【 Live配信 】2021年7月18日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝  説教 「 イエスの動機 」 浅野 直樹 牧師



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【週報:司式部分】 2021年7月18日  聖霊降臨後第8主日礼拝



司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

前  奏  “朝ごとに主に祈る” ジュネーヴ詩編歌 M.ヴァン・デル・マイデン

初めの歌  教会203( 父の神よ )1節

1.父の神よ、 夜は去りて
われらいま み前に立ち
さんびのうたを かしこみ捧ぐ
声もたかく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
私たちを守られる神さま。この世の嵐が私たちの周りを荒れ狂い、
私たちを脅かすとき、み民をあらゆる不安と恐怖から解放し、不信に陥らぬように防ぎ守ってください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。  アーメン

第1の朗読   エレミア書 23:1-6( 旧約 1218頁 )
第2の朗読   エフェソの信徒への手紙 2:11-22( 新約 354頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読  マルコによる福音書 6:30−34,53-56( 新約 73頁 )

みことばのうた 教会294( 恵みふかきみ声もて )1節

1.恵みふかきみ声もて イェスは呼びたもぅ。
「われに来よ」と今もなお われを待ちたもぅ。
来よ、来よ、来よ、われにとく来よ、
疲れはてし罪人よ、 われにとく来よ。

説  教 「 イエスの動機 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会372( イェスのみ名は )2節

2.なやむときも みこえ聞こゆ
主イェスちかくいませば、
力 みつる イェスのみ手に
たよるものはやすけし。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会333( 山べに向いてわれ )4 節
4.み神はわざわいをも 避けしめ
疲れしたましいをも やすます。
出ずるおり入るおりも 絶えせずなれを守らん。

後  奏  教会讃美歌333のメロディによる後奏曲 小泉 功

 

【Movie】2021年7月18日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 説教・音声版 】2021年7月18日(日)10:30 聖霊降臨後第8主日礼拝  説教 「 イエスの動機 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第八主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章30~34、53~56節

今日の福音書の箇所を読みまして、改めて当時の人々の窮状を思い知らされたような気がいたしました。まずは、病気です。「こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめて
その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた」。ある方は、この箇所はこれまでのイエスさまの働きをまとめたものだ、と記しておられましたが、確かにそうかもしれませんが、つまりはどこに行っても病人たちが多くいた、ということでしょう。

今日でも、残念ながら医療の発達していない国々・地域では、私たちには想像もできないような病で命を落とすことがあります。なおさら2000年も前なら、そういったことは想像に難くありません。医療技術も薬も圧倒的に足りない。衛生面、栄養面でも乏しい。ちょっとしたことでも病気になり、重篤化し、命の危険に晒されていく…。コロナ禍にある私たちよりも、はるかに「死」が身近にあった世界です。そんな世界の中で人々は生きていた。それが、彼らの唯一の現実だった。ですから、治る、癒される可能性があると聞けば、人々が殺到するのも無理からぬことです。

あるいは、イエスさま一行が休息をとるために、湖の向こう・「人里離れた所」に向かおうとされた時に、先回りしていた群衆はどうだったか。少なくとも彼らは、イエスさまたちよりも早く移動できたくらいですから、病人、あるいは体に不具合があった人々ではなかったでしょう。いわゆる、健康な人々です。しかし、イエスさまは、そんな彼らの様子を見て、「飼い主のいない羊」のように思われたのです。

では、「飼い主のいない羊」のような人々とは、一体どのようなことなのでしょうか。一つは、どこに行けば良いのか分からない。どうすれば良いのか分からない。そんな導き手がいないがために途方に暮れている人々と言えるのではないでしょうか。今一つは、羊飼いとは羊たちを外敵から守る存在でもありますから、そういった保護を受けられない人々、常に不安を、心配事を抱えていた人々と言えるのかも知れません。そんな人々が、イエスさまを求めて駆けつけてき
たのです。

ご存知のように、当時のユダヤはローマ帝国に実質的に支配されていました。だからといって、「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」と言われますように、必ずしも悪政を敷いていたのではないと思います。しかし、それでも、占領されている側としては、当然面白くはなかったでしょう。駐留しているローマ軍による犯罪も起こっていたかもしれません。あるいは、武力による無言の圧力を常に感じていたかもしれませんし、多額の税を
取られるのも不満に感じていたのかもしれません。そんな中で、当時、大きく二つの流れが起こっていたようです。

一つは、そんなローマとうまくやっていこうという現実主義的なグループです。宗教的には、主に祭司階級、つまりサドカイ派と言われるような人々がそうでした。もう一つは、律法を重視する、ある意味理想主義的と言えるのかもしれませんが、いわゆるファリサイ派と言われる人々です。方や、保身のためにローマにへつらっているように見える人々、方や厳格な律法主義・理想主義を押し付けようとする人々。そんな中で、このどちらにもついていけない民衆も多くいたのではないか、と思うのです。つまり、心理的・精神的・霊的に飢え渇いていたのではないか、と想像するのです。

身体的にしろ、精神的・霊的にしろ、当時の多くの人々は飢え渇いていた。何かを必死に求めていた。それが、イエスさまとの出会いとなった。

エルサレム滅亡を嘆く預言者エレミヤ 1630年、レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) アムステルダム国立美術館



以前、むさしの教会の方ではありませんが、ある方のご葬儀をしたとき、こんな話を伺いました。その方は、とても辛いことがあって、娘さんと一緒に死のうと線路に向かわれたそうです。そんな思いで彷徨っていると、ある教会の前に来ていた。そして、その中に入ってみると、暖かい光に包まれて、なんだかホッとされたそうです。私たちにも、大なり小なり、そういった経験があるのではないでしょうか。なんだか飢え渇いていて、何か
で満たしたくて、求めて、イエスさまにたどり着く。そういった経験が…。

