【 Live配信 】2021年10月31日(日)10:30 東教区 宗教改革日礼拝 説教「 真理は自由を与える」松岡俊一郎牧師(東教区長)



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【 説教・音声版】2021年10月24日(日)10:30 聖霊降臨後第22主日礼拝  説教 「 助けを求めてみるもんだ 」 浅野 直樹牧師

2021年10月24日 聖霊降臨後第二十二主日礼拝説教
聖書箇所:マルコによる福音書10章46~52節



今日の福音書の日課は、ひとりの人の救いの出来事・物語りだと受け取っても良いと思います。
ところで、皆さんは誰かに助けを求めたことがお有りでしょうか。日課の、あの目の不自由な人のように…。私自身、考えてみました。案外、思い当たらないものです。もちろん、色々なお願い事はしてきました。こうして欲しい、ああして欲しい、と。しかし、この人のように、真剣に、心の底から誰かに助けを求めたことがあっただろうか。無論、誰の助けも借りずに生きてきた、などとは思っていません。むしろ、多くの人の助けがあったからこそ、ここまで来れたとも思っています。しかし、それは、必ずしも明確な助けを求めた結果ではなかったようにも思うからです。むしろ、周りが気を利かせてくれた結果だ、と言っても良いのかもしれません。

では、なぜ助けを求められなかったのか。こんなことくらいで助けなど呼べない。自分で何とかしなくては。迷惑になるんじゃないか。理由は色々とあります。しかし、もっと探っていくと、そこに「信頼感の欠如」というのもあったように思うのです。どうせ助けを求めたって、何ともならないのだ、と相手の力不足もさることながら、果たしてこのことを受け止めてくれるのだろうか、私の味方であり続けてくれるのだろうか、逆に傷つきはしないだろうか、と心開けずにいたようにも思うからです。

助けを求めるということは、自分の問題・課題を曝け出すことにもなるからです。
今日の福音書に登場してまいります目の不自由な人は、バルティマイと言いました。「ティマイの子」(子というのが「バル」ですので)なので「バルティマイ」です。実は、これは非常に珍しいことなのです。福音書には多くの奇跡物語り、癒しの物語りが記されていますが、そのほとんどに登場人物の名前は記されていないからです。

そういう意味では、非常に珍しい。では、なぜここでわざわざ名前が記されているのか。多くの注解書が記していますように、おそらくこのバルティマイは良く知られた人物だったからでしょう。今日の日課の最後には、「なお道を進まれるイエスに従った」とありますように、この後生涯に渡ってキリスト者として生きたことが伺われます。ある方が記していますように、ひょっとして、この出来事に関しては、このバルティマイ自身があちこちの教会で語っていったのかもしれません。自分の身に起こった出来事として。ですから、「バルティマイ」といえば、「ああ、あの人のことね」って分かったんじゃないかと考えられているわけです。

この人は生まれながらだったかどうかは分かりませんが̶̶ある翻訳によると、「また(再び)見えるように」なりたい、と訳されているからです̶̶長い間、盲目だったのでしょう。当然、当時では普通の職業にはつけませんので、物乞いになるしかなかった。イエスさまがエリコの街を出られてすぐのことのようですので、街の門のすぐそばに座っていたのかもしれません。エリコの街は高低差はありましたがエルサレムから27キロほどしか離れていませんでしたので、多くの巡礼者たちが行き交っていたようです。その人たちからの施しを期待して、このエリコの道沿いには多くの物乞いたちが並んでいたとも言われています。ともかく、ユダヤの律法では施しは徳を積むことになりますので、生活にはそれほど困っていなかったかもしれません。しかし、だからといって、彼は今の生活に満足できていたわけではなかったでしょう。できれば、他の人たちのように、普通に、自由に生きていきたかったと思っていたに違いない。

目の不自由な人は、その分聴力が優れていると言われます。バルティマイもそうだったに違いありません。彼は目は不自由だったかもしれませんが、街に溢れかえっていた噂話には詳しかったかもしれない。そこに、おそらくイエスさまの話も出ていたでしょう。

今日もいつもと変わらない朝を迎えたのかもしれません。おそらく、いつも世話をしてくれている人が定位置に連れてきてくれたのでしょう。今日もまた、いつもと変わらない一日が始まる。真っ暗な一日が。太陽の熱で肌が焼かれる一日が。誰かも分からない人の善意に頼るしかない一日が。なんの当てもない、確証もない一日が。ただ座っていることしかできない不自由な一日が。空しい一日が。なんら希望を見いだせない一日が始まる。そう思っていたのかもしれない。すると、いつもとは違う街の様子が聞こえてきました。

多くの人の塊が近づいてくる。しかも、どんどんとその数は増えているようです。みんな口々にいろんなことを言っています。おい、見に行ってみようぜ、といった野次馬的な言葉も聞こえてくる。ご一緒します、といった敬虔深い言葉も聞こえてくる。何事が起こったのだろうか、彼は考えたでしょう。すると、「イエス」という言葉が飛び込んできました。イエス? ひょっとすると、あの噂のナザレのイエスのことか? 彼は、咄嗟に叫んだに違いありません。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」。彼は、何度も何度も叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐んでください」。

これは、バルティマイにとっても、ある種の賭けだったでしょう。なぜなら、単なる噂でしかなかったからです。何の確証もない。癒していただけるといった保証もない。むしろ、反対に、それはお前の罪が招いた罰なのだ、と叱責されてしまうかもしれません。これまで、多くの人々から散々聞かされてきたように…。賭けだった。しかし、恐らく彼には、イエスさまに賭ける十分な根拠があったのでしょう。それは、第一に自分の置かれている現実です。この機を逃したら、一生この現実から抜け出せないと思った。もう一つは、彼が聞いてきた噂は、単に奇跡だけの噂ではなかった。イエス・キリストという人物の言動、為人についても聞いてきた。そして、そんな噂を聴きながら、ぜひ会ってみたい、との思いを膨らませてきたのではないか。そう思います。

