりも』(花間鶯)があげられていました。
続いて『信ずる』を引くと、①物事を本当だと思う。また、信頼する。信用する。②神仏を信仰する。帰依する。とあり、その用例として『世俗の虚言(そらごと)をねんごろに信じたるもをこがましく』(徒然草)とか、『浅草観音にくらぶれば、八幡大菩薩を信ずる』(洒落本・辰巳之園)があげられていました。これで違いが明瞭になってきました。

尊敬心の根底には『人格、思想、行為などをすぐれたもの』とみなす判断があり、そのすぐれた長所を知るがゆえに『尊び敬う』という気持ちが生じます。一方、信仰心の場合には、『物事を本当だ』とする思いが根底にあり、そこから『信頼する』という全人格的な帰依が生じるのだと思います。そうであれば、『イエスを尊敬する』といえば、イエスの人格、思想、行為などをすぐれたものとして尊び敬うことですから、イエスの人間性に注目していることになります。しかし、『イエスを信じる』といえば、イエスに関する出来事を本当だと思い、イエスに信頼をおき、イエスに帰依する(よりすがる)ことですから、イエスその人というよりは、イエスを通して働く神に目を向けていることになります。

今週の福音が伝えるラザロの復活の結びには、『イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた』とあります。イエスを『信じた』というのですから、彼らはイエスの人格や思想や行為そのものというよりは、神と一体であるイエスを『本当だ』と認め、イエスに信頼し、イエスを通して働く神に帰依したということです」。私自身、この文章に思うところがないわけではありませんが、それでも、非常に興味深いと思っています。イエスさまを尊敬しているだけなのか。それとも…。

今日の福音書の日課は、よく知られた「ラザロの復活物語り」です。♪「し~んだラザロがよみがええった~」と子どもの歌(子ども用の讃美歌)にも出てくる有名なお話しです。そして、25節には「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」との決定的な言葉も出てきます。

以前も言いましたように、私自身は「死の克服」ということが、聖書の最大のメッセージだと考えています。人類最大の敵にして課題である死を乗り越えることができる。罪の赦しも、永遠の命も、聖化も、このことと無縁ではないでしょう。死を打ち破ることができる。死に打ち勝つことができる。別の言い方をすれば、安心して、希望をもって死ぬことができる。それが、信仰の、聖書のメッセージ。福音…。

聖書によると、私たちの「死」には、二つの側面、理解があるように思われます。一つは、被造物ゆえの「死」です。つまり、私たちは神さまによって形造られた訳ですが、しかし、それは有限なる存在として…、神さまは永遠なる方ですから、神さまとは異なる者として(似てはいても)生み出された、ということです。そういう意味では、私たちの死というのは、ごく自然な営みでしかない、ということでしょう。人は生まれてきた以上、必ず死を迎えるのが自然なことなのです。しかし、もう一つの「死」の理解は、罪によってもたらされた、というものです。罪の結果、と言っていい。人間は確かに有限な存在と
して創造されたかもしれませんが、それは、決して永遠の生の道が閉ざされていたわけではなかったのです。

しかし、人は罪を犯した。神さまの愛を信用・信頼することができずに、罪を犯してしまった。その結果、楽園を追い出され、二度と「命の木」に近づくことが許されなくなってしまった。ご存知のように、その辺りのことは創世記の2章から3章にかけて書かれていることです。そういう意味では、こちらの「死」の問題の方がより深刻なのかもしれません。

ともかく、いずれにしましても、この「死」の問題は、私たちだけでは、私たち人類だけでは解決できないことなのです。神さまによらなければ乗り越えることのできないもの。私たちの有限性も、罪の問題も。そして、私たち人類にとって「死」は、相変わらず不安で恐ろしいものであり続けている。死の先に望みを見出せないでいるからです。その死の問題を解決してくださったのがイエス・キリストなのです。神さまから遣わされた神の御子、メシアであるイエス・キリスト。そして、そのイエスさまが死の問題を解決してくださった最も顕著な例として、今朝のラザロの復活物語りがあるのだと思います。

イエスさまには、死んだ人間を復活させる力がおありになることを公に示されたからです。神さまから遣わされたイエスさまが、ラザロの復活によって、あるいはご自分の復活によって、死の問題を打ち破る扉を開いてくださった。なぜならば、人に命を与えることが神さまの御心だったからです。人を生かすことが、人の死を望まず、来るべき世の命を与えることが神さまの御心だった。その御心を実現させるためにこそイエスさまはこの世に来られた。そういう意味では、この時のラザロの死は、御心を実現させるためには必要だったのかもしれません。

ラザロの復活イコン(15世紀ロシア)



イエスさまもこうおっしゃっておられるからです。14節「そこでイエスは、はっきりと言われた。『ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである』」。ラザロが病気の時点でその場に居合わせなかったことの方が良かった、と言います。もし、その場に居合わせていたら、おそらく病気を癒されたでしょうから、死人の復活という奇跡を弟子たちが体験する機会がなくなってしまったからです。

イエスさまが死の問題にさえも勝利されることを、それを信じる機会を奪われてしまったかもしれない。だから、ラザロが死んだことを「あなたがたにとってよかった」と言われている。確かに、ラザロが死んだことによって、私をはじめ、多くの人々に慰めと希望を与えたこの言葉も語られたわけです。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか』」

そして、ラザロは復活した。その光景を、出来事を目撃した多くの人々が、イエスさまの栄光を、イエスさま上に確かに神さまの力が働いていることを、死人を復活させる力がおありだと言うことを、死の問題を克服することがおできになるということを、信じた。信じることができた、のです。

そうです。確かに素晴らしい福音のメッセージです。しかし、なんだか納得のいかないような思いを持ってしまうのは私だけでしょうか。確かに、それは、神さまの御心だったのかもしれない。全人類を救う希望だったのかもしれない。しかし、未知なる死へと赴かざるを得なかったラザロの思いはどうなるのか。不安と恐れの中でラザロを看取り、悲しみに打ちひしがれているマルタとマリアの思いはどうなるのか。そう思う。マルタとマリアは瀕死のラザロのためにイエスさまに来て欲しいと懇願します。

しかし、イエスさまは動かれませんでした。なお、そこに二日間留まられた、とあります。ラザロの姉妹たち
は、すぐにでも駆けつけてくれるものと期待していたのかもしれません。あるいは、たとえ遠く離れていたとしてもラザロを癒すことができると信じて、期待したのかもしれません。しかし、イエスさまは来られない。ラザロは癒されない。そして、死んでしまった。

少し冷静そうに見えるマルタと感情的になっているマリアとの違いはありますが、両者共にイエスさまを迎えてこう語ります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。無念だったと思います。私たちにも、この気持ちが痛いほど分かる。誤解を恐れずに言えば、いつだってそうだ、といった思いが私たちにはあるからです。本当に助けが必要なときにはいてくださらない。本当に求めている時には答えてくださらない。なぜ、その時、そのタイミングで助けてはくださらなかったのか。

私たち自身、そういった思いを嫌という程積み重ねてきたからです。確かに、人類の救いという大事の前では、この三人のことは小事なのかもしれません。イエスさまは大事のために、人類の救いという神さまの御心を実現するために来られたからです。それは、私たちの世界でも多く見受けられることです。

ちょっと話は違うかもしれませんが、今、私は猛烈に反省していることがあります。日々刻々と変わるニュースの中で、特に欧米で何万人の感染者、何千人の死者などの報道がなされるとき、その数字にあまりにも無感覚になっていたことに気づかされたからです。例えば、私が感染したとします。ニュース等では「1」といった数字が追加されるだけでしょう。そして、そのために死亡すれば、死者欄に「1」という数字が追加される。

しかし、少なくとも私の家族にとっては、その「1」は決して数字では表せないものだからです。それを、私は見失ってしまっていた。ともかく、ことが大きくなればなるほど、小さなこと、小事が見えなくなる、顧みられなくなるということは往往にしてあることです。しかし、イエスさまは決してそうではありませんでした。35節「イエスは涙を流された」。その前後の「心に憤りを覚え」というのは、なかなか難しいところですが、ある方は「死に対しての憤り」と解説されていましたが、ともかく、イエスさまは悲しみに暮れる人々を前にして、涙を流されました。辛かっただろう。苦しかっただろう。寂しかっただろう。不安だったろう。途方にくれただろう、と涙を流された。イエスさまは決して、大事の前だからといって小事
を無視されたり、軽んじられるような方ではないのです。ずっとラザロのことを、マルタ、マリアのことを気にかけておられた。

できれば、駆けつけて癒したい、助けたい、とも思われた。苦しませたくない、悲しませたくない、と思われた。しかし、人類の救いもイエスさまの肩にかかっていた。それもまた、その涙に含まれていたのではないか。そう思う。

イエスさまは人類の救いという使命を、何よりも大切にされておられる方です。と同時に、私たち一人一人の救いも、心の動きも大切にしてくださっている。だから、私たちは、イエスさまを尊敬するのです。イエスさまほど素晴らしい方はいないと。と同時に、私たちはイエスさまを信じる。イエスさまこそ、神さまがお送りくださった救い主なのだと。死に打ち勝つ命を与えてくださる方なのだと。そう信じる。信じてよりすがる。そうではないか、と思います。

『祈り』

神さま。新型コロナウイルスの影響で、今日からしばらく教会堂で集う礼拝ができなくなりましたが、どうぞそれぞれの所でもたれる礼拝を豊かに祝してください。

むさしの教会ばかりでなく、多くの教会でも同様の対応がとられていると思いますが、どうぞお守りくださいますようにお願いいたします。東京都では、感染爆発の危険性が高まっていると言われています。どうぞ私たちをお守りください。私たちの家族も、地域の方々も、またことは東京都だけではありませんので、
日本中の一人一人をお守りくださいますように。感染し、治療を受けておられる方々が回復へと向かわれますようにお助けください。また、一人一人が自分が感染しないことばかりでなく、感染させないという意識をもって行動することができますようにもお導きください。

欧米では非常な拡大をみせ、一部の国では医療崩壊も起こっていると報じられています。医療資源が枯渇していく中で、世界中の感染拡大からなかなか援助の手が挙げられないのが実情でしょうが、それでも、助け合いの手が広げられますように。疲弊している医療従事者の方々をどうぞお助けくださいますように。また、ご家族を亡くされた方々の痛みに触れてくださいますようにお願いいたします。

長い戦いになりそうですが、ワクチン、治療薬の開発などが速やかに行われるようにもお導きください。
私たちの主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン

 

【テキスト】3月22日 10:30 礼拝説教「信仰の道筋」浅野直樹牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章1〜41節

更、言うまでもないことですが、今私たちは四旬節(教会の暦として)の中を歩んでいます。もっとも、昨今の新型コロナウイルスの騒ぎで、毎日毎日ニュースに釘付けになったり、また、そこから来る現実に触れながら、心動かされながら、それどころではない、というのも正直なところかもしれませんが、この四旬節は悔い改めの季節でもある訳です。イエスさまの受難…、苦しみ、苦悩に心を向けながら、自らを省みていく…。しかし、正直、これはあくまでも私個人の感想でしかありませんが、これまでの四旬節の日課の中には、あまり「悔い改め」といった面が見えてこなかったようにも感じています。少なくとも直接的には、です。今日の日課も、そうかもしれない。生まれながらに目の不自由な人の癒しの物語です。しかし、あえて言えば、最後に出て来るこの言葉ではないか、とも思う。

41節「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」
つまり、これを、私たち自身は「見えているのか」との問いとするならば、そこに、自ずと省みが必要となってくるからです。果たして、私は(私たちは)本当に見えているのか。そこで、もっと注目すべきことは、見えないこと自体は、決して悪いことではない、と言われていることです。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう」と言われている通りです。

むしろ、見えていないにも関わらず、見えているかのように思っている、思い込んでいる、勘違いしていることが、つまり、見えていないといった事実・現実を受け入れない、受け入れないどころか、自分こそはしっかりと見えているのに、他の人たちは見えていない、と驕っていることにこそ過ちがある、罪がある、と言われていることです。

今日の箇所には、大きく分けると、二種類の人が登場して参ります。一人は、生まれつき目の見えない、目の不自由な「盲人」です。もう一人(一方)は、この癒された盲人を糾弾し、盲人が癒されたことを喜ばずに、自らの「見える」ということを誇っている人々、ここではファリサイ派として登場してくる人物です。

この両者を図式化すると、最初は見えなかったのに見えるようになった人と、見えているかのように思っていたのに、実は何も見えていなかった人、つまり、全く真逆の二つのタイプがここで描かれている訳です。そして、結論から言えば、おそらく私たちは、このどちらにも属するということでしょう。どちらか一方とは言い切れない。ここ何週間か、私たちは聖書の中の登場人物と私たちとを重ねて見て来ました。ニコデモの中に、サマリアの女性の中に、私たち自身の姿もあったからです。

まり、これらの人々は私たちのモデルでもある訳です。今日の日課に登場してくる人物たちも、そうでしょう。これらの人々の中に、私たち自身の姿も見えてくる。もちろん、実際問題として、私たちは肉体的に言えば、盲人…、目の不自由な者ではないのかもしれない。しかし、この見える、見えない、ということは、では肉体的なことだけなのか、といえば、必ずしもそうではないからです。私たちは神さまの愛が見えているのか。人の善意が見えているのか。この世界のあるべき姿が見えているのか。自分自身が見えているのか。自分の周りに起こった出来事が見えているのか。果たして、見えている、と言い切れるのか、といえば、そうではないからです。

Christ Healing the Blind(1682 Nicolas Colombel, French, 1644–1717)



日の福音書の日課は、先ほども言いましたように、一人の盲人の癒しの物語り、あるいは奇跡物語り、と言って良いと思います。しかし、単なる奇跡物語りではないことは、もう皆さんも良くお分かりでしょう。聖書には数々の奇跡物語りが収録されていますが、これほど長い奇跡物語りはないからです。ですから、この物語りは奇跡そのものよりも、その奇跡がこの人をどのように導いていったのか、といったことに関心があったのではないか、と思います。

この人は、生まれながらに目の不自由な人でした。生まれてこのかた、自分の目で何も見たことがなかったのです。何一つ、見たことがなかった。彼は色を知りません。光を知りません。この世界を知りません。私たちが知っている素晴らしい景色も、青く澄んだ大空も、風になびく新緑の緑も、春に咲き乱れる色鮮やかな花々の姿も、愛情深い人々の眼差しも、微笑みの表情も彼は知らない。見たことがない。それは、私たちには想像もできないことです。

たちも目を閉じれば、確かに暗闇に閉ざされます。しかし、すぐにでも、あの大空を思い描くことができる。なぜならば、知っているからです。一度でも、その光景を見たことがあるからです。だから、再現できる。思い描くことができる。もちろん、鮮明とはいえないかもしれませんが、それでも、空が青いことを、その色を、輝きを知っている。しかし、一度も見たこともないこの人は、何も思い浮かべることすらできないのです。これは、辛いことです。しかも、その不幸は、神さまに呪われた結果だ、と言う。

弟子たちはこの人を見て、こう尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれか罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。信心の薄れた現代日本人でも、この感覚はよく分かると思います。いわゆる、罰(ばち)です。神さまの罰(ばち)に当たった。この不幸は、そうでも考えないと、納得できない。少なくとも、自分のせいではない(親、先祖のせい)、そう思いたい。そう思う。これは、もう変えられない定めです。神さま由来ならば、そう諦めるしかない。運命を呪いつつも、受け入れざるを得ない。しかも、おそらく、これが、そういった人々が抱える現実でもあるのでしょう。この人は、「物乞いであった」とある。彼の不幸は、目が見えないだけではない。そこから、雪だるま式に不幸が襲ってくるのです。それも、私たちがよく知る現実でもあります。

んな彼の不幸の原因に対する問いかけに、イエスさまはこう答えられました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。彼の不幸の原因は、神さま由来ではない、とおっしゃいます。むしろ、そこに神さまの深い憐れみと恵みの業が起こるためだ、とおっしゃる。今日は、このことについて詳しくお話しする時間はありませんが、ぜひ皆さん、キリスト者の証しの本を読まれると良いと思います。このイエスさまの言葉が真実であったという証しに多く出会われると思う。それは、決して改善した…、この人のように実際に目が見えるといった奇跡がおこった、ということだけでなく、不幸が不幸でなくなる奇跡が多く語られていると思います。

ともかく、彼はイエスさまによって目が見えるようになりました。生まれてはじめて見たのは、水面に映った自分の顔だったかもしれません。自分の顔がこんな姿だったとはじめて知ったのでしょう。何度も水面に映っている自分の顔を触りながら確認したのかもしれない。そして、あまりの出来事に少し呆然としつつも立ち上がって、周りをぐるりと見渡したのかもしれない。そして、空を見上げたのかもしれない。その空の眩しさに、光の眩しさに、はじめて目を細めたのかもしれない。

彼は見えるようになりました。生まれてこのかた、全く見えなかったものが、見えるようになった。知らなかったことが、分かるようになった。しかし、それは、どういうことか。つまり、見えるということは、見たいものだけでなく見たくないものまでも見えてしまう、ということでもあるからです。ある白内障の手術を受けた方が、シワまではっきりと見えるようになっちゃった、と苦笑いされていましたが、自分の好ましくないところも、他人の好ましくないところも、この世界の、世の好ましくないところも見えてしまうことになる。それが、「見える」ということです。

しかし、それでも、光の存在を全く知らなかった頃に比べれば、雲泥の差だと思う。嫌なところも見えるようになったその目は、その他のこともまた見えるようになるからです。神さまの愛も、人の善意も、世界のあるべき姿も、イエスさまの救いの業も、見えるようになるからです。

の男性が見えるようになったことを、なぜか素直に喜べない人々がいました。なぜか。イエスさまがその人の目を開けられたからです。そのことが、彼らにとっては由々しきことだったからです。彼は議会に引き出され、尋問されることになります。ただ見えなかった目が見えるようになった、ということだけで、尋問される。当初、彼は不安に怯えていたように思いますが、次第に力強さが感じられるようになっていきました。

30節「彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存知ないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです』」

実に堂々としています。なぜか。自分の身に起こったことを、どうしても裏切ることができないからです。目の見えなかった事実。光を知らなかった現実。それが、今は見えている。知っている。それを、どうして否定することができるのか。その現実を、この私にもたらしてくれた方を否定することができようか。

にとってイエス・キリストとは、最初は自分とは関係のない、自分の人生の、世界の外にいたただの一人でした。しかし、自分の目を開いてくれたことによって、「イエスという方」(まだどこか他人行儀ですが)となった。そして、反対者とのやりとりの中で、自分の身に起こったことをもう一度よく吟味せざるを得なくなり、「預言者」、「神のもとから来られた方」、そして、最後に、「主よ、信じます」とひざまずくまでに、自分の身に奇跡を起こしてくれたイエス・キリストという存在が大きくなっていったのです。