この当時の人々も、必ずしもイエスさまを求めていたのではなかったのかもしれません。もっと言えば、神さまのことさえも求めていなかったのかもしれない。自分の病気が治れば、それでいい。愛する者の病気が治れば、それでいい。動機は至って不純だったかもしれない。しかし、そんな当てもなく彷徨うわたしたちを、イエスさまは「飼い主のいない羊」のようだ、と「深く憐れ」んでくださったのです。弟子たちと一緒に、休息に向かわれたのです。お疲れのことだったでしょう。それなのに、オロオロあたふたしている私たちを、まことに自分勝手な願いしか持っていないような私たちを、つまり、罪深い私たちを、深く憐んで下さった。深く憐れみ、時間を惜しまず、教えて下さった。神さまのことを、この世のことを、私たち自身のことを。どこに向かえば良いのか、何をすれば良いのか、懇切丁寧に教えて下さった。

今日の旧約聖書の日課、」と言われる箇所です。つまり、良い羊飼いであるイエスさまの到来を予告、預言しているということです。その前に、当時の悪い羊飼い、これは具体的には当時の王を指すわけですが、その王たちを断罪する言葉が記されていました。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰
する」。当時の羊飼い・王たちは、極端な圧政を敷いて国民を苦しめていた、ということでは必ずしもないと思います。当時の南ユダ王国は、大国バビロンとの間で非常に難しい舵取りを迫られていました。そこで、方針の違いなどもあったのでしょう、主導権争い、権力争いなどが起こってくる。そうなると、民衆のことはそっちのけです。自分たちの保身のことに、みんなが躍起になっていく。

だから、「顧みることをしなかった」と叱責されます。常に、自分を優先させてしまう。これが人間の性でしょう。それは、王たちに限らないことですが、こと羊たちを養い、保護し、導いていく羊飼いならば、その責任を問われる訳です。そして、ここで預言されている「良き羊飼い」は、それら人間的弱さをもった羊飼いたちとは全く異なるのだ、という。そして、イエスさまこそが、そんな「良き羊飼い」なのです。なぜならば、この羊飼いは何時如何なる時も、何よりも羊たちのことを優先される方だからです。この羊飼いのあらゆる動機は、自分を頼ってくる羊たちに対する深い憐れみにあるからです。

この羊飼いは、まことの良き羊飼いイエス・キリストは、たとえどんな動機であったとしても、不純な動機、罪にまみれた身勝手な動機であったとしても、飢え渇いて訪ねて来るものたちを決して拒まれることはないからです。その人たちに、必ず羊飼いの使命を果たされる。彼らが迷うことなく、一筋に光に向かえるように、教え諭していかれる。そういう方だからです。

ここで、もう一つ注意したいのは、この羊飼いの周りの人々の事です。まず弟子たちがいます。6章7節以下に、弟子たちを二人ずつ組にして宣教に送り出されたことが記されていますが、今日の箇所は、そんな弟子たちの宣教報告からはじまっているからです。つまり、ここに集まってきた人々の中には、この弟子たちの宣教の結果だった人もいたかもしれないからです。あるいは、一行がゲネサレトに向かった時には、そのことを知った名も無き人たちが、必死にそのことを周辺一帯に知らせに行ったことが記されています。また、その知らせを聞いた人々が病人たちを連れてきました。つまり、それら救いを必要としている人々が癒やされたのは、多くの人々がいたからだ、とも言えるわけです。

私たちは、決してイエスさまに取って代わることなどできません。まことの良き羊飼いは、イエスさまだけです。しかし、私たちもまた、飢え渇きを覚えている人々のために、口に、手に、足になれるのかもしれない。私たちもまた用いられて、イエスさまと出会って救われる人々が起こされていくのかもしれない。そうも思う。

願わくは、イエスさまがお持ちの「深い憐れみの心」を、ほんの少しでも私たちにも分けていただきたい。そのように願わされます。

【重要】2021年7月18日からの集会式礼拝について

【7月18日】より東京都に緊急事態宣言が発令されたことにより、宣言期間中は集会式の礼拝は中止といたします。ライブ配信等で礼拝にご参加ください。

【説教・音声版】2021年7月11日(日) 10:30 説教 「 保身の歴史 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第七主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章14~29節

私は正直、今日の福音書の日課に戸惑っています。
ご承知のように、昨年から聖書日課が変わりました。いわゆる「改訂共通聖書日課」が使われるようになったからです。これは、ルーテル教会のみならず、聖公会など多くの主要教派が採用しているものです。私はこれまで、少なくともルーテル教会に移ってからは、この箇所から説教したことはなかったと思います。しかも、今日の箇所には、救いが見当たらない。あの洗礼者ヨハネが時の権力者によって、不当に殺害されてしまうからで
す。言ってみれば、ただそれだけの物語でもあるからです。ですから、ここから何が語れるのか…、と困惑するのです。

しかし、この現実から目を背けてはいけない、とも思います。現代においても、権力者たちによる不当な行いによって、多くの命が奪われている現実が確かに存在しているからです。いいえ、現在はますますそういったことが顕著になっているようにも思います。多くの国々で、しかも大国と思われるような国々でさえも、権威主義的な指導者たちが多く出ています。ひと頃は、あのアメリカでさえもそういった指導者が出たことに驚きまし
た。軍事政権に至っては、その様子は顕著でしょう。平和的な抗議デモに対して武力で鎮圧を図る。そのために、どれほど多くの人命が奪われたことか。

