【説教・音声版】2022年6月26日(日)10:30  聖霊降臨後第3主日礼拝  説教 「たとえ嫌われても 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書9章51~62節

今日の日課は、後半の小見出し(「弟子の覚悟」)にもありますように、弟子のあり方、弟子としての心構え、といったことが中心主題になるでしょう。
ところで、皆さんは、この「弟子」という言葉を聞かれて、何を、あるいは誰を連想されるでしょうか。イエスさまの12弟子でしょうか。それとも、特定の誰か、でしょうか。私たち信仰者は誰でも、牧師であろうと宣教師であろうと、キリスト者(クリスチャン)と呼ばれます。また、そのようにも自覚しています。しかし、こう呼ばれるようになったのは、イエスさまが昇天されて(天に帰られて)何年も経ってからのことです。使徒言行録11章26節にこう記されているからです。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。

ちなみに、キリスト者(クリスチャン)とは、「キリストに属する者」という意味です。では、それ以前はなんと呼ばれていたのか。先ほどの箇所にも記されていましたように、「弟子」と呼ばれていました。この「弟子」というのは、後に「使徒」と呼ばれる特別な使命が与えられた12弟子に限りません。イエスさまの存命中から、また、その後仲間として加わっていった名も無いキリスト者たちも、「弟子」であった訳です。これは非常に大切なことです。つまり、今日の箇所の教えは、牧師や宣教師などの特別な使命に生きる者たちにだけ語られているのではなく、弟子である皆さん一人一人にも語られている、ということです。確かに、内容としても非常に厳しいことが記されていますが、是非とも他人事ではなく、自分のこととしても向き合っていただきたいと思っています。

そのように言っておきながら、少し矛盾したような話になってしまいますが、私が牧師となって心打たれた物語がいくつかあるのですが、その一つが今朝の旧約の日課であるエリヤの物語でした。私はこの物語から、使命に生きることの厳しさと慰めを受けたのです。旧約聖書には度々、預言者と偽預言者の対比、対決が記されていますが、大抵の場合、偽預言者たちは希望的観測を語り、本当の預言者たちは悔い改めを求めるための裁きを語っていきます。当然、本物の預言者たちの方が嫌われ者になる。大変厳しいことです。このエリヤもそんな大変厳しい戦いを経験しました。エリヤが活躍した時代のイスラエルではアハブという王様が統治していましたが、異教の神であるバアル信仰が盛んになっていました。当然、エリヤたち正統な預言者たちは弾圧を受けることになる。そんな中、エリヤはたった一人でバアルの預言者400人以上と戦うことになりました。

今日は詳しくお話しする時間がありませんので、ぜひ列王記上の18章をお読みいただければと思いますが、結局はエリヤが勝利を収め、ユダヤ人たちの心を本来の神さまへの信仰へと立ち戻らせることに成功する訳です。しかし、その勝利で王妃イゼベルの怒りを買うことになり、命を狙われることになります。エリヤは逃げました。そして、こう祈りました。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。そして、何日も何日も眠り込んでしまいました。今で言えば、鬱のようになっていたのでしょう。そんな彼を神さまは不思議な方法で養い、旅立たせ、ご自身と出会わせてくださり、そして、後継者作りへと送り出してくださいました。それが、今日の箇所です。あの大預言者エリヤだって孤独な戦いで心が折れてしまいそうになる。そんな彼を無理矢理に叱咤激励したり、追い立てたりするのではなく、回復するのを待ってくださり、新たな使命へと送り出してくださった。そこに、先ほども言いましたように、厳しさと慰めを感じたわけです。

キリストの変容 ティツィアーノ サンサルバドル(ヴェネツィア) 1560年頃(右上:エリヤ 左上:モーセ)



今日の福音書の日課の前半部分は、直接的には弟子のあり方と関係がないようにも思えますが、そうではありません。なぜなら、弟子とは「師」と同じ道を歩くからです。つまり、師であるイエスさまが歓迎されなかったのであれば、弟子である私たちもまた歓迎されないということが起こる、ということです。

では、なぜイエスさまは歓迎されなかったのか。そもそもユダヤ人とサマリア人とでは、歴史的な経緯もあって犬猿の仲だったということもあるでしょうが、どうやらイエスさまが「エルサレム」を目的地と定めていたことが関係していたとも言われています。先ほど歴史的に犬猿の仲と言いましたが、それは民族的にもそうですが、もう一つは信仰的な側面が強く出ていました。サマリアでは独自の信仰文化を作っており、礼拝場所はエルサレム神殿ではなく、ゲルジム山としていたことも大きな対立点でした。ですから、イエスさまがあくまでも「エルサレム」に向かっていこうとされたことは面白くなかったのでしょう。ともかく、イエスさま、あるいはイエスさま一行が彼らの意に沿わなかったことは事実だと思います。

ご承知のように、日本では長らくキリスト者人口は1パーセント未満ということもあり、宣教が大きな使命となっています。そのためにも、なるべく来やすいような環境を作ったり、いわゆる「敷居を低く」したり、世の中の人々にも受け入れやすいことを企画したりと私たちは頭を悩ませながら取り組んでいる訳です。もちろん、私自身、そういったことは大切なことだと思っていますが、しかし、それでも忘れていけないのは、先ほども言いましたように、イエスさまご自身でさえもなかなか受け入れてもらえない、認めてもらえない、歓迎されないことが多々あった、という事実です。

なぜなら、私たちの信仰のあり方には、世の中の人からすれば「意に沿わない」ことも含まれてくるからです。その最たることが、神さまに従う、ということでしょう。イエスさまはなぜ拒絶されても、疎んじられても、敵視されても、歓迎されなくても、福音を伝え、エルサレムに向かって行かれたのか。それが、神さまの御心だったからです。それに従われたからです。イエスさまの最大の関心事、志は、そこにあった。それは、何も人を無視することではありません。むしろ、人を救うためです。それが、何よりの神さまの御心だからです。

しかし、それは、必ずしも人々が期待するような、理解できるような、意に沿うようなものではなかったのです。その最たるものが、十字架と復活です。これは、世の人々はなかなか受け入れられないこと。しかし、私たちは、そこに神さまの救いを見ているわけです。パウロがこう語っている通りです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」。イエスさまご自身がそのように歩まれたということは、弟子である私たちにもそのことが期待されているということです。

