2021年4月18日~ 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 Live配信 】2021年4月18日(日)10:30 復活節第3主日礼拝  説教 「 疑いの中で 」 浅野 直樹 牧師 」



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【説教】2021年4月18日(日) 10:30 説教 「 疑いの中で 」 浅野 直樹 牧師

復活節第三主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書24章36~48節



今、私たちは復活節の中を歩んでいます。ですので、当然聖書のテキストはイエスさまの復活に関わる箇所が取り上げられて来ましたし、また、復活の出来事について思いを向けて参りました。しかし、正直、復活を信じることは、決して容易いことではないことも覚えます。むしろ、十字架と復活は、宣教的に考えるならばマイナス面と言えるのかもしれません。ですから、そういった躓きの要素を取っ払ってしまって、愛の教えや「山上の説教」に代表されるような人生の意義を説いていった方が、宣教の成果に苦しみ喘いでいる私たちの教会にとっては突破口になるのかもしれない。そういった考えが起こるのも不思議ではありません。現に、聖書の時代にも既に見られるものです。

「エマオのキリスト」(1648年)レンブラント ルーブル美術館



先週の日課であるヨハネによる福音書20章では、残された弟子たちは、「家の戸に鍵をかけ」閉じこもっていたことが記されていました。なぜならば「ユダヤ人を恐れて」いたからです。イエスさまの十字架の死は、弟子たちの「イエス・キリストの弟子としての命」を奪うには十分な出来事だったのです。彼ら弟子たちは、イエスさまの弟子としては死んでいました。もし、イエスさまが十字架ではなく、英雄として命を落とされていたならば…、志半ばでの非業の死を遂げられていたとしたならば、弟子としての命はまだ続いたのかもしれません。むしろ、その命は燃え立たされ、先生のためにと、新たな活動へと(たとえそれがレジスタンス的なものであったとしても)進んで行けたのかもしれない。

しかし、イエスさまは十字架で死なれた。罪人の一人として処刑された。全くの敗北者として。これは、イエスさまに敵対する勢力の圧倒的な勝利だと思います。弟子たちも同時に葬り去ることに成功したのですから。
もし、十字架で全てのことが終わってしまったとしたら、何も残らなかったでしょう。何も…。そう、前述の愛の教えも「山上の説教」も何一つ残らなかった。よくあるように、辺境の片隅で起こったひとときの出来事として、誰にも顧みられず、歴史の中に埋もれてしまっていたに違いない。弟子たちが立ち上がることがなければ、鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちが外に出て行くことがなければ、キリスト教なるものはこの世界に存在しなかったでしょう。私はそう確信する。

では、なぜ弟子たちは立ち上がれたのか。なぜ弟子たちは外の世界へ、しかもそこは未知なる世界、危険を孕んだ世界に飛び出して行くことができたのか。皆さんも自分のこととして考えてみて頂いたら良いと思います。もし、弟子の境遇にあった自分が立ち上がることができるとすれば…。いいえ、ただ立ち上がるだけではない。立ち上がって、悲しみを乗り越えて元の生活に戻るのではない。なおも十字架で死なれたイエスさまを救い主として、復活の主として証しして行くことができるとすれば、そこに一体何が起こったのかと、自分をそれほどまでに変えたものは一体何だったのかと、考えてみていただければと思います。ともかく、復活は信じ難いことです。それを否定したり、矮小化する必要はありません。むしろ、その真実にしっかりと目を向けるところからしかはじまらないのかもしれません。

当初からイエスさまの復活を信じた人は誰もいませんでした。復活のイエスさまを探す人もいませんでした。むしろ、人はイエスさまの亡骸を求めました。死を事実として受け止めるために。また、復活の証人の言葉も信じませんでした。それが、人の、私たちの偽らざる姿です。そうです。私たちは信じないのです。信じられないのです。イエスさまの言葉、約束も、その真実の姿も。私たちは、私たちの理解を超えたものをなかなか信じることができない。受け止めることができない。そんなことは、はじめから重々承知なのでしょう。だから、いつもイエスさまからはじめてくださる。イエスさまの方から来てくださる。亡骸を求め、見つけられずに悲嘆に暮れるマグダラのマリアに出会ってくださったのは、復活の主、イエスさまの方からでした。家の戸に鍵をかけ閉じこもっていた、閉じこもることしかできなかった弟子たちを訪ねてくださったのは、イエスさまの方です。

とぼとぼと失意のうちに戻るしかなかった弟子たちに近づいてきてくださったのもイエスさま。イエスさまの方がいつも働きかけてくださった。今日もそうです。復活のイエスさまと出会ったと聞かされても信じることができず、途方に暮れている弟子たちの真ん中に現れてくださったのは、復活のイエスさま。その姿を見ても、まだ信じられず、幽霊だと思い込んでいる弟子たちに、手や足をお示しになったのもイエスさま。

トーマスの不信 レンブラントRembrandtプーシキン美術館 1634年



先週の福音書の日課は、「疑り深いトマス」の物語でもありましたが、今日の物語と似ていることに気づかれたでしょうか。ご存知のように、復活のイエスさまが現れた時、そこに居合わせなかったトマスは、イエスさまの手の釘跡に自分の指を突っ込んでみなければ、その脇腹の傷跡に自分の手を差し込んでみなければ、決して信じない、と言い放ったのです。そして、次の日曜日、今度はトマスも一緒にいた弟子たちの中に復活のイエスさまが現れ、トマスが望んだように、あなたの指をこの私の手の傷跡に触れてみなさい、私の脇腹の傷にあなたの手を入れてみなさい、と告げられました。そして、こう言われた。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。イエスさまはいつもこうです。私たちを信じる者とするために、一所懸命にしてくださっている。今日の箇所でも、幽霊だと怯えている弟子たちにご自分の手や足を示されたのも、そうでしょう。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。その一心でしてくださっている。それでも、まだ信じ切ることのできない弟子たちのために、魚まで食べて見せられた。考えてみれば、ちょっと笑っちゃいます。全然、神秘的でも何でもない。神の子です。復活の主です。ご自分の復活を証明するために、もっとやりようがあったのではないか、とも思う。もっとこう神々しく…。しかし、弟子たちは美味しそうに魚を頬張っておられるイエスさまの姿を見て、思い出したのではないか、と思う。いつもの食卓のあの懐かしいお姿を。ああ、本当にイエスさまは復活されたのだ。紛れもなく、ここにおられるのは、私たちの先生だ、と。