では、我が国ではどうなのか。私は、今日の記事を読んで、赤木さんのことが思い出されました。ご存知のように、森友学園の公文書改竄問題に関わらされて命を落とされた方です。ようやく…、本当にようやくです。再三の請求があったにも関わらず、なかなか提出されなかった、いわゆる赤木ファイルが公開されました。それ以前からも伝えられてきたことではありますが、公務員としての使命感を篤くされていた赤木さんは、必死に抵抗された。それは、国民を裏切ることになると、公務員としての使命を逸脱することになると、必死に抵抗された。しかし、組織の中では、従わざるをえなかったわけです。それで、心が病んでしまわれた。本当に前代未聞のことです。

前政権以降ではないでしょうか。「忖度」といった言葉が巷に溢れ出したのは。権力者たちは、直接手を下してはいないのかもしれない。指示していないのかもしれない。しかし、権威主義的な、あるいはそこから発生した構造的なものによって、権力者たちの意向を慮っていったために、ますます責任の所在が不明瞭となり、自制する危機意識さえも希薄になっていったのではないか…。私はそう思います。これは直接的よりもより巧妙で、根が深い問題なのではないか。我が国においても、そんな厳しい現実があるようにも思うのです。

ともかく、今日の福音書の日課は、時の権力者が正しい人の命を奪ってしまった、という史実としても伝えられている物語です。しかし、ただの権力者の横暴といった図式で描かれていないということにも注意が必要です。つまり、時に権力者というものは、民衆の生殺与奪の権を持っていると思いがちですが、そういったことだけにはとどまらない、ということです。

今日のところでの権力者は、「ヘロデ王」となっています。あの、イエスさまがお生まれになったときにユダヤを支配していた「ヘロデ大王」と言われる王の息子ということになります。正確には、ヘロデ・アンティパスです。ヘロデ大王の死後、このヘロデ・アンティパスは主にガリラヤ地方を受け継ぎました。ですので、ここでも正確には「王」ではなく、一領主に過ぎない、と言われます。

しかも、実際にはその領土はローマの直轄領であり、名目上の領主に過ぎなかった、との解説もあります。それでも、小さいながらでも権力者には違いないでしょう。そして、彼自身、先ほども言いましたように、領民に対しての生殺余談の件を持っていると思っていたのかもしれません。悪名高いヘロデ大王の息子らしく、と言いますか、彼もまた好人物とは言えなかったようです。

ヘロデの宴会(部分)フィリッポ・リッピ ドゥオーモ、プラート 1452-1465年



彼は異母兄弟であったフィリポの妻…、実はこれも間違いだったようで、異母兄弟の妻には違いないのですが、フィリポではなく、ヘロデ・ポエトスの妻を娶りました。横恋慕だったかどうかは分かりませんが、ともかく、律法違反の婚姻を結んでいたわけです。ちなみに、このフィリポはヘロディアの娘である「サロメ」と結婚していたようです。ともかく、その結婚は不正であると洗礼者ヨハネは訴えたのです。

そして、ヘロデ・アンティパスはその声が目障りだったのでしょう、不当にもヨハネを拘束したのでした。ここまでは、よくあるような悪代官の物語でしょう。しかし、ここから様子が変わってきます。自らの不正を訴えられ、目障りだったヨハネを捕まえてはみたものの、そのヨハネと直に触れることによって、領主ヘロデの心が変わってきたからです。「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである。そこで、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである」。

これは、非常に慰められる言葉だと思います。人は変われる。どんなに無慈悲で横暴な権力者であっても、神の言葉の前では人はこのようになれるのだ、と思えるからです。しかし、残念ながら、物語りはここで終わらない。「ところが、良い機会が訪れた」と聖書は記します。これから、あのヘロデさえも「正しい聖なる人」と認めることができたヨハネが殺されていくことを、「良い機会が訪れた」と捉えることができる人の悪意を空恐ろしく感じます。ヘロデの誕生日に、へロディアの娘であるサロメが素晴らしい舞を踊った。それに感動したヘロデは、欲しいものは何でもかんでも与えようと約束します。そして、サロメの願ったものは、洗礼者ヨハネの首だった。ヘロデはなぜ洗礼者ヨハネを殺したのか。大罪を犯したからか。自分に楯突いたからか。叛逆したからか。

そうではない。自分のメンツのため、でした。自分の保身のため、でした。彼はそんな動機で、自身でも「正しい聖なる人」と認めていた人を殺してしまったのです。そして、それが、なんともリアルだと私は思う。
思えば、イエスさまの時もそうでした。総督ピラトはイエスさまの内に罪を見出さなかった。イエスさまを解放しようと尽力さえした。しかし、最終的には民衆の声を優先させ、自分の責任を放棄し、十字架につけてしまった。それも、「保身」と言えるのではないか。

人を殺す・あやめる、その人の人生を奪う動機が、正しさでも、法律違反でも、倫理規定違反でもなんでもなくて、ただメンツのため、保身のため、ということに、心が痛くなります。しかも、それは、特に彼ら権力者たちに顕著かもしれませんが、誰の内にも見られるものでもあると思うからです。しかし、これで終わらないのです。このヨハネの死で終わらなかったのです。これは、ぜひ覚えておきたい。これらは、あたかも敗北のように思えてしまいますが、しかし、決して敗北ではなかった。必ず、続きの物語りが起こるからです。それが神さまの言葉、福音ならばなおさらのことです。ヨハネが沈黙した後は、イエスさまが引き継がれました。

