【 Live配信 】2022年1月23日(日)10:30  顕現後第3主日礼拝  説教 「 実現した神のことば 」 浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】 2022年1月23日 顕現後第3主日礼拝

2022年1月23日 顕現後第3主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 主なる神をほめまつれ Hans C-Petit

初めの歌 教会讃美歌170(主をあがめたたえよ)1節

1.主をあがめたたえよ もろもろの国よ
神をほめたたえよ もろもろの民よ
み神はわれらを あわれみ選びて
神の子としたもぅ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
祝福あふれる主なる神様。
あなたは民の養いのために聖書を与え、御言葉を書き留めてくださいました。
私たちが御言葉を聴き、読み、学び、覚えて、身につけることができますように。
それによってあなたの約束を確かめ、慰めをいただき、永遠のいのちに与る望みを、
大切に保ち続けることができるようにしてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 ネヘミヤ記 8:1-3,5-6,8-10( 旧約 749 頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙一 12:12-31a( 新約 316 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ルカによる福音書4:14-21( 新約 107 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌245 (神のみことばは)

神のみことばは こよなきたまもの、
代々に輝(かがや)かさん まことの光を、
生くるときも 死ぬる日にも
みことばこそ 代々(よよ)にわたり
み民のさかえぞ

説 教 「 実現した神のことば 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌320 (しあわせなことよ)1節

1.しあわせなことよ キリストの血にて
罪をあがなわれ 救われた者は。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
聖餐の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌278(日のてるかぎりを)1節

1.日のてるかぎりを 主イェスは統(す)べたもぅ、
恵みはあまねく 海をこえわたる。 アーメン

アーメン
後  奏 黄金の太陽よ、無上の喜び K. Hessenberg

【 説教・音声版 】2022年1月23日(日)10:30  顕現後第3主日礼拝  説教 「 実現した神のことば 」 浅野 直樹牧師

顕現後第三主日礼拝説教

聖書箇所:ルカによる福音書4章14~21節


「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン」

先週もお話ししましたが、今は教会の暦では「顕現節」ですので、今日も明らかにされた(公にされた)イエスさまのお姿(イエス・キリストという存在)という視点で少し考えていきたいと思っています。
皆さんもよくご存知のように、ヨハネ福音書は次の言葉ではじめられていきます。「初めに言があった」と。これは、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という記述と重ねてのことだと言われます。ここでヨハネ福音書はイエスさまのことを「言」と表現しているわけですが、これは非常に意味深長ですが、いくつか明らかなこともあると思います。

一つは、「言」であるイエスさまは天地創造のはじめから存在しておられ た、ということです。そして、もう一つは、この「言」は、単なるコミュニケーション・ツール以上のことを指している、ということです。なぜなら、創世記1章3節の「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」に代表されますように、この創造の業は、神さまの「言」によって実現されていったからです。その「言」とイエスさまは深く結び付けられている。ですから、ヨハネ福音書はこうも続けていくのです。「言は神と共に あった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」。「言」とは神の子、神さまそのものであり、神さまの思い・御心・ご計画は、この「言」によって必ず実現するのだ、とヨハネ福音書は語っているのです。

それが、ヨハネ福音書が示すイエスさまのお姿でもある。後で、もう少し触れたいと思いますが、今日の福音書の日課でもそうでしょう。聖書・イザヤ書が朗読されたとき、イエスさまはこう語られたからです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。
今日の福音書の日課は、イエスさまの宣教活動のはじまりを指すものです。そこで、このように記されていました。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」、そして、「イエスは諸会堂で教え」られた、と。その具体的な一例として、16節以下のナザレでの出来事が記されているわけです。

ご存知の方も多いと思いますが、日本語で「教会」と訳されています元々の言葉は、ギリシア語の「エクレシア」という言葉です。このエクレシアは、もともとは人々の集い、集会を意味する言葉でしたが、それをキリスト教が用いたことによって、「神さまの呼びかけ(召し)に応えた者たちの集い」という意味に発展してきたと言われます。それを、日本では「教」える「会」としてしまった。だから、日本のキリスト者たちは、勉強熱心なのは良いが頭でっかちで、信仰の何たるかが分かっていない、といった指摘も出てきたわけです。

またそこから、日本の教会員は、中産階級知識層にあまりにも偏っているのではないか、とも言われたりする。私自身も、以前からそういった問題意識を持ってきましたので、「信仰とは生活だ」と言ったりしてきた訳です。確かに、そういった指摘にも耳を傾けるべきだと思いますし、私たち自身の姿勢も見直していく必要があるのかも知れませんが、しかし、それは教えられることを、学ぶことを軽視することにはつながらないはずです。なぜなら、今日の箇所にも、イエスさまは会堂で教えられたと、はっきりと記されているからです。

この会堂、「シナゴーグ」とも言われます。このシナゴーグの発生は、バビロン捕囚期ではなかったか、と言われます。唯一の礼拝の場であった神殿に、物理的にも行くことが不可能だったからです。そこで、彼らは礼拝の場を、自分たちのアイデンティティーを保つ場を作る必要に迫られた。今の私たちとどこか似たところがあるようにも思います。ともかく、捕囚からの帰還後もこのシナゴーグはなくならず、神殿が再建されたイエスさまの時代にも多くのシナゴーグがあったことが分かっています。

そして、そのシナゴーグで行われていた礼拝が、今日私たち教会の礼拝の原型ともなったと言われている。必ず聖書朗読が行われ(律法、預言書など数カ所)、その聖書の解説が行われ、祈りがあった。あるいは、このシナゴーグは子どもたちの学校としても用いられたり(聖書を学ぶための教育といっても良いでしょう)、公民館のように用いられたり、時には裁判所のようにも用いられていた、といいます。彼らの信仰生活・実生活の中心にあったと言っても言い過ぎではないでしょう。ともかく、ここにも私たち教会のルーツがあるというのです。そし て、イエスさまはここで教えられた。礼拝のたび毎に、あるいはことあるごとに教えていかれた。そのことを、私たちも忘れてはいけないでしょう。