しかし、すんなりとは行きません。人々の雑踏に自分の声はかき消されていきます。そして、近くにいる人々は口々に、自分の声を殺そうとさえする。「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」。これも、深く考えさせられることです。イエスさまに向けられた声を黙らせようとしてはいないだろうか、と。ともかく、それでも彼は諦めませんでした。ますます叫び続けた。そして、ついに、その声が勝った。「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。彼は、イエスさまに癒していただきました。そして、イエスさまはこう語られた。

「あなたの信仰があなたを救った」と。最初に、このバルティマイは教会にとっては良く知られた人物だったのではないか、ということを話しました。しかし、では、なぜそれほど彼が教会で有名になったかといえば、彼のこの出来事に多くのキリスト者たちが共感したからです。もちろん、皆が皆、彼のように奇跡を、癒しを経験したわけではなかったでしょう。しかし、彼のこの救いのプロセスに、何ともいえない共感が生まれたのだと思うのです。私も、その一人です。

最初は、噂でしかなかった。何の確証もなかった。むしろ、不安さえあった。果たして、本当に私は救われるのだろうか、と。こんな私を受け入れてくださるのだろうか、と。お前など救われる値打ちなんかないのだ、と門前払いを食うのではないか、と。それでも、今の自分を変えたかった。今の現実を変えたかった。何とかしたかった。すがるような思いで、賭けのような覚悟で、勇気を振り絞って救いを求めていた。しかし、何も起こらなかった。内に、外に、そんな自分の思いを殺すような何かが迫ってきた。どうせ無駄だ。お前の声など届かないのだ。お前のことなど心に留められていないのだ、と。怯む思いがした。しかし、どうしても諦められなかった。そして、ついに…。そんな共感。

初めに、誰かに助けを求めたことがありますか、と問いました。皆さんがどうかは分かりませんが、少なくとも私自身はあまり思い当たらなかった。しかし、神さまには、イエスさまには、助けを…、本当に腹を割って、心を開いて助けを求めてきたな、と思い起こします。

イエスさまの「あなたの信仰があなたを救った」との言葉は、バルティマイのこの熱心さが、信仰深さが救いを勝ち取ったかのように聞こえますが、必ずしもそうではない、と思います。私たちは、全てが神さまの恵みでしかないことを信じています。この信仰でさえも、神さまから与えられた賜物です。しかし、その上で、このバルティマイのような物語りもあるということを忘れないでいたいと思うのです。

バルティマイはこの後、イエスさまに従う人生をはじめました。イエスさまは「行きなさい」、つまり家に帰りなさい、と言われたにも関わらず、です。彼は、最後の最後までイエスさまの後を、その道を歩み続けた。そこには、あの私の決断が、あの熱心さが、あの信仰深さが、などの思いは微塵も感じられないのです。彼は、その全ても恵み、神さまの憐れみと感じながら生きていったことでしょう。それも、覚えていきたいと思います。

【 Live配信 】2021年10月24日(日)10:30 聖霊降臨後第22主日礼拝  説教 「 助けを求めてみるもんだ 」 浅野 直樹牧師



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【週報:司式部分】 2021年10月24日



聖霊降臨後第 22 主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹 牧師
奏  楽

開会の部
前 奏

初めの歌 教会讃美歌158(主イェスのみ名こそ)1節

1.主イェスのみ名こそ ちからなれや、
み使いこぞりて 主とあがめよ、
み使いこぞりて 主とあがめよ。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
愛の神さま。
あなたは私たちの脆さや欠点をことごとくご存じです。
私たちにそれを克服する力を与え、滅びの力から守り、
生涯、救いの道を歩ませてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 エレミヤ書 31:7-9( 旧約 1231 頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 7:23-28( 新約 409 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:46-52( 新約 83 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌295(ひかりにそむき) 1節

1.ひかりにそむき 閉ざす門を
おとずれたもう 客人あり。
神のしもべの 名にそむきて
などむかえざる 神のみ子を。

 
説 教 「 助けを求めてみるもんだ 」 浅野 直樹牧師

感謝の歌 教会讃美歌313(主はへりくだりて) 1節

1.主はへりくだりて 罪人のために
十字架の苦しみ 耐え忍びたもう。
飼いぬし主イェスよ とうとき血により
天なるみ国に 導きたまえや。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌398(なにをもおしまず) 5節6節

5.主イェスは同胞ゆえ われらをきよくなし、
み国をつがせたもう こよなき喜びよ。

6.み国に召さるるとき 主イェスとともに住まん。
ああ主よ見させたまえ わが目にみさかえを。

後 奏

【Movie】2021年10月17日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 Live配信 】2021年10月17日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 イエスが与えるのは 」 三浦 慎里子 神学生



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【週報:司式部分】 2021年10月17日



聖霊降臨後第 21 主日礼拝

司  式 浅野 直樹
聖書朗読 浅野 直樹 三浦 慎里子
説  教 三浦 慎里子
奏  楽 萩森 英明

開会の部
前 奏 「ただ神にのみゆだねまつる者は」G.Bohm

初めの歌 教会讃美歌203(ちちのかみよ)1節
1.父の神よ、 夜は去りて
われらいま み前に立ち
さんびのうたを かしこみ捧ぐ
声もたかく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
主よ、憐れんでください。
危険が私たちを取り囲み、誘惑は私たちに牙をむいています。
私たちに、この世の挑戦に決然として臨む勇気を与えてください。
挫けるときには赦しを、傷付くときには癒やしを、
謙虚に叫び求めることができるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 イザヤ書 53:4-12( 旧約  1149 頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 5:1-10( 新約 405 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:35-45( 新約 82 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌271(主はきょうかいの) 1節
2.主は教会の 基となり、
みことばをもて これをきよめ、
われらを死より ときはなちて、
仕うる民と なしたまえり。