より優れた形で、神さまの言葉を、思いを人々に届けていったのです。だからこそ、イエスさまの評判を聞いてヘロデは「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と恐れたのです。イエスさまの死によっても、それは終わらなかった。弟子たちが受け継いでいったからです。何代にも何代にも渡って引き継がれてきた。その現実の中で。私たちにも。なぜならば、神さまがいてくださるからです。神さまは、どんな人の悪意によっても、決して負けることなどないからです。むしろ、神さまの愛は必ず勝つ。私たちは、そのことも決して忘れてはいけないのだと思います。

【週報:司式部分】 2021年7月11日  聖霊降臨後第7主日礼拝



司 式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説 教 浅野 直樹
奏 楽 苅谷 和子

前 奏   われは神より離れじ Ⅾ.ブクステフーデ
初めの歌 教会188( わがたまよろこび )1節
わがたまよろこび 主を待ちのぞむ。
とびらを開きて 迎えたまえや、
ひかりと恵み うちにかがやく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

〜特別の祈り〜
全能の神さま。
み言葉の種を私たちの中に蒔いてくださったことを感謝します。
私たちが喜んでみ言葉を受け、み言葉に従い、信仰と希望と愛に満たされるために、
聖霊の助けを与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読    アモス書 7:7-15( 旧約 1438頁 )
第2の朗読    エフェソの信徒への手紙 1:3-14( 新約 352頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読   マルコによる福音書 6:14−29( 新約 71頁 )

みことばのうた  教会295( ひかりにそむき )1節
ひかりにそむき 閉ざす門を
おとずれたもう 客人あり。
神のしもべの 名にそむきて
などむかえざる 神のみ子を。

説 教    「 保身の歴史 」浅野 直樹 牧師

感謝の歌    教会387( 十字架の主を知るや )1節
十字架の主を知るや、
十字架の主を知るや、 ああ、
わが罪のため、 主は、 ああ主は、
血を流せしを知るや。

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌   教会413( 苦しみ悩(なや)みの )1 節
苦しみ悩みの お暗き道を
望みを持ちつつ うたいて進む。
行手にしるべの み光あれば
主にある同胞 ふたたびまみえん。

後 奏   主イエス・キリストよ、われら汝に感謝する Ⅾ.ブクステフーデ

【Movie】2021年7月11日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 Live配信 】2021年7月11日(日)10:30 聖霊降臨後第6主日礼拝  説教 「 保身の歴史 」 浅野 直樹 牧師



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【 Live配信 】2021年7月4日(日)10:30 聖霊降臨後第6主日礼拝  説教 「 イエスの驚き 」 浅野 直樹 牧師



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【週報:司式部分】 2021年7月4日  聖霊降臨後第6主日礼拝



聖霊降臨後第6主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 上村 朋子

前  奏 汝ら異邦人よ、主なる神をほめまつれ Hans C-Petit

初めの歌  教会170( 主をあがめたたえよ )1節
1.主をあがめたたえよ もろもろの国よ
神をほめたたえよ もろもろの民よ
み神はわれらを あわれみ選びて
神の子としたもぅ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
力なる神さま。生まれながら弱い私たちは、
あなたによらないで正しいことを行うことができません。
あなたの戒めを守り、思いと言葉と行いのすべてであなたに仕えることができるよう、み力によって支えてください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

第1の朗読 エゼキエル書 2:1-5( 旧約 1297 頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙二 12:2-10( 新約 339 頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読 マルコによる福音書 6:1-13( 新約 71 頁 )

みことばの歌  教会295( ひかりにそむき )1節
1.ひかりにそむき 閉ざす門を
おとずれたもう 客人あり。
神のしもべの 名にそむきて
などむかえざる 神のみ子を。

説  教 「 イエスの驚き 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会328( 主イェスに従う )1節
1.主イェスに従う 群れのさちよ、
めぐみの主の手に たよりゆけば、
なやみのときにも 主近くいまして
のぞみは消ゆとも 愛は尽きず。

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌  教会393(わが主イェスよ )4節
4.わがこころは 主のものなり
ほまれを求めず み前に伏し
主のいのちに 生かされつつ
とこしえのさかえみ手より受けん。
アーメン

後  奏   ふるい立て、わが心よ H.Grabner

 

【Movie】2021年7月4日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【説教・音声版】2021年7月4日(日) 10:30 説教 「 イエスの驚き 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第六主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書6章1~13節

今日の福音書の日課には、こんな言葉が記されていました。「そして、人々の不信仰に驚かれた」。何とも印象深い、と言いますか、心に迫る言葉だと思います。
これまで、度々イエスさまに対する人々の「驚き」については記されていました。直近の例では、先週のヤイロの娘を復活させた時もそうでしたし、今日の日課においても、礼拝の場で語られたイエスさまの教えを聞いて、人々が驚いた様子が記されていました。しかし、ここではイエスさまが「驚かれた」と言います。

これは、大変珍しいことです。しかも、ここでイエスさまが驚かれたのは、郷里の人々の不信仰ぶりだったという。イエスさまに敵対する勢力の、時の指導的立場の人々の不信仰ぶりではないのです。イエスさまと共に生きてきた、ある意味イエスさまのことを一番良く知っているはずの、さっきまで驚きをもって喜んで話を聞いていたはずの人々の「不信仰」…。だからこそ、なのでしょう。私たちは、ここに心が吸い寄せられるような思いがするのではないか。そう思うのです。

先週は、今日の日課の直近の出来事として、二つの奇跡物語を見ていきました。長く婦人病を患っていた人の癒しの物語り。そして、死んでしまったヤイロの娘の復活物語り、です。もちろん、そうなのですが、この二つの物語りは「信仰の物語り」と言っても良いと思うのです。なぜなら、イエスさまはこう語っておられるからです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と。もちろん、色々と議論はあるでしょう。この女性の信仰は、自分勝手でひとりよがりな信仰だ、とか。

