【 Live配信 】2022年9月25日(日)10:30  聖霊降臨後第16主日礼拝 「どちらを望む? 」 浅野 直樹牧師



 

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【 説教・音声版 】2022年9月25日(日)10:30  聖霊降臨後第16主日礼拝 「どちらを望む? 」 浅野 直樹牧師



聖書箇所:ルカによる福音書16章19~31節

本日の福音書の日課も、大変有名な「金持ちとラザロ」という譬え話になりますが、その譬え話に入る前に、これまでの流れ・経緯を少しおさらいしておきたいと思っています。なぜなら、今日の譬え話も、そんな一連の流れの中で語られたものだからです。

まず、この一連の流れは、15章1節からはじまりました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。この様子を見ていたファリサイ派や律法学者たちは、面白くなかったのでしょう。こう不平を言う訳です。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。「この人」とは、もちろんイエスさまのことです。イエスさまが、いわゆる「罪人」たちを仲間として迎え入れていたことが我慢ならなかった訳です。そこで、あの有名な三つの譬え話が語られました。「『見失った羊』のたとえ」、「『無くした銀貨』のたとえ」、そして「『放蕩息子』のたとえ」です。どれもが、罪人たちを迎え入れようとされる神さまの御心を語るものでした。

そして、先週の日課です。この箇所では、話の対象が弟子たちにまで広げられたものでした。16章1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」。そこで、光の子である弟子たちにも、この世の子らに負けず劣らずの「抜け目のない」賢さを求められ、この世の富で友を得るようにと語られたのでした。そして、こうも語られた。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。

この一連の話を聞いていたファリサイ派の人々がこのように反応したと16章14節には記されています。「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」と。それが、今日の譬え話が語られるきっかけとなった訳です。

先ほども言いましたように、これらの話の対象が、ファリサイ派・律法学者、弟子たち、そしてファリサイ派と移っていったように思われますが、どの話もこれらファリサイ派の人たちは聞いていたことになります。そして、こと先ほどの「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」の話に及んだ時、「何を馬鹿馬鹿しいことを…」とイエスさまをあざ笑ったのです。なぜなら、彼らは「金に執着」していたからだ、と聖書は語っていきます。ですので、今日のこの譬え話に登場してくる「金持ち」は、そんなファリサイ派の人々がモデルになっていることは間違いないでしょう。

ところで、今日のこの譬え話でイエスさまはこう言われました。「アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」。つまり、「モーセと預言者に耳を傾け」ることで十分だ、と言うことでしょう。いわゆる、私たちの言うところの旧約聖書です。この旧約聖書に触れながら何も起きなければ、どんなことをしたって信じないだろう、ということです。たとえ、死者の復活という途方もない奇跡を体験したとしても。なぜか。私たちの信仰とは、あくまでも神さまの言葉に基づくものだからです。

よく誤解されやすいことですが、新約聖書を持っている以上、もはや旧約聖書など必要ない、といった意見が一方ではあります。あるいは、イエスさまは旧約聖書を、律法を廃棄されたのだ、と。しかし、この譬え話からも、それらの間違いは明らかでしょう。16章17節では、もっと直截的に語られています。「しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」と。そうです。イエスさまは、「モーセと預言者」、旧約聖書を非常に大切にされているのです。ここが、ポイントです。なのになぜ、同じように旧約聖書を大切にしているはずのファリサイ派、律法学者たちとこうも違うのか、ということです。彼らは聖書から、律法を守らない徴税人や罪人らは救われない、という。イエスさまは同じ聖書から、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と語られる。同じ聖書であるはずなのに、どうしてこんなにも違うのか、ということが、私たちも考えなければならない重要な点だと思うのです。

先ほどは、イエスさまが語られた「神と富とに仕えることはできない」との言葉にあざ笑ったのは、彼らが「金に執着」していたからだ、と言いました。しかし、どうも、この「金に執着」するという言葉の印象が、私たちのとは違うようなのです。果たして、この譬え話に出てきます「金持ち」は、私たちのいうところの「金に執着」しているような印象があるでしょうか。私たちは、この「金に執着」していると聞くと、なんだか不正の匂いを感じ取る訳ですが、この「金持ち」にはなんら不正はないのです。誰かから騙し取ったり、このラザロのような貧しき者から搾取したり、権力を傘にして私服を肥やしていたり、といったことがまるでない。
ただ、「金持ち」だった、というだけです。ですから、この「金持ち」が死後陰府で苦しんでいる理由を聞いて、私たちも困惑するのではないでしょうか。25節「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。

ラザロの魂が死後天使によって天国に運ばれ、金持ちの魂が悪魔によって地獄に連れて行かれ、拷問される様子を示す11世紀の絵画。 https://ja.wikipedia.org/wiki/金持ちとラザロ



先ほども言いましたように、「金に執着」する悪事という理由があれば、彼が陰府・死者の国で苦しむのも、ある意味理解できます。しかし、単に金持ちであったという理由で、何不自由なく快適に暮らして来たという理由で、死後苦しまなければならないなど、納得できるでしょうか。ですから、この「金持ち」に何らかの落ち度を見つけようとさえする訳です。このラザロを無視して、助けなかったことが、死後の苦しみの原因になったのではないか、と。しかし、聖書はそうは語らない。むしろ、この「金持ち」はラザロの存在を知っていた。ある方は、この「ラザロ」を自分の家の門前にいることを許していただけでも大したものではないか、と言われます。

もし、あなたの家の前に、同様の全身おできだらけの貧しい身なりをした男がいたとしたら、同じようにできたか、と。また、ある方は、ある程度の援助はしたのではないか、と言われる。「ラザロ」という名前を知っていたということは、何らかの関係性があったからではないか、と。そうかも知れません。しかし、聖書は、そういったことには関心がないのです。苦しみの理由探しをしたい訳ではない。そういったある種の天国と地獄の分かれ道といったことが、この箇所の目的ではない、ということは、押さえておく必要があるように思います。

なぜファリサイ派の人々は、イエスさまをあざ笑ったのか。イエスさまが語られた「神と富とに仕えることはできない」がナンセンスに思えたからです。なぜなら、富とは神さまがもたらされるものだ、と信じていたからです。両者は切り離せないと考えていたからです。むしろ、富とは神さまの恵み、祝福の象徴だった。だから、信仰心とも深く結び付けられていた。神さまに従う者が富み、神さまに従わない者は貧しくされるのだ、と。これも、聖書からです。確かに、聖書には、そういった事柄も書いてある。ですから、彼らの金の執着心とは、彼らなりの信仰理解とも深く結びついていた訳です。富が与えられているということは、神さまに認めていただいている証拠なのだ、と。

