【週報:司式部分】 2021年1月24日  顕現後第3主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  中山 康子

開会の部
前 奏  われに来たれ、と神のみ子は語りたもう J.C. バッハ

初めの歌 教会172  ( つくりぬしを )1、4番
罪の告白
キリエ・グロリア

みことばの部

特別の祈り

全能の神さま。
あなたは権威をもって、み国の到来を告げ、教えるために、み子を遣わされました。
悩む人によい知らせを、悲しむ人に慰めを、囚われている人に自由を伝えるために、
み霊の力を注いでください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 ヨナ書 3:1-5、10( 旧約 1447頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙一 7:29-31( 新約 308頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 マルコによる福音書 1:14-20( 新約 61頁 )

みことばの歌 教会272( 主なるかみをたたえ )1、4番

説 教 「 わたしにはあなたが必要なのだ 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会320( しあわせなことよ )1、4番

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会290( ガリラヤのかぜ )1、3番

後 奏 インマヌエルの主イエスこそ H.クロッツ

【 Live配信 】2021年1月24日(日) 10:30 顕現後第3主日礼拝  説教 「わたしにはあなたが必要なのだ 」浅野 直樹牧師



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【 説教・音声版】2021年1月24日(日) 10:30 説教「わたしにはあなたが必要なのだ」浅野直樹牧師

顕現後第三主日礼拝説教

聖書箇所:マルコによる福音書1章14~20節

私たち人間には、「基本的欲求」があるといいます。ある意味、人間らしく生きていく上で必要なものということでしょう。調べてみますと、5つの段階があると言われているようです(一つの学説でしょうが)。最初が「生理的欲求」、次に「安全の欲求」、「社会的欲求(所属と愛の欲求)」、「承認欲求」、そして「自己実現の欲求」。

これについては面白い説明がなされていました。ちょっとそのまま引用してみますと、「無人島に流れ着いたと仮定してみてください。何もない無人島で、あなたはさまざまなものを欲求するはずです。空腹を満たすための食べ物も欲しいし、安全に暮らせる家も欲しいし、話し相手になってくれる友達も欲しい、と思うでしょう。しかし、最初に心配する問題は何でしょうか? きっと『食べ物』であるはずです。食べ物を確保できなければ、すぐに飢えて死んでしまうからです。家や友達がなくてもしばらく死ぬことはありませんが、食べ物は、生命の維持に直結する最も基本的なものですからね。空腹が満たされた後で初めて、『家を造ろう』(安全の欲求)、『ほかに仲間がいないか探そう』(社会的欲求)など、次の段階の欲求へと進んでいくことができます」。

異論はあるかもしれませんが、私は「なるほど」とも思いました。これらについて、今この場でいちいち難しい説明をするつもりはありませんが、確かに私たちが人間らしく生きるためには様々な欲求が満たされる必要があるでしょう。愛されたい・愛したい、といった欲求が。認められたい、といった欲求が。そして、必要とされたい、といった欲求が。それらがバランスよく満たされることによって、私たちははじめて健全に生きられるのかもしれません。しかし、私たちが生きる現実は、必ずしもそうとは言えないものでもあるのでしょう。

40歳を前にして、一念発起して、それまで働いていた牧師を辞めてルーテル学院大学で学ぶために上京してきたのは、2007年のことでした。今から思えば、ずいぶんと無謀なことをしたな、と思います。それまで10年ほど働いてきましたが、退職金は雀の涙ほどで、すぐに底をつき、家族のためにもどうしても働かなくてはなりませんでした。そこで、学校との両立が可能なバイト先を探しました。東京ですから、バイトくらい簡単に見つかるだろうと、正直高を括っていました。しかし、現実は違っていたのです。先ほども言いましたように、2007年ですので、いわゆる「就職氷河期」からはようやく抜け出して少しはマシになっていたのかもしれませんが、それでもまだ大変厳しいものでした。私の学生の頃は、あんなにも分厚かったバイト情報誌が、本当にペラペラなものに変わってしまっていました。

何社も面接にいっては不採用でした。途方に暮れました。書類選考も含めていったい何社くらい落ちたでしょうか。正直、金銭的な緊迫度よりも、まず心が折れました。私はこの社会に必要とされていないのだ、と。多少の自負もあった10年の牧師のキャリアなど、この社会では何一つ通用しないことを痛感させられました。

「就職氷河期」を経験された若者たちの気持ち、精神的な痛みを、ほんの少しですが分かったような気がした瞬間でもありました。衣食住の基本はもちろんのこと–このコロナ禍でこの基本さえも今問われていますが–、希望を持ち、愛され必要とされていることをもし自覚できていくならば、人は生きられる。私は、そう思います。

ラファエロ・サンティ (1483–1520) 魚網の奇跡(The Miraculous Draught of Fishes(1515年))ヴィクトリア&アルバート博物館 ロンドン



今朝の福音書の日課は、先週に引き続き「弟子の召命物語」です。もっとも、私たちにとっては、先週の日課よりも馴染みのある物語でしょう。イエスさまはこのように宣教をはじめていかれました。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。有名な言葉です。このことについても、しっかりと考えていく必要を感じていますが、今朝は弟子の召命にポイントを絞っていきたいと思います。マルコによると、イエスさまはこの宣教の開始直後に弟子たちを召していかれました。これまた有名なところですが、ガリラヤ湖の湖畔で網の手入れをしていた漁師たちとイエスさまが出会われ、4人の漁師たちを弟子として迎え入れるために呼びかけられていったわけです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。

そして、彼らはすぐさま、その呼びかけに従いました。なんだか、情景がすぐにでも浮かぶような素晴らしい物語です。そして、私たちキリスト者にとっては、とても印象深い物語でもあるように思うのです。この物語に共感して牧師になっていった人も決して少なくはないでしょう。確かに、そうなのですが、考えてみるとちょっと不思議な物語でもあるように思うのです。そもそも、師匠の方が弟子を探しに行くというのも、なんだか不自然な気がいたします。普通は逆でしょう。その道に入りたいと思えば…、例えば落語家になりたければ、誰でもいいということではないでしょう。あの師匠の噺はすばらしい。私もあんな噺家になりたい。そう思ってその師匠の門を叩くのではないでしょうか。逆に、弟子の側から言えば、よくもそんなにすんなりと従えたな、と思います。

この時のイエスさまは、まだ宣教を始めたばかりの無名者だったでしょう。海のものとも山のものともつかない年若きラビに人生を賭けるなんて。これも不思議。単に弟子たちの決意では説明がつきません。やはり、不思議なことが、この4人の心を、人生を動かすような力が、そう、それこそイエスさまの神的な力が働いたとしか思えません。とにかく、私たちキリスト者にとっては、あまりに馴染みのある風景すぎて当たり前のように受け止めてしまっているのかもしれませんが、考えてみれば実に不思議な出来事なのです。つまり、イエスさまは最初っから、宣教活動のはじめから弟子たちを必要としていたとしか思えないのです。いいえ、もっと正確に言えば、イエスさまはご自身のはじめられたその働きを、ご自身で完結するつもりはなかった、ということでしょう。そうではなくて、最初っから弟子たちに引き継がせることを計画しておられたからこそ、宣教開始のいの一番に弟子たちを召していかれたのです。