57節以下にも大変厳しいことが記されている。一つ目は、単に住まいのことだけでなく、衣食住などの安定が期待できないことが言われているのかもしれません。あるいは、親に対する最低限の義務さえも果たせないような、死に目に遭うこともできないような状況も想定されているのかもしれない。最後はより厳しい、家族に別れを言うことさえも許されないような内容です。これらは最初に言いましたように、ある意味牧師・宣教師なら覚悟しているところです。最近は状況も随分と変わってきましたが、先輩牧師などから、このような実体験も度々聞いてきました。しかし、これも最初に言いましたように、これは牧師・宣教師に限らないことです。大なり小なり、全ての弟子たちに求められている。しかし、注意していただきたいのは、この言葉だけで全てが決まるわけではない、と言うことです。

聖書は他にもいろいろと語っているからです。衣食住の心配を神さまご自身がしてくださっていること。家族を大切にするように求められていること、など。つまり、文字通りに、こうすることが良いと言うことでは、必ずしもないのでしょう。そうではなくて、私たちがこれらのものに縛られない自由さを得ているか、と言うことです。親、兄弟、家族、妻、夫、子ども、家庭、仕事、友人、仲間…。当然、私たちにとって大切なものが多くある。しかし、それらに縛られているようではダメだ、と言うことです。それらにだけ支えられているようではダメだ、と言うことです。大切なものに違いないが、しかし、同時に自由であることの大切さ、です。そうでないと、むしろ、そんな大切だと思っているものに悪影響(不健全な依存などの)を与えないとも限らないからです。

私たちが真に必要としていることは「魂の救い」です。これは、神さまとの繋がりがなければ決して与えられないものです。そこから、決してなくなることのない信仰と希望と愛が生まれてくる。それは、この私たちだけでなく、当然愛する者たちにとっても必要なことです。だからこそイエスさまは、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われるのです。

イエスさまはこんな譬え話も語っておられます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」。無理矢理に、嫌々・渋々に弟子としての心得を持つのではありません。そうではなくて、すでに与えられている宝の大きさに、その素晴らしさに気づくのです。そうすれば、自ずと他のものからは自由となり、弟子として生きていきたいと願うに違いない。家族・愛する者のためにも、真に自由となって、魂の救いを得た者として、この宝を隠しては置けない、と思うに違いない。たとえ、辛く、厳しいことがあったとしても。そうでは、ないでしょうか。

【週報:司式部分】2022年6月26日(日)10:30 聖霊降臨後第3主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 来ませ、聖霊よ、心を満たしたまえ H. Grabner

初めの歌 教会165(1節)いともとうとき

1.いともとうとき 救いぬしよ
ちからのみ名は たぐいあらず、
み前にふして きよけき主の
とうときみいつ たたえまつる。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り

すべての人の心を知っておられる、いと高き神様。
あなたはご自分に従うように私たちを招き、真の自由を与えてくださいます。
御子の道に従って、妨げとなるものをことごとく捨て、
あなたの道をまっすぐに進むことができるように、私たちを助けてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 列王記上19:15-16,19-21(旧約 566 頁 )
第2の朗読 ガラテヤの信徒の手紙 5:1,13-25( 新約 349 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書9:51-62( 新約 124 頁 )

みことばの歌 教会293(1節)つみあるものをも

1.罪あるものをも 愛する神は
ほろびを好(この)まず 救いをたもう。
心にいたみを 覚(おぼ)ゆる時にも
み言葉かしこみ み神にたよらん。

説 教 「 たとえ嫌われても 」浅野直樹牧師

感謝の歌 教会313(1節)主はへりくだりて

1.主はへりくだりて 罪人(つみびと)のために
十字架の苦しみ 耐(た)え忍(しの)びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天(あめ)なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会287(1節)主イエスのみたみよ
1.主イェスのみ民(たみ)よ 目を高くあげよ
春は来たりぬ。 世界の果(は)てまで
みことばの種は 芽生えそだちぬ。
主よ主よ 捕(と)らわれびとらはゆるされ
喜びうたえり。  アーメン

後  奏 我がイエスよ我は離れず J.G.Walther

【 Live配信 】2022年6月26日(日)10:30  聖霊降臨後第3主日礼拝 「 たとえ嫌われても 」浅野 直樹 牧師



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2022年6月26日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年6月19日(日)10:30  聖霊降臨後第2主日礼拝 「解放された人」浅野 直樹 牧師


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【週報:司式部分】2022年6月19日(日)10:30 聖霊降臨後第2主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 「愛しまつる主よ、我れ汝に感謝しまつる」J.C.Bach

初めの歌 教会188番 (1節)わがたまよろこび主を
1.わがたまよろこび 主を待ちのぞむ。
とびらを開きて 迎えたまえや、
ひかりと恵み うちにかがやく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主なる神様。
悲しみ多い世の叫びをお聞きください。
私たちを憐れみ、囚われの鎖から解き放ち、すべての悪から守ってください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書65:1-9( 旧約 1167 頁 )
第2の朗読 ガラテヤの信徒の手紙 3:23-29( 新約 346 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ルカよる福音書8:26-39( 新約 119 頁 )

みことばの歌 教会244番(1節)ちからとめぐみの
1.ちからと恵みの 神のことばは
この世に下(くだ)りて 悪魔(あくま)をくだき
みむねをさやに さとらせたもう。

説 教 「解放された人」浅野直樹牧師

感謝の歌 教会311番(1節) われらをすくうは
1.われらを救うは キリストのみぞ、
変わらぬ基(もとい)は 主のほかあらず。
罪人(つみびと)み前に 目覚(めさ)むるときも
キリスト(いま)在せば 恐(おそ)れはあらず。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会412番(1節)ちちのかみこのわれを
1.父の神、このわれを
平和めざし導きて
生命(いのち)なるイェスきみに
たより進ませたまえ。アーメン

後  奏 「我ら今聖聖霊に願いまつる」J.G.Walther

【説教・音声版 】2022年6月19日(日)10:30  聖霊降臨後第2主日礼拝  説教 「解放された人 」 浅野 直樹 牧師

ルカによる福音書8章26~39節

教会の暦も「聖霊降臨後主日(いわゆる「緑」の季節)」になり、日課も久しぶりにルカ福音書に戻ってくることになりました。これから待降節までの間、よほどの祝日がない限り、このルカ福音書から学んでいくことになります。