説 教 「 イエスが与えるのは 」 三浦 慎里子 神学生

感謝の歌 教会讃美歌285(シオンよ いそぎつたえよ) 2節
2.すべての民らに告げよ 「み神は愛にませば
われらの救いのために ひとり子をたまえり」と。
よろこびのおとずれ いざやいそぎ世につたえん。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌398(なにをもおしまず) 4節

4.救いのたまもの 主イェスの血しお
恵みといのちを 願いもとめて、
み旨にしたがい 雄々しく進み
栄えの冠を よろこび受けよ。

後 奏 「ああ神よ天よりみそなわし」F.W.Zachow

【Movie】2021年10月17日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【 説教・音声版】2021年10月17日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 イエスが与えるのは 」 三浦 慎里子

聖霊降臨後第21主日


イザヤ53:4-12 ヘブ5:1-10 マルコ10:35-45

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」本日の福音書のみことばの中でイエス様が放たれたこの言葉が、胸に刺さります。なぜイエス様はこのようなことをおっしゃるのでしょうか。みことばから聞いてまいりましょう。

イエス様と弟子たちの一行は、エルサレムに近づいてきました。本日の箇所には入っていませんが、この場面のすぐ前に、イエス様は3回目となる受難と復活の予告をなさいました。前の2回と同じく、ご自身が祭司長や律法学者たちに引き渡され、殺され、三日後に復活すると、弟子たちに告げられたのです。

本日の福音書で描かれるのは、この3回目の受難と復活の予告がなされたすぐ後の出来事ということになります。イエス様の弟子たちの中でもペトロと並んでイエス様が特に可愛がっておられた、ヤコブと弟のヨハネが登場します。二人は、イエス様から「ボアネルゲス(雷の子ら)」というあだ名をつけられていたほどに激しい性格だったという話をよく聞きますが、彼らは野心家でもあったようです。この兄弟がイエス様の所に来て願ったことは、イエス様が栄光の座につかれる時、自分たちをイエス様の右と左に座らせてほしいということでした。

なかなかに大胆なお願いをするものだなと思います。王様の隣に座るということは当時も今も特別なことです。それは、権力や威厳や栄光を意味しています。イエス様が何度も受難と復活の予告をなさったことを、彼らなりに真剣に受け止めたからこそ、二人は思い切った願い事をしに来たのでしょう。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」とイエス様から問われ、「できます」と答えるところからも、イエス様に従って行こうとする二人の決意が伝わってきます。しかし、エルサレムで待ち受けている苦しみを前に、二人が固める覚悟は、栄光の座への期待と強く結びついたものでした。

イエス様と共にどんな苦難も受けよう!イエス様が王となられた暁には、私たちも栄光の座に引き上げていただけるのだ。となれば、今のうちにイエス様に話を通しておかなければ。二人はそう思っていたのではないでしょうか。他の弟子たちは、皆を出し抜こうとしたヤコブとヨハネに腹を立てたと書かれています。他の弟子たちも、きっと二人と同じ気持ちだったのでしょう。

聖書を読む私たちは、ヤコブとヨハネの姿、そして腹を立てた他の弟子たちの姿の中に、自分自身を見つけます。自分を他人と比較して優越感に浸ったり、成功しようとする人を心のどこかで妬んだりする気持ちは、誰にでもあります。今の時代に偉くなりたいと思う人は少ないのかもしれませんが、偉くなりたいと思っていないとしても、私たちは職場で、学校で、家庭で、あらゆる人間関係の中で、認められたいと思っているし、努力が報われることを願うものではないでしょうか。頑張れば結果が付いてくると思えばこそ、試練にも耐えることができるのです。ところが、イエス様はこのように言われます。「私の右や左に誰が座るかは、私が決めることではない。」聖書は、ただ一つの目的に向かって歩まれているイエス様を指し示します。それは、私たちに与えられている特別な贈り物です。イエス様は弟子たちを呼び寄せて言われます。

部分:幼子イエス(ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 「大工の聖ヨセフ」) (1640)



「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである。」イエス様が私たちに与えてくださるもの。それは、華々しい栄光や権力、見返りなど、私たちが求めているものよりはるかに大きなものです。イエス様が与えてくださるのは、他でもないイエス様ご自身なのです。多くの人の身代金として、と言われます。身代金は、奴隷や人質を解放するために支払われるものです。罪に囚われた状態の私たちを解放するため、救いに与らせるために、自分の命を犠牲にする。私はそのために来たのだ、と言われるのです。

イエス様は、十字架の死によって、私たちにご自分を与え尽くされました。何の見返りもなく、ただ神の御心に従うためにです。イエス様の弟子として、イエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受ける洗礼を受けるということは、イエス様の生き方を自分の生き方とすることです。これは、私たちにとって厳しい教えです。見返りを求め、自分のことに心を煩わせてばかりいるこんな自分は、到底イエス様の弟子であるなどと言うことはできない。天の国に入ることなんてできない。私たちは、弱く小さな罪人に過ぎない自分の姿を痛いほど認識します。でも、弱く小さな罪人だからこそ、イエス様に救っていただくことができるのです。

本日の使徒書、ヘブライ人への手紙5章2節。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるのです。」イエス様は、神の御子でありながら、私たちと同じ人となり、私たちと同じ悩み苦しみをこの世界で味わわれました。私たちが囚われている苦しみをご自身の身をもって分かっておられるからこそ、私たちを決してお見捨てになることはありません。