しかし、それにしても、それほど必要とされた弟子たちが、あまりにも不甲斐ないことを私たちは知っています。イエスさまの足を引っ張るし、飲み込みが悪くちっともイエスさまの真意を悟らないし、権力争いをしだすし、しまいには師匠を見捨てて逃げてしまう始末です。弟子としてどうか、と思ってしまう。一般論で言えば、そんな弟子は師匠から見限られて、お前はこの働きに向いていないと破門されてしまうのが落ちかもしれません。しかし、ここに慰めがあります。私たちの師匠は、そんな弟子たちを見限ることも見捨てることもなさらないからです。それでも、なお、そんな弟子を必要としてくださっているからです。イエスさまが必要とされているのは、完璧な人間ではありません。不完全で、弱くて、失敗ばかりしてしまうかもしれませんが、「わたしについて来なさい」との呼びかけに、ただ単純に従う人をイエスさまは必要とされているのです。あの弟子たちのように。

イエスさまは今日も、あの弟子たちと同様に、私たちにも語りかけておられるのではないでしょうか。「あなたがたを召したのは、必要としたのは、この私なのだ。だから、安心しなさい。私には分かっている。あなたがたの弱さも強さも全部…。それでも、私は、あなたがたに任せたいのだ。私がはじめた神の国運動を。この世界を救う働きを。私を信じて、与えられた賜物に応じて進めていきなさい」と。そして、この「わたしについて来なさい」と、そう呼びかけられていると思います。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498) サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



 

祈り
・先週、アメリカでは新大統領の就任式が行われました。多くの人々が憧れを抱くアメリカでしたが、最近では様々な問題が噴出し、民主主義の危機とさえ言われるようになってしまいました。新型コロナの問題はもちろんのこと、人種問題、格差問題、支持政党による分断の問題など、多くの難題を抱えての船出となりました。また、世界的にも、気候問題をはじめ、様々な世界規模の問題に対するリーダーシップも期待されています。どうぞ、新大統領をはじめとした新政権が、正しい歩みをしていくことができますように、どうぞ守り導いていってくださいますようお願いいたします。

・緊急事態宣言を受け、急激な感染拡大はおさまりつつありますが、依然として高止まり状態で、死者・重傷者も多く出ており、医療の逼迫度も増している状況です。どうぞ憐れんでくださいまして、ますます一人一人の意識を高めてくださり、医療の負担を抑えていくことができますようにお導きください。感染状況が終息していきますように。

また、このコロナ禍にあって、倒産やリストラなどで職を失った方々が多くいらっしゃいます。まずは、生活が守られる支援の手がいち早く届きますように、国や自治体などの働きをお導きください。また、人は必要とされるからこそ、生き甲斐を持って生きられるものです。新しい働きの場など、新たな産業の変化なども求められていますが、どうぞやり甲斐を持って働ける場をお与えくださいますようにもお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

【 Live配信 】2021年1月17日(日) 10:30 顕現後第2主日礼拝  説教 「出会うことで」浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】 2021年1月17日  顕現後第2主日礼拝

顕現後第2主日礼拝

司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  萩森 英明

開会の部
前 奏 「神のみ子はきませり」J.S.Bach

初めの歌 教会149 ( 空も地をも )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
主なる神さま。
あなたはみ子によって多くの人々を信仰に導き、栄光を現されました。
私たちにも信仰の賜物を与え、み子のようにすべての人々に喜びを伝えることが
できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 サムエル記上 3:1-10(旧約 432頁)
第2の朗読 コリントの信徒への手紙一 6:12-20(新約 306頁)
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書1:43-51(新約 165頁)

みことばの歌 教会29(恵みふかきみ声もて)

説教 「 出会うことで 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会372(イェスのみ名は)

信仰の告白 使徒信条
奉献の部

派遣の部(
派遣の歌 教会285(シオンよいそぎつたえよ)

後 奏 「神のみ子はきませり」J.G.Walther

【 説教・音声版】2021年1月17日(日) 10:30 説教「出会うことで」浅野直樹牧師

顕現後第2主日礼拝説教



聖書箇所:ヨハネによる福音書1章43~51節

人生には、さまざまな出会いがあるものです。それらが私たちの人生を彩っていく。そして、人生を変えるような、あるいは大きな影響を与えるような良き出会いがあるということは幸いなことではないでしょうか。

思い返しますと、私にとっては特に次の三つの出会いが思い起こされます。皆さんはどうでしょうか。
一つは、中学時代の社会科の先生との出会いです。この先生との出会いがなければ、私はキリスト教に、教会に触れることはなかったのかもしれません。御多分に洩れず、と言いますか、私の中学時代は危うい思春期真っ只中の状態で、今から思えば非常に青臭い悩みでしたけれども、その頃は死を考えるほど深い悩みを抱えておりました。また、社会や周りの大人たちにも非常に反抗的でした。

そんな中、唯一好意を抱いていたのが、前述の社会科の先生でした。といっても、私の性格上、先生と親しくなれていたわけではありませんでしたが、先生の授業だったからこそ、先生の語ったキリスト教がすっと心に入ってきたのだと思います。そして、そんなキリスト教に憧れを抱きました。そのことがなければ、教会を訪ねることは恐らくなかったでしょう。

もう一つの出会いは、最初の神学校時代の学友たちとです。本当に彼らとの出会いは大きな支えになりました。素直に信仰の話が真剣にできたのは、彼らが最初だったと思います。それまでの私は、自分の信仰に自信が持てずにいました。洗礼を受け、神学校にまで行った訳ですが、自分の中に疑いの思いや反発心などが渦巻いており、本当にこれが信仰者なのだろうか、と悩んでもいたからです。かといって、そんな心の内を相談できる相手もおらず、悶々としていました。今から思えば、動機としては全く不謹慎だった訳ですが、そんな思いを何とかしたくて神学校に行ったようなものです。

しかし、いざ入学してみると、たちどころに「ここは自分のような人間が来るところではなかった」と思い知らされました。牧師を目指すような人たちばかりな訳ですから、周りは信仰の猛者ばかりだったからです。彼らからそのような話を聞かされるたびに、ますます自信を失い、本当に逃げ出したいばかりでした。彼らとの出会いがなければ、本当に逃げ出してしまい、牧師にもならなかったのかもしれません。その中にいることが、あまりにも辛くなりすぎて、ある日、非難されるのを覚悟の上でそんな心の内を打ち明けてみました。すると彼らは普段と何ら変わらず、あまりに当たり前の口調で「そんなの誰もが通る道だよ。僕たちだってそうだった」と答えてくれました。その言葉にどれほど救われたことか。本当に感謝に絶えません。