先ほども言いましたように、日本の教会の特徴とも言われた知的な学びに傾きすぎてしまうことは問題なのかもしれません。しかし、逆に今日、あまりに「聖書」の学びから遠ざかってしまってはいないだろうか、と私自身は課題を感じています。
先ほど私たちは、このように祈りました。「祝福あふれる主なる神様。あなたは民の養いのために聖書を与え、御言葉を書き留めてくださいました。私たちが御言葉を聴き、読み、学び、覚えて、身につけることができますように。それによってあなたの約束を確かめ、慰めをいただき、永遠のいのちに与る望みを、大切に保ち続けることができるようにしてください」。この祈りの言葉は、以前の日課にはないものです。また、これほど御言葉・聖書に思いを集中した祈りの言葉も、正直記憶にありません。そういう意味では、先ほど言ったような問題意識が、この祈りの言葉の作成者の中にもあるのかも知れない。ともかく、私たちはこの祈りの言葉にも「アーメン」と唱えた、同意したのですから、今まで以上に御言葉に思いを向けていきたいと思うのです。

イエスさまは「霊(聖霊)」の力に満たされて、会堂・シナゴーグで教えていかれました。そして、皆から尊敬を受けられた、と記されています。これが、イエスさまのお姿なのです。そして、それは、私たちのこの教会においても繋がっていることではないでしょうか。見える形ではないのかも知れませんが、イエスさまはこの私たちの教会をも訪ねてくださり、御言葉・聖書を教えてくださっている。そして、それは、私たちが御言葉に生きる、生かされるようになるためです。

しかし、それは、単に律法を遵守すること、つまり、私たちふうに言えば倫理・道徳的な実践ということばかりではないはずです。先ほどの祈りの言葉の中にもありましたように、聖書を学ぶということは、神さまの約束の確かさを確認していくことだったり、様々な機会に慰めをいただいていくことだったり、永遠のいのちに与る望み、つまり、神さまはいついかなる時にも私たちを決して見捨てたまわず、永遠に、死さえも乗り越えて常に私たちと共にあり、必ず私たちに良きことをしてくださるという希望に生きるということでもあるからです。

それらは、聖書を教えられることによってこそ、御言葉を学ぶことによってこそ、はじめられていくからです。しかも、その学びとは、私たち自身にかかっている、ということでもないのです。普通「学び」とは、教える側がいかに優秀だとしても、それを吸収する学ぶ側にかかっていると思われがちですが、聖書・御言葉の学びはそうではないのです。なぜなら、イエスさまはこう語られるからです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。聖書の言葉の実現を知らしめてくださるのはイエスさまなのです。イエスさまがお送りくださった聖霊の働きなのです。私たちは、その場に立ち会えば良い。

聖書が、御言葉が、私たちに意味を持って迫ってくるのは、イエスさまの、聖霊の業でしかない。聖書の言葉を、神さまの思いを実現されるのが、現実のものとされるのが、イエスさまだからです。しかし、私たちにもなすべきことはあるはずです。それは、その場にいる、ということ。このシナゴーグにいた者たちだけが、このイエスさまのお姿に出会えたからです。そして、聖書の言葉を聞く、ということ。イザヤ書の朗読を人々が聞いたからこそ、「実現した」という言葉を聞くことができたからです。つまり、私たちの言うところの「勉強」とはいささか違っているということです。

イエスさまは私たちの救い主として来てくださった。それを聖書は語っているし、何よりもイエスさまご自身がそれを実現してくださいました。だからこそ、改めてこう祈りたいと思う。「私たちが御言葉を聴き、読み、学び、覚えて、身につけることができますように」と。学問的研鑽のためではない。知識を身につけるためでもない。キリスト者がなすべき苦行でもない。イエスさまの恵みを、救いを実感し、確信していくためです。

祈ります。
「天の父なる神さま。御名を褒め称えます。新型コロナの感染が爆発的に増え、今後このように相集っての礼拝ができなくなってしまうかも知れません。しかし、私たちには御言葉があります。与えられています。個人的に読むには難しさも感じますが、『知的理解』以上に、あなたがお送りくださったイエスさまとの出会いとなる学びとなりますように、ご聖霊が豊かに導いていってくださいますようお願いいたします。また、私たちが祈りの中でそのことを求め続けていくことができるようにもしてください。私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」

「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン」

2022年1月23日9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 Live配信 】2022年1月16日(日)10:30  顕現後第2主日礼拝  説教 「 しるしとしての奇蹟 」 浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】 2022年1月16日 顕現後第2主日礼拝



2022年1月16日 顕現後第2主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 苅谷 和子

開会の部
前  奏 主キリスト、神のひとり子 シャイデマン

初めの歌 教会讃美歌152(いざや主をほめよ)1節

1.いざや主をほめよ 声のかぎりに
あめつちを治(し)らす 愛のみ神を。
なやめる心に 安きをたまいし わが主をたたえん。
アーメン

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主であり、祝福の源である神様。
あなたは救いの喜びを届けてくれた御子を通して栄光を顕(あらわ)し、
人々を信仰に導いてくださいました。私たちが御子のいのちに気づき、
キリストと共に生きることができるよう、あなたの愛の霊によって造り変えてください。
救い主、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 62:1~5( 旧約 1163 頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙I 12:1-11( 新約 315 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ヨハネによる福音書2:1-11( 新約 165 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌60(父なる神の)1節

1.父なる神の ひとりのみ子
主なるキリスト 世に来ませり。
主こそさやかに かがやきわたる あしたの星。

説 教 「 しるしとしての奇蹟 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌313 主はへりくだりて)1節

1.主はへりくだりて 罪人のために
十字架の苦しみ 耐え忍びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天(あめ)なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
聖餐の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 356(われらをつつむ)1節、5節

1.われらをつつむ みどりの大地
かがやく空は 恵みにあふる、
神なるみ子に ほめうた捧げん。

5.み神のたもう くすしき恵み
よろこび満ちて 平和はあふる、
神なるみ子に ほめうた捧げん。

アーメン
後  奏 輝く暁の明星 いと麗しきかな g.ツアンガー

 

2022年1月16日9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 説教・音声版 】2022年1月16日(日)10:30  顕現後第2主日礼拝  説教 「 しるしとしての奇蹟 」 浅野 直樹牧師

顕現後第二主日礼拝説教(むさしの教会)
聖書箇所:ヨハネによる福音書2章1~11節

今日の福音書の箇所は、いわゆる「カナの婚礼」と言われています水をぶどう酒に変えたとされる良く知られた奇跡物語です。この物語は内容豊富でして、古来から好まれ、様々な視点で解釈されてきたと言われます。例えば、イエスの母マリアの姿勢とか、水をぶどう酒に変えた奇跡そのものだとか、このぶどう酒の出どころを唯一知っていた「召し使い」の視点とか…。あるいは、このヨハネ福音書の

