説教 「勝利者キリスト」 大柴 譲治

ヨハネ福音書16:25-33

召天者記念主日

教会暦では毎年11月1日は全聖徒の日、私たちは毎年11月の第一主日に召天者記念主日を守ります。この日は特に信仰をもって召された信仰の先輩たちを覚えて祈る日ですが、もっと広い意味で私たちにつながる逝去者たちを覚えながら、み言葉に耳を傾けてゆきたいと思います。

十戒の第四戒に「父母を敬え」という戒めがあります。私たちの存在の背後には、私たちの両親をはじめ、大勢の人々があったことを思います。私たちは過去に生きた人々の後裔です。時間というものの流れの中に連綿と続いてきた命の木に枝として私たちはつながっているのです。

私たちはこれまで愛する者との悲しい別れを体験してきました。どんなに愛し合っていても人は一人で生まれ一人で死んでゆく。その意味で人は徹底的に孤独な存在です。死をどのように受け止めてゆけばよいのか。死の痛みと不安とをどのように乗り越えてゆけばよいのか。そう考えるとき、私たちは大きな壁の前に立ち尽くしています。立ちはだかる死の壁のどこに突破口があるのか。

先取りして言えば、キリストの十字架にこそその突破口があると聖書は告げています。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と弟子たちに語られた主キリストにこそ、私たちの脱出路があり突破口があるのです。

森繁久弥氏の場合

最近私は、レオ・バスカーリアの『葉っぱのフレディー~いのちの旅』(童話屋)という本を知りました。この童話は新聞などにも紹介されていましたから、お読みになられた方もおられることでしょう。その本の朗読をCDに録音した俳優の森繁久弥さんのインタビュー記事をご紹介したいと思います。

ー今年ご長男を亡くされました。

「あなた、考えてもご覧なさい。86のこの年になって、かわいがっていた息子を亡くすということを。たまらんですよ。何のために生きて、何のために名の知れる俳優になったのか。まったく馬鹿馬鹿しい。自分で問い続けると泣く。もう、泣くしかない。」

ーしかし、なんとかやっと立ち直られた。

「レオ、バスカーリアという人が書いた『葉っぱのフレディ』という本に出会ったんです。この本を読んでいるうちに、感動して、悲しみからなんとなく脱却できたんです。死に向かって生きている、主人公のフレディという葉っぱの一生が、素直にこころの中に入ってきた。それで、この本の朗読を引き受けてCDに録音したんです。」

ーなにが一番こころに響いたのでしょう。

「僕がやった芝居の中に、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』というのがあります。最後の場面で、主人公シラノが大けがをして修道院にやって来て語り始める。『木の枝から土の上までの短い旅路を、かくも品よく、体よく、散っていく末期の美しさ』とね。辰野豊さんの訳だったこの台詞を、『葉っぱのフレディ』を読んでいてふっと思い出しました。フレディの作者、レオ・バスカーリアも『シラノ』を知っていたんじゃないかなと。それで、葉っぱを主人公にしたこの本を書いてやろうと思ったような気がするんです。僕には葉っぱの気持ちがよくわかる。僕自身、死にたいする恐怖感はないし、いつ死んでもいいんだけど、ただ葉っぱのように、品よく体よく散っていきたいですねえ」。

『葉っぱのフレディー』あらすじ

『葉っぱのフレディー~いのちの旅』のあらすじについて触れておきましょう。

主人公はフレディという一枚の葉っぱです。春、太い枝に生まれたフレディは、周りの葉っぱは全部自分と同じかたちをしていると思っていたのですが、そうではないことに気づきます。フレディの親友はダニエル。フレディはダニエルから、土の下には四方に広く深く根っこが張っていることや、月や星、太陽など自然界のことを教えられました。友だちもたくさんできて、彼は自分が葉っぱに生まれて本当によかったと思う。

夏、人々が公園に木陰を求めてやって来ます。フレディたちは葉っぱをそよがせ涼しい風を送ってあげました。人々は木陰でお弁当を広げ、楽しい時を過ごしてゆきます。

夏は駆け足で通り過ぎ、秋になりました。十月の終わり頃、突然寒さが襲い、雪が舞い始める。フレディもダニエルもみんな寒さに震えました。霜も降りはじめ葉っぱは一気に紅葉しました。一緒に生まれた同じ木の同じ枝の葉っぱですが、太陽の当たる角度、一日の気温、風の当たり方など、それぞれの経験がすべて違うために紅葉もそれぞれの色の違いがあることを知りました。