キリスト教において、イエス・キリストのことを預言していると理解されているイザヤ書53章5節からお読みします。「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」イエス様は私たちの救いのためにご自分の命を与えてくださるお方です。私たちはイエス様から命を受け取ります。

それは、私たちが何か良いことをしたからもらえるご褒美ではありません。神様が私たちを愛されるから、救われて欲しいから、与えてくださる恵みです。そして、恵みの命を与えるイエス様は願っておられます。弟子である私たちが、皆に仕える者となり、すべての人の僕となることを。私たちは、新しい命をいただいて、既に神様のものとして生きています。私たちは、互いに仕え合い、平和をつくる者へと変えられているのです。

この救いの業を喜びをもって受け止め、今日もまた、このむさしの教会からそれぞれの場所へ、隣人のもとへと遣わされていきましょう。

2021年10月17日-13時より ZOOM配信-「ポスト・コロナ 社会と教会」:2021年いずみ教会共同体一日修養会

「ポスト・コロナ 社会と教会」



講演:江口 再起ルター研究所 所長

オンラインZoom+対面式(定員35名)

配信/会場:むさしの教会

開会礼拝 13:00~13:15 浅野 直樹Sr.牧師
講  演 13:20~14:00 江口 再起ルター研究所 所長
質疑応答 14:00~14:15 参加者のQ&Aタイム
閉会礼拝 14:20~14:30 浅野 直樹Jr.牧師
主催:いずみ教会共同体(市ヶ谷・スオミ・むさしの)


Zoomミーティングに参加する(12時50分から入室可能)
https://us06web.zoom.us/j/85922855760?pwd=a1hoWitPU0hqQXRCZ0ZCcHlUczVTQT09

■ミーティングID: 859 2285 5760 ■ パスコード: 128293

ミーティングQRコード


江口再起
1947年生。1976年JELC教職按手。その後、博多教会、藤が丘教会で牧会。
1999年より2015年まで東京女子大学教授。
2015年より2019年までルーテル学院大学教授。
現在、日本ルーテル神学校でルター神学、教義学等を教えている。
ルター研究所所長、日本ルター学会理事長。
著書に『神の仮面~ルターと現代世界』、
『ルターの脱構築~宗教改革500年とポスト近代』等がある。

 

 

2021 年度「宣教フォーラム」スピンオフ版アンケート

主のみ名を讃美いたします。

今年度の「宣教フォーラム」はコロナ感染状況を鑑み
スピンオフ版としてWeb 開催といたしました。
そこで、今回の企画でありますシンポジウムを進めるにあたり皆さんの
お気持ちを伺うアンケートを実施させて頂きます。
ご多忙のことろ恐れ入りますが、
ご協力を賜りますようよろしくお願いいたします。

第26回宣教フォーラム準備委員会
委員長田村忠夫
役員一同
ネットアンケートURL :
① ↓ 下記をクリックするとアンケートフォームへ移動します。
https://forms.gle/DD7yE8fZUFVaiTt78

② ↓ スマホからもご入力頂けます。下記のQRコードをご利用ください。


③ ↓ 下記をクリックするとアンケートPDFページへ移動します。
ダウンロードしてお使い下さい。
アンケート用PDF

ご協力をよろしくお願いいたします。

*アンケート結果は、講師の先生にお渡しシンポジュウムの参考にしていただきます。
また、終了後に発行されます報告書にも掲載しますが、それ以外での使用はいたしません。

*アンケート用紙は第26 回宣教フォーラム準備委員会で適切に管理いたします。
*アンケートに関するご質問等ありましたら
senkyoforum.survey@gmail.com 】までお願いいたします。
尚、総会資料の詳細の内容につきましては所属教会の牧師にお尋ねください。


 

2021 年度第26 回「宣教フォーラム」スピンオフ版(ネット配信)

テーマ:「コロナ禍で信徒みんなで考えるルーテル教会の将来像」
     ~ポップフィルターを外して語り合おう~

1)ご参加⽅法
①所属各教会から参加 ②ご⾃宅や他の場所から⾃由に参加

2)お申し込み⽅法
・第1 部/午前:基調講演は下記URL からお⼊りください。(申込みは必要ありません)
https://youtu.be/2R-OrpaOvAM で配信(YouTube)いたします。

・第2 部/午後:シンポジウムは、Zoom 配信となりますので別の申し込みが必要です。
ご⾃宅や他の場所からの参加をご希望の⽅は、名前・所属教会名を明記の上、
参加希望とお書き添え
senkyoforum@gmail.com へお申し込みください。後⽇ご招待のURL をお送りします。

◉申込み受付:10 ⽉11 ⽇ 〜 締め切り:11 ⽉10 ⽇まで

3)開催⽇時・スケジュール
・⽇時:11 ⽉20 ⽇(⼟)
・時間: 10 時15 分〜14 時30 分
・⽅法:第1 部/午前:YouTube 配信(⾃由にご視聴可)。第2 部/午後:Zoom 配信(申し込み制)

11/20 タイムスケジュール ————————————————–

午前の部
10時15分 宣教フォーラム委員⻑挨拶
10時20分 奏楽 開会礼拝(祈りとショートメッセージ)
      佐藤 和宏牧師(藤が丘教会)
10時40分 東教区⻑挨拶 松岡 俊⼀郎牧師(⼤岡⼭教会)
10時45分 講演1 宮本 新牧師(⽇本ルーテル神学校専任講師)
~11時20分 テーマ:「ルターと感染症~それでも私は⽣きてゆく」
11時25分 講演2 松⾕ 信司⽒(キリスト新聞社 編集⻑)
~12時00分 テーマ:「浮き彫りになった教会の限界と可能性」