特徴としてよく二重の意味があると言われますが、そのせいでもあるのか、この婚礼の祝いを来たるべき神の国の宴会と重ねたり、あるいはユダヤ教の清めのために用いられた水をぶどう酒に変えられたということは、ユダヤ教のあり方からキリスト教の恵みへとの変更を意図しているのではないか、といった大変興味深い解説もあります。

カナの婚宴 :バルトロメ・エステバン・ムリーリョ (1617–1682) バーミンガム大学付属バーバー美術館



しかし、今日は顕現節ですので、特にイエスさまの顕現といった視点で、つまり11節の「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」との御言葉を中心にしばらく考えていきたいと思っています。また、それがこのテキスト全体の意図を理解する上でも大切なことだと思います。

先ほども言いましたように、この出来事で少なくともヨハネ福音書においては、イエスさまは公にお姿を表すことになります。それは単に、人々の前に姿を晒すということではありません。ご自分が何者であるかということを打ち出すことです。ですから、「栄光を現された」と記されている訳です。その栄光とは、ひとことで言ってしまえば、「神の子としての栄光」ということでしょう。では、それは何によって明らかになったのか。

「しるし」によってです。もっと具体的に言えば、水をぶどう酒に変えるという奇跡によってです。それが、イエスさまが神の子であることの「しるし」となった。しかし、ここで妙なことが起こります。この栄光は公というよりも、ごく限られた人たち、つまり弟子たちだけにしか示されなかったからです。「それで、弟子たちはイエスを信じた」と。
このことについて、ある方が興味深いことを記しておられました。もうお亡くなりになりましたが、カトリックの司祭であり聖書学者でもあられた石川康輔という方の文章を引用してでのことです。その言葉通りではありませんが、こういった内容です。聖書には弟子たちはイエスを信じたとあるが、イエスを信じた者がみな弟子になるということではないか。そのために、つまり人々を弟子とするためにイエスは栄光を現されたのだ。だから、あなたも私もイエスの弟子になれるのだ。そのように聖書は記し、また招いているのではないか、と。これも非常に興味深い解釈だと思います。確かにこの物語では、婚礼の宴会に多くの人々がいたにも関わらず、奇跡というしるしを通して神の栄光を見たのは弟子たちだ
けであったのかもしれません。そういう意味では、閉じられた「しるし」、隠された「しるし」と言えるのかもしれない。

しかし、この物語に触れた者にとっては、これは明らかに開かれた「しるし」なのです。この物語を読む者は、この宴席に連なる一般人にも、イエスの母マリアにも、イエスさまに従って水を汲み世話役に届けた、唯一そのぶどう酒の出どころを知っていた召し使いにも、イエスさまが生み出された素晴らしいぶどう酒を味わいながらも、それが一体どこから来たのか、どんな意味を持っているのかに全く関心が向かなかった世話役にも、その一部始終をじっと見ていて栄光に触れた弟子たちにも、私たちはなれるからです。そして、この物語はイエスさまの栄光に気づいて、他の誰でもなく、信じる者に、あのイエスさまの弟子たちのようになって欲しいと私たちを招いている。

確かに、そうです。イエスさまが神の子であることを明らかにした栄光のしるしとしての奇跡の存在は非常に大切だと思います。そのことによって弟子たちは信じる者になったからです。石川康輔先生風に言えば、信じたからこそ、信じられたからこそ弟子にもなれたからです。しかし、果たしてそのような働きを演じた「しるし」とは、単に水をぶどう酒に変えたという奇跡だけのことなのだろうか、とも思う。むしろ、奇跡も含めて、この物語に登場してくるイエスさまのお姿全てが、やはり神の子としての栄光を現す「しるし」だったのではないか、と思えてくるからです。

その第一が、婚礼の招きに応えられるイエスさまのお姿です。もちろん、現代でも婚礼というのは大変めでたいものです。しかし、当時のイスラエルでの婚礼というものは、その比ではなかったようです。婚礼の宴席は普通でも2~3日、場合によっては7日間も続いたと言われます。もっとも現在よりもはるかに娯楽、喜びの少ない日常ということもあったのでしょう。普段の食生活も非常に質素でした。庶民は肉もぶどう酒も滅多に口にできなかった。ですから、こういっためでたい時に、一気に喜びが爆発したのかもしれません。新郎新婦にとってもそれは非日常でした。この時ばかりは、新郎は王のように、新婦は女王のように扱われたとも言われます。この時とばかりに、というのが、まさに婚礼でした。
 ある方はこんなことも言っています。洗礼者ヨハネなら行っただろうか、と。洗礼者ヨハネといえば、禁欲主義の代表者のような人です。そんな人が、食っては飲んでと、羽目を外したような浮かれた場所には行かなかったのではないか、と。しかし、イエスさまは招かれるままに行かれました。母であるマリアが手伝っていたことから、親戚あるいは近しい人の結婚式ではなかったかとも言われます。ともかく、そこでイエスさまもみんなと一緒になって食べたり飲んだり、笑ったり、祝辞を語ったりされたのだと思うのです。庶民の数少ない喜びの場で。

イエスさまは笑われなかったのではないか、といった議論があります。聖書には明確に記されていないからです。しかし私は、聖書にいちいち書く必要もないくらいに、イエスさまの周りには笑いが溢れていたと思うのです。このカナの婚礼の場がそうでしょう。婚
礼の席で仏頂面して笑わないはずがない。ともかく、この庶民的なところにも、イエスさまの栄光のしるしがあるように思うのです。

そんな祝宴の最中、ぶどう酒が足りなくなったと母マリアから告げられました。これは一大事です。この二人の門出に傷をつけることにもなる。あるいは、これは単なる恥をかいたでは済まないとも言われます。十分にもてなすことをしなかったということで訴訟問題にもなりかねないといった意見もあるからです。ともかく、現代人の私たちの感覚以上に危機的な状況だったのでしょう。それに対してイエスさまはこう答えられました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。一番新しい聖書協会共同訳では、この「婦人よ」を「女よ」と訳しています。より強い印象を与えます。これについても色々と言われていますが、しかし普通に考えて母親に向かっての言葉とは思えないことは明らかでしょう。

