「風」 教会メンバーの特別レポート

「ブラジル便り(1)」 徳弘浩隆

むさしの教会の兄弟姉妹の皆様、

遠いブラジルから皆様にご挨拶申し上げます。皆様お元気にお過ごしですか?ここのところ、日本は真夏日もあるように聞きますが、こちらサンパウロはひと雨ごとに寒くなり、昨日6月21日で冬に入りました。

先月ペンテコステを迎えましたが、聖霊を受けて色々な国の言葉を話し、福音を説いた弟子たちのように、私ももっとポルトガル語が一気に上達すればと思いながら、苦心しているところです。

さて、皆様に送り出していただき、4月23日にブラジルに到着し仕事を始めておりましたが、先日の日曜日5月24日に教区長が来てくださり、就任式を無事していただきました。

派遣されたのはブラジル福音ルーテル教会(IECLB)のサンパウロの日系パロキアで、サンパウロ教会、南米教会、ジアデマ集会所の三拠点で教会共同体を形成しています。ここに日系二世の大野健牧師とともに私が働いています。就任式は、70名ほど参加してくださいましたが、通常はそれぞれの教会は12名ほどの礼拝出席です。

今後の課題やビジョンは、高齢化された日系会員の方々への充分なケアと、新たなメンバーの伝道、2-3世の青少年の伝道、ジアデマの青少年への伝道と奉仕をしながら、二つの教会がより良い共同をして成長していくことです。

そして、数年以内に日系二世の大野先生が引退され、日本からの宣教師の期限が終了しても、この教会で育ったブラジル人神学生が無事に良い牧師になり、ますますこの教会を盛り立ててくれるようになることです。

世界同時不況でブラジルでもファベーラと言われるスラム街や失業者の生活は苦しく、また日本でのデカセギから帰国してくる方々にも心のケアが必要と聞きます。日系キリスト教連盟でも「おかえりなさい・プロジェクト」といって、ブラジル帰国者への情報提供やサポートをする働きを始めようと先日話し合われました。ブラジル福音ルーテル教会も、「神のミッションと、私たちのパッション」と題した宣教方策を掲げ、伝道や社会への奉仕に一生懸命取り組んでおられます。

困難はありますが、楽しく、精一杯に伝道をし、この地の教会の将来をよりよいものにしていく事ができればと、楽しみながら努力を始めたところです。

6月18日はブラジル日本移民101周年の記念ミサがカトリック教会であり、参加してきました。

また、昨日6月21日はバザーも実施しました。日本から船便で送っていただく古着や雑貨・古書類はこの地では品質も良いからと、好評のようです。また、日系人・ブラジル人を問わず、教会へ足をはじめて運ぶ良い機会ですから、伝道の良いチャンスにもなります。「古着を送っても失礼だし、送料もかかって効率が悪いので献金のほうが?」と私も日本にいるときは思っていましたが、どうもそうではないようです。新聞に掲載してもらい、またビラやポスター掲示をしていましたが、連日電話での問い合わせがありました。ポルトガル語の問い合わせも多く、対応に苦心しながら頑張っています。

日本の教会もアメリカやフィンランドの宣教師のおかげで成長してきましたが、ブラジルの日系教会も日本に依存していないで早く自立自給できるように道を見つけて、現地にバトンタッチしたいと願っています。そのためにも、伝道が進みメンバーも増やされるように祈っています。

こちらの働きや生活の模様は、インターネットのウエブページでもいつでもご覧になれますので、是非、ご覧ください。 http://www.mission-brasil.blogspot.com

そして、今後とも、お祈りとお支えを、よろしくお願いいたします。

皆様の上に、神様からの豊かな祝福がありますように。

(むさしのだより2009年 7月号より)

「東教区総会2009報告」 田村 浩

第46回東教区定期総会は、2009年3月20日(金)「春分の日」の午前9時半から午後4時まで、日本福音ルーテル東京教会で行われました。むさしの教会の大柴譲治牧師が教区長となられて初めての定期総会で、采配振りが気になりましたが、無事何事もなく議事は進行し、予定通りの時間で終わりました。会議はもっと喧々諤々と討議された方が良い、との意見が出るほどでした。大柴先生ご苦労様でした。むさしの教会からは中山格三郎兄、大森はつ子姉と私の3名の代議員が出席をしました。

以下簡単にご報告申し上げます。

○開会礼拝と閉会礼拝は、今回東教区から東海教区へ転出される鈴木英夫牧師(松本・長野教会から挙母教会へ)と、今回定年で引退される勝部哲牧師(大森教会) の説教でした。奏楽はともに、我がむさしの教会の中山康子姉と苅谷和子姉がご奉仕されました。

○今回の牧師人事は、引退が前述の勝部哲牧師と帰国されるアーロン・アルブレクト牧師(本郷教会)、そして2009年2月18日に天に召された平岡正幸牧師。
新任は今年神学校を卒業された汲田真帆牧師補(板橋教会)。
人事異動は浅野直樹牧師(日吉⇒市ヶ谷教会)、竹田孝一牧師(大森教会)、斉藤忠碩牧師(市ヶ谷⇒日吉教会)。急逝された平岡正幸牧師の後任には、甲府教会は大柴譲治牧師が主任牧師、諏訪教会は大宮陸孝牧師が主任牧師。そして両教会に牧会委嘱の中村圭助牧師。東海教区に転出される鈴木英夫牧師の松本・長野教会には、9月1日より海外から帰ってこられる佐藤和宏牧師が就任される予定になっています。

○平岡牧師のご逝去にともない書記の選挙が行われ、本郷教会の安井宣生牧師が教区の新書記に就任されました。

○教区長報告から始まり、書記ならびに各部長報告がされ、諸委員会報告、地区報告と続き、2008年度会計報告が承認されました。

○審議では、教区の墓地が小平、我孫子、仙台の3墓地では満杯近くになってきたため、神奈川地区に新しい墓地を購入したいとの提案が可決されました。
 ・ 名称:横浜墓地
 ・ 所在地:横浜市緑区長津田
       環境霊園横浜みどりの里
 ・ 購入金額:1,500万円
 ・ 収容数:200体

これに伴い、現在8万円の使用料が15万円に値上げになりますが、これも承認されました。

○2009年度予算も承認され、東教区の定期総会も無事終了いたしました。

大柴先生お疲れ様でした。教区長としてのお働きに感謝申し上げます。

(むさしのだより2009年 5月号より)

「熊本のルーテル学院大学から」 崔 大凡

武蔵野教会の皆様、4月から九州熊本のルーテル学院中学・高校でチャプレンとして働いている崔です。約4年間皆様に様々なかたちで支えられながら学びのときを終え、与えられた初めての任地は、なんと教会ではなく学校でした。初任地からチャプレンということで少し心配してくださる方もいて、自分にも心のどこかに不安があったかもしれませんが、本格的に仕事を始めて約1ヶ月が過ぎている今、たくさんの若い生徒たちと一緒に過ごせることを心から感謝しています。

ここに来て私が感じることは、学校はやはりいのちに満ち溢れているところです。私が学校で教員として生徒を教えることは以前考えもしなかったことですが、今は生徒たちによって悩まされ、生徒たちによって喜ぶ毎日を過ごしています。若い生徒たちはそんなに長く落ち込んだり、悩んだりすることを許してくれないですね。少し悩むことがあってもすぐ生徒たちはパワーと笑顔を与えてくれます。今のところ、落ち込む暇なく、生徒たちによって生かされている毎日を過ごしています。東京にいたのが遠い昔のことのように感じる、それほど毎日が充実していて、ドラマチックな今日のこの頃です。

武蔵野教会の皆様はいかがお過ごしでしょうか。距離も遠く、教会とはまた違う環境で、まったく初めての仕事をすることの多い私ですが、私はきっと誰かに祈られているということを強く感じる毎日でもあります。皆様のお祈りがあるからこそ、経験不足や不安がある中、それより大きな喜びと希望を感じることができると思います。新しい場所で、良いチャンスと共に良い人々に出会えて神様に感謝すると共に、今まで支え、そしてこれからも支えてくださる皆様に感謝します。

私にとって今年は、牧師として1年目、学校のチャプレンとしても1年目です。1年目の自分としてまだできないことも色々ありますが、1年目だからこそ感じること、できることを必死に探している崔大凡です。これからもお祈りよろしくお願いします。また感謝のだよりを皆様に送るときをお待ちしながら、熊本から一言の挨拶を送ります。感謝。