【昼⾷・休憩】

午後の部
13時00分 シンポジウム開始 司会:松岡牧師 パネリスト:宮本牧師 松⾕⽒
      冒頭:松岡牧師より「東教区の現状から」お話
      テーマ:アンケート結果、東教区の現状報告から
     「ルーテル教会の将来像を考える」
14時00分 質疑応答
14時10分 奏楽 閉会礼拝(祈りとショートメッセージ)
      浅野 直樹Jr.牧師(むさしの教会)
14時30分 宣教フォーラム副委員⻑挨拶

終 了

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【 Live配信 】2021年10月10日(日)10:30 聖霊降臨後第20主日礼拝  説教 「 主のまなざし 」中村 朝美 牧師



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【週報:司式部分】 2021年10月10日

聖霊降臨後第 20 主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子
説  教 中村 朝美 牧師
奏  楽 上村 朋子

開会の部
前 奏  麗しき門を開きたまえ  W.Hennig

初めの歌 教会讃美歌188(わがたまよろこび主を)1節

1.わがたまよろこび 主を待ちのぞむ。
とびらを開きて 迎えたまえや、
ひかりと恵み うちにかがやく。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
天の父なる神さま。
あなたは私たちに「あなたの父と母を敬え」と命じ、
主イエスはご自分の家族の中でその模範を示されました。
聖霊を注いで、私たちを自分の家族の中で、神の家族である教会の中で、
すべての民族の中で、互いに愛し尊敬しあう者にしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 アモス書 5:6-7,10-15( 旧約 1434 頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 4:12-16( 新約 405 頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:17-31( 新約 81 頁 )

みことばの歌 教会讃美歌360 (かみをほめまつれ) 1節

1.神をほめまつれ、 恵みとまことは
ときわに絶えせず み神のものなり。 アーメン。

説 教 「 主のまなざし 」 中村 朝美 牧師

感謝の歌 教会讃美歌289 (すべてのひとに) 1節

1.すべてのひとに 宣べつたえよ
神のたまえる よき知らせを。
父なる神は み子をくだし
救いのみちを ひらきませり。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌328 (主イエスにしたがう) 1節

1.主イェスに従う 群れのさちよ、
めぐみの主の手に たよりゆけば、
なやみのときにも 主近くいまして
のぞみは消ゆとも 愛は尽きず。

後 奏 プレリュードとフーガ 変ロ長調 J.S.Bach

【 説教・音声版】2021年10月10日(日)10:30 聖霊降臨後第21主日礼拝  説教 「 主のまなざし 」 中村 朝美 牧師

マルコ10:17-31聖霊降臨後第20


アモス5:6-7 ヘブライ4:12-16

私たちの父なる神と 主イエス・キリストから 恵みと平安とがあなた方にありますように。

私は35年程前、賀来先生の時代に、この場に立たせて頂きましたので、今日で2度目となります。その日の様子、雰囲気は今でも鮮明に覚えているのですが、何を、どの箇所から語ったのかは全く覚えていません。賀来先生は、むさしの教会の歴史の中で初めて女性からの説教を聞くということで皆も緊張しているのでしょう、とおっしゃっていました。その言葉通り、教会全体の空気が違っていました。針を落としても聞こえるくらいシーンとしていました。

礼拝が終わりますと、今は亡き川上範夫さんが真っ先に私のところに、このような声をかけてくださいました。「内村さん(旧姓です)、久し振りにきれいな日本語が聞けた。ありがとう。」 とても複雑な思いでした。

当時も神学生が何人かいまして、司式の補助はさせていただいていましたが、説教は神学校生になってからでした。私も神学校生になって初めてここに立たせていただき、そして、現役の牧師生活の最終段階で、またここに立たせていただけていることに感謝しております。

 

学生時代むさしの教会で、牧会に出てからも多くの方々との様々な出会いがありそこで多くのことを学び、教えられました。

福音書は、イエスさまと出会った多くの人々のことを伝えています。この出会いによって、ある人たちはイエスさまに従い弟子になりました。信仰をほめていただいた人、その信仰にイエスさまが驚かれたこともありました。多くの人々は自分の生活の場に戻ってゆきました。その人々の、その後について何も語られていませんので想像するしかありませんが、慰めに、喜びに包まれて生活していったに違いないでしょう。

しかしながら何事にも例外がありますように、本日の日課は、その例外が語られています。イエスさまを求め、そして出会ったにもかかわらず、悲しみながら去っていったこの男の人の話を人々は忘れることができなかったと思われます。

 

イエスさまに、確信の持てない自分に確かな答えを求めて走り寄って来た人は、

「あなたに欠けているものが一つある」と、慈しみに満ちた言葉と眼差しを受けながらも、気を落とし、悲しみながら立ち去って行きました。

この出来事は、マタイ、ルカ福音書にも並行記事が伝えられています。そのいずれも、イエスさまが幼子を祝福した後の出来事として伝えています。マタイ福音書は「金持ちの青年」、ルカ福音書は「金持ちの議員」、そしてマルコ福音書では「金持ちの男」というタイトルが付けられています。どの福音書もこの男の人を、「金持ちの」と説明しています。3つの福音書を併せ見てゆきますと、この人は資産家で、ルカ福音書では「議員」であると語っていますので社会的地位が安定し、しかも、幼い時からユダヤ人としての教養を身に着け、礼儀正しい、非の打ちどころのない人物であるように紹介されています。

 

ユダヤ人にとって、言葉が話せるようになると、まず暗唱させられるのが「十戒」だと言われています。八王子教会の礼拝は、ルターの小教理問答書の交読から始まります。10数年前の高井先生の時代から始まったようです。十戒、主の祈り、聖なる洗礼の礼典、聖晩餐を、毎回、少しずつ交読しています。八王子教会の特徴の一つと言えると思います。

