【 テキスト・ライブ版】2020年10月25日 説教「 真理はあなたを自由にする 」 浅野 直樹 牧師

宗教改革主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書22章34~46

本日の礼拝は、宗教改革を記念した礼拝でございます。1517年10月31日、ヴィッテンベルク城教会の扉に、いわゆる「95ヶ条の提題」が掲げられたことによります。ただ、宗教改革と言いましても、500年も前の時代も文化も状況も異なる中での出来事ですので、ぴんとこないのも無理からぬことでしょう。しかし、その時代にあっても、今日の私たちと同様に人は生きていました。生活をしていました。

ペストの大流行があり、貧困も、格差も、差別も、死の現実もあった。その中を、か細い期待と不安を持ちながら人々は生きていた。そんな人の営みということにおいては、今日の私たちと変わらないものがあるようにも思います。そして、その只中で…、その歴史の、現実の只中で神さまが働かれた。ある人(人々)を立てて、御心のままに時代を、世界を導いていかれた。

この宗教改革の出来事に思いを向けるとき、そんなことも考えさせられるように思います。そして、そんな神さまの働きは、あの宗教改革の500年前だけでなく、今日においても、私たちが生きるこの現代においても起こる、起こり得る、いえ、現に起きていると信じることができる。そうではないか、と思うのです。神さまが歴史に、この現実世界に働きかけられる。それも、宗教改革を記念する一つの大切な側面なのではないでしょうか。

「信仰による自由」。宗教改革者ルターが強く訴えたことです。ルターの最もよく知られた著作である『キリスト者の自由』の中にも、そのことがしっかりと記されている。しかし、それらをお読みになれば分かるように、ここでルターが語る「自由」と現代の私たちが考える「自由」とは随分と印象が違っています。ルターが語る「自由」とは信仰と、つまり神さまと深く結びつけられた「自由」だからです。

ここで私がいちいち言う必要がないほどに、この「自由」ということが人類共通の価値であることに異論はないでしょう。「自由」の大切さ、有り難さ、その恩恵を知っている私たちにとっては、いくら経済的な発展が著しいとしても、「自由」が抑圧されるような社会には生きたいとは思わないでしょう。そんな人類共通の価値である「自由」。その本来素晴らしいはずの「自由」が、悲しいかな歪んでしまう現実もある。この自由ということに限らないことですが、悲しいことに何故か私たち人類は、本来は良いものであったとしてもそれらを歪めてしまうことが多いのです。この幸いなる「自由」も、自分勝手・自己中心に歪めてしまうことが多い。人類共通の価値である「自由」の名に元に、他者を圧迫し、搾取し、苦しめることも起こってくる。

それは、今日の福音書の箇所で言えば、「罪の奴隷」ということになるでしょう。私たち人類は、悲しいかなこの「罪の奴隷」なのです。あらゆる良いものを、この罪のゆえに捻じ曲げてしまう。自分の都合の良いように。自分の願を叶えるために。それも、私たちが見ている世界の現実、また私たち自身の中にも巣食っている現実でもあるのだと思うのです。

だからこそ、人類共通の価値である「自由」であっても、それだけではダメなのです。自由でいるように思っていても、それは本当の自由ではない。罪のゆえに歪んでしまっている自由に過ぎない。ですから、その本来良きものである自由を取り戻すためには、私たち以外の別の何かが必要になってくるのです。それが、イエスさまが与える真理だ、と聖書は語る。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

Low panel (Martin Luther preaching before a Christ). By Attributed to Lucas Cranach the Younger – The Bridgeman Art Library, Object 23264, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30282859



最初にルターの「信仰による自由」ということを言いましたが、今朝の福音書の日課でも、この「自由」ということとイエスさまとが非常に強く結び付けられていることがお分かりになると思います。そして、自由ということを考える上でも、そのことは決して見落としてはならないのだと思うのです。

真の自由とは罪を認める、ということです。自己否定をする、ということです。無力さを知る、ということです。救いの御業(福音)を素直に、そのまま受け入れる、ということです。それらは、真の自由がなければできないことです。なぜならば、それらは、生まれながらの自分に、罪の奴隷である自分に反することだからです。私たちは、何かと理由をつけながら、自分を正当化し、それらを避けたいと思う。私たちにとっては好ましくも、嬉しくもないことだからです。

私たちにとって大切なこととは何でしょうか。何を優先させるのでしょうか。何を真実とするのでしょうか。何に信頼を置き、従うのでしょうか。己か、社会か、それともキリストか…。「真理はあなたたちを自由にする」と言われますが、その真理とはイエスさまの言葉を、み言葉を聞くところからしか、受け入れるところからしか生まれないのです。たとえば、「汝の敵を愛せよ」とのみ言葉を聞く。その言葉をしっかりと受け取る。そこからしか、憎しみを断ち切る、憎悪から、復讐心から解き放たれる自由な道は始まらないのです。

もちろん、それらは決して楽な道ではありません。ある意味、茨の道とも言えるのかもしれない。なぜならば、私たちは憎むことですっきりするからです。復讐心に燃えている方が楽だからです。真理は、イエスさまの言葉は、そんな自分たちの自然な思いを越えていかなければならなくする。それが、辛い…。しかし、そのみ言葉が、イエスさまが私たちの幸いを思って語ってくださっているそのみ言葉が、み教えが、うずくまってしまいそうになるそんな私たちの背中を押してくださる。決して自分では前に向かっていけそうにない思いを抱いていたとしても、力強く前へ、前へと押し出していってくださる。それが、み言葉。それが、イエスさまの真理。

み言葉があるから、イエスさまが私たちを教え諭してくださるから、変なこだわりを捨てる、偏見を捨てる、差別意識を捨てる、そんな自由な歩みが始まっていくのだと思う。もちろん、繰り返しますが、それは決して楽な道ではないでしょう。どうしても祈らざるを得ない道でもある。それでも、そこからしかはじまっていかないみ言葉に照らされた自由への、解放への道があるのだと思うのです。

ルターもそうです。私自身もそうです。皆さんもそうだと思う。このみ言葉によって変えられた人生がある。完全に、とまでは言えませんが、それでも自由とされた人生がある。支えられた人生がある。力づけられた人生がある。いろんな厳しさを乗り越えることができた人生がある。

そして、これからも…。これからも、このイエスさまのみ言葉が、真理が私たちを自由にしてくださいます。生きる上でばかりでなく、死の不安、恐れからも。そうではないでしょうか。そんなみ言葉の現実が、神さまの働きが、今を生きる私たちの上にも確かにあることを、この宗教改革を記念する日に、新たに心に刻んでいきたいと思います。

 

祈り

本日は宗教改革を記念した礼拝の時を持つことができましたことを心より感謝いたします。当時と今日の私たちの状況とは大きく異なっていますが、それでも、先人たちが力強く信じ証ししていった福音の真理を、またみ言葉に対する姿勢を、私たちもしっかりと受け取り、自分のものとして生きていくことができますようにお導きくださいますようお願いいたします。

私たちの敬愛する姉が、18日にあなたの元に召されていかれました。私たちにとっては悲しく寂しいことですが、今姉はあなたの懐に抱かれ、永遠の平安に預かっていることを信じます。どうぞ、残されたご家族の上に、あなたからの豊かな慰めがありますように。また、その信仰を強めてくださり、なおも力強くあなたにある希望に生かしていってくださいますようにお願いいたします。



本日は特に神学校を覚えて献金をお捧げしています。このコロナ禍にあって神学校も大変な状況にあると思います。どうぞ在校生たちをお守りくださり、このような状況下の中にあっても、その信仰と志を強めてくださり、良き訓練を受けていかれるようにお導きください。また、教職の先生方、チャプレン、職員の方々もどうぞお守りくださいますように。神学生が減少していますが、志をもつ者たちが与えられますようにもお導きください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

Live配信:2020年10月25日 宗教改革主日礼拝 説教 「真理はあなたを自由にする」 浅野 直樹 牧師



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-週報-  2020年10月25日 宗教改革主日礼拝



 