それもまた、私たちが辿った信仰の道筋とも言えるのではないか。どうでしょうか。私たちもまた、イエスさまと出会って、見えるようになったのではないでしょうか。見たくない現実も、自分自身の真の、裸の、罪の姿も見えるようになった。だから、救いを必要とした。赦しを必要とした。希望を必要とした。神さまを、イエスさまを、光の存在を必要とした。この肉眼では見えていなかったものが見えるようになったからこそ、私たちは、求める者となったのです。この一人の盲人と同じように…。

初に言いました。私たちの中には、この二種類の人が混在している、と。そうです。私たちも見えていなかったのに、見えるようになった。なのに、同時に、見えていなかった事実を、現実を忘れてしまい、あたかも自分自身の力で見えているかのように錯覚し、時には人を非難するほど傲慢になってしまっている。そうです。私たちは、見える者とされたのです。

しかし、それは、イエスさまによってもたらされたものに他ならない。それを、忘れてはいけない。だから、自己吟味を、省みを必要とするのです。そして、なおも、目が開かれたその事実に、心から感謝していきたいと思う。私たちは、今、見えています。おぼろげかもしれませんが、決して暗闇ではないのです。見えている。光の存在を、色とりどりの光に満ちたこの世界を造られた方を、私たちは知っている。そして、その方に、光である方に私たちは信頼と希望を置いている。
そのことを、もう一度心に覚える四旬節としていきたい思います。

 

祈ります。

「天の父なる神さま。今朝もこの礼拝の場に私たちを招き導いてくださったことを心より感謝いたします。また、共々に集うことのできなかった方々の上にも、豊かな祝福をお与えください。あなたは、私たちの心の、霊の目を開いてくださり、肉眼だけでは知ることのできなかった光の存在に気づかせてくださったことを心より感謝いたします。私たちは、見えていなかった事実を直ぐにでも忘れてしまい、あなたに感謝することを怠り、また他者に対して傲慢な態度に出てしまうことの多いものですが、この私たちのために、イエスさまが何をしてくださったかを、しっかりと心に留める四旬節でもありますように、弱い私たちを導いてくださいますようお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

※音声バージョンはこちらから

【テキスト】3月15日(日)10:30  説 教:「 全てのことを教えてくださる方 」浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章5〜42節 

の尊敬しております牧師・神学者の一人として故北森嘉蔵牧師がおられますが、北森先生はある書物の中で、このように語っておられました。「十字架の福音は、一度教えられたからには、永久に自動的に維持されてゆくものではない。すなわち自明的な真理ではない。十字架の福音は自明的ではない真理である。したがって、我々が自己の自然性に従って自動的に流されてゆくならば、十字架の福音は必ずや喪失されるであろう。十字架の福音を信仰しているキリスト者と、この福音を委ねられている教会は、絶えず新たに『心を定め』て、十字架の福音を仰がしめられねばならないのである」

北森先生は、ここで十字架の福音、つまりイエスさまの十字架の死によって示された福音(良き知らせ)とは、決して自明的な、誰もが直ぐにでも分かるような、了解できるような真理ではなく、自明的ではない真理だと言います。ですから、一度教えられただけではダメで、直ぐにでもこの真理から逸れていってしまうのですから、キリスト者たちは、あるいは教会は常に学び続けなければならない、と言われます。本当にそうだと思います。それは、「十字架の福音」に限定されるものでもない。私たちは直ぐにも忘れてしまう。「喉元を過ぎれば」とは良く言ったものです。

私自身も、様々な苦境から神さまを求めずには、問わずにはいられませんでした。そこで、様々なことを教えられた。また、気付かされてきた。そのことによって、何度救われ、助けられ、励まされ、癒され、立ち上がらされてきたことか…。しかし、忘れてしまう。いいえ、記憶が綺麗さっぱりになくなっているのではありません。覚えています。鮮明に、とは言えませんが、それでもしっかりと覚えている。
それなのに、忘れてしまっています。忘れたように生活をしてしまい、また同じような問題、課題に右往左往してしまう。まったく学習能力がない、と呆れるほどに、です。程度の差はあれ、私たちは恐らく、誰もがそういった経験を積み重ねているのではないでしょうか。だからこそ、北森先生も、「絶えず新たに『心を定めて』」とおしゃっておられるのだと思うのです。

 

日の福音書の日課は、小見出しでは「イエスとサマリアの女」とありますが、これも良く知られたサマリアの女(女性)との対話の物語りです。少々長い物語ですし、内容も非常に豊富ですので、今朝は25節、「女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである』」という言葉にポイントを絞って考えてみたいと思っています。

皆さんは「求道者」だったでしょうか。もっと言えば、熱心な求道者だったか。神さまを求めて止まない、イエスさまを求めて止まない、御言葉の、聖書の探究者だったか。もちろん、そういった方々もこの中にもいらっしゃるでしょうが、そうではない、なかった方も少なくはないでしょう。いろんなきっかけで、気づいたら…、といった方もいらっしゃるかもしれない。先週はニコデモといったファリサイ派の議員が私たちを代表するような形で登場してきましたが、今日のサマリアの女性(名前は明らかではありませんが)もそういった方々の、私たちの代表なのかもしれません。

彼女はただ水を汲みにきただけです。昼間、炎天下の中で水を汲みにきたのにも、いろいろと意味があるようですが、ともかく、日常の必要に迫られて、暑い中を1キロ以上も離れた井戸に水を汲みにやってきた。そこで、イエスさまと出会った。
もっと正確に言えば、それだけでは、ただ「見かけない変な男の人がいるな」といった記憶にも残らないような出会いでしかなかったかもしれませんが、イエスさまが声を掛けられたことによって、忘れ難い出会いとなったわけです。それは、熱心な求道者であろうが、なかろうが、私たちにも共通していることです。イエスさまの方から、私たちと出会ってくださった。出会いを造ってくださった。だからこそ、今の私たちがある。そう思う。

そんなサマリアの女性とイエスさまとの出会いでしたが、ここでも、あの先週のニコデモと同様に、まったく噛み合わない会話が繰り返されていきました。なぜならば、先週もお話ししましたように、イエスさまは天上のことを、つまり、信仰的な事柄を、信仰をもって信じ、受け止めることでしかない事柄を話されているのに対して、このサマリアの女性は、地上のこと、この世のこと、自分の経験、理解、感覚・感性で分かる、納得できる事柄にしか思いが向かわないでいたからです。それが、ちぐはぐな会話を生み出していた。

は、以前のわたしは、このちぐはぐさは、イエスさまの方に原因があるのではないか、と思っていました。なぜイエスさまはその問いに対して、突拍子もないことを話されるのか。なぜ的外れとも受け取れるようなことを言われるのか。これでは、会話は成立しないではないか。そう思っていました。今日の箇所でもそうです。この女性は、水を求めるイエスさまにこう尋ねます。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。現代日本に生きる私たちには、この問い自体ちょっと不思議な感じがしますが、当時の女性ならば、誰もが同じような思いを持ったでしょう。
当時の社会は、差別的とも言える女性軽視の社会です。しかも、歴史的な経緯でユダヤ人とサマリア人とは犬猿の中でした。もともとは同じ国民でしたが、今ではユダヤ人たちはサマリア人の地域を避けて通るほど、徹底的に断絶(断交)していたわけです。ですから、このサマリア人の女性としては、ユダヤ人であるイエスさまがここにいること自体、不思議でならなかったでしょう。しかも、そのユダヤ人男性であるイエスさまが、サマリア人の女にものを頼むとは…。当然の問いです。

キリストとサマリアの女 ( Lorenzo Lippi )



かし、イエスさまはこう答えられる。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」
えっ、です。何言ってるの、そんなことを聞いているんじゃない。変な人、もう関わらないでおこ…。そう思ってさっさとその場を離れるのが落ちでしょう。そういう意味では、この女性はすごい。ともかく、会話を成立させていないのは、ちぐはぐな、滑稽なやり取りにしているのは、イエスさまの方ではないか。私は、そう思っていた。しかし、今では、なんと巧みなのだろう、と思っています。イエスさまの対話の目的は、会話を楽しむことではないからです。
旅行先で現地の人と話をして、その土地の生活をよく知るためのものでもない。もちろん、四方山話をするためでもない。彼女を救うため。イエスさまを信じて、命を得るためです。それが、イエスさまの目的。こう書かれている。「イエスは言われた。『わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである』」。イエスさまは、この女性とのちぐはぐなやりとりが、神さまの御心を行うためだったのだ。そうおっしゃるのです。

の女性は、イエスさまと出会った。期せずして、イエスさまの方から出会ってくださった。そして、天上のことを、救いのことを、まことの命(永遠の命)のことを、話してくださった。しかし、この女性は、先ほどから言っていますように、なかなかそれらを受け止めることができないでいました。地上のことから、現実感覚からなかなか抜け出れないでいたからです。では、イエスさまは、そんな無理解なこの女性を、見込みなし、才能なし、と見限られたのか、と言えば、そうではないのです。この女性にも分かる、地上の事柄に、彼女が抱えていた現実の、目の前の事柄に降りてこられて、徐々に天上の事柄へと思いを向けさせていかれた。最初は、まったく関心のなかった信仰の事柄、楽して水を手に入れたいといった現実的な事柄にしか興味のなかった彼女が、「礼拝」といった至極信仰的な事柄へと思いが向けられていったのです。

これは、非常に興味深いことです。そして、それは、私たちにも言えることではないか、と思う。最初っからイエスさまが語る、聖書が語る天上の事柄がすんなりと分かったわけではない。むしろ、反発し、煙たがってもきたのかもしれない。私たちが本当に欲していたのは、地上のこと、この地上の生(生活・人生)で役立つことだけだったのかもしれない。しかし、気付けば、天上の事柄、信仰の事柄にも心が向けられてきました。この女性のように、まだはっきりではなくとも、メシア・イエスさまが教えてくださるに違いない、と思えてきた。そして、このことも興味深いと思います。

42節「彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです』」。恐らく、誰にでも信仰の先達、友、恩師がいるでしょう。誘ってくれた、導いてくれた存在が…。それは、もちろん大切に違いないのですが、この言葉は、非常に大切なメッセージにもなっていると思います。
ともかく、私たちは、イエスさまから聞くしかないのです。学ぶしかないのです。天上のことは。救いのことは。命のことは。

のイエスさまは、このサマリアの女性を救うために、このように語られました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。素晴らしい言葉、約束です。私たちも、この言葉を信じている。しかし、どうでしょうか。私たちの現実の感覚は、果たしてこの言葉の通りでしょうか。やはり、天上の言葉は、確かに素晴らしいかもしれないが、幻想にしか過ぎない、ということなのでしょうか。

かに、キリスト者だからといって、常に平和(平安)である訳ではありません。今ある幸せが永遠に続く訳でもないのかもしれない。病気にもなります。明日を見通せなくなるような出来事にも遭遇します。愛する家族を亡くします。どうして…、と思うことばかりです。祈っても、何も変わらない。この苦しみは、不安は続くばかり。本当に尽きない泉などあるのか。そう思う。思えてくる。私たちは渇きます。信仰を持っていても、いいえ、もっているがゆえに渇くこともある。水を、命を、救いを欲する。しかし、渇き切ったことはなかったはずです。枯れてしまったことはなかった。

かに、わたしたちが望むような勢いある泉ではなかったかもしれない。本当にちょろちょろとした水流でしかなかったかもしれない。渇いていたときに、求めていたときに、十分に癒されるほどの、満たされるほどのものではなかったかもしれない。
しかし、イエスさまの言葉の通りに、約束の通りに、尽きない泉は確かにあった。そう思う。私自身、それを体験してきました。尽きない、枯れない泉を…。そして、この泉は、確かに、緑を、命をもたらす。それを育む。それが、その水源がいくつもあつまり、流れ出れば、大地を潤す大河にさえなれる。イエスさまから天上のことを、信仰の事柄を知らされた教会は、そういうものではないか。そうも思う。ともかく、諦めずに私たちとの対話を繰り広げてくださっているイエスさまに、心を開いていきたい。そう願います。

 

祈ります。

天の父なる神さま。今朝も新型コロナウイルス流行の最中ですが、このように私たちを守り支えてくださり、礼拝の場に呼び集めてくださいましたことを心より感謝いたします。また、自粛されておられる方々も多いですが、祈りを合わせておられるお一人お一人の上にも、どうぞ豊かな恵みと祝福をお与えください。私たちからではなく、イエスさまの方から働きかけてくださったが故に、私たちは信仰と希望と愛とに生きることができることを心より感謝しています。しかし、この恵み、ご恩を忘れやすい私たちですので、常に、御前に立ち、イエスさまに心を開いて、その言葉を、約束を受け取っていくことができますように、弱い私たちを導いてください。この混乱した最中ですが、20日に時間短縮で教区総会が行われます。十分に理解を深め合うことが難しい中ですが、東教区にとっても、東教区ばかりでなく、すべての教区にとっても、大きな節目の時に来ているのかもしれません。どうぞ、思いを一つにして、御心に沿っていくことができますようにお助けください。主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン

【テキスト】3月8日(日)10:30 説 教:「永遠の命を得る」 浅野直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書3章1〜17節

ご存知のように、新型コロナウイルスが流行し、いくつかクラスター(集団感染)も発生していると報じられています。そのような危惧からか、礼拝自体を自粛する教会もあると聞いていますが、私たちむさしの教会では…、もちろん細心の注意は必要ですが、通常の礼拝は守っていくことに致しました。これは、私個人の考えですが、たとえ少数の者しか集まれなくとも…、これも、もちろん無理をする必要はありません。公共交通機関等の不安もありますので、自衛的に礼拝を休むといった選択も尊重していきたい。いいえ、危惧のある方々にはお勧めもしていきたい、そう思っています。

しかし、たとえ戦争が起ころうとも、不測の大惨事、自然災害が起ころうとも、集える人だけで良い、礼拝は守られるものであってほしい、そう願うからです。なぜならば、私たちのこの礼拝は、私たちのためだけの礼拝ではないからです。礼拝に来ることのできない人々に代わって、代表して、それらの方々を担っての礼拝でもあるからです。

ルーテル教会の礼拝理解は、私たちが神さまに仕える・奉仕するのではなくて、神さまが私たちにお仕えくださる・奉仕してくださるもの、その場として受け止められています。他教派出身の私にとっては、そのような礼拝理解は新鮮で、心震えるものでした。なぜならば、礼拝とは、神さまに奉仕する場だと教えられる、また受け止めてきたからです。ここにもルターの受動的信仰の真髄が現されていると思います。確かにそれは、ルーテル教会が誇って良い大切な礼拝理解だと思いますし、また、守るべき伝統だとも思いますが、しかし、ルターの理解は、受動一辺倒ではなかったことも思うのです。受動…、つまり、神さまから頂いた者たちは、今度は主体的に、能動的に動き出すこともルターは主張しているからです。礼拝で恵みを受けた者たちは、今度は自ら進んで他者を担って礼拝する。礼拝を捧げる。なぜならば、私たちの住むこの世界では、神さまを礼拝する人々は決して多くはないからです。

礼拝したいのに、様々な事情で、体調の問題で礼拝に集えない人々はもちろんのこと、神さまを礼拝しようともしていない人々のためにも、私たちが代わって、代表して、担って礼拝していく。だから、いかなる事情があろうとも、私たちは礼拝を止めるわけにはいかない。たとい、一人、二人となったとしても…。なぜならば、私たちこそが、礼拝の砦だからです。このような時だからこそ、改めてそのことにも思いを向けて行きたいと思っています。

今朝の福音書の日課には、聖書を代表する言葉が登場してまいりました。ヨハネ3章16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。あまりに有名な言葉です。いうまでもなく、神さまの愛を、私たちに向けられた愛を表しているものです。ですから、皆さんもお聞きになられたことがあるかもしれませんが、ここに記されている「世」を自分に(自分の名前に)置き換えて読んだら良い、とも言われてきました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、『浅野直樹』を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。…そのようにです。

確かに、一人一人が自覚的に神さまに愛されていることを受け止めるためには有効かもしれませんが、しかし、それでは、この聖書が言わんとしていることを見落としてしまうことにもなりかねません。神さまが愛されたのは「世」です。私一人ではないのです。いいえ、私たちだけでもない。つまり、ある特定の一部の人々、信仰者(キリスト者)、教会員でもないのです。むしろ、このヨハネ福音書が語る世とは、不信仰な世です。イエスさまを拒絶する、神さまの御心に従おうとしない罪の世です。既に1章にそのことが記されている。

10節「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。ここで「認めなかった」「受け入れなかった」とありますが、これは単に「認めない」「受け入れない」ではなく、イエスさまを十字架の死へと追い込んだのです。そんな「世」を、神さまは放っておくことができず、滅ぼすことができず、「独り子」イエス・キリストを与えるほどに愛された。善良な信仰深い世ではなく、罪深い世を愛された、というのが、このヨハネ3章16節が意味するところなのです。
ですから、続けてこうも語られています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」。神さまの目的は、あくまでも世の救いにあります。世界中の人々が、イエスさまによって、イエスさまを信じることによって救われることです。そのために、神さまはイエスさまを世に与えられた。もっと言えば、十字架の死にも至らせられた。世を愛するが故に。

しかし、残念なことに、では全ての人々が救われるのか、といえば、そうではないこともヨハネは伝えます。神さまはあくまでも世を救いたいと願っておられる。それにも関わらず、救われない人々も生まれてしまう。なぜか。イエスさまを信じることができないからです。もっと言えば、イエスさまに心を開くことができないでいるからです。その代表として、ニコデモという人が登場しているようにも思います。

ニコデモとイエス

ニコデモとイエス



このニコデモ、「ファリサイ派」に属する「ユダヤ人たちの議員」であったと記されています。この「ファリサイ派」というのも福音書には度々出てきますが、ご存知のように非常に信仰的に熱心な人々です。特に、律法を守ることに熱心だった。当然、旧約聖書にも精通していたでしょう。そういう意味では、熱心・真面目で宗教的な知識に長けた人たちの代表と言ってもいいのかもしれません。議員の一人であったということは、社会的な立場を持った人たちの代表とも言えるでしょう。そんな彼は夜にイエスさまを訪ねた、とあります。そこからも、いろいろなことが推測されるようですが、その一つは、人の目を気にして、ということではないか、と言われます。立場のある人がイエスを尋ねたことによる評判を気にした、ということです。これは、キリスト者「あるある」でもあると思う。あるいは、イエスさまとの会話の中で「年をとった者が」と語ったことから、ニコデモはかなり年配ではなかったか、とも考えられています。歳を取るということは、経験を積み重ねることにもなる。そして、その積み上げた経験則から合理的な解釈を導こうとするようになります。