そこで、今日の日課は、悪霊に取り憑かれた人の癒しの物語り・解放の物語りが取り上げられていますが、小見出しの下にもありますように、この記事はルカ特有のものではありません(マタイもマルコも記すところです)。それが、いわゆる「共観福音書」と言われる所以ですが、しかし、それでも、やはりルカ福音書の特徴はあるわけです。ある方は、その特徴を、イエスさまの救いの出来事が強調されている、と語っていましたが、その通りだと思います。36節に「救い」という言葉が明確に記されていることからも明らかです。この言葉は、マタイにもマルコにも出てきません。

ところで、皆さんは、なにがしからの解放を願ったことはないでしょうか。何か抑圧的な外的要因(社会人として、夫として、妻として、「こうあるべきだ」みたいなものも含めて)、あるいは性格的…、心配や不安などの内的要因など、案外私たちはいろいろなものに囚われているものです。
では、囚われている、というのは、どういうことか。その典型的な例が、今日の「悪霊に取り憑かれた人」でしょう。つまり、自由がない、ということです。自分で自分がコントロールできない。自分の思うようにできない、いうこと。悪霊に支配されているのですから。叫びたくもないのに叫んでしまい、したくないことをしてしまい、逆にしたいこと、成さなければならないことをすることができない。それが、悪霊に支配されている、ということでしょう。この男性のように。

こう考えていきますとどうでしょうか。確かに、私たちは悪霊に取り憑かれてはいないでしょう。この人のように、正気を失って、奇行を繰り返すようなことはない。むしろ、至って普通の善良な市民です。しかし、先ほど申し上げたような「囚われの姿」、つまり、したくないことをしてしまい、しなければいけないことができない、ということを考えてみれば、案外本質は変わらない、と言えるのかもしれません。

実は、私たちは、それほど不自由な人間なのです。パウロもそんな人の、自分自身の姿を嘆いて、こう語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。パウロがここで語っていることは、悪霊のことではありません。罪のことです。しかし、今日の悪霊に取り憑かれている人と同じように、私たちの内には罪が住み着いており、私たちを虜にして、本来あるべき私たちの自由を奪い取ってしまっているというのです。それは、まさに「惨め」な状態だとパウロは嘆いている。私たちの姿です。

そんな惨めな私たちの典型的な姿は、何もこの悪霊に取り憑かれている人ばかりではありません。この人を取り巻く人々もまた(親、兄弟、親類等も含めて)、惨めな人です。この人が度々悪霊に取り憑かれて一体何をしでかしたのか、よくは分かりません。突然人を襲うようになったのか、家を壊そうとしたのか、分からない。ただ、手がつけられなかったのでしょう。親も匙を投げた。だから、彼は「鎖につながれ、足枷をはめられて監視されていた」とあります。それでも、彼はそれらを引きちぎって、荒野へと出て行ってしまったようです。果たして、そんな彼を親は、町の人々は連れ戻そうとしたのだろうか。

もちろん、時代が違います。そもそも、こういった現象を「悪霊に取り憑かれた」と表現するくらいですから、今日の我々の状況とは全く違うわけです。しかし、果たして、本当にそう言えるのでしょうか。

神学校のカリキュラムの一つに、「病院実習(CPE:臨床牧会教育)」というのがあります。私は特例で、神学校には1年しか在籍しませんでしたが、やはり実習することが求められ、2年生と一緒に(私はその時4年生でしたが)精神科の病院に行くことになりました。私にとっては初めての経験でしたが、正直、思ったほどには大変ではありませんでした。むしろ、興味深くもありました。荒唐無稽な話を永遠と聞かせて下さった方もおられました。

しかし、今から思えば所詮は他人事だったからでしょう。神学生であり、ただ実習に来ているだけといった外野的なお気楽さがあったことは否めません。もし、身近に、自分の親、兄弟、子どもに、そういった方々がいたら、どうだったろうか。世間の目、社会の目を気にしながら、身内ならではの不寛容さで追い詰めていたのではないだろうか。そんなことも思うのです。

もちろん、難しいのも事実です。簡単なことじゃない。手に余るのも仕方がないのかもしれない。しかし、それでも、このことは引っかかる。この人は、イエスさまによって癒されたのです。解放されたのです。救われたのです。しかし、この文章からは、その喜びが伝わってこない。「そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである」。

確かに、こんなことはこれまで見たこともないし、聞いたこともなかったでしょう。まさに、衝撃的なことです。悪霊に取り憑かれて、縛り付けていても抑えきれなかった人が、今や正気に戻っているのですから。その光景に、恐れを抱くのも無理からぬことに違いない。しかし、目撃者たちから、その人の「救われた次第」の説明を聞いたにも関わらず、つまり、単に事の次第を説明したのではなく、この人は「救われたのだ」と説明したにも関わらず、人々の恐れが止まず、イエスさまに出て行って欲しいと願った、というのです。いかに、この町の人々は、この人の存在を見ていなかったことか。ひょっとすると、その中に親・兄弟・親類縁者、かつての友人たちも含まれていたのかもしれない。なのに、この人が救われたという事実に思いがいかない、注目できない、喜べない、感謝できない、そんな人の姿の中に、やはり惨めさを認めずにはいられないのです。それも、私たち自身の姿なのかもしれない。

それに対して、イエスさまはどうか。その人を見るのです。ただ、その人の苦しみを見るのです。そして、その人の救いを見るのです。人々の反応がどうかなど気にしない。ただ、その人が救われて、解放されて、自由とされることを願われる。たとえ、この町からつまみ出されるようなことになろうとも、このたった一人の人が囚われから解き放たれ、救われたことを喜ばれるのです。イエスさまこそ、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈し」まれる方です。実は、これらは決して簡単なことではないのです。私たちは憐れに思いながらも、色々な囚われの中でなかなか憐れむことができないでいる。そういう意味でも、イエスさまほど真に自由な方はいません。

イエスさまには、囚われの、惨めな私たちを救う力がおありです。解放する力がおありなのです。私たちを自由にする力が…。その囚われの典型的な例である悪霊さえも、例外ではあり得ないのです。よく神さまと悪魔とは好敵手(ライバル)のように思われがちですが、そうではありません。神さまが、悪霊さえも認める神の子イエスさまが圧倒的なのです。悪霊はただ従うしかない。

しかし、私たちはこうも思うのかもしれません。解放されることを願っている私たちは、果たして本当に解放され、自由とされているのか、と。むしろ、ますます不自由な、囚われの中にいるのではないか、と。それも、率直な感想なのかもしれない。しかし、少なくとも今はそれが必要だからこそ残されているのでしょう。実は、私たちが願う解放とは、心が軽くなることに過ぎないからです。罪悪感、劣等感、フラストレーションなどから。