司 式   浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏 楽   苅谷 和子

前 奏   Trumpet Tune   Ⅾ.ジョンソン

初めの歌   教会119( 神の霊よ )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
全能の神、恵みの主よ。あなたに忠実な民に聖霊を注いでみことばのうちに堅く保ち、
あらゆる誘惑とみことばの敵から防ぎ守り、キリストの教会に救いと平安を与えてください。
あなたと聖霊と共にとこしえにただひとりの神であり、世の終わりまで生きて治められる
み子、主イエス・キリストによって祈ります


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第1の朗読  エレミヤ書 31:31-34( 旧約 1237頁 )
第2の朗読  ローマの信徒への手紙 3:19-28( 新約 277頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読  ヨハネによる福音書 8:31-36( 新約 182頁 )

みことばのうた  教会240( み言葉によりて )

説教      「 真理はあなたを自由にする 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌    教会322( 主なるイェスは )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌   教会450( ちからなる神は )

後 奏    われわれの神こそ堅い砦   R.フレンツェル

-週報-  2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日礼拝



 

司 式   浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏 楽   上村 朋子

前 奏   強き王なる主をほめまつれ F. Zipp

初めの歌   教会172( つくりぬしを )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
主よ。
み民の罪を赦してください。
私たちが弱く、悪に誘われるとき、闇の支配をみ力で打ち
砕いてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン

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第1の朗読  イザヤ書 45:1-7( 旧約 1135頁 )
第2の朗読  テサロニケの信徒への手紙一 1:1-10( 新約 374頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 22:15-22( 新約 43頁 )

みことばのうた  教会238( いのちのかて )

 

説教      「 真理を語る 」 浅野 直樹 牧師

 

感謝の歌    教会328( 主イェスに従う )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部
派遣の部
派遣の歌   教会403( わが霊なやみて )

後 奏    我がイエスよ 我は離れず J. G. Walter

【 テキスト・音声版】2020年10月18日 説教「 真理を語る 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第二十主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書22章15~22節

今朝の福音書の日課は、良く知られた物語だと思います。いわゆる「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」です。

ここでファリサイ派とヘロデ派といった人々が登場してまいります。ファリサイ派については度々登場してきますので良くご存知だと思いますが、律法に忠実であろうとする人々のことです。つまり、国粋主義者とまでは言いませんが、ユダヤの伝統を非常に重んじる人々でした。

対してヘロデ派(ヘロデ党と言った方が良いのかもしれませんが)はヘロデ王朝を支持する非常に政治色の強いグループで、このヘロデ王朝はローマ帝国の後ろ盾を権力基盤にしていましたから、親ローマと言っても良いと思います。ですから、この両者は正反対の立場に立っていたと言っても良いでしょう。そんな普段は反目し合っていたであろうファリサイ派の人々とヘロデ派の人々がここでは結託をするのです。一致団結する。両者にとっての共通の敵といいますか、おもしろくない存在であるイエスさまを陥れるためです。

これまで数週間にわたって譬え話をみていきました。その時にもお話したように、これらの譬え話には共通点があった訳です。当時の宗教的指導者たちを非難するためでした。彼らは自分たちこそが神さまの御心を行っている者、救われるに相応しい者だと自負していた。しかし、イエスさまはそんな彼らに対して真っ向から挑戦していかれました。むしろ、救われるに相応しい人々とは、彼らが忌み嫌っていた罪人たちなのだと。神さまの呼びかけに答えて悔い改めていった者たちなのだと。たとえ罪人であったとしても、悔い改めるならば、神さまに立ち返るならば、それこそが神さまの御心に叶うことになるのだ、と。

なぜならば、神さまの御心とは、全ての人々が悔い改めて神さまから命を得ることだからです。人として、真に生きるようになることです。神さまを愛し、人を愛する者として…。もちろん、それでも私たちはその途上にいることになる。完成されている訳ではないからです。まだまだ不完全です。それでも、そこを目指して、泣き笑いしながら、失望しながら、悔い改めて、何度も立ち上がって、一歩づつでも、小さな歩みであっても、先へと進んでいく…。それが、神さまの、イエスさまの御心なのです。

ティツィアーノ:Titian – The Tribute Money –  作成: 1516年頃 ドレスデン: Staatliche Kunstsammlungen Dresden -Google Art Project (715452)-



確かに、そんな思いから遠くズレてしまっていた時の宗教的指導者たちを非難するためにこれらの譬え話が語られていった訳ですが、しかし、単に非難するためでなく、彼らにも自らの過ちに気付き、真実に立ち返って欲しいといった願いも込められていたのではないか、そう思います。しかし、残念というか、彼らにとってはそれも馬の耳に念仏だったようです。先ほど言いましたように、今度は反目しあっていた者同士が手を結び、言葉巧みにイエスさまを陥れようとしていった訳ですから…。

しかし、私たちはそんな彼らをただ非難するだけで良いのでしょうか。私たちにも見に覚えがあるのではないか。私たちもまた、本当に反省することに疎い者だからです。本当のことを言われれば言われるほど、真実を突かれれば突かれるほど、私たちはかえって意固地になって反抗的にさえなってしまう。そんな私達の姿も、彼らの中に見るような気がいたします。

彼らは言葉巧みに罠を張ります。どう答えたって非難できる材料を揃えて。皇帝に納めるべきだと答えれば、民衆の支持を一気に失うことになる。彼ら民衆から搾取する者たちの手先と映るからです。逆に、納めるべきではないと答えるならば反逆者として訴えられることにもなる。あるいは、「分からない」とお茶を濁すこともできない。

なぜなら、彼らは「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを」、つまり、人の顔色など伺うことなく真実だけを語る存在だと評価しているからです。実に巧妙です。八方塞がりです。しかし、イエスさまはそんな彼らの魂胆を見抜いてこう答えられた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。

あっぱれな回答です。完璧とも思える罠を張ったさすがの彼らもぐうの音も出なかった。しかし、イエスさまは彼らの企みを単に完膚なきまでに叩きのめすためにそのような答えをなされたのでしょうか。

皇帝の硬貨(1790)ドミンゴス・セルグエイラ:Domingos Sequeira画



確かに、「皇帝のもの」と言われている、いわゆるこの世的なもの、この社会、世界で生み出されたものも多くありますが、それらも含めて究極的には全てが神さまのもの、神さまから与えられたもののはずです。この世界も、私たちも、この命も…。そのことを、本当に私たち人類は忘れてしまっていると思う。

全てが皇帝のもの、つまり、この世で生み出されたものだと思い込んでいる。だから、自分勝手に、自分の欲するままに、他者を傷つけても、踏みにじっても構わないかのように、自分の目的だけのために存在しているかのように扱っている。しかし、本当は、そんな生き方は、あり方は、虚しいだけのものです。そんな皇帝のものを全て手に入れたと思っていても、最終的には、究極的には、虚しさだけが襲ってくる。

今日の旧約の日課にも、この虚しさということが記されていました。「わたしのほかは、むなしいものだ、と」。この「わたし」とは神さまご自身のことです。神さま以外のものは虚しいのです。そして、この虚しさと言えば、私たちはあのコヘレトの言葉を思い出すでしょう。「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」。この世の全てを探求したコヘレトは、そう言う他なかった。

この世界に、人生に、人生の終わりに、意味がないとしたら、つまり、全てが偶然の産物でしかないとしたら、それは本当に虚しいことです。あるいは、今私たちが生きているこの現実世界にしか真実がないとしたら、誤った政治的指導者たちが生まれ、国民も惑わされ、戦争、争い、差別、貧困、そういったものをただ単に受容しなければならないとしたら、諦めなければならないとしたら、人生とはこんなものでしかないと投げ出すしかないとしたら、世界はこんなものでしかない、何ら希望などないと沈黙するしかないとしたら、それは何という虚しいことか。

この世界に意味はあるのか。希望はあるのか。聖書の答えは明快です。神がおられる。もちろん、信じる信じないは私たちにかかっているのかもしれませんが、この世界には、私達の生には、意味がある、希望があると言う。なぜならば、この世界は偶然や気まぐれで成り立っているのではなくて、明確な意志をもっておられる神さまによって成っているからです。人が真に生きることを、自由に、互いに愛し合いながら生きることを何よりも願っておられる神さまの意志が、この生み出された世界の中にある。もちろん、私達の目には、それらが明確に写らない現実が確かにあります。