確かに、そうかもしれません。しかし、この女性はイエスさまの衣に触れさえすれば癒される、と信じたのです。そして、事実、その通りになった。イエスさまもご自身から力が出ていったことを感じられた、という。弟子たちが言っているように、この時、イエスさまの衣に触れた人は、この女性に限らないわけです。多くの人々がひしめき合って、イエスさまと触れていた。

しかし、力が出ていったのは、この人の時だけです。だからこそ、イエスさまはこの女性を探されたのです。ある意味、この女性の信仰を認められた、と言っても良いのかもしれません。もちろん、イエスさまはこの女性としっかりと向き合われて、その信仰を正していかれたことも忘れてはいけないと思いますが…。ともかく、奇跡の前に信仰があったことを、この物語りは語っているのです。

一方のヤイロも、イエスさまならば娘の病を癒してくださるに違いない、とわざわざ出迎えにいった訳です。その願い叶わず、結局娘は死んでしまいますが、それでもイエスさまはこのヤイロに信じることを求められました。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。この時点では、ヤイロもまさか娘が復活するなどとは思ってもいなかったでしょうが、それでも、絶望の中にありながらも、このイエスさまの言葉に促されながら、支えられながら、イエスさまを家へと、娘の元へと案内していきました。

これも、やはり信仰の姿だと私は思います。このように、信仰の物語りがあって、次の場面では、不信仰の物語りが展開されていくことになる。ある方は、マルコはこのコントラストを描くことを目的にしていたのではないか、と指摘されていますが、そうかもしれません。明らかに、対照的です。

では、なぜ、郷里の人々は、イエスさまが驚かれるほどに「不信仰」に陥ってしまっていたのか。それは、あまりにイエスさまのことを知っていると思いすぎていたからです。イエスさまのことを完全に見誤っていた。そのことは、この言葉からも推察されます。

ヘンリク・シェミラツキ 「最後の晩餐」(1876)



「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。この言葉を見る限り、イエスさまの家族は特別ではなかったようです。その町のどこにでもいる普通の家族だった。そういう意味では、イエスさまも特別ではなかったのでしょう。生まれてすぐに歩き出した、とか、言葉を話し出した、とか、そういった伝説級ではなかった。

普通におしめを替えられ、町の子どもたちと一緒になって、鼻水を垂らして遊びまわっていたのかもしれない。そうです。あまりに、普通すぎたのです。それも、意味あることです。神の子が普通に、私たちと全く同じように生まれ、生きてくださった。しかし、彼ら地元民にとっては、これが躓きになってしまった。むしろ、特別ならば、良かったのかもしれません。もともと自分達とは住む世界が違う王族だとか、代々有名な学者を生み出すような特別な家柄だとか、自分達とは違う、敵わない、と思えたならば変わったのかもしれない。

しかし…。奴は大工のせがれだろ。俺たちと同じように、ついこの間まで汗水垂らして働いていたじゃないか。奴の子どもの頃のことだって、俺たちは良く知っている。なのに、なぜだ。俺たちと同じはずなのに、俺たちと何も変わらなかったはずなのに、なぜそんなことが出来るのだ。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。

「嫉妬」もあったのかもしれません。あまりに自分達と同じだと思いすぎていたために面白くなかった、素直になれなかったのかもしれません。そして、それは、自分達が劣っているということを、この人に助けてもらう必要があるということを、つまり、自分達の弱さを認めることができなかったことにもつながっていくのかもしれません。

今朝の使徒書では、あのパウロですら自分の弱さを自覚する必要性があったと訴えます。そして、その弱さを知った者こそが体験することができる強さがあることを告げるのです。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。…それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。

ここでパウロが言う「強さ」とは、自分の強さ、自分の内から出る強さでないことは明らかです。そうではなくて、神さまの力が、その強さが体験させられる場が本当の意味での「強さ」なのだ、という。これが、信仰なのです。

12年間病に苦しんだ女性も、ヤイロも、自分の弱さをとことん知らされた人たちです。だからこそ、イエスさまに救いを求めた。それが、信仰と認められた。方や、同郷の者たちは、あまりにイエスさまが身近すぎたからこそ、謙ることができずに、救いのチャンスを逃してしまった。形はどうであれ、罪人と揶揄された人々と宗教的指導者との間にも見られるものです。イエスさまを前に、救いを必要としている弱さを認めることができなかった。

神の子が私たちと同じようになってくださったのです。これが、イエスさまを見誤らない秘訣でしょう。「神の子」と「私たちと同じように」です。この両者です。ただの近しさでもない。ただの超越性でもない。この両者が、イエスさまの中に受肉されている。だからこそ、私たちは弱くなれる。世の中の道理に合わせて、必死に自分を立たせる強さを探し求めるのではなくて、素直に、ありのままに弱さを認めることができる。理解し、強めてくださる方がいてくださるから…。そうではないでしょうか。

【 Live配信 】2021年7月4日(日)13:00世界祈祷日礼拝  バヌアツからのメッセージ



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【説教・音声版】2021年6月27日(日) 10:30 説教 「 恐れないでただ信じなさい 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第五主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書5章21~43節

今日の福音書の日課は、先週に引き続き、いわゆる「奇跡物語」と言われるものです。
ご存知のように、聖書にはこのような「奇跡物語」が多く記されていますが、しかし正直に言いまして、私たちはこのような奇跡物語を読むとき、素直になれないようにも思うのです。どこか抵抗感を持ってしまう。それは、単に「非科学的」ということだけにとどまらないでしょう。恐らく、私たちの誰もが、一度は「奇跡」を願ったことがあるのだと思います。先週の日課のように、「嵐を鎮める」ような超自然現象を願うことはあまりないかもしれませんが、こと病気の癒しについてはどうでしょうか。