歳を重ねるごとに、「驚き」が少なくなると言われる通りです。余談ですが、聖書を読む時に大切なことは「驚き」だと良く言われます。これは、私自身の経験でもありますが、確かに、驚くことが少なくなりました。言い方を変えると、躓くことが、問うことが、反発することが少なくなった。若い頃は、それこそ新鮮で、驚き、躓(つまず)き、怪しみ、反発することも多かったですが、それがかえって充実した聖書との時間だったようにも思います。ともかく、そういった年配者…、経験則から合理的に(無難に)解釈する人々の代表でもあるのかもしれない。あるいは、それでも、わざわざイエスさまを訪ねるのですから、イエスさまに何かしら惹かれるものを感じた人々の代表とも言えるのかもしれませんし、あるいは、年齢も経験も積み重ね、それなりの立場にあったにも関わらず、ニコデモからすればあきらかに年少者であった、しかも素性もよく分からないイエスさまに教えを請いに来たということは、非常に謙遜な人と言えるのかもしれません。つまり、求道者の姿です。そういった人々の代表と言っても良いのかもしれません。つまり、彼は私たちの代表ということです。このニコデモの中に、私たちの姿もある。

そのニコデモとイエスさまとのやり取りは、一向に噛み合いません。あまりのニコデモの無理解さに、イエスさまが痺れを切らして、苛立たれるほどです。しかし、この両者のやり取りをご覧ください。私たちにとっては、イエスさまの言動の方が不可解です。むしろ、ニコデモの方に近さを感じる。それが、私たちの代表の所以でもあるのでしょう。しかし、それでは、やはりダメなのです。ニコデモは救いの真理に到達できなかった。なぜか。イエスさまはこうおっしゃる。「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろうか」

つまり、どうあっても、この信仰の事柄は、私たちの理解を超えたところにあるからです。経験則から分かる、想像がつく、合理化できるような地上のことではない。これは天上のこと。御子を与えるほどに世を愛される神さまの愛も、永遠の命も、結局の所、私たちにとっては理解不能なことです。ニコデモのように、そんなことはあり得ないと思うのが落ちです。ですから、天上のことは、天上のことを知っておられる方から、聞くしかない。学ぶしかない。受け取るしかない。私たちの宗教的な知識も、あるいは熱心さ・センスも、無用とは言わない、必要な、大切なことには違いないでしょうが、それよりも、いいえ、それ以前に、イエスさまの前に開かれた心が、イエスさまを信じて、信頼して、天上のこととして受け取っていくことが大切なのではないか…。そう思うのです。

先ほどは、救われる者と、そうでない者が生まれてしまう、と言いました。確かに、ヨハネはそう語ります。それは、事実として、致し方ないこととして語っているのかもしれませんし、あるいは、警笛・警告として語っているのかもしれません。しかし、それでは、このニコデモは救われない者として扱われているのか、といえば、必ずしもそうではないのです。確かに、救われた人として明確には記されていませんが、このニコデモはヨハネ福音書の中で、これ以外にも二つの場面で取り上げられていることは注目に値するでしょう。一つは、7章50節。イスラエルの指導者層がイエスさまを逮捕しようとした際に、唯一弁護した人物として登場してきます。

また、19章30節では、十字架で死なれたイエスさまを葬る際に、丁重な葬りに欠かせない香料を持ってきた人物として登場しています。これらをどう評価するか。確かに、先ほども言いましたように、明確に弟子になった、信仰者、教会員になったとは記されていませんし、また、最後まで優柔不断だったと辛辣な評価をする人々もいますが、わたし自身は、それでも、ここにも「世」を愛された神さまのお姿があるようにも思うのです。諦めきれない、捨てきれない、どうしても救われてほしいと願っておられる神さまのお姿が、です。確かに、救われているのか、いないのか…、気にはなるかもしれませんが、もっと大切なことは、イエスさまを与えるほどに世を愛された神さまのお姿なのです。
また、その神さまの御心をもらすことなく示された、証しされた、教えてくださったイエスさまのお姿です。それに、私たちは心を開きたい。命を与え救うことに情熱を傾けてくださっている神さまに、イエスさまに、心を開く者でありたい。そして、そんな神さまの思いを受けて、受け止めて、世の人々のためにも礼拝を捧げる者でありたい。そう思うのです。

 

祈ります。

「天の父なる神さま。このような社会情勢の中でも礼拝を守ることができましたことを心より感謝いたします。また、どうぞ、ここに集うことのできなかった方々の上にも、豊かな祝福を注いでください。今日学んだニコデモの姿は私たちの姿でもありますし、そのニコデモを、世…、世界を愛してくださり、なんとしてでも救い出し、永遠の命に預からせようと懸命になってくださっているあなたに、心から感謝をいたします。信仰の事柄は、確かに私たちの理解を超えたものですが、どうぞ私たちの心をますます開いてくださり、イエスさまから天上の事柄をしっかりと受け取り、信仰と希望と愛とに満たしていってくださいますように、心からお願いいたします。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

礼拝説教 「御言葉が教える平和」  浅野 直樹

ヨハネによる福音書15章9〜12節(ミカ書4章1〜5節)

8月に入りましたが、この8月は私たち日本人にとりましては、非常に感慨深いときではないか、と思います。昨日の6日は広島に原爆が投下されて71年目の日でしたし、9日には長崎に…、15日には71回目の終戦の日(敗戦の日)を迎えるからです。今年は、リオデジャネイロ・オリンピックもあり、NHKなどでもあまり戦争関連の特番は組まれていないようですが、それでも(オリンピックを楽しむことはいいことですが)、私たちにとっては決して忘れてはならない日々だと思うのです。明日、8日から恒例のルーテルこどもキャンプが広島で行われますが(むさしの教会からも2名参加)、是非、この平和ということについても学んできていただきたいと願っています。

そういう訳ですので、私が牧師になりましてから8月の第1主日は「平和の主日」として守ってまいりました。そして、これからも余程のことがない限り、この8月の第1主日は「平和の主日」として、ご一緒に「平和」について考えるときをもっていきたいと願っています。

そのように考えまして、今回も説教の準備をしていた訳ですが、インターネットで面白いものを見つけましたので、ぜひ皆さんにご紹介したいと思いました。東郷潤という方が書かれた『終わりのない物語』という絵本です。

 

【『終わりのない物語』を読む】

(インターネットで簡単に見られますので、興味のある方はお調べになってください)

いかがだったでしょうか。絵はちょっと…、と思わない訳ではありませんが、いろいろと考えさせられるところがあったのではないでしょうか。

作者の東郷さんは「あとがき」で次のように書いておられます。「絵本『終わりのない物語』は、善悪の錯覚が引き起こす憎しみの連鎖/暴力の連鎖をテーマとしています。善悪という考え方を巡っては、これ以外にも、本当に多くの錯覚が存在しています。そして、それらの錯覚は様々な悲劇を生む土壌となり、結果的に、億単位の人々が犠牲になっているのです。そうした悲劇を地球上から少しでも減らすことを目的に、絵本『終わりのない物語』を執筆しました」。私は、ここに重要なキーワードが二つあるように思いました。一つは「善悪の錯覚」という言葉です。この物語の面白さ(ユニークさ)は、悪人がいないということです。登場してくるお猿さんも、猫さんも、象さんも、みんな正義を愛する立派な人(ではないですね、動物)たちでした。そんな彼らですから、人殺しという悪を見逃すことができなかったのです。その悪を絶つために、正義の名の下悪人たちを殺す。しかし、その殺した悪人たちは、実は悪人たちではなかった。彼らもまた自分たちの正義のために悪を懲らしめている者に過ぎなかった。正義のために戦った人々を、正義の名の下に殺していく。そんなおかしなことが起こっている、というのです。確かに、そうです。みんな自分たちの大切なものを守るために殺しあっていく。国を守るために、愛する者を守るために、家族を…、子どもたちを守るために、自分たちを脅かす悪者どもを殺す。そうでないと大切なものが守れないから、と殺していく。しかし、自分たちの目から見れば悪者と思えるような人々も、大切なものを…、国を…、愛する者を…、家族を…、子どもたちを守るために、自分たちを脅かしている悪者どもに立ち向かっているだけに過ぎないのかもしれない…。

絵本に登場してまいります猿、猫、象を、アメリカ、ロシア、ISなどと置き換えてみたらいいと思います。この世の中で、そんな単純な善悪など果たして存在しているのだろうか。単純に、こちらは正義でこちらは悪と言い切ってしまえるようなものなんだろうか、そんな問いをこの物語は私たちに投げかけているように感じるのです。

そして、もう一つは「連鎖」(憎しみの連鎖/暴力の連鎖)という言葉です。もちろん、この連鎖は断ち切らなければならないはずです。

皆さんは新約聖書の書き出しが何であるかをご存知だと思います。そう、系図です。マタイによる福音書1章1節からイエスさまの系図が記されていきます。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」。皆さんもおそらくそうだったと思いますが、聖書をこれから読もうと思って開くのがこの箇所でしょう。そして、いくぶんうんざりする…。よく知らないカタカナの名前がずらっと出てくるからです。そして、聖書を読むのに少し慣れてくると、ここはもう読む必要もない、と飛ばしてしまうかもしれない…。そんな系図です。私も、そうでした。しかし、聖書を…、特に旧約聖書を理解するようになってくると、なぜイエス・キリストの福音を伝える新約聖書がこの系図から始められているのか、得心がいったように思いました。イスラエル民族の系図は通常男系なのですが、このイエスさまの系図には数名の女性が名を連ねています。しかも、いわゆる曰く付きの女性たちです。3節のタマルはユダの息子の嫁です。つまり、ユダは息子の嫁によって子どもをもうけた、ということです。

5節のラハブは遊女ラハブと言われる女性ですし、その後のルツは異邦人です。そして、極め付けは6節の「ウリヤの妻」…、これはバト・シェバのことですが、名前すら載せず、サムエル記の出来事を想起させるかのように「ウリヤの妻」とだけ記されています。詳しくお話しする時間はありませんが、ダビデはウリヤの妻を寝取り、不倫がばれそうになると、夫のウリヤを戦場の最前線に送り出して殺してしまうのです。そして、いけしゃあしゃあと未亡人のバト・シェバを妻として迎える。本当にとんでもない悪事を働いたわけです。それが、イエス・キリストの系図だ、という。本来ならば隠せばいい汚点をさらけ出しながら、これこそがメシア(救い主)の系図だと示すのです。私は、ここに救い主の意味を見たような気がしました。イエスさまの誕生によって、この血塗られた血筋に楔が打たれた…、連綿と続いてきた罪と過ちの歴史、その呪いが断たれた…、新しい救いの時代が到来した…、そう思ったからです。

憎しみの連鎖、暴力の連鎖は、このイエスさまによって断たれるのではないでしょうか。イエス・キリストという存在こそが、人類の英知によっては断ち切ることのできなかったこの「連鎖」を、断ち切ってくださるのではないか…、そう思うのです。

私は最近、このイエスさまの弟子に「熱心党のシモン」がいたことの意味をつくづく考えるようになりました。この「熱心党」…、ある辞書には次のように記されていました。「熱心党は狂信的な愛国グループで、ゲリラ活動によりローマ占領軍を追い払うことを目的としたが、実際にはさまざまな血なまぐさい報復事件を引き起こしていた」。現代でいえば、テロリズムの考え方を持っていたと言ってもいいのかもしれません。そんなシモンが、ペトロやヤコブ、ヨハネなどと並んでイエスさまの弟子となっていた。目的のためならば、人を殺すことも厭わなかったシモンが、全く別の方法で世界を、社会を変えようとしていった…。ここにも、私たちが注意を払うべきイエスさまのお姿があるように思うからです。

「平和学」という学問分野があることをご存知でしょうか。簡単に言ってしまえば「平和を追求する学問」と言えるのかもしれません。そんな「平和学」の本に、こんなことが書いてありました。「平和学は極めて学際的な学問であり、国際政治学や国際関係論以外にも、経済学、法学、社会学、心理学、人類学、教育学、宗教学、倫理学、哲学など、多くの分野の学問を含んでいる」。つまり、平和の問題というのは、単に軍事や政治の問題に限らず、非常に複雑で難しい課題が絡み合っているということでしょう。確かに、誰もが平和を望んでいるはずなのに、現実にはなかなか難しいわけです。そうであっても、私たちは一市民として、この平和のためにも政治にも選挙などを通して積極的に参加すべきだし、自分たちの暮らしぶりや経済活動が、果たして貧しい国々の構造的暴力に加担することになってはいまいか、と反省することはもちろん大切ですが、ではキリスト者として一体何ができるのだろうか、といった問いも非常に大切になるのではないか、と思うのです。キリスト者だからこそ…、いいえ、キリスト者にしかできないことがあるはずです。それは、もちろんイエス・キリストです。今日の旧約の日課、ミカ書にはこのように書かれていました。「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」。

私たちは、この旧約の言葉がイエスさまによって実現すると信じます。イエスさまがこの地上に来られたのは…、お生まれになったのも、その人生を人々への宣教…、弟子たちへの教育に費やされたのも、十字架に死に復活されたのも、平和のためだったと信じるからです。私たちの主イエス・キリストは「平和の主」です。私たちは、この平和の主を「信じる」ところからまず始めるのです。それが、私たちの生き方にもなっていくからです。

戦後71年。これまで続いてきた平和が案外脆いものであることに私たちは気づき始めました。平和だと思っていた時代にあっても、平和ではなかった人々が数多くいたことも知りました。戦争がないことだけが平和なのではない、ということについても考え始めています。だからこそ…、そんな時代、現代だからこそ、平和を作られたイエス・キリストに…、熱心党のシモンでさえも弟子とされたイエス・キリストに思いをむけていきたいと思うのです。そして、このキリストの平和の輪をもっと広げていきたい、そんな仲間をもっと増やしていきたい、そう願わされます。2016年8月7日

平和の主日礼拝説教(むさしの教会)

むさしの便り10月号より

|折々の信仰随想| 信仰による明快さ  賀来 周一

「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい」—ヨハネの黙示録3章15節

来年は宗教改革500年。改めてルターの信仰を振り返る、よい機会となりました。ルーテル教会はもちろんのこと、他の教会にあっても、ルターに魅せられたという声をよく聞きます。人によって、ルターが見せる魅力は異なるでしょう。ある人にとっては、強大な敵に敢然と立ち向かう勇気に魅せられることがあるでしょうし、また内面へ沈潜する思索の深さに共鳴する人もいるでしょう。私にとってのルターの魅力は、彼の言い分にはあいまいさがないということなのです。

通常わたしたちは、自らの生活を取り巻くさまざまな事象を説明しようとする時には、まず自分の知惠を駆使して、何らかの結論を得ようとするものです。けれども事が信仰の世界に及ぶとなると、いくら知惠を尽くしても、思索の片隅に何かしらあいまいさが残るものです。平たく言えば、考えたあげくに、その先をはっきりさせたいのだけれども、何かしら靄がかかったような状態から抜けられないといってよいかもしれません。「あなたは、冷たくも熱くもない」とは、そのようなあいまいな状態を指すと思われます。

冒頭にあげた聖書の言葉は、ラオディキアの教会の信徒に宛てられていることを考えれば、すでに信仰を得ている者として、信仰の世界にあいまいさを残してはならないとする警告を投げかけていると受け取るのが、聖書が持つ本来の意図に添うと思われます。ですから、それを受けて「むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい」と言っているのです。別の言い方をすれば、信仰の世界には、あいまいさを断ち切る明快さが必要であるということです。その意味では、ルターの言葉には信仰による明快さに溢れています。たとえば—

洗礼を受けたが、こんな自分でよいのかとぐらついている時「キリスト者は罪人であって、同時に義人である」にうなずくでしょう。心にいつも黒い影が差し込んでいて、こんなクリスチャンでよいのかと訝しんでいる時「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ、大胆に悔い改め、大胆に祈れ」にハッとします。どろどろした罪の世界から抜け出すことができません。どうすれば罪から逃れることができるだろうかと煩悶する時「わたしが罪人であるというとき、わたしの罪はわたしにはない。わたしの罪はキリストにある」との言葉に、「そうか、キリストは私のために死んでくださったのだ」との確信が生まれるのではないでしょうか。

こうしたルターの言葉は枚挙にいとまがありません。でも、こんなことがありました。私の神学校時代(鷺宮)、何かの拍子に「ルターと聖書」とつい言ったところ、当時神学校長だった岸千年先生から「ルターは、それらの言葉を聖書から学んで自分の信仰の言葉にしたのだ。だから『ルターと聖書』と言うべきでない」と言われたのでした。つまり、ルターの言葉を聖書と同列にして、ルターを神格化するなという意味なのです。これも信仰的明快さと言えましょう。

元むさしの教会牧師(定年牧師)

 むさしの教会だより7月号より:2016年7月 31日発行


「満ち溢れる主の祝福〜五つのパンと二匹の魚」  大柴譲治

二匹の魚と五つのパン

私たちは今日、五千人の給食の出来事が与えられています。たった五つのパンと二匹の魚でイエスさまが五千人を満腹させて、しかも残ったパンくずを集めると12の籠がいっぱいになったとある出来事です。本日はそのことの意味をご一緒に考えてゆきたいのです。

出来事の発端は「飼う者のいない羊のような群衆を主イエスが深く憐れまれた」というところにあります。この出来事は主の深い憐れみによって起こりました。実はこの記事は、ヨハネ福音書を含む4つの福音書のすべてに報告されていますから、そこからもこれが初代教会にとって極めて重要な意味を持つ出来事であったということが分かります。

 

五つのパンと二匹の魚を祝福する主

ヨハネ福音書では、五つのパンと二匹の魚を主イエスに差し出したのが一人の少年であったと報告されています。一人の少年が自分の持っているものをすべて主に差し出したのです。「たった五つのパンと二匹の魚で何ができるのか」と大人は常識的に考えたに違いありませんが、主イエスの呼びかけに答えて自分のすべてを主に差し出した少年の姿に私たちはハッとさせられます。主は常に私たちの持っているものを祝福し、それをご自身の憐れみの御業の中で豊かに用いてゆかれるのです。「五つのパンと二匹の魚」は確かに、空腹の五千人を前にしてはホンの僅かな、全く取るに足りないものにしか過ぎなかったでありましょう。

しかしそこで私たちの思いを越えた不思議なことが起こります。「すべての者が満ち足りて満腹した」とありますが、主の深い憐れみの御業、愛の御業に触れるときに私たちの中の何かが変わる。心の飢えが満たされるのです。私たちの貧しく困窮に満ちた現実が主によって豊かな祝福に満ちたものに変えられてゆく。主の祝福の御業です。

ヨハネ福音書の2章には、カナの婚礼で主が水を極上のブドウ酒に変えるという奇跡を行われたことが記されています。キリストが祝福してくださる時に私たちの人生は根底から変えられてゆくのです。否、さらに深く考えてみますと、私たちがこの地上の人生においてキリストと出会うということ自体が祝福の出来事であるということになりましょう。また、福音書は神が御子キリストを通してこの世を祝福されたことを繰り返し伝えています。たとえばマタイ福音書の山上の説教(5:3-12)。そこには主によって8つの祝福が宣言されています。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる・・」(5:3-4)