祈ったって応えられない、不幸としか思えない現実が…。では、この歴史の中で人類はそんな不幸の中でしか生きられなかったといえば、そうではないでしょう。不幸としか思えない現実がそこにあっても、その只中で意味を、希望を見いだすことができた人々は決して少数ではないはずです。あの戦争という地獄のような中でも、明日をも知れないアウシュヴィッツの中でも、この世の終わりとも思える大災害の中にも、意味を、希望を持って、見失わないで生きた、そして眠りについた人々が確かにいた。

神さまがおられるからです。神さまのものを神さまにおかえしできたからです。この自分自身を、です。たとえ私たちは、それらを否定するような現実や人々の声の中にいるとしても、そういった名も知れぬ無数の証人たちにも囲まれていることをしっかりと覚えていきたいと思う。このように、ファリサイ派の人々が意図せず策謀の中で語っていった「真実」がイエスさまによって語られているのではないでしょうか。



祈り
・急に寒くなってきました。どうぞ、心も体もお守りくださいますようにお願いいたします。重い病気を抱えておられる方々、体調を崩しておられる方々、様々な心労に疲れを覚えておられる方々など、この新型コロナによるストレスもあいまってかいろんな方々が不調を覚えておられますが、どうぞお一人お一人を顧みてくださり、必要な助けをお与えくださいますようにお願いいたします。

・来主日の宗教改革主日は、例年神学校日礼拝として献金をお献げしていますが、今年は例年のようにはいかないでしょう。それでも、一人でも多くの方々が神学校を覚えて献げていけるようにお導きください。このコロナ禍、神学校もルーテル学院も大変ご苦労をされていると思いますので、どうぞ教職員の方々、学生一人ひとりをお支えくださいますようにお願いいたします。また、神学生になる方々が減少していますので、どうぞ多くの方々に志をお与えください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

Live配信:2020年10月18日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教 「真理を語る」」 浅野 直樹 牧師



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-週報-  2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日礼拝



聖霊降臨後第19主日礼拝

司  式  浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
説  教  浅野 直樹
奏  楽  萩森 英明

開会の部
前  奏  み門に入り給え G. Liardon

初めの歌 教会181( ここにいます )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部( 式文A 5〜7頁 )

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特別の祈り
主なる神さま。
あなたは、私たちをあなたのぶどう園で働くように招き、
誰ひとり空しく立たせられません。私たちにみ国の務めを与え、
生涯あなたの知恵によって歩ませてください。
み子、主イエス・キリストによって祈(いの)ります。

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第1の朗読 イザヤ書 25:1-9( 旧約 1097頁 )
第2の朗読 フィリピの信徒への手紙 4:1-9( 新約 365頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読 マタイによる福音書 22:1-14( 新約 42頁 )

みことばのうた 教会348( たえなるめぐみの )

説教 「 あなたも招かれている 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌   教会382( ここはかみの )

信仰の告白  使徒信条
奉献の部( 式文A 8〜9頁 )
派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   教会460( こころみうけ )

後  奏   おお主よ心より汝を愛しまつる J. F. Alberti

Live配信:2020年10月11日 聖霊降臨後第19主日礼拝 説教 「あなたも招かれている」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版】2020年10月11日 説教「 あなたも招かれている 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十九主日礼拝説教(むさしの教会)



聖書箇所:マタイによる福音書21章1~14節

今朝の福音書の日課も譬え話でした。このところ、譬え話が続いていますが、テーマは共通しています。当時の宗教的指導者たちを非難するために語られたものです。

彼ら宗教的指導者たちは、「宮清め」をしたイエスさまを問いただします。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。なぜならば、宮清めをはじめとしたイエスさまの言動は、彼らにとっては自分たちの宗教的権威を傷つけているようにしか、あるいは挑戦して来ているようにしか思えなかったからです。

先週の繰り返しになりますが、イエスさまの言動は彼らの「当たり前」とはことごとく相入れないものでした。特に、彼らにとって我慢ならなかったのは、罪人たちとの向き合い方です。イエスさまは罪人たちを、正しくない人々を招いていかれた。それが、赦されざる背徳と彼らには映っていた。当然でしょう。私たちにだって同じような思いがある。

相手は徴税人です。特権を傘に私腹を肥やすような輩です。詐欺まがいのことをして稼ぐ悪徳商法と言っても良いのかもしれない。あるいは、娼婦。不道徳な生活をしている女性です。そんな人たちは地獄行きだ、とまでは思いませんが、しかし、あえて付き合いたいとは思わないでしょう。できれば、そんな人たちとは関わりを持ちたくないと思う。そんな社会で評判の人たちが教会に来て御覧なさい。あなたたちのような人々が来るようなところではない、と追い返すようなことはしなくとも、内心は何でうちに来たのか、早く帰ってくれないかな、もう二度と来ないでほしい、と思わないだろうか。そんな彼らを「ふさわしくない」と忌み嫌う気持ちも分からないわけではない。

しかし、イエスさまは彼らこそが神さまに招かれている、と語られる。正しく生きて来たあなた方以上に、神さまはそんな彼らをこそ待ち望んでおられるのだ、と教えられる。それは、自分たちこそが「ふさわしい」と思ってやまない宗教的指導者たちにとっては、とても受け入れられるようなものではなかったこともうなずけるように思います。

Parable of the Great Banquet by Brunswick Monogrammist (circa 1525), location: National Museum, Warsaw ワルシャワ国立博物館



しかし、実はそれが罪なのです。いかにそれが正しく思われても、正当な理由のように思えても、神さまの御心よりも自分たちの思いを優先させることが罪なのです。そういう意味では、宗教的指導者たちが忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちは、まさに罪人だった。いろいろと理由を挙げては、神さまから離れていることを、御心に従い得ないことを正当化し、自分たちの「生」を顧みることをしなかった彼らは、確かに罪人だったのです。そういう意味では、宗教的指導者たちの指摘もあながち間違ってはいなかった。

しかし、そんな彼らは預言者たちの言葉を聞いて、洗礼者ヨハネの宣教に触れて、そして何よりもイエスさまの招きによって悔い改めていきました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。そう、罪人が悔い改めていのちを得ることこそが、何よりの神さまの御心だから、なのです。だからこそ、悔い改めた罪人こそが神さまの御心に叶ったことになる。それが、今までの譬え話の言いたかったことですし、その思いが、今朝の譬え話の中にも流れている訳です。

今朝の譬え話の前半には、王さまが催された王子の婚宴に招かれていた人々が来なかったことが記されていました。王さまとは神さまのこと、王子とはイエスさまのことを指していることは明らかです。その婚宴に宗教的指導者たち、あるいはもっと広く言えばイスラエルの人々が招かれていた。これは、大変名誉なことでしょう。普通の人々が王族の婚宴に招かれるようなことはまずないでしょうから。

みなさん、どうでしょうか。ある日突然、皇族の婚礼の祝いの席に招かれたとしたら、腰を抜かすか、あるいはほっぺたをつねりたくなるほどに信じられないことが起こったと思わないでしょうか。そんな、そもそもありえないことが起こったわけです。いわゆる特別待遇です。しかも、招かれているのは婚宴です。婚宴とは、結婚する二人にとってはおそらく一生に一度の人生最大の祝福された時と言えるでしょう。誰もが、幸いを味わえるような時。

当事者はもちろんのこと、その祝いの席に連なる一人一人も、思わず笑顔が溢れるような、祝福と喜びが満ち溢れるような出来事です。お酒も入って、美味しい料理をいただきながら大いなる祝福をいただく。そんな幸いなる、また名誉溢れる婚宴に招かれたのですから、喜び勇んで行かない手はないはずです。なのに、招かれていた人々はことごとく行かなかった。なぜか。「畑に行った」「商売に出かけた」とも記されていますので、理由はいろいろと考えられるのでしょうが、私自身は王子の婚宴だったということも大きいのではないか、と思うのです。

王さまが催す宴会ならば、喜び勇んで出席したかもしれませんが、それが王子の、つまりイエスさまの祝いの席だったからこそ、彼らは無視した、拒絶した、と言えるのかもしれない。王子を、つまりイエスさまを神さまの子どもとして認めていないからです。受け入れていないからです。ともかく、本来その婚宴に招かれるにふさわしいと思われていた人々は、その婚宴に来ることを拒み、「ふさわしくない」者とされてしまったのです。そして、今度は、本来はその婚宴の名簿からは漏れてしまっていた、つまり「ふさわしい」者とは思われていなかった人々が、招かれることとなった。しかも、ちょっと乱暴とも思える手当たり次第の様子で、「善人も悪人」もおかまい無しに婚宴に連れて来られることになった訳です。