もう一つはルターとの出会いです。といっても、もちろん、本人自身にではありません。もっと言えば、彼の著書自体でもありませんでした。アメリカの神学者であるベイントンという人が書いた『我ここに立つ』が授業の課題図書とされ、読むことが求められたからです。これは、いわゆる伝記物です。その中に記されていた修道院時代の信仰的苦悩・葛藤にひどく共感を覚え、たちまちルターの虜になりました。その後、ルター関連の本を漁るように読んだことを覚えています。このルターとの出会いがなければ、信仰的自覚、信仰的成長、信仰的確信もなかったかもしれませんし、何より今現在ルーテル教会の牧師としてここに立っていることもなかったでしょう。もちろん、これ以外にも様々な出会いがあった訳ですが、そういった出会いが意図せずに人生を変えることになったことを深く思います。

先ほどは、私自身の特に三つの出会いを例として出させていただきましたが、出会いには大きく分けると二種類あるように思います。一つは偶然、たまたま、と言えるものです。前述の中学時代の先生にしろ、神学校時代の学友にしろ、たまたま同じ時期、同じ場所にいたからこそ生まれた出会いでしょう。場合によっては、すれ違うことだってあった。確かにそうなのですが、しかし、信仰の目で見れば違った景色も見えて来るように思います。それもまた、神さまが意図されたことなのだと。私の必要のために備えてくださった出会いなのだと。私は、そう思っています。

そして、もう一つは、誰かを媒介とした出会いです。私の場合は、前述のルターとの出会いがそうでしょう。その授業の先生が何らかの意図をもってその本を紹介してくれたお陰で、私はそれと出会うことができまし
た。たまたま、私自身はその先生の意図以上にルターとの出会いにハマってしまい決定的な意味を持つようになった訳ですが、そのような仲介がなければ出会うことがなかったのかもしれません。そういう意味では先生には本当に感謝しています。そのように、そんな偶然(神さまからすれば必然?)と仲介によって私たちは多くの出会いをしてきたはずです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Philip:フィリポ:部分※手で自分を指している図 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



今日の福音書の日課は、いわゆる「弟子の召命物語」と言えるでしょう。ここでイエスさまは二人の人物を弟子とされました。一人はフィリポ、もう一人はナタナエルです。前者、フィリポの方は他の福音書の中でも12弟子として取り上げられていますので良く分かるのですが、後者のナタナエルは他の福音書には登場してきません。ですので良く分からない。ここでフィリポと並んで取り上げられているくらいだから、ナタナエルも12弟子の一人ではないか。とすると他の福音書に記されているバルトロマイと同一人物ではないか。そんなふうにも言われています。ともかく、このヨハネ福音書の「弟子の召命物語」には、他の福音書にはない非常にユニークな場面が登場してまいります。フィリポの方は馴染みのある召命物語です。

「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」。これは、偶然の出会いと言っても良いのかもしれません。たまたまガリラヤに行く道中で出会ったから…。しかし、信仰の目で見るならば、前述のように、ここにも神さまの働きかけがあると考えられるし、もっと言えば、イエスさまの方からわざわざフィリポを弟子にするために出会っていかれたのかもしれません。いずれにせよ、これは従来型の召命物語でしょう。しかし、ナタナエルの方は一風変わっています。なぜならば、先ほど弟子とされたフィリポがナタナエルをイエスさまに引き合わせているからです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)※Nathanael ( Bartholomaenus ):※左端部分 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



これは、他の召命物語にはないものです。しかも、ここには非常に示唆に富んでいることが書いてある。フィリポは何とかしてナタナエルを説得しようと試みる訳です。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。ある人はフィリポは非常に凡庸な人だったと言います。そうかもしれません。彼の言葉も、それほど人を引き付けるようなものではなかったのかもしれない。しかし、彼は彼なりに精一杯、ナタナエルにも分かってもらおうと努力したはずです。しかし、ナタナエルの方はそっけなくこう答える。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。

私にも覚えがあります。学生時代、なんとかこの人を説得しようと何時間もかけて試みたのに、暖簾に腕押し、難癖ばかりを返してきて、疲れ切ってがっかりしたことがありました。しかし、このフィリポはその時私がしなかったことをした。「来て、見なさい」。実際にイエスさまに会って見なさい。そうすれば分かる。彼がしたことは、たったそれだけです。しかし、それが、ナタナエルとイエスさまとの運命的な出会いの架け橋になったのです。私たちだってそうでしょう。大抵は凡庸です。心動かすような、人生をひっくり返すような言葉など出てこないのかもしれません。

それでも、実際に「来て、見なさい」と勧めることはできるのかもしれません。この「来て、見なさい」は、現代では教会のことだとある方はいっておられます。そうかも、しれません。実際に教会に来て見てごらんなさい、と言えるのかもしれない。あるいは、聖書を読んでごらんなさい、かもしれない。信仰の入門書をプレゼントすることかもしれない。または執り成しの祈りをすることかもしれない。とにかく、私たちが説得するのではないということです。私たちは、何とかしてイエスさまと出会えるようにと橋渡しをすること。それで十分。それだけで、その人はイエスさまと出会えるかもしれない。

イエスさまと出会って、人生が大きく変えられるかもしれない。信仰の目でしか見ることのできない偉大なものを見ることができるようになるかもしれない。そして、生涯、希望を見失うことなく生きることができるようになるのかもしれない。そんな人を、私たちを媒介とする「弟子の召命物語」が今日の箇所に記されていることを、私たちはもう一度新たに心に刻んでいきたいと思います。

祈 り

緊急事態宣言後、一週間以上が経ちましたが、あまり人の出が減らずに効果に乏しいといった指摘もされています。東京では連日1000人をはるかに超えるような感染者が出ており、ますます医療現場は困窮していると思われます。また、なかなか入院することが出来ない方々が増え、心配されていたように自宅療養されていた方が急変してお亡くなりになられてしまったという事例も出てしまいました。どうぞ、憐れんでください。これ以上、感染が広がらないように、一人一人が行動を律することができますようにお導きください。

また、経済的に苦しい状況に追い込まれている方々も多くおられます。一方では、このコロナ禍にあっても利益を重ね、ますます格差が広がっているようにも感じています。本当に、このコロナ禍で社会の歪みがいっきに噴出しているようにも感じます。どうぞ、あなたが命じられているように、「隣人を自分のように愛すること」を志していく社会となっていきますように、また、様々な歪みに対してもしっかりと目を向け、反省しつつ、あり方を正していく勇気と力を与えてくださいますように、気候変動で立ち上がったあの若者たちのように、新しい社会のあり方を、誰もが当たり前の生活が送れるような優しい社会を求めていくことができますように、どうぞ罪深い私たちを顧み導いていってください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