ユダヤ教では、モーセの十戒を中心にした律法を守ることが「永遠のいのちを受け継ぐこと」と教えられていました。マルコ福音書においては、「永遠のいのち」という言葉は、この箇所と10章にしかない、それだけに特別な意味を持つ言葉として使われています。

イエスさまのもとに走り寄り、ひざまずいて尋ねたこの人の悩みは、幼い時から十戒を忠実に守っているのにもかかわらず、救いの確信が持てない、ということでした。

「何をすれば永遠のいのちを受けることができるのか」は、切実な問いでありました。

イエスさまは善い先生であるから、その答えを教えてもらえる、永遠のいのちに至る特別な業を教えてもらえると期待していたのでしょう。

イエスさまはこの人の問いを、『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』と、神さまだけがそれに答えられると、まず、神さまに向くようにと促されました。そして、神さまの教えられる命への道は十戒に込められていることを語られました。その答えはこの人にとって意外であり、望んでいたものではありませんでした。

彼は、今まで守ってきたことだけでは未だ、何か足りないと思っていたからでした。

イエスさまの言われる「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え」、これらは十戒の中の「人間関係の戒め」です。そのようなことは幼い時から守って来た、と答えています。

イエスさまは、ご自分のことを「善い先生」と呼んだこの人に、神さまに対して人間が守るべき戒め、「あなたは私の他に何ものをも神としてはならない」、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」との、神さまと自分の関係に目を向けるように促されたのでしょう。

そして、「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。

聖書には「一つ」という言葉がしばしば出てきます。

マルタがもてなしで忙しくしている時、マリアは主の足もとで話に聞き入っている、そのことでイエスさまに不満を言うと、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」(ルカ11:38~)と教えられました。

生まれつきの盲人だった人がイエスさまの言われた通り、シロアムの池で泥を塗られた目を洗うと見えるようになりました。そのことでユダヤ人たちに尋問された時、このように答えています。

「あの方が罪人かどうか、私には分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです。「(ヨハネ9章)

ルカ福音書の並行記事(18:22)では、「あなたに欠けていることがまだ一つある」となっています。おそらくこの男性は、この「一つ」のことさえ分かれば永遠のいのちを得ることになると、積み重ねてきてたものの上に何か一つを乗せればと、ずっと考えていたのでしょう。

ハインリヒ・フェルディナント・ホフマン (1824–1911) ゲッセマのキリスト1886年 Riverside Church, ニューヨーク.



この時のイエスさまは、十字架への道を真っすぐに進んで行かれていました。ということは、ユダヤの指導者たちからは、危ない存在として見られていた時期です。

そのようなイエスさまに、ひれ伏して願ったということは、本当に切羽詰まっていたのでしょう。けれども、この人は、イエスさまの慈しみ溢れる眼差しを受け入れることができませんでした。「持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

この男の人が忘れている最も大切なことに気付いてもらいたい、という思いが含まれている言葉でした。

イエスさまのところに来るまでに、この人は助けを求めている人々への施しはしていたでしょう。イエスさまのこの言葉は、お金を所有するということに対しての厳しさを語っているのではないと思えるのです。確かに私たちは、しばしばお金の魅力に取りつかれることもある、お金は危険なものであることも知っています。けれどもイエスさまがこの箇所で伝えようとしたのは、それとは別なことだったと思います。

この人は、イエスさまの慈愛に満ちた眼差しを受けながらも、悲しみながら立ち去って行きました。マルコはその理由を、「たくさんの財産を持っていたからである」と語ります。もし、イエスさまの言われる通り、持っているものを全て売り払ったとしますと、この人は施しを受ける側に、貧しい者の側になります。この青年は、それができなかったのでしょう。釜ヶ崎の喜望の家の8月のニュースレターの1面に、「炊き出しに並ぶ人の列」というタイトルの写真が載っていました。炊き出しに並ぶ人々の真ん中にイエスさまの姿が描かれています。この人は、炊き出しの列に並ぶ側に、自分を置くことができなかったのでした。「貧しい者と共に生きる」という、イエスさまの招きに応えられなかったのでした。

 

この人は律法で決められていることを守ってきました。けれどもそれは、財産なり、地位などを“持ち続けること”を前提にしていました。それが、「先生、そういうことは皆、小さい時から守ってきました」という言葉に表れています。

この人と似たような境遇の人物が聖書の中にいました。

「私は生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストの故に損失と見直すようになったのです。…」(フィリピ3:5-9)

パウロは、「持つことを大切にする生き方」から、「存在を大切にする生き方」へと、イエスさまとの出会いによって変えられていきました。

 

気を落としながら立ち去って行く男の人に注がれたイエスさまのまなざしは、この男性が再びご自分の前に現れることを期待されていたのだと思うのです。そして、何よりも、神の愛に目を向けることを願われたのでしょう。神の愛、「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」手放すことの意味に気付くことを望まれたのだと思うのです。

ユダヤ人の考えでは、財産というものは決して悪いものではありませんでした。

財産は基本的に神さまの祝福の「しるし」でした。ヨブ記を読むとそれがはっきりしています。財産、子孫の繁栄、長寿、これらの祝福は旧約聖書では当たり前のことでした。それ故に、「金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスさまの言葉に弟子たちは驚いたのでした。誰もが、自分の努力では神の国に入ることができない。その難しさに弟子たちは、では誰が救われるのだろうか」と、ますます驚くのでありました。

