たより巻頭言「虹を見上げる教会(1)」 大柴 譲治

 7月に教会の外壁塗装工事が完了し、山本常一作のノアの箱舟のレリーフが壁面にくっきりと浮かび上がった。箱舟を真中につがいの動物たちが一点を見上げている。魚もいる。何に向かって目を上げているのか。ハタと思い至った。神とノアとの契約のしるしである虹を見上げているのだと。

 「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」(創世記9:12-16)

 むさしの教会の礼拝堂はノアの箱舟をかたどって作られている。私たちは、動物たちと共に、神の永遠の契約のしるしとしての虹に目を向ける。その意味で、礼拝とは虹を見上げる行為であるとも言えよう。それにしても不思議なことは、神ご自身がその虹を見てご自身の永遠の契約に心を留めると繰り返されているということだ。虹は創造主なる神と被造物なる人間とを結びつける架け橋なのだ。

 雨上がりの空に陽が射すとき、蒸発した水蒸気がプリズムとなって虹を生じさせる。人生は苦しみと痛みに満ちている。雨とは逆境における私たちの涙を表しているのかもしれぬ。思えば、神ご自身も涙を流された。十字架とは神が私たちの涙をご自身の涙とされたという出来事である。

 この8月には、君島栄兄(37歳)、室岡弘通兄(70歳)、玉江祐子姉(47歳)が相次いで天に召された。涙の谷を旅するご遺族の上にやがては慰めの光が射してくることを祈りたい。一人ひとりの生と死は、それぞれかけがえのない仕方で、キリストにおける神の愛の中で虹色に輝いている。永遠の契約のしるしである虹は、今も私たちの上空で、天と地を結びつけるしるしとして大きく弧を描いて輝いているのだ。