いかなる時にも 賀来 周一

二つの信仰形態

クリスチャン・ドクターとして有名な精神科医赤星進先生は、信仰には二通りあると主張し、その一つを「自我のわざとしての信仰」、他を「神のわざとしての信仰」と名付けました。「自我のわざとしての信仰」とは、あくまで「私」が信じる信仰であって、言い換えれば、自分が主役となって信じる信仰で、自己中心の信仰のことです。それに対して「神のわざとしての信仰」とは、神を主役とする信仰であって、神が「私」に働いてくださることを信じる信仰を意味します。精神科医である赤星進先生は、心の病を持つ人々にとって「神のわざとしての信仰」としての信仰はとても大切だと主張されます。神が働かれることを信じるなら、たとえ病を負ったままでも、その病を負いつつ生きることができるからです。

人格心理学者として著名なゴードン・オルポートは信仰のあり方には二通りあると主張し、自己中心的な信仰のあり方を外発的宗教志向、それに対し神中心的な信仰のあり方を内発的宗教志向と言っています。上記の赤星先生が言う「自我のわざとして信仰」は外発的宗教志向にあたり、「神のわざとしての信仰」は内発的宗教志向に当てはまります。

オルポートは、この二つの信仰形態はわたしたちの中で互いに対立し、争っていると言います。例えば、神さまにすべてお任せしたから、これから先病気が良くなろうが悪くなろうが構わないと信じている反面、信仰があるのだから神さまが病気をいやしてくださると内心願っているような心理状況があるということです。このような内面的葛藤を経験しない信仰者はほとんどいないはずです。

オルポートは、いざという時には外発的宗教志向は役に立たないと申しました。信仰者としてこの二つの信仰の戦いを真剣に経験した人であればあるほど、いざという時、終わりの勝利を導く信仰はどうあればよいかをよく心得た人です。

 

キリスト者の自叙伝と内発的宗教志向

キリスト者が晩年に至り、自叙伝を書こうとするなら、「私」が如何にキリストを信じたかを書いたとしても自叙伝とはならないと言われます。キリスト者の自叙伝は、「私」の人生に如何にキリストが働いてくださったかの記録でなければならないと言うのです。如何にキリストを信じたかを書くなら、書くことができることだけを書くことになりましょう。書きたくないことは省略するにちがいありません。

キリストは、「私」の人生のすみずみに至るまで働いてくださいました。その働きの記録は、「私」が幸せを感じる時にはもちろん、誰の目からも隠したい秘密の場所にも、「私」が失敗した時も、「私」が挫折した時も、「私」がもっとも大切と思っていたことを失った時、「私」が不信仰におちいった時にも残されているはずです。キリストが働いてくださらなかった人生の時や所はどこを探してもありません。この記録をこれまでの人生の歩みの中に発見する人は幸いです。何が起ころうと神の働き場が『私』の人生の中にあるのですから。その記録がキリスト者の自叙伝となるのです。それを教えるのが「内発的宗教志向」と言えるでしょう。