【説教・音声版】2023年1月29日(日)10:30 顕現後第4主日礼拝 説 教 「 イエスの幸福論」浅野 直樹 牧師



聖書箇所:マタイによる福音書5章1~12節

本日の説教題は、「イエスの幸福論」といたしました。

誰もが、幸せ・幸福になりたいと思うものです。幸いにして、と言いますか、私たちの日本国憲法にも、この幸福追求の権利が認められています。第13条です。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」。確かに、ここに「公共の福祉に反しない限り」とありますので、幸福追求といっても、何でもかんでも良いということではないでしょうし、一人一人が違った幸福の理解、つまり多様性があるということでもあるのでしょう。必ずしも確固とした共通理解がある訳ではない。

ですから、私たちはいろんなことを考えては、思い巡らせては、それらを追求しようとする訳ですが、しかし、案外、本当の幸せ・幸福とは何か、ということが分かっていないのかもしれません。

その点、イエスさまははっきりしています。イエスさまには、幸福・幸せの基準がちゃんとあるからです。それが、今朝の「山上の説教」でした。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」。

よく知られている「八福の教え」です。が、正直、どうでしょうか。このイエスさまの幸福の理解についていけるでしょうか。確かに、後半の「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」というのは、分かる気がします。「情けは人の為ならず」ではありませんが、何か良いことをしておけば、巡り巡って自分も幸せになれるのではないか、と思えるからです。しかし、前半は、あるいは、最後の「義のために迫害される人々」というのはどうでしょうか。果たして、これが、これらが幸せと言えるのだろうか。これで、幸せになれるというのだろうか。むしろ、不幸ではないか、と思われないでしょうか。そうだと思います。単純に見れば、そうとしか思えない。

このイエスさまの一風変わった、と言いますか、なかなかに独創的な「幸福論」を理解するためには、一つのポイントを押さえておかなければならないと思います。それは、「天の国」です。先週の説教でも言いましたように、これは「神の国」と言っても良い。この「八福の教え」の最初と最後に出てくることからもお分かりになるように、実は、この「幸いなるかな」というのは、この「天の国・神の国」で包まれているのです。

今日の日課の冒頭には、このように記されていました。「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」。イエスさまは、「この群衆を見て」山に登られて教えられた訳ですから、これらの教えを「山上の説教」と言っている訳ですが、では、「この群衆」というのは一体誰のことかといえば、先週も少し触れましたイエスさまが宣教されていった人々だった訳です。少なくとも、マタイはこの連続性の中で語っているように思います。

山上の説教 :1912年頃 Rudolf Yelin (1864–1940) ドイツ



では、そのイエスさまが宣教をされていった群衆とは一体どんな人たちだったのか。それは、先週もお話ししましたように、イザヤが語った「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」たちでした。具体的に言えば、病める者たちです。悪霊に苦しめられてきた者たちです。いわゆる、「神も仏もあるものか」と言いたくなるような不幸な人たちです。「そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」とある通りです。

ある方はそんな群衆と弟子たちとを分けて考えておられるようです。「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」と記されているからです。ですから、聞く耳のあった弟子たちにはしっかりと教えられたが、いわゆる一般群衆には教えておられないのだ、だから彼らは理解できなかったのだ、と言われる。しかし、私にはそうは思えないのです。少なくとも、マタイを読む限り、これまでで正式に弟子になったのは、たったの4人だけです。そんな4人だけに向けてイエスさまは話されたのだろうか。いいえ、違うと思います。

もちろん、集まってきた群衆の中にも温度差はあったでしょう。真剣に話を聞こうとする者もいれば、冷やかし程度の者もいたかもしれない。しかし、それでも、群衆はイエスさまを慕って、期待して従ってきた。その人たちに向かって、もちろん、その中にはあの4人の漁師たちも、また新たに弟子になっていった人々もいたでしょうが、つまり、先ほど言ったような、イザヤに言わせると「暗闇に住」んでいた人々が、「死の陰の地に住」んでいた人々が、不幸でしかなかった人々が、イエスさまの話を聞いたのではないか。

「あなたがたは幸いなのだ」と。これまで自分たちは不幸だと思っていた。思い込んできた。神さまからも見捨てられ、むしろ罰せられているのではないか、と思わざるを得なかった。こんな私たちなど、幸せにはなれないのだ、と。あの人たちのように幸福にはなれないのだ、と。それなのに、そんなふうにしか思えなかったのに、イエスさまはいきなり言われたのです。「あなたがたは幸いなのだ」と。問題が解決したから。
不幸だと思っていた事柄が取り去られたから。自分たちも生活が変えられて、羨ましいと思ってきたあの人たちと同じようになれたから。いいえ、そうではありません。あなたがたが貧しいからこそ幸いなのだとイエスさまはおっしゃるのです。なぜなら、だからこそ、あなたがたは天の国を手に入れるのだから、と。

箴言に非常に興味深い言葉が記されています。30章7節以下です。聖書協会共同訳で読みます。「私は二つのことをあなたに願います。私が死ぬまで、それらを拒まないでください。空いものや偽りの言葉を私から遠ざけ 貧しくもせず、富ませもせず 私にふさわしい食物で私を養ってください。私が満ち足り、あなたを否んで 『主とは何者か』と言わないために。貧しさのゆえに盗み、神の名を汚さないために」。豊かになりすぎて、何も困らなくなると、神さまから心が離れてしまう危険があるし、かえって貧しすぎると悪事に手を染めて、神さまの御名を汚すことにもなりかねない。だから、どちらにも傾かないようなバランスで私を支えてください、と願う。非常に考えさせられる言葉です。

マタイでは、「心の貧しい人々」となっていますが、元々はルカが記していますように、ただの「貧しさ」を意味していたと言われています。どちらにしても、「貧しい」のです。綺麗事では済まないのです。腹が減って盗みにまで手を染めてしまうかもしれない。それが、本当に幸いなんだろうか。「悲しい」のです。涙が溢れて仕方がないのです。愛する者との死別を経験する。信頼し切っていた人からの裏切りを経験する。突然に財産をみんな失って無一文になってしまう。余命後どれだけと宣告されてしまう。悲しくて悲しくて仕方がない。それが、幸いなのか。ここでは「柔和」と訳されていますが、どうやらそんないいものではないらしいのです。もともとは「卑しい」「取るに足りない」という意味らしい。

ですから、織田昭(おだ あきら)という方は、この「八福の教え」をこう意訳しておられます。「神の前に、恥ずかしくも文無し同然の人間の幸いよ。悲しみに打ちのめされる人の幸いよ。何とも無力でみじめな人の幸いよ。」と。まさに、暗闇に住む者、死の陰の地に住む者。その現実が、どうして幸いだなどと言えるのか。そうです。それでも、イエスさまは、彼らは幸いだ、と言われる。決して、あなた方は不幸ではない、と言われる。なぜなら、あなたがたは「天の国・神の国」を得ることができるからだ。そのために、そのためにこそ、私が来たからだ。そうおっしゃってくださる。

