説教 「『福音』とは何か」  ジェフリー・トラスコット牧師

ローマの信徒への手紙 3:19-28

はじめに

私をこの宗教改革記念主日の説教者としてお招きいただいたむさしの教会の皆さんと大柴先生に対して感謝します。本日の礼拝を共にできますことは私には栄誉でありまた喜びでもあります。日本ルーテル学院大学と神学校から、特に清重学長と徳善神学校校長からよろしくとのご挨拶を皆さまに申し上げます。私たちは皆さんが大学と神学校に対して大きなサポートをしてくださっていることを感謝しております。

「福音」とは何か

皆さんがご承知のように、世界中のルーテル教会は16世紀のマルティン・ルターの改革的な働きにその源をもっています。それらの多くの教会は、「ルーテル教会」とか「福音教会」または「福音ルーテル教会」という名前を有しています。皆さんは日本福音ルーテル教会という教派に所属しているわけですし、私はアメリカ福音ルーテル教会に所属しています。皆さんはなぜ私たちが自らをそのように「福音」ルーテル教会と呼んでいるか考えたことがおありでしょうか。

ウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の中で、ジュリエットがこう語る場面がありました。

「でも名前が一体何だろう?私たちがバラと呼んでいるあの花の、名前がなんと変わろうとも、薫りに違いはないはずよ。」(新潮文庫、中野好夫訳)

何かに名前をつけることでそのものの基本的な性格を決定したり変えたりすることはできないという意味でジュリエットは正しいのです。しかし他方で、名前というものはとても重要です。それはものごとや人々の集団の目的に私たちの注意を喚起するからです。

「福音」という言葉はギリシャ語の「よき音信 good news 」という意味の言葉から来ています。私たちが「福音ルーテル」教会員であるということは、私たちの使命が福音を宣べ伝えることにあるということを表しています。

本日の使徒書の日課(ローマ3:19-28)は、マルティン・ルターが彼の福音理解のためには重要だと発見した聖書の箇所です。それゆえそのテクストは私たちに「福音」教会に所属するということが何を意味するか理解することを助けてくれます。

「神の栄光に届かない」という言葉の意味

第一に、福音主義教会は次のように宣言します。自分の努力によって私たち自身に神との正しい関係を獲得することは不可能であるということを。本日の使徒書の日課で聖パウロは次のように語っています。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(20節)。

ここで「律法」とは、神が私たちになすべきと、あるいはなすべきではないと命じた事柄を意味します。十戒は神の律法の中核です。それゆえ、ここでのパウロの考えは、十戒にただ従うということが私たちを神との正しい関係に置くのではないということになります。結局、私たちが律法を必要としているという事実自体が、私たち自身が不完全な罪人であるということを示しているのです。さらに加えて、私たちには律法が要求することを完璧に満足させるということは不可能なのです。パウロは言っています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23-24節)と。

ここでパウロが「神の栄光を受けられなくなっている(栄光に届かない)」と言うことで何を言おうとしているか語らせてください。私たちは神の似姿に創造されています。私たちの愛する能力、創造する能力、他者と関係を形成する能力は、神がどのようなお方であり、何をなさろうとしているかということを反映しています。他の存在との愛の関係を持とうと望まれたがゆえに、神はこの世界を創造されたのです。

しかし、人間は憎しみを抱き、破壊し、人間の共同体を滅ぼすゆえに、私たちはもう神の似姿、または神の栄光を反映しなくなっています。すなわち、ちょうど走り幅跳びの選手が彼の目標に届かないで手前に着地してしまうように、私たちは神の栄光を受けられなく(神の栄光に届くのに足りなく)なっているのです。なぜなら、私たちの罪が私たちが神のようにあることを妨げているために、私たちは神との完全な交わりに入ることができないのです。

罪の強大な力

私たちの人生において罪はあまりにも強大な力を持っています。それが、「私たちは罪の虜となっており、自らを解放することができない」(アメリカ福音ルーテル教会の礼拝式文LBWの中の言葉)という言葉の意味です。

「私たちは罪の虜となっている」という言い方に反対する人々もいます。「キリストが私たちを自由へと解放してくださった」と彼らは言います。確かに、主は私たちを罪の罪責から解放してくださいました。キリストのゆえに神が私たちを赦してくださったのだから、私たちは神との正しい関係に入れるかどうかについてはもう心配しなくてよい。自由とされているからです。神の赦しが私たちを隣人を愛し、隣人に仕えて行くことへと解放してくださったとそのような人々は考えているのです。