もっと言えば、それは、神さま抜きで、神さまに頼らずに、自分のやりたいように生きたいという欲求の追求にすぎない。つまり、神さまからも解放されたい、と思っているのかもしれないのです。自分を照らす信仰がかえって重荷なのだ、と。しかし、その結果は明らかです。いっとき解放されたように感じることがあったとしても、別のものに囚われ、結局はもっと悪い不自由さの中に生きることになるのかもしれない。「自己中心」という不自由さの中に。だから、残る。そんなまやかしの解放は御心ではないので、むしろ残っているのです。かえって神さまとの繋がりを保つために。

では、悪霊から解放されたこの人はどうなったか。「正気になってイエス(さま)の足もとに座っ」たのです。この「足もとに座る」とは、弟子入りを意味する、と言います。そして、彼は神さまが自分にして下さったことを、家族に、自分の町の人々に伝えたのです。ここに、真の解放がある。神さまがこの私をお救い下さったということが明確に分からされることこそが、真の解放、自由につながって行くからです。このイエスさまが、今、私たちとも出会ってくださいます。解放を、真の自由を願う私たちと…。

 

2022年6月19日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年6月12日(日)10:30  三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝 「信じることは信頼すること」浅野 直樹 牧師



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2022年6月12日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校


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【週報:司式部分】2022年6月12日(日)10:30 三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 教会讃美歌187による前奏曲      H. パウルミッシェル

初めの歌 教会187番(1節) さかえに輝く主の

さかえに輝(かがや)く
主のまえに集(つど)いて
かしこみひれ伏す 天地(あめつち)すべては
とこしえの力と みさかえを語る。
み使いらも 声をあわせ 「ホサナ」と
聖なるみ神を ほめたたえうたう。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の創造者、生きておられる神様。唯一にして三(み)つであるあなたの栄光をあがめ、
三(み)つであり唯一のあなたの大いなる御力をたたえます。
この信仰に堅く立ち、逆境の中で守り、ついには、御前にあって永遠の喜びと愛のうちに住まわせてください。
いまも、そして永遠(えいえん/とこしえ)にいます、父、御子、聖霊の唯一の神に祈ります。

第1の朗読 箴言8:1-4,22-31( 旧約 1000 頁 )
第2の朗読 ローマの信徒の手紙 5:1-5( 新約 279 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書16:12-15( 新約 200 頁 )

みことばの歌 教会131番(1節)せいなるせいなる

1.聖なる 聖なる 聖なる主よ、
夜(よ)ごと、 朝ごとに ほめたたえん。
三(み)つにいまして ひとりなる
主こそ力(ちから)に 満(み)ちあふる。 アーメン

説 教 「信じることは信頼すること」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会126番(1節) めぐみふかき父

1.恵みふかき父なる神 救いぬし、み子イェスきみ、
われを守るみ霊(たま)の神よ、 永遠(とわ)のひかり。
アーメン

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会337番(1節) やすかれわがこころよ

1.やすかれ わがこころよ、主イェスは ともにいます。
いたみも くるしみをも  しずかに しのび耐えよ。
主イェスの ともにませば たええぬ なやみはなし。

後  奏 聖霊を受けし、わが心よ  J.S.Bach=園田順夫編

【説教 】2022年6月12日(日)10:30  三位一体(聖霊降臨後第1)主日礼拝  説教 「信じることは信頼すること 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ヨハネによる福音書16章12~15節

先週は、聖霊降臨・ペンテコステの出来事を覚える礼拝を共々にもつことができましたことを、大変嬉しく思っています。特に、私たちにとって喜びだったのは、礼拝式の中でお二人の洗礼式を行うことができたことではなかったでしょうか。

では、なぜお二人は洗礼をお受けになられたのか。聖霊が働かれたからです。ご自身たちがどう自覚していようと、聖霊の働きがなければ、誰も「イエスは主」と告白できないからです。それは、聖書が明確に語っているところです。しかも、この聖霊の働きは、洗礼を受けられたご本人に限ったことでもないでしょう。今回受洗されたお二人は、共にご家族に信仰者・キリスト者がおられました。そんなご家族の熱心な働きかけがあったからだ、ということでも必ずしもないのかもしれません(そうだったのかも知れません。分かりませんが…)。

私の両親兄弟も未だに信仰者ではありませんが、身内だからこその難しさがあることも実感しているつもりです(特に私の親は捻くれていますので)。
しかし、それでも、そんなご家族の姿は決して小さくはなかったと思います。たとえ言葉で語ることがなくても、ご自身が礼拝に出かけられる姿を通して、祈る姿を通して、信仰者として生きている姿を通して、やはり何らかの影響はあったと確信しています。そうです。それらご家族にも聖霊の働きがあったからです。たとえ、無意識・無自覚だったとしても、そこに聖霊の働きがなければ、そのような影響は与えられなかったでしょう。あるいは、ご家族だけでもなかったのかも知れない。受洗準備会の中で、お一人は「教会員の仲間になれるのが楽しみだ」と明確に語られました。つまり、皆さんにも聖霊が働いていたのです。そんな聖霊の働きがあったからこそ、お二人は洗礼へと導かれたのです。

先ほども言いましたように、先週は聖霊降臨祭を共に祝ったわけですが、ここでもう一度改めてお伝えしたいのは、聖霊降臨の出来事が宣教・伝道と深く結びついている、ということです。聖霊降臨の出来事があったからこそ、宣教がはじまっていった。逆に言えば、聖霊降臨の出来事がなければ宣教は起こらなかったのかも知れないのです。あの聖霊降臨の出来事が起こる前の教会は何をしていたか。皆集まって熱心に祈っていました。

天と地の三位一体(1675 – 1682):バルトロメ・エステバン・ムリーリョ


使徒言行録1章12節以下に記されていることです。それ自体は大変素晴らしいことですが、しかし、もしそれだけなら、数年後、数十年後には、その集まりは衰退し、消えてしまっていたのかも知れないのです。聖霊降臨の出来事を受け、弟子たちを代表してペトロが福音を語っていった時に何が起こったか。新たに3000人が仲間に加わった、という。もちろん、それだけではありません。当初はユダヤ人だけにしか福音宣教はなされていませんでしたが、次第にサマリヤ地方や異邦人の地にも福音が伝えられていき、また教会が生まれて、パウロやバルナバなどが、それらの教会から宣教へと遣わされて行くようにもなりました。まさに、聖霊降臨の出来事から、教会の歴史ははじまっていったのです。