本当の幸い・幸福を考えるためには、本当の不幸についても考えなければならないのかもしれません。なぜ彼らは不幸なのか。貧しいからか。病にかかっていたからか。悪霊に取り憑かれていたからか。もちろん、そうです。それらの現実が彼らを不幸にしていた。しかし、本当の彼らの不幸は、その不幸こそが、神さま不在の現実に他ならない、と受け止めざるを得なかったからです。神さまから見捨てられている結果だ、神さまから罰せられている結果だ、と思い込まされていたからです。だから、希望の持ちようもなかった。この希望のなさこそが、私たちを不幸にする。

イエスさまはそうではない、とおっしゃる。天の国・神の国はあなた方の只中に来たではないか、とおっしゃる。そのための私ではないか、とおっしゃる。だから、あなた方は幸いなのだ、と。なぜなら、貧しい者には、神さまが天の国を与えてくださるのだから。悲しむ者には、神さまが慰めてくださるのだから。自分には何もない、と落胆している者にも、神さまはちゃんと地を受け継がせてくださるから。この世に本当に正義などあるものか、と嘆くしかないような者にも、神さまがちゃんと正義を成してくださることを教えてくださるから、だから、あなた方は決して不幸ではないのだ。むしろ、幸いな人たちなのだ、とおっしゃられるのです。

それでも、綺麗事だと思われるでしょうか。こんなことでは、幸いになどなれないと思われるでしょうか。では、イエスさまは、イエスさまご自身はどうだったでしょうか。イエスさまは不幸だったでしょうか。人々から冤罪を押し付けられ、弟子たちからも裏切られ、見捨てられ、十字架につけられていったイエスさまは不幸だったでしょうか。自分の生涯は、結局は不幸でしかなかったと嘆かれたでしょうか。そうではなかったでしょう。

私自身のことで言えば、父を早くに亡くし、再婚相手の義理の父から虐待を受け、実の 母からも虐待を受け、そのせいか人間不信・人間嫌いに陥り、正直、今も引きずっている部分がないわけじゃない、そんな私は不幸なのか。そうです。不幸です。不幸だと思って来ました。イエスさまと出会うまでは。そういう意味では、私自身も、このイエスさまによって幸いを知らされた者です。

そうそう現実は変わらないのかもしれません。心の持ちよう、気休め、と言ってしまえば、それだけなのかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。少なくとも、私自身は、そうとは思えない。イエスさまを知ったからこそ、天の国・神の国を与えられたからこそ、あの時も、あの経験も幸いだった、と言える自分がいる。皆さんも、そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】2023年1月29日(日)10:30 顕現後第4主日礼拝 



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 中山 康子 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  小山 泉

開会の部
前  奏 ただ御神のみ 委ねまつる者は J.S.バッハ

初めの歌 教会152番(1節) いざや主をほめよ
1.いざや主をほめよ 声のかぎりに
あめつちを治(し)らす 愛のみ神を。
なやめる心に 安きをたまいし わが主をたたえん。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
聖なる神様。あなたは心の貧しい人々、心の清い人々に御国を与え、この世の知恵を空しいものとされました。
私たちのことばと行いを通して、この世が御子の生涯を受け止めることができますように。
(また)義に飢え渇き、平和を力強く求める心を私たちに与えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第1の朗読 ミカ書 6章:1-8(旧約聖書 1455 頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙I 1章:18-31(新約聖書 300 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 5章:1-12(新約聖書 6 頁)

みことばの歌 教会238番(1節) いのちのかて
1.いのちのかて 主よいま
与(あた)えたまえ この身に。
聖書(みふみ)学ぶ わがたま
生けることば あこがる。
アーメン

説 教 「 イエスの幸福論 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会339番(1節)イェスきみはめぐみの主
1.イェスきみは恵(めぐ)みの主、 罪びとあわれみたもう。
道なる主、 義(ぎ)なる主は ひかりといのちを示さん。
朝日のごとくに 現われ来たりて、
死のくさり解(と)きはなち 罪びと生かしめたもう。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会346番(1節)  はかりもしられぬ
1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

後  奏  後奏曲 C.フランク

【ライブ配信】2023年1月29日(日)10:30 顕現後第4主日礼拝 説 教 「 イエスの幸福論 」浅野 直樹 牧師



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2023年1月29日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「ユダヤ人を救ったエステル」浅野 直樹 牧師



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【ライブ配信】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝 説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師



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2023年1月22日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「王妃に会ったエステル」浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝 説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師


聖書箇所:マタイによる福音書4章12~23節

本日の福音書の日課には、イエスさまの宣教のはじまりについて記されていました。

イエスさまは、こう語っていかれました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。マルコによる福音書では、「神の国」となっています。どちらも同じ意味です。ご存知のように、ユダヤの人たちは、神さまの名前をみだりに唱えてはならないという戒めを厳格に守っていましたから、「神」という言葉の代わりに「天」という言葉を使っただけです。この「天の国」・「神の国」は、「国」とありますけれども、日本やアメリカ、中国など、どこかの特定の土地にある「国」を指すのではありません。むしろ、「神の支配」と言った方が良い、とも言われます。

もともとは、そういった意味です。よく「神の国運動」といった言い方がされますが、イエスさまがはじめられた、成された宣教とは、この神さまの国、神さまが支配される世界を宣べ伝えることにありました。これは、決して忘れてはならないことだと思います。ですから、後にイエスさまが成された具体的な事柄、例えば病を癒されたり、悪霊を追い出されたり、供食の奇跡をされたり、「山上の説教」に代表されるような教えを宣べられたりしたのは、この神の国・天の国のためだった訳です。

今日の日課の直後になりますが、4章23節以下に、このように記されています。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」。

ご存知のように、イエスさまの周りには、いつもこれらの人たち、病人、怪我人、悪霊に苦しんでいた人、罪人と言われる人たち、社会的弱者たちが取り巻いていました。医学・医療技術も発達していない2000年も前のことです。江戸時代よりも平安時代よりも、もっともっと昔のことです。医者や薬があったって、治せない、治らない。怪我をしたら仕事もできなくなる。収入がなくなる。親、兄弟、いろんな人々に傷つけられて、精神的に参ってしまった人たちは、悪霊憑きなどと言われ、余計に居場所がなくなってしまったかもしれない。

とにかく、今よりもはるかに「生きにくい」時代、世界です。しかも、それらの不幸は、お前たちの罪のせいだ、神さまから見捨てられたのだ、罰を受けたのだ、と責められる始末。救いなどない。希望など見出せない。それが、彼らの現実だった。

今日の日課の冒頭で、イエスさまはイザヤ書の言葉の実現のために、故郷のナザレを離れ、カファルナウムの町に来て住まわれたことが記されていました。それは、16節、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰に住む者に光が射し込んだ」と福音書記者マタイは理解したからです。そうです。ここにいる人々の現実は、「暗闇に住む民」「死の陰に住む者」だった。その人々のところに、光であるイエスさまが来てくださった。

ドゥッチョ作「ペテロとアンデレの召命」(1308年)