崔大凡牧師(九州ルーテル学院中高チャプレン)

(むさしのだより2009年 5月号より)

「桜島の噴火は、赴任の祝砲」 小山 茂

ここ鹿児島教会に赴任して、早いものでもう一月が経ちます。無我夢中で気が付いたら4月も終わりという気がします。福音ルーテル教会では最も南の鹿児島にあるのに、東京から1500kmも離れている気がしません。昨年のNHK大河ドラマの「篤姫」を見ていたので、薩摩を身近に感じているのでしょう。また私がこの町を好きになったからでしょう。この街は目の前に桜島がドンと聳え、路面電車が走り、西郷南州を大切にし、焼酎とラーメンが旨く、鰹ときびなごの刺身も旨いのです。農業、畜産、漁業、醸造業と、食べることについて、美味しいものがたくさんありかつ安いのです。二年後には九州新幹線が博多から新八代が完成して、すでに運行している新八代から鹿児島までとつながり全線開通します。

肝心な新米牧師の礼拝と説教はどうかと、皆さん心配されているのではないでしょうか。精一杯させていただきそれでも足りない所は、主にどうか補ってくださいと祈っています。今まで主日の礼拝、受苦日の礼拝、召天者記念礼拝、結婚式司式をさせてもらいました。私は隔週で鹿児島教会と阿久根教会(鹿児島から北北西に80km)で礼拝を守っています。両教会間はインターネットによる同時礼拝を行っています。スカイプというソフトを使って、牧師がいる教会からもうひとつの教会に音声と映像を送ります。そして私は聖餐式をそれぞれの教会で月に二度ずつ行います。阿久根まで自分の車を運転していきます。高速を使うと約 1時間半くらいで行けます。途中東シナ海の水平線が広々と見渡せる道を走ります。阿久根は駅前に漁港をもち、美味しい魚が手に入りそうです。先日は信徒さんがご自宅で栽培したジャガイモのお土産をもらいました。皆さん心の暖かい方たちばかりで、私も自然と心開かれて交われます。

受難週に9年ぶりに桜島が噴火をして、地元で呼ぶ「どか灰」が降りました。突然温泉のような焦げ臭い臭いがして、窓の外を見ると太陽が霞んで、車はライトを点灯し火山灰を巻き上げて走っていました。火山灰が私に悔い改めなさいと言われたのかなと思っていましたら、教会員の方が小山牧師赴任の祝砲ですよと言われました。この地方の天気予報では、桜島上空の風向きが必ず知らされ、それによって洗濯物が干せるかどうか判断します。また、火山灰を捨てるための袋が配られ、ゴミ収集場所の一角に火山灰のコーナーが設けられています。先日は花粉症対策のマスクとゴーグルと帽子を持っていたので、そのまま使えて助かりました。この地域の銭湯はほとんど温泉ですが、きっと桜島が近いための長所でしょう。

今教会のさまざまな記録や歴史を見ています。先日は賀来周一先生の教籍簿を見つけました。また、かつて武蔵野にいらした杉尾祐子姉が礼拝に出席され、懐かしくお話をしました。この教会の雰囲気が私に合っているようで、信徒さんの皆さまに助けてもらいながら、この地で福音宣教をさせてもらっています。こちらにお出掛けの折、ぜひ立ち寄ってください。幸いにこの牧師館はたいへん広く、憧れの書斎を初めて持てました。お出でいただくまでにラーメン屋と居酒屋、温泉を開拓しておきます。皆さまよりいただきました携帯聖餐用具を、有効に使わせていただいています。本当にありがとうございました。主にあって、武蔵野教会が豊かに祝福されますように、鹿児島より祈っています。

小山 茂牧師(鹿児島教会、阿久根教会牧師)

(むさしのだより2009年 5月号より)

「東教区総会2008報告」 廣幸朝子

毎年春分の日に東教区の定期総会が開かれ、2年に一度、ゴールデンウィークの真っ只中に3日間を費やして全国定期総会がある。牧師と代議員が出席する。ご苦労様なことである。 3月20日東教区定期総会。開会と閉会の礼拝奏楽はいつものように中山姉と苅谷姉。ルーテルを代表するオルガニストを二人も、わがむさしの教会は戴いている。たくさんの報告や審議がなされたが、重要な4件について報告したい。

1. 大柴牧師教区長に。

立山先生の教区長任期満了に伴う教区長選挙で大柴先生が満票に近い得票で選ばれた。そうでなくても多忙を極める先生が一層忙しくなられることと思う。神様のお見守りを祈りたい。

2. 信徒奉仕者養成講座の開始

説教、牧会、礼拝、音楽、訪問、集会、朗読の7コースを設けて奉仕者の養成をするという。霊性とスキルの訓練をうけた信徒によって教会がより活性化されることが期待できよう。また個人の生涯学習の場としても活用したい。ことしはすでに4月から講座が始まっている。(参加申込者は54名。大柴付記)

3. 教会共同体の現況

当初なかなか共通理解がえられず、語句の解釈をめぐっても堂々巡りをしていたようにみえた教会共同体も漸く動き始めた。多くの教会がゆるやかな共同体を結成するようである。なかには、教会同志相性が悪いという事もあるようで、驚いたりする。わがままなのか頼もしいのか、いままでどおり単独でという教会も、もちろんある。むさしの教会はご承知のように市ヶ谷、スオミ教会で共同体をつくる。すでに合同聖書研究やいずみの会という懇談会(勉強会?)も回をかさねている。小さな教会の仲間を力づけ、他の教会の仲間と聖書の話を聞くのも新鮮な体験である。兄弟がともにいるという喜びを実感する。積極的に参加してルーテル全体を盛り上げていきたい。

4. 「衝撃的」な事実

立山先生が「衝撃的」という言葉を使われたのがとても印象に残ったのだが、2007年度の東教区の信者数、受洗者数が減少傾向からやっと上向きになったのに、総献金額が前年比1割減、2006年までは殆ど数字は変わらなかったのに一挙に3,400万円も減ったという。教会や牧師を支えるのは信徒の役目である。こころして献金していきたい。

(むさしのだより2008年 5月号より)

「APELT-Jタイミッションセミナーに参加して」 永吉穂高

この度ご支援していただき、タイという国に研修に行かせて頂けた事を幸せに思い、また感謝致します。

タイでは、初めて経験することが色々ありました。はじめに感じたのは、熱い!ということでした。3月の終わりごろの太陽に、汗が吹き出るほど強く照らされるという事、すれ違う人との笑顔の挨拶、常に町に響く笑い声。真っ赤やピンクのド派手なタクシーも、信号待ちで待っているバイクの群れにも、全てに驚かされました。ワゴンの窓から見える景色が万華鏡のように次々に変わり、私の感情を高ぶらせました。

タイでは、色々なところを訪れました。その中の一つに、泰緬鉄道に行く機会がありました。そこの列車は、死の列車と呼ばれていました。事前の勉強した事で、いかに酷い仕打ちの中で造られたのかを聞いており、緊張しつつ乗り込みました。走り出し、流れる景色を眺めました。列車内は、観光客がピースをして写真を撮り、のほほんとした雰囲気でした。私は不思議な気持ちになりました。列車が与えてくれたものは、意外にも幸せであったからです。苦しみの果てに出来た鉄道が、人々の心に幸せをもたらしている、という現実に戸惑いながらも、列車の旅は終わりました。この現実を考えなければいけないと思わされました。考えるということの大切さを、窓から入り込んでくる風に気づかされたような気がします。

私たちは、最終日に教会に行きました。礼拝堂に入ると、皆それぞれにブツブツしゃべっているのが目にはいりました。何をやっているのかと思い尋ねると、タイの人はお祈りを声に出してする、ということを教えていただきました。とても興味深い事です。ギターやドラムの音に合わせて皆が讃美をし、礼拝が始まりました。それは、タイの人の性格を表しているように思いました。言葉にできないものが、私の胸の中にこみ上げるのを感じました。

ここには書ききれませんが、本当にたくさんのことを体験しさせていただきました。タイは良い国です。惚れました。

現地でお世話になった杉岡先生、引率してくださった宮沢先生と高村さん、共に旅をしたメンバーの子たちに感謝しています。タイで出会った人、経験したことを忘れず生きていってほしいと思います。皆様、本当に有難う御座います。

(むさしのだより2008年 5月号より)

「バザー&フェスタ、いずみ教会共同体合同修養会レポート」 たより編集部

♪バザー&フェスタ : 11月3日(土・祝)

昨年に引続き、文化の日にバザー&フェスタが催されました。朝の曇り空も昼近くから晴れ上がり、明るい日差しの中、礼拝堂前の中庭では本場韓国のチヂミ(金賢珠姉の姉妹が来日してご奉仕)、人気の焼いも、焼きそば、フランクフルトなどの軽食、裏庭では掘り出し市、子供衣料、CS主催の子供の遊び場、会堂内では食堂、フラワーアレンジメント、手芸品等の販売がありました。礼拝堂では、のぞみ幼稚園園児の合唱、新しいオルガンによるミニコンサート(バッハのトッカータとフーガはヨーロッパの教会堂で聞いているような錯覚に囚われました)、ジャズのビッグバンド、ソプラノ共演など、昨年にも益した充実したフェスタが催されました。

森宣道委員長、原祐子、杉村太郎両副委員長をはじめ、全ての方々の力の結集でした。お疲れ様!