誤解を恐れずに言うならば、今私たちの教会の教勢が徐々に落ちてきているから、といった危機感から宣教・伝道を頑張ろう、と言うのではありません(改めて必要性に気づくきっかけにはなったかも知れませんが)。そうではなくて、イエスさまがそう望まれているからです。イエスさまがそう命じておられるからです。それが、教会のアイデンティティーだからです。そのために、聖霊は降られた。しかも、皆さんお一人お一人が今この場にいるのも、先ほども言いましたように新しい仲間が加えられたことも、聖霊の働きがあるから。つまり、2000年前の出来事ではなく、現実に、この現代にも、この私たちの教会においても起こっていることなのです。そのことを、もう一度心に刻みたいと思います。

今日は三位一体主日ですので、三位一体なる神さま…、つまり父なる神さま、子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神さまが登場してくるこの箇所が日課として取り上げられているのでしょう。この箇所については、前後を含めて非常に多くのことを教えられるところですが、今日は細かい話しはしません。一つだけ。つまり、皆同じ思いである、と言うことです。こうあるからです。聖霊については、イエスさまは「自分から語るのではなく、聞いたことを語」るのであり、「わたしのものを受けて」という訳ですから、イエスさまの思いを忠実に語る、教える、と言うことでしょう。そして、イエスさまも、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」という訳ですから、ここにも一致が見られる訳です。

つまり、この三位一体なる神さまの何よりの特徴は、「一致」ということです。「同じ思い」ということです。そういう意味で、齟齬はあり得ない。では、どんなことで一致しているか。私たち人類の救い、と言うことです。しかも、罪人である私たちの救いです。私たちをお創り下さった、生みの親と言ってもいい神さまから離れてしまい(まさに恩知らずです)、御心から外れて自分勝手な道を行き、他者を傷つけ、自分自身をも傷つけ、しまいには自己正当化して戦争まで引き起こす、そんな身勝手極まりない私たち人類を救うためです。罪を赦し、罪ある生から解き放つためです。そのためなら、なり振り構わない、どんな犠牲をも厭わない、そんな思い、志の一致です。

私は、二十代の頃、北森嘉蔵の『神の痛みの神学』に出会い、衝撃を受けました。それまで、もちろん信仰はもって生きてきましたが、「苦しまれる神さま」(イエスさまではありません。父なる神さまです)といった理解は、想像もしていませんでした。考えてみれば、当然かも知れません。ご自分の独り子を殺すのですから。あの実の子イサクを捧げるために自らの手で命を奪おうとしたアブラハムの心境と重なるところがあるでしょう。ご自分の意志で、敵対する私たちのために、罰すべき咎を愛する独り子に全て負わせて、自らの手で命を奪う。苦しくないはずがない。辛くないはずがない。痛くないはずがない。まさに、はらわたが引き裂かれるような思いです。

何度も、躊躇したのかも知れない。そんな計画、止めてしまえ、と思われたのかも知れない。それでも、神さまは私たち人類を愛された。不出来でどうしようもない不良息子・娘であるのかも知れないが、どうしても見捨てることなどできなかった。どんな犠牲を払ってでも、救いたい、と願われた。たとえ、ご自身が引き裂かれるような思いを味わうことになろうとも。それは、イエスさまも同じなのです。だからこその十字架。そして、そのことを聖霊は忠実に私たちに伝えてくださる。教えてくださる。悟らせてくださる。その思いを。そこに込められている神さまの、イエスさまの愛を。

そんな救いを、ヨハネ風に言えば、「命を与えること」と言えるのかも知れません。ヨハネ20章30節以下に記されている本書の目的の中に、このように記されているからです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」。また、小聖書とも言われるヨハネ3章16節にもこのように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちをこの命に生かすために、三位一体なる神さまはみわざをなしてくださったのです。

ところで、今日の使徒書の日課には、こんな言葉も記されていました。ローマ5章5節、「希望はわたしたちを欺くことがありません」。そうです。私たちが生きるためには、この希望も必要不可欠です。希望がなければ、人は生きていけないからです。しかし、パウロは、そんな希望が希望としてすんなりと手に入るものではないことも記すのです。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。むしろ、苦難が、忍耐が、希望を生むと言うのです。

なぜか。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。これは、いわゆる机上で生み出した神学ではないと思うのです。パウロは教会を迫害した人です。知らなかったとはいえ、無知だったとはいえ、とんでもない過ちを犯してしまった。償いようがありません。その彼が赦された。彼は生涯、自分の過ちの痛みと同時に、その深い愛に生かされていったことでしょう。だからこその言葉だとも思うのです。たとえ、苦難があったとしても、忍耐しなければならないような出来事があったとしても、そこにも聖霊が働かれて、神さまの、イエスさまの愛を心に注ぎ込んでくださり、決して見失うことのない、欺くことのない希望へと至らせてくださる、と。

この恵みを、愛を、希望を伝えるのが教会です。私たちです。それが、教会のアイデンティティーです。そのために、聖霊は来てくださった。なぜなら、人には、それらが必要だからです。私たちの人生は決して簡単じゃない。罪に揉まれ、道を見失い、失意と不安の虜になってしまう。だから、救われなければならない。聖霊の働きがなければ、それを伝えることもできない。だから、聖霊をいただいている、すでに心に注がれている私たちが、私たちの教会がそれを伝える。証する。たとえ言葉にならなくとも、行動で、自らがその恵みの道を歩み続けるといった姿で示す。それが、私たち自身の存在意義でもあるのではないか。そうでは、ないでしょうか。

【 Live配信 】2022年6月5日(日)10:30  聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝  説教 「聖霊の力 」 三浦慎里子 神学生



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【週報:司式部分】 2022年6月5日 聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝



司  式 三浦 慎里子 浅野 直樹
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 三浦 慎里子 神学生
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前  奏

初めの歌 初めの歌 教会190番(1節)主のみ名によりて

1.主のみ名によりて 集(つど)うところに
主はともにいまし なかに立ちたもぅ。
いまなお主イェスは われらの閉ざせる
戸のなかに在(ま)す。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神様。
私たちの創り主である神様。地上の民はみな、
御子の復活によって命をいただきます。
聖霊によって愛の炎を燃え立たせ、私たちを強めて奉仕と賛美の生活へと
向かうことができますように。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、
御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記11:1-9( 旧約 13 頁 )
第2の朗読 使徒言行録 2:1-21( 新約 114 頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書14:8-17( 新約 196 頁 )