Leonardo da Vinci (1452-1519) The Last Supper(1495-1498)

【 Live配信 】2021年1月10日(日) 10:30 主の洗礼主日礼拝  説教 「その時、天は裂けた」浅野 直樹牧師



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【 説教 ・音声版】2021年1月10日(日) 10:30 説教 「その時、天は裂けた」浅野直樹牧師

主の洗礼主日礼拝


聖書箇所:マルコによる福音書1章4~11節

本日は、主の洗礼を覚える主の日の礼拝です。ですので、ご一緒に、改めてイエスさまが洗礼を受けられた意味を、また私たちの洗礼の意味を考えていきたいと思っています。

その前に、本日与えられました第一の朗読、創世記1章1節以下の言葉にも思いを向けていきたいと思います。このみ言葉が、この新しい年のはじまりに与えられているということは幸いなことだと思っているからです。

ご承知のように、先週(7日に)一都三県に緊急事態宣言が出されました。東京においては、連日2000人を超える新規感染者数が出ています。予想をはるかに超えた急激な広がりです。個人的には、第一派のときに言われていた「ファクターX」などともう言え
なくなってきているほど、深刻な状況になっているようにも感じています。本来ならば、明るく希望に満ちているはずの年のはじめなのに、今年は、このような重苦しい雰囲気の中ではじめなければなりませんでした。



創世記の創造物語を、たわいもない神話のたぐいやおとぎ話のように受け止めておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、私は、この創造物語こそがキリスト教信仰の根幹をなしていると信じています。だからといって、必ずしも字義通りに受け取ることを要求しているのではありません。そうではなくて、この世界を造られた方がおられる、その方を信じる、ということです。それが、私たちの信仰の一丁目一番地ではないか、そう思っているからです。

この創造主なる神さまは、闇に光をもたらされる方です。何よりも、闇の中に、そのただ中に光を生み出す、創造される方なのです。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あ
れ。』こうして、光があった」。神さまは初めに「光」を創造されました。しかも、言葉によって。「『光あれ。』こうして、光があった」。

キリスト教は「ことばの宗教」とも言われたりいたします。言葉を…、聖書のことば、またその解き明かしである説教を大切にしているからです。また、その言葉の力を信じている。
言葉には力があります。それは何も、聖書の理解だけではありません。古来から日本にも「言霊」といった理解がありました。言葉には力、霊力が宿っていると考えられてきた。発せられた言葉が、現実を動かす、影響を与えると信じられてきたのです。ですか
ら、むやみやたらなことは言えなかったわけです。特に呪いの言葉などは…。本当にそうなってしまうことを恐れたからです。現代では、そういう意味ではあまりに言葉の力が軽んじられているのかもしれません。しかし、果たしてそうでしょうか。不用意なSNS上の
誹謗中傷で、大切な一人のいのちが奪われてしまうことだってある。

新年早々、アメリカから驚くようなニュースが飛び込んできました。トランプ支持者たちが連邦議会を襲撃したというのです。よくよくそのニュースを聞くと、大統領自身ワシントンに集まっていた支持者たちを煽るような発言をしていたとか。トランプさんは、まさかそのようなことになるとは思いもしなかったかもしれませんが、この歴史的汚点とも言われる事件に対して、自分には責任がないかのような発言に呆れてしまいました。

言葉に力がなくなってしまったのではありません。その言葉に責任を取らなくなってしまったからこそ、言葉が軽んじられるようになったのです。それは、日本の政治家たちもそうでしょう。難しい舵取りだということは誰もが理解しているはずです。しかし、その言葉はあまりに他人事のように聞こえてしまう。言葉に責任を持つということは、自分の発した言葉にしがみつくことでも、無理強いすることではないはずです。立ち止まって考えてみること、吟味すること、反省すること、時にはきちんと謝罪すること。そうではないでしょうか。ともかく、神さまの言葉は責任を取られるからこそ力強いのです。語られた言葉は必ず成る。闇の中に光を生み出されたように。私たちはこの一年をはじめるにあたって、もう一度この神さまの言葉の力に信仰の目を向けていきたいと思います。

イエスさまはなぜ悔い改めを説いていた洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか。私たちのためです。私たちのために、罪のないイエスさまは罪の赦しを与える洗礼を受けられたのです。私たちと同じ、私たちの一員となるために。私たちの仲間となるために。私たちの友となるために。そして、この私たちをも神の子とするために。パウロもこう書いています。ガラテヤの信徒への手紙3章26節。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。

ところで、このマルコ福音書では、イエスさまの洗礼の出来事についても御多分に洩れず非常に簡素に記されていますが、しかし、このマルコならではの特徴も見られます。それは、洗礼を受けられた後での出来事ですが、「天が裂けて」と記されているからです。
後で並行箇所と見比べていただければと思いますが、マタイもルカも「天が開け」といった表現がなされています。天が開かれる。あたかも一面黒い雲に覆われ閉じられていた空が開かれて、天からの光が差し込んでくるような、神秘的で、穏やかな、そして神々しい光景を想像いたします。それに引き換え、「天が裂け」るとは、なんと荒々しい表現か。
あたかも、無理矢理に、強引にこじ開けるような、そんな荒々しい激烈な印象を受けるのです。そして、それこそが重要なのではないか、と私は思っています。

先ほどは、なぜイエスさまは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのか、と言えば、それは私たちのためであった、と言いました。しかし、それは、決して、洗礼の出来事に限らないはずです。イエスさまの誕生からその生涯、また死と復活においても、すべてが私たちのためです。そして、この私たちのために、というのは、神さまにとっても、けっして楽な、安易なことではなかったはずなのです。私たちのために生まれ、私たちと同じ罪人の仲間となり、私たちを罪から救うために十字架に死に、私たちを神の子とされる。神さまにとっても、それらは決してスマートに、かっこよくできるものではなかった。

まさに、自分自身の身が引き裂かれるような思いで、自分の世界が引き裂かれ壊されるような思いで、それまでの私たちとの隔てられた関係を引き裂くような思いで、厳しく、辛く、苦しく、激烈で、本来ありえない、無理やりにとしか思えない強引な方法で、まさに神の子を、ご自分の愛するひとり子を十字架にかけるという方法でしか実現しえなかったことだったからではないか、そう思うからです。

キリストの洗礼:ピエロ・デラ・フランチェスカ (–1492) ロンドン ナショナルギャラリー



私たちが洗礼によって、神の子とされるということは、まさに「天が引き裂かれ」るような出来事を通してでなければ、決してやってこなかったことです。天が引き裂かれたからこそ、神さまが自ら天を引き裂いてくださったからこそ、私たちの上にも聖霊が下り、このような語りかけを聞くことができるようになった。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。