ですから、彼らの理解からしたら、このイエスさまの譬え話は、全くあり得ないことです。神さまに祝福されているはずの金持ちが、陰府で苦しむことになり、神さまから見捨てられているような貧しきラザロが、アブラハムの懐に抱かれるなど、あってはならないことなのです。
繰り返します。これは、同じ聖書から来ているのです。同じ聖書から、一方は、神さまに従い、一所懸命に生きてきた正しい人こそが、救われるのだ。神さまは、そんな正しい人たちを、この地上の生活においても報いておられ、そんな祝福の象徴である富める者こそが、天の宴会に連なることが許されているのだ、と信じている。一方、同じ聖書から、神さまは罪人の一人でさえも救いたいと欲しておられるのだ。そのためには、なりふり構わず、その罪人を探そうとされているのだ。たとえ、この世では不遇な・不幸な生涯を送ろうとも、それは滅びに定められているからではなくて、むしろ救いに与らせようとされておられるのだ。あなたも、その一人なのだ、とイエスさまは語られる。

同じ聖書です。なのに、どうしてこれほどまで違いが出てしまうのだろうか。しかも、同じ聖書を尊んでいるはずなのに、どうして彼らファリサイ派、律法学者たちは、イエスさまの理解を受け入れようとせずに、むしろ否定し、殺してしまおうとするのか。これは、2000年前のイエスさまとユダヤ人との間のことだけではないように思うのです。現代においても、大きな問いになるのではないでしょうか。

イエスさまは、御言葉だけで十分だ、と言われます。たとえ、途方もない奇跡を体験しようと、御言葉に取って代わるようなことはないでしょう。ここに、私たちの信仰の基本的な立ち位置がある。では、御言葉を尊ぶとはどういうことなのか。まずは、御言葉は多様な解釈が可能だ、ということを謙虚に受け止める必要があるでしょう。私たちの理解だけが絶対であり、その他は間違っている、というのは、先ほど来言っていますように、あのファリサイ派の人たちの間違いを繰り返さないとも言えないからです。

では、自分達の思うままに自由に理解すれば良いのか。それも違う。私たちは自分を信じるのではないからです。私たちは、イエスさまを信じる。イエス・キリストを信じる。ですから、イエスさまから聞くこと抜きに、私たちの信仰はあり得ないのだ、ということも覚えていきたいと思います。

2022年9月25日 9時30分 「子どもと家族の礼拝 」 お話「ソロモンの失敗 」浅野直樹 牧師



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【週報:司式部分】2022年9月25日(日)10:30 聖霊降臨後第16主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 キリスト者よ 神をほめまつれ K. Kohler

初めの歌 教会162番(1節と7節) すぎにし代々にも

1.過ぎにし代々(よよ)にも 神はたすけ
ときわのかくれが かたき望み。
7.過ぎにし代々にも 神はたすけ
やすきをあたうる 永遠(とわ)のすみか。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
憐れみ深い神様。あなたは悩めるこの世を憐れんでくださいます。
私たちを恵みで養い、あなただけが持っている宝物を与えてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 アモス書 6:1,4-7(旧約 1436 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙I 6:6-19( 新約 389 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 16:19-31( 新約 141 頁 )

みことばの歌 教会295番(1節) ひかりにそむき
1.ひかりにそむき 閉(と)ざす門(かど)を
おとずれたもう 客人(まれびと)あり。
神のしもべの 名にそむきて などむかえざる 神のみ子を。
アーメン

説 教 「 どちらを望む? 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会399番(1節)  わがかみわが主よ

1.わが神わが主よ 恵(めぐ)みをそそぎて
われらの叫(さけ)びに とくこたえたまえ。
主を仰(あお)ぐわれに 愛をましたまえ。アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会404番(1節) わが手をかたく

1.わが手をかたく 捕(とら)えて 導きたまえ わが主よ、
ひと足ごとに ふみしめ 歩ませたまえ み国へ。  アーメン

後  奏 汝の道を示したまえ G.Gothe

【 Live配信 】2022年9月18日(日)10:30  聖霊降臨後第15主日礼拝 「二兎は追えない」 浅野 直樹牧師



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2022年9月18日 9時30分 「子どもと家族の礼拝 」 お話「神殿を建てたソロモン 」浅野直樹 牧師



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【説教】2022年9月18日 聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「二兎は追えない」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書16章1~13節



今朝の福音書の日課は、率直に言いまして、なかなか理解が難しい箇所だと思います。私自身、ずっと悩んできました。ある専門家は今日のところを、四福音書中最も難解な箇所だ、と言っていますので、それも無理からぬことなのかもしれません。では、なぜそんなに難しいのか。実は、ここに出てきます譬え話自体は、決して難しいものではありません。むしろ、滑稽とも言える内容で、楽しく読めてしまうのかもしれない。

しかし、その流れが理解しづらい。どうして、そのような展開になるのか。特に、この箇所の結論とも言うべき13節の言葉「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」、この「神と富とに仕えることはできない」との言葉とどう結びついていくのか、ということが分からなくなってしまうのではないか、そう思うのです。

先ほども言いましたように、この譬え話も単独ではよく分かるし、小さなことに忠実でなければ大きなことにも忠実にはなれない、ということも良く分かる。最後の結論だって、実行性という意味では難しさも感じますが、言わんとすることは分からなくもない。ですから、これらは分けて考えるべきではないか、とも言われたりします。確かに、そうすれば少しはスッキリするのかもしれませんが、しかし、それだけがこの難しさの原因でしょうか。つまり、非常識…、私たちの「道理」「当たり前」には合わない、ことから生じる難しさ、です。イエスさまが、こんな「不正な管理人」を褒め、むしろ、見習うべきだ、などと果たして本当に話されるだろうか、ということです。

考えてみれば、先週の日課である「『見失った羊』のたとえ」話しもそうでした。迷子になった、見失われたたった一匹の羊を探し出すために、他の99匹に不利益が及んでも良いのだろうか。普通に考えれば、この譬え話の方が非常識なのかもしれない。しかし、ここが重要なのです。聖書が語る神さまの常識と私たちの常識とは、必ずしも一致しないからです。先週の日課に登場してきたファリサイ派や律法学者たちは、当時においては、最も常識人だったと言えるでしょう。彼らは律法を守る正しい人こそが救いに与るのだ、と考えていたからです。これ自体、別に変な考えではないでしょう。

『不正な管理人のたとえ』(1542),マリヌス・ファン・レイメルスワーレ (1490–1546)



むしろ、今日においても通じる常識なのかもしれない。しかし、イエスさまはそんな常識にメスを入れられたのです。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」、そう言われたのです。

今日の箇所では、話の対象が弟子たちにまで広げられていたことが分かります。

1節「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」。そして、あの「不正な管理人」の譬え話が語られました。ここでは、ひょっとして、弟子たちの常識にもメスを入れようとされたのかもしれません。
実は、この箇所は、譬え話本体とその解釈とが、一体どこからどこまでなのかがはっきりとしないようなのです。そこで、大きく二つの説に分かれるようです。