おそらく、私たちは誰も復活を信じることはできないでしょう。人の力量としては無理なことです。ただし、それは、復活の主が本当におられなければ、の話しです。もし、本当に、十字架で終わってしまっているとするならば、私たちの信仰も何も残らなくなってしまうのかもしれません。復活がなければ、十字架も霞んでしまうからです。復活の主がいてくださる。イエスさまは私たちのために、確かに肉体を持って、紛れもなくご本人として復活してくださった。そして、誰一人信じようとしない弟子たちの中で、不思議なことをはじめてくださった。この私たちのためにも。

不信仰…。上等です。復活など信じられない…。当然です。それが、紛れもない私たちです。しかし、そんな私たちの只中で働いてくださっているイエスさまを否定してはいけません。私たちではない。イエスさまが働いてくださっている。イエスさまが信じようとしない私たちに向かって、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とご自身を示してくださっている。そして、私たちの中にそんなささやきが響き渡って何かが芽生えはじめるのです。私たちではない。イエスさまの業です。それを拒んではいけません。その芽を摘んではいけません。この時ばかりは、「信じられない」という自分に素直にならないで、ただ心を開くことです。自分自身を信じるのではなく、イエスさまを信じると。でないと、せっかくのそれは幽霊になってしまうかもしれません。そして、結局、何も残らなくなってしなうかもしれない。

もちろん、私たちはそんなことは求めていません。イエスさまを、その復活を、その意義を信じたいと思う。だからこそ、このイエスさまの働きに、もっと素直になっていきたいと思うのです。

祈 り
新型コロナの蔓延、また変異株の増加で、今大阪の医療現場が大変な状況になっていると聞きます。すでに重症患者数は確保病床を上回り、治療が行き届かなくなっています。また、医師、看護師たちも疲弊しています。どうぞ、憐んでください。このような状況下に
なっても、なかなか人の流れがおさまりません。どうぞ、一人一人の心に働いてくださり、他者を思いやる行動をすることができますようにお導きください。また、政府、行政の対応も速やかに行われますようにお導きください。首都圏も予断を許さない状況になって来ました。どうぞ、私たちをもお守りくださいますようにお願いいたします

ルーテル学院大学、神学校の新たな年度の歩みをどうぞ豊かにお導きくださいますようにお願いいたします。新型コロナの蔓延で、今後どうなるかは分かりませんが、新入生も多く与えられましたので、彼らの学びやまた学校生活などが守られて、整えられていきます
ように、どうぞお助けください。また、教師・職員もお守りください。
家族を亡くされ、辛い思いをされておられる方々が多くおられます。どうぞ、憐んでくださいますように。平安と希望に満たしていってくださいますようにお願いいたします。

悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月18日  復活節第3主日礼拝



復活節第3主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

前  奏  喜べキリスト者よ  J. S. Bach

初めの歌 教会190( 主のみ名によりて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

– 特別の祈り –
全能の神さま。
羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から引き上げられた全能の神さま。
私たちを羊飼いとして送り出し、失われた人々、傷付いた人々に、み言葉をもって仕える者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 3:12-19(新約 218頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 3:1-7(新約 443頁)
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ルカによる福音書 24:36-48(新約 161頁)

みことばのうた 教会107( 死に勝ちたもう )3節

説  教 「 疑いの中で 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会344( み顔をあおぎて )1、5節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会361( 世につげよ )1節

後  奏 明るき太陽は今や輝きあらわる K. Brod

2021年4月11日~ 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



【説教・音声版】2021年4月11日(日) 10:30 説教 「 鍵がかけられていたのに 」 浅野 直樹 牧師 」

復活節第二主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書20章19~31節

先週は…、昨年は新型コロナの影響で残念ながら皆で集うことはできませんでしたが、復活祭を共々に祝えたことは、大変嬉しいことでした。また、クリスマス礼拝以来久しぶりに聖餐式も行うことができました。本当に感謝でした。

また、新規陽性者数が増え始め、変異株のこともあり、東京も『まん延防止等重点処置』が明日から適用されることになりましたので、今後どうなるかは分からなくなってしまいましたが、「当たり前」だと思っていたことが当たり前ではなかったということを、私たちは改めて噛み締めているのかもしれません。

レンブラント・ファン・レイン: マグダラのマリアに現れる復活したキリスト The Risen Christ Appearing to Mary Magdalene 1638年、Royal Collection of the United Kingdom



本日、復活節第二主日に与えられました福音書の日課には、あの有名な「疑り深いトマス」の物語りが出てまいりました。しかし、今日は、あまりこのトマスに触れるつもりはありません。そうではなく、主に前半の物語にポイントを置いて見ていきたいと思っています。

今日の箇所の出だしに、「その日」とあります。もちろん、これはイエスさまが復活された日です。先週の復活祭では、その日の早朝に起こったマグダラのマリアの物語を中心に見ていきました。彼女は、まだ日が上る前にイエスさまの墓を訪ねたのでした。それは、先週も話しましたように、自分なりにイエスさまの死を整理するために、あるいは、現実の死と受け止めながら今生の別れをするために、だったのかもしれません。そのマリアは復活のイエスさまとお会いすることになります。そして、今体験した出来事を伝えに弟子たちのところに向かいました。「わたしは主を見ました」と。

その同じ「その日」です。イエスさまが復活された「その日」の夕方に弟子たちは何をしていたか。「自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。鍵をかけ、家の中に閉じこもっていた。先程のマリアと何と違っていることでしょうか。彼ら弟子たちは、イエスさまの墓を尋ねようともせず、その亡骸と相対そうともせず、ちゃんとした別れもしなかった。同じように、イエスさまの言葉の真意を、復活を信じられなかったかもしれない。

誤った動機だったかもしれない。しかし、それでも、やはり自分なりのイエスさまへの愛が勝ったマリアは復活のイエスさまと出会うことができた。しかし、弟子たちは、家の中に閉じこもることによって、それらのチャンスを自ら締め出してしまっていたのかもしれないのです。では、なぜ彼らは家の中に閉じこもっていたのか。「ユダヤ人を恐れて」と記されています。