先週は小山先生がルターの言葉をいろいろとご紹介くださいましたが、決して張り合うつもりはありませんが、せっかくの新年なので、わたしも一つご紹介したいと思います。

それは、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、小教理問答の洗礼の項目で語られているものです。

「どのようにして水がそのように大きなことをすることができるのですか。

答え 水はもちろんそのようなことをしない。水と共に、水の許にある神のことばがそれをするのだ」。

そうです。最初に言いましたように神さまの言葉自体が、洗礼によって私たちを神の子としてくださるのです。天を引き裂くほどの激烈さをもって、まさに「光よあれ」を実現する力をもって、約束したことは必ず果たすとの責任をもって語ってくださっている神さまの言葉が、それをする。それを実現するのです。私たちは、ただそのことを信じるのです。

確かに暗い中でのスタートとなってしまいましたが、しかし、ここまでしてくださっている神さまが私たちを放っておかれることはないはずです。この神さまを、その言葉の力を信じて、この新しい一年も歩んでいきたいと願っています。



祈 り

・神さま。東京では連日2000人以上の新規感染者の方々が判明し、ついに一都三県に緊急事態宣言が出される事態となってしまいました。東京都のHPを見ますと、昨日の時点で5000人以上の方々が入院待機中だと思われます。このままでは病院で手当てもできずに悪化される方が多くでてしまうのではないか、と心配です。もちろん、医療の現場も大変な状況でしょう。一向に収まるどころか、ますます患者数が増えて、医療従事者の方々も心底疲れ切っておられるのではないか、と心配です。どうぞ憐れんでください。

経済的な面ももちろん必要でしょうが、とにかくもう一度、国民・市民一人ひとりの意識を変えて、感染を押さえ込まないことには、どうにもなりません。どうぞ、この緊急事態宣言を受けて、一人ひとりの意識を変えてくださり、感染を抑制していくことができますようにお導きください。

・また、教会においても、この緊急事態宣言と感染拡大、医療現場の逼迫を受けて本日より2月7日までは集会式の礼拝を中止いたしました。昨年9月より人数制限がありつつもせっかく再開されたのに本当に残念ですが、この間も教会に連なるお一人お一人をお守りくださり、それぞれの場所であなたとの豊かな出会いをしていくことがお出来になりますようにお導きください。また、新型コロナをはじめ、あらゆる危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

総会を間近に控えたこの時期ですので、私たちと同様、多くの教会で混乱をきたしておられるかもしれませんが、どうぞ、すべてを良きものへと変えてくださり、良き時を備えてくださいますようにもお願いを致します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【重要】教会へ集う皆さまへ

【† 重要 緊急事態宣言発出に伴う1月10日 からの礼拝について】

1月8日(金)〜2月7日(日)迄の期限で緊急事態宣言が再発出されました。
政府の要請により、午後8時以降の不要不急の外出自粛やイベントなどが制限されていますが現在の感染者数急拡大や医療体制の緊迫度を鑑みて役員会で協議のうえ、以下のように決定しました。

1)1月10日〜2月7日までの期間は集会式の礼拝を中止

緊急事態宣言発出中の1月10日〜2月7日までの期間は集会式の礼拝を中止し、オンライン礼拝配信のみとし、緊急事態宣言が延長される場合、その他案件を含め新たに検討のうえ対応する。
2)1月10日(日)開催予定の拡大役員会は中止とする。
活動報告の担当者は原稿を1月10日迄に野口姉宛へメールか郵送でお送りください。10日迄に無理な方もなるべく早い提出をお願いします
3)2月7日(日)開催予定の定期教会総会は延期とする
(本教会より全国の教会へ向けて「現在の厳しい状況を考えれば、総会の延期も役員会の判断で可能と解されます。」との見解も示されています)。総会の開催日程については感染状況などを鑑みて追って通知します。また、総会開催までの必要事項については、現行役員会が本教会の規定に沿って執り行うこととします。
なお、集会式礼拝の再会に際しては電話予約制による人数制限は継続となりますので、改めて予約受付開始その他のご案内をします。
大変な中ですが、どうぞご理解ご協力をよろしくお願いいたします。

みなさまの上に、主の豊かな守りと祝福がありますようにお祈りします。
日本福音ルーテル武蔵野教会
牧師:浅野直樹
役員一同

【週報:司式部分】 2021年1月10日  主の洗礼主日礼拝



司 式  浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教  浅野 直樹
奏 楽  苅谷 和子

開会の部
前 奏  主キリスト、神のひとり子  H.シャイデマン
初めの歌 教会60 ( 父なる神の )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
天の父なる神さま。
あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで「わたしの愛する子」と言われました。
み名による洗礼によって、あなたの子どもとされた私たちがみ心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記1:1-5 ( 旧約 1頁 )
第2の朗読 使徒言行録19:1-7( 新約 251頁 )
ハレルヤ唱 (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書1:4-11 ( 新約 61頁 )

みことばの歌 教会182 ( 主の造りましし )

説  教 「 その時、天は裂けた 」 浅野直樹 牧師

感謝の歌 教会322 ( 主なるイェスは )

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌 教会402( うれしき恵みよ )

後 奏  キリスト、われわれの主はヨルダンに来た J.S.バッハ

【重要】2021年1月からの礼拝

むさしの教会に集う皆さま

新年1月からの礼拝についてはCOVID-19感染状況が落ち着く迄の当面は、下記の形で礼拝を行って参ります。

《礼拝開始時間》
*第1部:10時30分~11時10分
・予約制により定員は35名とします。

*定員を超えた場合、第2部を予定しています。
・第2部:11時30分~12時10分

《予約方法》
*各主日礼拝の出席希望:前週の火曜から電話受付を開始します。
・受付時間 火~金:10時~20時、土:10時~12時
*牧師:浅野迄( 03-3330-8422 ,  090-6461-5960 )

ご予約・ご不明の点などは電話にてお気軽にご連絡ください。

【週報:司式部分】 2021年1月3日  降誕節第二主日礼拝



司 式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説 教 小山 茂
奏 楽 小山 泉

開会の部
前 奏 「天のかなたから」J.S. バッハ

初めの歌 教会49(1~2節) ( あたらしいとしを )
罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部(式文A 5〜7頁)

特別の祈り
全能の神さま。
あなたはみ子をイエスと名付け、私たちの救いのしるしとされました。
すべての人の心に救い主への愛を植え付けてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストによって祈(いの)ります。

第1の朗読 エレミヤ書31:7-14 ( 旧約 1234頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙1:3-14( 新約 352頁 )
ハレルヤ唱
福音書の朗読 ヨハネによる福音書1:1-18 ( 新約 163頁 )