◆市ヶ谷・スオミ・むさしの合同修養会 : 11月23日(金・祝)

やはり昨年に引続き、勤労感謝の日に合同修養会がむさしの教会で開かれました。テーマは「賜物を受け使命に生きるキリスト者」。開会礼拝(市ヶ谷教会 斉藤忠碩牧師)、これまでの4回の修養会の振り返り(市ヶ谷教会 石原 修兄)、主題講演「信徒奉仕者養成講座の内容とめざすもの」(東教区長 立山忠浩牧師)、フィンランド讃美歌の指導(黒川兄)、聖書朗読の指導(三鷹教会 横沢多栄子姉)、コーヒーブレーク・交流タイム、閉会礼拝(大柴牧師)という流れで、充実した学びと交わりの時を持ちました。

信徒奉仕者養成講座は、多くの議論と準備を経て、来年4月に開始されます。聖書(概論、釈義)、ルーテル教会(ルター、教義)、牧会学、礼拝(司式、音楽、朗読)、説教、実践(訪問、集会)、歴史(キリスト教、日本)を月2回、1年で学ぶカリキュラムですが、2~3年あるいはそれ以上掛けての受講も可能とのこと。これだけまとまった内容の授業を信徒が受けられるのは画期的な事。生涯かけて学び、信徒として、人間として成長したいものです。是非、参加をご検討下さい。

(むさしのだより2007年12月号より)

「ヨハネスオルガン(スウェーリンク25プラチナエディション)のご紹介」 苅谷和子

皆さまのお祈りとお支えにより、10月16日新しいオルガンが礼拝堂に設置されました。10月28日の宗教改革記念日礼拝では、大柴先生によりオルガン奉献の祈りが捧げられ、会衆の讃美する声とオルガンの響きが会堂に満ち溢れ、まさに歌う教会さながらの豊かな礼拝となりました。

ヨハネス社は1968年に創業されたオランダの楽器メーカーで、河合楽器が輸入代理店になっています。「スウェーリンク25」は2段の手鍵盤と足鍵盤を持つ楽器で47個のストップ(※オルガンの音色選択機構)を持っています。さらに(1)バロック(2)シンフォニック(ドイツ)(3)ロマンチック(フランス)という3つの切り替えボタンが付いており、1台で3種類のオルガンの音色を出すことができます。バッハやブクステフーデなどは(1)で、ブラームスやレーガーなどは(2)で、フランクやギルマン、ヴィドールなどは(3)で・・と作品に応じて音色を切り替えることができます。(2)(3)は19世紀~20世紀初頭に登場した大型オルガンから音を録っており、(1)バロックのきりっとした音に比べると、幅の広い柔らかい音色が特徴です。また、パイプオルガンは造られた年代によって(a)ミーントーン(b)ヴェルクマイスター(c)平均律と調律の仕方が異なるのですが、それらも再現できる切り替え機能が付いています。その他、楽器本体に付いている外部入力を利用して、オルガンのスピーカーからCDやMDの音を再生して楽しむこともできるようになりました。先日のバザー&フェスタでのオルガン・ミニコンサートでは、作曲された時期や楽器を想定して音作りを試してみましたがいかがでしたでしょうか。

今回、当初予定の機種の納期が遅れるかもしれないという理由からでしょうか、ヨハネス社の配慮でグレードの高い「プラチナモデル」が届きました。日本初上陸とのこと。通常のタイプにはない「コンビネーションを切り替えるフットボタン」と「ソロ用のストップ6個」さらに「自動演奏機能28曲」がついており、それだけで50万円以上の価値があるとのことでした。思いもよらない幸運に恵まれ本当に感謝でした。

オルガン検討委員会では むさしの教会の会堂にふさわしい楽器をと願い議論を重ねました。8月の猛暑の中、検討委員とオルガニストが集まってオルガンの見学に参りましたことも楽しい思い出となりました。昨今のコンピュータ技術の向上は素晴らしく、どのメーカーの楽器も音質が格段に良くなっており、甲乙つけがたく選定に悩みましたが、最終的にはスピーカーを天井後方の梁に設置できるという利点からヨハネスに決まりました。音の感じはいかがでしょうか?全体の音量は調節ができますので、ご感想等をぜひお寄せ下さい。

オルガン設置に際しては 初谷兄がオルガンのコードを柱や床材の色と合わせて、目立たないように綺麗にペンキで塗って下さいました。「まだ音が硬いけど そのうち馴染んでくるよ」と紙に書いて手渡して下さり、じっとオルガンの音に耳を傾けておられたお姿が忘れられません。

豊かな礼拝を捧げるためにオルガニストの役割は大きく責任も重大です。素晴らしい可能性を持った楽器を用いて、礼拝に集うお一人お一人の心が神さまの讃美に向かうことができるよう努めてまいりたいと思っております。どうかよろしくお願いいたします。

(むさしのだより2007年12月号より)

「ウィーンの思い出(10)最終回」 野口玲子

大柴先生から「野口さんにとって大切なintegration(統合)の機会になることでしょう」とお勧めいただき、「ウィーンの想い出(I)」として、カトリックの国で初めて迎えるクリスマスのことなどを書かせていただきましたのは2005年12月号でした。この号は、教会会堂の耐震補強工事が完成し、6月号で休刊になっていた「むさしのだより」が再開され、隔月の発行へと変わったときでした。市吉伸行兄による名文「なまけクリスチャンの悟り方」に替わっての連載となりました。今回、10回目を迎え、最終回とさせていただくことといたしました。とりとめもなく、また拙文にも関わりませず、お励ましいただき、お読みくださいました方々に心から御礼申し上げます。

私が留学しておりましたのは1968年春から1971年秋までですが、1970年の大阪万博を境に日本は大きく変わったように感じました。その頃はお金持ちの農協関係者の海外への団体旅行が話題になりました。それまではウィーンにいる日本人は大使館員か留学生が殆どでしたが、まだまだ東西冷戦中の東欧圏と取引の起点となり、徐々に商社や会社の駐在員が多くなっていきました。それでも私の留学中は日本の銀行は一つもなく、日本茶もお煎餅も梅干も買えません。勿論、日本料理店など当時は一軒もありませんし、昨今のように日本料理が好まれるとは想像すらできませんでした。

今は英語が話せればウィーンに旅行しても不自由は感じませんが、当時は街中でも殆ど通じませんでした。友人たちもフランス語はできても英語はダメでした。元貴族たちやちょっと気取った人々は、ハープスブルク時代の名残からのフランス語を話し、大学教育を受けた人たちは、外国語としてフランス語を学んだからということでした。その友人たちも今では英語がペラペラ。必要に迫られてでしょうが、ゲルマン系という共通点もあり、彼らの習得の速さには、その後ウィーンを訪ねるたびに驚いたものです。

食文化でも驚いたことがあります。例えばセロリ。下宿の小母さんから「セロリのサラダ」といってご馳走に与ったものは、一見信じられない代物でした。大き目の八つ頭のようなものを1cmほどの賽の目にして茹でてドレッシングで和えてあり、セロリ独特の香りが一層強く美味しいものでした。何とセロリの根っこ。キャベツはどんなに細く刻んでも硬くて、生では食べられませんでした。パンはライ麦入りの薄黒い固めのパンが主流ですが、朝食はセンメルというフランスパンに近い白パンが好まれています。感動したのは、大きめの丸型やオーバル型のパンを初めてスライスするとき、パンの裏側にナイフで必ず十字を切る習慣があるのを目にした時でした。パンはまな板を使わず、手に持って回し切りするように切ります。おもてなしの際でも、メイン皿の左にお皿なしで直に置きます。また、毎週金曜日は断食日として、お肉などのご馳走を口にしない習慣は、当時は普通のことでした。ダイエットにもなりますね。