これは、先ほど来言ってきましたように、本来「ふさわしくない」と思われていた罪人や、またユダヤ人から見れば「ふさわしい」とは思えなかった異邦人に、イエスさまの婚宴の招きが移ったことを意味する訳です。確かに、そうでしょう。しかし、今日の譬え話には、今までとはちょっと違った意味も加わっていることにお気づきになられていると思います。なぜならば、そのように「ふさわしくなかった」者たちが招かれているにも関わらず、そこから取り除かれる人がいたからです。つまり、「礼服」を着用していなかった人のことです。

この「礼服」については、いろいろなことが言われていますが、婚宴にふさわしい服装から、この「ふさわしさ」という視点は見落としてはならないと思います。つまり、本来的には「ふさわしくなかった」者が「ふさわしくなる」という視点です。しかし、この「ふさわしさ」は資格ではありません。それを受けるに「ふさわしい」資格などないのです。善人でも悪人でも良かったのです。むしろ、本来資格ありと思われていた人々が招きに答えなかったが故に、ふさわしくないとされたほどです。

では、ここで言われている「ふさわしさ」とは何か。礼服を着ることです。ただ、それだけのことです。他の装いではない。婚宴にふさわしいのは、喜びを共に喜ぶ、祝福の中に招き入れられることを心から感謝していく、婚宴に招かれていることをただそのまま喜んで受け取る、素直に祝いの中に身を置く、祝福に預かる一員となる、その装いが婚礼の礼服だからです。言い方を変えれば、その招きをその招きのまま受け入れるということでしょう。

自分はふさわしいかどうかなどどうでも良い。たとえ悪人であってもここに招かれている。だから、その主人のもてなしをそのまま喜びと感謝をもって受け取る、受け入れることこそが礼服を着る者の姿なのではないか、と思う。この招きへの「ふさわしさ」とは、ただそれだけである、ということをもう一度自問自答しながら、その恵みを受け取っていきたいと思います。

《祈り》
・台風と前線による大雨の影響が心配されます。どうぞ大きな被害などが出ませんようにお守りください。

・先週木曜日(8日)に、あいにくの雨の中でしたが十字架の設置も無事に行われ、鐘楼の修繕工事が完了いたしました。まだ足場の解体工事は残っていますが、ここまでもお守りくださいましたことを心より感謝いたします。この新たにされた鐘楼と十字架もあなたが聖めてくださり、あなたのご栄光のためにお用いくださいますようお願いいたします。また、なおもこの教会堂を祝福してくださって、大規模修繕も残っていますが最善なる導きをお願いいたします。

・再び都内でも徐々に新型コロナの感染が広がっているように見受けられます。一旦は落ち着きを見せていた欧米でも再びロックダウンに踏切らざるを得ない状況にあるとも聞きます。長期間にわたるこの新型コロナの影響で、だんだんと注意力が削がれて行ってしまっているのかもしれませんが、あまり気持ちを緩めすぎることなく、個々人においても社会においても、しっかりと感染症対策に引き続き取り組んでいくことができますようにお導きください。

・今年のノーベル平和賞がWFP(「国連世界食料計画」)に決まったと報道されていますが、依然として7億人以上の人々が飢餓で苦しんでいるとも言われています。特に紛争地域では深刻で、またこのコロナ禍でより深刻度が増したとも言われています。どうぞ憐れんでくださり、私たちも含めて多くの人々が支援に動き出すことができますようにお助けください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

【 テキスト・音声版】2020年10月4日 説教「 実を結ぶ期待 」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十八主日礼拝説教



マタイによる福音書21章33~46節

今日の日課も譬え話になります。この譬え話は、先週の二人の息子の譬え話…、父親からぶどう園で働くように言われた兄の方は、最初は嫌がって断った訳ですが、後で思い直してぶどう園に行った訳ですが、弟の方は最初は快い返事をしておきながら結局は行きま
せんでした。そこから、父親…、つまり神さまの望みに答えたのはどちらか、ということで、結局は弟のような祭司長や民の長老たちのような宗教的指導者たちではなくて、彼らが罪人と忌み嫌っていた徴税人や娼婦たちの方が兄のように神さまの望みに答えたことになると結論づけられた訳です。つまり、早い話、イエスさまに権威についての問答を迫った宗教的指導者たちを非難するためだった訳です。そして、今朝の譬え話もその流れの中にある譬え話となる訳です。

今朝の譬え話は、イスラエルの歴史を、そして今を、これからを表しているように思われます。ここで言われている「ぶどう園」はイスラエルの民たちを表すのでしょう。その民たちを養い、成長させ、実を実らせるために、神さまは「農夫」たちにその管理をお任せになられました。そして、その「農夫」こそが宗教的指導者たちです。もちろん、それは、現在ばかりでなく過去をも含めてのことでしょう。神さまは必要な時期に、事あるごとに僕たちをこのぶどう園に遣わされました。つまり、預言者たちです。しかし、彼らはそんな預言者たちを、袋だたきにしたり、殺したり、石で打ち殺したりしてしまったと言います。

旧約聖書を読んでいきますと、迫害されなかった預言者などいないかのようです。では、なぜそんなにも神さまが遣わされた預言者たちを彼らは受け入れようとしなかったのか。悔い改めを迫られたからです。預言者たちは、民たちの誤りを説き、悔い改めを迫っていきました。しかし、それが気に入らない。望まない事柄ばかりを語る預言者たちが鬱陶しく思えて来る。自分たちが信じている、理解している、またそうであって欲しいと望んでいる神さまの姿とは別の事柄を語ってやまない彼らを、偽物としか思えない。神さまに反する者としか受け止められない。だから、神さまの名の下に迫害する。殺していく。本当は、そんな預言者たちこそ、神さまが遣わされた人々だったのに。

前述のように、先週の譬えのところでも、宗教的指導者たちが弟の側になってしまったのも洗礼者ヨハネを受け入れなかったからだと言われています。逆に、罪人であった徴税人や娼婦たちが兄の側になれたのは、洗礼者ヨハネを受け入れたからです。悔い改めを説いていった、赦される必要性を語り聞かせていったヨハネの言葉に心動かされたからです。ただ、それだけの理由で、罪人である彼らは神さまの望みに応える者になれた。

ぶどう園と農夫のたとえ Marten van Valckenborch Parable of the Wicked Husbandmen between 1580 and 1590 Kunsthistorisches Museum, Vienna, Austria イエス・キリストが中頃左上で2司祭に話しかけている。山間のぶどう園、遠景には美しくのどかな街並み、右下で集団で使用人を殺している農夫が描かれている



そして、彼ら宗教的指導者たちは、神さまが最後に送られたご自分の子・御子を受け入れないどころか、十字架にかけて殺してしまった。これから起こることです。では、なぜ彼らはイエスさまを受け入れなかったのか。殺すほどに憎んだのか。妬みのためだ、と言われます。確かに、そういった一面もあったでしょう。しかし、そんな彼らの信仰観とイエスさまの言動とが、ことごとく食い違っていたからでもあると思うのです。特に、彼らが許せなかったのが、イエスさまが罪人たちの友となられたことでした。彼らは神さまの戒めを守りません。汚れた不道徳な生活を送っています。宗教的熱心さも圧倒的に欠けています。そんな彼らは、指導者たちにとっては裁かれて当然な人々なのです。神さまに呪われて、罰せられて当然な人たちなのです。

自分たちとは明らかに違う。そんなやつらと同じ空気を吸うだけでも汚らわしい。そう思う。なのに、イエスさまはそんな彼ら罪人こそが神さまに招かれているのだ、と言う。彼らこそ、神さまに救われるべき人々だ、と言う。そして、同じ空気を吸うばかりか、食事さえも共にする。そんなやつは許せない。そんなやつが神の子であるはずがない。そうです。彼らからすれば、イエスさまを殺す理由があった。それこそが、正しい、神さまの望みに答えることだと疑わなかった。しかし、それこそが、神さまが遣わされた独り子を殺すことになるのだ、と語られているのです。