それは、この時、イエスさまはすでに公生涯をはじめておられたからです。つまり、もはや親子という情では動かれない、ということです。あくまでも神さまのご意志にのみ従うといった姿勢の表明でもあるのです。これは、神さま以外には何ものにも束縛されないといった強い自己理解でもある。ですから、ここでは母としての願いを明確に拒否されたわけです。しかし…。お分かりのように、イエスさまは母マリアの願いを叶えられました。何ものにも左右されない、妥協しない強い自己理解がありながらも、唯我独尊とはならず、自らの自由な意志で、弱き私たち庶民の願いを叶え、庶民のささやかな喜び・幸いを守って下さっている。それも、「しるし」ではないか、と思います。

そんなイエスさまが水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われました。これは、最初に言いましたように、ユダヤ教からキリスト教へ、といった意味合いが強いのかもしれません。ここで用いられたのは、「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめ」です。ここに当時のユダヤ教が象徴されていると思います。つまり、汚れから逃れること、「清め」られることにばかりに固執していたということです。日常生活から信仰的な歩み、生まれてから死ぬまで、全てが「清め」に集中していた。それが、いわゆる「律法主義」・「形式主義」ということにもなり、人々を雁字搦めにしていったと言っても良いのではないでしょうか。

私たち日本人にも似たところがありますので、分からないわけではない。特に、このコロナ禍、そういった思いが差別的な発想も含めて強くなっているのかもしれません。それをイエスさまは祝福と恵みに変えられたのです。ぶどう酒には、そういったイメージもあるからです。しかも、イエスさまはそれを最高のものとしてくださいました。ここにも、大きな「しるし」がある。

奇跡だけじゃない。私たちは色々な「しるし」を見て、イエスさまという方を知り、このイエスさまに現された栄光を見ていく必要があると思います。それが、私たちの信仰・「信じる」ということに繋がり、また弟子として招かれているということにもなると思うからです。

 

【 Live配信 】2022年1月9日(日)10:30  主の洗礼主日礼拝  説教 「 なぜ洗礼を? 」 浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】 2022年1月9日 主の洗礼主日礼拝



2022年1月9日 主の洗礼主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前  奏 主イエスよ 助け導き  M. Jacobi
初めの歌 教会讃美歌176(あさひをうけ)1節
1.朝日をうけ われはたたう、 イェス・ キリスト
ゆうべのかね み名をあがむ。  イェス・ キリスト。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能の神様、あなたはあなたの霊によりイエスの洗礼を聖別し、
あなたの愛する子であることを示しました。水と霊から生まれる者すべてが、
あなたの忠実な僕(しもべ)として、神の子と呼ばれる喜びをいただくことができますように。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります
アーメン

第1の朗読 イザヤ書 43:1~7( 旧約 1130 頁 )
第2の朗読 使徒言行録 8:14-17( 新約 228 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ルカによる福音書3:15-17,21-22( 新約 106 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌56 (主は来ませり)1節
1.主は来ませり、喜びの あふれいずる主イェスは。
神にいまし、人にます きよきみ子は来ませり。
天もつちも語れかし、「み子主イェスは来たまえり」。

説 教 「 なぜ洗礼を? 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌322(主なるイエスは)1節と2節
1.主なるイェスは わが喜び、 わがたから、
弱きわれは 長き月日、 主をもとむ。
主はわがものぞ わが主よみそばに おらせたまえ。

2.主のみうでに 抱かれなば、 いとやすし、
地のもといの ゆるぐときも、 いとやすし。
ほろびの力 われに迫るときも 見捨てまさず。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌346(はかりも知られぬ)1節
1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

アーメン
後  奏 主キリスト 神のひとり子 J. S. Bach

2022年1月9日9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 説教・音声版 】2022年1月9日(日)10:30  主の洗礼主日礼拝  説教 「 なぜ洗礼を? 」 浅野 直樹牧師

主の洗礼主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書3章15~17、21~22節


本日の礼拝は、「主の洗礼主日」の礼拝です。ですので、聖書の箇所もイエスさまの洗礼の場面が取り上げられていました。
実は、このイエスさまの洗礼は、先週ご一緒に考えていきました「顕現」とも深い関わりがあります。むしろ、主の顕現といえば、こちらの洗礼の場面ではないかと考えられているくらいです。なぜなら、この洗礼の場面では、イエスさまが公に神さまの子どもであることが宣言されているからです。

「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあるからです。そこで、こういった考え方も生まれました。イエスさまは洗礼を受けられたことによって神さまの子どもとされたのだ、と。もっと専門的に言いますと、「養子説」です。つまり、本来、神の子ではなかったが、洗礼によって養子として迎えられたのだ、といった考え方です。

もちろん、これは教会の、聖書の考え方ではありません。「受胎告知」の場面でも記されていますように、イエスさまの誕生は「聖霊」によってもたらされたからです。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」とマリアに告げられている通りです。そういう意味では、イエスさまは生まれる前から神の子、聖なる者、特別な存在として描かれているにもかかわらず、ではどうして洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。なぜなら、洗礼者ヨハネが授けていた洗礼とは、まさに「罪の赦しを得させるため」の「悔い改めの洗礼」だったからです。

キリストの洗礼 ピエロ・デラ・フランチェスカ (–1492) ナショナル・ギャラリー



このイエスさまの洗礼の出来事については、今日のルカ福音書のみならずマタイ福音書もマルコ福音書も記すところです。ちなみに、ヨハネ福音書には、他の福音書と同様に洗礼者ヨハネのことは記されていますが、明確にはイエスさまが洗礼を受けられたとは記されていません。もちろん、それぞれの記事に共通性がある訳ですが、それぞれの特徴もある訳です。そして、この言葉もそんな特徴の一つとなっています。

「民衆が皆洗礼を受け」。この洗礼の場面に「民衆」が出てくるのは、このルカだけです。では、この「民衆」とは一体誰のことでしょうか。洗礼者ヨハネから厳しく叱責され、「では、わたしたちはどうすれば良いのですか」と尋ねるしかなかった隣人を思いやることが出来なかった群衆、規定以上に取り立てては私腹を肥やしていた徴税人、脅しては金品を巻き上げていた兵士たちです。自分たちの罪が赦されるようにと、悔い改めの洗礼を求めてきた者たちです。その中に、イエスさまがいた、とルカは明確に語る。おそらく、列をなして自分の番が回ってくるのを待っていたのでしょう。その行列にイエスさまも並んでおられたのです。そして、「民衆」と一緒に洗礼を受けられた。

私たちは、このヘブライ人への手紙の言葉を良く知っているでしょう。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。