ウィーンへ留学した年から数えて来年で40年になります。覚束ない記憶を頼りに文章をまとめながら、毎回文末になると感謝の気持ちが込み上げてまいりました。牧師のひ孫でありながら当時はまだ洗礼を受けていない私が、どうして神様のお導きに従って歩むことができたのでしょうか。不思議なしあわせには驚くばかりです。細々ながらも音楽生活を続けることが許され、お陰様で、今秋35回目の自主リサイタル開催の運びとなりますのも、ウィーン留学時代からの神様のお恵みに支え続けられてのことと、あらためて感謝をお捧げいたします。 

大柴先生からいただいた「integrationの機会」は、真に音楽から神さまへ、感謝へと導かれた喜びの時との出会いでした。

むさしの教会の方々とご一緒にウィーンを訪れることができますよう、お祈り申し上げます。ありがとうございました。(完)

(むさしのだより2007年9月号より)

「JELA米国ワークキャンプに参加して」 大柴翔・森奈生美

米国ワークキャンプの思い出
大柴 翔、森奈生美

7月24日~8月7日のJELA主催の米国ワークキャンプにむさしの教会から大柴翔君(高校2年)と森奈生美さん(高校1年)が参加しました。
大柴 翔
このキャンプは、全米にいるティーンズ(12才~18才)のクリスチャンが一カ所に集まってみんなでなにかしら問題を抱えている家を修復していくというキャンプ。一つの家を一緒に直すグループをCrewと呼び、そのCrewはみんな歳も違えば住んでるところも違う、みんな最初は知らない人同士でもちろん1Crewに日本人は一人。そうして一週間あまりを一緒に過ごして、一緒に神様の事を考えて共に成長しようというもの。

僕にとってはこのキャンプは二回目の参加だった。一回目は僕が中一のころ。正直、わけわからずにただ「楽しかった」で終わったキャンプだったような気がする。だから今回再びこのキャンプに参加しようと思った。

キャンプ初日、Crewと初めて会って話をする時、少しみんなの話している事が分からなかった時、となりの女の子が最初に話しかけてくれた。その子とはお互いに母親が韓国人という事もあって韓国語という共通の話題が出来て話が出来た。その後はみんなと話せるようになったけどきっかけはそのNinaっていう子。本当に感謝している。その後はみんながゆっくり丁寧に英語を話してくれている気がして嬉しかった。(その時のみんなの話から、エミリーは38歳で子供が5人いると知ったが、後日、エミリーは20歳で未婚、あれは聞き間違いであったと判明!笑)でもなんだかんだ言ってCrewとは上手くやっていけた。またプログラムで心に残ったのは火曜日の夜プロのテーマである「赦し」と木曜日のステーション、それからKevinと一緒に歌を歌った事。

火曜日の赦しでは少しショッキングなドラマを見た。そのドラマの内容は、全世界でウイルスが広まっていて、ある1人の男の子の命を捧げないと全世界の人々も助からないというもの。映像がリアルで怖かったが、でも神様もこうやって死なれたと思うとやはり考えさせられるものだった。

そして水曜日には、出し物として頑張って練習してきたパラパラと、歌を歌った。その時と個人的にお祈りをした時、その二つの歓声はすごかった。とくに、 Kevinっていう音楽リーダーはかなり日本語の歌に感動したらしくその後もKevinと日本人で集まって日本語のShout to the Lordを歌ったりして、Kevinはそこでも、いまにも泣きそうになり、「もういい、終わりだ」的な感じで終わり、ちょっとかわいかった。でも最後の夜、自分のTシャツに日本人グループのみんなのサインをもらって「事務所に飾るんだ」と聞いた時に、こんな僕たちでも一人の人の心にこんなにも残る事が出来る、ということに感動した。

このキャンプの経験で僕は本当に人生が変わった、というか変わると思う。考え方や感じ方、もちろん神様に対しての関わり方もかなり変わっていると思うが、いろんな事が見えたおかげですごく大きな体験をして、人間的にもすごく変わったと思う。辛い事もたしかにあった、言葉の壁、疎外感、自分の前ではあまり笑わない子が、他の人の前でゲラゲラ笑っているのは結構ショックだった。でもそれでも思ったのは、積極的に、自分から、進んで行動する、というもの。そのおかげで本当に多くの人から愛されたと思える。この2週間を通して僕は、もっと世界を見てみたい、もっといろんな人と話してみたい、もっと神様と共に歩みたいと強く思った。それをこれからの生活でも忘れないでいきたい。
森 奈生美
一ヶ月ちょっと前はアメリカにいたんだなあと思うと、不思議な感じです。あの2週間は日本での日々とはまったく違う、特別でそしてとても大きな2週間でした。ホームステイ先だったミネソタの人たちは優しくておもしろくって、心から歓迎してくれてとても感謝しています。アメリカの暖かさを感じました。

キャンプが始まってすぐ、同い年くらいの人たちがたくさんいるその空気に、「すごい楽しそう!!だけどこの英語力はきついだろうなあ」と思いましたが、ワーク中、listeningが全くできない私を同じグループの子がいつもケアしてくれて、荷物運びも毎朝誰かが手伝ってくれて、最後の方になると知らない女の子達ともふつうに立ち話で盛り上がれる程になれて。最初からもっといろんな子に話しかけとけばよかったなぁ、なんて。言葉ができない自分へのイライラはずっとあったけど、それを軽く越える程楽しかったです!

キャンプ中は毎日三回のディボーションプログラムがありました。すべてを理解しきることは難しかったけど、それでも自分なりに考え、話を聞いて、いろんな事を感じました。これからはもっと深く神様といっしょに歩んでいきたいと思うようになりました。キリスト教がとけ込んでいるのを肌で感じたし、そんな環境とは全然違うけど、日本でも常に忘れずにいられたらいいなと思いました。

一緒に行った日本人メンバー&スタッフさん&佐藤先生とは2週間ずっと同じ時間をすごしたわけで、皆で乗る移動ワゴンがとても楽しくて、同じ経験して考えて、皆で分かちあって、時には元気づけてもらって…本当にみんなと行けてよかったです。たくさんの経験が、新しい考え方を教えてくれました。二週間の様々な出会いがどれも最高の思い出で、ただの思い出じゃなくてこれから(今も)私を支えてくれる物であり続けるんだと思います。送り出して見守ってくださった方々、心からありがとうございました。

(むさしのだより2007年9月号より)

「ウィーンの思い出(9)国際フーゴー・ヴォルフ・コンクール」 野口玲子

帰国寸前の1971年9月半ばに、オーストリアで初の「国際フーゴー・ヴォルフ・コンクール」が催されることとなりました。

「歌曲の作曲家として最も優れた人を二人挙げよ、と問われたら、迷わずにシューベルトとヴォルフと答える。しかしどうしても一人だけをと言うなら、やはりヴォルフを挙げる」と、多くの巨匠たちが認めるオーストリア生まれの天才作曲家フーゴー・ヴォルフ。400余曲の珠玉のような歌曲作品を残したフーゴー・ヴォルフを称えて、彼の生誕地、かつてオーストリア領だったヴィンディッシュグラーツ(現在はスロヴェニアのスロヴェ グラーデック)があったシュタイアーマルク州の州都グラーツで、第1回国際フーゴー・ヴォルフ・コンクールが開催されることとなりました。