金持ちが神の国に入れない理由は、はっきりと示されていません。

けれども考えられることの一つに、お金があれば、どうしてもそれに頼ってしまう、ということがあるのかも知れません。イエスさまが語られる「神の国」は、自分の持っているものに頼って、それで到達するようなものではないのです。この人は、人間のできることを基にして生きる世界の中にいました。イエスさまはこの男性を、そうではない世界、善い行いを積み重ねて救いを求める生き方から解放されること。救いを与えて下さる神さまの眼差しに心を向ける。この人は、それに気付けなかったのでした。持っているものに頼る生き方ではなく、隣人に心を開くように招かれたのでした。

 

この物語が子どもを祝福された出来事の後に語られている、ということに深い意味が込められているように思います。イエスさまのもとに連れて来られた子どもたちは、この男性と対極にいる存在です。財産も無ければ、社会的な地位も力もありません。ユダヤ教の教えを、まだきちんと受けていないのです。まして、他者に与えられるようなものは何一つ持っていません。そのような子どもたちをイエスさまは近くに呼び寄せ、抱き上げてくださいました。

『神は何でもできるからだ』、このイエスさまの言葉に私たち自身を委ねる、そのような生き方に思い巡しながら、今週1週間を過ごしたいと思います。

 

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

【Movie】2021年10月10日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」



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【Movie】2021年10月3日 9時30分「子どもと家族の礼拝 」

おはなし「サムエル」聖書箇所:サムエル記上3章 浅野直樹 牧師



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【 Live配信 】2021年10月3日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝  説教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師



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【週報:司式部分】 2021年10月3日



聖霊降臨後第 19 主日礼拝

司  式 三浦 慎里子
聖書朗読 三浦 慎里子 浅野 直樹
説  教 浅野 直樹
奏  楽 中山 康子

開会の部
前 奏  教会讃美歌164番のメロディに基づいた前奏曲  H.ビーツ曲

初めの歌 教会讃美歌164(わがたまよ、主をほめよ)1節

1. わがたまよ、 主をほめよ いのちある限り
大いなる主のみ名を ほめたたえまつれ。
いのちのもとなる み神をたたえよ。
ハレルヤ、 ハレルヤ。 アーメン。

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

特別の祈り
全能・永遠の神さま。
あなたは、私たちの弱さや問題をことごとく知っておられます。
あなたの力強い愛で私たちを助け、私たちが弱さを踏み越え、
堅い信仰を告白できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

第1の朗読 創世記2:18-24( 旧約 3頁 )
第2の朗読 へブライ人への手紙 1:1-4,2:5-12( 新約 401頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マルコによる福音書 10:2-16( 新約 81頁 )

みことばのうた 教会讃美歌303 (このまま、われを愛し)

1. このまま、 われを愛し召したもぅ。
罪と汚れかこむとも 深き悩みおそうとも
主のもとに迎えたもぅ、 このまま。

説 教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌 教会讃美歌470 (こころいたみ) 1節

1. 心いたみ悩むもの 恵みの座に来たれや、
「主の力のいやし得ぬ 悲しみは世にはなし」。

信仰の告白 使徒信条
奉献の部
派遣の部

派遣の歌 教会讃美歌 414(やさしき道しるべの)4節

4. み恵みたしかなれば、今なお
わが主は導きたもう 旅路を、
み国の朝 あけ初(そ)め み顔を 仰ぐ日まで。アーメン。

後 奏 変イ長調の後奏曲  J.ディーボルト曲

【 説教・音声版】2021年10月3日(日)10:30 聖霊降臨後第19主日礼拝  説教 「 神の御心を知るお方 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十九主日礼拝説教


聖書箇所:マルコによる福音書10章2~16節

「信仰とは生活である」。以前、そんなことをお話ししたことがあると思います。教会に来る時だけが信仰の歩みではありません。生活の隅々までが信仰の歩みである、ということです。何を今更、と思われるかもしれません。しかし、私は、ここに日本のキリスト教の弱点があるのではないか、と長年考えてきました。いいえ、感じてきた、というのが実情でしょう。信仰理解と実生活とが乖離しているのではないか、と。

しかし、それは、必ずしもキリスト者としての模範的な生き方を意味しないのだと思います。模範的な生き方ができているかどうか、ということではない。むしろ、模範的になりえないことに対する悩みです。信仰者としての悩みを抱えながら生きているか、ということです。信仰が生活になるということは、そういうことではないか。悩みつつ生きる、ということが、生きた信仰と言えるのではないか。私は、そう思っています。

今日の日課は、結婚と離婚について、また子どもについて、ということが主なテーマになっていると思います。そして、次回の日課では、財産について、ということが取り上げられている。結婚、離婚、子ども、財産…。まさしく生活そのものです。私たちキリスト
者の生活そのものについてイエスさまは語っておられるのです。

まずは、結婚と離婚について。これは、ファリサイ派の問いから発生しました。これも良くあることですが、純粋な問いから発生したのではなく、ある種悪意からなされたものです。イエスさまの答え如何によっては、ツッコミどころが満載だと思ったからでしょう。いつの時代でも、権力闘争、主導権争い、政治の世界は変わらない、ということでしょうか。彼らはこう質問した。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。後程の「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」との回答から分かるように、ある意味、答えは明白です。律法では離縁・離婚は認められていたからです。

しかし、彼らはイエスさまの答えを待っていました。もし、許されていないと答えたならば、「ほら見たことか。こいつは人々を教え回っているようだが、律法に反することを教えているのだ」と聴衆の前で非難できる。逆に、許されていると答えたならば、では、どんな時に許されているのか、とツッコムことができる。