イエスさまは私たちと決して遠くない方。私たちのようには罪を犯されませんでしたが、同様の試練・苦労・困難を味わって下さったから、私たちを理解して同情してくださる。だから、大胆にこの方のところにいって助けを求めようではないか。私たちにとっては大いに慰められ、励まされる言葉です。ここに記されていますように、私たちとイエスさまとの違いは、罪を犯されなかったことだけなのです。なのに、今日の箇所では、罪を犯されなかったはずの方が、罪を犯した者と一緒に、罪の赦しの悔い改めの洗礼を受けられた、という。これは、一体どういうことか。

私たちは、ここにもっと深く思いを向けていく必要があると思うのです。罪を犯されなくても、私たちと同様に様々な試練に遭われ、私たちの気持ちを理解して下さるだけでも、しっかりと受け止め助けて下さるだけでも幸いなのに、さらにその先、私たちがどうしても越えられない壁、「罪人」であるという壁さえも、イエスさまの方から乗り越えて下さる。罪人の私たちと一緒になって、あたかもご自身もそんな罪人の仲間のようにして、一緒に洗礼を受けるために並んでくださる。

それが私たちが主、救い主と呼んでいる方のお姿なのだ、ということを伝えてくれているわけです。そんなイエスさまに対して天からこのような声が聞こえてきた、と記されています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。最初に言いましたように、これは、この時から神さまの子とされた、という意味ではありません。そうではなくて、生まれる前から神さまの子どもに違いないのですが、これから公に宣教の働きをはじめられるに及んで、公に神さまの子どもであるということを明らかにするためのものです。

しかも、この言葉は、詩編2編7節の言葉とイザヤ書42章1節の言葉が合成されたものだと言われます。そして、詩編2編7節の方は王の戴冠式の時に用いられた言葉であり、イザヤ書42章1節は、いわゆる「主の僕の歌」と言われるものの一つなのです。つまり、これから始まるであろうイエスさまの活動は、王として、また僕としての働きであることを暗示しているわけです。

今日の福音書の日課では、初めに洗礼者ヨハネのイエスさまについての言葉が読まれました。「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』」。

洗礼者ヨハネが言うところによると、イエスさまは洗礼者ヨハネよりもはるかに偉大な方で、「聖霊と火」で洗礼をお授けになられる方です。これは一体何を意味するのか。様々な解釈がありますが、簡単に言ってしまえば、「聖霊」は神さまの働きを表し、「火」は後の「焼き払われる」という言葉からも分かるように「裁き」が連想されるものです。つまり、ここに「王」としての偉大な働きを見てとることができる訳です。王とは本来、正しい裁きをすべき存在です。そうでなければ不正が蔓延って、その民たちは路頭に迷うことになる。火は本来、私たちの生活にとって欠かせないものです。しかし、時にその本来の目的を離れ、暴走することがある。この冬場、連日のように火災のニュースが飛び込んでくることからも明らかです。しかも、人はあえてその暴走を起こそうとさえする。

前述の洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにやってきた人々、群衆、徴税人、兵士の罪のリストは、それほど大したものではないようにも思います。ある意味、常識を守れば良いのです。しかし、人はそれさえも出来なくなってしまうのです。隣人のことを気にかけなくなる。自分のことばかりにしか関心がいかなくなる。みんなもやっているからと不正に手を染めてしまう。少しばかりの権力を手にしたからといって、それを乱用して周りの人々を傷つけてしまう。自分だけじゃない、世の中がそうだからと社会の空気に飲まれて、人は簡単に逸脱してしまうものです。それは、正されなければならない。そういう意味でも、洗礼者ヨハネがやってきたことは正しいのです。

ヨハネが思い描いていたメシア、王としてのイエスさまのお姿も正しいのです。誰かが正さなければならない。しかし、それだけでは、罪人である私たちは救われない。だからこそ、洗礼者ヨハネが知らなかった僕としてのイエスさまが必要なのです。しかも、同時に王であられるからこそ、罪をいい加減に扱われはしない。では、どうするのか。罪を、その咎を、ご自身で引き受けられた。私たちの僕となって。それが、十字架なのです。もうこの時点から、いいえ、それよりも遥かに前から、そのことを見据えながら、私たちの本質的な問題を解決するために、イエスさまは王として、また僕として、私たちと同じように、まさに罪人の一員のようになって歩んでくださった。私たちが滅びないように。生きる、生かされるように。

「なぜ、洗礼を?」。これは、イエスさまへの問いであると同時に、私たち自身への問いでもあると思います。私たちは「なぜ、洗礼を」受けたのか。罪人だからです。罪赦され、救われるためです。しかし、ただ救われる、赦されるためではありません。私たちのために洗礼までも受けられた神の子イエスさまと繋がるためです。だからパウロはこうも語るのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。……わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。……このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。

私たちは普段、なかなか自分たちの洗礼の恩寵を感じている訳ではないのかもしれません。しかし、もう一度、この年の始まりの時、イエスさまの洗礼の意味を噛み締めると同時に、この私たちに与えられている洗礼の恵みがいかに尊いものであるのかを心に刻んでいければと思っています。

 

【週報:司式部分】 2022年1月2日 主の顕現主日聖餐礼拝


2022年1月2日 主の顕現主日聖餐礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前  奏 新しい歌を M. Luther

初めの歌 教会讃美歌48(力のみ神よ)1節

1.力のみ神よ 新しき年も
み恵みをくだし 喜びをたまえ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
父なる神様。
星の導きによって、あなたは御子を世界の国々に顕してくださいました。
私たちが日々の暮らしのただ中であなたに気づき、
ついには全き栄光の輝きに与かることができるよう、信仰により導いてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神(かみ)、
永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 イザヤ書 60:1~6( 旧約 1159  頁 )
第2の朗読 エフェソの信徒への手紙 3:1~12( 新約 354 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 2:1~12( 新約 2 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌59(かがやく星を)1節
1.かがやく星を しるべとなして
博士らイェスに まみえしごとく、
今われらをも 導きたまえ。

説 教 「 不思議な星の導き 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌372 (イエスのみ名は) 1節と3節

1.イェスのみ名は たぐいあらず
いともきよくとうとし。
力 まこと あいとめぐみ
すべてみ名にあふるる。
3.イェスよわれに 進むみちを
しめしたまえ さやかに。
み声ききて みむねのまま
ゆかせたまえこの世を。