ここで「幸いである」と訳されている言葉は「おめでとう!」とも訳せる言葉です。英語の聖書の多くが、”Blessed are the poor in spirit”とBlessed(祝福された)という語をギリシャ語原文のように一番最初にもってきて訳しているように、「おめでとう!心貧しき者たちよ」と訳すと主の思いがダイレクトに伝わってくるように思われます。

主イエスは「自分は神に見捨てられている」と思っていた貧しい人たちや悲しんでいる人たちを「おめでとう!」と祝福するため、およそ自分は神の祝福からかけ離れていたと思っていた人たちに神の祝福を伝えるためにこの地上に降り立ってくださったのです。それは私たちが、マルコ福音書を通して毎週の礼拝でみ言葉に耳を傾けてきた通りです。

主イエスは、汚れた霊に取りつかれて苦しんでいる人を癒し(マルコ1:21-28、重い皮膚病を患っている人を癒し(同1:40-45)、中風の人を癒し(同2:1-12)、手の萎えた人を癒し(同3:1-6)、ゲラサで悪霊に取り憑かれていた人を癒し(同5:1-20)、12年間も長血を患ってきた女性が後ろからそっとイエスのみ衣に触れることで癒された出来事で主は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と宣言し(同5:25-34)、ヤイロの娘を甦らせているのです(同5:21-24、35-43。病気で苦しむ者たちをその苦しみから解放することで、神が彼らと共にいて、その祝福が一人ひとりの上に豊かに注がれているという神の恵みの事実を主は証ししておられるのです。

それはヨハネ3:16が「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と宣言している通りです。

そのことは本日の旧約聖書の日課であるエレミヤ書23章3-4節が語っていた預言の成就でした。神は預言者エレミヤの口を通して次のように預言しています。「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない』と主は言われる。」

 

自分の羊飼いを持つということ

本日の五千人の給食のエピソードは、あのステンドグラスが描く詩編23編のみ言葉のように、神がその民のために「真(まこと)の羊飼い」を立てられたということを宣言した出来事でした。真の羊飼いがその牧場の羊の世話(牧会)をしてくださるというのです。「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいの水際に伴い、魂を生きかえらせてくださる。主は御名のゆえに常にわたしを正しい道に導かれる。たとえ死の陰の谷をゆくときも、わざわいを恐れません」。このような信仰を私たちに祝福として贈り与えるために主は来てくださったのです。

本日の出来事が派遣した12 人が戻ってきたところに置かれていることに注意したいと思います。5つのパンと二匹の魚という僅かなものを用いて五千人もの人々が祝福され、残ったパンくずが12籠(イスラエルの12部族)に満ち溢れたというのは、主がそうであったように、キリストの弟子である私たちの教会も、その祝福を人々と分かち合うために存在しているということが示されているのです。神はすべて必要なものを備えてくださいます。神の憐れみの御業に信頼してすべてを委ねてゆくことが求められています。

本日の旧約聖書が告げているように、私たちには「真の羊飼い」が必要です。「飼う者のない羊」のようにさまよい歩く私たちの姿を主は深く憐れまれたのです。「深い憐れみ」とは(ヘブル語でもギリシャ語でも)「内蔵」を意味する言葉ですが、主は民の苦しみや悲しみをご自身のはらわた(存在の中心)で受け止められたということです。主イエスは羊のためなら命がけで羊を守る真の羊飼いです。そのような羊飼いを持つ者は幸いです。この人生の中でイエス・キリストという羊飼いと出会うことができること自体が大いなる祝福なのです。

 

四福音書に共通のエピソード

羊飼いイエスは私たちが持つ「五つのパンと二匹の魚」を祝福し、それを人の思いを超えるかたちで「祝福の道具」として用いてくださるお方です。私たち自身にとって「五つのパンと二匹の魚」が何を意味しているかを考えながら、主の道をご一緒に歩みたいと思うものです。

私は牧師として悲しむ人や病床にある人たちを訪問する時にはいつも、何もできない自分の無力さを強く感じます。しかし無力なままでそこに召し出されていることを感じるのです。悲しみや病いを癒すことのできない無力な私が、無力なままで主の祝福を執り成して祈る時、そこには主が共にいてくださるということを強く感じます。私たちの「弱さ」を主は用いられる。4福音書がすべてこのエピソードを伝えているということには重要な意味があります。これは初代教会において溢れ出る主の恵みを示すために不可欠の出来事であったということです。

実は4福音書が共通して伝えている出来事はそれほど多くはありません。否、実は驚くほど少ないのです。
①「五千人の給食」以外は、4つの福音書が共通して報告しているのはたった10の出来事しかありません。
②祭司長や律法学者たちがイエスを殺そうと相談したこと
③ロバの子に乗ってイエスがエルサレムに入城したこと
④エルサレムの神殿でイエスが商人たちを神殿から追い出したこと、
⑤イスカリオテのユダがイエスを(敵に)引き渡すという(「裏切り」ではなく「手渡し」という語が使われていることに注意)イエスの予告
⑥鶏が鳴く前にペトロが三度イエスを知らないと否むというイエスの予告
⑦イエスの予告通りにユダがイエスを引き渡し、イエスが逮捕されたこと
⑧大祭司カヤファによる尋問
⑨ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されてイエスが裁判を受け、有罪が宣告されたこと
⑩イエスの予告通りにペトロがイエスを三度否定したこと
⑪ポンテオ・ピラトの命により、イエスが十字架につけられ、殺されて葬られたこと
⑫イエスが復活したこと(ただしマルコは空の墓のみ)

このように4福音書を並べてみると見えてくることがある。五千人の給食のエピソードは、平和の王として子ロバに乗ってエルサレムに入城したイエスが、エルサレムでは宮清めを行っただけで力ある業を何一つ行わず、ユダの手渡しやペトロの否認を経て、十字架上であっけなく処刑されて殺されてしまう。その出来事が、実は復活という光の中で明らかとなったように、私たち一人ひとりの罪の贖いのためだったということが浮かび上がってきます。そして実はその十字架と復活の出来事こそが、「飼い主のいない羊」のように彷徨い続けた私たちをもう一度本当の飼い主である神のもとに取り戻すためのものであったということを明らかにしているのです。

キリストの十字架と復活の出来事は、私たち一人ひとりの罪を贖い、私たちを罪と死と絶望から解放するための神の憐れみの御業であり「救いの出来事」でした。「主はわたしの牧者であって、わたしには欠けたところがない」お方です。エレミヤが預言していたように、このキリストこそが神が立てられた真の羊飼いだったのです。その時に、五つのパンと二匹の魚しか持たないようなこの私が、主の愛によって造り変えられ、その憐れみの中で祝福され、このままのありのままの姿で、尽きることのない深い喜びの中で主によって豊かに用いられてゆくことを知るようになるのです。ここに真の祝福があります。生きることの喜びがあります。祝福しながら天へと昇ってゆかれた昇天の主の姿をルカ福音書は記していますが(24:50-51)、主は天の上から今も私たちを祝福してくださっています。その祝福をいただき、その祝福を反射しながら私たちは生きるのです。

主の祝福を人々に分かち合い、互いに執り成し合い、祈り合って私たちは生きる。アブラハムが「祝福の基(源)」とされたように、「五つのパンと二匹の魚」を持つ私たちは、「祝福の器」として「互いに主の祝福を執り成し合う者」「祝福を祈り合う者」として出会ってゆくのです。この祝福は主から与えられる祝福でありますから、どのような困難の中にあっても決して揺らぐことのない祝福です。互いに主の祝福を分かち合う者であり続けたいと思います(映画『おくりびと』や『隣る人』、小説『悼む人』のように)。そのためにも主の十字架の出来事、贖いの出来事をご一緒に見上げてまいりましょう。

お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

2015年8月16日 聖霊降臨後第12主日礼拝説教

説教「今こそ思い出そう! 風化でなく、感化されよう!」  石田順朗

ヨハネ 15:26-16:4a

今年は、広島・長崎被爆、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所解放・ナチスドイツ降伏と 戦後70 年を始め、実に数々の「節目の年」-阪神大震災(1/17) – 地下鉄サリン事件 (3/20)・オウム真理教・麻原彰晃容疑者逮捕から20 年 (5/16) - JR 西日本福知山線脱線事故から10 年 (4/25) -日航ジャンボ機墜落事故から30 年(8/12) ベトナム戦争終結40 年 (4/30) 日韓国交正常化50 年(6/22) 朝鮮戦争開戦65 年(6/25)。遡っては、日露戦争終結110 年(9/5)。それに、第2次大戦後10年目に独立したインドのネ-ル首相、インドネシア・スカルノ大統領、中国首相・周恩来、ナセル・エジプト大統領が中心となってインドネシアのバンドンで第一回が開催されたアジア・アフリカ会議より60 年;更に遡れば、第1 次大戦中に当時のオスマン帝国で始まった「アルメニア人虐殺」から100 年目の年 (4/24)。

身じかには、8 名の宣教師とその家族を派遣して50 年の節目を迎えるJELC のブラジル宣教、10 月4 日は、わが武蔵野教会の宣教開始90 周年。
このところ、辻井伸行さんのピアノが奏でる『花は咲く』― NHK「明日へ ―支え あおう」東日本大震災復興支援ソングがひときわ耳許に届く:風化させないように ! 世は、「風評被害」から「風化問題」へと移行している?

 

I.「風化」でなく「感化」を

今日は、Anno Domini(主暦)で2015 年目、4/5 の「復活祭」から数えて50日目。ユダヤ教ではシャブオットの祭で、過越、仮庵の祭と並ぶ三巡礼祭の一つ「五旬節・ペンテコステ」;キリスト教では「聖霊降臨日」。説教題を「今こそ思い出そう! 風化でなく、感化されよう!」とした。本日の福音書日課 ヨハネ15 章の「イエスはまことのぶどうの木」の最後のところ「迫害の予告」は、「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」(16:1)と結ばれる。今日、わたしたちが抱える「つまずき」の一つは「風化」では?

風化:地表の岩石が、日射・空気・水・生物などの作用で、しだいに破壊される自然現象。その風化に譬えて「記憶や印象が月日とともに薄れていくこと」。多くの場合、「危機意識の風化」や「問題意識の風化」。

他方、感化:影響を与えて考えや情緒を変化させること。ただ日本では従来、徳による「教化」と考えられてきた:「一世の感化に関係する有用の人となることを得べし」(1859 年発行のサミュエル・スマイルズ著の『自助論 (セルフ・ヘルプ)』が、明治4 年『西国立志編』と中村正直により翻訳刊行され、「天は自ら助くる者を助く」という独立独行の精神を「感化」の思想的根幹としてきた。

私にとっての「感化」は、67 年前の京都教会での体験;岸先生の説教、それは、偶然にも、今日の第1日課、エゼキエル書37 章の「枯れた骨の復活」‒「主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真ん中に置かれた。そこには骨が満ちていた。なんと、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。『これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ、わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。- – おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう』。息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった」

これこそ、「感化された」人々の姿だ! 事実、わたし自身も「感化された!」同様に、ペンテコステ当日の「突然、激しい風が吹いて来て、人々が座っていた家中に響き渡った、- すると一同は聖霊に満たされた – 」 それこそ「風化」ではあるが、実態は、聖霊による「感化」だ!

 

2.そこで、「感化」されるためには、まず「思い出す」こと!

「実を言うと、わたしが去って行くのはあなたがたのためで、弁護者をあなたがたのところへ送る – 」それは、(風評に押し流されないように)「あなたがたに思い出させるためである」。
「アナムネーシス(想起)」の大事さ。アナムネーシスというギリシャ語の名詞は新約聖書中4回しか出てこないが、その動詞形[アナミムネースコー、想起する]では6回の用例がある。注目すべきは、そのうちの3回(ルカ22・19、Ⅰコリント11・24、25)は、イエスの聖餐設定において用いられている、「私の記念として… 行え」。しかも、そのいずれも「十字架の死に向かうイエス」を想起させる言葉として使用されている。

最初のペンテコステ当日、ペトロの説教の冒頭、預言者ヨエルの言葉を用いて行った説教のはじめ:「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は主とし、またメシアとなさったのです。 – 」
大事な点は、このアナムネーシス(想起)が十字架のイエスを思い起こすこと。
また、その動詞及び派生語が、ペテロがイエスの言葉を想起するという場面、特にペトロが十字架のイエスとの係わりで自らの罪深さを思い知らされる箇所で用いられているという事実。つまり、聖書の証言によると、イエスを想起(アナムネーシス)するのは、単に生前のイエスの姿を思い起こすということだけではない。特に、十字架との係わりでイエスの言葉を思い起こすことだ。また同時に、十字架の主との係わりの内に明らかにされた罪人としての私たち自身の姿に思い至ることである。
毎主日礼拝で、招かれて集う私たちは、み言葉の説教と聖餐に与ることで、先ず「思い出す」(聖餐設定の辞);いや、毎主日礼拝自体が、この「想起」に基ずいている。
 
 
3.「すると、人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、‒ 」感動した、感化された!

さらに注目すべきは、感化された人々は、ペトロとほかの使徒たちに「いったい、わたしたちはどうしたらよいのですか」と叫んだ。 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を
受けるでしょう!」ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」‒ 教会の誕生日と云われる所以。

今日、ムハンマドのコーランの教えに心酔するイスラームの勢力拡大に懸念する。でも、世界各地でテロや武力紛争を繰り広げるイスラム過激派組織とは全く異なり、聖霊で感化された「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった、人々に仕えた」と聖書は記録する。

 

むすび

とくに、宣教90 周年をむかえるわが武蔵野教会の皆さん。(私事にわたり、いささか口幅ったいことながら、この5月、わたし自身も受按60 周年を迎える)。

聖霊に感化されて、共々に、奮い立とう!

むさしの教会・ペンテコステ礼拝 説教 2015.5.24

「わたしにつながっていなさい〜光合成のように」 大柴 譲治

ヨハネによる福音書 15:1-10
 
「まことのぶどうの木」につながる

風薫る五月。緑の美しい季節です。本日の日課のヨハネ福音書15章には「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主の言葉が与えられています。「わたしとつながっていなさい」と繰り返し命じられているのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(4-5節)。

本日は、この「わたしとつながっていなさい」という言葉、「キリストにつながる」というキーワードから、み言に聴いてまいりたいと思います。そもそも「枝」は「幹」を離れては実を実らせることはできません。幹から養分(愛)をもらわなければ実どころか枝としての生命を保つこともできないのです。神は農夫として良いぶどうの実を結ばせるために手入れをして下さるのです。私たちに求められているのはどのような時にも「枝」としてキリストという幹とつながっていることです。主を見上げ、主から離れないということです。私たちが礼拝に集うのもキリストにつながっているからです。キリストとつながる中で私たちは「霊的な生命」を保ち続けているのです。
 
 
つながりの中の「いのち」

私は三年前から、今は月に一日ですが、緩和ケア病棟のチャプレンとして患者さんたちと接しています。そこで感じることは「人は生きてきたようにしか死んでゆけない」ということです。ガン細胞は人間の身体の中にある「生きようとする生命力(細胞分裂)」に乗っかってそれをエネルギーとして増殖してゆく病気です。検査や治療法も進んで早期発見も増えてきたためガンは必ずしも不治の病とは言えなくなってきています。また、通常でも私たちの身体には「がん細胞」は生まれていて、白血球やキラー細胞など私たちの身体に備わった「免疫力」がその増殖を阻んでいることが分かってきました。そのためにも私たち自身の日常生活での「免疫力」、「自己治癒力」を高めてゆくことが重要と言われています。

もう20年以上前のことですが私は、モンブラン登頂という「いきがい療法」で有名な倉敷の柴田病院の院長からお話しを伺ったことがありました。そこは仏教系の病院です。「五年生存率」ということを考えた際にそれが一番低いのは「諦めてしまった人」、逆に一番高いのは「ガンなんかに決して負けるものか」という気持ちで「闘い続けた人だ」と言われたのです(ちなみに、二番目に低いのは「宗教的な悟りを開いた人」ということでした)。「免疫力」には私たち自身の気持ちの持ちようや生きる姿勢(構え)というものが大きく作用するということでした。
 
 
無条件の愛〜光合成のように

ケリー・ターナーという米国人女性研究者の『がんが自然に治る生き方』という本があります(2014年11月出版。プレジデント社。原著は同年4月出版)。著者は千例に渡る進行ガンからの生還者についての症例を研究し、一年をかけて十ヶ国を訪問し百人以上にインタビューを重ね、治療のプロセスと結果を質的な研究としてまとめた博士論文がこの本です。原題Radical Remissionの通り、この本には「劇的に寛解」した人たちに見出された共通した実践事項が九つにまとめられています:①抜本的に食事を変える、②治療法は自分で決める、③直感に従う、④ハーブとサプリメントの力を借りる、⑤抑圧された感情を解き放つ、⑥より前向きに生きる、⑦周囲の人の支えを受け入れる、⑧自分の魂と深くつながる、⑨「どうしても生きたい理由」を持つ、という九つの姿勢です。

九つのうち二つだけが食事療法やサプリメントに関することで、後の七つはすべて生き方・生きる姿勢に関するものであることが印象的でした。それぞれ説得力に富む報告と分析が展開されてゆくのですが、その中にシンという名前の日本人患者が登場します(p.74−94。寺山心一翁氏)。バリバリのコンサルタントとして仕事に没頭する中、1984年、48歳の時に腎臓ガンと診断されます。手術で右腎臓を摘出、抗がん剤治療と放射線治療を受けたにもかかわらず肺と直腸への転移が見つかります。

「余命は一〜三ヶ月」と家族は医師に宣告を受けるのです。すべての治療を止めた後、シンは自分の直感に従う生き方を開始しました。自分で自分の治療法を決めてゆくのです。まずミネラルウォーターを飲むところから始めました。朝目が覚めたら生きていることに感謝をし、深呼吸して、日の出まで小鳥たちと一緒に歌います。ガンを自分の子供のように愛情をもって接し、限りないやさしさをもって「愛しているよ。そこにいてくれてありがとう」と毎日声かけをしていったのです。また、10代の頃から始めていたチェロを弾くことも再開し、身体全体に心地よい振動を与えてくれる音楽を大切にしています。そのような中で特に心に響くエピソードがありました。

彼はある時にいつものように日の出前に目覚めた時、小鳥たちの鳴き声に気づきます。普通の日常風景ですが、好奇心を誘われたのです。どうして朝、鳥は鳴いているのか。鳥はいったい何時から鳴き始めるのか。不思議に思った彼は10分、20分、日の出より早く起きてみましたが鳥は既に鳴き始めていました。30分前でも鳴いていたのです。しかし一時間前に起きてみると外は完全な静寂。結局、日の出の瞬間は毎日少しずつずれるにもかからず、鳥たちは日の出のぴったり42分前に鳴き始めていたことを彼は突き止めたのでした。鳥の鳴き出す時間が分かったら日の出までは手持ちぶさたなので彼は今度は毎日、鳥と一緒に40分間息を吸ったり吐いたりしながら歌を歌い始めました。