実は、これは申命記24章1節に起因するものでした。こう書いてある。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」。そこで問題になるのが、では「恥ずべきこと」とは一体何か、ということです。その理解の仕方について、当時は大きく二つのグループに分かれていた、と言われています。一つはより厳格なグループ。浮気などの不貞行為を除いては一切認められない、という立場です。もう一つは、ゆるいグループ。極端な例でしょうが、料理が下手ということだけで当てはまると考えていたようです。もしイエスさまがどちらかに近い判断を下されたとすれば、少なくとも今の人気は切り崩せると考えたのかもしれません。厳格な理解を示せば、おそらく多くの男性の支持を失うでしょうし、ゆるい理解を示せば、女性たちは去っていくかもしれません。なんだか、与野党の攻防のようです。

鈴木浩先生が『ガリラヤへ行け』(これは、マルコ福音書の注解書のようなものですが、非常に良い本だと思います)という著書を出されていますが、このように記されていました。「実は、申命記の規定は弱い立場の女性を保護する目的を持っていた。…当時のユダヤ人の間では、結婚の当事者は対等ではなかった。女は自分の意志で『結婚する』のではなく、父親の意志で『結婚させられた』のである。そのような一方的な慣習の中で、男の身勝手さを幾分かでも緩和させようとしたのが、この規定であった」。今日のマルコには記されていませんが、平行箇所であるマタイ福音書では、イエスさまの回答を聞いた弟子たちがこのような反応をしたことが記されています。

19章10節「弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った」。ここに至っても、男性の優位性を手放したくないのです。ともかく、いずれにしても、ここにあるのは、男性の身勝手さに違いない。男性優位の立場に違いない。結婚関係では、それは譲れない、と思っている。イエスさまの話を聞いた弟子たちでさえも、そこは引けないと思っている。しかし、イエスさまはどう語られたのか。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。

しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」。イエスさまは彼らの、いいえ、私たちの議論、関心事、つまり、どこまでが許されて、どこからがダメなのか、これは正当化できることなのか、できないことなのか、どちらが優位で優先されるべきなのか、そういった現実生活の関心事、課題を超えて本質へと、つまり本来の神さまの御心へと私たちを向かわせておられるのです。

今日の旧約の日課は、創造物語の一つでした。確かに、ここには男性の「助け手」としての女性、男性の肋骨から作られた女性、といった男性優位的なところも見えなくはないですが、しかし、それでも、他の生き物とは全く違う女性の特異性、男性と女性との一体性は伝わってくると思います。男性と女性、この深い結びつきは、やはり特別なのです。しかも、その特別な姿は神さまの姿とも重なってくる。なぜなら、この男性と女性とで命を生み出し、命を育むといった神さまの大いなる御業に連なるからです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。命の出来事に関わることができる。

これが、何よりの夫婦の特権です。神さまにかたどって造られた男と女の姿です。つまり、結婚というものは、創造の初めから神さまの大いなる祝福にもとにある、ということです。神さまは祝福するために男と女とを造られた。祝福するために男と女とを結び合わされた。それが、本来の神さまの御心なのです。ですから、生まれてくる子どもたちも当然祝福されることになる。神さまに、イエスさまに祝福されるのです。たとえ大人たちがどう思おうと、いいえ、場合によっては親たちでさえも好ましく思っていないのかもしれない。

しかし、生まれてきた子どもは祝福されている。創造の御業として祝福されている。それなのに、お前たちは、離婚の理由として正当化できるものはなにか、事あれば別れてやれ、当然の権利だ、自分の子どもを好き勝手して何が悪い、とそんなことに心向けながら生きること自体、神さまの本来の思いから大きくズレてしまっているのではないか、と問われるのです。

このイエスさまの教えを律法的に捉えるのは間違いです。つまり、離婚は絶対に許されない、ということではない。もっと言えば、このイエスさまの言葉を、残念ながら結婚生活に終止符を打たざるを得なかった方々を苦しめるために用いられるべきではない、ということです。現に、イエスさまが離婚した女性を拒絶されていないことは、あのヨハネ福音書にあるサマリアの女性とのやりとりからも明らかです。むしろ、この言葉は、今、結婚生活を営んでいる者たちこそが真に聞かなければならないのかもしれません。神さまが本来意図されたように、この結婚生活を、結婚相手を見ているのか、と問われるのです。そこで生まれるのは、そう、反省です。その通りにはなかなか生きられないという悩みです。神さまの真実の前に立たされるということは、そういうことです。

アンソニー・ヴァン・ダイク (1599–1641): 子ども達を私のもとへ来させなさい 1618–20 カナダ国立美術館



最初にキリスト者というものは、悩みながら生きるものだというようなことを言いましたが、それは悔い改めつつ生きる、ということです。先ほどの悩みが悔い改めへと導くきっかけになるからです。イエスさまは唯一神さまの御心を知っておられる方です。そのイエスさまが神さまの真の御心を示されるとき、私たちはどうしても悩まざるを得なくなる。悔い改めざるを得なくなる。しかし、それも、神さまの本意ではないのです。なぜなら、悩みをもった者を、悔い改める者を赦しへと、祝福へと招き入れることこそが、神さまの本意だからです。イエスさまはその真実の姿をもはっきりと私たちに示してくださっている。十字架と復活が、それです。

今日の箇所では、このようにも記されていました。「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」。大人になればなるほど、人の善意に素直になれないものです。それは、多く傷ついてきたからです。傷つけてきたからです。結婚に破れた者だけではない。たとえ結婚生活を続けられたとしても、傷つけ、傷ついてきた。そんな私たちをイエスさまは手招きされる。さあ、私のところにおいで、と。

その時、いつも間にか私自身小さくなって、子どもになって、イエスさまに引き寄せられて、「大丈夫、私が赦す。君は神さまに徹底的に愛され祝福されているのだから」と、その膝に抱き上げられ、力強い温かい手を私の頭の上に乗せて祝福で包み込んでくださっているのを想像するのは、私だけでしょうか。