みことばの歌 教会272 ( 主なるかみをたたえ )

説 教 「 言葉を受け、神の子となる 」 小山 茂 牧師

感謝の歌 教会34(1~2節) ( われいままぶねの )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌 教会307( まぶねのなかに )

後 奏 「神の子はきませり」J.S.バッハ

【Live配信】2021年1月3日(日) 10:30 降誕節第二主日礼拝  説教 「言葉を受け、神の子となる」小山 茂牧師



↓ You Tubeで視聴はこちらから

【 説教・音声版 】2021年1月3日(日) 10:30 礼拝説教 「言葉を受け、神の子となる」小山 茂牧師

降誕節第2主日 礼拝



ヨハネによる福音書1:1-18

序 新年おめでとう
新年あけまして、おめでとうございます。昨年は新型コロナウィルスに翻弄された一年でした。日本国内だけでなく世界中の国々が、コロナ禍に巻き込まれ、どう対応したらいいのか分からずに、右往左往して今日に至っています。私たちが当たり前のように享受してきたものが、どれほどありがたいものであったか、あらためて認識をさせられました。私たちが生きていく上で何が大切なのか、どこに価値を見出したらいいのか、考えさせられた一年でした。そして、今年こそは落ち着いた生き方ができる年であってほしいと、心から祈っています。

先ほど歌いました讃美歌は、新年に神をほめたたえる49番を選びました。作詞は江口武憲牧師(江口再起先生のお父上です)、作曲は山田実先生(ルーテル神学校の聖歌隊を指導された)、お二人により作られたものです。1月最初の礼拝にこの賛美歌を歌って、主に向き合う気持ちを新たにされます。新年に欠かせない教会讃美歌です。また教団の讃美歌21にも載せられて、多くの方々にも歌われています。

2 言葉と神と主イエス
ヨハネ福音書の書かれた目的が、20章30~31節に記されています。「イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」共観福音書と呼ばれる、マタイ・マルコ・ルカ、その後に書かれたのがヨハネ福音書です。

ヨハネによる福音書の冒頭部分-「復刻グーテンベルク聖書ゴールドリーフ」 のラテン語版



その当時のキリスト教は今のトルコからヨーロッパに広がっていました。ヨハネ福音書は旧約を知らないギリシア人に、キリストの福音を宣べ伝えようとしました。そのためでしょうか、マタイやルカ福音書のように、降誕物語を一切語りません。降誕節であれば、「占星術の学者の謁見」や「羊飼いの幼子の訪問」などが分かり易く、相応しいものに思われます。でも、マタイ福音書は旧約の預言が今成就したとしばしば語ります。ヨハネ福音書で、神はイエス・キリストを通して私たちに働きかけられ、暗闇の中にいる人々に命の光を照らすことを最優先します。

降誕節第2主日の福音は、ヨハネ福音書1章「ロゴス讃歌」から始まります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」ギリシア人が好む哲学的な言葉「ロゴス」、そのギリシア語は、ひとつの漢字で「言」を「ことば」と訳されます。まるで禅問答を始めるかのような冒頭です。福音書なのにどこか取り付きにくい感じがして、なかなか御言葉にストンと合点がいきません。言と神がどのような関係にあるのか、言は誰なのか、何なのか丁寧な説明がないからです。しかし、14節に理解を助ける鍵があります、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた。」言は肉体を受けて人となられ、私たちの眼に見える幼子になられました。ですから、言はイエス・キリストと分かります。

さらに冒頭2節に続きます、「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」全てのものは言葉によって創られたと聞くと、旧約聖書の創世記1章の天地創造の場面を想い起こします。

神が叫ばれた言葉による創造の秩序が、次のように形作られました。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。〔ここで言が発せられます〕『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」続けて第7の日まで天地を創造されました。神の言葉のある所に神はおられるのであり、神の発せられる言葉から出来事が起されました。

Saint John the Evangelist:福音記者ヨハネ Domenico Zampieri:ドメニキーノ(1581–1641)



 

3 肉は私たちに宿られた
今朝の福音の頂点は、14節にあります。その御言葉を拝読します。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」言葉が肉となるとは、受肉の出来事を指しています。宿ると訳された言葉が、理解を助けてくれます。洗礼者ヨハネは、イエス・キリストが私たちに宿ってくださる、その方がこの世に住んでくださると語ります。主イエスは乙女マリアから生まれ、神の栄光を示すために人間として生きられました。

つまり言は目に見える幼子となり、手で触れることができる方となられました。神から私たちに与えられる恵みは、憐みであり、優しさでもあります。神の優しさは、飼い葉桶に眠られる、力なき幼子にあります。幼子は神の御心に従い、弱い人間となり、救いを使命とする方となります。それはナザレのイエスが、ひとりの人間として、私どもに出会ってくださるのです。飼い葉桶の幼子の姿に、私たち人間の救いが包み隠されています。

14節の御言葉を受け入れる者は、主イエスを信じると告白する者とされます。私たちは礼拝の中で、使徒信条を唱えます。「私たちの主イエス・キリストを私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちから復活し、天に上られました。」その信仰は、14節を根拠にして告白されます。主イエスが幼子となられて、私たちに与えられなければ、信仰告白は始まらないのです。

ルターは信仰についてこう語りました。「信仰深くあることは、業を行うことではない。一切の業を捨てて神を信じることである。それから業をする。信仰を欠くならば、いかなる業もよい業とはならない。業にこだわるな。」いかにもルターらしく、信じることに一切の妥協がありません。良き業を積んで義とされるのではなく、信じて神の義を与えられ、善き業によりお返しができるのです。

私はルーテル教会の幼稚園に通い、主の祈りを丸暗記していました。しかし40年前の青年時代に、むさしの教会の礼拝に出席しました。あまりに明解な信仰の告白にたじろいで、思わず声が小さくなりました。式文に書かれた告白の意味を文字から知ると、私には信仰があると思えなかったからです。ルーテル教会はルターの教理問答などから分かるように、信仰告白をとても大切にしています。ですから今は、使徒信条やニケヤ信条を唱える時、丁寧に言葉を確認するよう心がけています。

信仰に生きる共同体は、受肉されたことを受け入れて、神の独り子の栄光に目覚めます。
そのことを、ルターはこう語りました。「飼い葉桶から始めるべきです。理性を捨てなさい。理性によって理解すること、それは高く昇って天使の仲間入りし、その後をついていって、この方の至高の権威のもとに立とうとするようなものです。それは極度に危険に満ちた努力です。あなたがあまりにも長く学問を続け、神の知恵は究めがたいことを悟り、あなたの心は絶望しているのです。そのような人間は、墜落して首の骨を折ってしまう登山家のようなものです。