少なくともマタイはそう理解した。そう確信した。だから、これはマタイしか記していませんが、イザヤ書8章から9章の言葉が実現したのだ、とわざわざ書いたのです。イエスさまは、そんな光なのです。暗闇を、死の陰を照らす光なのです。そして、それが、それこそが、神の国、神の支配。神さまからも見捨てられていたと思っていた。神さまから嫌われていると思って来た。神さまに罰せられていると思い込んで来た。そう思わせされてきた。だから、病にかかったんだと。病が治らないんだと。怪我をしてしまったんだと。精神を病んでしまったんだと。

不幸に見舞われているんだと。もう諦めるしかない。絶望するしかない。ただ、何も期待しないで生きるしかない。それが、それだけが、この過酷な世界、運命を生きる知恵。そう思ってきた。しかし、違っていた。そこにイエスさまが来られた。神さまは決してあなた方を嫌ってもいないし、見捨ててもおられないし、むしろ立ち返って、神さまの御業を見ることを、体験することを求めておられるのだ。神さまはあなた方の只中にいてくださる。これが、その証拠だ。ほら、ここに神さまの力があるだろ。

ここに、神さまのみ業があるだろ。これこそが、あなた方を神さまが救ってくださる何よりの証拠ではないか。愛して、気遣ってくださっている証拠ではないか。そう、神の国は近づいたのだ。だから、私が来た。私が来て、病を癒し、悪霊を追い出し、福音を伝えているのだ。それが、イエス・キリスト。人々を照らす光。

先ほどは冒頭で、イエスさまの宣教とは、この神の国・天の国の訪れを知らせることであり、非常に重要なことだ、と言いましたが、日本の教会はそのことをあまり意識してこなかったのではないか、と指摘しておられる方がいらっしゃいます。ここでも度々お名前を出させていただいている古屋安雄という長年ICU(国際基督教大学)の教授とICU教会の牧師をされてこられた方です。この古屋先生が、ご著書『神の国とキリスト教』の中で、日本の教会の歴史を振り返りながら、日本でこの「神の国」ということを真剣に考え取り組んだのは、賀川豊彦くらいではなかったか、と言っておられます。

この賀川豊彦氏について詳しくお話しする時間はありませんが、身近な例で言えば、「生活協同組合」を作った人です。古屋先生も指摘されていますように、日本ではいわゆる「教会派」と「社会派」とが̶̶最近はあまり聞かなくなりましたが、かつては、特に日本基督教団では大 変な騒動でした̶̶長年対立して来たことが、日本における宣教の不振につながっている のではないか、というのです。

「教会派」とは、極端な言い方をすれば、社会の現状に無関心とまでは言いませんが、とにかく教会形成を第一に考えて、どちらかというと内向きな姿勢になっていると言われています。逆に、「社会派」の方は、これも極端な言い方になりますが、とにかく社会変革を考える、優先する。一頃では、そういった「社会派」と言われる教会での説教では社会問題ばかりを取り扱って、キリストの「キ」の字もでなかったと聞き及んでいます。

古屋先生は、そのどちらも違う、欠けている、「神の国」的でない、というのです。イエスさまの宣教とは、まさに社会の只中に切り込んでいくものでした。社会の現実の中で、暗闇に、死の陰に座り込まざるを得ない人々の只中で福音を宣べ伝え、神さまの御業を実現することでした。ですから、時に、そんな社会を作り上げていた主流派の人たちとぶつかることにもなった訳です。そういう意味では、社会変革とも言えるのかもしれません。

しかし、何でもかんでも社会を変えることが目的ではなかった訳です。あくまでも「神の国」の実現、神さまのご支配の実現をこそイエスさまは願い、働かれたのです。そこも見失ってはならない。ですから、古屋先生も、「宣教」の大切さを指摘しておられます。しかし、ただ「教会」を作っていくためだけの宣教ではありません。イエスさまがなさったように、神の国を宣教していくのです。それが、それこそが、日本においてキリスト教の不振を打開する術ではないか、と訴えておられる訳です。私自身は、大いに刺激を受けた思いが致しました。

ともかく、イエスさまは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教されていきました。そして、このマタイ福音書は、その直後に、弟子の召命物語を記しています。当然、このイエスさまの宣教と弟子たちとが無縁ではないからでしょう。ここで今日考えたいことは、この漁師たちが、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちが、私たちが良く知っている使徒たちが、ごくごく普通の漁師だった、ということです。なんら特別な人ではなかった。イエスさまがまず宣教の業に加わらせるために弟子として選ばれたのは、普通の人です。

生涯を禁欲的に生き、厳格に自分を律し、正義のために殉じた、人としては罪から最も遠かったであろう洗礼者ヨハネではなかった。確かに、弟子の中にはパウロという特別な存在はいたと思いますが、その多くは普通の人だったと思います。私は、それが大切なのだと思うのです。

普通の人でなければ、宣教はできない。世の中の多くの人たちと同じように、親子関係に悩み、多くの傷を抱え、いつまでもトラウマに悩まされ、夫婦関係に悩み、子育てに悩み、子どもの行く末・進路に心傷め、職場に悩み、上司に不満を持ち、部下に腹を立て、物価高にオロオロし、老後の計画が狂ったと嘆き、政府の政策にいちゃもんをつける、そんなどこにでもいる普通の人、普通の私たちがイエスさまの弟子として、イエスさまの宣教を共に担うものとして、選ばれるのです。ただ違っていることは、世の中の人よりも、まだ信仰の世界に入っていない人よりも、ほんのわずか先にイエスさまを知ったということ。

イエスさまに声をかけられ、イエスさまと一緒の生活がはじまった、ということ。そういう意味では、他の人たちと何ら変わらない普通の人間だけど、その普通さの中にイエスさまが入ってこられ、その普通の出来事の中にイエスさまの御業を経験してきた、体験してきた、それだけが唯一の違いです。私たちだって、イエスさまの弟子だって、「普通」に夫婦喧嘩だってする。親子の諍いだってある。口は災いの元とばかりに後悔する。いろんなことに落ち込んだり、悩んだりの毎日。他人がどう評価しようと、私たちなりの暗闇を、死の陰を経験するのです。

でも、そこで光を感じた。イエスさまが助けてくださった。信仰を持っていて良かった。そう言える、そう感じられる日々、出来事がある。それだけの違い。それが良いのです。その普通さこそが、このイエスさまの宣教に用いられるのだと思うのです。だからこそ、イエスさまは、ただの、普通の漁師たちを弟子として選ばれた。そうではないでしょうか。

私たちは今日、もう一度心新たにして、宣教の志を立てたいと思う。それは、あえて誤解を恐れずに言えば、教会の、私たちルーテル教会、ルーテルむさしの教会のためだけではないはずです。そうではなくて、神の国のために、神の国がもっともっと広く世界を、この日本を包み込むためです。そのために、私たちは宣教する。普通人の私たちが宣教するのですから、そんな大したことはできません。

