たより巻頭言「タコの足の話」 大柴 譲治

 むさしの教会の修養会で、教会論、宣教論にからめて「タコの足」の話をいたしました。お出にならなかった方のために再録いたします。以前に西教区でも語ったことがある話です。ご笑読くだされば幸いです。

 あるとき、ビールのおつまみの袋にこういう話が載っていました。「タコは、自分で食べてしまった足は再生しないが、他の魚などに食べられた足は再生する」。本当でしょうか。魚に詳しい方に伺っても、未だに真偽のほどは分かりません。(ヒトデも同じだという話もあります。)もし本当であるとすれば、私たちの教会もタコ足教会論と宣教論を構築することができるのではないか、と思います。教会がもし自己保存のために存在しているとすれば、それは自分で自分の足を食べてしまっているタコと同じで、再生(復活)はありえません。

 聖書は教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。教会は「他者のための存在」であるときに教会であり、そのような教会としてキリストは今も実存しておられるのです。その意味で教会は、「見えないキリスト」の「見えるからだ」であると言ってよい。主は十字架の上から私たちのためにご自身のすべてを差し出してくださいました。教会(私たち)がこの世に向かってその手足を差し出して行くとき、たとえそれらが失われてしまったとしても、そこには復活の生命(再生)が約束されているのです。

 私たちは自分を捨てること、自分が失われてゆくことを、キリストのゆえに恐れなくてよい。これはタコの足のように、噛めば噛むほど味わい深い話ではありませんか。私にはそう思えてなりません。皆さんとご一緒に私はそのような教会の手足のひとつになりたいのです。