では、そんな宗教的指導者たちだけが問題なのか、といえば、そうではないでしょう。なぜならば、43節でこう記されているからです。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」。ここで「ふさわしい実を結ぶ民族」と言われているのは、異邦人のことです。彼ら宗教的指導者たちばかりではない。ユダヤ人全てが、異邦人を蔑視している。

なぜか。彼らは罪人だからです。神さまに従おうとしない人々だからです。だから、滅ぼされても当然だと思っている。つまり、どちらにしても罪人は滅びるのだ、それが神さまの御心なのだ、私たちは彼らとは違う、私たちこそ救われるのだ、といった思いは共通なのです。それが、神さまの御心なのだと彼らは信じ疑わなかった。しかし、イエスさまは違う、とおっしゃる。そうではない、とおっしゃる。悔い改めて(神さまに立ち返って)全ての人が、ユダヤ人だろうが異邦人だろうが全ての人々が救われることが、赦されることが神さまの御心なのだ。

そう語られている。つまり、真に神さまが望まれる実りとは、そんな神さまが遣わされた御子、救い主を信じることなのです。そのために、預言者たちも、洗礼者ヨハネも、またイエスさまも来られた。

ぶどう園の小作人 Jan Gerritsz Sweelink October 作成: 1624年と1645年の間。背景にはある村と川が描かれ イエス・キリストが右下の2人の司祭に話しかけている 左側で使用人を殺している農夫の1人(邪悪な夫のたとえ話) が描かれている



イエスさまの、神さまのこの思いは、この言葉に集約されていると思う。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人
を招くためではなく、罪人を招くためである』」(マタイ9:12~13)。兄の方と言われた徴税人や娼婦のような罪人以外の、宗教的指導者たちや多くのユダヤ人たちは、このイエスさまの思いを受け取ろうとはしなかった。では、私たちはどうか。本当にこのイエスさまの思いを素直に受け取っているだろうか。神さまの望みに応えているだろうか。

やはり、私たちにも、素直に、罪人のままで、欠け多き存在のままで、イエスさまの懐に飛び込んでいくのを躊躇してしまっているようなところがあるのではないだろうか。もっとしっかりしてからでないと、こんな自分ではダメではないかと思ってしまっているところがあるのではないだろうか。ありのままで、赦しを信じて、この招きに応えることができているだろうか。あるいは、自分のことは棚に上げて、人々の欠点にばかり目が向かってしまい、あんな人は相応しくない、と勝手にレッテルを貼っているようなことはないだろうか。

なぜあんな人が教会にいるのか、と批判的になってはいないだろうか。あんな人たちとは一緒にされたくない、と自分を特別視しているようなことはないだろうか。勝手に教会は敷居が高いと思い込んでいるようなところはないだろうか。赦しの中に生きていることを忘れて、殊更背伸びをして疲れ切ってしまってはいないだろうか。人の目が気になり、比較ばかりをして、自分は何もできない、役に立たない人間なのだ、と落ち込んではいないだろうか。

イエスさまはこうおっしゃる。イエスさまはそのために来たとおっしゃる。そして、イエスさまはそのためにこそ十字架で命を捨てられた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。この方を信じることこそが、私たちに期待されている実りです。

 

祈り
・早いもので今年も10月に入りました。急に朝晩が涼しくなり体調も崩しやすくなっていますが、どうぞ心も体もお守りくださいますように。特に体調を崩しておられる方、闘病されておられる方、心身ともに疲れを覚えておられる方などをどうぞお守りくださいます
ようにお願いいたします。

・鐘楼の修繕工事も今週には完成予定です。これまでお守りくださいましたことを心より感謝いたします。また、心配された台風等も接近することなく、本当に感謝です。どうぞ、修繕された鐘楼、また新たになった十字架などもあなたのご栄光のために益々お用いくださいますようにお願いいたします。

・法律を無視するような強権的な政治的指導者たちがあちらこちらで立てられていることに危惧を覚えています。国民の支持もあるのでしょうが、力でごり押ししていくやり方は確かにスピード感はあるのかもしれませんが、大変危険でもあります。どうぞもっと冷静になって、国民一人一人が適切な人材を選んでいくことができますようにお導きください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

 

-週報-  2020年10月04日 聖霊降臨後第18主日礼拝



司 式    浅野 直樹

聖書朗読   浅野 直樹
説 教    浅野 直樹
奏 楽    小山 泉

開会の部

前 奏    我は汝に呼ばわる 主イエス.キリストよ   B.S.Bach

初めの歌   教会158( 主イェスのみ名こそ )

罪の告白
キリエ・グロリア
みことばの部

====================================

特別の祈り

神さま。
あなたの全能の力は、恵みと憐れみのうちにあります。
私たちが約束されたものを求め、
やがて天の栄光に与ることができるように、
あなたの溢れる恵みを注いでください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

=====================================

第1の朗読    イザヤ書 5:1-7( 旧約 1067頁 )

第2の朗読    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14( 新約 364頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読   マタイによる福音書 21:33-46( 新約 42頁 )

みことばのうた  教会295( 恵みふかきみ声もて ) (着席)

説  教     「 実を結ぶ期待 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌    教会339( イェスきみは恵みの主 )

信仰の告白   使徒信条

奉献の部
派遣の部

派遣の歌    教会271( 主は教会の 基となり )

後 奏     カンツォネッタ ト短調 D.Buxtehude

Live配信:2020年10月4日 聖霊降臨後第18主日礼拝 説教 「実を結ぶ期待」 浅野 直樹 牧師



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-週報-  2020年9月27日 聖霊降臨後第17主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 中山 康子

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏  讃美歌2番に基づく前奏曲 T.T.Noble

初めの歌   2( いざやともに )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの( 式文A 5〜7頁 )

==============
特別の祈り
全能・永遠の神さま。
あなたは私たちの弱さや問題を、ことごとく知っておられます。
あなたの力強い愛で私たちを助け、私たちが弱さを踏み越え、
堅い信仰を告白できるようにしてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

==============

第1の朗読   エゼキエル書 18:1-4 25-32( 旧約 1321頁 )

第2の朗読   フィリピの信徒への手紙 2:1-13( 新約 362頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読  マタイによる福音書 21:23-32( 新約 41頁 )

みことばのうた  244( 行けどもゆけども )

説  教    「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師


感謝の歌   【21】471( 勝利をのぞみ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   502( いともかしこし )

後  奏  ヴォランタリー 作品5の5番 J. Stanley

Live配信:2020年9月27日 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教 「どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声版】2020年9月27日 説教「 どっちが正しい?」 浅野 直樹 牧師

2020年9月27日 聖霊降臨後第十七主日礼拝説教



聖書箇所:マタイによる福音書21章23~32節

今日の福音書の日課にも譬え話が出てきましたが、この譬え話は聖書の中に記されています数多くの譬え話の中でも、珍しくすぐにでも共感を覚えることができるものの一つではないか、と思います。なぜならば、私たちの道徳律と非常に親和性があるからです。

恐らく、その父親はぶどう園を所有し経営していたのでしょう。繁忙期で忙しくなる。猫の手も借りたい。そこで二人の息子に手伝ってもらおうとしました。始めに、兄の方に話しかけます。「今、とても忙しい時期だから、お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。

もうすでに就職していたのでしょうか。それとも、まだ学生だったでしょうか。「嫌だよ、父さん。僕にだって予定があるんだから」。弟の方にも声をかけました。「お前もぶどう園を手伝ってくれないか」。「いいよ、父さん。特に予定もないし、手伝ってあげるよ」。父親は先にぶどう園に行き、忙しく働きながらも息子たちが来るのを待っていました。しばらくすると兄の方がやってきた。「お前、どうしたんだ。さっき予定があるから嫌だって言っていたじゃないか」。「いや、そうだけど、なんだか気になっちゃってさ。

父さんも大変だと思ったから引き返してきたんだ」。そういって兄は父の手伝いを始めました。しかし、弟の方は待てど暮らせど来ません。父親も、「おかしいな。そろそろ来ても良い頃なんだが。確かに来ると言っていたよな」。その頃、弟の方は友達と遊びに出かけていました。「確かお前ん家、ぶどう園やっていたよな。いいのか手伝わなくて。確か今が一番忙しい時期じゃなかったか」。



