たより巻頭言「街路樹に想う」 大柴 譲治

「たとえ明日、世界の終わりがこようとも、今日、わたしはリンゴの木を植える」

 車を走らせているとときおり街路樹の美しい道があることに気づく。青梅街道から杉並区役所の所を曲がって中杉通りに入る瞬間は、いつもハッとするほどすばらしい。そこには四季折々の、変化に富んだ味わいがある。暖かくなってくるにつれて木々は長い冬の眠りから目覚め、次第に芽吹いてゆく。命の躍動がゆっくりとではあるが始まっているようだ。これからは両側のケヤキも葉を出し、ちょうど緑のトンネルとなってゆく。阿佐ヶ谷駅から早稲田通りにかけても両側に八重桜とケヤキが交互に植えられていて味わい深い。青梅街道にも、荻窪警察署のあたりにはイチョウが両側に植えられているし、井草八幡宮あたりからは大きなケヤキが美しく天に向かってそびえ立ち風になびいている。誰が植えたのであろうか。そこを通るたびに思う。街路樹を植えてくれた人のことを思うと自然と頭が下がる。将来道行く人がそれらの木々を見て幸福な気持ちになってくれればと心をこめて植えてくれたのであろう。木を植えるということはかくも大切なことであるのだ。

 マザーテレサは人の価値というものは自分に何を得たかではなく何を人に与えたか、何を人と分かち合ったかというところにあると言った。未来のために木を植えた人々がいた。自分のためではなく自分の子孫たちのためにそうしたのだ。彼らは未来を信じて木を植えた。そこに私は尊いものを感じる。もしかすると私たちの人生にはそのようなことがたくさんあるのではないか。私たちがそれに気づかないでいるだけなのだ。サンテグジュペリは『星の王子様』の中で言っている。「肝心なことは目に見えない。心の目で見なければ見えないんだ」と。自分のためではなく誰か人のために行う無償の小さな愛の行為。それは心の目で見るとき輝いて見えてくる。

 陽光のシャワーを浴びながら、生かされていることの幸いを思う。時は春。緑の季節が始まろうとしている。教会の桜もあと一月で花を咲かせてくれるであろう。街路樹は私たちに忘れていた何かを思い起こさせてくれる。自然と一体であったときの記憶だ。田んぼのぬかるみの中をザリガニやオタマジャクシを追ったあの幼い頃の記憶である。森の中を駆けめぐり、セミや蝶を追ったあの頃もやはり緑は美しかった。

 戦争のうわさを聞く。大人は幼い子供たちの心を傷つけてはならない。子供たちは灰色や赤色の世界ではなく、緑の世界に生きなければならないのだ。平和のために祈りたい。