これまで私はコンクールを受けることは考えてもみませんでしたが、ヴォルフの歌曲のみによるコンクールなので、最初で最後の機会だと思い、参加する決心をいたしました。

ヴォルフ コンクールは声種別に10曲の課題曲が決められており、そのほかに10曲の自由曲を提出しなければなりません。勿論すべてヴォルフの歌曲です。ヴェルバ先生の選曲に従って準備を整えてゆきました。6月に卒業試験が終了してからは、ザルツブルクの夏期講習やベルギーのゲント市で開催されたヴェルバ教授の講座の追っかけをして学びました。しかし、コンクールの日が迫った頃、自信のない私はヴェルバ先生に「先生は、個性的な豊かな表現が大切だ、と仰います。個性というものを点数で測れるのでしょうか。私はコンクールを受けてもよいのでしょうか?」と半ば駄々をこねるような気持ちでお尋ねしたのです。すると先生は私に手を差し伸べられ「確かにそうだ。でも受けなさい。何故ならコンクールというものはそのときに応募した人の間で判断されるもの。だからあなたより上手な人が100人も来ればダメかもしれないが、もしかしたらあなたが一番上手いかもしれない。いずれにしてもこれだけあなたの声に合った作品が選曲され良く勉強してあるのだから、リサイタルだと思って審査員達に聴いてもらえばよいではないか。もしかしたら賞が取れるかもしれないし!」と諭されてしまいました。ヴェルバ先生のこのお言葉は、全く当たり前のこと。「人事を尽くして天命を待つ」ということでしょう。音楽の原点に気づかされ、安心して臨む気持ちになりました。

グラーツへはウィーンの南駅から列車で約3時間です。コンクール会場はグラーツ音楽大学のホール。参加者にはウィーンに留学中の日本人や外人のクラスメイトもいますが、ドイツ、カナダ、イギリスなどからの個性豊かな歌手達が、自信たっぷりに集まってきました。審査員にはヨーロッパ各地から声楽家以外にも音楽評論家や放送局関係の著名な方々が名を連ねる中に、私が師事したヴェルバ教授(審査委員長)、シュミデック先生、ジットナー教授がおられたことは心強い限りでした。しかし私をお教えくださった三人の先生は私を採点できないという決まりがあったことを、後になって知りましたが、お蔭様で3位を受賞することが出来ました。結局賞をいただけた日本人は私だけでした。

ウィーンを出るときに、霊感のある友人から「授賞式のために着物を持っていきなさい」と言われたのを笑い飛ばし、ウィーン人の親友達には「賞を取ったらコンサートがあるからグラーツへ来てね。ホテルの費用は私が持つから」と実現不可能を前提に約束をしたのですが、友人は霊感が当たったことを自慢し、ウィーンの親友達は勤めを早退して駆けつけてくれました。喜びと共にちゃんと約束は果たしました。ヴェルバ先生のお言葉に救われて、他人と争うことなく、自然体で臨むことができたことが良い結果へと繋がったのでしょう。神様のお導きがあってこそと、感謝いたします。

(むさしのだより2007年7月号より)

「 第13回全国伝道セミナー~癒しを考え、癒された3日間」 市吉伸行

第13回全国伝道セミナー~癒しを考え、癒された三日間

市吉伸行

 

春の連休5月3日~5日の3日間、日本三景(今や世界文化遺産)宮島の国民宿舎で、第13回全国伝道セミナー(伝セミ)が2年振りに催された。西教区を中心に全国から約120名が集り、むさしの教会からも賀来牧師(基調講演)、徳弘牧師(スタッフ支援)、和田みどり姉、宇 五十鈴姉、市吉の5名が参加した。

今回のテーマは「いやし」。近年巷間で使われすぎの感もあるが、聖書に何十回も出現する言葉でもある。聖書では主に病いからの癒しの意味だが、現代は心の癒しを意味する事が多いというのが時代を反映している。今や万人が癒しを求めている! 今回の伝セミでは、サック夫妻によるメッセージとハープの調べ(初日晩)、賀来周一先生の主題講演とワークショップ(二日目昼間)、福音歌手・森 祐理さんによる賛美(二日目晩)により、参加者たち自身が癒され、また癒しについて洞察を与えられた。癒し人として派遣されるために。

賀来先生のお話は多岐に亘ったが、幾つか印象に残ったエピソードや言葉を紹介する。「(イエスの時代と違って)現代の教会で癒しが起きないのは何故か。現代の教会が健康志向すぎるからではないか」、19世紀にドイツで悪魔払いの癒しを行ったブルームハルト父子の話「病気になるのも神の御心、病気が癒されるのも神の御心」「(子ブルームハルトの教会に病の癒しを求めて訪ねた)ある者は癒された。ある者は癒されなかったが、生きる勇気を与えられた。」、やどかりの里という精神的病を持つ人たちのコミュニティーの話「病気は治っていないが、病気は人生の一部となっている」「兄弟姉妹として交わり、当たり前に接してくれるのが一番嬉しい」、終末期医療について「がん患者の“死ぬに死ねない”という問いに模範的な答えはない。しかし、そのような問い掛けをするというのは、相手が自分にとって大切な人であるということであり、“一緒に居てください”という叫びでもある。そのような時、看護師さんの存在自体がサクラメンタルである」。最後に、「教会には病人はいない。そこには人間がいる」。

森 祐理さんは神戸出身で、NHKの歌のお姉さんとして活躍された。ステージに現れた祐理さんの清楚な姿、高く澄んだ声で歌われる日本の名曲とゴスペルは聴衆の心をすぐに捉えた。語りも曲の味わいを深めてくれた。例えば、詩人野口雨情の2歳の子の死の慟哭の中で童謡「しゃぼん玉」の詩が生まれ、しかも、メロディーは賛美歌「主我を愛す」が元になったという。祐理さんは声が出なくなった時期があり、また、社会人として羽ばたこうとしていた弟を阪神淡路大震災の中で失っている。そのような方だからこそ、賛美の歌が、福音の語りが、逞しく美しい真実の力をもって聴衆の心を揺さぶったのだと思う。大の大人たちが涙を流し拭おうともせずひたすら聞き入っていた。癒しとは、傷は浅いと慰めることではなく、傷を負う自分を見つめ直し、傷を負いつつもなお生を断ち切られておらず、与えられた命を生かす新たな生き方ができることを発見させることではないか。そんな風に体で感じた。

◇次回の伝セミは2年後、2009年5月4日(月・祝)~6日(月・祝)の日程で開かれる予定です(実行委員長は知多教会・前田実兄、副委員長は岐阜教会・齋藤末理子姉という強力コンビ。むさしの教会とも縁があります)。今から予定に入れておきましょう。

(むさしのだより2007年7月号より)

「ルーテル・医療と宗教の会公開講演会を終えて」 長谷川洋子

ルーテル・医療と宗教の会では、さる6月10(日)、むさしの教会にて公開講演会を開催いたしました。今回は、石丸昌彦先生(精神科医・桜美林大学教授)をお招きして「精神障害をもつ方々へ教会ができること」と題してご講演いただきました。

精神に関する問題は、以前は誤解や偏見が多く閉ざされがちなものでした。石丸先生が精神科医となった20年ほど前は、町中に精神科のクリニックは数えるくらいしかなかったそうです。しかし、現在は患者さんの増加があり、社会的な認知度や関心が高まりつつあるのではないでしょうか。精神障害の現状は複雑多様化しており、医学的・心理学的立場からの治療や援助と共に、「魂のよりどころ」として教会の果たす役割があるということでした。この背景には、魂のよりどころとなるべく家庭の機能低下があるようです。教会は、1つの大きな家族といえる場です。世間一般の家庭が失ってしまったものが、教会にはまだ残されているような気がします。

目の前にいる人が、いま何をどんなふうに悩んでいるのかを理解することが「できること」を見つける第一歩。わからないことは、当事者・家族・専門家に訊く。できることをし、できないことはしない。これらは、あたりまえの事ですが意外と気がつかないことでした。

今回の講演が、皆様の日常生活や教会生活の中で少しでもお役立ていただければと思います。

ルーテル・医療と宗教の会は、東教区に属するグループの一つとして10年以上にわたり活動を続けております。現在は、公開講演会の開催が恒例となっております。発足以来、事務局は池袋教会にありましたが、昨年よりむさしの教会へ引き継がれました。原先生が世話人代表としてご尽力されております。いつでも、どなたでも入会できます。皆様も、これを機にご入会いかがでしょうか。

今回の講演会開催にあたり、石丸先生、大柴先生や教会員の皆様には多くのご協力をいただきましたことを感謝いたします。事務的な仕事が大の苦手な私ではございますが、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

(むさしのメンバーの長谷川洋子姉は、現在、ルーテル医療と宗教の会の事務局を担当してくださっています。ルーテル・医療と宗教の会の代表は、むさしのメンバーの原仁兄です。)

(むさしのだより2007年7月号より)

「第14回東教区宣教フォーラム報告」 田坂 宏

2007年の宣教フォーラムが7月7日(土)10:00~15:00むさしの教会でテーマ「神様から生かされて-あなたがたの光-」主題講演 阿部志郎先生(前神奈川県立保健福祉大学学長)により行われました。