信仰の告白 使徒信条(ニケア信条)
奉献の部
聖餐の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 49(あたらしい年を)1節と4節
1.新しい 年を迎えて
新しい 歌をうたおう。
なきものを あるがごとくに
呼びたもう 神をたたえて
新しい 歌をうたおう。

4.自分だけ 生きるのでなく
はらからと 手をたずさえて、
み恵みが あふれる国を
地の上に 来たらすような
生きかたを 今年はしよう。

アーメン
後  奏 希望の道 竹中友張

【 説教・音声版 】2022年1月2日(日)10:30  主の顕現主日聖餐礼拝  説教 「 不思議な星の導き 」 浅野 直樹牧師

主の顕現主日礼拝説教
聖書箇所:マタイによる福音書2章1~12節



 

2022年。新しい年になりました。しかし、教会の暦としては「顕現主日」ですので、よく知られた「東方の博士たち」の物語から、今朝はご一緒に考えていきたいと思います。ちなみに、「顕現」とは公に姿を現したことを意味します。

ところで、皆さんは初日の出をご覧になられたでしょうか。私にはそういった習慣がありませんので、わざわざ見ることをしませんが、しかし、初日の出を見て、心が改まる気持ちはなんだか分かるような気が致します。厳かな気分にもなる。そういう意味では、太陽・太陽の光というのは、日本人の私たちにとっては大きな意味を持っているのかもしれません。しかし、太陽は私たちを導いてはくれないのです。星が私たちを導く。少なくとも、今朝の聖書箇所は、そう告げるのです。そして、そこになんだか深い意味があるように私には思えてきます。

皆さん、空を見上げてみてください。もちろん、今も、この瞬間も、昼間でも、星空は広がっているはずです。確かに、知識ではその事実を知っています。しかし、知識としては地動説という常識がありながらも、普段はあたかも自分を中心に世界が回っているかのように錯覚しているのと同じように、私たちはその事実を見落としているのかもしれないのです。つまり、もちろん太陽の光は大きな恵みに違いないのですが、時に、大きすぎる光は̶̶都会では街の人工的な光のせいですっかり星が見えなくなっているのも同じ理由でしょうが̶̶、あるべきものの姿を、見るべきもの姿を隠してしまうことにはならないでしょうか。あの、太陽の光が、燦然と輝く星空をかき消してしまっているように。
星が輝くためには、闇夜が必要なのです。星の光は、闇の中でこそ輝く。そして、その星が、あの三人の博士たちを、そして私たちを、イエス・キリストのところへと導いてくれるのです。

今日の物語は、確かにクリスマスの物語に違いないのですが、ある方が指摘されているように、ルカによる福音書とは違って、随分と暗い物語なのかもしれません。現に、今日の箇所ではありませんが、この後、ヘロデ王によってベツレヘム周辺の二歳以下の男の子が一人残らず殺されてしまったという出来事も起こっているからです。幼児イエス・キリストを抹殺するためです。自分の権力・権勢を保持するために…。そういう意味でも、その時代はまさに「闇」の中にあったと言っても良いでしょう。

ここで、先ほどから言っていますように、三人の博士たちが登場してきます。と言っても、実は人数は分かっていません。後に、幼子イエスさまに捧げた宝物が、黄金・乳香・没薬だったことから、三人ではなかったか、と言われているだけです。この博士たち、新共同訳では、「占星術の学者たち」と訳されています。元々は、「マゴイ」という言葉で表現されているものです。英語のマジックの語源とも言われています。「魔術師」と訳してもよい言葉です。彼らがやって来た東方とは、具体的にどの国を指しているのかは分かりませんが、一般的には現在のイラク、イランあたりを指しているのではないか、と考えられています。

その地方では、古来から天文学に基づく占星術が発達していたと考えられています。また、この博士たちの言動から、先ほど言いましたように、本来「魔術師」とも訳せる言葉なのでしょうが、「占星術の学者」と訳されるようになったのでしょう。しかし、当然今日の科学的な知見に立った天文学者とは違う訳です。いくら星の観察をしていようと占い師には変わりがない。あるいは、占いだけでなく、御祈祷や厄払い的なこともしていたのかもしれません。やっていることは「魔術師」と大差ないから「マゴイ」と呼ばれていたのかもしれない。

「東方三博士の礼拝」サンドロ・ボッティチェッリ(1478-482)ウフィツィ美術館



つまり、彼らは旧約聖書の言うところの禁じられていたことを職業としていた訳です。そして、もちろんユダヤ人からすれば異邦人。ユダヤ人の感覚からすれば「救いの外」にいる人たち、ということです。この人たちが、少なくともマタイによる福音書によると最初の訪問者だった訳です。ここに、マタイ福音書の意図があると言われます。

一般的に、マタイによる福音書はユダヤ的だと考えられています。律法を重視しているところがあるし、行いを尊んでいるところがある。確かに、そうです。しかし、そのマタイ福音書が、イエスさまへの最初の訪問者が、最初の礼拝者が異邦人たちだったと告げる。逆に、ユダヤ人たちはメシア・救い主の誕生の知らせをこの異邦人によってもたらされたはずなのに、誰一人として行こうとはしなかった事実を告げるのです。ユダヤ人からは排斥され、本来救いの外にいると考えられていた異邦人にこそ迎えられるのだ、と。それが、イエス・キリストの生涯なのだ、と。この福音書は、誕生の物語からそう告げている、というのです。

いったい、縁もゆかりもない遠い異国の地に住む彼ら博士たちが、何故にユダヤ人の王の誕生にこれほどまでに興味・関心を抱いたのだろうか。それは、良く分かりません。ただ、全くの無知ではなかったようです。恐らく、彼らが生きてきたであろう東方の地、現在のイラク・イランあたりは、ご存知のように新バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされて、人々が連れて行かれた地、「バビロン捕囚」と言われる地です。その後、60年ほど経ってペルシャのキュロス王によって囚われのユダヤ人たちの帰還が許された訳ですが、その地に残ったユダヤ人たちも決して少なくはなかったと言われています。

また、ある解説書によりますと、紀元50年頃にバビロンの諸侯の一人がユダヤ教に転向したとも記されていました。つまり、彼らはユダヤの伝承、ひょっとしてメシア待望論にも触れる機会があったのかもしれない、ということです。ともかく彼らは、ただ星の導きを頼りに遥か遠方ユダヤの地にまで来たのでした。