~あなた方が神と共に語り、主権ある神に会いたいと願うなら、あなたは高い所におられる神を見ることになるでしょう。~むしろ、飼い葉桶に行きなさい。そこでこそあなた方は神を見い出します。神が私どもの主であり、あなた方の救い主である事実を見るのです。」ルターはキリストの降誕は、「喜ばしき交換」であると言いました。クリスマスにはこの恵みである交換が起こります。永遠の命を持たれるキリストが、受肉されて人間となられた。私たち人間が神との交わりによって、真の命を得るためです。こうして私たちの罪はキリストにのみ込まれ、キリストの義と交換されるのです。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498):部分-サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会



結び 受肉=隠された福音
今朝はルターの言葉を幾つも紹介しました。受肉における隠された福音を、ルターはとても大切にしていました。それが信仰への突破口になるからです。飼い葉桶の中におられる幼子こそが、私たちを信仰のスタート・ラインに立たせてくれます。

この後に選びました讃美歌34番は「我まぶねのかたえに立つ」と、パウル・ゲルハルト作詞、ヨハン・セバスチャン・バッハ作曲になるものです。ゲルハルトはルーテル教会の牧師であり、バッハもルーテル教会の音楽監督でした。まさに、ルターの「喜ばしき交換」のメッセージから、私たちがイエス・キリストを賛美するにふさわしい讃美歌です。

その賛美と祈りに声を合わせて、降誕の秘密が解き明かされてまいります。今年も神の言葉から、勇気と力を与えられて、混沌の世に光を見てまいりましょう。

Live版はこちらからご覧下さい



 

【 Live配信 】2020年12月27日(日) 10:30 降誕節第一主日礼拝  説教 「私の目は救いを見た」浅野 直樹



You Tubeで視聴はこちらから

【 テキスト・音声版】2020年12月27日 説教「私の目は救いを見た 」 浅野 直樹 牧師

降誕節第一主日礼拝説教(むさしの教会)



聖書箇所:ルカによる福音書2章22~40節

今年も残すところ後わずかとなりましたが、この一年は新型コロナの影響で、誰もが不安の中を歩んで来た、そんな一年ではなかったかと思います。新しい年は、そんな不安も払拭されて、穏やかな一年となればと心から願っています。

誰もが…、そう一人残らず全ての人、誰もが安心して生きられる。これは、一つの理想の世界、幸福な世界なのではないか、と思います。しかし、もう少し考えを進めてまいりますと、誰もが安心して死を迎えることができる、自分の人生の幕を閉じていくことができるのも、また、幸福な世界なのではないか。そうも思うのです。もちろん、それは、「死んで良い」ということではありません。人生の半ばで、志半ばで、死を迎えなければならないということは辛いことですし、年端もいかない子どもたちとの死別はできれば避けたいことですし、自ら死を選ぶしかないという現実というのもあってはならないこと、非常に残念なことです。もちろん、まずは「生きる」ということが大切なのです。

『キリストの神殿奉献』- シモン・ヴーエ Simon Vouet- ルーブル美術館 1640-1641年頃



幸福な人生を送ることが大切。当たり前のことです。しかし、それでも、私たちには、この私たちの誰にでも「死」という現実が横たわっていることも確かなことなのです。見ようとしなかろうと、気づこうとしなかろうと、確実にその時はやってくる。ですから、この誰もがいずれ経験するであろう「死」を恐れず、安心してもし迎えることができるならば、それは幸いなことなのではないか。そう思うのです。今日の日課にはシメオンという人物が登場してまいりました。そのシメオンはこんな言葉を残しています。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。これは『シメオンの賛歌』とも言われるものです。私たちが毎主日、礼拝の中で唱えている『ヌンク ディミティス』がそれです。今日は、この『シメオンの賛歌』の、特に「今こそあなたは、この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉を中心に、このシメオンの心境などを考えていきたい、と思っています。

その前に、今日の日課に登場してまいります、先ほどのシメオンとアンナについて、少し考えてみたいと思います。現在の聖書学の世界では、異なった意見も出てきているようですが、伝統的には、このシメオンもアンナも共に「老人」と考えられてきました。そして、ある方は、ここがミソだとも言っています。なぜならば、クリスマスの、つまりイエス・キリストの御降誕の意味を正確に受け取っていたのは、この二人の老人だけだったからです。なるほど、と思いました。この「聖家族」が訪れていた神殿には数多くの人々がおそらくいたでしょう。

『女預言者アンナ』美術史博物館(ウィーン)1639年 Rembrandt Harmensz. van Rijn



中には、信仰的なリーダーたちもお偉いさんたちもいたに違いない。しかし、そういった人々はイエスさまの存在に、その意義に気づかなかったのです。
いいえ、気づけなかったのです。この当時、無名とも言える二人の老人たちだけが、クリスマスの意義をはっきりと理解していた。そのことを、このクリスマスの物語は改めて教えてくれています。

時代によっては、年配の方々に対する意識が変わるのでしょう。一昔前までは、その経験や知識が重んじられて来たと思いますが、昨今のような目まぐるしく時代が移り変わっていく中では、あまり重んじられなくなってきたようにも感じるからです。確かに、なかなかITなどの技術革新には付いていけないでしょう。しかし、それでも、円熟味は変わらないと思うのです。一人の人間としても、そして、信仰者としても。この二人の「老人」の特徴は、共に信仰に篤い人だったということ。熱心に祈る祈りの人であったということです。だからこそ、聖霊の働きに敏感に答えることができたのでしょう。近年、教会はますます高齢化が進んでいくと、どちらかというと否定的な意味合いで言われることが多いように思いますが、このクリスマスの物語を読みますと、そうではないことにも気づかされるのではないでしょうか。年配者には年配者ならではの円熟した役割がある。このシメオンやアンナのように他の人にはできなかった、正しく、正確に、救い主を指し示していくことだってできる。そんなことも教えられる気がするからです。

先ほどの「この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉は、もういつ死んでもいい、ということです。いつ召されても構いません、という意味です。老シメオンは赤子のイエスさまに出会いしなに、そのように語ったのです。なぜか。夢が叶ったからです。シメオンはずっとこの時を待っていました。こう記されています。「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」。彼は救い主に会うまでは決して死ぬことはない、とのお告げも受けていたと言います。

『神殿のシメオン』または『シメオンとアンナ』レンブラント・ファン・レイン ハンブル美術館 1627-1628年 Rembrandt Harmensz. van Rijn



おそらく、彼はその言葉の、約束の実現を何年も、ひょっとして何十年も待ち焦がれていたのではないでしょうか。そして、ついに彼は救い主と出会うことができた。聖霊によって、その赤子が自分が待ち望んでいた救い主だということが分かった。そして、その幼子を腕に抱き、感極まってこう語らずにはいられなかったのではないか。そう思う。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。「わたしはこの目であなたの救いを見たから」もう直ぐにでも死んでも構わない。私は満足している。満ち足りている。もう何も恐るものなどない。