次に科学への造詣が深いシン(早稲田大学の電気科出身)は、なぜ42分前なのか理由を突き止めようとしました。息子に薬局で酸素ボンベを買ってきてもらい、家にいた三羽のインコで実験を開始したのです。インコたちを寝かせるために夜は鳥かごにカバーが掛かっていましたが、深夜0時頃に鳥かごに酸素を流し入れてみました。すると数分後にインコは鳴き始めたのです。何分かして酸素が消散した頃にインコは鳴き止みました。これは面白いと興奮した彼は、午前二時半まで待ってもう一度鳥かごに酸素を流しました。案の定インコたちは鳴き始め、数分後に鳴き止んだのです。そして日の出のきっかり42分前にインコは再び鳴き始め、日の出まで鳴き続けました。彼はそこで一つの仮説を立てました。

日の出42分前に鳥が鳴き始めるのは、木々が光合成を始め放出する酸素に反応しているのではないかと。植物は夜の間は光合成ができませんが朝に太陽光を甘受するとすぐに光合成を始めるのです。葉緑素があるため二酸化炭素を吸って酸素を放出するのです。それが日の出の42分前なのではないか。鳥が一番よく鳴くのが朝である理由は、まだ科学的には解明されていません。シンは鳥が鳴くにはたくさんの酸素が必要なので、朝、植物が光合成を開始し始めた頃に鳴くのだろうと推測しました。この小さな実験で彼は確信します。鳥が鳴き始める日が昇るまでの42分間の空気は特別に新鮮なものであり、ガンが転移した自分の右肺にとっても良いものであろう、と。

そしてこのときもう一つ、彼はある大切なことに気づかされるのです。自分という存在は大きないのちの中で無条件に愛されていること、そしてガンを含めて自分の身体全体を無条件にホリスティック(全体的)に愛してゆくことを。不思議なことに彼は劇的に寛解し、身体の中からガンは消えてゆきます。1988年から既に25年以上が経ちますが、彼はガンの再発もなしに元気に暮らしています。今はガンで苦しむ人々のためにチェロを弾きながら身体と心・魂といかに向き合うかを伝える活動に力を注いでいるということでした。「結局、あなたのガンを消したのは何だったと思いますか」と問うケリー・ターナーに彼は即座にこう答えています。「無条件の愛です」と。このエピソードを読んだ時、私は深く心動かされました。


悲しみや苦しみに出会う時に私たちは通常自身の中に閉じこもって自分を守ろうとします。そのような反応は当然であり自然なことです。しかしそのような中で自分の小ささや無力さに打ち砕かれる瞬間がある。その時に心の目が外に向かって開く瞬間がある。自分のいのちが大きなものにつながっているということにハッと気づかされる時があるのです。(鶏の声にハッと気づいたペトロ同様)寺山さんにとってそれは日の出42分前から始まった小鳥の鳴き声でした。主イエスはある時に「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と言われました(マタイ5:45)。

神さまはその恵みをすべての人に等しく注いでいてくださるのです。自分の直感を信じ、自分の魂に深く裏打ちされたような生き方をする時、私たちには不思議なことが起こるのかもしれません。一番不思議なことは「ガンの劇的な寛解」ではありません。それも十分に不思議なことですが、ガンという病を通して寺山さんの目が大きな世界に向かって開かれ、世界とのつながりに気づき、生き方が根本的に変えられていったことがさらに不思議なことです。苦難の中で自分の中だけに閉ざされるのではなく、大きな世界に向かって開かれてゆくこと。大きな無条件の愛の世界につなげられてゆくこと、そこに自分がつながっていることに気づくことが最も重要な事柄と思われます。私たちが死すべき有限な存在であること自体は変わりませんが、そこではQOL(Quality of Life:生活の質・いのちの質)がグッと高められてゆくのです。

主イエスの言葉を想起します。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:4-5)。キリストにつながることで私たちにはその無条件の愛(アガペー)が注ぎ込まれ、私たちを通して実った「愛の実」を多くの人々が味わうことができるようになってゆくのです。
 
 
聖餐への招き
本日私たちは聖餐式に招かれています。この聖餐を通して、私たち一人ひとりが「まことのぶどうの木」であるイエスさまに「今ここで」つながっているということの幸いをご一緒に味わいたいと思います。風薫る五月、緑の木陰で主は、光合成のように、私たちに酸素の濃い新鮮な空気を与えてくれています。私たちのためにすべてを捧げ尽くしてくださったキリストの無条件の愛が、私たちに「豊かな愛の実り」をもたらせてくださいます。私たちもまた、そのキリストの愛を運ぶ器として用いられてゆくのです。

そのことをかみしめつつ、新しい朝の光の中、新鮮な空気の中に呼吸と讃美の歌声をあげながら、共にキリストを見上げて、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に主の恵みが豊かに注がれますように。
アーメン。
2015年5月3日復活後第四主日礼拝説教

「永遠のいのちを得るために」     大柴 譲治

エフェソの信徒への手紙 2:4-10、ヨハネによる福音書3:13-21


<「神はその独り子を賜るほどこの世を愛して下さった」>
 聖書は「永遠のベストセラー」と言われます。「死すべき有限な存在」である人間の多くが「永遠のいのち」を得るために聖書を手にしてきました。福音書の中には「永遠の命」を得ようとして主イエスに「どうしたら永遠の命を得ることができますか」と問いかける人が何人も登場します。マタイ19章では「ある金持ちの青年」、マルコ10章では「ある金持ちの人」、ルカ10章では「律法の専門家」、そしてルカ18章では「ある議員」が、そのように質問をしています。
 彼らは皆、「何をすれば」自分は「救い」を得ることができるかと主に問うていました。それに対して主は、十戒を守り、自分の財産をすべて売り払って貧しい人たちに分け、天に富を積んで私に従ってきなさいと命じます。しかし彼らはそれができずに悲しみながら立ち去ってゆくのです。ルカ10章で主は律法の専門家に対して「あなたは聖書をどう読むか」と問い返しています。「主なる神を愛し、隣人を愛しなさい」と正しく応えた律法学者が「では隣人とは誰ですか」と再び問うたのに対して、主はよきサマリア人のたとえを語ります。
 ヨハネ福音書は「永遠の命」をその中心主題として繰り返し語ります。本日の日課にも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とあります。それはニコデモとの対話の中に置かれた言葉なのですが、宗教改革者マルティン・ルターはこの節を「小福音書」や「小聖書」と呼ぶほど大事にしました。この箇所は聖書全体を一言で要約していると捉えたのです。ルターはこう言います。「もし聖書の御言葉が全て失われたとしても、このヨハネ福音書の3章16節だけが残れば、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう」と。
 確かにこのヨハネ3:16は私たちが何度も味読すべき聖句です。私はここで「この世」という語を「私」と読み替えて理解したいのです。「神はその独り子を賜るほどこの私を愛してくださった」と。それは御子を信じるこの私が滅びることなく、永遠の生命を得るためだったのです。「自分が何をしたら永遠の命を手に入れることができるか」と問う人間に対して、ヨハネ福音書は「神の愛の御業に目を向けなさい」「イエス・キリストにおいて神がなされたことを見上げなさい」と告げています。

<「サル型信仰」と「ネコ型信仰」(岸千年)>
 故岸千年先生(元神学校長、JELC総会議長)が「信仰には『サル型』と『ネコ型』の二つがある」とよく言っておられたことを想起します。子ザルは自力で母ザルの背中やお腹にしがみつきます(サル型)が、子ネコは自分ではしがみつけません。母ネコがしっかりと子ネコをくわえて移動させるのが「ネコ型」です。キリスト教の信仰はネコ型で、神が向こう側から私たちをしっかりと掴んでくださっているのだというのです。先の「永遠の命をどうすれば自力で得ることができるか」という立場は「サル型」になりますね。その独り子を賜るほどにこの世を愛された神の御業にすべてを委ねるのは「ネコ型」です。これはとても分かり易い例話だと思います。
 今私たちは主の十字架の歩みを覚える「四旬節」(レント)の期間を過ごしていますが、主の十字架を見上げる時に、神の愛が他のどこにおいてよりも私たちに明確に迫ってくると思います。
 
「サル型信仰」が「自力型の信仰」と申し上げましたが、以前に獣医だった方からお話を伺ったことがありました。不登校の子供たちに深く関わってこられた方です。その方はサルの話をしてくださいました。私たちは「母性本能」とは本能的なものと思っているかもしれませんが、実はそうではないと言われて驚きました。サルも人も愛されることを通して愛することを学ぶのだそうです。母親ザルに抱っこされて育てられた子ザルでないと、自分が母親になった時に子どもを抱っこして育てないそうです。抱っこされて育つ時に大切なのは母乳と肌の温もりでしょう。確かに母乳は栄養バランスも良く免疫力も高めるようですが、それ以上に大切なことは、子ザルは母親ザルに抱かれることを通して母親の規則正しい心臓の鼓動を聞いて育つということなのだそうです。その安定した鼓動を感じながら子ザルは自分が愛されていることを学び、そこから自分が親になった時に「どう子どもを育てればよいか」を学ぶというのです。「サルも人も、愛されることなしには愛することはできないのです」とその獣医さんは語られました。これは確かに真理であると思います。しかしこれはなかなか耳に痛い言葉でもあります。自分がどれだけ親に愛されてきたかということと、子どもを愛してきたかということに関しては、私たちの多くが心の中で不十分であったのではないかという痛みを持っているからです。
 しかしそのような私たちに聖書は宣言します。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この宣言は私たちが神の目にはとても価値があるということを明らかにしています。「あなはたわたしの目に価高く、尊く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と聖書が告げている通りです。

<親子愛〜「強、火を付けろ」>
 「命がけの愛」があります。自分の生命を賭けて大切な者を守ろうとする愛です。2000年10月29日の読売新聞第一面の「編集手帳」に紹介されていたエピソードです。そこには、七年間も引きこもりをしていた息子が、ある時にガソリンを自らにかけて火をつけて死のうとします。咄嗟に父親が後ろから息子にしがみついて、「強、火をつけろ。私も一緒に死ぬから」と叫んだのでした。「斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。『強、火をつけろ』。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。」
 生命を賭けて息子を守ろうとする父親の必死の思いが伝わってきます。しかしその背後には、七年間にも渡る不登校の息子に対する忍耐強い愛があることを見落とすことはできません。強君のご両親と森下さんは中学校一年生、つまり13歳から20歳までの7年間、子どもと共に苦しみ、子どもと共に呻き続けたのです。それがあればこそ「時」を得て親子愛が伝わったのだと思います。森下一さんは言っています。「共生の思想は共死の思想に裏打ちされていなければならない」と。
 そしてこの本には、「共生の思想」ということだけではなくて、「共死の思想」こそが共生の思想を支えるのだという言葉が出てまいります。「強、火をつけろ。一緒に死ぬから」と言って、どん底でそのようにしっかりとひしと抱きとめられる愛。そのような共死の覚悟をもった絆の中で初めて、人は自分が愛されている、自分はそのような愛に生かされているということに気付いてゆくというのです。強君にとってはそれまでも変わらずに注がれてきたであろうその親の愛情が、20歳の時、20年間かかってその瞬間に初めて本当のものとして自覚されたのです。私はそのお父さんの覚悟の深さと同時に、7年間もたゆまずに、諦めずにずっと強くんに寄り添い、関わり続けてきたご家族や、精神科医の森下先生の忍耐強い愛情に心を動かされるのです。人生には自分が愛されているということが分かる決定的な瞬間があります。私たちにはそれを伝えてゆくべき瞬間があるのです。愛とは共に死ぬ覚悟をもって共に生きることなのです。「『共生』だけでは、私は人生観としても宗教観としてもきわめて不完全なものだと思います。なぜならそこには、生きることだけに執着するある種のエゴイズムの匂いを感ずるからです。『共生』という思想は『共死』の思想に裏づけられてこそ、はじめて本物になるのではないでしょうか。・・・共に生き、共に死ぬということがあってはじめて人間の成熟した人格形成が可能になるという人間観が抱かれるようになったのです。その意味において『共死』という観念抜きの『共生』論はきわめて一面的なものではないかと思うのです。」(山折哲雄)
 私は主の十字架を見上げる時に、この斎藤強くんとお父さんのエピソードを思い起こします。あの十字架の出来事は、ガソリンをかぶって火をつけようとする、死のうとする、滅びようとする私たちを、うしろからしっかりとがしっと支え、抱きとめてくださったお方の愛を表している出来事なのだと思います。キリストは私の身代わりとなって十字架の上で死んでくださいました。ここに真実の愛があります。キリストがその苦難と死によって勝ち取ってくださった「永遠の命」があります。これは天地万物が揺らぐとも決して揺らぐことのない出来事です。人間が私たちがどのようなときに、ほんとに生きていてよかった、ということを感じるのか。それは真実の愛しかないのだと思います。このような「共死の覚悟に裏打ちされた」真実の愛が私たちを捉えて離さないのです(ネコ型信仰!)。
 そのことをパウロは本日の使徒書の日課であるエフェソ書2章でこう言っていました。 「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(エフェソ2:4-6)
 このことを覚えながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。皆さまお一人おひとりの上に、神さまの豐かな祝福と導きとがありますように。アーメン。

(2015年3月15日礼拝説教)

2014/12/24(水)クリスマスイブ音楽礼拝 説教「太初に言あり」      大柴 譲治

イザヤ43:1-7
ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。 2 水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。 3 わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。 4 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。 5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り、西からあなたを集める。 6 北に向かっては、行かせよ、と、南に向かっては、引き止めるな、と言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れ、と言う。 7 彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し、形づくり、完成した者。

ヨハネによる福音書1:1-14
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2 この言は、初めに神と共にあった。 3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。 10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。 12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。 13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

<はじめに>
 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

<「太初に言葉ありき」>
 静かな夜です。耳を澄ますと天使たちの歌声、天上の教会の讃美の歌声が聞こえてくるようにも思われます。「天には栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」と。今年も皆さまとご一緒に、クリスマスイブの音楽礼拝に集うことができる幸いを心から感謝いたします。
 今宵、私たちに与えられているのはヨハネ福音書の冒頭の言葉です。この部分を、文語訳聖書の持つ格調高い言葉の響きで親しんでこられた方も少なくないと思われます。「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟(さと)らざりき。」
 この「はじめ」は「創造の初め」を意味すると共に、「時間と空間の初め」を意味し、「万物の初め」「万物の根源」を意味していると思われます。万物は「神の言」、「神の声」によって創造され、支えられ、守られ、導かれているというのです。「萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」なのです。どのような出来事が起ころうとも、太初からこの世に響き渡る神の言葉、神の御声が私たちを守り支え導くのです。たとえ「天地は滅ぶとも、わたしの言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)。その言葉の意味は、「どのような時にも、わたしはあなたと共にいて、あなたを離れることはない」ということです。
 創世記を読みますと、神は天地万物の創造を「初め」に「言」をもって開始されたと告げられています。「初めに、神は天地を造られた。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1:1-5)。
 「神光あれと 宣えば 光ありき」なのです。この「創造の初め」、「世界の初め」に発せられた「言」、ギリシャ語では「ロゴス」(「言葉」「法則」「理」「声」という意味があります)、ヘブル語では「ダーバール」(この語には「言葉」という意味と共に「出来事」という意味があります)という語ですが、この「光あれ」という「言」、「声」について今宵は思いを馳せたいと思います。
 暗闇の中で私たちは「光」を求めます。「光」があれば、たとえそれが小さな光であったとしても、私たちはちゃんと生きてゆくことができるのです。荒れ狂う海において灯台は船に正しい方向を指し示します。「クリスマス」は私たちの救い主イエス・キリストがこの地上にお生まれになったという「キリストの誕生日」をお祝いする特別な日です。キリストは、ベツレヘムのまぶねの中にお生まれになりました(ルカ福音書が報告)。(マタイ福音書によると)あのクリスマスツリーの一番上にあるようにベツレヘムの空の上にはひときわ大きな星が照り輝き、それを東の方で見た占星術の学者たちが黄金・乳香・没薬という宝物をもって「王としてお生まれになった方」をはるばると遠方から拝みにやってきたとされています。博士たちの旅は星を見上げての夜の旅でした。昼間は星が見えませんから、夜に足を進めなければなりませんでした。星を見上げ、足下を確認しての一歩一歩の手探りの旅でした。彼らにとってはこの闇夜に輝く星の光が自分たちにとっての「いのちの光」だったのです。このいのちの光が私たちの悲しみや苦しみの闇を照らしています。光は闇の中で今も確かに輝き続けているのです。私たちも人生における夜の旅を続けているように感じることが少なくありません。悲しみや苦しみが渦巻く夜の旅です。光の導きが必要になります。

<緩和ケア病棟のチャプレンとして思うこと>
 私は二年ほど前から、月に一〜二日、錦糸町にある賛育会病院という病院の緩和ケア(ホスピス)病棟のチャプレンを務めています。「ホスピス」というところは、ガンかエイズで余命半年という診断がなければ入ることのできない病棟です。積極的な延命治療は行わず、ペインコントロールを中心とした緩和ケアを行うところです。20床ほどの病棟に通常15人前後の患者さんが入っておられ、チャプレンである私はその患者さんやご家族の所を回って、お話を伺う役割を果たしています。「チャプレン」というのは病院や施設にある「チャペル付きの牧師あるいは聖職者」という意味の言葉です。
 ホスピス病棟で働いていますと、医療スタッフの献身的なケアに頭が下がると共に、私たちがすべからく死への存在であるということを身に沁みて感じるようになります。ある時にルターは「私たちは皆、死へと召喚されている」と説教で語りましたが、確かに私たちは皆死にゆくプロセスの中に置かれていると言えましょう。愛する者との別離の悲しみを思う時に私たちは胸がつぶれるような気持ちとなります。
 そのような私たち人間の現実の中に、今日私たちのための救い主がこの地上に降り立って下さったというよき音信が告げられているのです。このお方(イエス・キリスト)は、神に等しくあられたにもかかわらず、それに固執することなく、自分を捨て、無となって僕の姿を取り、天より降り、この地上を、死に至るまで、いかも十字架の死に至るまで、御父の御旨に従順に従われました。その謙遜さと従順さとによって私たちは救われたのです。この世の悲しみを担ってゆかれたキリストはやがて復活されますが、その手足には十字架の傷跡が残っていました。その聖痕を通してこの世の悲しみは癒されたのです。
 復活されたキリストの体に十字架の傷跡が残っておられたように、悲しみは悲しみを深めてゆくことを通してこそ、それを担う力が与えられてゆくのであると信じます。この一年も、皆さまにとっても様々な出来事が身近に起こった一年であったのではないかと拝察いたします。