一つは、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」を結論として、終末(世の終わり)が差し迫っている中、弟子である光の子らもこの世の子らのように機敏に対処する賢さを身につけるべき、と教えているのだ。もう一つは、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」を結論として、「不正にまみれた富」̶̶ この言い方を聞くと、 なんだかギョッとしてしまいますが(これが理解を難しくする一つの要因になっている)、これは、単に「この世の富」を言い表す表現方法に過ぎない、と言われています̶̶  を用いてでも、友達を作って自分を迎え入れてくれる場所を確保することが大切だ、ということを教えているのだ、と言います。

先ほどは、今日の箇所は弟子たちの常識にもチャレンジするものではなかったか、と言いました。確かに、彼ら弟子たちもイエスさまと一緒に、徴税人や罪人たちと一緒に食事の席にはついていたでしょう。しかし、果たして彼らはイエスさまと同様にこの罪人たちらを心から仲間として迎え入れていたのだろうか。ファリサイ派たちとはまた違った特権意識を持って、どこか彼らを見下すようなことはなかっただろうか。そんな弟子たちの様子も見ながら、イエスさまはこの話をされたのではなかったか、そう思うのです。なぜなら、この不正な管理人と彼ら徴税人・罪人たちとが重なるからです。彼らは確かに、正しい人たちとは言えないでしょう。厳しい言い方になりますが、罪人と言われても仕方がない人たちです。しかし、彼らはなりふり構わずに救いを求めたのです。イエスさまが褒められたのは、この「不正な管理人」の抜け目ないやり方、その賢さです。

自分が助かるためには、救われるためには、なんだって利用する、なんだってやってやる、たとえ悪の上塗りとなろうとも。そんな真剣さ。そんなひたむきさ。しかし、光の子である弟子たちは、特権に甘えて、真剣さを忘れて、当たり障りのない良い子になり果てていたのかも知れない。自分もまた羊飼いに必死に探し出された一匹の羊であることに思いが至らなくなっていたのかも知れない。他人事として救いに対する貪欲さを失っていたのかも知れない。それは、果たして、恵みを受けた者の賢さ、と言えるのだろうか、と問われるのです。

あるいは、この世の富の使い方です。ある方は、ここで出てくる友達とは神さまのことだ、と言われます。神さまを友とするために、この世の富を用いるのだ。つまり、神さまが望まれるような富の使い方をするのだ、と言われる。確かに、その通りだと思います。しかし、単純に友を得るためにこの世の富を用いる、と考えても良いのではないか、とも思う。そうです。私たちには友を得る必要がある。特権的になるということは、部外者を入れたがらなくなる、ということです。現に、弟子たちは、自分達の仲間に加わろうとしない者たちを拒絶しようとした、と聖書には記されています。イエスさまは、そのことを戒められました。なりふり構わないほどに、救いに関して真剣なのか。特権的なものに甘んじてはいないだろうか。友を得るために、富を用いることをはじめとして、あらゆる手を用いているだろうか。現代の光の子である私たちにも、問われていることでしょう。

そして、こうも語られている。「あなたがたは、神と富とに仕えることができない」と。それは、両立しない、と言われるのです。どちらかを重んじ、どちらかを軽んじることになる、と。それは、両者が相入れないからです。後者、富は、人の欲望をひたすら助長する世界。神さまの世界とは、それとは全く異なる世界だからです。

今日の旧約聖書の日課は、まさにそんなマモン(富)の影響力・力を物語るものでした。なかなか開きにくい、普段読み慣れない12小預言書の一つ、アモス書です。ここに出てきます商人は、安息日すら待てない、という。もう商売がしたくてしたくて仕方がないのです。一日休めば大損だ、とばかりに。そんな稼ぎたい一心の商人は、段々と不正にも手を染めていくようになります。最初は、升や分銅を誤魔化すところから始まり、段々とやってはいけない商売・悪事にまで手を伸ばすようになる。今でも時々、マスコミ等で騒がれているものです。それが、マモン・富の力、影響力。

今年は、今のところ非常に少ないですが、それでも何件かのご葬儀がありました。その一つが、義理の父のものでした。つまり、妻の父です。父は長年、教会の長老を務めていきました。また、ギデオン協会の働きにも長年携わってきました。書道家でもありました。そんな父ですので、もっと多くの人々に知らせた方が良いのではないか、と内心思いましたが、コロナ禍ということもあり、家族葬ということで、急遽十数名の教会の方々が集ってくださいましたが、非常に小さなご葬儀となりました。そんな父の棺の中には、何も入ってはいませんでした。いいえ、たとえ、生前の父の功績を讃える数多くのものが棺の中に納められたとしても、それらは父の身体と同じように、灰に帰するだけでしょう。父は私たちに多くのものを残してくれましたが、それらは持っていけるものではないからです。

は、この世的に言えば、決して恵まれた方ではないのかも知れません。苦労も多かったと思います。小さな都営住宅に住んでいました。わずかな年金で慎ましい生活をしていました。しかし、ご葬儀の後、次から次へと今までの感謝の声が寄せられたそうです。教会でお世話になった人々。ギデオンで一緒に活躍した人々。書道教室の教え子たち…。確かに、金銭的には恵まれなかったかも知れませんが、私たちは、父が神さまに従い続けてきたことを知っています。そして、多くの恵みを頂いてきたことを。多くの人々に何かを刻んできたことを。そして、天の父なる神さまに安心してお任せすることができることを、私たちは知っている。

ヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と言いました。その通りです。私たちは、何一つ持っていくことはできないのです。裸で、全てのものを手放して、帰るしかない。もちろん、損得勘定ではありませんが、しかし、どちらが本当に私たちにとって得になるのでしょうか。神さまでしょうか。それとも、マモン・富でしょうか。

何度もお話ししていることですが、富自体が悪のではありません。そうではなくて、神さまと富とを同列には置けない、ということです。同じように、仕えることはできない、ということです。なぜなら、私たちは必ず、どちらかを軽んじてしまうことになるからです。そして、もし富の方を重んじるならば、その欲望は際限なく私たちを飲み込み、取り返しのつかないことにもなりかねないからです。だから、神さまに仕える。神さまに仕えながら、与えられた富の使い方を考える。

この世の子らのように、むしろ賢く用いることさえも必要なのかも知れない。また、友を得るために用いることも。いずれにしても、まず神さまを見上げていれば、間違うことはないでしょう。いいえ、たとえ間違ってしまったとしても、正してくださるに違いない。それが、最終的には、私たちに途方もない富̶̶単に金銀ではなく̶̶をもたらしてくれるのではないか、と思うのです。

【週報:司式部分】2022年9月18日(日)10:30 聖霊降臨後第15主日礼拝



 

司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子

開会の部
前  奏 教会170番に基づく前奏曲 H.ペーター

初めの歌 教会170番(1節) 主をあがめたたえよ

1.主をあがめたたえよ もろもろの国よ
神をほめたたえよ もろもろの民よ
み神はわれらを あわれみ選びて
神の子としたもぅ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

