たより巻頭言「呼吸について(1)」 大柴 譲治

 風薫る五月。緑が美しい。花を散らせ、がくを落とした教会の桜にも葉が青々と繁っている。緑と言っても実に多様な種類があることに気づく。季節の移り変わりの妙味を味わいながら、風の薫りを感じて深呼吸してみる。一回、二回、三回。この私が今、この瞬間、この時代、この場所に、この隣人たちと共に生きているということの神秘を思う。

 生きるとはどういうことであるのか。夜独り、床の中で胸に手を置いて考えることがある。この心臓が止まり、この肉体が呼吸を停止した時に私のこの地上での命は終わる。ちょうど朝に目が覚めるときのように、次に目が覚めるとき私は光の中にあるのだろうか。

 吸う息、吐く息に意識を集中すると自分の呼吸音が聞こえてくる。普段それが聞こえないのはおそらく、私の中で意識と呼吸とが分かち難く渾然一体となっているからであろう。呼気吸気に思いを巡らす中で気づくことがある。呼吸が止まった時に私は死んでいる。しかし今この瞬間は、私は私としてここに存在し、息をし、生きている。実は、それは自明なことのように見えて自明のことではない。なぜ私は他の時代、他の場所、他の人間ではないのか。人類の長い歴史の中、今、この時に、この場所で、この隣人たちと共に、この私として生きているのか。その不思議さにめまいのようなものを感ずる。私は私が私であるということを自分で選び取った訳ではない。向こう側から与えられたと言う他ないところから私という存在は出発している。そう思うと、すべてが奇跡のようではないか。

 『善の研究』で有名な哲学者・西田幾多郎には次のような自問自答がある。

  「かかる世に何をもって楽しみとするか」
  「呼吸するも一つの快楽なり」

 呼吸すること自体を楽しみとするような生、つまり生きることの瞬間々々を深く味わい、それを恵みとして大切にできるような生き方。それはなかなか素敵な生き方に思える。