みことばの歌 教会123番(3節) あめつちこぞりて

3.救いのみわざは 世界にあまねく
ひろがりわたる。
「ゆたかな祝福 うえよりくだれ」と
ひたすら祈る。
いのちのもとなる み霊(たま)にみたされ
み神の恵み、日ごとに加わり
たまもの受けつつ この世をおくる。

説 教 「 聖霊の力 」 三浦慎里子 神学生

感謝の歌 教会123番(3節) あめつちこぞりて

3.救いのみわざは 世界にあまねく
ひろがりわたる。
「ゆたかな祝福 うえよりくだれ」と
ひたすら祈る。
いのちのもとなる み霊(たま)にみたされ
み神の恵み、 日ごとに加わり
たまもの受けつつ この世をおくる。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会272番(2節) 主なる神をたたえ

2.み霊(たま)ここに宿り みことば働き
恵み絶えずあれば み民はやすけし。
愛と信仰によりて われら支えられ
主にある交わりは 命(いのち)にあふるる。

後  奏

2022年6月5日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【説教・音声版】2022年6月5日(日)10:30  聖霊降臨(ペンテコステ)礼拝  説教 「聖霊の力」 三浦 慎里子 神学生



私たちの教会は、ペンテコステの日を迎えました。約束された聖霊が、使徒たちに降った日です。この時起こった出来事から、多くのキリスト教会では、この日を教会の宣教が始まった日、教会の誕生日として祝っています。神様から送られた聖霊が何をしたのか、その働きについて紐解いてまいりましょう。先ほど読まれました旧約聖書の箇所は、バベルの塔の話でした。世界中が同じ言葉を同じように話していた頃、人々は天まで届く塔のある町を建てて、有名になろう、散らされないようにしようと考えますが、その企みを知った神様によって言葉が混乱させられ、全地に散らされてしまうという内容です。人々が「散らされないようにしよう」と言っているということは、散らされることを恐れているからでしょう。人々は安全な場所に留まろうとします。自分たちを守るためにひとつにまとまろうとします。しかし、創世記1章28節に書かれているように、神様は初めから、ご自分が創造された被造物を全地に広がらせようとなさるのです。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と。自分たちの保身と欲望のために天まで届く塔を作り、神様に反抗した人々には、言葉が混乱させられた上に、全地に散らされるという裁きが下されます。散らされる、分断されるということは、悲しく、恐ろしいことです。私たちの生きる今の世界においても、人間の自己中心的な思惑は、あらゆる分断を生み出しています。戦争、環境破壊、差別、富の偏りなど、向き合わなければならない問題はたくさんあります。社会的な問題だけではなく、私たち個人の日々の生活の中にも妬みや憎しみなど、分断は存在するでしょう。そのような状況を少しでも改善しようと努力してみても、問題の闇の深さに打ちのめされ、自分の無力さを思い知ることも少なくありません。私たちはばらばらです。しかし、この旧約聖書のみことばによって、聖霊降臨の出来事は、私たちへの希望の福音として光を放ち始めます。これは、神に反抗した人間たちに裁きが下った、という単純な話ではありません。確かにばらばらに散らされたことは裁きであったけれども、同時に救いの始まりでもあったのです。なぜなら、聖霊降臨の出来事において神様は、ばらばらに散らされた人々を一つに集めておられるからです。

本日の使徒書の箇所は、使徒たちに聖霊が降った時の様子を生き生きと臨場感たっぷりに伝えています。先週の主の昇天主日で読まれた使徒言行録1章で、イエス様は使徒たちに、「エルサレムを離れず、父の約束されたものを待ちなさい」と命じられました。使徒たちはイエス様から言われたことを守り、エルサレムに留まり、集まって祈っていました。すると突然、その時はやってきました。

激しい風が吹いて来るような音が鳴り響き、炎のような数々の舌が現れ、使徒たちの上に留まります。聖霊はまず、人の聴覚と視覚に対するしるしとして現れました。神がご自身の臨在を、目に見える形で示されたのです。しかし、これで終わりではありませんでした。聖霊に満たされた使徒たちが、それぞれに他の言語で話し出したのです。非常に迫力のある、異常な光景が広がっていたことでしょう。ここで使徒たちは「霊が語らせるままに」語ったと書かれています。使徒たちは、自分で努力して外国語を習得したのでもなければ、自分が思ったこと伝えたいことを話しているわけでもありません。聖霊は、使徒たちの中に入り、使徒たちを満たし、内側から突き動かす力となったのです。さらに聖霊は、ペトロを雄弁に語らせています。

ペトロというと、イエス様が捕まった時、イエス様のことを知らないと言って裏切ってしまった、あの場面を思い出します。イエスの仲間ではないかと聞かれて、「そんな人は知らない」と答えたあのペトロが、イエス様によって預言が成就されたことを語っているのです。公然と、大胆に。聖霊は、臆病だったペトロに命を吹き入れ、大胆に語る賜物を持った人へと創り変えました。本日読まれた箇所には含まれていませんが、この後の部分で、ペトロの説教を聞き心を打たれた三千人もの人々が、洗礼を受けて仲間に加わったと書かれていますから、ペトロが語った言葉がどんなに力に満ち溢れていたかが想像できます。こうして聖霊が降った使徒たちの様子を見ていきますと、聖霊の数々の働きは、ひとつのことを成すためにあることに気付きます。それは、「語る」ということです。聖霊は使徒たちの中に入り、満たし、創り変えて、語らせています。何を語らせるのか。イエス様の死と復活についての証言です。聖霊降臨の出来事において、神様は、キリストを証言するということによってばらばらに散らされた人々を一つにし、ご自分のもとに立ち返らせ、ご自分と結ばれた生き方へと招かれるのです。私たちはキリストによって一つにされるのです。この証言を語らせるのが聖霊の力です。