確かに、イエスさまを排除することができたユダヤ人当局者たちが次にターゲットにするならば、弟子たちでしょう。弟子たちも当初は、甘く見ていたのかもしれません。たとえ捕まえられたとしても、死刑までとは考えてはいなかったのかもしれません。あれだけ民衆に支持されていた自分たちの先生が、まさか死刑にされることはないだろう、と。しかし、あれよあれよとイエスさまは十字架に磔にされて殺されてしまわれた。今度は、自分たちの番かもしれない。想像上のことでしかなかったことが、まさに現実のこととなったことの恐ろしさを私たちも知っているはずです。あの大災害のように…。だから、鍵をかけ締め切った。しかし、それだけを、つまり歴史的な現実だけを恐れてのことだったのか、と言えば、そうでもないように思うのです。つまり、心も閉ざして何人たりとも入れないようにしていたことも意味するのではないか、ということです。

私たちも心を閉ざしてしまうことがあります。誰の声も入ってこれないほどに、閉じこもってしまうことが。愛する者を、大切な人を亡くした時、私たちは慰めの言葉も受け付けなくなってしまうことがある。とてつもない不幸に襲われた時、誰も私の気持ちなど分かるまい、と善意を締め出し心を閉ざす。失敗をした時、大きな過ちをしてしまった時、自分を責めることに夢中になり、弁護の言葉さえも締め出してしまうことがある。そして、自分の惨めさを知った時。いかに自分が小っぽけな存在で意味のない人間なのか、と知らされた時、こんな自分であることを悟られることが恐ろしくなって心を閉ざす。弟子たちもそうだったのではないだろうか。愛する師、イエスさまが死んでしまった喪失感、絶望感。イエスさまに託していた夢、人生そのものが潰えてしまった失望感。イエスさまを見捨てたという罪悪感。たとえ囚われることになっても、命を落とすことになっても、決してあなたを知らないなどとは言わない、と大見えを切った自分の惨めさ。それらの心の殻は、イエスさまご自身をも締め出すものでもあったのでしょう。

ルカによる福音書では、復活のイエスさまを亡霊・幽霊だと錯覚したとの記事が載せられていますが、そういった思いがなかったとは言えないのかもしれない。たとえイエスさまの亡霊、幽霊であっても、来てもらっては困る、と。どうせ、恨みを晴らすために、怒りをぶつけるために来られるに違いないから、と。そして、彼らは孤独だったのかもしれない。弟子たちの何人がここに集まっていたのかは分かりません。しかし、恐らく誰も口を開かなかったのではないか。なぜなら、口を開けば、他の者を責める言葉、自分が責められる言葉しか出てこなかったでしょうから。最初に逃げ出したのは誰か、と。誰に責任があるのか、と。心のうちを打ち明けられない。自分の弱さを曝け出すことができない。それは、たとえ集団の中にいたとしても孤独なものです。そんなふうに、彼らは家の入り口に鍵をかけ、閉じこもっていた。後から来たあのトマスも同様です。彼もまた、鍵をかけ閉じこもっていた。

復活などとても信じられない、と。他の弟子たちには現れてくださったのに、なぜ自分の前には現れてくださらなかったのか、と、心を固く閉ざしていた。
その只中に、復活のイエスさまは現れました。鍵をかけ、家の中に、心の中に固く閉じこもっていたその中に、その只中に復活のイエスさまは来られた。「あなたがたに平和があるように」と。彼らが心底心配し、それゆえに固く閉ざしていたのに、イエスさまはそんなことには何一つ触れることなく、ただ「平和があるように」と祈り、祝福してくださった。これは、まさに赦し以外のなにものでもないでしょう。彼ら弟子たちの存在そのものが救われたのです。

みなさんは、「心の雪解け」を経験されたでしょうか。私の場合は、母との確執でした。母は大変厳しい人でした。他の兄弟たちには見られない厳しさを、私は受けてきました。それゆえ、幼い頃から母を求めつつも、恐れ、遠ざけてきた。そんな母が私に厳しくあたった理由を語り、謝ってくれた。私が18、9の時です。本当に雪解けとは良く言ったものです。私の冷たい、頑なになっていたものが、どんどんと溶けていくように感じました。全身の硬さがほぐれ、血が通う暖かなものになっていくのを感じた。もちろん、同じではありませんが、弟子たちにも、そんな頑なさが崩れていく、溶けていく、溶かされていく経験をしたのではないか、と想像するのです。冬の雪が溶けて、暖かな日差しの中で土が柔らかになり、草花が芽吹く春の大地のように。

もう、閉じこもらなくても良い。締め付けなくても良い。手をキツく握りしめ、頑なにならなくても良い。そんなふうに、何とかして自分自身を守り抜いて、保たせようとしなくとも良い。もう、全てを、洗いざらいを明け渡して良い。弱さも、醜さも、罪深さも、至らなさも、何もかも。なぜなら、もう責められることがないから。全てを赦し、こんな私を暖かく包み込んでくださる「復活の主」がいて下さるから。それが、それこそが、共に歩んできた私たちの主イエスさまの真の姿。それが、神の子の姿。だからこそ、そんな神の子の真の姿を味わった彼らだからこそ、罪の赦しの権限を授けられたのではないか。そう思うのです。

この物語は、誰もイエスさまを、復活のイエスさまを探しにいきません。誰一人として、です。むしろ、彼らはそんなことも出来ずに、ただ閉じこもるしかなかった。そこに、イエスさまが来てくださった。私たちには、この二つの物語り、マグダラのマリアの物語りと弟子たちの物語りが与えられていることに感謝したいと思う。そして、どちらの物語りにしても、結局はイエスさまの方から訪ねて来てくださっていることに心を向けたいと思うのです。私たちもまた、同じだからです。イエスさまが来てくださった。私たちの内に。不思議な力で。奇跡としか思えない方法で。だから、今の私たちがある。赦しと新しい命に踏み出していくことができる。そうではないでしょうか。

 

祈り

神さま。今、大阪をはじめとした関西方面が大変なことになっています。変異株による急激な感染者数の増加によって、医療現場、特に重症病床が逼迫していると言われています。また、この変異株は、従来型よりも感染力が強いばかりでなく、比較的感染しにくいと言われていた子どもたちも感染しやすいようで、また比較的若い30代、40代の人々でも重症化しやすいとも言われています。どうぞ、憐んでください。自粛疲れとはいえ、あまりに多くの人々が動き始めました。感染対策をしているとはいえ、やはり人の動きが感染を広げる原因になります。もう一度、意識を新たにして、うつらない、うつさないとの感染対策を市民一人一人がしっかりと意識づけていくことができますようにお導きください。