<若松英輔、『魂にふれる〜大震災と、生きている死者』、トランスビュー、2012>
 若松英輔(わかまつえいすけ)という1968年生れの思想家であり評論家である方がおられます。慶應大学の仏文科の出身の方で、最近私はこの方がカトリックの立場に立っている方であるということを知りました。二年半ほど前に偶然書店で手にした『魂にふれる〜大震災と、生きている死者』という書物でその存在を知ったのですが、私にはとても心に響く文章を書く方のように感じられました。若松英輔さんはその書物の中でガンを10年患って亡くなってゆかれた配偶者について「魂にふれる」という文章を書いておられます。それはこのような書き出しで始まっています。(少し長くなりますが)引用させてください。

「魂にふれたことがある。錯覚だったのかも知れない。だが、そう思えないのは、ふれた私だけでなく、ふれられた相手もまた、何かを感じていたことがはっきりと分かったからである。2010年2月7日、10年の闘病のあと、妻が逝った。相手とは彼女のことである。
 亡くなる二ヶ月ほど前のことだった。がんは進行し、腹水だけでなく、胸水もたまりはじめていた。数キロにおよぶ腹水は、身体を強く圧迫し、胸水は呼吸を困難にする。がん細胞は通常細胞から栄養を奪いながら成長する。彼女のからだはやせ細り、骨格が露出し、マッサージをすることすらできなくなっていた。薄い、破れそうな紙にさわるように、彼女の体に手をおき、撫でることができる残された場所をさがしていたとき、何かにふれた。
 まるい何かであるように感じられた。まるい、とは円形ではない。柔らかな、しかし限りなく繊細な、肉体を包む何ものかである。魂は人間の内側にあるというのは、おそらく真実ではなく、それは一種の比喩に過ぎない。むしろ、魂がゆさぶられるという表現は、打ち消しがたい実体験から生まれたのだと思われる。外界の出来事に最初に接触するのは、皮膚ではなく、魂なのではないだろうか。肉体が魂を守っているのでない。魂が肉体を包んでいる。
 どれほどの時間がたったのか分からない。見つめあいながら、深い沈黙が続いて、『こういうこともあるんだね』と言葉を交わしたのを覚えている。彼女は少しおびえたようだったが、起こったことの真実を一層深く了解していたのは、おそらく、彼女の方だった。抱きしめる。何かを感じるのは抱きしめた方よりも、抱きしめられた方ではないか。魂にふれるときも、同じ現象が起こる。
 彼女は内心の不安を口にすれば、私が困惑すると思い、沈黙していたのだろう。病者は、介護者が思うよりもずっと、介護者をはじめ自分を生かしてくれる縁ある人々を思っている。あのとき、私たちは彼女の最期が遠くないことを知らされたのだと思う。私の理性はそれを拒み、はっきりと自覚したのは彼女の没後だが、それでも、あのとき、私は打ち消すことのできない経験に直面していることには気がついていた。
 彼女は、肉体の終わりをはっきりと感じながら、同時にそれに決して侵されることのない「自分」を感じていた。その日以降、不安におののきながら、またあるときは落ち着きはらって、そんなことを言うと、きっとあなたは怒るだろうけれど、と前置きしながら、死ぬのは、まったく怖くない、彼女は一度ならずそう語った。
  (中略)
 苦しむ者は、多く与える者である。支えるものは、恩恵を受ける者である。決して逆ではない。持てる者が与え、困窮する者は受ける、それは表面上のことにすぎない。
 自分でベッドから立つこともできなくなった妻から受け取ったことに比べれば、私が妻にできたことは、実に取るに足りない。震災下でも同じことが起こっている。被災地の外に暮らす者が、自分に何が援助できるかを模索するだけではなく、自分たちが被災者によって何を与えられているかを、真剣に考えなければならないところに私たちは立っている。
 ふれるだけで十分である。ふれ得ないなら、ただ思うだけで、何の不足もない。病者は、差し出された手にどんな思いが流れているかを、敏感に感じ取る。病者は、まなざしにすら無言の言葉を読みとっている。同情、共感、あるいはそれを超えた随伴か。病者が望んでいるのは、理解でも共感でもない。それが不可能なことは、当人が一番よく分かっている。
 黙って隣にいることは、厳しい忍耐を要し、ときに苦痛でもある。なぜなら、苦しむ病者を前に、あまりに非力な自分を痛感しなくてはならないからである。しかし病者は、その思いもくみ取っている。
 彼らが望んでいるのは、日々新しく協同の関係を結ぶことである。協同は、共感や理解を前提としない。だが互いに全身をなげうって、存在の奥から何かを呼び覚まそうとする営みである。病者は、介護者の不安やおののきまでも、協同を築く土壌にしようとする。それは、大地が朽ちたものを糧に不断のよみがえりを続けるのに似ている。
  (中略)
 亡骸を前にして私は慟哭する。なぜ彼女を奪うのかと、天を糾弾する暴言を吐く。そのとき、心配することは何もない。私はここにいる、そう言って私を抱きしめてくれていたのは彼女だった。妻はひとときも離れずに傍らにいる。だが、亡骸から眼を離すことができずにいる私は、横にいる『彼女』に気がつかない。」

 若松英輔さんはパートナーを亡くすという慟哭の中で、その声を聴いたのです。「心配することは何もない。私はここにいる」という「太初からの愛の声」を。最愛の配偶者を病いで失うという体験を通して、悲しむこと、悲しみを深めることは、生きている死者との共同作業なのだと語っておられるのです。そしてこのことは私もやはり確かなことだろうと思っています。「私たちが悲しむとき、悲愛の扉が開き、亡き人が訪れる。-— 死者は私たちに寄り添い、常に私たちの魂を見つめている。私たちが見失ったときでさえ、それを見つめつづけている。悲しみは、死者が近づく合図なのだ。-— 死者と協同し、共に今を生きるために」。
 先ほどお読みいただいたイザヤ書43章にあったように、神は私たちにこう告げています。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(2節と5節)。この太初の声を私たちは聴きながら、この言葉を光として仰ぎながら、ご一緒にクリスマスを過ごし、新しい年を迎えたいと思います。
 悲しみの中に置かれた方々の上に、メリークリスマス。お一人おひとりの上に、その独り子を賜るほどにこの世を愛して下さった天の父(「インマヌエルの神」)と主イエス・キリストが共にいて、慰めを与えてくださいますようにお祈りいたします。
 「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき。この言は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろづ)の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命(いのち)は人の光なりき。光は暗黒(くらき)に照る、而して暗黒(くらき)は之を悟(さと)らざりき。」
 私たちの悲しみをすべて「理解」し、英語で「理解するunderstand」という語は「下に立つ」という意味の言葉ですが、下から支えて下さるお方、救い主イエス・キリストのお誕生をご一緒に言祝ぎたいと思います。天には栄光、地には平和がありますように! アーメン。

<おわりの祝福>
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

説教『言は肉となって』   石居基夫

 クリスマス、おめでとうございます。お招きいただきまして、今日はこの武蔵野でクリスマスの喜びを共にさせていただくことを大変うれしく思っております。もういろいろな意味で、私がここに過ごした時とは違っているのですけれど、やはり懐かしく、この場所に戻ってくると、無条件で「ただいま」ということばの出ることです。

イエスさまの誕生。そのクリスマスの出来事について、今日お集りいただいている皆さんは、その様子を自然に心に思い起こされることではないかと思います。

 

約二千年前、ベツレヘムの厩のなか、母マリアとヨセフに見守られ飼い葉桶に寝かされた幼児イエスさま。羊飼いたちが天使から救い主の誕生を知らされ、また東方の博士たちがユダヤの新しい王の誕生を星の導きに得て、このイエスさまを礼拝におとずれたこと。

 

マタイやルカに記されたクリスマスの出来事を伝える物語は、私たちにこのクリスマスの恵み、救いとは何かということをそれぞれに伝えています。それは、町中のクリスマスの華やかさ賑わいにも拘らず、実は私たちのなかに隠されている貧しさやみすぼらしさ、人間の弱さに向けて、神様のまなざしが注がれていることを伝えていることだろう。私たちの醜さや罪の渦巻く闇の中に神様の導きがあることを示されるのです。イエスさまご自身が、宿屋にさえ居場所を得ることが出来ず、臭く汚れきった家畜小屋の中でお生まれになったことで、私たちがあまり目を向けたくはない暗い部分、私たち自身のなかに巣食う闇の只中に、イエスさまがおいでくださったことを知らされるのです。

 

じっさい、先日もパキスタンで大勢の子どもたちのいのちを奪うという何ともいたたまれない事件がおこりました。なんとかミクスなどと言って少し景気が良くなったのかどうか分かりませんが、自分たちは、きっとそうした世界の遠い場所の出来事には目をつぶって過ごしていける。でも、そうして目をつぶろうとする私たちは、だれかのいのちを奪うほどの罪や暗やみが、決して遠い場所のことではなくて、私たち自身の中に巣食っている問題なのでないかと知っているはずなのです。

 

イエスさまがお生れになられたとき、ヘロデ王がこれを恐れて、ベツレヘム付近一体の2歳以下の男の子を殺したと聖書は記しています。イエスさまはなんとか身をエジプトに寄せて逃れたのです。その出来事のなかにも、イエスさまが、誰とともにあるお方なのかということを知らされるのです。

私たちは、このクリスマスに誰とともに生き、何を生きようとしているものなのだろう。

 

いや、しかし、私たち自身がどのようなものであろうとも、クリスマスは、私たちへの神様の出来事なのです。主イエスの誕生は、何を私たちにもたらすものなのか。クリスマスの本当の喜びに深く与りたいと思うのです。

 

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。

 

ヨハネ福音書は、大変格調たかい表現をもって、神と、そのことばとしてのキリストとの深い関係をあらわします。

 

 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった

 

すべてをお創りになられ、また、私たちにいのちを与えられる神が、私たちの造り主、まことの主であることが示されます。(私たちは、自分の人生の主でありたいのです。自分が自分の人生の計画を実現したいと思うのです。しかし、その私たちに向けて私たちの本当の主は誰か宣言するのです。)そして、特に「神のことば」としてのキリストが、私たちすべてのいのちの源であり、また、そのいのちの光であると示されています。

 

この光は、私たちの暗やみを照らすいのちの光。クリスマスは、このいのちの光が私たちにやってくる出来事だと言えるのでしょう。この光に照らされて、私たちは私たち自身が何者であるのか、どんな深い暗闇を持っているのか、そこにたたずんでいるのか、あからさまにされるに違いありません。

このいのちの光は、すなわち神のみことばです。そのみことばのもとに、私たち自身の姿があからさまになる。

 

たとえば、おそらく何回となく聞いてきたルカ福音書10章にあるたとえ。私にとっては、教会学校の夏期学校でスタンツをしておそわったものです。困っている人を見たら、何をおいてもその人へ駆け寄っていったあの善きサマリア人のように、「あなたもいって同じようにせよ」と、私たちにみことばは語りかけられるのです。

でも、そのみことばによって、私たちは、そのみことばには生きていない自分を知らされるのです。あの時も、この時も、私が本当に大切にすべき神様の招きの声に聞くことが出来ず、自分の身を守り、自分の願いと希望、人々の賞賛の声を求めるように、あの祭司やレビ人のように道の向こう側を歩んできたのではないのか。そういう自分の存在が神様の前にあからさまになる。

いのちの光が照らし出すのは、そういう私自身の姿なのです。

 

神さまのみことばは、私たちのありようを照らし出す。そうして、私たちが何者にすぎないかということをあからさまに知らしめる。

 

けれども、それでおわらないのです。このヨハネはさらに言うのです。

 

 ことばは肉となって私たちの間に宿られた。

 

私たちが何者でしかないのかを神様の方はとうにご存知なのです。けれど、それにも拘らず、神様は私たち一人ひとりを愛し、ご自分の大切な子どもとして、新たに生きるようにしてくださる。放っておかれないのです。黙って遠くにおられることがないのです。駆け寄り、私たちを抱きしめ、もう一度生きるようにと私たちを新たにされる。それがクリスマスのできごとでした。

 

 このことばは肉となって私たちの間に宿られた。

 

みことばが私たちの内に働き、私たちを新たにする。神様のみ心を生きるようにもう一度立ち上がらせてくださる。その恵みがキリストを通して、私たちへの確かな語りかけとなり、私たちのうちに働く神のことば、力となることばとなった。福音書記者ヨハネはその証人でした。裏切ったあのペトロたちも、迫害者パウロさえもこのみことばによってとらえられ新しくされたのでした。

 

先週の日曜日、ある新聞に絵本作家のいとうひろしさんのことが紹介されました。私と同世代の作家ですけれども、「ルラルさんのにわ」とか「ルラルさんのほんだな」など、ルラルさんシリーズが知られています。でも、きっと一番は、おじいちゃんと孫の交流を描いた、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という絵本です。その記事でもその本のことが取り上げられていました。

ちいさな子どもが成長し、その世界を少しずつ広げて、いろいろな経験をする。難しい問題にであう。だから時には泣いて帰ってくることもある。そうすると、おじいちゃんがなにも聞かずに、とにかく「大丈夫、だいじょうぶ」と言ってくれる。そのことばで、大丈夫になる。

いとうさんは、こどもにはそういう根拠のない自信をあたえる関係が大事だという。母親はね、泣いて帰った子どもをみると、どうしたのかと理由を尋ね、なにがわるかったのかとか、どうしたらいいのかとか、いろいろというでしょう。でも、泣いているということをそのまま受け止めてくれて、大丈夫といってくれるおじいちゃんの存在。そしてそのことばが子どもの生きることを支える力となるのじゃないか。いとうひろしさんは自身の祖父母との体験をもとにしながら、そんな思いを絵本にしたと紹介されていました。

これを読んで思ったのです。ああ、そうだ。神様は無条件に「大丈夫」ということばを私たちにあたえてくださった。この状況のなかでも、こんな自分でも、このみことばは、私たちの生きるいのちの支え、救いとなる。キリストがお生まれになったこと。それは、なによりもこの神のみことばが私たちのために、確かに私たちの間に肉となりやどられたのです。私たちの生きるいのちに、確かな力となる。根拠のない自信ではなくて、神のことばとして、イエスさまご自身が、たしかな根拠となってくださったのです。

だから、こんな私でも、用いられ、生かされ、何事かなすものとされるのです。誰かのために、この小さな手を差し出すものとされる。だれかのそばに寄り添うものとされる。走りより、和解し、助け合う。

神はそのことばは、私たちを新しく生かす力なのです。そこに神の救いの働きがある。

 

救いの約束は、民全体に与えれる大きな喜びの約束です。それは、正義や平和、公平の実現とされています。悪や人を蝕む罪の力から、私たちが自由されることです。死もない労苦もない、涙も拭われ、なぐさめられる。それが、私たちに約束されているのです。

でも、そうした世界は、神様がたちまちにして、魔法のように私たちに与えられるものではありません。悲しみも苦しみも、やっぱりこの現実の中にある。それでも、この神の救いの出来事ははじまったのです。みことばが私たちに宿り、私たちがみことばを生きる、いやみことばに生かされるところにはじまった。神さまのみ業が私たちのうちに始められたのです。だから、今を生きる。だからここに立ち、与えられたいのちを生きる。

私たちは、私たちに働く、神のみことばを今日もいただきましょう。

 

ヨハネによる福音書 1:1-14
(2014年12月21日 10:30 A.M.  聖降誕祭主日聖餐礼拝  説教)

説教「平安あれ」 神学校3年生 秋久潤

2014年4月27日(日)
ルーテルむさしの教会 復活後第一主日
神学校3年生 秋久潤
使徒言行録2章22-32節
ペトロの手紙一 1章3-9節
ヨハネによる福音書20章19-23節

説教「平安あれ」

私たちの父なる神と、主イエスキリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

先週の日曜日、私たちは、「ハレルヤ!」という喜びの声を上げて、ご一緒に主の復活をお祝い致しました。この復活は、主イエスが、私たちに与えてくださる、新しい命。私たちが洗礼を受けることによって、主イエスと共に死に、そして、イエスの復活によって新しい命を得るのだ。そのことを記念するのがイースターでした。この世的な目から見れば、リーダーであるイエス・キリストを失い、夢破れて、故郷ガリラヤに帰る弟子たちが、主イエスご自身の命令によって、ガリラヤに帰るのではなく、新しく行くのだ、そのように、私たちは先週の礼拝で派遣をされ、一週間経ち、またこの場所に集まっています。

毎週一回、日曜日に礼拝に集まる。それは、呼吸をすることと似ているのではないでしょうか。息を吐いて、吸う。呼吸をしなければ人は生きていけない。礼拝の終わりに派遣されることによって、私たちはこの、教会の中から外へと遣わされていく。そして一週間経つと、またこの教会の中に吸い込まれていく。その呼吸を繰り返すことが、私たちの命の息、キリストと共に生きる者の呼吸ではないかなと思うのです。

本日このあとは、イースターコンサートが行われ、そこでは様々な楽器の音が奏でられます。楽器の音も、空気を通さなければ、聴くことができない。空気のない宇宙では、音は聞こえません。管楽器を吹くときの口から出る呼吸、弦楽器を鳴らすときの弦の振動、あるいは歌声、そしてそれを聴く私たちの鼓膜や、お腹で聴くという人もいます。全て、空気の震え。神の息が、私たちに伝わってくる。そのようなことではないのかなぁと思うのです。

本日与えられました聖書には、聖霊を受けなさい、という言葉が出て参りました。聖霊と聴くと、ペンテコステ、もうちょっと先の出来事ではないのかなぁと教会に来慣れている方は思われるかも知れません。まだイースターなのだから今は復活の時期ではないか。ですがヨハネ福音書は、復活のイエスを語るときに、ちょこちょこと、そこには聖霊の働きというものが登場してくるのです。

教会に集まる私たちと同じように、弟子たちは、イースターの日の夕方、一つの家に集まっていました。そこで彼らを支配していたのは、復活の喜びではなく、恐れだったのです。私たちも、礼拝に出て、イースターの喜びを共に分かち合う。何か良いことが起こったのかもしれない。だけど、実際に家に帰ってみると、はて、私の生活と、主イエス・キリストの復活はどういう関係があるのだろうかと、まあ、思ったりすることがあるかもしれません。この家に集まっていた弟子たちも、マグダラのマリアから「主イエスが復活したのです」という知らせを聞いていたんですね。その日の夕方とある。その日の夕方。ですが朝にはマグダラのマリアは一人、空になった墓の前で佇んでいた。そこにペトロとヨハネも駆けつけたが、復活の主と出会えたのは、その二人の男弟子が帰ってしまって、一人泣いていた、そのマリアのもとに、主イエスが現れた。ですから、マリア以外に、その主イエスの復活のことを証言できる人はいないのです。いくら主イエスが復活されたという喜びを持って、弟子たちの集まっていた家に行っても、弟子たちはだれも信じなかったのです。むしろ、家には鍵を掛けていた。なぜなら、ユダヤ人たちを恐れていたからとあります。弟子たちもユダヤ人なんです。ですが、自分たちはもともとユダヤ今日を信じていたが、イエス、ナザレのイエスという人物を、私たちの神から遣わされた子だと、ついていくことによって、同胞のユダヤ人たちから睨まれるようになる。しかも、力を持った主イエスは、十字架に掛かられて死んでしまった。これから私たちはどうしていこうか。まあそのような恐れがあったのでしょう。