とうとう冬が来て葉っぱの役目が終わり、一枚残らずここから引っ越しするときがやって来ました。フレディは悲しくなりました。そしてダニエルにこう言ったのです。「引っ越しするとか、ここからいなくなるとか君は言いっていたけど、死ぬということでしょう。僕死ぬのが怖いよ」と。ダニエルは、「まだ経験したことがないことは、怖いと思うものだ。考えてごらん。変化しない世界は一つもないんだよ。春が来て夏になり、秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散ってゆく。変化するって自然なことなんだ。僕たちも変化し続ける。死ぬということも、変わることの一つなんだよ。いつかは死ぬさ。でも命は永遠に生きているんだよ」と教えてくれました。葉っぱも死ぬ。木も死ぬ。春に生まれて冬に死んでしまうフレディの一生はどういう意味があるというのでしょう。その日の夕暮れ、ダニエルは満足そうに枝を離れてゆきました。

次の朝は雪。フレディは明け方迎えに来た風に乗って枝を離れました。痛くも怖くもありませんでした。空中に舞ってやがて地面に落ちたフレディは、その時初めて木の全体の姿を見たのです。そしてフレディはダニエルの「いのちは永遠に生きるんだ」ということばを思い出しました。フレディは知らなかったのですが、冬が終わり春が来ると、雪は溶けて水になり、枯れ葉のフレディは水に混じり、土にとけ込んで木を育てる力になってゆくのです。ふたたび春がめぐってくるところでその絵本は閉じられてゆきます。

これは、生きるということと死ぬということを大きな命の変化というものの中で深く考えさせてくれる本です。死は終わりではなく、大きないのちのサイクルの中での一つの変化なのだと語られています。

勝利者キリスト

本日の福音書の日課の中で主イエスは次のように語られます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。キリストの勝利を表すのがあの十字架です。実は十字架には二種類あって、キリスト像のついた十字架とキリスト像のついていない空っぽの十字架があります。それらは「受難の十字架」と「復活の十字架」と呼ばれます。キリスト像のついたものはキリストの受難を強調し、ついていないものはキリストがよみがえられたことを強調するからです。復活の十字架はキリストの復活の勝利をも示しています。死が死を迎えた。パウロもまた今日の第二日課でこう書いています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(1コリント15:54-57)と。

絵本の『葉っぱのフレディ』に重ね合わせて考えてみるならば、森繁久弥氏の子供を亡くした悲しみを深く慰めたのは、フレディを優しく包んだ、暖かい太陽の光であり、恵みの雨であり、さわやかなそよ風であり、冷たく美しい雪でした。大自然の恵みがフレディを包んでいたのです。大きな大自然のいのちにつながるということ、神さまのいのちにつながるということの恵みを作者のレオ・バスカーリアは印象的に描いたのだと思います。

しかし、そのような大きないのちにつながるためにはどうしたらよいのか。悲しみや苦しみが私たちを襲うときに、いのちにつながり続けるためにはどうすればよいか。そこに主イエス・キリストの十字架が与えられるのです。

主は十字架の敗北の中に勝利を隠しておられました。私たちがもう一度、神さまの恵みを味わうことができるように、大自然のいのちにつながって生きることができるようにあの復活の十字架は与えられています。主は私たちにこう語られるのです。「あなたがたには確かにこの世で苦難があり、悲しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。わたしにつながっていなさい。あなたがたに豊かないのちを得させるためにわたしは来たのだ。わたしはよみがえりであり、命である。わたしはあなたをけっして見捨てはしない。平安あれ。わたしの勝利があなたがたを守る」。

聖餐への招き

今日、私たちは聖餐式に与ります。これは主が私たちに、終わりの日の祝宴を先取りして、いわば「前祝い」として与えてくださった恵みの出来事です。そしてこれは主イエスと私たちとの契約の食事でもあります。「取って食べなさい。これはあなたのために与えるわたしのからだである。また、これはあなたのために流すわたしの血における新しい契約のしるしである」と言って、主はパンとぶどう酒とを弟子たちに回しました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という言葉を私たちに深く味わわせるために、主は今日、私たちを招いてくださっています。

私たちを招いてくださるお方は、死と罪と悲しみのすべてに勝利された勝利者キリストです。ここに私たちの苦しみからの脱出路、命への突破口がある。そして天に召された信仰の先達たちは私たちにその突破口を証ししています。その中には、病床で死を意識する中で主を信じて洗礼を受けられた兄弟姉妹もおられます。苦しみ多いご生涯をただひたすらキリストに向かって駆け抜けてゆかれた兄弟姉妹もおられる。残された者にも「ああすればよかった、こうすればよかった」と様々な無念な思いが残っているかもしれません。しかし私たちには、それらをすべてキリストにお委ねすることが許されている。主こそは、フレディを暖かく包んだ太陽の光であり、恵みの雨であり、さわやかないのちの風だったのです。私たちの生も死もすべてはキリストの愛の中に置かれています。

ここにお集まりの方々の上に、特に本日は島田療育センターから四名の兄弟姉妹がご出席ですが、皆さまの上に、神さまの豊かな恵みと慰めと希望とが与えられますように。私たちがキリストの与えてくださった大きな命につながってゆくことができますように。 アーメン。

(1999年11月 7日 召天者記念主日聖餐礼拝)