「いいの、いいの。あんなの親父にやらせておけば。どうせたいしてバイト代もくれないしさ」。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」。子どもでも分かることです。私たちもそう親たちから教わって来ましたし、また子どもたちにもそんなことをしてはいけない、人の道ではないと躾けて来ました。そう、だから、この譬え話は何の違和感もなくすんなりと入って来るし、そんなの当たり前ではないか、とも思える。しかし、今日のこの譬え話を、そんな単なる教訓的な、あるいは倫理道徳的な話として読んでしまうと肝心なところが見落とされてしまうということは、もう皆さんもお分かりのことでしょう。

今日の箇所の前半部分では、「権威」についてのやりとりの様子が記されていました。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」。当時の宗教的、あるいは社会的指導者たちが腹立たしげにイエスさまを問い詰めていった訳です。ここに到るまでの物語があります。12節以下に記されていますいわゆる「宮清め」の出来事です。当時、犠牲として捧げられる動物の売り買いや神殿税を納めるための両替の場所などが神殿の境内に設けられていたわけですが、それらをひっくり返したり追い出したりして、少々乱暴な振る舞いをされたのが他ならぬイエスさまでした。

もちろん、イエスさまにはそうせざるを得なかった理由がありました。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。確かに、問題性もなかった訳ではないでしょうが、当時の宗教的利便性から、あるいはその必要性から生まれた制度でもあったわけです。そして、それらを決めていったのが、それらを決める、あるいは指導する権威を持っていた先ほどの祭司長や民の長老だったわけです。つまり、イエスさまのその行動は、彼らの権威を全否定することにも等しかったわけです。彼らにとっては面目丸つぶれです。ですから、彼らからしたら、先ほどの詰問は当然の思いだったのかもしれません。私たちの面子を潰すからには、相応の権威を持っているはずだろうな、と。

そんなやりとりの中から生まれたのが、先ほどから言っています今日の譬え話でした。つまり、イエスさまからすれば、彼らは譬え話の弟のように映っていたわけです。もっとも、当然彼らはそうは思っていなかったでしょう。自分たちこそが宗教的な重要な事柄を決める権威があるのだ、と。つまり、自分たちの信仰のあり方は神さまからお墨付きをいただいているのだ、と。しかし、イエスさまからすれば、それは表面的な面に過ぎなくて、譬えで言えば、あの弟のようにあたかも父親の意に添うかのように空返事をしているにすぎなくて、本質では何も父親の、つまり神さまの思いには応えてはいないのだ、と思えてならなかった。

むしろ、逆に、彼らが忌み嫌って軽蔑していた、つまり彼らからすれば神さまから遠く離れて裁きを受けざるを得ないような人間だと映っていた徴税人や娼婦たちの方が、実は譬え話で言えば兄の方であって、当初は神さまの御心から外れて神さまを悲しませては来たけれども、そんな彼らも立ち返って、後で考え直して神さまの思いに答えていくようになったと見られている訳です。そして、その両者の決定的な違いを生み出したのが、洗礼者ヨハネのメッセージに動かされたかどうか、でした。

洗礼者ヨハネのメッセージとは、罪を指摘し、悔い改めを説くことでした。罪の赦し、罪からの救いの必要性を訴えることでした。弟の方だと指摘された祭司長や民の長老たちは、このヨハネのメッセージに心が動かされなかった。逆に言えば、兄の方だと指摘された徴税人や娼婦たちはヨハネのメッセージに心が動かされたのです。彼らが自らの罪の自覚をしっかりと持っていたかどうかは分かりません。神さまからの罪の裁きを恐れていたのかどうかも分からない。罪の赦し、救いの必要性を感じていたかどうかも。むしろ、そんなことは考えないようにしていたのではないか。現実と割り切っていたのではないか。

ろくな家庭で育たなかったのだ。まともな仕事では食っていけなかったのだ。生きるためにはしかたがないではないか。社会が悪い、環境が悪い、貧乏が悪い、と自己弁護を繰り返してきたのかもしれない。しかし、どこかで問いが消えなかった。「本当にこれで良かったのだろうか」と。普段は、そんな問いは生きるための邪魔になるとして心の深いところに押し込んでいたのかもしれませんが、決して消え去ってしまうことはなかったと思います。それが、洗礼者ヨハネのメッセージによって浮き彫りになっていった。「救われるためには、どうすれば良いのだろう」と。

ここでイエスさまは洗礼者ヨハネとの向き合い方を問われています。罪を指摘し、悔い改めの必要性を説いた、罪の赦しの可能性を教え続けていった洗礼者ヨハネとの向き合い方を。そして、それは、イエスさまとの関係性にも結びついていくことになるのです。洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされた者たちは、イエスさまのところにもやってくる。逆に、洗礼者ヨハネのメッセージに心動かされない者たちは、イエスさまとの距離もとってしまうことになる。これも、兄と、弟と指摘された者たちの中にみられるものです。

ニコラ・プッサン Nicolas Poussin「ヨルダン川の洗礼者ヨハネ」(1630)



今朝の旧約聖書の言葉も私たちは肝に命じていかなければならないと思います。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。神さまの御心は、誰もが罪を赦されて生きることです。一人として滅んで欲しくない。悔い改めて、立ち返って生きて欲しいと願っておられる。「最初」が問題なのではありません。結果的に父の元に、
神さまの元に行かなければ、戻らなければ意味がないのです。たとえ「最初」がどうであろうと、そこに神さまの御心がある。そのことを深く覚えて行きたいと思います。

《 祈り 》
・最近の新型コロナの問題は落ち着いているように見えますが、先日のシルバーウイークでは各地で多くの賑わいを見せ、経済活動が加速されているようにも見受けられます。そのために、また感染の拡大が危惧されてもいますが、このウイズ・コロナの時代、経済活動と感染予防という対極にある課題と同時に向き合わなければなりませんが、新たに誕生した政府も賢明な対策が取れるようにお導きくださいますようお願いいたします。また私たち市民一人一人も長期間にわたる緊張感のためか意識が緩みがちになっているようにも感じますが、しっかりと個々人においても感染対策に気を配っていくことができますようにお助けください。

・このところの天候不順もあって鐘楼の修繕工事が予定よりも若干遅れているようです。そのためもあってか、大工さんも雨天の中懸命に取り組んでくださっていますが、どうぞ体調面もお守りくださり、事故などもないようにお守りください。また、良い修繕がなされますようにお導きをお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

-週報-  2020年9月20日 聖霊降臨後第16主日礼拝



司  式  浅野 直樹
聖書朗読  浅野 直樹
奏  楽  上村 朋子

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏 おおイエス キリストよ、わが生命の光   G. Waag
初めの歌  教会149( 空も地をも )                                   

罪の告白
キリエ・グロリア

みことばの

=====================

特別の祈り

神さま。
み子がすべての人のため、苦難の道を歩まれたことを感謝します。
どうか、み子の従順に従い、与えられた道を戒めに従って、
謙虚に歩む力を私たちに与えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。

=====================

第1の朗読   ヨナ書 3:10-4:11( 旧約 1447頁 )
第2の朗読   フィリピの信徒への手紙 1:21-30( 新約 362頁 )
ハレルヤ
福音書の朗読  マタイによる福音書 20:1-16( 新約 38頁 )

みことばのうた   教会391( 主よわがいのち )

説教  「 救いたいという思い 」 浅野 直樹 牧師

感謝の歌   教会398 なにをも惜しまず

信仰の告白
使徒信条
派遣の歌   教会424( この世のつとめ )

後  奏  神のみわざはただしく  J. Pachelbel

Live配信:2020年9月20日 聖霊降臨後第16主日礼拝 説教 「救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師



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【 テキスト・音声 】2020年9月20日 説教「 救いたいという思い」 浅野 直樹 牧師

2020年9月20日 聖霊降臨後第十六主日礼拝説教


聖書箇所:マタイによる福音書20章1~16節

今朝の福音書の日課も、良く知られた譬え話です。この譬え話自体も、それほど難しいものではないでしょう。しかし、読み手によって、これほど印象の違う譬え話も珍しいのではないか、と思います。そして、大方の人にとっては、なんだかすっきりしないと言いますか、もやもや感が残るものではないでしょうか。