わたしたちは恐れを抱いたとき、誰か、ある人に対して気まずいなあ、悪いことをしてしまったな、あるいは悪いことをされたな、と思ったとき、その人と、どのような関係になるでしょうか。おそらく、身を隠す、ということを行うのではないでしょうか。本日、ルーテル学院の学長になられました江藤直純先生が、私の説教の指導を今期してくださっているんですけれども、今日、聴きに来てくださったんです。ボスが来てくださった。でも、私としては、説教の準備がこれでいいのかなぁという恐れがあるわけです、喋りながらも。そうすると、来てくださったにも関わらず、隠れていたくなる、コソコソとしていたくなる。あるいは、何か言葉数を多くすることによって、ごまかそうとする。隠れやごまかし、それが、人が恐れを抱いたときにやってしまうことではないでしょうか。

実は今日お読みした箇所というのは、創世記の3章、あの蛇がアダムとイブを誘惑した箇所と驚くほど似ているのです。神が、アダムに「好みは取って食べてはならない。なぜなら神と同じような者になるからだ」と言って禁じられた実を、蛇は女に、「食べてみたらどう?」とそそのかす。そして実際に、食べてしまうと、まず二人が行ったことは、自分たちが裸であったことに気付いたんです。そして、恥ずかしい部分があらわになっているとして、いちじくの葉を綴り合わせて、腰を蔽った、とあります。そこで生まれてきたのは「恥」であり、自分の恥ずかしい部分を隠そうとする。そして、父なる神が園の中をあるいている、それは風の吹くときという言葉がありました。その、歩いている音が聞こえてくると、二人は、園の木の間に隠れた、とあるんです。自分の恥ずかしいところも隠したいし、神からも隠れていたい。神は二人に対して、「どこにいるのか」と語りかけます。それは神の立場から見れば、二人が見えなくなってしまった、どこにいるんだアダムとイブ、という呼びかけだったかもしれない。だけど二人にとってはそれは、恐ろしい声だったのです。自分たちを殺しに来る声かもしれない。ああ、ばれたらどうしよう。そして、二人の実を食べたと言うことが父なる神に知られてしまう。「なんということをしたのだ」。叱責が始まるんです。すると、アダムがやったことは、「あなたが与えてくれたあの女が、私に実を与えたので、私は実を食べたんです」と、責任転嫁をする。また逃れようとするんです。神から逆らうこと、そして責任転嫁をすること、これが創世記が現す、罪。私たちが恐れを抱くときにしてしまうことなのです。

ユダヤ人を恐れて、家の中に隠れていた弟子たち。そこに何の前置きもなく、イエスが来て、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」。ヘブライ語で「シャローム」という挨拶をされるんです。その後に、手とわき腹をお見せになった、とあります。弟子たちはそれを見て喜んだと書いてあるのですが、私は最初この聖書を見たときに、何で喜ぶのかなぁと不思議に思ったんです。死んでいた人間が目の前に現れていたら、パニックになる、驚くはずじゃないのか。しかも、その方は自分たちが裏切ったせいで、十字架に架けられた、その傷跡を見せてくるんです。普通であれば、「ああ、もしかして、私たちに復讐しに来たのだろうか。殺しに来たのではないのだろうか」と恐れるはずかもしれません。ですが、旧約聖書のときに「どこにいるのか」と語りかけ、人間たちが自分の罪によって、その神さまからの呼びかけを呪いの言葉として聴いてしまったのとは違う展開が、ここでは行われるのです。傷を見せ、そして「あなたがたに平和があるように」と言われる。傷というのは、私たちの人間の罪をまざまざとそこにあらわすものです。私たちは、イースターに主が復活しておめでとうと言います。ですけど、もし復活だけのできごとだけが起こったのであれば、それは私たちにとって、もしかしたら、お祝い事では無くなってしまうのかもしれないのです。なぜならそこには恐怖が付きまとうから。ですが、主イエスが言われた、「あなた方に平和があるように」、その赦しのことばがあるからこそ、十字架の傷を見せて頂いたことが、弟子たちにとって、救いの出来事となるのです。

赦しだけでは、私たちにとって赦しにはならない。私たちにとって、傷、主イエスに負わせた傷、私たちの罪が何なのかということを知ったときに、その主イエスの赦しとはいったい何なのかが分かるようになってくるのです。主イエスはだめ押しをするかのように、「あなた方に平和があるように」と伝え、そして、不思議なことをされるんですね。最初に、派遣をされるんです。「私の父が、私をあなたがたのもとに遣わしたように、今度は私が、あなた方を遣わす」。さらにイエスは、息をフーッと吹きかけ、個人に対してではなく、弟子「たち」に吹きかけるのです。まあ、大の大人同士で顔に息を吹きかけられたらちょっとムッとするんじゃないのかなぁと、まあコミカルなことも思ったのですが、まあ、息を吹きかけるということも、また創世記の中で、大切な役割が描かれているのです。

主なる神が、人を土から造られたとき、その鼻に、息を吹きかけられた。ここで主イエスがされているのは、恐怖によって、体は集まっているけれども、心はちりぢり、自分の恐れしか考えていない弟子たちを、再び、主イエスが真ん中に立たれる集まりとして、回復されるのです。

ペンテコステ、聖霊が送られるという出来事は、教会が造られる出来事です。この主イエスの第二の創造は、私たち個人が復活によって新しい命を得ると共に、失われた主イエスのからだ、イエスの教会が、私たちが集められることによって、復活させられていくという意味を持っているのです。

最後に主イエスは、このようなことを言います。「誰でも、誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だが、あなたがたが誰の罪であっても赦さなければ、その罪は赦されずに残る」と。まあ赦すも赦さないもあなた次第だ、誰の罪でも赦すことができる。あるいは誰の罪であっても、赦さずに放置しておくことができてしまう権威。それは、本来、人間には無いはずです。ファリサイ派の人々が、「罪を赦すこの人は一体何者だ」「お前は神なのか」と思ったかのような、その主キリストご自身の権威を、弟子たちに、託す。自分を十字架につけ、裏切った、また墓までは一生懸命走ってくるかもしれないけれども、そこで何かを感じたらまた家に帰ってしまうかもしれない、私たち、弟子たちに、その主イエスの赦しの権能を授けられるのです。「赦しなさい」と。

これは、人間の力だけでできる行為ではありません。聖霊が吹きかけられなければ、どんなに人間同士で赦そうと思っても、そこには隠しきれない限界がある。表面的には仲直りをしたように見えても、自分の心の深いところ、隠しておきたいようなところには、今なお、その相手に対する怒りや赦せないという感情がくすぶっている。私たちが罪を赦すことができるのは、何よりもまず、主イエスご自身が「あなたがたに平和があるように」「あなたがたの罪は赦された」その宣言、赦しがあるからこそ、私たちはその後に続いて、この交わりの中で、あるいは社会に出て行った後、目の前の人を赦すことができるのではないでしょうか。私たちが赦したから、その代償として赦しが得られるのではない。

とは言っても、赦せない私がいる。洗礼を受け、教会に通い続けてもなお、あの人は苦手だ。できれば隠れていたい。そのような現実も私たちにある。それは、創造され、神の愛のもとにいたにも関わらず、また、いちじくの葉を取って、自分の恥ずかしい部分を蔽ってしまう、人間の姿が、そこには今なお、根深くあるのではないのかなぁと思うのです。私たちは神から赦された、神から完全な赦しを得たとしても、なお罪人である。「義人無し。一人だに無し」。洗礼を受けても、私たちは義とされても、いまなお、罪人である。ですが、もう一つ、創世記の中には、重要なことが書かれているのです。それは、父なる神が、アダムとイブを、エデンの園から追放するときの出来事です。

父なる神は、二人に、皮の衣を造って、着させてやった。皮の衣。動物の毛皮のことです。それを造るためには、何かしらの動物の血が流されなければいけなかったでしょう。植物を切り取ってくるのとはわけが違う。それは、父なる神が裏切られたことによる、あるいは罪を犯した人間に対する怒りを抱えながらも、せっかく愛した人間たちを、自分のエデンの園から追放しなければならない、そのやるせなさ、悲しさの中で、二人に与えた皮の衣だったのです。

罪が赦されるには、血が流されなければならない。それが、旧約聖書が伝える、イスラエルの伝統です。その血を流されたのは誰か。主イエス・キリストご自身です。傷を負い、私たちの目の前に現れてくださったとき、そこにはやはり傷がついていた。血を流された。それは、私たちが罪を犯したせいで流された血であると同時に、私たちの罪を完全に赦すために流された血でもあったのです。

私たちは、週に一回、礼拝に来る。そして、最初に罪の赦し、罪の告白をして、御言葉を聴き、洗礼、聖餐へと与ってゆく。これは、主イエスご自身が私たちを新たに生まれさせるために、自分自身が変わってくださった。御言葉として、神の言葉として。そして洗礼における水において。聖餐式におけるパンとぶどう酒、からだと血とにおいて。私たちを生かすために、ご自身をお与えになる。また、息を吹きかけることによって、私たちの中に息づく霊となって私たちが教会から出て行く、神の庇護から外の世界へと出て行った後も、私たちの中で、主イエスは生き続けているのです。

先ほど私は、「全ての人は、罪人である」と申しました。その事実は、主イエス・キリストを頂いた後でも変わることがない。ですが、父なる神は、そのキリストを私たちに着させてくださった、ともあるのです。また、主・イエスキリストはここでも私たちのために変わるのです。司式者や説教者は、白いアルバを着ます。その下の中にあるのは、普通の人間、罪人が、真っ白なアルバを着る。これは、按手を受けたから、牧師だから着れる特別な服ではない。罪人である私が、主イエス・キリストから委託を受けて、主イエス・キリストご自身をあなたがたに伝える。その役目を担っている。そのことの証として、黒い私にも関わらず、その上から、真っ白な衣、キリストを着させていただく。それは、今ここにおられるお一人お一人の上にも、主イエスがご自分の体を裂いて着させてくださっている、皮の衣なのです。

「私があなた方を遣わす。」その聖霊の息吹は、私たちを赦してくださった証でもあり、また私たちを生かして、隠れたい、逃げたいと思っている、この世の恐怖へと、再び、派遣していく力なのです。そして、霊の力、それは、私たちが肉体が滅びた後も、続くのです。本日は、墓前礼拝が行われます。地上で体を失って、私はもう終わりなのだろうか、その不安やおびえがあるとき、私たちは肉体の機能はまだ残っていても、心ではもう死んだ者になりそうになる。ただ、主イエス・キリストが与えてくださる希望は、「私と共に死ぬ者は、私と共に復活する」。この希望があるからこそ、私たちは、死を乗り越えることができる。死は終わりではなく、その先がある。御国で、あの天に召された方たちと、再び祝宴を囲み、主を賛美するときが来る。この喜びが私たちに今日、告げ知らされているのです。私たちが隠したいところ、人前にどうしても表せない、できればなにかでごまかしたいような場所に、その真ん中に、主イエスは来てくださり、「あなたがたに平和があるように」「シャローム」、その赦しの言葉をかけてくださるのです。恐れるな、私はあなたと共にいる。この言葉を信じ、この一週間、主と共に歩んで参りましょう。お祈りを致します。

全能の父なる神さま、主の御名を賛美いたします。
私たちはあなたからの復活の恵みを共に与らせて下さり、そしていま、霊によってこの教会へと導かれて参りました。あなたは、私たちの真ん中に現れて下さったとき、傷ついたお姿をされていましたが、そのお姿をもってなお、私たちを赦し、本当の喜びと、安息へと導いてくださいます。私たちが赦された、この事実を以て、世へと派遣されていくことができますように。どうか、私たちをお守りお導き下さい。
いま、苦しみや絶望の中にある方に、あなたの光が届きますように。この祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によって御前にお献げ致します。アーメン。

「今がその時である」中島和喜神学生

「今がその時である」

 ヨハネによる福音書で、イエスは3度エルサレムへ上京します。本日の4:1からはイエスが弟子たちと共に、エルサレムでの過ぎ越しの祭を終え、1度目のエルサレム上京から、ガリラヤに戻る道中のサマリアでの出来事です。

本来ユダヤ人にとって、このサマリアという場所はあまり行かないようにしていた場所でした。4節で「サマリアを通らねばならなかった」とありますが、確かに地理的にはエルサレムからガリラヤに行くために、サマリアを通るのが一番の近道でありました。しかし当時のユダヤ人は、サマリア人との関係は良好ではなかった。むしろ、緊張関係にあったと言っても良いでしょう。サマリア人と呼ばれる人々は、紀元前722年に滅亡したイスラエル王国の生き残りの住民と、アッシリアからの入植者との混在の結果できた、所謂、混血民族であったのです。そのためユダヤ人から見るとサマリア人は、半分がユダヤ人ではないものの地が流れているということからも、なるべく近づかないようにしていた民族でありました。

ですから、エルサレムからサマリアを通ってガリラヤに行くという直線的な道は、当時のユダヤ人からすれば、一般に通る道ではありませんでした。サマリアの東にありますヨルダン川の方を通って、迂回しながら進む道が、通常であったのです。しかし、イエスは直線的な、一番近い道を行くために、サマリアを通りました。これは人間的な常識にとらわれない、イエスのひたすらに真っ直ぐな道が表れています。その真意はわかりませんが、サマリアに行かなければならなかった、と4:4にあるように、むしろ神の救いの御手を、異邦人にも表すために、その道を歩んだと考えることができます。

その道中、イエスはサマリアの女に出会うのです。そこでの会話は、イエスの語りかけから始まりました。サマリアの女はこの時、大変驚いたことでしょう。来るはずのないユダヤ人が、サマリアの、それも女性である私に語り掛ける。さらに6節に「正午ごろのことである」とありますが、当時の水汲みは、凉しい朝か夕方に行われることが普通であり、暑い盛りの正午の井戸に人がいるということすら想像していなかったでしょう。そんな驚きの中でイエスに語り掛けられるところから始まります。同時にそれは、救いの御手が差し伸べられた瞬間でもありました。その始まりはイエスの語りかけであった。先手はいつも神なのです。

イエスとサマリアの女の対話が7節以降に展開されていきます。水を求めるイエスに対して、サマリアの女は疑問を抱き、イエスの求めに、質問で返していく。しかしイエスは10節で、こう語ります「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と。ここで不思議なことに、求める者と、求められた者との立場が逆転しています。先ほどまで飲み水を求めていたイエスが、与えると言う立場になっているのです。

サマリアの女にとって、イエスの言う生きた水というのは、永遠に湧き出る、液体としての水を想像したのでしょう。永遠に喉の渇くことのないような、便利なものを想像したのでしょう。しかしイエスの言う水というのは、全く違ったものであります。それは肉体的な渇きを満たすものではなく、心の渇きを満たす、魂の渇きを満たす水であったのです。

イエスは気づいていたのでしょう。サマリアの女の、心の渇きを。16節以降にありますが、女は5人の夫がいたが、イエスと会話していた時には別の男性と連れ添っていた。女が自ら別れたのか、それとも死別など特別な事情があって別れたのかどうかは定かではありませんが、しかし結婚をもした男性と5回も別れを経験したという事実があるのです。最愛の人と5度も分かれる事態があったのです。それはどれほど、辛かったのでしょうか。明らかにこのサマリアの女は、不幸な人生を歩んできたのです。状況がどのようなものであろうとも、一度愛した人を失うというのは、辛くないわけがありません。

さらに女は正午ごろに水を汲みに来ていたと6節にありましたが、恐らくこれは人目に付きたくなかったために、人のいない正午ごろに水を汲みにきたのでしょう。5人の夫と別れた事で、さらに今は別の男性と連れ添っている事で、周囲からは非難されるような目で見られていた。そのように辛く、苦しい生活を、日々送っていたのです。それ故に、心に渇きをもっていたのです。しかしイエスはそのような女に対しても、何一つ変わることのない態度で話し続けます。それも16節で「あなたの夫をここに呼んできなさい」とまで言うのです。サマリアの女にとって一番触れられたくない、まさに痛いところを突然突かれるかのような言葉まで投げ掛けるのです。

それほどまでに、イエスはサマリアの女に、真摯に向き合ったのです。人の辛い過去を思い出させる一言は、言う人間もまた辛い事であります。悪戯に言える言葉でも、軽く言える言葉でもない。重たく辛い過去をもった人間に対して、その痛いところを突くイエスの態度は、ひたむきにサマリアの女を救おうとする、覚悟を持ったイエスの誠実な態度を見ることができるのです。

そのためイエスは、生きた水を与えると述べているのです。それも、決して渇くことのない生きた水、永遠の命に至る水が、湧き出ると述べているのです。それは、花に如雨露で水を与えるかのようなものではなく、生きた水が、心の内で泉となって、湧き出てくると言うのです。生きた水とはまさに、神の賜物であり、神の御言葉であり、イエス・キリストなのです。女にはイエスを通して慰めが与えられているのです。心の渇きを満たす水が、与えられているのです。重たく辛い過去を持つサマリアの女に対して、痛いところを突く言葉を掛けることを通して、イエスはその生きた水をもたらそうとしてくださるのです。女自身がここでちゃんと告白している、そしてイエスは受容している。まさにこれが、女にとって生きた水であるとすることもできるでしょう。

さらにイエスはその後の対話で、女は礼拝をどこで行うべきか、と問われる。そこで霊と真理をもった礼拝をするべきであると答えます。その時に、23節で「今がその時である」とイエスは述べるのです。サマリアの女に対する慰めが最深部に至った瞬間であります。サマリアの女はイエスの語りかけによって、救いを、生きた水を望む者として変えられました。そのサマリアの女に、イエスは今がその時であると述べるのです。昨年の流行語大賞の中に、林修の「今でしょ」という言葉が選ばれました。このイエスの言葉も同じように「今でしょ」と語り掛けるように考えられる一言でもあります。しかし、サマリアの女の状況を鑑みれば、「今がその時である」と語り掛けるイエスの言葉は、「今でしょ」という心を突き動かすような言葉とは違い、むしろ何よりもサマリアの女を受け入れる言葉になったのではないでしょうか。