<準備~開会まで>
半年前から準備が始まりました。準備委員が毎月1回委員会を行いその中で会場の依頼があり、むさしの教会の会場が決まりました。いよいよ近くなり、多くの人が参加してくれること、その日が良い天気であることを祈りながら作業を進めました。そして当日、会には絶好の天気になり、東教区の各教会から思いもよらない180人という大勢の人たちが、主の誕生に東の博士や羊飼い、主を讃えるための合唱隊がやってきたように集まり、会堂が満席になりました。
<開会礼拝・聖餐式>
開会礼拝は聖餐式で始まりました。同じ教会の多くの兄弟・姉妹と共にパンとぶどう酒をいただき神様からの力を受ける聖餐式は、アンケートで主題講演と共に一番よかったという回答が多くありました。大柴先生は説教の中でステンドグラスの秘密を披露され、参加者はその意味が分かり興味深く聞いていました。それから光についての話に入ったので、私たちの会堂は今回の会の会場としてふさわしいものでした。
<阿部志郎先生の主題講演>
キリスト教福祉については第一人者の先生の講演は、いつも聞く者の心をとらえて離さないと言われますが、今回もそれをお聞きして感動しました。キリスト教福祉だけでなく世界の中の日本と日本人のあり方、日本社会全体の病んだところを摘出して解決の方向を示して下さいました。いい講師をこのフォーラムにお呼びできたことは幸いでした。参加者全員が主によって芳醇にされたワインを飲んで喜んだカナの婚礼のように主によって祝福された会となりました。
<合同聖歌隊と会衆による讃美合唱>
開会礼拝が始まって最初の讃美歌から会衆の讃美の声が改修した礼拝堂に響き渡りましたが、それを一段と合同聖歌隊が盛り上げてくれました。とくに6月3日に全教派で行なった教会音楽祭で歌って喝采を浴びた萩森英明君作詞・作曲の「神の子」を4部合唱で歌い、それを会衆と一緒に歌ったのはよい企画でした。将来各教会でも若いルーテル教会メンバーの萩森君作の歌が歌われるかも知れません。会衆が楽譜を初見で上手に歌ったのはさすが「歌うルーテル教会」だと思いました。
<午後の交わりの時間・派遣礼拝>
この時間はAからCの3つのグループに分かれて(A)阿部先生を囲む会、(B)「賜物」について考え、語る会、(C)「教会の光を外に輝かせるには」を考え、宣教に語り合う会を、自分が加わりたい所に参加する形で行ないました。各グループよい交わりと語り合いができたと思います。私が司会したCグループで「このグループの人たちとよい情報を交換できて出席した甲斐がありました」という感想がありました。派遣礼拝では田島牧師の説教があり、多くの人と交わりをし、講演を聴いて大きな力をもらったことを感謝して、それぞれのところに派遣されました。

(むさしのだより2007年7月号より)

「ウィーンの思い出(8)卒業試験」 野口玲子

前回、前々回と感謝をこめて書かせていただいた恩師エーリック・ヴェルバ先生のリート・オラトリオ科を1971年6月に卒業することができました。「欧米の大学では、入学は簡単だが卒業は難しい」とよく云われますが、音楽大学の場合も例外でなく、日本と比べて試験の課題の量、質共に大学卒業というステータスの差を、また声楽家としての認識の差を痛感いたしました。

卒業年次になっても、まず担当教授から卒業資格があると認められないと卒業試験のための手続きがとれません。特別の事情がある場合でも、教授が優秀であることを認めないと留年出来ないことは前回に述べましたが、卒業試験が受けられないということは、そのまま放校されてしまうということです。そして試験を受ける許可が出ても、試験会場で他の試験官の教授たちが認めなければ不合格となります。再試験などありません。私の卒業試験のときには、私の前に歌った学生は不合格でした。教授たちはその学生が少しでも良く歌えるようにと時間をかけて試したのですが、結局落ちました。そのため私の番が来るまで他の人と比べて、長い時間待たされたことを覚えています。

リート・オラトリオ科の試験は、バロックから現代までの各時代別のオラトリオ作品から、全曲の自分の声部全てをマスターしておかねばなりません。そしてバロックから現代曲までのリート作品から、作曲家別の決められた課題に従って全18曲を選んで提出します。試験当日はまずその中の1曲を自分で選んで歌いますと、直ちに目の前の教授たちは提出したプログラムを基に協議し、曲目を指定してきます。勿論必ず暗譜です。そして合格となると、プログラムとは別の曲目で30分の公開演奏をしなければなりません。更に試験に提出するプログラムの曲は4分の3がドイツ語であること、と決まっています。

このように卒業するためには、かなりの勉強が必要なことがおわかりいただけると思いますが、反面オペラ座の契約が決まってし まった優秀な学生にとっては、卒業試験など関係なく、無頓着。要するに実力があれば問題ないわけですが、私は、卒業試験を受けるために勉強することで身につくものが多いだろうと考えました。

そこで発声を中心に学ぶGesang科の卒業試験も受けておきたいと思い、グロスマン先生にご相談し、私に合う音大の先生を探していただき、学長夫人の Dr.エミー・ジットナー先生に推薦していただきまして、入学試験を受け、合格となりました。了解なく複数の先生に習うことは良くないので、私は、グロスマン先生がご紹介くださる先生に決めたわけです。

ジットナー先生は必ずしも評判の良い先生ではなかったのですが、戦後の東西緊張が激しかった当時、先生の許には複雑な事情で東欧諸国からウィーンへ来た才能豊かな学生が多く在籍し、共に学べたことは貴重な経験でした。彼らの必死で学ぶ姿、コンクールを受けたり、オペラ座で歌う日を目指して挑戦する姿には、切羽詰った情況が見て取れ、恐怖すら感じました。彼らは簡単には祖国へ帰れないのですから。私がジットナー先生に就く前に卒業し、直ぐにウィーンのオペラ座で活躍したルーマニアの世界的なソプラノ歌手、イレアーナ・コトゥルバシュもその一人でした。オペラ科を受講しなかった私ですが、ジットナー先生の専属コレペティートア、ミミ・フライスラー先生からは特にオペラについて、そしてアリアを数多く学ぶことが出来ました。1年半後、卒業試験をうけることになりました。アリアを10曲、歌曲を10曲、やはり4分の3がドイツ語であること。リート・オラトリオ科と同様に試験が行われ、合格すると30分の公開演奏。幸いにも私は最優秀賞を戴くことができました。

今当時を振り返ってみて、病気ひとつ怪我ひとつせずに、災害にも被害にも遭わず、落第もせず、無事に帰国できたことの運のよさには驚くばかりです。神様のお導きなしには考えられないことです。あらためて心からの感謝をお捧げいたします。

(むさしのだより2007年5月号より)

「エルガテースにようこそ!!」 杉村太郎

“Usus omnium rerum optimus magister est.”(あらゆるものの経験は、最良の教師である)

こんにちは新青年会エルガテース(ギリシャ語で「働き人」の意)代表の杉村太郎です。

突然ですが皆さんは一人の人間が一生の内にどれだけのことを経験できると思われるでしょうか。おそらくは、このように答えられるでしょう。 “0mnia non possumus omnes.” (我々は皆すべてのことをすることはできない)。 だからこそ日々の生活の中で可能な限り多くを経験しようと努力していかなければならないのではないでしょうか。「経験」は様々な姿に形を変えて我々に知識と学びを提供してくれるのです。だから経験することを躊躇していては学びの場を自らが放棄していることになってしまいます。しかし、やはり個人が経験できることには限界があるでしょう。だからこそ、読書や映画鑑賞を通じて自己の経験の限界を突破して豊かな想像力を持つ力を与えてもらうのです。新青年会エルガテースはその為に日々様々なことに挑戦するグループであることを目指して頑張っています。

さて、最近は情報過多な世の中でありそのような環境に我々も身を置いています。知識は多いほど良いと言いますが、それは時と場合によって是非が分かれてくることだと思います。情報があり過ぎることによって正しい選択肢を選ぶことを著しく妨害してしまうことがあります。これはどう考えても情報が人を苦しめている状態です。一方で、ある動物に遭遇してその生態を知らないと不安ですが、その動物についての知識を備えていれば上手く対応することができます。「いつ」「どのような場所で」「どのように」「どの知識」を用いればよいのか、それが重要なことなのです。その力をつけるためには情報や知識を「考えて」活用しなければなりません。その「考える」力を養うためには考える訓練をする場が必要です。それこそまさに実践的に学ぶ経験の場とディスカッションを交えた読書会や映画鑑賞などによる自己超越的経験の場であると考えています。

