たより巻頭言「祝イースター!!」 大柴 譲治

 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:3)

 創世記によると神は最初に光を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあったと言う。そこに光が創造されたのである。ユダヤ教が土曜日を「安息日」として守っていたのに対して、キリスト教会はやがて週の初めの日である日曜日を「主日」として礼拝を守るようになる。キリストが金曜日に十字架にかけられ、三日後によみがえられたのが日曜の朝早くであったからである。ルター的に言えば、主のご復活によって「死が死を迎えた」ことになる。人間の闇の一番深いところ、どん底で、神は主イエス・キリストにおいて光をもう一度創造してくださった。主の十字架の苦難とご復活の中に、私たちに対する神の呼びかけを聴き取りたいと思う、「光あれ」という神の声を。

 パウル・ティリッヒによると、我々は三つの領域において生の不安と怖れにおののいている。死の不安、無意味さの不安、そして罪の不安の三つである。そのような不安の中にあって我々は、存在すること、生きることへの勇気を必要としている。そして、その勇気はキリストから与えられる。復活のキリストは疑うトマスにご自身の手に残った十字架の釘あとを示された。主のご復活によって我々の死と無意味さと罪の問題は終止符を打たれたのである。しかし、私たちは依然として現実にはそれらの問題で苦しみ続けている。そのような私たちに聖書はこう告げている。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント15:54-55)。

 第二次大戦中、ヒットラー暗殺計画に加わったかどで獄中で処刑されたドイツ人牧師ディートリッヒ・ボンヘッファーは最後にこう語ったと伝えられている。「これが最後です。しかしわたしにとっては生命の始まりです」。神は語った。「キリストにおいて光あれ!」すると光があった。このお方に私たちの希望がある。