なぜならば、あれほど待ち望んでいた救いを、救い主をこの目ではっきりと見たのだから。彼は、喜びに胸を躍らせながら、そう語る。何という幸いな光景か、と思う。しかし、私はちょっと立ち止まってしまうのです。おや、彼は救いを見たというが、彼が見たのは、赤子のイエスさまではないか。確かに、これからイエスさまは成長されて、まさに救い主としての姿を多くの人々の前に示され、そして、十字架と復活によって、救いの業を完成してくださる。しかし、それは、まだまだ先のことであって、シメオン自身はその恩恵をちっとも体験していないではないか。なのに、彼はなぜ救いを見た、と言い得るのか。私なら、そんなふうに考えてしまいます。

しかし、ここがもう一つ大切なところなのです。肝心なのは、神さまの言葉なのです。まずは、神さまの言葉、約束がある。その言葉が、約束が、たとえ赤子であったとしても、彼は実現されたことをイエスさまの中に見出したのです。それだけで良いのです。それだけで、彼は救いを見ることができた。そして、その結果、もういつ死んでも良いとさえ思えるほどに満ち足りることができた。安心することができた。それが、救いの出来事なのです。

死に打ち勝つ力。私たちは、このクリスマスに、もう一度そのことを覚えたいと思うのです。なぜクリスマスがあるのか。なぜ神の子が私たちの世界に生まれなければならなかったのか。それは、闇があるからです。死の力が、滅びの力がこの世界に満ちているからです。ですから、クリスマスは何かロマンチックな出来事でも、この日ばかりはと現実逃避を決め込むような時でもないです。むしろ、神さまの側からすれば、宣戦布告の日とでもいえるのではないか。私たち人類を脅かす、不安と不幸に陥れようとする死の力、闇の力、滅びの力、絶望の力、悪魔の力に徹底的に対抗するために、その最前線に御子を派遣してくださった、それがクリスマスの出来事でもあると思うからです。

私たちもまた、この救い主イエスさまと出会うことができました。ですから、私たちもこう言っていけるようになりたいと思う。御心ならば、いつ、あなたの元に召されても大丈夫です、と。そんな信仰に堅く立てるようになっていきたいと思うのです。

「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」アーメン。



祈り
・神さま。2020年最後の主日礼拝を迎えました。この一年は新型コロナの影響で、何ヶ月もの間、集会式の礼拝ができなくなったり、再開後も人数制限の礼拝とせざるを得なかったりと、あるいは、毎年恒例として行えていた行事も行えなかったり、とにかくこれまでに経験したことのない歩みを、教会としても、また私たち個々人としてもせざるを得ませんでしたが、それでも、このように守られて、今年最後の礼拝を持つことができましたことを本当に嬉しく思い、心より感謝いたします。また、礼拝のライブ配信は役員会でも懸案事項となっていましたが、このコロナ禍で一挙に加速させることができ、多くの方々に恵みを届ける良きツールとすることができたことも感謝です。そのほかにも、多くの方々が陰日向となってご奉仕いただけたことも感謝しています。このコロナ禍でも、多くの恵みがありました。しかし、新しい年は、どうぞ落ち着いた年となって、当たり前であった生活を感謝しながら送っていくことができますように、お導きくださいますようお願いいたします。

・特に、東京では感染の勢いが衰えていきませんが、年末年始、静かな時を過ごし、感染拡大に歯止めをかけていくことができますように、市民一人ひとりの心に働いてくださいますようお願いいたします。医療従事者の方々の中には、年末年始もなく、過酷を極めておられる方々もおられます。どうぞ憐れんでくださり、少しでも感染が抑えられて、その働きが軽減されていきますように、お助けください。お一人お一人の心も体もお守りくださいますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報- 2020年12月27日  降誕節第一主日礼拝


降誕節第一主日礼拝

司式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説教 浅野 直樹
奏楽 小山 泉 10:30

前奏 「 薔薇は咲きいでぬ 」による前奏曲   J.Brahms (着席)
初めの歌 教会16 ( 時は満てり )

罪の告白
キリエ・グロリア

みことばの部

-特別の祈り-
全能の神さま。
あなたは人を造られました。救いのみ業によって、それをさらに輝かしい姿に
されます。
人となられたイエス・キリストによって、私たちをあなたのいのちに
生きる者としてください。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 61:10-62:3(旧約 1162頁)
第2の朗読 ガラテヤの信徒への手紙 4:4-7(新約 347頁)

ハレルヤ唱

福音書の朗読 ルカによる福音書 2:22-40(新約 103頁)

みことばの歌 教会38 (子の生まれた)

説教 「私の目は救いを見た」 浅野直樹牧師

感謝の歌 教会39 (マリヤの腕に)

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会343( たかくあげよ )

後奏 「 諸人こぞりて 」による後奏曲 北澤 憩

2020 クリスマスイヴ オンライン音楽礼拝



Youtubeから視聴するかたはこちら

【司式/説教】

・メッセージ:浅野 直樹牧師
【演  奏】
・東京バッハアンサンブル有志
 第1Violin 山本 伸子、第2Violin 高松 恭子、Viola 深沢 美奈、Celo 中馬 脩
・オルガン:苅谷 和子
・オーボエ:槙(姫野)智子

【プログラム】
1.前  奏 オルガン:クリスマスパストラーレ G.Rebling
2.牧師挨拶
3.会衆賛美 教会讃美歌32番「まきびとひつじを」1節
4.聖書朗読 ルカ:2章1節〜12節
5. アドヴェントリース点火:オーボエソナタハ長調より 第1楽章  J.B.Loeillet
6. 聖書朗読 ルカ:2章13節〜20節
7.会衆賛美 教会讃美歌33番「あら野のはてに」1節、4節
8.説  教 「闇に光りを」
9.演  奏
バッハアンサンブル有志:クリスマス協奏曲 作品3-12第1楽章 パストラーレ F.O. Manfredini
10.献  金
11.平和の祈り
12.会衆賛美 教会讃美歌25番「もろびとこぞりて」
13.祝  祷(アーメン三唱)
14.会衆賛美 教会讃美歌37番「きよしこのよる」
15.後  奏 オルガン:「いざ歌え いざ祝え」による後奏曲 W.Herrmann

◉YouTubeから
「むさしの教会クリスマスイヴ オンライン音楽礼拝」
https://youtu.be/1KZte51T7BE

◉教会ホームページから
「むさしの教会クリスマスイヴオンライン音楽礼拝」
https://www.jelc-musashino.org/?p=14332

クリスマス礼拝-降誕主日聖餐礼拝

“Live配信:2020年12月20日(日) 10:30 降誕(待降節第4)主日聖餐礼拝  説教 「驚きの知らせ」浅野 直樹