また、経験による学びは一人だけでも不可能ではありませんが、他者との交わりの中で発見することも多くあります。それは、中世のスコラ学者ベルナルドゥスが “Multi multa sapiunt et se ipsos nesciunt.” (多くの人は多くのことを知っているが、自分自身のことは知らない) と言うように、自分自身も知らない自分を他者の言葉から発見することにも繋がっているのです。 “Occasio aegre offertur, facile ammittitur.” (機会はやっとのことで与えられ、容易にに失われる)。 経験はその人にとって大切な宝物になります。それが他者との交わりの中で得た経験ならなおさらではないでしょうか。

“Omnia mutantur, nos et mutamur in illis.” (すべてのものは変わる、われわれもまたすべてのもののなかで変わっていく)。

【編集部取材班より: 5月からエルガテース主催の読書会が始まりました。第1弾は聖アウグスチヌスの「告白」。毎月第1第3日曜礼拝後に集まり、半年位かけて岩波文庫版の上巻に取り組む予定。初回はシニアも参加し、自由な雰囲気で感想を述べ合い、分かち合いました。専門的に学んでいる杉村兄と高村神学生からのコメントもあり、濃い内容でした。途中参加も一見客も歓迎!】

(むさしのだより2007年5月号より)

「春の全国 Teen’s キャンプに参加して!!」

春の全国 Teen’s キャンプに参加して

大森はつ子

3月27日から29日まで、千葉の茂原にある千葉市立青少年自然の家で、全国のルーテル教会の10代の子どもたち89人とスタッフ47人、合計136人が集いバイブル・キャンプが行われました。むさしの教会からは6人の中高生が参加しました。

今年は会場が東教区なので、教育部長の佐藤和宏牧師が全体の運営をみられ、チャプレンを石居基夫先生が担われ、若い牧師、青年たちがそれぞれのチームのリーダーとして3日間寝起きを共にしました。

私たちは東教区婦人会の役員として、1泊するもの、日帰りのものという勝手な参加の仕方をゆるしていただきプログラムに参加しました。

京葉外房線の茂原からバスで「青少年自然の家前」で降り歩き始めると、カエル、うぐいすの鳴き声が出迎えてくれました。菜の花が咲き乱れ、みわたすかぎり田んぼと雑木林のなかに近代的で木の香りのする見事な宿舎がみえてきました。子どもたちがマッチ棒のように小さくみえるほど大自然のなかでの生活でした。

プログラムは、「話し合い」と「ゲーム」と「讃美」で進められていきます。2日目の午前のプログラムは、好きな友達を選んで「モーニングデート」。続いて「タレントショー」では、迷った羊役を目隠しをされた子どもたちが、羊飼い役割をリーダーで、それぞれ役を演じながら、いろいろな思いを感じとっていました。

引き続いて、グループに分かれ、「ケア・カード」を書きました。これは、グループの友達全員にその人の良いところをみつけて書いてあげるカードです。カードは何枚書いてもよく、書いたらそれぞれのポストに入れてあげます。ポストは最後の日まで見てはいけません。

昼食の後のプログラムは「たいせつなきみ」でした。まず、円になっているチームのメンバーを信頼して、円の中央の人が棒のように倒れ、周りがその人を支えるというゲームです。棒になった人は周囲を信頼しないと体を預け倒れることが出来ません。そのゲームに続いて、映画「たいせつなきみ」を鑑賞し、その2つの体験から「どうして周りの人を信頼できたの」「信頼って何」という話し合いを始めます。「嫌われたくなくて他人の目を気にする自分」「自由になれない自分」「褒められたい自分」などに気付き、自分も受容し、他人も受容していく自由な心を学びました。それは、どんな時でも自分を見ていてくださるイエス様がいるから・・・・・

企画運営してくださっている牧師先生がた、青年たちの見事な企画力とファシリテーターぶりに感動して帰ってきました。

知らない人と3日間も過ごすことに不安をもってでかけたのに、友達が一杯できたと興奮して帰ってきました、とあるお母さまは話してくださいました。

それぞれの子どもたちの心には何が残ったのでしょうか。

(続いて、初参加の子ども3人の感想です。)




 思い出の春キャン  A.U(中1)
私はキャンプに行った事がなかったので、春キャンでは、友達はできるかなぁとかたのしいかなぁと思い、不安でした。でも、そんな不安はなく、すぐに沢山の友達ができたし、ものすごく楽しかったです。

思い出に残った事は、イエス様が十字架にかかった時の苦しさを体験するという事と色んな人にカードを書く事です。イエス様の苦しさを体験した時、氷を持ちとけるまで手に乗せたり、重い十字架を持って歩いたり色んな事をしました。カードを書く時は、知り合いには、ほぼ全員書きました。そうしたら、私もカードを沢山もらい良い気持ちになりました。ほかにも、新しくできた友達とかと聖書の事を話したり、部屋の中でゲームをしたりなど、楽しい思い出もできました。私は、キャンプってこんなに楽しいんだと思い、色んなキャンプにこれからも参加したいです。
 「キャンプで一番心に残ったこと」  M.N(中1)
ティーンズキャンプで一番心に残ったのは、最終日のパズルだった。

117枚のパズルを参加者全員でうめていくということだった。

私のピースは67番目。そのピースははじのほんの小さなところにうまった。野の絵の小さなはじっこに。

こうして完成したパズルは、今回のキャンプのしおりの絵となった。

もしここで、一人の人がかけていたら、この絵は完成しなかったと思う。このパズルも、ティーンズキャンプも、私達一人一人がいて、出来たものだと思うからだ。

全国の12才から18才、又はそれ以上の年令の人々も、皆心をかよわせていた。そして、卒業生は私達にメッセージを残して去っていった。

こういうことが、ティーンズキャンプの目指す所であり、伝統であると私は思う。
 「春のティーンズキャンプでの思い出」  M.Y(中1)
私が、今回のキャンプに参加して、良かったと思った事は、友達が出来たことです。国際キャンプでは、6年生が最高学年でした。なので、年上の友達があんまりできませんでした。でも、春のキャンプは、年上ばかりです。私は、年上の友達が少ないので、たくさん作ろうと思っていました。

最初にできた友達は、バスでとなりだった人です。私に話しかけてくれました。とてもうれしかったです。

そして、もっとうれしかったことは、同じ部屋になった人みんなと、友達になれたことです。みんな、とてもやさしくて、おもしろくてー。同じ部屋になったのがこの人たちでよかったと思っています。

その他にも、ちがう班になってしまった友達と話したりして、楽しかったです。

私にとって、この三日間は、とても充実していて心に残っている、最高の思い出でした。

(むさしのだより2007年5月号より)

「ウィーンの思い出(7)恩師に感謝して」 野口玲子

ウィーンの思い出(VII)~恩師に感謝して
音楽大学・エーリック・ヴェルバ先生(2)
野口玲子

1968年10月1日から音楽大学が始まりました。直ぐに授業で、日本のような入学式や始業式はありません。早速リート・オラトリオ科のDr.ヴェルバ教授のクラスの学生として大学の校舎へ向かいました。しかし当時の音楽大学は、校舎が何箇所にも分かれており、リート・オラトリオ科や一部の声楽科のレッスンは主に、かつては個人のお屋敷らしき佇まいのところで行われました。

当時ヴェルバ先生はヨーロッパを中心に世界中を飛び回って活躍中で、定期的なレッスンを行うことは不可能な状況のため、3年間で完了のリート・オラトリオ科の1、2年生はアシスタントとしてクルト・シュミーデク先生が担当されました。

私は1年間だけシュミーデク先生に学んで、飛び級して3年のヴェルバ先生のクラスに入ることができましたが、ヴェルバ先生の授業を1年で終えるのは物足りなく思い、ヴェルバ先生と大学の許可をいただき(卒業年次での留年は、より学ばせたいと教授が希望する場合にのみ許可されます)3年生として更に1年間学び、卒業いたしました。