大それたことなど、はなから求められてもいないのかもしれません。普通の私たちが、普通の生活の中で味わった神さまの恵み、イエスさまの力、そのありがたさを証しすればいい。イエスさまから学べば、もっと生き方が楽になるかもしれないし、小さな良いことを積み重ねることができるようになるかもしれないし、社会が少しずつでも御心に叶うように、弱き人たちも報われるような世界になっていけるのではないか、そう共感し合えればいい。それも、神の国の宣教。そうではないでしょうか。

【週報:司式部分】2023年1月22日(日)10:30 顕現後第3主日礼拝 


司 式  浅野 直樹
聖書朗読 市吉 伸行  浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  萩森 英明

開会の部
前  奏 「今ぞ喜べ、愛するキリストのともがらよ」J. Pachelbel

初めの歌 教会190番(1節) 主のみ名によりてつどう

1.主のみ名によりて 集(つど)うところに
主は ともにいまし なかに立ちたもぅ。
いまなお主イェスは われらの閉ざせる
戸のなかに在(ま)す。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
“主なる神様。あなたの慈しみはいつも私たちと共にあり、
進む道を先立って導き、またその後ろを守ってくださいます。
御光の中へと招き、御子の十字架によって与えられる善き道の歩みを導いてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン”

第1の朗読 イザヤ書 8章:23-9章:3(旧約聖書 1073 頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙I 1章:10-18(新約聖書 299 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 4章:12-23(新約聖書 5 頁)

みことばの歌 教会293番(1節) つみあるものをも

1.罪あるものをも 愛する神は
ほろびを好(この)まず 救いをたもう。
心にいたみを 覚(おぼ)ゆる時にも
み言葉かしこみ み神にたよらん。

説 教 「 宣教の開始 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会287番(1節) 主イエスのみたみよ

1.主イェスのみ民(たみ)よ 目を高くあげよ 春は来たりぬ。
世界の果てまで みことばの種は 芽生えそだちぬ。
主よ主よ 捕(と)らわれびとらはゆるされ 喜びうたえり。
アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会409番(1節) この世のうみに

1.この世(よ)の海に 船出(ふなで)しゆけば
風は吹(ふ)き荒(あ)れ 波はさかまく、
主よ先(さき)だちて 導きたまえ。  アーメン

後  奏 「われに従えと、われらの強き主は言い給う」K. Roeder

【ライブ配信】2023年1月15日(日)10:30 顕現後第2主日礼拝 説 教 「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ 」浅野 直樹 牧師

※ライブ配信の音声不具合により、修正版をアップロードいたしました。↓


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【説教・音声版】2023年1月15日(日)10:30 顕現後第2主日礼拝 説 教 「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ 」浅野 直樹 牧師



ヨハネによる福音書1章29~42節

本日は、顕現後第二主日となります。つまり、先週の主の洗礼主日から、いわゆる「顕現節」がはじまった、ということです。
この「顕現」とは、公に姿を現す、ということです。

ですので、イエスさまが最も早い段階で公に姿を現されたのが、あの東方の博士たちがイエスさまを訪ねた時だったと考えられますので、いわゆる顕現日には、そのことが記されていますマタイによる福音書の2章が取り上げられていました。1月6日です。

しかし、この洗礼の出来事も、イエスさまが公にご自身を現された出来事だと受け止められていますので、̶̶以前親しんできた日 課では、1月6日の直後の日曜日を「顕現主日」とし(聖書箇所もマタイ2章1節以下が日課)、そこから顕現節がはじまるようになっていました̶̶この洗礼日から顕現節がは じまるようにしたのではないか、と私自身は思っています。実は、この「顕現日」、エピファニーと言いますが、元々は東方教会の祝祭だったようで、イエスさまの洗礼を記念するものだったようなのです。
そういう意味では、本来の意図に戻った、と言えるのかもしれません。

ところで、今朝の日課、ヨハネ福音書1章29節以下を読まれて、先週と似ている、と思われた方も多いのではないでしょうか。先ほども言いましたように、先週の日課は、イエスさまの洗礼の出来事を取り上げたマタイ3章13節以下でしたが、聖霊が鳩のように天から降ったというところなど、非常によく似ていると思います。しかし、決定的に違っているところがあるのです。それは、このヨハネ福音書ではイエスさまは洗礼を受けておられない、ということです。

ある方は、直接的にはイエスさまが洗礼を受けられたとは記されていないが、この記述(マタイ福音書に似た)からもイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことは明らかだ、と言っておられますが、少なくともこのヨハネ福音書が、イエスさまが洗礼を受けられたということを明確には記していないということは大きなことだと思うのです。言い方を変えますと、この洗礼者ヨハネがイエスさまに洗礼を授けた人とは記されていない、ということです。

皆さんの中にもそういった思いのある方もおられるかも知れませんが、時に洗礼を受けた人・事実よりも◯◯先生から洗礼を授かった、という意識の方が強く出てしまうことがありますが、少なくともここでは洗礼者ヨハネはイエスさまの洗礼者としては描かれていない、ということです。見方によっては上下関係・師弟関係にもなり得るようなことを極力避けている。少しの誤解も与えないようにしている。そんなふうにも思える。では、このヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネのことをどのように描こうとしているのだろうか。

「証しする者」です。あくまでもイエスさまを「証しする者」として、です。既に、このヨハネ福音書では洗礼者ヨハネのことをこのようにも記していたからです。1章6節、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。

この「光」とは、もちろんイエスさまのことです。光であるイエスさまを証しするために洗礼者ヨハネは来た、神さまから遣わされた、と言います。そのヨハネが、今日の日課では、イエスさまのことをこのように証ししました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。非常に印象深い言葉ですし、イエスさまの本来のお姿を的確に捉えた言葉だとも思います。そういう意味では、ヨハネ福音書が語る洗礼者ヨハネの姿は、今まで見てきた、例えばマタイ福音書から見てきた、心揺れる……自分が待っていたメシアとは本当にイエスさまのことなのか、それとも別の誰かを待たなければならないのか、と心揺れる姿とは、非常に印象が違っているように思います。ともかく、ヨハネ福音書が描く洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたのでした。

では、そのように証しした洗礼者ヨハネは、イエスさまのことをどのように思い描いていたのか。実は、必ずしもそれらは明確ではないようです。ここでヨハネが語っている
「神の小羊」という姿、後の36節で自分の弟子たちに証言する中でも語られているものですが、この「神の小羊」という表現が他にはほとんど見られないからです。ですから、いろんなことが言われているようです。例えば、過越の祭りの時に屠られる小羊を表すのではないか、とか、あるいはイザヤ書53章に記されている物言わず連れていかれる小羊を指すのではないか、また、アブラハムが息子イサクを犠牲として捧げようとした時に神さまが用意して下さった身代わりの小羊を意味するのではないか、ヨハネの黙示録に登場する勝利の小羊を示しているのではないか、等々の意見があるようですが、私はやはりレビ記などに記されています犠牲の小羊を思い浮かべてしまいます。これも全く間違った的外れの見解ではないようですが、どれも決定打ではないようです。