東京でも徐々に感染者数が増えており、しかも、変異株の割合が増えているとも言われています。明日から「まん延防止等重点措置」が適用されますが、感染が抑えられていきますようにお導きください。せっかく入学式も終え、これからという時に、また新型コロナの感染が拡大してしまいました。またどのような学校生活になるか、分かりませんが、新入生ばかりでなく、学生・学童・園児たちをお守りくださり、それぞれの歩みを豊かに送ることができますようにお助けください。

4月からこのコロナ禍に対応した教会学校の様々な取り組みがはじまっていますが、どうぞ子どもたちがイエスさまと出会っていくことができますようにお導きください。そのために奉仕して下さるお一人お一人の上にも、主の顧みがありますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月11日  復活節第二主日礼拝

復活節第二主日礼拝


司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 萩森 英明

前  奏  「死に勝ち給いし主」D. Buxtehude

初めの歌 教会157( ほめまつれ )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
全能の神さま。
主の復活を喜び祝っている私たちを助け、すべての言葉と行いによって、復活の力を伝えさせてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 使徒言行録 4:32-35( 新約 220頁)
第2の朗読 ヨハネの手紙一 1:1-2:2( 新約 441頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書20:19-31( 新約 210頁 )

みことばのうた 教会106( 憂いをさちに )1節

説  教 「 鍵がかけられていたのに 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会328( 主イェスに従う )1節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会344( み顔をあおぎて )1、5節

後  奏 「死に勝ち給いし主」J. Pachelbel

【 Live配信 】2021年4月11日(日)10:30 復活節第二主日礼拝  説教 「 鍵がかけられていたのに 」 浅野 直樹 牧師 」



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【説教・音声阪】2021年4月4日(日) 10:30 説教 「そして涙は拭われる 」 浅野 直樹 牧師 」

復活祭聖餐礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書20章1~18節

私たちは、愛する者の死の痛みを知っています。私は牧師ですので、これまでも多くの葬儀を行ってきましたが、時には棺にしがみつき、泣きじゃくる方もおられました。心が痛みました。そうではな くても…、たとえご葬儀の時に涙を流されなくても、死・死別の辛さ、悲しみはあるものです。それが、「死」というものです。

近頃、「曖昧な喪失」といった言葉がよく聞かれるようになりました。あの東日本大震災に代表されるような災害の時によく現れる現象だと言われます。突然の死別、ご遺体も見つからない、そんな、ちゃんとした別れの作業ができなかった心の穴が、長期間それらの方々を苛むからです。それは、最近の新型コロナにおいてもいえる、と言われます。ご存知のように、新型コロナに感染された方には、基本的に面会ができません。看取ることもできない。今でも通常のご葬儀が行えないことが多いようです。そういった「通常」とは違った死別が「曖昧な喪失」を生むと言われるからです。

今日の福音書の箇所に、マグダラのマリアが登場して参ります。マルコ福音書やルカ福音書によりますと、このマリアは「七つの悪霊」を追い出して頂いた女性だと言います。イエスさまによって救って頂いた女性。人生を変えて頂いた女性。生きる意味を取り戻すことができた女性。ですから、このマリアにとってイエスさまは大恩人な訳です。ですから、彼女はイエスさま一行と行動を共にし、彼らの身の回りの世話をした。自分にできることでイエスさまに仕えてきました。ほんの少しでも、イエスさまに恩返しがしたかったのかもしれません。そのマグダラのマリアは、「週の初めの日、朝早く」に、つまり日曜日の早朝、まだ日が上りきる前にイエスさまの墓を訪れていました。

ジョット 1303-06年ごろパドヴァ スクロヴェー二礼拝堂『 キリストの復活とノリ・メ・タブゲレ(我に触れるな)』



このマグダラのマリアをはじめとした女性たちにとっては、イエスさまの死は弟子たち以上にショッキングな出来事だったのかもしれません。なぜなら、弟子たちほどには、事細かにこれから起こるであろう出来事についての説明がなされていなかったでしょうから。つい数日前、皆がこぞってまるで王を歓待するかのようにイエスさまを迎えたのです。おそらく、その場にいたであろうこの女性たちも、誇らしかったのではないでしょうか。皆が私たちの主を喜んでいる、と。それなのに、あれから数日しか経っていないのに、捕らえられ、裁判にかけられ、死刑の判決がくだされ、あれよあれよのうちに十字架に磔にされて死んでしまわれた。誰が想像できたでしょうか。まさに、理解する間もなく怒涛のように過ぎ去った一日だったのではないか、と思います。

しかし、この女性たちは、イエスさまの死を受け止めざるを得なかったのではないでしょうか。なぜなら、見ていたからです。目撃していたからです。血を流し、磔にされたイエスさまを。苦痛に歪むその顔を。命を削るかのような粗い息遣いを。そして、とうとう動かなくなった。全身から力が抜け落ち、首を垂らしてピクリとも動かない。終いには、その死を確認するかのように、槍で脇腹を一突きされ、血と水が流れ落ちた。誰の目にも明らかでした。イエスさまの死が。それは、この女性たちにも否定できなかったことです。もう受け止めるしかなかった。しかし、それでも、このマグダラのマリアをはじめとした女性たちにとっては、

「曖昧な喪失」だったのかもしれません。受け止め切れない、事実だけれども真実になり切れていない死として…。だから、マリアは安息日が終わるとすぐに墓に行ったのかもしれません。イエスさまの亡骸に触れて、そのイエスさまに語りかけて、別れをするために。真実の死とするために。しかし、墓にはイエスさまの遺体はなかった。

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン Rogier van der Weyden 「十字架降架」(1435-1438)プラド美術館(マドリード)



「マリアは墓の外に立って泣いていた」と言います。愛する者の死で悲しむのは当然ですが、しかし、ここでマリアが「泣いて」いたのは、遺体が見当たらなかったからです。彼女が求めていたのは、イエスさまの復活ではありません。イエスさまの遺体です。真実の死です。そして、その死にすがって、思い出に生きようとする自分自身のケジメです。それは、私たちにもよくわかることです。そうでないと、私たちもまた立ち上がることができなくなるからです。