奇跡的な病気の癒し…、自分の病気、愛する者の病気が奇跡的に癒されることを願ったことがあるのではないか。そう思うのです。しかし、奇跡は起こらなかった。そういった経験の積み重ねが、たとえ信仰者であっても奇跡を諦めることになっていってしまったのではないか。あるいは、奇跡が起きなかったのは自分の不信仰のせいだ、信仰が足りなかったからだ、と自分を責める結果になったことから、奇跡に背を向けるようになったのではないか。だから、「奇跡物語」に素直になれなくなった…、少なくとも自分とは縁のないこと、関係のないこととして通り過ぎようとしてしまっているのではないか。そうも思うのです。

確かに、無理からぬことです。私自身、そういった経験を積み重ねてきましたので、気持ちは分かる。しかし、では、この聖書の言葉は、「奇跡物語」は、現代人の私たちにとっては、躓きを与えるだけのものであって意味をなさないのか、と言えば、そうではないと思うのです。なぜなら、聖書は奇跡の事実を伝えたいだけではないからです。奇跡的に願いが叶ったということを伝えたいのではない。そのことが、今日の日課には鮮明に描かれているように思うからです。

今日の日課は、二つの奇跡物語で織りなされていることはお分かりだと思います。一つは12年間も婦人病で苦しんでいた女性の癒しの物語り。そして、もう一つがヤイロという人の12歳になる娘の復活物語り、です。どちらも、大変な奇跡物語です。信じられないような不思議なことが起こった。しかし、よくよく見ていきますと、そんな奇跡よりも重要な物語がそこにおさめられていることが分かると思います。

まず最初の女性。彼女は12年間もひどい婦人病で苦しんでいました。恐らく、それなりの資産家でもあったのでしょう。こう記されているからです。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」。貧乏人ならそうそう医者にかかることはできません。しかし、この女性は、多くの医者に、恐らく評判を聞いては何人もの医者を招いていたのでしょう。しかし、良くなるどころか、苦しい治療に耐えても、かえって悪くなるばかりだったようです。そのため、全財産も使い果たしてしまった、という。母によく言われたものです。「健康が一番」だと。

そうでしょう。たとえ多くの財産を持っていたとしても、体調を崩して苦しい毎日を送るようならば、ちっとも幸せではありません。だから、この女性も、財産よりも健康をとった。私たちにも、よく分かることです。しかし、結果が出ない。もうお金も底をつき、八方塞がりです。そこで、どこからともなくイエスさまの評判を聞きつけたのでしょう。駄目元、だとも思ったのかもしれない。とにかく、イエスさまの衣にさえ触れれば治ると信じて、人混みに紛れて実行したのです。すると、癒されたことを体が感じた。単なる奇跡物語であれば、これで充分です。女性の願いは叶い、奇跡的に癒されたのですから。

しかし、聖書はこの先の出来事に注目させるのです。すると、突然イエスさまはこの女性を探し求められた、と。この女性としては願いが成就したので、そのまま行きと同じようにコソコソと隠れるようにして帰ることだってできたのかもしれません。最初は、そのつもりだったのかもしれない。しかし、こイエスさまの呼びかけに、知らん顔はできなかった。なぜなら、その体が奇跡を体験したからです。まさに、イエスさまこそがこの私を癒した、救い出して下さったことを身をもって体験したからです。だから、恐る恐るイエスさまの前に出てきた。

そして、イエスさまに事の顛末を全て打ち明けた。ここで、はじめて単なる魔術・奇術の類ではなくて、信仰になった。聖書は最初の奇跡よりも、このことを伝えたいのです。つまり、イエスさまとの出会いこそが、この人を真に救ったことを。

 一方のヤイロは、この一連の出来事に気が気でなかったでしょう。内心、イライラして腹を立てていたのかもしれません。今は、そんな時じゃないだろう。こっちは、娘が今にも死にそうなのだ、と。その不安が的中してしまった。家から使いのものがやってきて、伝えます。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と。ある方は、この知らせを聞いて、きっとヤイロは「どうしたら良いのか」と問うようにイエスさまを見つめたのではないか、そのように言われますが、私はそうは思いません。ヤイロは「お嬢さんは亡くなった」と聞いて、後の言葉は耳に入ってこなかったのではないか。立っているのもやっとの状態で、周りの気配も全て消えてしまって、静寂に包まれていたのではないか。そう思う。茫然自失。我が子を失うとは、そういうことです。

ここでも、これが単なる奇跡物語ではないことが分かると思います。彼の希望通りの奇跡は起きなかった。病気の娘を奇跡的に癒していただける、といった希望は潰えてしまったからです。娘は死んでしまった。しかし、もちろんこの物語には続きがある。奇跡の続きが…。聖書には記されていませんが、茫然自失となり、意識が飛んでしまっているようなヤイロに向かって、イエスさまは何度も、「ヤイロ、ヤイロ」と呼びかけられたのかもしれません。そして、我に返ったヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語られたのでした。

私にとって、このヤイロの物語は特別です。私自身、12歳にもならない長男を亡くした経験があるからです。長男が死にそうになった時、また死んでしまった時、私はよくこのヤイロと自分とを重ねていました。そして、長男にも「タリタ・クム」とおっしゃってください。そうすれば、彼は復活するでしょう、と涙ながらに祈ったりもしました。本当に苦しかった。そんな辛い心のうちを絞り出すかのように祈りました。しかし、彼は死に、復活もしなかった。奇跡は起きませんでした。では、本当に奇跡は起きなかったのか。長男は病気が発覚する数ヶ月前、自ら志願して洗礼を受けました。