そして、彼らが捧げた宝物についても、非常に興味深い説があるようです。一般的には、これら黄金・乳香・没薬というのは、王に献上するのに相応しい品々といった理解のようですが、ある方はこれらは彼ら東方の博士たちの商売道具ではなかったか、というのです。つまり、商売…、占いや御祈祷・厄払いなどに使っていた道具、しかも高価な道具の一切合切をイエスさまに捧げた、ということです。つまり、金輪際、もうこの仕事はしない、ということです。自分たちの方向性を、人生そのものを変えた、といっても良いでしょう。

なぜ、そうしたのか。理由は分かりません。先ほども言いましたように、遠方に住んではいても彼らにはユダヤ教に触れる機会があった訳ですから、ひょっとして旧約聖書で禁じられていることを知りながらも、「仕方がない」と言い訳しつつ来たのかもしれません。日が当たっている内はそんなことも忘れて快適に過ごしていたかもしれませんが、日が沈むと、ぽっかりと穴が開いたように何もない自分自身に気づていったのかもしれません。

ともかく、彼らにも闇があったのでしょう。何らかの暗闇に覆われていた。だから、光が灯ったことに、星が輝いたことに気づけたのだ、と思うのです。そして、その星の、光の導きのままにイエスさまのところへ辿り着くことができた。それは、彼らにとっては喜びでしかなかったのです。今までしがみついていたものを手放しても構わないほどに、満ち足りた瞬間だった。まさに、人生をひっくり返すような救いの時だった。

もうお気づきだと思いますが、今日からほぼ通常の礼拝の様子に戻りました。12月の役員会で、現在の感染状況の落ち着きを受けて、月の第一主日の聖餐式も含めて通常に近づけることを決めたからです。しかし、ご存知のように、少しずつ感染者数が増えてきています。海外の例を見ますと、今後のオミクロン株の大流行も大変気がかりです。明るい一年とは、簡単には言えない状況でしょう。確かに、太陽の輝きはある。お日様のもとで穏やかに過ごせたら、それは幸いなことに違いないでしょう。しかし、世の中とは、あるいは人生とは、いつもそうとは限らないものです。

時に、どっぷりと闇の中に落ちてしまうことだってあり得る。しかし、いいえ、だからこそ気付く、気付かされる光、星の輝きもあるのだと思うのです。むしろ、私たちをイエスさまのところへと導いてくれたのは、そんな穏やかな太陽の光よりも、この小さな星の輝きではなかったか、とさえ思うのです。そして、そこにこそ、本当の意味での、人生の重荷を下ろす、下ろすことのできる瞬間もあるのではないでしょうか。あの東の国の博士たちのように。

今日はこの新しい年の最初の主の日ですが、そんな彼らの姿を思い起こしながらスタートできることは、幸いなことではないでしょうか。必ず星が私たちを導いてくれる。イエスさまのところへ。本当の喜びの場所へ。そのことを覚えていきたいと思います。

【 Live配信 】2022年1月2日(日)10:30  主の顕現主日聖餐礼拝  説教 「 不思議な星の導き 」 浅野 直樹牧師



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2022年1月2日9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校



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【 説教・音声版 】2021年12月26日(日)10:30  降誕節第1主日礼拝  説教 「神と人に愛された方」 浅野 直樹牧師

降誕節第一主日礼拝説教
聖書箇所:ルカによる福音書2章41~52節


今年は何とか19日の降誕主日の礼拝と、一昨日24日のクリスマス・イヴ音楽礼拝と、皆さんと共々に主イエスの御降誕を祝うことができましたこと大変嬉しく思います。
今日の福音書の日課は、その後のことです。つまり、イエスさまが12歳の時の出来事です。何だか一気に12年もの歳月が流れたように感じます。

ところで、皆さんは12歳の頃…、現在の日本の感覚ですと小学6年生頃でしょうか、どんな少年少女だったでしょうか。私自身は、その頃何をしていたのか、どんなことに興味を持っていたのか、正直あまり思い出せません。ただ、ちょっと生意気で、見栄っ張りで、変なプライドだけは持っていたことを覚えています。その頃から40年以上経ちましたが、もちろん変わった、変えられたところも多くあると思いますが、その本質は案外変
わっていないのかもしれません。

もちろん、イエスさまにも12歳の頃がありました。当然といえば当然なのですが、案外気づかないものです。偉人の伝記などを読みますと、子どもの頃から頭角を表していたという記述が多くあります。例えば、モーツァルトは神童と言われ、5歳の時にはすでに作曲していたことが知られています。天才アインシュタインもちょっと変わった子どもだったようですが、幼い頃から数学には天才的な能力を発揮していたと言われます。そのように、私たちはその人がどんな幼少期を送り、成長していったのか、といったことに興味を覚えるものです。

しかし、聖書はそんな私たちが知りたいと思うことを存外記してはくれていません。クリスマスを祝うことができる誕生の物語はあります。もちろん、およそ30歳からはじめられた公生涯のこともしっかりと記されている。しかし、その間の30年間のことは、全く分からない。唯一、福音書に記されているその間の出来事が、今日
の日課ということです。

では、そこに描かれているイエスさまはどんな人物だったのか。どんな少年だったのか。ちょっと変わったところはありますが、存外普通です。生まれてすぐに歩き出したとか、話し出したというようなこともない。幼い頃から奇跡を行って、周りの大人たちを驚かせていた、といったこともない。つまり、私たちがよく知るあのクリスマスの物語から連想できるような、つまり、神の子として何か特殊能力を持つ超人のような描かれ方は一
切されていない、ということです。むしろ、私たちと同じ一人の人間、一人の少年といっても良い姿です。ここにも、私たちが教えられるべきイエスさまのお姿があるようにも思います。

イエスさま一家は、毎年エルサレムで過越祭を祝うことを慣わしとしていたようです。この12歳の年も家族皆で祭りに向かいました。その過越祭も無事に終わり、帰路に着いた時です。おそらく、この頃の巡礼の旅は個人・家族単位ではなく、同じ街の人たち、近隣の親戚たちとも一緒に一種の団体旅行のように行われていたと思われます。

毎年のことです。ほぼ同じメンバーで、よく知った仲だったでしょう。幼い頃は、それこそ迷子にならないようにと親に手を取られてついていったと思いますが、小学生になる頃には、親たちと一緒に歩くよりも友達とわいわいやりながら行きたがるものです。毎年そうだった。だから、今年もそうだろうと両親も安心していました。しかし、1日の道のりを終えた夕暮れ、イエスさまの姿はどこにも見当たりません。皆さんにもそういった経
験があるのではないでしょうか。子どもが迷子になって、ドキッとさせられたことが。慌てて友達のところを尋ねます。いません。親戚のところを尋ねます。いません。思い当たるところは全て尋ねました。