私たちの間におられる神様、私たちは互いに愛し合うように、
御名のもとに集います。悪の道から遠ざけ、私たちの思いをあなたの知恵に向け、
御子の輝く恵みに心を向けることができますように。。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 アモス書 8:4-7(旧約 1439 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙I 2:1-7( 新約 385 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 16:1-13( 新約 140 頁 )

みことばの歌 教会318番(1節)  いわなるイエスよ

1.いわなるイェスよ 守りたまえや。
脇(わき)よりながる とうとき血にて
わが罪とがを 洗(あら)いきよめよ アーメン

説 教 「 二兎は追えない 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会349番(1節)  主につかえまつらん

1.主に仕えまつらん、 わが主よ、 わが主よ。
主に仕えまつらん、 わが主よ。
心をつくして 主に仕えまつらん、 わが主よ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会403番(1節) わがたまなやみて

1.わが霊(たま)なやみて くるしむときにも
主よ ともにまして みちびきたまえや。 アーメン

後  奏 教会403番に基づく後奏曲 高浪 晋一

【週報:司式部分】2022年9月11日(日)10:30 聖霊降臨後第14主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  小山 泉

開会の部
前  奏 カンツォーナ ト長調 H.ハスラー

初めの歌 教会178番(1節) 地にすむたみらよ

1.地に住む民らよ 喜びてうたえ
みまえにつどいて かしこみ仕えよ。 アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
慈しみと憐れみに溢れる神様、あなたは迷う者を連れ戻してくださいます。
あなたに背くすべてを退け、命をはぐくむすべてに従うことができるように、
あなたの民を愛のうちに守ってください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 出エジプト記 32:7-14(旧約 147 頁 )
第2の朗読 テモテへの手紙I 1:12-17( 新約 384 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 15:1-10( 新約 138  頁 )

みことばの歌 教会293番(1節) つみあるものをも

1.罪あるものをも 愛する神は
ほろびを好(この)まず 救いをたもう。
心にいたみを 覚(おぼ)ゆる時にも
み言葉かしこみ み神にたよらん。

説 教 「 あなたは捜されている 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会320番(1節)しあわせなことよ

1.しあわせなことよ キリストの血にて
罪をあがなわれ 救われた者は。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会363番(1節)まことのみ神よ

1.まことのみ神よ われらの重荷を
とり去りたまいて、 わざわい苦しみ
寄(よ)せ来(く)るおりにも み助けをたまえ。 アーメン

後  奏 教会讃美歌363番による後奏曲 J.S.バッハ

【 Live配信 】2022年9月11日(日)10:30  聖霊降臨後第14主日礼拝 「 あなたは捜されている 」 浅野 直樹牧師



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2022年9月11日 9時30分 「子どもと家族の礼拝 」 お話「 知恵を求めたソロモン 」三浦慎里子 神学生

 



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【説教・音声版】2022年9月11日 聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「あなたは捜されている」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書15章1~10節



今日の福音書の日課は、有名な二つの譬え話が取り上げられていました。

確かに、どちらも素晴らしい内容です。失われた者を、神さまが必死に捜し出してくださることを物語っているのですから。しかし、ある方々は、少し戸惑ってしまわれるかもしれません。確かに、見失った、迷子になった、命の危険に晒されているたった一匹の羊を必死に捜し出してくださることは素晴らしいことだが、では、そのために残された99匹はどうなるのだろうか、と。
この99匹の羊たちは、たった一匹を救うために、危険な野原に置き去りにされてしまう、ということなのだろうか。99匹よりも1匹の方が大切だ、ということなのだろうか。どうやら、私は、この捜し出された1匹の方には思えない。だとしたら、私はそれほど悪いことをしていないのに、道を踏み外してはいないのに、むしろ真面目に生きてきたつもりなのに、見捨てられてしまう、ということなのだろうか。そう感じることは、何も不思議なことではないでしょう。ですから、ある方は、この羊飼いの行動は常軌を逸している、とも言っています。

確かに、世の中全てが、こういった理解で進められていけば、かえって社会は混乱してしまうでしょう。ですから、これはあくまでも「譬え話」なのです。ある事柄を伝えたいがための、「譬え」を用いた話に過ぎない、ということです。では、この「譬え話」で伝えたかったことは何か。たった一人でも、悔い改める人がいるならば、神さまはそのことを大いに喜ばれるのだ、ということです。非常識なほどに、このたった一人でも、ということを言いたいがために、99匹の羊があり、9枚の銀貨がある訳です。

今日の箇所だけではありませんが、聖書のある箇所を理解するためには、その前提となっている事柄、背景を知ることが非常に大切になってきます。今日の日課では、1節以下でこのように記されています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」。

聖書の中では度々出てくる図式ですが、偏見や差別を厳しく戒められている私たちとしては、肌感覚としては分かりにくいところがあるようにも思います。なぜ、徴税人や罪人と言われる人たちが、これほどまで目の敵にされているのか、よく分からない。確かに、そうです。しかし、現代でも、形は変わっても、ヘイトスピーチをはじめとする自分達の正義感、道徳感、価値観、世界観などで憎悪・分断が起こっていることも、私たちはよく知っています。私たち自身、なおも無縁ではいられないことを戒めていかなければいけない。
そういう見方もできると思います。しかし、今日の箇所が言いたいことは、そうではないのです。ファリサイ派、律法学者たちに、偏見・差別をやめなさい。互いの違いを取り去って和合し、共生していきなさい、ということではないのです。もちろん、それらも大切なことに違いないが、そうではない。なぜなら、一人の罪人が悔い改めることの喜び、だからです。彼らファリサイ派・律法学者たちの認識を正し、徴税人や罪人と言われる人たちは、実は罪人なんかじゃない、と言いたいのではない。そうではなくて、彼らは確かに罪人なのです。少なくとも、神さまの目にはそう写っている。しかし、そんな罪人一人を、神さまは、イエスさまは必死に捜し出されるのだ、険しい崖を駆け降りて、道なき道を歩き続けて、ついに失われた羊、罪人を見つけ出して、家に連れ帰るのだ、と言われる。それが、大いなる喜びなのだ、と言われるのです。

聖書が、福音が強調することは、罪が赦される、ということです。罪などない、と罪を誤魔化したり、みんながやっていることだから大したことではない、と軽く見積もることでもない。罪を罪として、正面から向き合うこと。そして、その上で、恵みの神さまは、そんな私たちの罪をことごとく赦してくださっているのだ、イエスさまがあの十字架で罪を贖ってくださったのだ、と信じること。それが、福音です。

教会・キリスト教は、そんなふうに、罪、罪、罪と内省が過ぎるのではないか。あまりにも自己卑下的なのではないか。潔癖過ぎるのではないか。だから、この現代日本社会になかなか浸透していかないのではないか。そういったご意見もあるのかもしれません。確かに、教会は間違った罪の意識を植え付けてしまった面も否めないと思います。結果、ある人々を追い込んでしまうことになったかもしれない。反省すべき点はあると思いますが、しかし、だからといって、この罪の問題を無視・軽視することとは別のことだと思うのです。