この3年間のリート・オラトリオ科のレッスンでは基礎から応用へとたくさんのことを学ぶことができました。まずシュミーデク先生からは、バロック時代の作品から徐々に現代へと、将来の私のレパートリーとなるための数々の作品を丁寧に教えていただきました。最初のレッスンのときに「来週までに」と10曲のリート作品をわたされ、次の週には「全曲暗譜で」と追われるように学ぶことは大変なことでしたが、本場で学ぶ厳しさとともに、自身の可能性が高まってゆくような喜びを覚えました。シュミーデク先生から「もうあなたに私から教えることはないから、ヴェルバ先生の方へ行ってよろしい」と言われてのことでしたが、ヴェルバ先生からは次々に新しい知らない曲を与えられました。ヴェルバ先生が型破りの天才、ということは承知していたつもりでも、先生の音楽に触れれば触れるほど、感性の豊かさ、勘のよさ、突然の思いつき等は何処から来るのかと、驚くばかり。レッスンでは理屈や規則は殆ど口にされません。自らピアノを弾きながら、リートの解釈について、詩の内容や音楽から感じる心を思いのままに表現するために、ご自身の演奏経験などを話され、時には冗談に紛らせながら、ピアノの音を通して示唆してくださったのだと思います。何と贅沢なことでしょう、学生の身分ながら、ヴェルバ先生のピアノ伴奏で歌えるのです。さらにヴェルバ先生はコンサートのプログラミングの名人です。良く勉強している学生が数人揃うと、気の利いたプログラムを組み立てられ、突然「演奏会をしよう!」と数日後には学内のホールで演奏会となります。ヴェルバ先生のピアノに導かれて歌うのですが、まさに名運転手の車の助手席に座っているような安心感に満たされます。学内のこのような演奏会でもウィーンの新聞に載り、お褒めの批評をいただいたこともありました。

ウィーンから帰国して半年後の1972年に、武蔵野音楽大学が、「公開レッスンと3回のリサイタルのピアノ伴奏」という契約条件で、ヴェルバ先生を短期間招聘しました。その企画のなかに私の帰国リサイタルを組み入れてくださったのです。ヴェルバ先生のピアノに伴われての「帰国リサイタル」という夢のようなことが叶えられた喜びを、畏れとともに今でも忘れずに感謝しています。

帰国後も1年置き程度に、春休みや夏休みを利用してウィーンを訪れ、レッスンしていただきました。最後にお会いしたのは1991年夏。奥様を亡くされた後、体調を崩され、「リハビリを真面目にしなきゃダメ!」と、看護婦さんに叱られて、悲しそうなお顔のヴェルバ先生。それから約半年後の1992年4月9日、奇しくも私の50歳の誕生日という節目の年に72歳で天へ召されました。

ヴェルバ先生へと導いてくださった神さまのおはからいに感謝いたします。(続く)

(むさしのだより2007年3月号より)

「ウィーンの思い出(6)恩師に感謝して」 野口玲子

ウィーンの思い出(5)~恩師に感謝して

音楽大学・エーリック・ヴェルバ先生(1)

野口玲子

 

ウィーンに着いて半年が経ち、1968年10月から音楽学校の生活が始まりました。

入学当時は、国立の音楽学校(美術も)はアカデミーという専門学校でしたが、在学中の1970年にオーストリアではHochschule=単科大学となり、その後Universitaet=総合大学となり現在に至っています。アカデミーの時には、音楽を学ぶための独自のシステムをとることができましたが、格上げされてUni.となってからは一般の総合大学に倣うこととなるため、休暇の期間が大幅に増えてしまいました。大学生にとって休暇は、図書館に通ったり外国で調べ物をしたりと、各自が自由に研究するために必要な期間ですが、音楽学生には、学校が休みとなってレッスンが抜けてしまうことは大きなダメージとなるのです。

私の留学期間中は幸いにもHochschuleになっても変わらず、休みはクリスマスから新年にかけての10日間と、2期制のため冬学期と夏学期の切り替えの2月に、5日間の他にはイースター、ペンテコステなどの月曜日、火曜日が連休になるくらいでした(現在はイースターが済んでからのんびりと夏学期が始まるようです)。このように、10月から6月まで全く気の抜けない、緊張の連続の勉強の日々が続いたのでした。

ヨーロッパの殆どの音楽大学と同様にウィーンでも、声楽科は、Gesangという発声に重点を置いた科、オペラ科、リート・オラトリオ科と分かれており、入学希望者は入学願書に各科別に希望する教授名を記入し、それぞれの試験に臨みますが、試験の前にまず希望する教授を訪ね、声を聴いていただき、入学の可能性があるかどうかの判断を仰ぐことが通例になっています。そしてもしその教授担当の学生数の枠が一杯であれば、優秀であっても不可能となり、どうしてもその教授につきたいときには空きができるまで待たなければなりません。また気に入ってもらえなければ、試験の前に断られ、他の教授を探さねばなりません。教授からOKをいただいた上で入学試験を受け、試験官の教授陣から合格点をつけられて、はじめて入学が許可されるのです。

私は、Gesang科としてはグロスマン先生の下でプライヴェート・レッスンを受けていますので、アカデミーではリート・オラトリオ科のDr. エーリック・ヴェルバ教授クラスに入りたいと願っていました。ヴェルバ先生は世界に名だたるリート解釈者、ピアノ伴奏者として優れた歌手達と共演され、指導者としても尊敬されるすばらしい芸術家です。

私は3月にウィーンへまいりましたので、7月にはヴェルバ先生が講師を務められる、ザルツブルクの「モーツァルテウム」という国立音楽アカデミーで行われる夏期講習へ向かいました。選別試験に合格した20数人の受講生のうち日本人は私一人。7月半ばから3週間、毎日公開レッスン形式で行われました。ヴェルバ先生のレッスンを受けるために、若い歌手やピアニストの卵達が世界中からやって来てひしめき合う中、ヴェルバ先生に何と言われるか、ドキドキしながら皆の前で歌ったり弾いたり・・・そして他の人のレッスンを聴いて学ぶのです(勿論言葉はドイツ語のみ、通訳なし)。ヴェルバ先生が説明される独特のユーモアに溢れたウィーン訛りのお話や、ピアノから醸し出される音を通して、詩の抑揚やニュアンスを音楽に溶け込ませることの見事な才能に圧倒され、リートを歌う際のドイツ語の表現の難しさ、奥の深さを痛感しつつも、これからの課題にワクワクする感動を覚えました。

ヴェルバ先生から「必ず採りますよ」といわれ、ウィーンに帰って入学試験に無事合格。正式な私費留学生として認められました。

このように順調に事が運んで行く幸せは、真に神さまのみ恵みに満ちたお導きの賜物と心から感謝いたします。(この項続く)

(むさしのだより2006年12月号より)

「市ケ谷・スオミ・むさしの教会合同修養会報告」 NOBU市吉

市ケ谷・スオミ・むさしの教会 合同修養会 開かれる

11月23日(木・勤労感謝の日)にむさしの教会で、『キリスト者のよろこびとは ~ 「信徒宣言21」を学び、教会とは、信徒とは を考える~』というテーマで、市ヶ谷教会・スオミ教会・むさしの教会の合同修養会が催されました。

主題講演は、今年5月の全国総会で採択された「信徒宣言21」(るうてる7月号掲載)の起草委員会委員長を務められた斉藤齋藤末理子姉(岐阜教会)をお招きして、《教職(牧師)・信徒が共に神の民(LAOS)として、神の恵みによって救われ、被造物としてこの世に遣わされて証しと奉仕に生きる》という宣言の意義・内容を解説して頂きました。情熱豊かで、滑舌良いお話に一堂グングン引き込まれ聞き入り、75分の講演が長く感じられませんでした(ぴったり予定時刻に終えられたのに感心)。午後は、むさしのゴスペルクワイアの立山守生兄の指導(ピアノ:大濱英子姉)で有名なAmazing Graceを歌って盛り上がり、グループ討議、まとめ報告・交流で一日を終えました。

スオミ教会のヘイッキネン牧師が開会礼拝の奨励、市ヶ谷教会の斉藤忠硯牧師が共同体の意義についての講演、むさしの教会の大柴牧師が閉会礼拝の奨励、市ヶ谷教会役員の草替広巳兄が司会で皆をリードと、3教会がスムーズに協力・連携していました。2年前の市ヶ谷・むさしの合同修養会から始まった合同修養会も、回を重ねて定着してきた感があります。準備に携わられた原兄、大森姉他の方々、お疲れさまでした。今後、信徒間・グループ間の交流の頻度を高め、新しい取組みが自然に生まれてくると良いですね。(市吉記)

(むさしのだより2006年12月号より)