先ほど、レビ記と言いました。創世記、出エジプト記と頑張って読んできても、レビ記で頓挫してしまうという、あのレビ記です。御多分に洩れず、私にとってもそうでした。頑張って読みはしましたが、全くもってつまらない、と思わせられたものです。そんなレビ記、つまらない祭儀規定が延々と続いていくようなレビ記ですが、神学校のある授業を受けて、捉え方が全く違ったものとなったのです。最初の神学校、聖契神学校というところでしたが、五書研究(モーセ五書と言われるもの)という科目があったのですが、その年はレビ記が題材として取り上げられていました。1章から、生臭い動物犠牲の話が延々と続きます。ちっとも面白くない。むしろ、グロテスクで気味が悪いくらいです。全く興味がわかない。しかし、その授業の中で言われたのは、イエスさまの十字架と無関係ではない、ということでした。むしろ、大いに関係するのだ、と。

先ほどは、洗礼者ヨハネはイエスさまのことを「神の小羊」だと証しした、と言いました。このレビ記に記されています動物犠牲の中にも、「小羊」では必ずしもありませんが、「羊」が登場してまいります。例えば、1章10節です。「羊または山羊を焼き尽くす捧げ物とする場合には」とあります。この動物犠牲を理解するために、ちょっと前の箇所を読んでみたいと思います。最初に出てくるのは「牛」です。2節にこうあるからです。「あなたたちのうちのだれかが、家畜の捧げ物を主にささげるときは、牛、または羊を捧げ物としなさい」とあります。時間の関係もあり、全部は読みません。重要と思われるところだけを読みたいと思います。3節「奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を捧げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」。

これを、先ほども言った「羊」にも同じようにします。続けて、このようにしていきます。「奉納者がそれを主の御前にある祭壇の北側で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける。奉納者がその体を各部に分割すると、祭司は分割した各部を、頭と脂肪と共に、祭壇の燃えている薪の上に置く。奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部をささげ、祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす捧げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである」。

『ヘントの祭壇画』1432年 :ヤン・ファン・エイク (1390年頃 –1441) 聖バーフ大聖堂



気分を悪くされた方がおられたら申し訳ないと思いますが、これが動物犠牲です。今紹介したのは「全焼の生贄」と言われるものですが、その他にも「和解の生贄」「贖罪の生贄」などがありますが、どれも共通しているところがあります。それは、捧げようとする動物の頭の上に自らの手を置く、ということです。これを必ずする。

これは何を意味するかというと、私の身代わりとなる、ということです。私が犠牲の動物の頭に手を置くことによって、もはや羊は羊ではなく、浅野直樹その人になる、ということです。そして、先ほど読んだ通り、そうしないと、「その人の罪を贖う儀式を行うもの」としては受け入れられない、ということです。そして、その身代わりとなった動物・羊を自らの手で屠る、殺すのです。祭司がするのではない。レビ人がするのではない。犠牲として捧げようとする人自身が手を下す。そういう意味では、この動物犠牲は重いのです。決して身軽な、簡単な儀式ではない。

なぜなら、罪の支払う報酬は死だからです。罪を償うためには、命をもって償わなければならない。それを、聖書は、神さまは要求する。後に、これらは儀式化してしまい、イエスさまも嘆かれるほどの強盗の巣にしてしまいましたが、本来は、罪の贖いとは、これほど重く、重要なことなのだ、ということを悟らせるためにあったのだと思うのです。それを、レビ記の学びで知った。

洗礼者ヨハネは、イエスさまのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言しました。その「神の小羊」とレビ記の動物犠牲とが無縁でないとすれば、どうだろうか。私たちはあまりに簡単に、イエスさまは私たちの身代わりに十字架について下さった、と言ってしまってはいないだろうか。人任せに命を奪うことから遠ざかって、動物を食することにあまりに慣れてしまって、命の重さを忘れてしまったように、十字架の重さも忘れてしまってはいないだろうか。動物の命だって重いのです。目の前の動物の命を取ることなど簡単ではないし、簡単に奪い取ってはならないものです。

彼らだって生きている。小羊の命だって重い。なのに、小羊だって重いのに、神の子であるイエスさまが私たちのために、神の小羊となって下さったということは、どれほど重いことだろうか。私たちの身代わりに、私たちの全ての罪を背負い、殺されていく小羊となってくださるとは。しかも、イヤイヤでも渋々でもなく、それこそが神さまの御心として、ご自身の栄光として、受け止めてくださるとは。十字架は重い。しかし、その重さは私たちを押しつぶすための重さではなくて、むしろ私たちの重荷を打ち破るための、重荷から解放するための、救いの重さ、神さまの恵みの、温かさの、愛の重さ、なのです。

今日はもう話せませんが、ヨハネ福音書は、その洗礼者ヨハネの証言によって、イエスさまの弟子たちが生まれていったとも記しています。ヨハネは、ただただイエスさまを証しすることに徹した。十字架の恵みの重さを証しすることに徹した。

それは、私たちも学ぶべきことではないでしょうか。

【週報:司式部分】2023年1月15日(日)10:30 顕現後第2主日礼拝 



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 秋田 淳子  浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  上村 朋子

開会の部
前  奏 み神より離れまつらじ O.Abel

初めの歌 教会150番(1節) つきぬめぐみ

1.つきぬ恵み そそぎたもう
父なるみ神を たたえまつれ。
初めにあり おわりに在(ま)す、
ひとりのみ神を とわにたたえん。  アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
“私たちを贖う方、私たちの力である聖なる神様。聖霊によって私たちを永遠に捉えてください。
あなたを礼拝し忠実に仕える恵みを与え、あなたに従う喜びを見出すことができますように。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン”

第1の朗読 イザヤ書 49章:1-7(旧約聖書 1142 頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙 1章:1-9(新約聖書 299 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネよる福音書 1章:29-42(新約聖書 164 頁)

みことばの歌 教会56番(1節) 主は来ませリ

1.主は来ませり、喜びの あふれいずる主イェスは。
神にいまし、人にます きよきみ子は来ませり。
天(あめ)もつちも語れかし、 「み子主イェスは来たまえり」。

説 教 「 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会311番(1節)  われらをすくうは

1.われらを救うは キリストのみぞ、
変わらぬ基(もとい)は 主のほかあらず。
罪人(つみびと)み前に 目覚(さ)むるときも
キリスト在(いま)せば 恐(おそ)れはあらず。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会359番(1節)みわたすかぎりに

1.見わたす限りに すみわたる大空(おおぞら)、
われらを造れる 主のわざを示す。
日ごとに恵(めぐ)みの ひかりをあたうる
み神の愛こそ げにもとぅときかな。

後  奏 主キリスト、神のひとり子よ J.Proger

2023年1月15日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「ライオンの穴」浅野 直樹 牧師



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【ライブ配信】2023年1月8日(日)10:30 主の洗礼 主日礼拝  説 教 「 天の声 」浅野 直樹 牧師



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2023年1月8日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「王様が見た夢」浅野 直樹 牧師



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【説教・音声版】2023年1月8日(日)10:30 主の洗礼主日礼拝  説 教 「 天の声 」浅野 直樹 牧師