「羊の群れのいる風景」:1840年 ヨハン・ヴィルヘルム・シルマー



今日の使徒書の日課である『テモテへの手紙』はパウロの作だと考えられて来ました。このパウロ、実にユニークな人だと思います。なぜなら、今日の箇所の悔い改める必要のない99匹側の人間だと思っていたファリサイ派と、自分はイエスさまによって捜し出された一匹の羊なのだ、と受け止めた罪人の側と、この両方を経験したからです。彼は、かつての、つまり熱心なファリサイ派だった頃のことを、このように語っています。1章13節「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。…わたしは、その罪人の中で最たる者です」。

そうです。彼は知らなかったのです。むしろ、それが正しいことであるとさえ思っていた。これが熱心に神さまに仕えることになるのだ、と。それが、間違いであったことに、罪であったことに気づけたのはいつか。イエスさまと出会った時です。この出会いによって、今までとは全く別の次元で物事を見ることができるようになったからです。

変な例えかもしれませんが、私たちは先の戦争をどのように評価するでしょうか。先の悲惨な戦争へと突き進んだ軍部を、政治を、民衆を、どう評価するのか。おそらく、明らかに間違っていた、と思うでしょう。しかし、それは、戦争に敗れ、新たな価値観や世界観を手に入れた私たちだからこそ、見える景色なのです。ですので、私たちは、歴史を検証し、批判することは大切なことだと思いますが、それと軽々に個人を断罪することとは分けて考える必要があると思います。

実際に、私たち自身も、どっぷりとその時代に浸かって生きていたら、どのような選択をするか分からないからです。もちろん、別の選択をした可能性も否定できませんが、そうではなく、積極的に戦争に向かう選択をしたかもしれない…。それは、今のロシア国内にも言えることなのかもしれません。そういう意味でも、知らないこと、気づけないことは、恐ろしいことです。

そうです。知らないのです。知らなかったのです。それが、過ちであるということが。間違いであるということが。罪であるということが。では、知らなければ罪を犯しても良いのか。そうではない。例え知らないで犯したとしても、それは罪です。罪という自覚がないとしても、罪なのです。それを、パウロは、イエスさまとの出会いによって知った。いいえ、ただ知らないで犯していた罪の自覚を得ただけでなく、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」ことを知ったのです。

そして、そんなイエスさまに赦された罪人の、自分は最たる者だということを知った。だから、続けて彼はこう語っていきます。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」。これがパウロの福音宣教の原動力になったことは、明らかでしょう。
罪の自覚が目的なのではありません。しかし、同時に、罪を無視することとも違うのです。罪人を救う方と出会うためです。この私を、必死に捜し出してくださる方と出会うためです。

今日私は、改めて自戒の念を込めて1節の言葉を聞いています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」。もしイエスさまが、単にファリサイ派や律法学者たちのように、正しさを、罪の問題を説くだけの方なら、おそらく彼らはイエスさまに近づいては来なかったでしょう。なぜなら、罪の自覚があればあるほど、神さまに近づけなくなるからです。彼らはおそらく自覚していた。自分たちなど神さまの前に立てるような人間ではないということを。最初に言いましたように、彼らは単に社会の犠牲者ではありませんでした。

実際に罪を犯す臑に傷を持った人たちです。嘘をつき、人から騙し取り、不道徳な生活を送る。分かっている。自分達が神さまから裁かれる人間なんだと。だから、むしろ無視して生きるしかない。現実を楽しむしかない。目先の利益を追い求めるしかない。割り切って、どうせ一度の人生なのだから、と腹を括るしかない。だから、おそらく、彼らは宗教的な儀式にも近づかなかったのかもしれません。近づけなかったのかもしれない。そんな彼らが、イエスさまの話を聞きにやってきたのです。

今日の第一の朗読(旧約の日課)は、詳しくは話しませんが、モーセが必死に執り成しをして、神さまの怒りを鎮めた、といった内容だったと思います。なぜそれが、第一の朗読として読まれたのか。このモーセの出来事とイエスさまとが重なったからでしょう。罪は罪。神さまはその罪を放ってはおけないし、罰しなければならない。しかし、それは本意ではないのです。ですから、モーセが、イエスさまが必死に執り成しをする。罪人が罰せられ滅びないで済む、つまり、救いの道を開かれたのです。それが、イエスの十字架。だからこそ、そんなイエスさまだからこそ、罪人が集まってくるのです。

しかし、果たして、それは、徴税人や罪人だけなんだろうか。そうではないはずです。ファリサイ派の人だって、律法学者だって、自分達は99匹に属すると思っているかもしれませんが、視点を変えれば、全く違った次元、パウロが見た同じ視座に立てば、自分達もまたイエスさまが必死に捜し求めておられる失われた一匹の羊であることに気づくはずなのです。そのためにも、つまり不平を言っていたファリサイ派や律法学者たちのためにも、この譬え話は語られているのではないでしょうか。お前たちもまた、見つけられた一匹の羊ではないか、と。お前たちの一人が悔い改めるならば、天には大きな喜びがあるのだ、と。

日本の教会が、相変わらず敷居が高いと言われることの中に、もしこの一匹の羊、一枚の銀貨といった視点が見失われているとしたら、私たちは大いに反省しなければならないのかもしれません。私も、あなたも、またまだ教会に来られていない方々も、イエスさまが必死に捜し出される一匹の羊、一枚の銀貨なのですから。

【説教・音声版】2022年9月4日 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「厳しさも愛」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章25~33節



本日は、時間の関係でお話しすることができなかった先週の後半部分、ルカ福音書14章12節以下を手短にお話しすることからはじめていきたいと思っています。どうしても、そのままやり過ごすことができなかったからです。もう一度、12節以下をお読み致します。「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる』」。

先週のことを少し思い出してください。この出来事は、安息日に行われた食事会でのことでした。おそらく、シナゴーグで行われた礼拝後のことでしょう。そして、先週の日課を理解するためには、「神の国」との関連性も欠かせないのではないか、と言いました。今日の箇所もそうです。14章15節以下には、「神の国」についての譬え話が記されていますが、神さまが大宴会を催そうとして、本来招くべき人々を招く訳です。おそらくはファリサイ派や律法学者たちを念頭に置いているのでしょう。しかし、招かれた人々は、いろいろと理由をつけては来ようとしません。腹を立てた主人は、僕たちに別の人々を招くようにと言いつけます。それは、21節「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」でした。お分かりのように、先ほどの箇所と全く同じ人々がリストに挙げられている訳です。ですから、先週の日課の後半部分も「神の国」と無縁ではないと言えるでしょう。