しかし、見つかりません。不安がよぎります。ヨセフとマリアは急いで引き返しました。エルサレムに着くまでにも、同様の巡礼団と遭遇したことでしょう。そこでも必死に探したと思います。エルサレムについてから三日が経ちました。

三日です。親としては居た堪れない思いです。三日後、ようやく見つけることができました。何とイエスさまは神殿の境内にいたのです。驚いた両親はこう詰め寄りました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。どれほど心配したことか。頬の一つも引っ叩いてやりたいほどです。その気持ちは、親として良くわかる。しかし、イエスさまは不思議なことを言われました。「どう
してわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。反省している様子もなく、謝りもしない。このイエスさまの受け答えに、両親も呆気に取られたのかもしれません。

確かにイエスさまは、同年代と比べれば抜きん出た実力を持っておられたようですが、少々変わり者のようにも思います。実は、ユダヤにおいて12歳というのは、特別な意味を持っていたようなのです。12歳になるとバーミツバ(「律法の子」)という儀式を受けることになっていました。つまり、12歳からは律法を守る責任がある者とされる、ということです。これは、必ずしも成人になったことを証しするものではありませんが、し
かし、神さまの戒めを守る民として、もはや「子ども」ではいられないことを示すものです。神さまの律法に対しては、大人にならなくてはならない。だからイエスさまは、神殿の境内で律法を学ばれました。

ある方は「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられた」という記述から、神の子としての持ち前の優秀さで学者たちを論破されていたような印象を持っているようだが、それは間違いだ、と
言います。そうではなくて、「真ん中に座り」という座る姿勢というのは、教えを受ける者の姿勢なのだから、イエスさまはここで学者たちから教えを受けていると理解すべきだというのです。そうかもしれません。

博士たちの間のキリスト:パオロ・ヴェロネーゼ (1528–1588) プラド美術館



そして、ここにイエスさまの変わり者ぶりが発揮されているようにも思うのです。イエスさまだけではありません。誰もが12歳になったら、律法を守る責任を負うのです。しかし、ここまでされたのはイエスさまだけでしょう。家に帰ることも忘れて、両親に心配をかけていることも忘れて、家族のことも友人たちのことも忘れて、時の経つのも忘れて、ただひたすらに神さまの戒めを学ぶことに没頭された。確かに責任ある年齢にはなりましたが、それでもまだあどけなさが残る12歳の少年が、です。
私たちはどうしても、そんなイエスさまのことを変わり者だと思う。非常識だ、と思う。ヨセフとマリアの心境の方がよっぽど分かる。自分の子がそんなふうになってしまったらどうしよう、とさせ思うのかもしれない。信仰を持つことは尊いことだが、それほど熱中する必要があるのだろうか、親を心配させてまで没頭する必要があるのだろうか、もっと優先度の高いものがあるのではないか。私たちの常識はそう弾く。

「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。一見冷たい受け答えのような気がします。どうして、そういう言い方をされたのかも分かりません。しかし、はっきりしていることは、神さまのことをご自分の父であるとはっきり認識しておられる、ということです。もっと言えば、心配をかけた父ヨセフよりも父なる神さまのことを優先させるべきだ、とお考えに
なられていた、ということです。ここに、私たちは何だか抵抗感を感じるのではないでしょうか。

しかし、だからといって、12歳になって、自分にとっては神さまだけで、もう金輪際両親のことは気にしない、ということなのだろうか。聖書ははっきりとこう語っているのです。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」と。

イエスさまにとって神さまのことを何よりも大切にすることは、ただ神さまに従おうとすることは、両親を蔑ろにすることとは決してイコールではない、ということです。むしろ、神さまを父として大切にし、神さまの戒めに従っていったからこそ、イエスさまは両親に仕えてお暮らしになったのです。だからこそ、イエスさまの成長をこう表現できるのだと思う。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と。

確かに、イエスさまは特別です。しかし、人となられた、ということは、私たちのモデル・模範にもなって下さった、ということも意味するのだと思うのです。だから、イエスさまは特別な育ち方はされませんでした。私たちと同じように、日一日と成長されました。

両親に甘え、友達と遊び、時には突拍子もないこともされたかもしれません。だからこそ、なのです。私たちの常識以上に、イエスさまの非常識にも目を止めていきたい。そう思うのです。

【週報:司式部分】 2021年12月26日 降誕節第1主日礼拝



2021年12月26日 降誕節第1主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前  奏 み空より天使の群きたり J. H. Buttstett

初めの歌 教会讃美歌 16番(ときはみてり)1節
1.時は満てり、 み子はあらわる。
そのみ栄え 肉をまとえり。
怒りのぞき 救い果たす
神を見よや、 時は満てり。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
神様、すべての行いが御心にかない、いつも御子の光の中を歩むことができますように。
私たちの心を御言葉へと開き、あなたの知恵の光で照らしてください。
あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 サムエル記上2:18−20,26( 旧約 431 頁 )
第2の朗読 コロサイの信徒への手紙 3:12−17( 新約 371 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 ルカによる福音書 2:41−52( 新約 104 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌 27番(あめなるかみには)1節
1.「天なる神には みさかえあれ、
地に住む人には 平和あれ」と、
み使いこぞりて ほむる歌は
静かにふけゆく 夜(よ)にひびけり

説 教 「 神と人に愛された方 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 307番(まぶねのなかに)1節と4節
1.まぶねの中に うぶ声あげ、
大工(たくみ)の家に 人となりて
貧しきうれい、 生くるなやみ、
つぶさになめし この人を見よ。

4.この人を見よ、この人にぞ、
こよなき愛は あらわれたる、
この人を見よ、この人こそ
人となりたる 活(い)ける神なれ。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 346番(はかりもしられぬ)1節
1.はかりも知られぬ とうとき主の愛
こころを結びて ひとつとならしむ。
わが身は主のもの 主にありて生くる。

アーメン
後  奏 古き年は過ぎ去りぬ J. G. Walther

【 Live配信 】2021年12月26日(日)10:30  降誕節第1主日礼拝  説教 「神と人に愛された方」 浅野 直樹牧師


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2021年12月26日9時30分「子どもと家族の礼拝 」むさしの教会学校


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