聖書箇所:マタイによる福音書3章13~17節

本日は「主の洗礼」主日の礼拝ですので、イエスさまの洗礼の場面が日課として取り上げられていた訳ですが、その冒頭に出てくる言葉、「そのとき」とは、いったいどんな
「時」を指すのでしょうか。もうお分かりのように、直前に出てきます洗礼者ヨハネがヨルダン川で人々に洗礼を授けていた場面が、その「時」です。ご存知のように、当時行われていた洗礼とは、全身を水の中に沈める(浸ける)というものでした。「バプテスマ」という言葉の意味も、もともとはそういう意味です。では、そんなバプテスマ・洗礼にはどんな意図があったのか。ひとことで言えば「悔い改め」です。罪の「悔い改めのバプテスマ・洗礼」です。3章1節でこう記されているからです。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った」。

あるいは、その後の5節では、「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されている通りです。しかも、生半可な覚悟
では許されなかったようです。洗礼を受けにやってきたファリサイ派やサドカイ派の人たちに対して、こう言われているからです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。

これは、大変厳しい言葉です。このように、人々に徹底的に罪の自覚を持たせて、真剣な悔い改めを求めていったのが、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼(バプテスマ)でした。そこに、その洗礼の現場に、イエスさまが来られたのです。罪の自覚に悩まされて、悔い改めを、赦しを求めてやってきた多くの人々の列に連なって、イエスさまは順番を待って、来られた…。このヨハネから「悔い改めの洗礼」を受けるために。だから、ヨハネは困惑したのです。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られるのですか。』」と。

キリストの洗礼:アンドレア・デル・ヴェロッキオ (1435–1488) レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452–1519) ウフィツィ美術館



何週間か前、去年のことですが、待降節の中で何度かこの洗礼者ヨハネを取り上げた時がありました。ヨハネは神さまによって遣わされたイエスさまの先駆者だからです。しかし、そのヨハネでさえも、十二分にはイエスさまのことを理解できていなかったこともお話ししたと思います。11章にこうあるからです。2節以下、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」。自分が証しすべきメシアが本当にイエスさまなのかどうか、揺れる心の内が見事に描写されていると思います。そんな困惑は、実はすでに、この洗礼の時に芽生えていたようにも思うのです。なぜなら、洗礼者ヨハネが思い描いていた、待ち望んでいたメシアとは、このような方だったからです。

「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。洗礼者ヨハネが思い描いていたメシア・救い主とは、まさに終末の審判者メシアでした。神さまの厳正な正義のもとで人々を裁き、救いに至る者と滅びへと向かう者とを審判される、そんな自分なんか足元にも及ばないほどの遥かに優れた方だったのです。だからこそヨハネは、とんでもない、私こそがあなたから悔い改めの洗礼を受けるべき者です、というほどだった訳です。

そうです。これは何も、洗礼者ヨハネだけの特異な理解ではなかったはずです。神さまから遣わされるメシア・救い主とは、本来そういうもの。罪などない、少なくとも悔い改めの洗礼など全く必要としない、神さまの「聖」に与る存在。それがメシア。誰だって、そう思うはずです。現に、それが私たちの信仰でもある。ヘブライ人への手紙にもこうある通りです。「この大祭司は(これはイエスさまのことですが)、…罪を犯されなかったが、」。

そうです。私たちのメシア・イエスさまは罪を犯されなかったのです。罪の全くないお方です。そういう意味では、私たちとは根本的に違う。罪を犯さざるを得ない私たちとは違うのです。しかし、先ほどのヘブル書はこう語っていきます。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。

そうです。イエスさまは私たちとは違うのです。罪を犯されなかったのです。それにも関わらず、私たちと同じようになられたと語られている。だから、イエスさまは本来必要でもないのに、むしろ、私たちと同じになるために、悔い改めの洗礼を受けてくださった。それを拒もうとするヨハネを無理矢理に説き伏せるようにして、私たちと等しく赦しを必要とする罪人となってくださった。だからこそ、イエスさまは十字架の道を歩まれたのです。この洗礼の出来事自体が、既にその始まりを予告していると言っても良いのかもしれません。

イエスさまの洗礼は、ひとことで言えば「連帯」です。私たちと、しかも赦しを必要とする罪人である私たちと「連帯」するために、不必要な洗礼さえもあえて受けてくださいました。その「連帯」…、北森嘉蔵氏は「連帯保証人」とも表現しておられます。これは非常に面白い、また意味深長なご意見だと思っています。私は母親から口酸っぱく、いくら親しい仲だとしても、決して保証人・連帯保証人にはなるな、と言われてきました。ご承知のように、借金した人が返せなくなった場合は、肩代わりをしなければならないからです。これが、ある意味普通の感覚でしょう。なのに、イエスさまは、そもそも借金だらけの私たちと、しかもその借金を返すあてもないような私たちと、むしろ積極的に連帯してくださり、あまつさえ「連帯保証人」にさえなってくださっている。イエスさまの十字架を想う時、これはグッときてしまいます。

あるいは、ルターは結婚・婚姻関係と表現しています。現代では夫婦であっても財布は別々、といった感覚が主流になりつつあるのかもしれませんが、ルターの時代はもちろんそうではなく、夫婦とは全てのものを共有する存在でした。ですから、新妻である私たちの一切の負債を新郎であるイエスさまが自分のものとして丸ごと抱えてくださり、新郎であるイエスさまの豊かな富・祝福が、新妻である私たちにそのまま与えられる。そう表現したのです。いずれにしましても、この連帯は決してギブアンドテイクなどではありません。利害が一致するからではないのです。一方的にイエスさまが損をするだけです。ご自分の命を落とすほどに。それでも、イエスさまは私たちと連帯してくださる。私たちと共有したいと願ってくださっている。たとえ、悔い改めの洗礼であったとしても。それは、どれほど大きな恵みでしょうか。

しかも、それだけではないのです。洗礼を受けられた後、天からこのような声が聞こえてきたからです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。イエスさまは悔い改めの洗礼を受けられた後でも、いいえ、悔い改めの洗礼を受けてくださったからこそ、やはり「神さまの愛する子」なのです。私たちにとって連帯はありがたい。私たちのために罪人にまで降ってきてくださったことには感謝に堪えません。しかし、それでも、その上でも、イエスさまは神さまの愛する子、圧倒的な神さまの力を持つひとり子でもあられるのです。ですから、「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」とあるのです。イエスさまは神さまの霊を一身に受けられた力ある方でもあられる。

今日、旧約の日課としてイザヤ書42章が取り上げられていたのは、先ほどの天からの声、後半の「わたしの心に適う者」がこのイザヤ書42章からの引用だと考えられているからです。ちなみに、前半の「これはわたしの愛する子」は、詩編2編7節からの引用だと考えられています。ところで、このイザヤ書42章は、「主の僕の歌」と言われるものの一つで、有名なイザヤ書53章に代表されますように、イエスさまのことが語られていると受け止められてきました。その中に、こんな言葉があります。42章7節、「見ることのできない目を開き 捕らわれ人をその枷から 闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。神の子、主の僕であるイエスさまはそんな方でもある。