語る者だけでなく、聞く者の存在も、宣教には必要です。聖霊が降った日は、五旬節の祭の日でした。ユダヤ教の大きな例祭の一つです。エルサレムは、当時すでに周辺の様々な地域から多くの人が集まる国際都市でしたが、祭りの時には、イスラエル全土から、そしてその他の地域からさらに多くの人々が巡礼に訪れました。ですから、五旬節の祭の日、エルサレムは人々の熱気や興奮に満ち、大変な賑わいを見せていたと思われます。聖霊は、そのような時と場所において使徒たちに降りました。聖霊降臨は、使徒たちの集まりの中だけで起こった内輪の出来事ではなく、公の出来事として起こったのです。物音を聞きつけ集まってきた大勢の人々の耳に飛び込んできたのは、それぞれの土地の慣れ親しんだ言葉でした。私は九州の生まれですが、東京で自分の出身地の方言を聞くと、即座にアンテナがピーンと立ち、その人の話が良く耳に入ってきます。その人のことを知らないのに、まるで友達のような親近感さえ湧いてきます。海外に行った時に日本語を耳にするとどこかほっとした気持ちになる、あの感覚を経験されたことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ここに書かれている、この場に集まってきた人々は、エルサレムからはかなり遠く離れた、広い範囲の地域からやって来た人々でした。ユダヤ人ではない人々もいました。自分の出身地の言葉で語られる偉大な神様の言葉は、エルサレムで話される共通語で聞くよりももっと、はっきりと、鋭く、一人一人に届いたことでしょう。神様は、ばらばらになった言語の違いをそのままにされ、統一しようとはなさいませんでした。むしろ、その違いの中で一つの証言を聞き、一人一人が豊かに福音を受け取ることができるようにし、国境を越えて救いが広がっていくようになさいました。キリストについての証言は、多くの人に聞かれ、世の果てまで広がっていかなければならないのです。私たちキリストの教会は、使徒たちが担ったこの役割を引き継いでいます。そんな大それたことが自分にできるのかと重荷に感じるでしょうか。今の教会にそんな力はないと思われるでしょうか。

イエス様はヨハネ福音書14章においてこう語っておられます。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」イエス様は、聖霊を送ることを約束してくださっています。そして、イエス様が約束してくださることは必ず果たされます。確かに、私たちの生きる現実には悲しい分断があります。私たちはばらばらです。しかし、イエス様が約束してくださった聖霊が与えられ、イエス様を証言するものとされることを、そしてその証言によって、分かたれたものが一つにされることの確かな希望を、私たちは聖霊降臨の出来事から受け取ることができます。遠い昔、使徒たちは、聖霊の力によって心の目が開かれ、自分の内にイエス様がおられることを知り、確信を持って神様の言葉を伝えてゆく者とされました。ペンテコステのこの日、教会を受け継いだ私たちは、再びこの始まりの出来事に立ち返ります。そして、燃える心でここから押し出されていきたいのです。

2022年7月9日(土)第27回 日本福音ルーテル教会東教区宣教フォーラム 『日本の伝統に生きる私たち』Vol.3



ポスター A4(PDF)版はこちらからご覧ください。

1)主題:「日本の昔話から読み解く日本人の文化意識とキリスト教」

会場:ルーテルむさしの教会
主催:第27回ルーテル東教区宣教フォーラム委員会
日時:2022年7月9日 9:45〜

【開会の祈り】– 浅野 直樹Jr.牧師 9:45〜10:00
【第1部】– 主題講演 10:00〜11:30

「日本の昔ばなしから読み解く、日本人の文化意識とキリスト教」

◉講演者
立石 展大(たていし のぶあつ)高千穂大学教授
日本文学・伝承文学 日本と中国の民間説話比較

【軽食休憩】– 11:30〜12:00
【第2部】– シンポジウム 12:00〜13:55

「日本の伝統に生きる私たち」の文化意識と信仰心

◉司 会
上村 敏文  ルーテル学院大学准教授 日本文化論・比較文化論
◉パネリスト
菅原  建  浄土真宗大谷派證誠山浅草厳念寺住職
松谷 信司  キリスト新聞社 編集長
立石 展大 高千穂大学教授

【閉会の祈り】– 浅野 直樹Jr.牧師  13:55〜14:15

2)ご参加⽅法 

どなたでもご視聴できます。
↑上記ポスターまたは、↓下記YouTubeバナーをクリックしてお⼊りください。
(申し込みは必要ありません)



◉会場参加(むさしの教会)ご希望の場合は
以下の方法でお申し込みください。


①下記メールアドレスから申し込む ※氏名/所属教会を送信
お問い合せ:senkyoforum@gmail.com

Googleフォームまたは、スマホの場合QRコードで申し込む


 

 

【 Live配信 】2022年5月29日(日)10:30  主の昇天主日礼拝  説教 「キリストと共に 」 浅野 直樹 牧師



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2022年5月29日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【説教・音声版 】2022年5月29日(日)10:30  主の昇天主日礼拝  説教 「キリストと共に 」 浅野 直樹 牧師

聖書箇所:ルカによる福音書24章44~53節


週報等でもご案内していますように、来週の礼拝後、ヴィニヤードの会・女性会の中で教会員による「宗教画」のレクチャーが行われます。私も興味があり、大変楽しみなのですが、残念ながら所用がありますので出席できません。

本日は「主の昇天主日」ですが、このイエスさまの昇天の出来事を取り上げた宗教画も多く残されています。有名なのは、イタリアのジョットの作品でしょうか。私もちょっと調べてみて、いくつかの作品を見てみました。どれも印象深いものでしたが、私自身はちょっと気になることがあったのです。それは、イエスさまを見送る弟子たちの表情です。皆、一様に神妙な、あるいは悲しみといいますか、どこか呆然としているような表情として描かれていました。確かに、イエスさまが天に昇っていかれるのですから、「は~(ため息)」と見送る気持ちも分からなくない。私も、その場に居合わせたなら、そういった心持ちだったでしょう。

しかし、聖書は「大喜びで」と記しています。もちろん、厳密に言えば、この「大喜びで」と記されているのは、昇天の出来事の時ではなくて、イエスさまが天に挙げられた後、イエスさまを伏し拝んで「大喜びでエルサレム」に帰っていった訳ですから、この昇天の出来事の時にどんな心持ちであったは分からないわけです。ですから、喜びの表情で描くことは出来なかったのかもしれない。しかし、私はここに、この昇天の出来事の一つのツボがあるように思えてならないのです。

イエスさまのこの昇天の出来事は、弟子たちにとっては「今生の別れ」を意味したでしょう。もう二度と、この地上ではイエスさまとお会いすることができない。なのに、なぜ弟子たちは「大喜び」でその場を後にできたのか…。