5人の夫と別れ、今は別の男性と連れ添い、周囲から非難されるような目を向けられてきたサマリアの女には、少なからず自責の念も存在していたでしょう。そこに対するイエスのこの言葉が、どれほど温かみを持った言葉となったのでしょうか。罪人だからもう遅いと感じることもなく、未熟な私にはまだ早いと感じる必要もない、「今がその時である」という言葉は、「今で良いのだ」という、まさにイエスの深い慰めに満ちた言葉となるのではないでしょうか。ありのままで、今のままで、そのままで良いのだと語り掛ける、まさにイエスの慰めに満ちた一言であるのです。

こうしてサマリアの女は、見事に変えられていったのです。初めはイエスの問いかけに驚き、疑問を持ち、抗議的な態度すら見せていた女は、イエスの語りかけによって、次第に救いを求めるものに変えられていった。そしてイエスの慰めが最深部に及んだ時にサマリアの女は、まさに永遠の命に至る水が、泉となって湧き出た。神の真の愛を、与る者に変えられていったのです。

女の状況は何一つ変わっていません。周囲の非難的な目も、5人の夫と別れた過去も、今は別の男と連れ添っている事実も、何一つその環境は変わっていない。しかし、サマリアの女の心境は、イエス・キリストによって、劇的に変えられていったのです。そして、今日の箇所の後に続く39節では、町の人々に伝えていったのです。わき出た水があふれ出し、今度は周りの者をも満たす、永遠の命に至る、生きた水の泉として、サマリアの女は変えられていったのです。イエスの慰めに満ちた救いを聞き、受け取り、慰められ、そして今度はそれを周りに伝えていったのです。証する者に変えられた。女自身が、最初の証人に変えられていったのです。

イエスの歩んだ道は、ひたすら真っ直ぐでありました。それは物理的に真っ直ぐだっただけでなく、その思いもひたすらに真っ直ぐでありました。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ヨハネ3:16の言葉でありますが、神の愛によって、神の独り子がこの地上に与えられました。その独り子の歩んだ道は、私達人間の目からすれば、死にゆく道でありました。しかし同時に、まさに愛の道であったのです。その道の中にはたくさんの御言葉が溢れ、たくさんの人々が慰められた。そしてその後の復活において、私達にはさらなる赦しが与えられました。イエスの十字架の死にゆく道、と言うとどこまでも暗い道のように感じてしまいます。しかしその道は、ただただ真っ直ぐに、私達に救いをもたらす、イエスの直線状の歩みであったのです。イエスの十字架を経て復活に至るという、真っ直ぐな道でした。

私たちはその神の真実の愛に、与る者とされているのです。そのイエスの真っ直ぐな歩みの上に、私たちも置かれているのです。神によって与えられる、その霊と真に、与るのです。イエスは、霊と真理とをもった礼拝を神は求めておられると述べられました。場所としての重要性を問うたサマリアの女に対して、イエスは何をもって礼拝するかという事を説いたのです。どこで礼拝するかではなく、何によって礼拝をするのか。それは神から与えられた霊と真理をもってです。神の霊と、神の真とに、私たちは与るのです。守ることでも捧げることでもなく、礼拝に与るのです。

さらにその時は、今がその時であると、愛をもってして語られました。この「今」は、サマリアの女だけでなく、また当時の人たちだけでもなく、私たちにも同時に語り掛けられる「今」であるのです。神の時間軸の中では、いついかなる時も今なのです。私達人間の生きるこの地上においては、永遠に、「今」なのです。
サマリアの女が変えられたように、私たちも霊と真理とに出会うのです。神の霊と真理とに与る者として、今日もそしてこれからも、永遠の今の中で、その歩みを神と共に、十字架を背負ったイエスと共にしていきましょう。

(3月23日(日)主日礼拝メッセージ 四旬節第3主日 ヨハネによる福音書4:5~26)

【説教】「想定外の有り難さ – 今年の聖霊降臨祭」 石田 順朗牧師

                テキスト:   使徒 2: 1-21、 ヨハネ 16: 4b –11

                                                                   2013/5/19  武蔵野教会

                                  石田 順朗

 

はじめに 今日は、主暦(Anno Domini)で2013年目、3/31の「復活祭」から数えて50日目の「ペンテコステ、五旬節」。2/13の「灰の水曜日」から始まった「四旬節」を併せると「90日目」にあたる「聖霊降臨日」。世間では「90日間の長期運転免許停止」やらが云々されるが、私たちにとっては「日本人の共感を呼ぶ永遠の同伴者」を見事に描く遠藤周作の 『イエスの生涯』を読み終えたような90日間。もとより、1/6顕現日に関連する「降誕祭」を加えて、「降誕、復活、聖霊降臨」の3大祝日の一つ、別称「キリスト教会の誕生日」。でも今回、特に付け加えて覚えたいのは、「震災後」では2年2ケ月目の「想定外の有り難い祭日」。

 

1.聖書に出てくる「出来事」の中でも、その突発性、驚異性の規模の大きさでは、実に「想定外」の「有り難い(起り難い)」出来事。「今現在」と同じように「想定外の有り難さ」の「重ね言葉」を説教題に掲げたゆえん。

 

 第1、イスラエル民族のカナン定住後,農耕祭として祝われたユダヤ教三大祝日の一つ「五旬節」が到来したので、ペトロほかイエスのお弟子たちは「オリーブ畑」と呼ばれる山から、「安息日にも歩く事が許されている(900m以内)」近くのエルサレムへ戻った。翌日曜日の朝、「泊まっていた家の2階の広間(アッパールーム – 最後の晩餐の部屋? マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家?)」に入って、イエスの母マリアや女性の信徒たちと総勢120人ほどが「心を合わせて熱心に祈り」、ついでペトロが「裏切者のユダ」の後任補選を提案したのに応じて、ユストともいうヨセフとマティアの2人の候補者から、くじでマティアを選んだ場面。

 

 その直後、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。最近では、「平年並み」が珍しく、「平常通り」と聞いて一安心するような時勢にあって、猛烈な豪雨や突風、竜巻すら屢々起るような状況から、突風や轟音は、たえず警戒が呼びかけられる出来事。ここで「想定外」とは、「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった」ことだ。しかも「一同は聖霊に満たされ、”霊“ が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。当時「エルサレムには、あらゆる国々から帰って来た信心深いユダヤ人が住んでいた」が、この物音に大勢の人たちが集まってきて、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」。

 

 無理もない!このような「想定外の有り(起こり)難い出来事」を目撃した人々の反応は今も昔も変わりない。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」。ただここで見逃してならないのは、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者がいたことだ。すると、ペトロが、つい補選されたばかりのマティアを含む11人の弟子たちと共に立って、声高く説教し始めた、と報じられる。想定外の「有り(起こり)難い」出来事が「ありがたい、意味深い出来事」に転換し始めたのである。

 

2.「想定外の有り難さ」 頻繁に使う「ありがとう」の語源は、形容詞「ありがたし」の連用形「ありがたく」がウ音硬化して「ありがとう、感謝」となったといわれる。「有り難し」は、それこそ「有る事が『かたい』」で、本来の「滅多にない」から「珍しくて貴重だ」に転化し、やがて「ありがとう、感謝」になったという。古典では「この世にあるのが難しい」(『枕草子』)から、中世に至って、仏の慈悲など貴重で得難いものを戴いていることから、宗教的な感謝の気持ちとなり、近世以降は、感謝の意味で広く人々に口ずさまれるようになったと知らされている。

 

 「想定外」だらけの今日、ただ驚愕(おどろき)や「戸惑い」だけでなく、時には、「ありがたさ」つまり「有り難く感謝すること」は大事。これが今日の出来事の核心だ!

 

1)「想定外の有り難さ」の第1は、ペトロほかイエスの弟子たちが、直ちに思い起したイエスのみ言葉で、それは本日の福音書の日課。『ヨハネ』16章では、イエスの決別の辞にふさわしい「まことのぶどうの木」のたとえを用いた「お話」に続き、「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とのイエスの語りかけである。それは「弁護者」としての「真理の霊」。しかもその「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせ、聞いたことを語ることができる」と約束される。まさに、そのことが起ったしだい。これが「想定外のありがたさ」の第1。私たちも、奮起一番、「真理のみ霊」しかも「弁護者」である「聖霊」に満たされ、「福音の証し人」になろう!今日、「福音の証し人」が緊急に必要。しかも、「誰にでもわかる」言葉で話すことだ。聖書学者は、よく「多言奇跡」などと云うが、要は、コリント一14章の「異言」とは異なり、「誰にでもわかる言葉」で語り合うことを強調している点にぜひ留意しよう。

 

2)「想定外の有り難さ」の第2は、ペトロに習って「私たちは、酒に酔っているのではない」と明言すること。二日酔いとか「90日間の長期免許停止」を課せられる飲酒運転のことだけではない。むしろ「自己陶酔」、「酔いしれる」(過度に酔って正気を失う)「自制心を失う」ことへの警告だ。「人間万能主義(iPS万能細胞)」から「宗教原理独善主義」が漂っている。それだけに、人間は「万能」になりえても「全能」には決してなり得ないことを明確に弁え知りたい。

 

 最近の政界の成り行きをみて、虚勢、自己顕示を戒める中国の『老子』の一節を引用した警告文を読んだことを思い出す。「跂(つまだ)つ者は立たず 跨(また)ぐ者は行かず」(第24章)だ。「つま立ちすると、一時的に背は高くなるが、不安定な状態を持続することはできない。大股で歩くと一時は早く進むが、すぐに疲れて永続きしない」の意という(講談社学術文庫「老子入門」)。

 

 3)「想定外の有り難さ」の第3は、それこそ「真実にありがたいこと」である。約束の成就だけではない。「和と交わり」をもたらす「会衆」の出発点にもなったことである。受洗者が続出した。その日、3000人が受洗した。先の教区祭の派遣聖餐礼拝では、ICU チャペルを 650名を余す会衆が埋め尽くしたではありませんか!

 

  今日は、「教会の誕生日」。いや、「私たち受洗者たちの会衆誕生祝会」。「教会」の呼び名はずっと後のこと。さあ「受洗」を感謝して、宣教に出かけよう!

説教「食卓の給仕をしてくださる復活の主」 大柴譲治

説教「食卓の給仕をしてくださる復活の主」 大柴譲治

 ヨハネによる福音書 21:1-14

 

<「復活の主が準備してくださった朝食」>

 「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と復活の主は弟子たちを招かれました。よみがえられたキリストご自身が食事を準備してくださった。今朝私たちがこの礼拝に集められていることも、主が私たちを「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださっているからだと思います。この礼拝は、主自らが炭火を起こして魚を焼いてくださった「霊的な朝食」なのです。この炭火の煙と焼き魚の臭いの中に私は復活の主のクオリア/リアリティーを強く感じます。聖書のこの部分を読むたびに私はそこから炭火の煙と焼き魚の香りがしてくるように感じます。このような具体性の中に弟子たちは復活の主の現臨を感じ取ったのです。

 本日の使徒書の日課にはこうありました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。——この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1ヨハネ1:1-2)。復活の主と出会うことができた第一世代の弟子たちがその耳で「聞いたもの」、その「目で見たもの、よく見たもの」、手で「触れたもの」を伝えてくれたのです。以降二千年に渡ってキリスト教会はこの復活の主の証言を手渡しで引き継いできました。時間と空間、言語や歴史を超えて、復活の主の福音を全世界に宣べ伝えてきたのです。

 このようなかたちでの生き生きとした「命の言」についての証言があったからこそ、初代教会はどのような困難や迫害にも負けずにその復活の福音を宣べ伝えてゆくことができただろうと思います。蜘蛛の子を散らすように十字架の下から逃げ去った主イエスの弟子たち、あれだけ「弱虫」だった弟子たちが、復活のキリストと出会うことを通して殉教の死をも恐れない「復活の証人」に変えられていったのです。先週はマルコ16章9節からを読みましたが、歴史家が証明できるのはマルコ16章8節までに書かれていた主の「空っぽの墓」まででしょう。しかし8節と9節の間には無限の深淵がある。遠藤周作の言葉を借りれば、確かにキリストは「弟子たちの心の中に甦られた」のです。復活のキリストがその啓示を通して、あれほど弱虫だった弟子たちを死をも恐れない復活の証人へと造り変え、押し出していったのです。復活は「事実」としては証明できないとしても確かに「真実」であります。

 それはヨハネ21章が記しているように、復活の主ご自身が弟子たちのために焼き魚を燒いて朝食の準備をしてくださっているほどリアルなものでした。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」、わたしたち自身の五感で感じることができるようなもの、臭いを嗅いでムシャムシャと食べて味わうことができるほど具体的なものだったのです。疑いのトマスは主の十字架の釘跡を示されて変えられました。本日の日課には、七人の弟子たちが一晩中漁をしても「その夜は何も取れなかった」とありますが(ヨハネ21:3)、「船の右側に網を打ちなさい」と岸から語られる主の言葉に従ったところ「153匹もの大きな魚」が獲れたとあります。「153」というのは当時ガリラヤ湖にいたとされる魚の種類を指しているようです。それは全世界の民族を象徴していましょう。福音が全世界に宣べ伝えられてゆき、多くの国民をその弟子とするということがそこでは預言されているのです。

 

<まぶしい言葉>

 私などはこのような揺らぎのない言葉がとてもまぶしい気がいたします。それは私が自らの中に揺れ動くものを感じているからです。皆さんはいかがでしょうか。私たちはキリストの福音を聞いて信じ、洗礼を受けましたが、復活の主を直接自分の目で見たりこの手で触れたりしたのではありませんから、どこか自分の中には曖昧で不確かで、迷ったり壁にぶつかったり、本当に自分には信仰があるのだろうかと疑ったりする気持ちがあると思います。だからこそ遠藤周作の「信仰とは99%の疑いと1%の希望である」という言葉に深く頷かされるし、疑いのトマスが主によって信仰の確信を与えられていったことが羨ましく思えるのです。

 私たちは自分の中には確かさはないということをきちんと見つめてゆかなければなりません。「信仰」とは「信念」や「自分自身の思い込み」とは違います。「こだわり」とも違うのです。自身が打ち砕かれ自己の中には何もないということに気づいた時に、同時に、それにもかかわらず神の一方的な憐れみによって救いが向こう側から与えられていると気づかされるのです。それは「もはや生くるのは我に非ず。キリスト我がうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)という状態です。打ち砕かれた自分の主体は自分自身ではなく復活のキリストです。キリスト教の迫害者だったパウロはダマスコ途上で復活のキリストと出会うことによってそのような「信仰」に導かれました。思わぬ時に思わぬかたちで、救いは常に私たちの「外」から来る。「向こう側」から、「神」から来るのです。

 本日の使徒書の日課にはこうありました。「この命は(向こう側から)現れました。御父と共にあったが、わたしたちに(向こう側から)現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」(1ヨハネ1:2。括弧内の言葉は大柴の補足です)。ここで「現れた」と二度用いられている語は「啓示する、(神が隠れていたものを)明らかにする」という言葉です。意味上の主語は父なる神です。神が私たちに「命の言」である御子を啓示されたのです。復活の主はいつもご自身の側から弟子たちに近づいてきてご自身を示してくださいます。弟子たちが復活の主に近づいたのではない。向こう側から私たちに近づいてくださる復活の主を、炭火と焼き魚の臭いをかぐほど具体的に生き生きと私たちが感じ取ることが大切なのです。

 せっかく主が私たちに近づいてくださっているのに、私たちは(何かの理由で)それに気づかずにいるのかもしれません。自分の中の何かがそれに気づくことを妨げているのでしょう。先週の福音書の日課には、復活の主が「(信じようとしない弟子たちの)その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエス・キリストを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とありました(マルコ16:14)。復活の主は私たちの中にある「不信仰とかたくなな心」すなわち「罪」を打ち砕き、私たちを信じない者から信じる者へと造り変えてくださるのです。

 

<「cogitoではなくcredoで」(バルト)>

 小川修先生の『パウロ書簡講義録ローマ書講義I』(リトン、2011)に記されていることですが(p143-45)、神学者のカール・バルトは、デカルトの「cogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」という場合の「我」と私たちが使徒信条などで「credo(我信ず)」という場合の「我」は二つの全く異なる「我」だと言いました。cogitoの「我」はどこまで自分中心で、すべてを自分の経験利用の対象としてしか見てゆかない独白的な「我」です。「自我」と呼んでもよい。「我-それ」の「我」と言ってもよい。近代文明はそのような近代的な「自我」によって構築されてきました。そのようなモノローグ的な肥大化した「我」の行き詰まりは見えています。それに対しcredoの「我」は、神の御前にひれ伏す「我」であり、神との関係の中で徹底的に打ち砕かれ無とされてゆく「我-汝」の「我」なのです。「もはや生くるのは我に非ず」の「我」ですね。私たちは繰り返し「credo(我信ず)」の「我」に立ち返り、そこから始めてゆかねばなりません。

 復活の主は「さあ、来て、朝の食事を食べなさい」と私たちを今招いておられます。準備された炭火と焼き魚のにおいは、打ち砕かれた心でそれをいただく弟子たちの心に忘れられない余韻を残したことでしょう。それは彼らに十字架の前日の「最後の晩餐」をも想起させたはずです。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、私たちのための「命のパン、命の水」として自らを差し出し、捧げてくださったお方。そのパンとブドウ酒をこの歯でかみしめ、この舌で味わい、のどで飲み込む。「臭いをかぎ、かみしめ、味わい、飲み込む」という具体的な五感を通して、復活の主のリアリティーが弟子たちの心に力を与え、それを造り変え、押し出してゆくのです。

 大切なことは、どこか遠いところにあるのではなく、私たちのごく身近なところ、すぐそばにある。それに気づくことです。炭火と焼き魚の匂いは私たちにそのような復活の主の現臨を伝えているように思います。主が私たちのために食卓で仕えてくださること、主が準備された炭火の煙と焼き魚の香りを味わいそれを深く噛みしめながら、主の交わりの中に新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

 それは本日の第一日課が告げる通りです。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4:12)。このお方と出会い、このお方を信じ、このお方に服従していった多くのキリストの証人の中に、今ここに生かされている私たちもまた加えられているのです。多くの主の復活の証人の中には、苦しい息の中にあっても「主、我を愛す」と告白しながら天に召されてゆかれた菊池文夫兄もおられますし、「地上を離れ、私の愛する神様に会いに行きます。アーメン」という言葉を残してイースター前日の4月7日に天に帰って行かれた土門多実子姉もおられるのです。復活の主が私たちをご自身に結び合わせておられることを覚えながら、お一人おひとりがこのお方、復活の主のリアリティーを感じることによって豊かな喜びに満ちた毎日を過ごすことができますようお祈りいたします。アーメン。

 

(2012年4月22日 復活後第二主日礼拝説教)

説教「光あれ」

おとづれ234号 2010年4月発行

音声ファイルにて