以前もお話ししましたように、ユダヤ教の言うところの「安息日」と私たちの礼拝とが、全くイコールということはないと思います。ただし、受け継がれてきたもの、あるいは、関連づけられるものはあるはずです。この時も、礼拝の時ではありません。同じように癒しの業が行われたにしろ、礼拝の場と食事会は別です。しかし、私たちの礼拝は、使徒言行録にも見られるように、この礼拝の後に行われた食事をも、最初っから礼拝との関連の中で、いいえ、礼拝を構成する一つの大切な側面として受け止めてきた訳です。それが、やがて「聖餐式」として整えられるに至った。つまり、ルカ14章12節以下の御言葉も、私たちにとっては、私たちの礼拝と関連づけて考えることも許されるのではないか、と思うのです。つまり、私たちの礼拝の姿です。ここで重要なのが、「お返しができる人と、お返しができない人がいる」ということです。家族、友人知人たちを招くこと自体が悪いことではないでしょう。

しかし、その奥に潜んでいるのが、何らかの「益」となる人選ということならば、それは、本来の目的、礼拝の姿と合致するのか、ということです。逆に言えば、先ほどからリストに挙げられている人々、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」というのは、言葉は悪いですが、「お荷物」ということです。役に立たない、むしろ、迷惑をかけるような人々…。しかし、そういった人々こそが、宴会に、神の国に、礼拝に招かれている、と言われる。いいえ、単に神さまがそう望まれている、そう招かれている、ということだけではなくて、この私たち自身も、そういった人々をこそ招くべきではないか、と言われているように思うのです。具体的に言えば、少しの献金もできない人たち、少しの奉仕もできない人たちです。本来できるのにしない、ということとは別の問題です。そうではなくて、本当にできないのです。何もできない。席に座っていることすら満足にできない。それでも、招かれている。招くことが求められている。

時に、こういう声を聞いたりします。私は何のお役にも立てない、と。もちろん、かつては「できた」ことが「できなくなった」ことの辛さはあるでしょう。しかし、それは、招かれていない、ということではない。むしろ、招かれている。私たちも招かなければならない。それは、今の時代、この同じ場所に集う、ということばかりでもないのかも知れません。IT等を活用することも、具体的な取り組みの一つでしょう。しかし、それ以前に、この私たちの礼拝とは、一体誰のためのものなのか、ということです。教会にとって、私たちにとって、「益」となる人々のためのものなのか。そうではないのか。

繰り返します。出来るのにしない、とは違います。これは、また別の課題です。たとえ取るに足らないことであろうと、出来ることをすることは必要なことです。しかし、たとえ本当に何もできないとしても、神さまは、そして私たちも、喜んで迎えたいと思う。これは、先週の日課から、どうしても伝えたかったことです。
今日の日課に戻ります。今日の箇所は、「弟子の条件」と小見出しが付けられていた非常に厳しい内容の箇所でした。こう言われているからです。26節「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。

何度もお話ししていますように、キリスト者であるということは、「弟子」ということです。つまり、この言葉は、私たち全員がちゃんと聞かなければならない、受け止めなければいけない言葉だ、ということです。ここで「憎む」という表現が出てきますが、これは、ユダヤ的表現の一つで、日本人の私たちからすると、随分と印象が違うものです。つまり、程度の差、優先順位とでも言えるでしょうか。一つのものを愛そうとすれば、もう一つのものは憎まなければならない。別に、本当に憎むのではなくて、愛したものよりも幾分程度が落ちるものとしなければならない、ということです。

ですから、別に、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、あるいは自分の命を、私たちのいうところの「憎む」ということではなくて、それら以上にイエスさまを大切にすべきだ、ということです。しかし、それにしても、やはり厳しい言葉に違いないと思います。私たちはどうしても、家族優先としたい気持ちを自然に持っているからです。そして、そんなイエスさまの言葉を説明するかのように記されている二つの譬え話も、何だか良く分からないところがある。どんな繋がり、関係性があるのかと頭を抱えてしまうところがあるのではないでしょうか。至極簡単に言ってしまえば、「何かを成そうと欲すれば、それなりの熟慮と覚悟、犠牲はつきものだ」ということです。

今日の日課の出だしのところで、こんな言葉がありました。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」と。ある方はここに熱狂があった、と言います。ここにいた人たちは、イエスさまに何らかの期待を抱き、ついてきた。しかし、弟子として生きるということは、それほど簡単なことではない、ということです。現に、あの12弟子でさえも、最後までイエスさまについていくことはできませんでした。この日本でもキリスト教ブームなる一種の熱狂が幾度となくあった訳ですが、その多くが途中で挫折していきました。残念ながら、私たちもそのような人々を少なからず知っている。おそらく、そういった方々は、「こんなはずではなかった」「思っていたのとは違っていた」といった思いを抱かれたに違いない。

だから、イエスさまは、まず腰を据えてよく考えてみなさい、と言われます。そして、それらを手に入れるためには、何事かをなすためには、それなりの覚悟、あるいは支払わなければならないもの・犠牲がある、と言われるのです。譬えにある塔を建てるにも費用が必要です。戦いに負けると分かれば、降伏して、少なからぬ貢物を送らなければならないでしょう。それは、屈辱的でもある。しかし、その判断を誤まれば国を滅ぼしかねない訳です。

先ほどは、この二つの譬え話は分かりにくいのではないか、と言いました。しかし、実際には良く分かる話です。私たちの現実社会の中で、すぐにでも浮かんでくるものでもある。つまり、一般常識でもある訳です。「何かを成そうと欲すれば、それなりの熟慮と覚悟、犠牲はつきものだ」ということが。しかし、どうも私たちは、信仰の事柄になると、そんな一般常識とが重ならなくなってしまうのでしょう。熟慮も、覚悟も、犠牲も、信仰生活には、イエスさまについていく・従っていく道には必要ないのではないか、と。だから、今日の日課のような言葉を聞くと、途端に私たちにとっては難しく感じたり、あり得ない要求を突きつけられているような感覚に陥るのではないか、と思うのです。

そもそも、イエスさまはなぜこんなにも厳しいことを言われるのか。今日の旧約の日課は、祝福か呪かといった二者択一を迫るような言葉でしたが、果たしてここで神さまが言いたかったことは、呪いの方でしょうか、それとも祝福の方でしょうか。もちろん、祝福です。祝福を与えたいが故に、間違った道を歩まないように呪いも語られる。では、イエスさまは私たちに、巷のパワハラ上司たちのように、私たちを困らせようと無理難題を押し付けようとされているのか。決して、そうではないでしょう。厳しいことを語られるにも、そこに意味があるからです。救いの道があるからです。愛があるからです。だから、時に厳しいことも語られる。

イエスさまは、家族よりもイエスさまに従うことを優先するようにと願われる。それは、本当に救いになるのでしょうか。私は、こう思う。果たして、私たちは、一体家族のために何が出来るのだろうか、と。家族が病に罹る。私たちは、何もしてあげられません。ましてや、愛する者が死の床につこうという時、私たちは全くの無力でしかない。しかし、それでも、私たちは祈れるのです。家族を、愛する者たちを、神さまの御手に委ねることができるのです。それは、何と幸いなことだろうか。何と心強いことだろうか。