先ほど代表的と言いましたイザヤ書53章に「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」と記されていますように、私たちの現実は「迷える羊」なのだと思うのです。神さまから迷い出てしまった憐れな羊。それが、見るべきものが見えずに、捕らわれて不自由とされ、闇の牢獄の中に住んでいる状態なのだとも思う。旧約聖書には、たびたび神さまから離れてしまった当時のイスラエルの民たちの姿が描かれていますが、そこでは不正が蔓延り、弱者が虐げられ、貧富の差が開き、無実の人の血が流されている現実がありました。

まさに、今の世界です。今の世界もまた、人々は神さまから離れてしまい、見るべきものが見えなくなり、自分の欲望に捕らわれ、気付かぬうちにも闇の牢獄の中に住んでしまっているような状態。格差が広がり、貧富の差が広がり、人としての尊厳が無視され、無実の人の血が多く流されている。

そんな世界に、私たちと連帯するために、連帯のみならず、力ある神の子として、私たちを正しき、あるべき道へ、姿へと引き戻すために、もう迷える羊とはしないために、イエスさまは生まれ、洗礼を受けられ、十字架に命を捨て、復活してくださった。それが、あの洗礼者ヨハネですら掴みきれなかった、困惑してしまったメシア、イエスさまの姿なのです。

私たちは幸いにして、そんなイエスさまと結び付けられるために洗礼の恵みに与ることができました。また、そんな恵みを一人でも多くの人々に味わって欲しくて、宣教の業に励んでいきます。この新たな一年、2023年も、そんな年でありたい、と思っています。

【週報:司式部分】2023年1月8日(日)10:30 主の洗礼 主日礼拝 



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 佐藤 大司  浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  苅谷 和子

開会の部
前  奏 主キリスト 神のひとり子 ver1  シャイデマン

初めの歌 教会152番(1節) いざや主をほめよ

1.いざや主をほめよ 声のかぎりに
あめつちを治(し)らす 愛のみ神を。
なやめる心に 安きをたまいし わが主をたたえん。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
“父なる神様。
主イエスが洗礼を受けられたとき、あなたは「わたしの愛する子」と告げ、
聖霊によって油を注がれました。キリストと一つになる洗礼を受けるすべてのあなたの子どもが、
その召しに忠実であるよう、あなたの霊を与えてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン”

第1の朗読 イザヤ書 42章:1-9(旧約聖書 1028 頁)
第2の朗読 使徒言行録 10章:34-43(新約聖書 233 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 3章:13-17(新約聖書 4 頁)

みことばの歌 教会60番(1節) ちちなるかみの

1.父なる神の ひとりのみ子
主なるキリスト 世に来ませり。
主こそさやかに かがやきわたる
あしたの星。

説 教 「 天の声 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会317番(1節) 主イエスの血しおと

1.主イェスの血しおと その義(ぎ)のほかには
のぞみを求めず ただみ名にたよる。
いわなるキリスト かたきわがもとい
かたきわがもとい。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会320番(1節、4節) しあわせなことよ

1.しあわせなことよ キリストの血にて
罪をあがなわれ 救われた者は。

4.正義は輝(かがや)き 罪はおおわれて
恵みはあふれる 生きる日のかぎり。

後  奏 主キリスト 神のひとり子 ver2  シャイデマン

 

【説教】2023年1月1日(日)10:30 新年礼拝  説 教 「 新しい年のはじまりに 」浅野 直樹 牧師



聖書箇所:マタイによる福音書25章31~46節

「一年の計は元旦にあり」。
ご承知のように、教会の暦としてはすでに新しい年がはじまっている訳ですが(待降節からということになります)、やはり日本人の私たちとしては、この「元旦」というものが重い意味を持っているようにも思います。

しかも、今日は奇しくも何年かぶりに元旦と主日(日曜日)が重なりました。そんな思いで今朝の日課を読んでいますと、「おやっ」と違和感を感じたのは私だけでしょうか。今朝の福音書の日課は、いわゆる「終末(世界の終わり)」に関わる記事の一つだったからです。このめでたい一年のはじまりに、終わりについての記事が日課として与えられているとは、これいかに…。そう思わせられました。

しかし、よくよく考えてみれば、もっとものことなのかもしれません。なぜなら、何かをはじめるということは、その目的、ゴールがあるからです。別の言い方をすれば、ある目的、ゴールがあるからこそ、このようにはじめていこう、と「はじまり」についての心構えができるからです。そういう意味では、この一年のはじまりの元旦に、この一年の、あるいは、私たち自身の生涯の、世界の目的、ゴールを見つめ直す、ということは、有意義どころか、正しいことなのかもしれません。

先ほども言いましたように、今日の日課は、終末(世界の終わり)に関わる記事でした。その中でもここでは特に、審判について記されています。世界の終わりとは、審判の時でもあるからです。私は今、あえて「審判」といった言葉を使いました。通常は、「裁き」という言葉が使われるのかもしれませんが、しかし、この「裁き」といった言葉のニュアンスに、どうしても「処罰、刑罰」といったイメージがつきまとうからです。もちろん、刑罰といったニュアンスも確かにあります。今日の箇所でも、「こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」とあるからです。

しかし、本来はジャッジ(判定)することなのです。正しいか、正しくないか、ルールに則っているか、ルール違反をしているか、その判定をする。だから、審判。その分けられた結果として、祝福か刑罰かがある。そういう意味では、確かに厳しいのですが、つまり、何が言いたいかといえば、処罰するために「裁き」「審判」が行われる、ということではない、ということです。罰するために、刑を執行するために、「裁き」があるのではない。そうではなくて、判定されるということです。

私たちの言動が、生き方が、あり方が、判定される。その結果として、分かれ道が生まれる。ですから、そもそも終末・「審判の時」というのは、恐ろしいだけの時ではないのです。むしろ、報われる時でもある。今まで誰も認めてくれなくても、誰からも感謝されなくても、評価されなくても、最後の最後には神さまがちゃんと見ていてくださり、正しい判断をしてくださり、私たちが頑張ってきた、取り組んできたことにもちゃんと報いてくださる。祝福を与えてくださる。それが、終末・審判の時なのです。

では、何がその分かれ道になるのか。今日の日課で言えば、「最も小さな者の一人」にしたか、しなかったか、ということです。この「最も小さな者」というのが、一体誰を、どんな人たちを指すのかは、色々と議論されているところですが、今日は詳しくお話はしません。皆さんめいめいが、自分にとっての「最も小さな者」とは一体誰のことなのかを考えて頂ければと思います。ともかく、そんな「最も小さな者の一人」にしたか、しなかったかが、ある意味決定的な分かれ道になる、というのです。

ここで注意したいことは、この「最も小さな者の一人」はイエスさまではない、ということです。後者、処罰されてしまう人たちだって、イエスさまだとはっきりと分かってさえいれば、何がしらのことをしたでしょう。むしろ、それが何らかの功績になると思って、人一倍に熱心にしたかもしれません。だから、彼らはこう言い張るのです。「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。