まだ、小学一年生でした。そして、イエスさまを信じて、永遠の命・天国の希望を持って、旅立って行きました。これを、「奇跡」と言わずして何と言うのでしょうか。そして、そんな彼を見送るしかなかった私たちは、辛かった、苦しかった、悲しかった、その痛みはなかなか癒えるものではありませんでしたが、彼が天国に行けたことを信じることができた、やがて再会することができることに胸躍らせることができた。そして、私たち以上に彼を愛しておられる神さまに、安心して彼を任せることができた。これを「奇跡」と言わずして何というのでしょうか。

しかも、それは、私たちの信仰が特に優れていたからではないのです。茫然自失…、何も考えられなくて、望みも失って、絶望の中にへたり込むしかなかった私、私たちに、イエスさまが何度も何度も呼びかけてくださり、語りかけて下さったからです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。そのように、気づくところ気づかないと
ころで、いつもイエスさまが私たちの背中を支え続けてくださっていた。

奇跡はあります。私自身は、癒しの奇跡も否定するつもりはありません。しかし、もっと大きな奇跡は、イエスさまと出会えたことです。イエスさまを信じることができたことです。イエスさまに祈り、奇跡を願えるようになったことです。この奇跡は、いっときの癒しの奇跡よりも大きくて、決してなくならないのだと思うのです。その奇跡中の奇跡を体験した人こそが、この病気に苦しんだ女性と娘を亡くしたヤイロだと思います。

【 Live配信 】2021年6月27日(日)10:30 聖霊降臨後第5主日礼拝  説教 「 恐れないでただ信じなさい 」 浅野 直樹 牧師



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【週報:司式部分】 2021年6月27日  聖霊降臨後第5主日礼拝



聖霊降臨後第5主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子  浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 小山 泉

前  奏  教会讃美歌190番による前奏曲 J.パッヘルベル

初めの歌  教会190( 主のみ名によりて )1節

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

特別の祈り
私たちの造り主、救いの神さま。新しい祭司の群れに入れられた私たちが、誠実にあなたの召しに応え、
福音の証し人として、あなたの約束を全世界に告げ知らせる者にならせてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

第1の朗読 哀歌 3:22-33( 旧約 1289頁 )
第2の朗読 コリントの信徒への手紙二 8:7-15( 新約 334頁 )
ハレルヤ (起立)
福音書の朗読  マルコによる福音書 5:21 – 435:21-43( 新約 70頁 )

みことばの歌  教会306( あるがままわれを )1節・5節

説  教 「 恐れないでただ信じなさい 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌  教会317( 主イェスのちしおと )1節

信仰の告白
使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会399( わが神わが主よ )1 節

後  奏 愛しまつる御神に J.S.バッハ

【Movie】2021年6月27日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【説教・音声版】2021年6月20日(日) 10:30 説教 「 あなたは眠れるか 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第四主日礼拝説教



聖書箇所:マルコによる福音書4章35~41節

本日の福音書の日課は、嵐を鎮められた、いわゆる「奇跡物語り」です。聖書には、数多くの奇跡物語りが記されていますが、その中でも良く知られている物語りではないでしょうか。そして、なんだかふと映像が浮かんでくるような…、̶̶それほど大きくもないボートのような舟が、突然の突風による大波に翻弄されて、慌てふためいている弟子たちの姿が…、イエスさまが波風を叱りつけられると急に静かになって、雲の隙間から光が差し込んでくるような(実際は、どうやら夜間のことのようなので、光は差し込んではこないのでしょうが)̶̶そんな物語りだと思います。

ところで、そんな日課から今日は「あなたは眠れるか」といった説教題をつけさせて頂きました。何だか変な題だ、と思われたかもしれません。では、どうしてそんな題をつけたのか。弟子たちが命の危険を感じるほどの嵐の只中で、イエスさまだけは艫の方でぐっすりと寝ておられた、と記されているからです。これまでも、何度もこの箇所は読んでも来ましたし、説教もしてきた訳ですが、正直、この点についてはそれほど関心をもっていなかったように思います。しかし、このコロナ禍ということもあるのでしょうか。この時のイエスさまの姿と弟子たちの姿とのコントラストに、妙に胸が刺されたように思ったからです。

 みなさんは、ちゃんと眠れていますか? 睡眠の大切さは、以前から言われていることですが、最近では専門のクリニックもあるようで、結構人気だと聞いています。そういう意味では、病気と同じように、健康に重大な影響を及ぼしていると考えられているからでしょう。もちろん、睡眠障害の原因は様々だと思いますが、精神的な側面ということも、やはり無視できないのではないでしょうか。
私は幸い眠れる方です。昔からよく眠る方でした。最近は加齢のせいか、ちょっとしたことで目が覚めてしまうことも多くはなりましたが…。そんな私でも、やはり何度かは眠れぬ夜がありました。悩み、苛立ち、不安…、いろんなことが頭をぐるぐると駆け巡って、結局朝になってしまったことも、数は多くはありませんが、ありました。もちろん、原因は様々です。ちょっとした工夫で眠りの質が変わることだってある。しかし、やはり、ぐっすりと眠れることは幸なのだと思うのです。人は、安心しているからこそ眠れる、というところも、確かにあるからです。

この物語りはガリラヤ湖で起きた出来事です。このガリラヤ湖は、イエスさまが活動拠点にしていたガリラヤ地方にある淡水の湖で、魚も豊富だったことから、昔から漁業で有名だったようです。イエスさまの弟子たちの中にも、そんな元漁師たちが何人もいました。みなさんは、このガリラヤ湖の南にある死海もよくご存知でしょう。世界で最も低いところにある湖です。ですから、ここに流れ込む水は逃げ場がないので、入ってきた水はみんな蒸発してしまい、そのために塩分濃度が極端に濃くなったと言われています。生き物が生息できないそんな死海と真逆のように思われるこのガリラヤ湖ですが、実は、死海に次いで二番目に低い場所にあるのです。水面の高さは、海抜マイナス213メートル。