これらも言葉だけを聞いていれば、今巷でお騒がせの某宗教団体と似ているように聞こえるかも知れませんが、似て非なるもの、いいえ、全く違ったものであることは明らかでしょう。

イエスさまを信じ、信じ続ける道においても、熟慮と覚悟と犠牲が必要なのでしょう。しかし、それは、救いの道なのです。恵みの道なのです。確かに、「こんなはずではなかった」「思っていたのとは違った」といった現実もなくはないでしょうが、それでも、ここにイエスさまの愛の道があるのです。なおも、そう信じる信仰に生きたい、と思います。

【週報:司式部分】2022年9月4日(日)10:30 聖霊降臨後第13主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  苅谷 和子

開会の部
前  奏 われ神より離れじ Ⅾ.ブクステフーデ

初めの歌 教会167( いざやこえあげて )1節

1.いざや声あげて たたえまつれ、
み使いもうたう 主なる神を。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主なる神様。私たちが行うすべてを助け導いてください。
私たちの業がすべて、あなたのうちに始まり、続けられ、終えることができ、
そのすべてにおいて聖なる御名をあがめ、永遠の命に至ることができるようにしてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 申命記30:15-20(旧約 329 頁 )
第2の朗読 フィレモンへの手紙 1:1-21( 新約 399 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 14:25-33( 新約 137 頁 )

みことばの歌 教会 269( 主よ主のみうでの )1節

1.主よ主のみ腕(うで)の ちからを示し
戦うわれらに 助けをたまえ。
夜(よる)ひる戦う いくさの中にも めぐみをたまえ。

説 教 「 厳しさも愛 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会 367( ただ主の十字架の )1節4節

1.ただ主の十字架の 恵みにより
み国をのぞみて みあと進まん。

4.苦しみなやみの 来たるときも
「みむねのままに」と われは祈(いの)る。
アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会 394( 主よおわりまで )1節

1.主よ終わりまで 仕えまつらん
ときわに近く 在(いま)したまえ。
主ともにませば おそれはなく
みちびきあれば さまようまじ。
アーメン

後  奏 いざわが魂よ 主をほめまつれ  A.ギルマン

【 Live配信 】2022年9月4日(日)10:30  聖霊降臨後第13主日礼拝 「 厳しさも愛 」 浅野 直樹牧師



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2022年9月4日 9時30分 「子どもと家族の礼拝 」 お話「 ドルカス 」三浦慎里子 神学生



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【音声版】2022年8月28日 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教「安息日にすべきこと」浅野直樹 牧師



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【説教・音声版】2022年8月28日 聖霊降臨後第12主日礼拝 説教「安息日にすべきこと」浅野直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書14章1、7~14節説教題



ルーテル教会のペリコーぺ、いわゆる教会歴に基づいた聖書日課は、正直、助かる面もありますが̶̶ 別の教派で牧師をしていた頃は、いわゆる連続講解説教…、例えば、牧師がルカ福音書をやろうと決めますと、毎週その続きから説教するといったスタイルですね。

あるいは、牧師が適当な箇所を決めることができた訳です(気持ちを切り替えるというか)̶̶    、こうどうしても、ここからどう話したら良いのだろうか、と思うようなところも、正直ある訳です。今日の箇所も、その一つでしょう。

ここから、何が言えるのだろうか、と戸惑ってしまう。なぜなら、こんな風景を私自身は見たことがないからです。客が促されることなく、自ら上席にひょいひょいと行くような場面に遭遇したことがない。ましてや、ホスト側に注意されて席順を変える場面になど、遭遇したことがない。

実際には、この社会にはこの場面と同じようなことが起こっているのかも知れませんが、少なくとも私自身は見たことがないからです。特に、教会内、キリスト者同士においては。大体、皆さん前に来ません。最も、教会の集会等で上席、末席なるものは存在しないと思いますが、それでも、大体が入り口付近に固まるものです。礼拝もそうです。真ん中から後ろの席が埋まって、前の席がガラッと空いていることは普通のことです。

たまたま遅刻をされて、前の席しか空いていないと、なんともバツが悪い感じで席につかれる。場合によっては、前の席しか空いていないと出て行ってしまわれる方さえもいる。もっとも、私自身も同様の傾向がありますので、気持ちは分かります。本当に良く分かります。しかし、それが謙遜さから出ていることなのか、と言われると、途端に考え込んでしまう。遠慮はあるかも知れないが、果たして謙遜なのだろうか。性格的に目立つ場所が、チヤホヤされるのがあまり心地よくないから、なるべく目立たないようにと、末席を選んでいるに過ぎないのではないか。

ある方は、こうも言います。末席にいながらも、不当な扱いを受ければ腹を立てるのではないか、と。自分を差し置いて、後輩たちにだけ、「さあ、さあ、前に来てください」と言われるのを目の当たりにしたら、気分を害するのではないか。確かに、そうかも知れない。そう考えますと、ますます、この上席に行きたがらないことと、この箇所で語られている「へりくだる」、つまり謙遜さとは随分と開きがあるのではないだろうか、と思えてきます。

そもそもこの箇所は、社会生活を円滑に進めるための、あるいは、自分がちゃんと社会の中で認められる存在となるための、恥をかかない、損をしないための、いわゆる処世術を伝授されているということなのだろうか。イエスさまはそんなことをわざわざ教えておられるということなのだろうか。もちろん、違うでしょう。ただし、私自身は、イエスさまは常に霊的なことを教えておられるのだから、こんな処世術のような浮き世のことなど教えられるはずなどない、といった議論には、賛同できません。イエスさまは、この私たちの社会生活・実生活自体を決して軽視されないでしょう。それは、旧約聖書にも記されていることです。

「大宴会のたとえ」ブランズウィック・モノグラムミスト (1525~1545年)



イエスさまは決して、この世の現実を無視されて、かすみを食べて生きていくようには言われない。むしろ、この社会の現実に生きるための知恵も授けて下さっていると思います。ただし、イエスさまは、そこでも神さまの存在を無視されない。いわゆる霊的な事柄と、この世の事柄とを綺麗に切り離してはおられないのです。どこにでも、神さまのご臨在、神さまのご支配、神さまの御心がある。ですから、今日の箇所も、単なる処世術を言っているのではないはずです。

今日の箇所で、一つのキーとなる言葉が、11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」でしょう。ここについて、度々ご紹介している雨宮神父は、もともともの原語の意味合いを込めて、こういうことではないか、と言っておられます。「自分自身を高くする者は神が低くするだろうし、自分自身を低くする者は神が高くするだろう」と。つまり、これは、神さまのなさる業ということです。

今日のこの箇所を理解するのに助けになるのは、「神の国」という理解ではないでしょうか。なぜなら、今日の箇所で「神の国」を想起させる言葉がいくつも記されているからです。一つは、「安息日」です。今日のこの箇所の場面設定として読みました1節のところで、この食事会が「安息日」に行われていたことが明記されているからです。また、イエスさまは、招待されていた人々が上席に向かうのをご覧になって、「たとえ」を話された、とあります。