実は、ここに大きな課題があるようにも思うのです。私たちは、「死」に対抗する手段は「死」でしかない、と思っている節がある。言葉を変えるなら、「諦め」です。なるべく良い死の捉え方をして、納得させようとする。そのためには、真実の死にするしかありません。もう彼は、彼女は死んだのだから、二度と戻っては来ないのだ、と。しかし、私たちには、そんな彼らとの暖かな思い出があるのだ、と。だから、大丈夫、立ち上がっていけるのだ、と。しかし、そんな私たちの死との向き合い方にイエスさまはチャレンジをされる。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。「マリア」…。

いくら立派なお葬式をしても、立派なお墓を立てても、いっぱい思い出を持っていても、踏ん切りをつけたつもりでも、勝てないものがある。その人自身です。その人自身の声、呼びかけです。「マリア」…。彼女はどんな思いで答えたでしょうか。「ラボニ(先生)」と。遺体が見つかるよりも遥かに嬉しかったに違いない。そして、それは、私たちも夢見てきたことです。愛する者が復活して、私の名前を呼んでくれることを…。

使徒パウロは、今朝読まれた使徒書の日課の後で、このように語っています。12節以下。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。イエスさまが真に復活して下さったこそ、マグダラのマリアの前に現れ、「マリア」と呼びかけてくださったからこそ、私たちもまた、愛する者の復活を、この私たち自身の復活を信じることができる。死を死でなんとか手懐け、心許ない慰めに生きるのではなくて、真の希望と喜びに
生きることができる。いいえ、たとえ死・死別の悲しみにのたうち回ることになっても、深いところから響き渡る安心・平安の調べに心委ねることができるようになる。復活のイエスさまがいてくださるから。そうではないでしょうか。

イエスさまは復活なさいました。私たちもまたこの復活の命と希望とに生きることができるようにと復活してくださったのです。本当に感謝です。
復活祭(イースター)、おめでとうございます。



祈り
本日は、コロナ禍ではありますが、復活祭を共々に祝うことができましたことを心より感謝いたします。また、礼拝前には、普段とは違った形になりましたが、子どもイースターの集まりをすることができましたことも感謝いたします。私たちの救い主、主イエス・キリストは、私たちのために十字架に死に復活してくださった。これが私たちキリスト教会にとって最も大切な出来事です。ここに、使徒の時代から今日まで、救いと希望と愛をキリスト者たちは見出してきました。どうぞ私たちもまた、そんな先人たちと共々に、この信仰に堅く立ち、希望と喜びと愛に生きることができるように、これからも豊かにお導きください。

また、この福音を宣べ伝えることも私たちには託されていますので、コロナ禍ではありますが、あらゆる機会を用いて証ししていくことができますように、私たちを聖めお用いください。

今日から神学生が当教会で実習をされます。どうぞ、神学生の学びを祝し、この教会での実習もこれからの働きに生かしていくためも良い経験となって行けるように、お導きくださいますようお願いいたします。

4月1日から5月末までの予定で大規模修繕工事が始まりました。すでに、足場の設置が完了していますが、どうぞ、これからの工事を導き、お守りくださいますようにお願いいたします。特に作業される方々をお守りくださり、事故などが起こりませんように、また、近隣の方々の迷惑などにもなりませんように、お導きくださいますようお願いいたします。

4月から就職、進学、進級など新しい環境になられた方々をどうぞお守りくださり、1日も早く慣れて、良い歩みをすることができますようにお助けください。悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を
注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【週報:司式部分】 2021年4月4日  復活祭聖餐礼拝

復活祭聖餐礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

前  奏 Festive Trumpet Tune D.German

初めの歌 教会87( うれしき朝をたたえよ )1節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部

– 特別の祈り-

御独り子イエスによって死を征服し、永遠の生命の門を開かれた全能の神さま。
み霊の息吹によって私たちを新しくし、私たちの思いと行いのすべてを祝福してください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 25:6-9( 旧約 1098頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙第一 15:1-11( 新約 320頁 )
ハレルヤ唱 (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 20:1-18( 新約 209頁 )

みことばの歌 教会95( よみがえりの日 )1節

説教 「 そして涙は拭われる 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会97( 主死にたまえり )1節

信仰の告白 ニケア信条

奉献の部 オーボエソナタ BWV1030 第2楽章 J.S.Bach oboe : 槙 智子

派遣の部
派遣の歌 教会453( われは信ず )3 節

後  奏 教会讃美歌453番による後奏曲 F.Nagler

【 Live配信 】2021年4月4日(日)10:30 復活祭聖餐礼拝  説教 「そして涙は拭われる 」 浅野 直樹 牧師 」



Youtubeでご視聴の方は以下をクリックしてください。

2021年4月4日~ 9時30分「子どもと家族の礼拝 」Youtube配信が始まります!

どうぞお楽しみに。



Coming Soon!!




 

 

 

2021年4月4日(日)イースターエッグをさがそう!

Happy Easter!!
いっしょに、公園でイースターエッグをさがそう!!

日時:4月4日(日)午前9時~9時30分
場所:しらさぎふれあい公園
集合:ルーテルむさしの教会


・かわいいプラスチックのタマゴを探そう !
・タマゴを見つけた人にはステキな プレゼントがあります
・雨の日は教会からプレゼントがあります
※マスク着用をお願いします。

どなたもお気軽にご参加ください、お問い合わせは教会まで

お問い合わせ:ルーテルむさしの教会
TEL:03-3330-8422
E-mail:musashino@jelc.or.jp

【週報:司式部分】 2021年3月28日  枝の主日・主の受難主日礼拝



司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏 教会賛美歌80番のメロディによる前奏曲 N.W.ポーウェル

初めの歌 教会80( みさかえあれ )1、3節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部

特別の祈り

全能の神さま。
あなたはみ子イエス・キリストを世に送り、十字架の死に渡されました。
み子と共に、私たちがその従順と復活の勝利に与る喜びを与えてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります

第1の朗読 イザヤ 50:4-9a( 旧約 1145頁 )
第2の朗読 フィリピ 2:5−11( 新約 363頁 )
詠   歌 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 15:1−39( 新約 94頁 )

みことばの歌 教会81( 血しおに染みし )1、3節

説教 「 本当に、この人は神の子だった 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会313( 主はへりくだりて )1、2節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会337( やすかれ )1、3節