この譬え話、「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と小見出しにはありますが、この物語の主人公は「ぶどう園の労働者」ではなく、非常識なほど気前の良いこのぶどう園の主人だと思います。そして、この主人の立ち居振る舞いが、先ほど言ったような印象をそれぞれに与える訳です。では、なぜもやもやするのか。不公平だからです。いいえ、賃金自体は公平です。どの人も1デナリオンの賃金を貰っている。しかし、それは、不公平に思える。なぜなら、労働時間がそれぞれ違っているからです。

サロモン・コニンク ぶどう園の労働者のたとえ Salomon Koninck:The Parable of the Laborers in the Vineyard. 1647



12時間働いた人、9時間働いた人、6時間働いた人、1時間しか働かなかった人。そのどれもが同じ賃金、1デナリオンを貰っている。それが、私たちの目には不公平に映る。当然です。労働に見合った代価ではないからです。先ほど、このぶどう園の主人を「非常識なほど気前の良い」人だと言いましたが、気前の良さは良いのです。ちゃんと自分の労働に見合った賃金ならば、つまりちゃんと「差」をつけてさえくれたならば、その気前の良さはむしろ大歓迎なのです。

1時間しか働かなかった人が1デナリオン貰えたとしても納得ができる。むしろ、この主人のそんな気前の良さを評価できたかもしれない。すごく良い人だと。しかし、働いた時間が違うのに同じ賃金だというのが許せない。腹が立ってくる。しかも、この主人の「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」との言葉に、なんだかカチンとくる。言っていることは当然だと思いつつも、この不公平な扱いにイラっとしてしまう。そうではないでしょうか。

この物語を理解する上で大切なことは、この譬え話が「天の国」を示すための譬え話だ、ということです。つまり、この地上での事柄、常識とは違う、ということです。こんな非常識なことを、この地上世界で、私たちのこの社会・現実世界で、日常で行ったのなら、とたんに大混乱を起こすでしょう。そして、その不満は大暴動に発展するかもしれません。または、こんなおいしい目に合うならばと、労働に無気力な人も多く生まれてしまうかもしれない。ですから、私たちの現実とは、ちょっと切り離して考えなければならないのかもしれません。しかし、それでも、神さまがそんな不公平なことをしても良いのか、との問いは残ります。

いくら天の国のことだとしても、むしろ、天の国がそんな不公平なところか、と思うと、がっかりされる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ここで立ち止まって、よくよく考えてみていただきたいのです。先ほどから、不満を持つ側から話してきましたが、では、なぜこの物語を読んで不満を持つのか、といえば、「自分は出来る人間だ」と思っているからです。今日の譬え話で言えば、自分は最初に雇われた人間、少なくとも最後の人、たった1時間しか働かなかった人とは違う、と思っているからです。では、なぜそう思えるのか。誰が「出来る人間」だと、最初っから雇われていた人だと評価するのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。

それとも、神さまでしょうか。誰が、確信をもって一番働いた者、最初っから雇われた者、と言えるでしょうか。自分では「俺は(私は)出来る人間」と思っていても、結局最後まで雇われなかった人だったかもしれない。それでも、世間は俺を見る目がない、誰も私を正当に評価してくれない、といきり立っていただけかも知れないのです。

レンブラントぶどう園の労働者のたとえ  Rembrandt:The Parable of the Laborers in the Vineyard,1637



先週は王に莫大な借金をして赦してもらった家来の譬え話が取り上げられていましたが、果たして彼は決済まで自分の負債に気づけていたのでしょうか。彼は1万タラントンの借金があったといいます。それは、約6000万日分の賃金ということになる訳ですが、とても返せる額ではありません。しかし、彼からはそんな危機感は微塵も感じられないからです。

ひょっとして、「俺は出来る人間だ」、王から借りた金で行った事業もうまくいっているし、何の問題もない、と思っていたのかもしれない。しかし、蓋を開けてみれば、ずさんな経営でうまくいっていると思っていたのは本人だけで、途方も無い借金に膨れ上がっていたのかもしれません。しかし、彼は決済の時まで、つまり最後の最後まで、審判の時までそれに気づかないのです。「俺は出来る人間だ」と。これは、私たちだって他人事ではないはずです。

誰が私の評価を決めるのでしょうか。自分でしょうか。周りの人でしょうか。社会でしょうか。それとも、神さまでしょうか。私たちは、もっともらってもおかしくない働きをしてきた、もっと評価されてもおかしくない人生を歩んできた、と本当に、本気で堂々と言えるのでしょうか。それは不公平だと。私の働きに見合っていないと。私の人生には低すぎる評価だと。


確かに私たちは、朝一で雇われて、夜明けとともに働けた者かもしれません。1時間しか働かなかったものと同じ賃金なんて納得できない、と正当な文句を言えた人間だったかもしれません。では、明日はどうでしょうか。明日も同じように、朝一で雇ってもらえる保証は一体どこにあるのでしょうか。明日はその人選から漏れてしまうかもしれない。いいえ、来年の今頃は、10年後の今頃は、同じように朝一で雇ってもらえるのか。あんな1時間しか働かない者と同じ扱いにしないでほしい、と言える者であり続けられるのか。

人間、だんだんと年を取っていくと、かつて出来ていたことも出来なくなってしまうこともある。それでも、そう言い続けられるのだろうか。いつも健康でいられるわけでもない。誰からも評価されるとも限らない。だんだんと9時からの者、昼からの者、午後3時からの者となっていくのかもしれない。そして、誰からも雇ってはもらえない、と嘆かざるを得ない日も来るのかもしれない。

この主人の非常識なほどの気前の良さは、何も最後の賃金の支払いだけではないのです。この主人にとっては、最初の人たちとの契約だけで十分だったのかもしれないからです。にも関わらず、この主人は探しにいかれた。誰にも雇ってはもらえない人をも救いたいと動かれた。仕事として雇うには、あまりにも遅すぎた人たちさえも何とかしたいと出かけられた。どんな人の人生も、必ず報われる人生なのだと惜しみなく恵みを注がれた。

誰一人滅びることなく、皆が救われるようにと、生かされるようにと願われた。それが、この非常識な主人、私たちの信じる神さまなのではないか。そう思う。そして、この方のもとだからこそ言えるはずです。私たちは救われている、と。誰でも、躊躇することなく言うことができる。この方によって救っていただけるのだ、と。この変わり者の神さまによって。そうではないでしょうか。

教会花壇 日々草



《 祈り》
・本日の礼拝は敬老主日の礼拝ですが、残念ながら例年通り80歳以上の先輩方を礼拝にお招きしての敬老主日となることはできませんでした。しかし、今日それぞれの場におられるむさしの教会につらなるご高齢の先輩方を、この一年の間も日々豊かにお守りくださり、豊かな祝福をお与えくださいますようにお願いいたします。特に、体調面をお支えください。この新型コロナは特に高齢者を重篤化させやすいと言われていますので、このコロナからもお守りくださいますようにお願いいたします。

先輩方の中には入院治療をされておられたり、体調を崩しておられたり、思うように身動きが取れなくなられたり、と様々な辛さを抱えておられる方も多くおられますので、どうぞ必要な助けをお与えくださり、健やかなる日々をお過ごしになることができますようにもお導きください。健康が守られ、来年の敬老主日には多くの先輩方と共々に祝いの時を持つことができますようにお導きください。

・8月18日に小林憲弥さん・佳奈さんご夫妻にご長男準弥(じゅんや)くんが与えられたという嬉しい知らせが入ってまいりました。本当に感謝をいたします。どうぞ、あなたの守りと祝福の中で準弥くんがすくすくと成長していかれますように、またそのご家庭を豊かに祝福してくださいますようにお願いいたします。また、どうぞご夫妻に子育てに必要な力を豊かにお与えくださり、必要な助け手も備えてくださいますようにお願いいたしす。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

2020年むさしの教会敬老カード (Design:Kan Yasuma、Church Photo:Reiko Noguchi)

-週報-  2020年9月13日 聖霊降臨後第15主日礼拝



司  式 浅野 直樹

聖書朗読 浅野 直樹

説  教 浅野 直樹

奏  楽 小山 泉

開会の部( 式文A 1〜4頁 )

前  奏  キリストよ 汝は明るき日(前半) J.S.Bach

初めの歌   教会 181( ここにいます )

罪の告白

キリエ・グロリア

みことばの( 式文A 5〜7頁 )