しかし、キリスト・イエスは確かに私たちを自由へと解放してくださったけれども、私たちを完全なものとしてくださったわけではありません。私たちが完全さを獲得することができるのは、キリストが再臨し、罪と死の力を完璧に打ち砕いてくださる終わりの時なのです。それまで私たちは罪と邪悪から逃れることはできないのです。

そのあたりの事柄を次のように説明させてください。私たちの皆が銀行にお金を預けています。恐らく、私たちの知らないところで、このお金は環境破壊を行ったり発展途上国の人々を抑圧したりしている諸企業に貸し与えられているのです。そのお金がどのように用いられているか質問する時を持ったにせよ、そこで与えられる答えは恐らく真実ではないでしょう。それにも関わらず、私たちの内の誰も、安全のために、銀行にお金を預けないでいることを望まないのです(皆、銀行に預けます)。このことに関して、私たちは一つの難しい道徳的ジレンマに捉えられます。もちろん、私は銀行にお金を預けることが罪だと言っているのではありません。罪と邪悪とは、私たちが知る以上に複雑な仕方で、私たちが変える力を持つよりもはるかに様々な仕方で、私たちの人生に関わりうるということを言いたいのです。

同様にまた、聖パウロのように、私たちが望んでいる善を行うことに対して無能力であるということに気づく時に罪の力はあらわにされます。私はいつも注意深く、ある人々やある状況に対して自分が怒りを覚えることがないようにと思っています。しかし気がつくと私は結局そのような状況の中で怒ってしまっている。そうなるたびに私は自分の勇気がくじけ、希望がなくなってしまったように感じます。皆さんも自分の悪い行動パターンを変えようとしてしばしば無力感に苦しむことがあるかも知れません。私たちの人生において罪の力があまりにも強いために私たちは神のみ前に立つことができず、私たちは神の愛と恵みに価すると主張することはできないのです。神の前で私たちは自らを義とすることはできない。私たちが神との正しい関係に入ることができるとすれば、それはただ神ご自身がそのようにしてくださるからなのです。これが神がイエス・キリストにおいてなしてくださったことでした。そしてこれが「ゴスペル」、つまり「福音」なのです。

贖罪の血

そうであればこそ福音教会は、第二に、「イエス・キリストにおいて神は罪の力に勝利してくださり、私たちは神との正しい関係に入ることができた」と宣言しているのです。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」とパウロは語ります(26節)。

ここでの言葉は、旧約聖書のレビ記に記されている「大贖罪日の儀式」という光の中で理解されなければなりません。古代のヘブル人の思考方法においては、罪が神殿の聖域(サンクチュアリー)部分を「汚し」、あるいは汚染すると考えていました。聖域とは、神殿の一番奥にある部分で、モーセに与えられた律法の二枚の板の入った聖なる箱が置かれていた場所です。もし聖域が諸々の罪によって汚染されたままだとすると、神殿の聖域で顕わされる神のご臨在はそこにとどまることができず、そこを去ってゆかれるであろうと彼らは考えたのです。

一年に一度、神殿を罪から清めるために犠牲の動物の血が聖域の様々な部分に注がれました。特に、聖なる契約の箱の覆い部分に注がれたのです。血は清めのための「洗剤」として機能したのです。それは、罪を清めるということはその罪を修正する、または「贖う」ことだという思想でした。神の戒めを成就するために血を用いるということが、神を彼の民と和解させることを可能としたのです。

イエス・キリストにおける和解の賜物

イエス・キリストにおいて父なる神はご自身を人類と和解させる新しい方法を与えてくださいました。義は罪人が罰せられるべきことを要求しましたが、神は過去の諸々の罪を罰せられないままでいることを許されたのです。このことは神の側で無視されていたのではなかった。そうではなくて、神が人類を罪から救うために新しいイニシアチブをもって今や行動しておられるということを示すためのものだった。その独り子を犠牲にすることで父なる神は義が要求したことを行ったのです。なぜなら罪のためにはだれかが死ななければならなかったからです。罪なき者を犠牲として差し出すことで神は律法が要求することを実行したのです。犠牲は純粋無垢できずのないものでなければならなかったからです。

義と律法とが要求することがイエス・キリストにおいて満たされたために、私たち聖ではない罪人が神の前に聖なるものとされ、義とされたのです。純粋無垢で罪なきイエスの血潮が私たちの罪を覆ったのです。この贖罪のみ業、和解のみ業は、私たちが自分で成し遂げることができるようなものではなかった。罪から私たちが清められると言うことは神からの賜物でありギフトなのです。今私たちがなしうることは、ただイエスが私たちのために犠牲となられたということを信じることだけなのです。