後  奏 何ひとつ持たないで B.M.ハウベルス

【 Live配信 】2021年3月28日(日) 10:30 枝の主日・主の受難主日礼拝  説教 「本当に、この人は神の子だった 」 浅野 直樹 牧師 」



Youtubeでご覧になる方は以下をクリックしてください。

【説教・音声版】2021年3月28日(日) 10:30 説教 「本当に、この人は神の子だった 」 浅野 直樹 牧師 」

受難主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書15章1~39節

アンドレア・マンテーニャ (1431–1506)  磔刑図 1457-60 ルーヴル美術館



主イエスは、十字架の上で死なれました。十字架に磔)にされ、血を流しながら、無惨な死を遂げられたのです。その死に間近に立ち会ったローマの百人隊長は、次のように語ったと伝えられています。「本当に、この人は神の子だった」と。
私たちキリスト者たちにとっては、これは何の違和感もなく受け止められるのかもしれません。なぜなら、私たちはイエスさまのことを「神の子」だと信じていますし、そして、私たちのために、私たちを救うために十字架の上で命を落とされたことを知っているからです。しかし、よくよく考えてみますと不思議に思います。なぜ異教徒であるローマの百人隊長が、罪人(ざいにん)の死を前にして「本当に、この人は神の子だった」と語れたのか、ということに、です。

私たちは、十字架刑を過小評価しているのかもしれません。その残忍性ではありません。「罪の刑罰」という意味において、です。当時、十字架刑は最も残虐な処刑方法でした。主に、見せしめの要素が強かった。ですから、ローマの市民権をもった人々に対しては、十字架刑は用いられなかったと言われています。そうではなく、ローマ帝国に仇なす者・反逆者たち、属国の反乱者たち、つまり、ローマ帝国側からすると「大罪人」に用い
られたのです。ですから、十字架につけられ死んでいったナザレのイエスのことを、このローマの百人隊長が大罪人の死と受け取っても、なんら不思議はないのです。「馬鹿なユダヤ人どもが、ローマ帝国に楯突いて何になる。また、力のない哀れなユダヤ人が一人処刑されたか」と思ったとしても、なんら不思議はない。しかし、彼は、こう言った。「本当に、この人は神の子だった」と。不意に、口を衝いて出てきたのかもしれません。

おそらく、この百人隊長にとって、イエスさまの死は不思議でならなかったからでしょう。彼は、これまでにも多くのユダヤ人たちを十字架にかけてきたのかもしれません。当時、度々ユダヤではローマ帝国に叛逆する試みがなされていたからです。今日の箇所に出てきます「バラバ・イエス」もその一人だったかもしれない。「暴動の時の人殺し」と罪状が記されていますが、この「暴動」は反ローマ運動の一つだったかもしれないからで
す。ここでイエスさまが登場してこなければ、この「バラバ」こそが十字架につけられる予定になっていたかもしれません。

ともかく、この百人隊長は、この地に赴任してきてから、幾度となく、そういった光景を目撃してきたはずです。実際に、反乱軍の鎮圧に当たったこともあったのかもしれません。自分が連行してきたユダヤ人たちが、次々と反逆罪で十字架につけられていったのかもしれない。その時の、ユダヤ人たちの姿を、十字架上の姿を、その振る舞いを、死に様を、侮蔑の思いで具に見てきたのかもしれない。「愚かなユダヤ人どもが」と。しかし、そのどれとも、一致しなかった。イエスさまの死は、そのどれとも明らかに違っていたのでしょう。

この百人隊長は、裁判の席でも片隅にいたのかもしれません。そして、あのピラトと同じように、不思議に思ったのかもしれない。なぜ一言も弁明しないのか、と。私たちは不当な裁判に、やっていもいないことを裁かれることに、耐えられません。
人々は、慣例に則り、囚人を一人釈放して欲しい、と願い出ます。総督ピラトはイエスさまが無実だと気づいていましたので、先ほどのバラバ・イエスとメシアといわれるイエス…、イエスさまとどちらを釈放して欲しいかと問いますが、人々はバラバを選びました。そして、イエスさまについては「十字架につけろ」と叫びました。私たちは、悪意のある人の声に、耐えられません。

マティアス・グリューネヴァルト キリストの磔刑 受胎告知 キリストの降誕 受難 復活 (キリスト教) 『イーゼンハイム祭壇画』Mathias Grünewald (–1528) ウンターリンデン美術館 https://www.musey.net/6867



ローマ兵たちは、イエスさまを愚弄し、唾を吐きかけました。ユダヤ人たちは十字架上のイエスさまを取り巻いて、こう言います。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。

私たちは、人に侮辱されることに、罵られることに、耐えられません。イエスさまは大罪人です。裁判を除いては、イエスさまならではの独特の面はあったでしょうが、人々から敵意・悪意を向けられ、罵られ、侮辱され、軽蔑の言葉を浴びせられるのは、ある意味、この百人隊長にとっては、ありふれた光景だったのかもしれません。

しかし、イエスさまは一言も発せられません。私たちは、ほんの些細な不当な扱いにも、悪意にも、侮辱にも、耐えられないのです。すぐに言いたくなる。弁明したくなる。自分の正当性を。そして、悪意には悪意で、侮辱には侮辱で返したくなる。自分をこんな目に合わせた奴らを呪い殺してやりたい、と。必ずお前たちの上に天罰が下るであろう、と。

百人隊長がこれまで見てきた十字架の囚人たちは、そうだったに違いない、と思うのです。私たちと同じように…。しかし、イエスさまは違った。イエスさまが発せられたのは、たったこれだけ。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)」。人に対しての恨みつらみでも、ローマに(世に)対しての恨みつらみでもなかった。ただ、神さまのみに叫ばれた。これらをじっと間
近に見ていた百人隊長に電撃が走ったのではないか、と思います。「本当に、この人は神の子だった」と。