==============
特別の祈り
すべてのものの造り主なる神さま。
あなたはみ手を差し伸べ、全世界の民をみ国に招かれます。
あなたが世界の隅々から、弟子たちを召し招かれるとき、
「み子イエス・キリストは主」と、
大胆に告白する者の群れに、私たちも加えてください。
み子、主イエス・キリストによって祈ります。
==============

第1の朗読   創世記 50:15-21( 旧約 92頁 )

第2の朗読   ローマの信徒への手紙 14:1-12( 新約 293頁 )

ハレルヤ

福音書の朗読  マタイによる福音書 18:21-35( 新約 35頁 )

みことばのうた  教会 303( このまま、われを愛し召したもぅ )

説教 「 赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師


感謝の歌   教会 399( わが神わが主よ )

信仰の告白 使徒信条

奉献の部( 式文A 8〜9頁 )

派遣の部( 式文A 10~13頁 )

派遣の歌   教会 412( 父の神 )

後  奏  キリストよ 汝は明るき日(後半) J.S.Bach

【 テキスト・音声 】2020年9月13日 説教「 赦されたから赦そう」 浅野 直樹 牧師

聖霊降臨後第十五主日礼拝説教(むさしの教会)

聖書箇所:マタイによる福音書18章21~35節

本日の福音書の日課は、これもまた良く知られた譬え話だと思いますが、人を赦すことの大切さが語られている譬え話だと思います。内容自体としては、それほど難しいものではないと思います。むしろ、すんなりと入ってくる、ある意味、私たちの常識とそんなに違わないものだとも思います。しかし、現実となると、実践となるとどうか、といった問いは常に付きまとってくるのではないか、そうも思うのです。

なぜならば、私たちはなかなか赦すことができない、といった経験を嫌という程積み重ねても来ているからです。いいえ、厳密に言えば、実は赦せていないことにも気づけていないのかもしれません。聖書が語る「赦し」とは、綺麗さっぱり忘れてしまうことだからです。赦すべき事柄を二度と思い出すことはない、ということです。ですから、「忍耐」とは似て非なるものなのです。

内心、「またか」と思いながらも忍耐することは、実は赦していることにはならないのです。あるいは、赦していると自分の心に言い聞かせながら、その人を遠ざけていくことも赦しているとは言い難い。ですから、先ほども言いましたように、今朝の譬え話も物語としては良く分かるのですが、「あなたはどうか」と問われるならば、とたんに難しさを感じてしまうのだと思うのです。



今朝の譬え話は、ペトロのある問いをきっかけに語られたものでした。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロはペトロなりに、これまでのイエスさまの話を聞く中で、そんな思いを持ったのでしょう。ここでペトロは「兄弟が」と言っています。これは、教会の仲間たちのことです。ですから、この問いの前提は教会の人たちがペトロに罪を犯した時のことを考えているわけですが、完全にではなくとも、より一般化しても良いのではないか、と思います。

例え教会と同じルールで、とは言えなくとも、やはり「赦す」ことが私たちの日常生活の中で(家族や職場の同僚、友人、クラスメート等々)求められているからです。
ここでペトロは七回まで赦すべきでしょうか、と尋ねます。これは、ペトロにとっては随分と思い切った数字だったと思います。私たち日本にも「仏の顔も三度まで」といった言葉がありますが、当時のユダヤにも似たような表現があったようです。神さまはあなたがたを三度まで赦してくださるのだから、あなたがたも三度は赦してあげなさい、と。つまり、せいぜい三度が限界ということでしょう。四度目はない…。それが、私たちの一般的な感覚でもある。

しかし、ペトロはそれを大きく超えて、まさに清水の舞台から飛び降りるような思いで、なんとかイエスさまに認めてもらおうと、評価してもらおうと、決死の覚悟で言ったのかもしれません。しかし、イエスさまは、あの有名な言葉を語られました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。ペトロの決死の覚悟の言葉により高いハードルを設けられたのか。

そうではない、と思います。実は、三度にしろ七度にしろ、本質的には同じだからです。限度を設けるという意味では変わらない。そうではない、とイエスさまは語られるのです。はじめっから限度を設けてはいけない、そんな思いで赦しを考えてはいけない、と言われる。

ところで、先ほどはペトロの問いがきっかけになって譬え話が語られたと言いましたが、よくよく見ていきますと、この譬え話はペトロの問いの答えとは全くなっていないことに気づかれると思います。そうではなくて、赦す前に赦されている現実に気づくようにと語られているからです。赦すことの大切さ以上に、赦されていることの大切さ、です。

いいえ、むしろ、両者が連動していることが大切なのです。 ここに王に負債を負っている家来が登場して参ります。その内の一人は一万タラントンの借金がありました。そう言われてもピンときませんが、聖書巻末の度量衡を見てみますと、1タラントンは6000日分の賃金に相当しますので、6千万日分の賃金ということになります。この家来は返済を待って欲しい、必ず返すから、と言いますが、一体何日働けば返せるのでしょうか。1年は365日。1日も休まずに働いても10年で3,650日分、100年で36,500日分、1,000年で…。とても人の一生では償いきれない負債です。

一体何回人生を繰り返せば返しきれるのか。私たちの教会の伝統には「煉獄」といった考え方はありませんが、そんな負債を返済し切るのに途方も無い年月がかかることを考えますと、そういった発想が生まれるのも頷けるような気がいたします。ともかく、それほどの負債を王は「憐れに思っ」たが故に赦してくださったのです。それが、この譬え話の第一のポイントなのです。


この王は神さま、そして、赦された家来は私たち一人一人と置き換えても良いでしょう。私たちは神さまに対してそれほど大きな負債があるのです。考えてみてください。なぜ私たちを救うために神の子が命を捨てなければならなかったのかを。それほどの大きな代価を払わなければ穴埋めなど決してできない大きな亀裂があるからです。十字架によらなければ償い得ない負債がある。だから、神さまは神の子を十字架につけられた。私たち
を赦すために。救うために。

なのに、この家来は自分に負債のある人を赦さなかった。ついさっき、決して償いきれない負債を、ただ憐れみの故に赦していただいたのに、あたかもそんなことなど一切なかったかのように負債を負債として取り立てようとした。そこに、この家来の問題性があるのです。そして、私たちの…。

確かに、この家来の傷は決して小さなものだとは言えないでしょう。100デナリオン、つまり100日分の賃金です。決して小さくはない。そうです。自分がこうむった被害だけを見ていれば、決して小さくはないのです。しかし、赦していただいた大きさを見るならば、そんなものは決して比較にもならないはずなのです。

そうです。私たちは自分ばかりを見つめるから赦せないのです。自分が受けた負債、被害ばかりに心を向けるから、事実以上に大きくも見えてくる。そうではなくて、まず赦されている事、ここに目を向ける必要がある。しかし、もちろん、簡単なことではありません。簡単に赦せないのは痛みがあるからです。傷つけられたからです。だから、そんなに簡単に忘れられない。でも、それでいいのでしょうか。そんな言い訳ばかりをして、自分の都合ばかりを並び立てて、赦されている事実にも目を閉ざして、この家来のようになっていくことが、果たして私たちの望みでしょうか。決してそうではないでしょう。

むしろ、だからこそ、私たちには祈りの生活が必要なのです。自分自身にではなく、神さまに、神さまがしてくださった赦しに目を向けるためにも、それでもなかなか人を赦すことの出来ない自分の心と向き合って、素直に神さまに助けを求めていくためにも、祈りの生活が欠かせないのだと思います。

ヴァランタン・ド・ブーローニュ: Valentin de Boulogne「聖マタイ」 1591-1632 、フランス、バロック・カラヴァッジェスキ一派



《 祈り 》
・いよいよ明日から本格的な鐘楼の修繕工事がはじまっていきますが、どうぞ安全に工事がなされますようにお守りください。また、工事期間中の台風襲来なども心配されますが、天候も含めて全ての危険からもお守りくださいますようにお願いいたします。

・先週から集会形式の礼拝が再開されましたが、まだまだ新型コロナの問題が沈静化していませんので、どうぞお守りくださいますように。秋から冬にかけて感染拡大が心配されていますが、適切な準備がなされて、有効なワクチンや治療薬なども整えられていきますようにお願いいたします。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン

教会の鐘楼修繕用に11日に足場がかけられた