神の行為への応答としての信仰

それゆえ、福音主義教会のメンバーであるということは、最後には、信仰とはイエス・キリストにおける神の行為に対するふさわしい応答であるということを私たちに思い起こさせてくれます。

本日の日課の中でパウロは、「神がイエス・キリストを信じる信仰を持つ者を義としてくださる」と語っています。換言すれば、信仰者は神との正しい関係の中に置かれるということです。キリストが私たちのために死んでくださったということを信頼するとき、私たちは自らの努力によって神の前に義となることができるといういかなる考えに対しても死ななければならないのです。そして私たちは神の恵みに完全に依存しているという認識に到達するような新しい生命に復活させられているのです。信仰がこのような死と復活とを現実に可能とするとき、私たちは神との正しい関係に生きることができる。これが信頼と依存に根ざした関係なのです。ちょうど、子供が自分のために食べるものや着るものを備えてくれる親に全く依存し(頼り切り)、親はいつもよいものであるということを信頼するのと同じように。

よくある誤解

残念なことに、信仰はしばしば誤解されています。私たちルーテル教会員は時折、信仰とは宗教の教理的な知識のことであり、そのような知識を十分にもつことが私たちを神の前に義とするのだと考えてしまいがちです。他のプロテスタント教会では、信仰とは感情(フィーリング)であり、情緒的な回心体験においてそれが頂点に達するときに、人は神との正しい関係に入ることができると考えます。どちらの場合も、信仰は計測可能な実体(何か)として見られており、キリスト者の生とは単にそれを十分に獲得することだということになるのです。ちょうど、車のガソリンタンクにガソリンを入れることが車を走らせたり、あるいは食糧を買うために十分なお金を得ることが必要なように。

賜物(ギフト)としての信仰

知識と情緒は共に宗教的体験には重要なものですが、信仰とはものではないし、計量することもできないものなのです。人はそれを十分に獲得することは決してできない。信仰とはむしろ神の約束を信じようとする絶え間ない格闘です。信仰生活は絶えざる悔い改めを含んでいます。すなわち信仰とは、自らの利己的な欲望から遠ざかり、服従において神に向きを変えることと愛において隣人へと向きを変えることを含んでいるのです。マルティン・ルターは「洗礼は日ごとの悔い改めに導く」と述べています。日ごとに罪に死に、キリストと共なる新しい生命に生き返るのです。また、「信仰」とは、練習を積んでよいテニス選手になるようには、私たち自身の努力によっては獲得されないものです。むしろ、信仰とは神からの賜物(ギフト)であり、教会の説教と聖礼典を通して聖霊によって分け与えられるものなのです。マルティン・ルターは小教理問答で次のように言っています。

わたしは、自分の理性や能力によっては、わたしの主イエス・キリストを信じることも、みもとにくることもできないことを信じます。けれども聖霊は、福音をとおしてわたしを召し、その賜物をもってわたしを照らし、まことの信仰のうちにきよめ、支えてくださいました。それは聖霊が、この地上の全キリスト教会を召し集め、照らし、きよめ、そしてイエス・キリストにある、まことの、一つの信仰のうちに支えられるとおりです。

神は常に私たちの信仰を造り上げようと働いておられるのです。それは現在進行中の働きなのです。その意味で、私たちは決して霊的な富士山の頂上に辿り着くことはないのです。

名前とは何か

名前とは何でしょうか?ルーテルの会員としては、「福音(主義)」という名は大切な意味を持っています。それは私たちに私たち自身の使命(ミッション)を思い起こしてくれます。罪深い人類には私たちの罪のために犠牲となってくださったお方ーイエス・キリストがどうしても必要なのだという人類のニーズを宣べ伝えるというミッションです。「福音」という名は私たちにイエス・キリストの福音(ゴスペル)が信仰において受け取られるべきことを思い起こしてくれます。そしてその信仰によってのみ私たちは神との正しい関係に入ることができるのです。

祈り

祈りましょう。

父よ、私たちを福音の使命(ミッション)のために新しくしてください。十字架につけられて死者の中からよみがえらされたイエス・キリストのよき音信を大胆に告知して行くことができるよう私たちを助けてください。私たちを信仰と奉仕において強めてください。他の人々を私たちの主の救いの智恵に導くことができますように。私たちの主キリストを通して祈ります。アーメン。

(2001年10月28日 宗教改革記念主日 礼拝説教  通訳:大柴譲治)

ジェフリー・トラスコット博士は、米国ペンシルバニア出身の牧師で、トリニティールーテル神学校(M.Div)、ゲティスバーグルーテル神学校(S.T.M)、ノートルダム大学(PhD)をご卒業。現在はルーテル学院大学・神学校でご専門の礼拝学を教えておられる。