イエスさまは十字架で死なれました。神の子が十字架で死んだのです。罪のない方が、大罪人の一人として。これは一体、何を意味するのでしょうか。もちろん、私たちは答えることができるはずです。「私たちの罪を贖うため」であった、と。しかし、それでも、いいえ、その上で私たちはなおも問いたいと思うのです。安易に模範解答を導き出す前に、なぜイエスさまは、神の子は死なれたのか、と。この私のために死なれたのか、と。
このイエスさまの死を真摯に見つめる先にこそ、確かな答えがあると思うからです。「本当に、この人は神の子だった」という答えが。そして、この答えに辿り着いた者だけが、イエスさまのあの叫びが、「わが神、わが神」と叫ばれた叫びが、まさにこの私のためであったということが、そこに隠されていた神さまの愛が、心に深く刻まれていくようになるのではないでしょうか。

祈 り

今日から再び、集会式の礼拝を再開できますことを感謝いたします。しかし、新規陽性者数が上昇傾向になっており、ある試算では4月末頃に都内だけで2000人を超えるといった予想も出ているようです。自粛疲れとも言われますが、感染の広がりは、死に直結する人々が増えるということでもありますので、なおも皆が心がけていくことができますようにお導きください。また、集会式の礼拝が再開できても、まだまだ参加することのできない方々も多くおられますので、どうぞそのお一人お一人の上にもあなたの恵みを豊かに届けてくださり、常にあなたが共にいてくださることを実感していくことができますようお導きください。

今日から受難週が始まりました。私たちのために、あなたの御子であられるイエスさまが十字架上で命を捨てられたその意味を深く噛み締めていくことができますように、どうぞお導きください。そして、十字架のイエスさまは復活のイエスさまでもあることを深く覚えていくことができますように、来週の復活祭を待ち望ませてくださいますようにお願いいたします。

今年も、卒業・入学・進級などの季節になりました。昨年からのコロナ禍でなかなか通常のようにはいきませんが、どうぞ子どもたち、学生たちが、このような状況下ですが、その年代でしか経験できないことをしっかりと経験して、人生を豊かに育んで行けますように、どうぞ憐れみお導きください。連日のように、ミャンマーの出来事が伝えられています。そして、多くの市民の命が奪われていることに心を痛めます。どうぞ、人の命が奪われることのないように、平和的に解決されていきますように、お助けくださいますようお願いいたします。悩みのうちにある者、絶望に追い込まれている者をかえりみ、助け導いてください。病床にある者、死に直面している者にいやしと慰めをお与えください。正義のために苦しむ者、自由を奪われた者に勇気と希望を与えてください。闇の中を歩む者に、あなたの光を注ぎ、計り知れない恵みのみ旨を示してください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

【週報:司式部分】 2021年3月21日  四旬節第5主日礼拝



四旬節第5主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 小山 泉 10:30

開会の部
前  奏 おお けがれなき神の小羊  J.S.Bach

初めの歌 教会189 ( 主のみことばに )1、2節

罪の告白
キリエ(二)
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
私たちの贖い主なる神さま。
私たちは弱く、み力によらなければ、
世界にあなたの赦しと希望の福音を伝える
ことができません。みことばに従い、
愛のご支配を伝えるために、聖霊によって
私たちを新しくしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、
永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 エレミヤ書 31:31-34( 旧約 1237頁 )
第2の朗読 ヘブライ人への手紙( 新約 406頁 )
詠   歌 (起立)
福音書の朗読 ヨハネによる福音書 12:20-33( 新約 192頁 )

みことばの歌 教会73( 主はわが隠れ家 )1、3節

説教 「多くの実を結ぶために 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会460( こころみうけ )1、3節

信仰の告白 使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )
派遣の歌 教会403( わが霊なやみて )1、4節

後奏 救い主は罪もなしに J.S.Bach

 

【説教・音声版】2021年3月21日(日) 10:30 四旬節第5主日礼拝  説教 「多くの実を結ぶために 」 浅野 直樹 牧師 」

四旬節第五主日礼拝説教

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章20~33節

いよいよ来週は受難週となり、復活祭へと向かうことになります。
まだまだ新型コロナが落ち着いたとは言えませんが、緊急事態宣言が解除され、人数は限定されるでしょうが、それでも集まって受難週を、復活祭を迎えることができることは、個人的には大変嬉しいことだと思っています。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。今日の日課の言葉ですが、みなさんもご存知のように、大変有名な言葉です。この言葉が語られたのは、いわゆる「エルサレム入城」(この出来事が「棕櫚(枝)の主日」のいわれとなったわけですが)と言われる出来事の直後のようです。

これから行われる「過越の祭り」を祝うために遠方から来ていたのでしょう。そこで偶然、先ほどの「エルサレム入城」の場面を目撃していたのかもしれません。数人のギリシア人がイエスさまを訪ねてきました。「お目にかかりたい」と。その人々がその場にいたかどうかは定かではありませんが、その訪問をきっかけに語られたのが、先ほどの言葉です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。これは、明らかにイエスさまの死を表すものです。このギリシア人たちの訪問で、イエスさまはご自分の死の時を、直近に迫っていたその時を悟られました。「時が来た」と言われているからです。

しかし、ちょっと不思議なのです。イエスさまはこうも語られているからです。「人の子が栄光を受ける時が来た」。ここでイエスさまは明らかに、ご自分の死と栄光とを結びつけておられる。ご自分の死は栄光なのだ、と。
果たして「死」とは、それほど栄光に輝くものなのでしょうか。悲しむべきこと、悼むべきこと、後悔・未練がつきまとうものであることは、私たちにもよく分かる。出来れば、避けたいとも思う。そんな「死」が、果たして「栄光」と結びつくものなのだろうか…。しかし、私たちにも、そんな「死」があることを知っているはずです。それは、誰かのために死ぬ、ということ。そんな死を、私たちは賞賛して止まないのではないでしょうか。

三浦綾子さんの代表作の一つだと思いますが、『塩狩峠』という小説があります。これは、実際にあった鉄道事故をもとに書かれたものだと言われます。主人公が婚約者と結納を交わすために札幌へと向かう道中のこと、塩狩峠の頂上付近に差し掛かった頃に、主人公が乗っていた最終車両だけが連結が外れて逆走してしまいます。これまで峠を登ってきたのですから、当然下り坂となり、また急なカーブも多かったのでしょう。このままでは脱線・転覆の危険がある。主人公は鉄道会社の庶務係でしたが、ある程度は知識もあり、まずはハンドブレーキで停止を試みますが、減速はしても停止にまでは至りませんでした。そこで、彼は自分の体を犠牲にして停止させることを思いついた。彼は線路の上に飛び降り、それが車両の勢いを殺して停止させることに成功します。彼は自分の命を犠牲にして多くの人の命を救ったのです。