海の高さから、まだ213メートルも低いところに水面がある。そして、周りは丘のようになっていてすり鉢状なので、結構突風が吹くようなのです。この辺の人なら、みんな良く知っていたことでしょう。しかも、弟子の中には、元漁師、この湖のプロたちもいたわけです。そんな彼らが、この突風で慌てふためいた。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。この湖のプロたちが、これほど慌てるということは、彼らにとってもかつて経験したことのないような荒れよう、まさに命の危険を感じるような状況だったことが想像できます。そんな状態なのに、イエスさまはまだ眠っておられた。少々の嵐ではない。まさに命の危険を感じるような中で、まだ眠っておられた。さすがに、あまりの無頓着ぶりに弟子たちもキレたのかもしれません。

レンブラント・ファン・レイン (1606–1669) The Storm on the Sea of Galilee ガラリアの海の嵐



「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と憤慨しながら、イエスさまを起こしました。すると、やおら起き上がって風を叱りつけられると、あれほど荒れ狂っていた波風が一瞬でおさまり、凪になってしまった。そして、イエスさまは弟子たちに語られた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。深い沈黙に落とされるようです。そう、明らかに違う。嵐の中でさえ眠っておられたイエスさまと、恐れに取り憑かれて狼狽えるしかなかった弟子たちと。その不信仰ぶりに、打ちのめされる思いがいたします。しかし、私たちにも言い分がある。もちろん、自分たちの不信仰ぶりは認めます。情けないとも思う。しかし、あなたと比較されても困ります。あなたのようにはなれません。あんな波を見せられたら、荒れ狂った姿に晒されたら、舟が軋む音を、今にも転覆しかねない様子を体験したら、とても安心して寝てなどいられません。むしろ、恐れまどうことの方が自然なのではないでしょうか、と。

イエスさまにも眠れぬ夜がありました。あの十字架を目前に控えたゲッセマネでの祈りの時です。この時は逆に、弟子たちは眠りこけていた。これから起こるであろうことを理解できずに、肉体の弱さから眠りに落ちてしまっていた。そういう意味では、何でもかんでも眠れるならば良い、ということではないでしょう。そうではなくて、眠れぬ夜もあるのです。そういったことを引き受けなければならない時が。それも、信仰から、神さまに従うところから生まれるのです。

しかし、この時は違った。まだその時ではなかった。だからこそ、イエスさまはたとえ嵐の只中でも眠ることができた。神さまのご計画を信じていたからです。そのご計画に従っておられたからです。神さまに不可能なことは、何一つないのだと。だから、この時は、安心して眠ることができた。
ここで弟子たちに、「まだ信じないのか」と言われた理由について色々と言われているようですが、私は、35節にそのヒントがあるのではないか、と思っています。「その日の夕方になって」。その日とは、前回学んだ譬え話を語られた日を指します。その日、おそらくイエスさまは一日中、多くの人々に教えておられたのでしょう。神の国のことを。

そうです。イエスさまは譬え話で神の国を教えておられたのです。神の国とは、独りでに成長していくものだ。神の国は、最初はからし種のように小さいかもしれないが、やがて信じられないほど大きく成長していくのだ、と。これは、イエスさまご自身のことでもある。イエス・キリストという存在が、神の国を、神さまのご支配をこの地上にもたらすからです。病人を癒し、罪人を回心させ、悪霊を追放されるイエスさまの姿を見れば、神さまのご支配がすでに始まっていることを知ることができるからです。つまり、そこに、その舟の中に、弟子たちの只中にイエスさまがおられる、いてくださるということは、そこに神の国が、神さまのご支配がある、ということです。ならば、それは決して「破滅」で、「滅び」で終わるようなことはないでしょう。

しかし、弟子たちにとっては、それがまだピンと来ていない。うまく結びついていない。確かにイエスさまのことは尊敬するし、立派な方だと思っているけれども、そこにこそ神さまの国がすでにはじまっているとは、理解できていなかったのです。信じることができていなかったのです。だから、ま・だ・信じないのか、です。これほど一緒にいて、誰よりも私のことをよく知っているはずなのに、ま・だ・信じないのか、なのです。イエスさまと神の国とを。

不信仰とは、叱責されるべきものです。もちろん、私たちの誰もが叱られたくはないでしょうが、しかし、それがどんな理由でなされたかで違ってくるはずです。イエスさまの叱責は愛から出ている。だから、嵐を鎮められた上で、救われた上で叱責されるのです。信じたら、恐れなくなったら、嵐を鎮めよう、救おう、ではない。

たといイエスさまと共にいたとしても、この弟子たちのように嵐に遭遇するものです。苦難に遭わない訳ではない。そんな時、とてもイエスさまのようには高枕で眠ることなんてできないのかもしれません。それでも、イエスさまと一緒なら、溺れて死ぬことはないだろう、と試練に耐えることはできるのかもしれません。いいえ、たといその時に、そんな信仰を持てなくても、イエスさまを叩き起こせばいい。あの弟子たちのように。「私たちが溺れてもかまわないのですか」と。

不信仰を咎められるかもしれませんが、それでも私たちを助けてくださるに違いないからです。そして、そんな体験の積み重ねが、イエスさまと神の国とを結びつけていくことに、信じていくことに繋がっていくようにも思うのです。そして、安心して眠ることにも。そう思うのです。

【Movie】2021年6月20日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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