ここには、もし知っていたなら、きっとお世話をしたはずです、といった思いが隠されていると思います。そうです。そういう意味では、この「最も小さな者の一人」とは、イエスさまのことではなかった。しかし、イエスさまは続けてこう言われる。「はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と。あるいは、前者、祝福された人たちに対しても、こう言われていました。

「『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」。

この両者を見てはっきりしていることは、いずれにしても、この「最も小さな者」がイエスさまだとは、誰も思っていない、ということです。この人たちに何かをすることが、イエスさまに奉仕することになるとは、誰も思っていない。そういう意味では、この「最も小さな者」とイエスさまは別物です。しかし、それにも関わらず、イエスさまは、この人にしたことは私にしてくれたことだ、とおっしゃる。それほどまでに、イエスさまは、この「最も小さな者」を心に留めておられる、ということでしょう。この人の幸いを誰よりも願っている。

先ほどは、この「最も小さな者の一人」とは、一体誰のことなのか、詳しくは話さない、と言いました。めいめい考えてほしい、と。確かに、時間の都合上も詳しくは話せない。しかし、「最も小さい」ということは、誰かの、何らかの助けが必要な人だ、ということは確かでしょう。それは、財産家か、貧しい人か、健康な人か、病を患っている人か、あまり特定するのは意味がないのかもしれません。なぜなら、誰もが助けを必要としているからです。金持ちだって、健康な人だって、そうでしょう。つまり、普段は小さくなくても、逆に大きく見えても、誰もが小さくなる時がある、ということです。つまり、私たちも、です。私たちも小さくなる。小さな一人になる。

そんな私たちに、水一杯でも差し出してくれるなら、それはイエスさまに奉仕したことと同じなのだ、とおっしゃってくださるのです。もちろん、逆もそうです。私たちが、誰かに水一杯を、まことに小さな奉仕をする。それは、知らず知らずの内に、イエスさまに奉仕していることになる。それほどまでに、イエスさまは、私たちも含めて、この小さき者たちを、そういう意味では、世界中の全ての人たちを心に留めておられる。その一人一人の幸いを願っておられる。お互いに助け合うことを望んでおられる。そうではないか。

先ほどは、「小さな奉仕」と言いました。ある方も指摘されているように、ここに出てくるのは、それほど大したことではありません。皆さんも、全部とは言えなくとも、一つ二つは経験があるのではないでしょうか。実は、それが大事なのです。大それたことでは決してない。本当に小さな、わずかなこと。しかも、イエスさまは、「この最も小さな者の一人に」と言っておられる。一人です。たった一人でも良いのです。

なぜ私たちは、仕えることが、奉仕することができなくなるのか。こんなものは小さすぎて役に立たない、と思うからです。こんなことで、人が救えるのだろうか、と思うからです。その人の生活を改善できるのだろうか、と思うからです。もちろん、そうできたらいい。そういった社会が望ましい。しかし、ここで言われているのは、そうではない。水一杯でいい。一食分でいい。使わなくなった着物でいい。不安になっている人、孤独に陥っている人と、いっとき交わるだけでいい。その人の人生を丸ごと抱えるなんてできない。その人の問題を根本的に解決することなどできない。その人の生活を保証してやることもできない。

自分の生活を、家族を犠牲にしてまで助けることなどできない。無力さを感じながら、大した犠牲も払えない、生活を変えてまではできないと多少の後ろ暗さを覚えながら、こんなことをしたって結局は偽善でしかないのではないかと戸惑いながら、献金箱・募金箱に幾らかばかりのお金を投じるだけなのかもしれません。もちろん、それで十分だ、完璧だ、もうやり残したことはない、ということではないでしょうが、それでも、そんな小さなことでも、不十分で、申し訳なくって、役に立てているようには思えないようなごくごく小さなことでも、イエスさまは「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と受け止め、評価し、喜んでくださっているのです。

もちろん、私たちの信仰の基本は、「信仰義認」です。恵みによって、一方的な神さまの恵みによって救っていただけるのです。自らの力、善行で救いを勝ち取るのではない。もちろん、そう。しかし、私たちは今年、「一年の計は元旦にあり」という元旦に、この御言葉が与えられたのです。ならば、私たちはこの御言葉からこの一年をはじめていきたいと思う。

たとえ小さなことであったとしても、こんなこと役に立つのかと思えるようなことであったとしても、私たちの助けを必要としている人々に対して、小さな業を積み重ねていきたい。また、この私たちに対して、小さな業をしてくれた人々に感謝していきたい。そのようにして、ほんの少しでも、少しずつでも、イエスさまが望まれた世界、神の国の実現に繋げていきたい。そのための宣教にも励んでいきたい。

そう願っています。

【週報:司式部分】2023年1月1日(日)10:30 新年礼拝 



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 酒井 瞳  浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子(オルガン)、中山義恵(トロンボーン)

開会の部
前  奏 旧き年は去りぬ J.S. Bach

初めの歌 教会48番(1節) ちからのみかみよ

1.力のみ神よ 新しき年も
み恵みをくだし 喜びをたまえ。
アーメン。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
“永遠の神様。あなたは時空の世に人を据え置き、
日々の暮らしの中で愛を示し、私たちを祝福してくださいます。
新年の初めにあたり、私たちが生きて働くあなたにいつも気づきながら、
この一年間、喜びにあふれた日々を送ることができるよう導いてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、
永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン ”

第1の朗読 コヘレトの言葉 3章:1-13(旧約聖書 1036 頁)
第2の朗読 ヨハネによる黙示録21章:1-6(新約聖書 477 頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マタイよる福音書 25章:31-46(新約聖書 50 頁)

 

みことばの歌 讃美歌21 365番(1、2節) ふるいとしはゆく

1.古い年は行(ゆ)く。感謝しよう、主イエスに。
主は悩みの時 常に守られた。

2.神のひとり子(ご)に われらみな祈る。
キリスト者(しゃ)たちを お守りください。
アーメン。

 

説 教 「 新しい年のはじまりに 」浅野 直樹 牧師

 

感謝の歌 教会394番(1節)  主よおわりまで

1.主よ終わりまで 仕えまつらん
ときわに近く 在(いま)したまえ。
主ともにませば おそれはなく
みちびきあれば さまようまじ。

2.この世(よ)のさまは 目をまどわし
罪のささやき われをさそう。
内外(うちと)のてきに 悩むときも
み国にいまし まもりたまえ。
アーメン。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会49番(1節) あたらしいとしを

1.新しい 年を迎えて 新しい 歌をうたおう。
なきものを あるがごとく 呼びたもう 神をたたえて
新しい 歌をうたおう。

後  奏 新しいうたを Martin Luther

【ライブ配信】2023年1月1日(日)10:30 新年礼拝  説 教 「 新しい年のはじまりに 」浅野 直樹 牧師


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2023年1月1日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校  お話「ダニエルと3人の友人」浅野 直樹 牧師 ※新年特別版



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