これは、先ほども言いましたように、実際にあった鉄道事故をもとにして書かれた小説ですので、実際に行われた詳細については分かっていません。ハンドブレーキを操作しているときに、誤って転落した、といった説もあるようです。しかし、彼が熱心なキリスト者であったことは事実のようですし、その車両に乗り合わせていた人の証言からも、あながち全部が作り話しだとも言えないように思います。ともかく、そんな「死」を私たちは称賛します。栄光を讃えます。しかも、そんな「死」はこれだけではないでしょう。あの3・11の時にも、そんな「死」が多くあったのかもしれない。いちいち取り上げられたり、脚光を浴びることがなくとも、そんな「誰かのための死」というのは、枚挙にいとまがないのだと思います。そして、そんな「死」の数々が世界を支えてきた、といっても言い過ぎではないのではないでしょうか。

イエスさまの死は、どんな死だったのか。私たちのためです。私たちを、全人類を救うためです。滅びるしかないような罪の、歪んだ自己愛・自己中心の虜になっている私たちを、人類を、そこから救い出すためです。そのためにイエスさまは死なれた。十字架の上で死なれた。裏切られ、蔑まれ、人々の…、救うべき人々の憎悪と悪意の中で死んでいかれた。私たちのために…。だから、栄光を受けられる。当然だと思います。前述のように、私たちは、そんな誰かのための死を、惜しみなく賞賛するからです。ならば、なおさら、このイエスさまの死は称賛されて然るべきです。栄光を受けられて然るべきです。しかも、この死は神さまに従ったが故の死でもある。こう記されているからです。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。だから、神さまからも栄光をお受けになりました。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と。

イエスさまは、そんなご自身の死について、こうも言われています。「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。イエスさまは、ご自分の死が、この世が裁かれる時、この世の支配者が追放される時でもある、とおっしゃっておられます。

フィンセント・ファン・ゴッホ (1853–1890) Arles, June 1888 穀物の束のある麦畑 Wheatfield with sheaves of grain ホノルル美術館



今も、「またか」と思うようなスキャンダルで政財界が揺れています。国会の場でも平気で嘘がつかれている。誤魔化しがまかり通っている。「記憶にございません」。いつの時代かと思う。何十年も前に一気にタイムスリップしたような感覚にもなりました。上に立つ人々がするのは、いつもトカゲの尻尾切り。役に立たないと分かると直ぐに切り捨てる。下の者たちは、捨てられないようにと顔色を伺い、忖度に走る。これが世、世の中。これが支配者がやること。力のない者、役に立たない者、自分に反対する者、気に入らない者、弱者たちは、いつも捨てられて、見捨てられて行きました。そう、世の常識では、救われるのは、上に立つごく一部の人たちだけです。しかし、イエスさまはご自分の死によって、そういった世界は変わるのだ、とおっしゃるのです。

「わたしが地上からあげられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。「地上からあげられるとき」、イエスさまが十字架の上で死なれるとき、「すべての人を」…、そう全ての人、人種・民族・文化を超えて、性別も超えて、できるできないの能力も超えて、健康な者も、そうでない者も、傷を負って生きてきた者も、平穏に生きてきた者も、社会の片隅に追いやられていた者も、この世の成功を収めた者も、なんの差もなく、区別もなく、その死のゆえに、イエスさまの死のゆえに、全ての人をご自分のもとへ引き寄せる、と言ってくださっている。救いへと導いてくださる。それが、イエスさまの死の意味するところでもあるのです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスさまという一粒の麦は十字架の上で死なれましたが、その実は、さまざまな違いを超えて、時空を超えて、この日本にももたらされました。先ほどお話しした『塩狩峠』のモデルとなった人物もそうでしょう。そして、この私たちも…。その実りとしての「誰かのための死」という実が、また新たな実りをもたらすことにもなる。いい
え、それは肉体の死だけを意味するものでもないのでしょう。なぜならば、イエスさまは「自分の命を憎む」ことも求めておられるからです。自分を優先させていては、決して「誰かのため」とはなりません。「自分の命を憎む」…。自分よりもイエスさまの思いを、その教えを優先する。そこに、はじめて「誰かのために」も生まれてくるように思うからです。

イエスさまという一粒の麦は、「誰かのために」という実を結ばせるために死なれました。しかも、それは、自分にとって徳になる「誰か」でも、利益になる「誰か」でもなく、全く見返りのない「誰か」のために…、そう、愛の実を結ばせるためにイエスさまは死なれたのです。その結果(実り)である私たちであることを、受難週を前にして、もう一度イエスさまの十字架を見上げながら、噛み締めて行きたいと思います。



祈り
今日で非常事態宣言が解除され、来週から再び集会式の礼拝を再開できますことを心より感謝いたします。しかし、依然として新型コロナは収まってはおらず、徐々に感染の拡大傾向にもなりつつあると指摘されたり、また感染力のより高い変異株の心配なども出ています。どうぞ、私たちをお守りくださり、引き続き、しっかりと感染対策をしていくことができますようにお導きください。

昨日は、zoomを使ってのという新たな試みの中で無事に教区総会を終えることができましたことも感謝いたします。今、東教区では牧師不足という大きな課題に直面しつつあります。そのため、教区上げて、新たな教会のあり方を模索しているところです。どうぞ、御心に叶った歩みができますように。ここにも、何らかのあなたの思いがおありなのでしょう。これまでの歩みに感謝しつつも、牧師たちと信徒の皆さんとの協力の中で新たな
教会の姿を目指していくことができますようにお導きください。昨日は、また大きな地震が東北地方で起こり、津波注意報も出されました。

10年前のあの出来事を経験してこられた方々にとっては、その心中いかばかりだったかと思います。あの時の恐怖を思い起こされた方も少なくなかったかもしれません。どうぞ、憐んでください。そういった地震、津波の多い地域ではありますが、みなさんが平和に暮らせるよう
に、どうぞお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【 Live配信 】2021年3月21日(日) 10:30 四旬節第5主日礼拝  説教 「多くの実を結ぶために 」 浅野 直樹 牧師 」



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【 Live配信 】2021年3月14日(日) 10:30 四旬節第4主日礼拝  説教 「神さまの決意 」 浅野 直樹 牧師 」



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