イエスさまの譬え話の多くは、神の国のたとえ、ですので、ここにも関連があると考えられます。また、そのたとえの冒頭で、場面設定として「婚宴」と言っておられます。これも、神の国の比喩的表現で多く用いられる言葉です。また、今日の日課ではありませんが、この一連のやり取りを聞いていた人の口から15節「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言われている訳ですから、今日の箇所が「神の国」と関連づけられていることは、間違いのないことのように思われます。

ところで、ペリコーぺ・日課としては飛ばされていましたが、今日の出来事の前に「癒し」の出来事が起こっていたことが分かります。先週の日課も、安息日の癒しの出来事でした。今日の場面は、先週の礼拝時とは違い、食事会の席ではありますが、同様に、安息日ということが大きな問題だった訳です。ここで癒された人は「水腫を患っている人」とあります。どうして、このような人がこの食事会に招かれていたのかは分かりません。ある人は、イエスさまを陥れるためだったのではないか、と言い、ある方は、イエスさまご自身が礼拝を共にしたこの人を連れてきたのではなかったか、と言います。もちろん、分かりません。

しかし、いずれにしても、この食事会を催した側としては、この食事会に対して好ましくない人物だと考えられていたのではないでしょうか。それが、先週も言いましたように、イエスさまからすれば「偽善」に思える。

しかし、一方の彼らの常識からすれば、分からなくもない。当時の病の理解は、神さまからの罰と考えられていたからです。何か悪いことをしたから、バチが当たったのだ、と。あるいは、この「水腫」という病気は、不道徳な生活をしていたからだ、と考えられていたようです。尚更、彼らにとっては、眉を顰める人物と写っていたことでしょう。

繰り返しますが、これらは当時の人々にとっては、常識なのです。そのように理解し、そのような見方をしていた人々は多くいた。しかし、それは、偽善なのです。少なくとも、イエスさまはそう見られた。なぜなら、神さまの御心は違うからです。なのに、彼らは神さまの名を使って、御心からズレてしまっていたことを常識としていた。それについて、省みることもなく、悪びれもしなかった。ここに課題がある。そして同時に、これらのことについても、私たちは無縁ではいられないでしょう。もちろん、今日の私たちの常識とは違います。

私たちは、病にかかっている人を、そのような目では見ない。しかし、私たちの常識、私たちにとっての正しさとは、本当に合っているのだろうか。知らず知らずのうちに、神さまの御心からズレてしまった偽善に陥ってはいないだろうか。ともかく、ここにも先週同様に、本来の安息日の在り方からズレてしまっていた現実があった訳です。

神の国とは、一体、どんなところなのでしょうか。少なくとも、自分自身で、自己評価で、上席を選ぶことができるようなところではないようです。自ら上席を選んだ今日の食事会に招かれていた人々の多くは、自分に自信があったのでしょう。少なくとも、あの水腫の人よりは、あるいはイエスさまよりは、神さまに認めていただいているはずだ、と。確かに、根拠はある。それは、彼らの常識の範囲では、ということです。おそらく、彼らは真面目な生活をし、貧しい人々を援助し、規定通りの捧げ物もしていたことでしょう。安息日にも仕事をせず、礼拝もしっかり守っていた。そういう意味では、確かに模範的かも知れない。

しかし、イエスさまの目には、神さまの目には、そうは写っていなかったのです。むしろ、そんな彼らを、神さまが低くされるであろう「高ぶる者」とさえ思われていた。思い出してください。あの「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」話しを。二人はともに祈っていた。しかし、模範的なファリサイ派の人ではなく、「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」と祈ることしかできなかった徴税人の方が義とされた、と言われたのです。神の国とは、イエスさまが地上に、この浮き世に来られた、ということです。このイエスさまとの出会いこそが、福音に他ならない。

しかし、このイエスさまに、福音に触れるとき、私たちは罪の自覚に囚われることも、また事実です。とても、自信満々に、堂々と上席を選ぶことなどできない自分に気付かされる。そうです。神の国とは、自ずと、末席につかざるを得ないことを知る、ということでもある訳です。むしろ、そこに偽善からの解放の道もある。しかし、イエスさまはこう語られるのです。「さあ、もっと上席に進んでください」と言うだろう、と。そうです。私たちは、自分など末席も末席、本当にギリギリに位置するのも難しい、と思うのかも知れません。

しかし、それでも、そこは婚宴、喜ばしき所なのです。そこに私たちは招かれている。しかも、末席に過ぎないと思っていたら、「どうぞ、どうぞ、もっと上席に進んでください。あなた方を招いておられるホスト、神さまがそう言っておられますよ」と言ってくださる。そんな、本来あるべき神の国の姿を、ここでイエスさまは描き出されているのではないか、と思うのです。

そこで、もう一つ気になることは、それでも、固辞することは、果たして謙遜なのだろうか、と言うことです。あなたを招いておられるのは、神さまです。末席こそ自分に相応しいと思っていたのに、「さあ、どうぞどうぞ上席にお進みください」と言ってくださるのも神さまです。高ぶる者を低くし、へりくだる者を高めてくださるのは、神さまです。どれも、自分ですることではありません。自分自身の自覚でさえありません。それが、神の国である、と言われる。そのことも、私たちは忘れずに、真の謙遜への道へと進んでいきたい、そこには偽善性からも解き放たれる道がある、と言うことも覚えていきたい、と思います。

2022年8月28日 9時30分 ”夏休みバージョン ”「子どもと家族の礼拝 」お話「 アキラとプリスキラ 」浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】2022年8月28日(日)10:30 聖霊降臨後第12主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子

開会の部
前  奏 教会讃美歌181番に基づいた前奏曲 H.A.Metzger

初めの歌 教会 181( ここにいます 主なる神を )1節
1.ここにいます 主なる神を かしこみおそれよ、
ひとの子らよ うちに黙し み前にひれ伏せ。
主なる神を おそれをもて あがめまつれ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
神様。あなたは高ぶる者を低くし、へりくだる者に恵みをお与えくださいます。
御子の謙遜によって、キリストの広い心を身につけさせてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 箴言 25:6-7a(旧約 1024 頁 )
第2の朗読 ヘブライ人への手紙 13:1-8,15-16( 新約 418 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカによる福音書 14:1,7-14( 新約 136頁 )

みことばの歌 教会 271( 主は教会の )1節
1.主は教会の 基となり、
みことばをもて これをきよめ、
われらを死より ときはなちて、
仕うる民と なしたまえり。

説 教 「 謙遜のススメ 」 浅野 直樹 牧師 

感謝の歌 教会 339( イェスきみは恵みの主 )1節
1.イェスきみは恵みの主、 罪びとあわれみたもう。
道なる主、 義なる主は ひかりといのちを示さん。
朝日のごとくに 現われ来たりて、
死のくさり解きはなち 罪びと生かしめたもう。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会 346( はかりも知られぬ )1節
1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

後  奏 後奏曲 ヘ長調 A.W.Marchant