弟子たちはすでに一度、イエスさまとの「今生の別れ」を経験していました。少なくとも、その時の弟子たちは、そのように受け取っていたでしょう。お分かりのように、イエスさまの十字架の死の時です。この時の弟子たちの様子を私たちは知っています。とても「喜ぶ」なんて記せるような状態ではなかった。そして、それは、私たちにも分かる感覚です。それが、「死」「死別」というものだから、です。彼らは、沈鬱な表情を浮かべて自分達の部屋に鍵をかけて閉じこもることしかできなかった。ある意味、この世の終わりでもあるかのように。全てが潰え去ってしまったかのように。

キリストの昇天:ジョット、スクロヴェーニ礼拝堂(パドヴァ)



しかし、イエスさまはそんな彼ら弟子たちをお見捨てにはならなかった。復活されたイエスさまは弟子たちを訪ねられた。信じられないでいた弟子たちを。鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちを。無理矢理にその扉をこじ開けるのではなく、そっと中に立ち、「平和があるように(シャローム)」と声をかけて下さった。もう二度と会えないと思っていたのに、もう二度とあの頃には戻れないと思っていたのに、イエスさまは来てくださった。それが、弟子たちの救いとなった。

今日の福音書の日課であるルカ福音書では、復活から昇天まで、まるで一日の間に起こった出来事であるかのように記されていますが、使徒言行録では復活から昇天までの4
0日間を、復活のイエスさまは弟子たちと共に過ごされたことが記されています。両者は同じ著者によって書かれたと考えられていますので、どちらか一方が正しい、というのではなく、補完関係にあると考えた方が良いと思います。では、そんな40日間を弟子たちはどのように過ごしていったのか。使徒言行録の方では「神の国について話された」と記されていますが、それは、このようなことではなかったか、と思います。今日の日課の45節以下です。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。』」。

先ほどは、一度目の「今生の別れ」のとき、弟子たちはイエスさまとの死別で相当に落ち込んでいた、と言いました。しかし、これまでも度々お話ししてきましたように、彼らの心を暗くさせていたのは、単に死別のことだけではなかった訳です。つまり、罪の問題。直接的には、イエスさまを裏切ってしまったという取り返しのつかない過ちです。それが、より一層彼らの心を重くしていた。しかし、それは、先ほどの聖書の言葉から言えば、彼ら弟子たちが聖書の言葉を悟っていなかったからです。悟っていないのであって、知識がなかった訳ではない。

現に彼らはイエスさまから受難予告も、少なくとも3度は受けていたはずです。知識としてはあった。しかし、悟っていなかった。自分の心に落とし込むことができていなかった。だから、彼らはイエスさまの十字架の死を、単なる「今生の別れ」の死、もっと言えば、「不幸な死」としか受け止められなかった訳です。そんな彼らの心を、復活のイエスさまは開いてくださった。ここでも大切なことは、弟子たちが自分で開いたのではないということです。イエスさまが弟子たちに聖書を悟らせるために心の目を開いてくださったのです。

だから、イエスさまの十字架と復活の意味が分かるようになった。知的に、だけでなく、自分の救いの出来事として悟ることができるようになった。だからこそ、そんな弟子たちだからこそ、「罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝えるという使命が与えられていったのです。つまり、イエスさまの昇天による「今生の別れ」が「今生の別れ」ではなくなった、ということです。彼らの心を重く、暗くしていたイエスさまの死の意味・理解も、また罪の赦しについても、今や彼らは悟ることができるようになっていた。復活のイエスさまによって、心が、心の目が開かれたから、です。だから、彼らの別れの姿勢が、こんなにも変わったんだと思うのです。喜べるようになった。

しかし、それだけでもないように思います。先週の日課では、主に「聖霊の働き」ということにスポットを当てて話させていただきましたが、このようにも記されていたからです。ヨハネ14章27節以下。「『わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。』」。

イエスさまの復活、そして昇天の出来事で私たちが気付かされることは、イエスさまが「神の子」である、ということです。ちなみに、イエスさまに限らず、私たちの愛する者たちが天に召される時、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大だからである」といった信仰に立てるなら、これほど幸いなことはない、と思います。ともかく、イエスさまが神さまの子どもならば、父なる神さまのところに戻られるということは、喜ばしいことです。決して、悲しいことでも、悲惨なことでもない。ただし、寂しいことには違いない。今までずっと一緒にいてくれた人がいなくなってしまうのだから…。そして、不安な気持ちにもなるのかもしれない。

イエスさまは、ここで「去って行くが、再び戻ってくる」とおっしゃいます。これは、復活を意味するとか、あるいは再臨を意味すると考えられています。そして、そんな今を、つまり昇天から再臨までの期間を、中間期、あるいは教会の時代などとも言われるのです。つまり、イエスさまと直接的には、顔と顔を合わせるようにはお会いすることができない、そんな時代に私たちは生きている、ということです。ですから、時に、私たちはイエスさまの「不在」を感じるようなことも起こってくる。だからこその、聖霊の約束でもある訳です。イエスさまはこう語られる。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。決して独りぼっちにはしない、ということでもあるのでしょう。そう約束してくださっている。

弟子たちは、またイエスさまと別れなければならなかった。辛かったに違いない。しかし、彼らは喜ぶことができたのです。復活のイエスさまによって、心の目が開かれたからです。聖書を悟ることができたからです。十字架の意味も、復活の恵みも受け止めることができた。そして、罪が赦されていることも実感できた。それだけではない。イエスさまが神の子であり、父なる神さまのもとに帰ることが幸いであるということを、しかし、イエスさまは聖霊を遣わしてくださって、常に共にいて、決して私たちを独りぼっちにはしないということも、復活のイエスさまと出会って、天に昇られるイエスさまを仰ぎみて、確信していったのではないでしょうか。だから、彼らはイエスさまを伏し拝むことができた。大喜びで帰ることができた。そして、それが、中間時代、教会の時代と言われる現代に生きる私たちの姿でもあるのではないか。そう思うのです。

先ほどは、ルカ福音書と使徒言行録は同じ著者が書いたもので、補完関係にあると言いました。当然、共通した事柄がある訳です。今日の日課でもそうです。それは、宣教が託されている、ということです。これは、次週のことになりますが、聖霊降臨の出来事は、宣教活動に力を与えるためのものでもある訳です。そのことも、私たちは忘れてはならないでしょう。それが、教会の誕生日でもある。ぜひ、来週の聖霊降臨祭を、そのような心持ちで備えていきたいと思います。