説教 「心の宮清め」 大柴譲治牧師

ルカによる福音書19:28-48

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

タイから帰国して

久しぶりにこの説教壇に立つような気がします。先週の日曜日は後藤直紀牧師に後を託して、私自身は、タイのウボンラチャタニというタイ東北部イーサン地方の、それはタイの中でも貧しい農村地帯でしたが、ラオス国境に近いところにあるコークノーイ教会において、関野和寛神学生、今日この後に堅信式を受ける原貴恵子ちゃん、私の娘の大柴麻奈などと一緒に30人ほどのタイのクリスチャンと共に主日礼拝を守りました。それはなかなか印象に残る礼拝でした。3/24から4/1まで八泊九日で真夏のタイを体験してまいりました。連日35度前後という暑さの中で、灼熱の太陽にこんがりと焼かれて帰ってまいりましたら、もうすっかり散ったと思っていた教会の桜もまだ満開で驚かされました。日本はずいぶんと寒い毎日だったそうですね。

ホームグラウンドであるむさしの教会で聖餐礼拝に与れることを最初に感謝したいと思います。タイは仏教国で、キリスト教の信仰を持つということは、特に貧しい農村部においては厳しい迫害と村八分とを覚悟しなければならないほど過酷な状況にありました。しかし、そのような中で、キリストの福音を信じて喜びに輝く教会員たちの顏は忘れられない刻印を参加者たちの心に残したと思います。キリストを信じることでそれまで苦しめられていた悪霊から自分は解放されたという証しをいくつも耳にしてきました。それはまさに福音書にイエスが悪霊に苦しめられている人々から悪霊を追い出す奇跡を行ったのと同じ世界でした。

ある人は交通事故のため全く歩けない状態になってしまったが、7年前にイエスさまを信じて洗礼を受けると歩けるようになったと証しされましたし、タイルーテル教会のビショップ(監督)からも、自分は12歳から19歳までは仏教の僧侶であったが悪霊に取りつかれたのをキリストを信じることで癒されたということ、そしてそれ以降自分は悪霊払いを通して多くの人々をキリストの福音に導いてきたこと、仏教は教えだけだがキリスト教は教えと悪霊をも従える権威とを持っていることなどを驚きをもって聞いてまいりました。

悪霊というものをどちらかといえば「人間を疎外し、非人間化する構造的な悪」のように理解してきた私自身はそこで大きなチャレンジを与えられたように思います。

コークノイ教会は、もともと悪霊に取りつかれている呪われた土地と言われる場所を買って教会を建てたということもその伝道師から聞きました。仏教というよりもむしろアニミズム(原始宗教)と言うべき現状の中で、まことの救い主を信じるということの原点を示されたように思わされた旅でした。15歳と17歳の高校生が二人、20歳の大学生が二人、24歳の神学生と28歳の看護師と39歳と47歳の二人の牧師という8人の日本人グループでしたが、若い参加者たちには大きなインパクトを与えた旅であったと思います。

困難な中で信徒と共に命がけでコツコツと地域に対する伝道と奉仕の活動を続けている宣教師や伝道師たちの働きを見る時に、改めて自分自身の姿勢を正されるような思いもいたしました。一泊だけでしたが電気がない山の上にある信徒の家にも泊めさせていただきましたし、三ヶ月前に電気が来たという貧しい農村にも信徒を訪問しました。関野神学生が「キリストの福音が電気よりも水よりも何よりも早くこのような辺境の地にまで到達しているという事実に改めて目が開かれた思いがする」と語っていましたが、全く同感でした。

棕櫚主日に

本日は棕櫚主日ということでイエスさまがエルサレムに子ロバに乗って入城される場面が描かれています。弟子たちは喜び歌います。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光!」 これはゼカリヤ書9: 9-10の預言の成就であり、「柔和な王」の到来です。

(9)娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。
(10)わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。

いよいよ今日から受難週が始まります。主の十字架の歩みを覚えて過ごす一週間です。本日は特に、主イエスがエルサレムに入って最初になされた宮清めの出来事に目を向けたいと思います。

その前に、本日の第二日課を抑えておきたいと思います。その使徒書の日課にはフィリピ2章の「キリスト讃歌」と呼ばれる個所が与えられています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。神と等しくあられたお方が、自分を無にしてへりくだり、しかも最底辺である十字架の道を歩まれた!それはなぜか?このことを通して天地万物がイエスの聖名の前にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるためだ、とパウロは言うのです。

実は、主が子ロバに乗ってエルサレムに入って行かれたこと、そしてそれに続いて、「私の家は祈りの家でなければならない」と言って神殿から商人たちを叩き出したというのはかなり過激な行為であったわけですが、それは見る者たちの思いをハッとさせたものであったと思われます。イエスさまのなさることはいつも過激でストレートです。それを通してイエスさまは私たちに大切なことを教えておられるのです。それは何か。私にはそれは主がそこで私たち自身の生き方を清めようとされた、私たち自身の心の宮清めを行われたということなのではないかと思われてなりません。

教会はキリストの身体であり、私たち一人ひとりがその部分です。パウロには「私たち自身が神の神殿である」という言い方が1コリントには繰り返し出てきますが、「私の家は祈りの家でなければならない」とは、キリストの神殿である私たち自身の生活や存在そのものが神へと方向づけられた祈りの家として整えられて行かなければならないということでありましょう。そのために主は十字架にかかられたのです。私たちの心の宮清めを行うために主は十字架の上ですべてを捨ててくださったのです。子ロバに乗った柔和な王、平和の君として来てくださったキリストは、どのように絶望的な状況に置かれた人々にも希望の光をもたらしてくださったのです。

私が先週、タイで出会ったキリストを信じる者たちの姿は、貧しさや弱さの中で輝いていました。15歳で嵐のために倒れてきた木の下敷きになって、下半身の自由を失ったノイという名前の車イスの女性は、キリストを信じることで本当の自由を得ることができたと輝く笑顔で語ってくれました。また、そのご両親も、娘の信仰によって導かれて、7年間毎週毎週娘を教会に連れてゆく中で、呪術を信じる者からキリストを信じる者へと変えられてゆきました。彼らは苦難の中で生けるキリストと出会ったのです。自分の苦しみ悲しみをすべて背負ってくださるお方と出会ったのです。

一つひとつの証しが圧倒的な迫力を持って迫ってくる生けるキリストのドラマでした。キリストが一人ひとりを本当の自分として解放していったのです。悪霊に苦しめられていた者たちがキリストを信じる信仰によってその苦しみから解放されていったのです。主が心の宮清めをしてくださったのです。

原貴恵子姉の堅信式と聖餐への招き

先週、コークノーイの教会で証しをしてくれた原貴恵子姉がこのあと堅信式を受けられます。このことは、これまで貴恵ちゃんを愛し、育んでこられたご両親をはじめ、私たち皆にとって大きな喜びです。私は牧師としていつも最前列で神さまの救いのドラマを観させていただいているような思いがいたします。

本日、私たちは聖餐式に与ります。キリストは十字架にかかる前日、弟子たちにパンとぶどう酒をご自身の割かれる身体と流される血潮として分かち合われました。神との新しい契約が締結される時には犠牲の血潮が流される必要があったのです。この恵みの食卓において今も生きて私たちを招いてくださっている主イエス・キリストの救いのドラマに与りたいと思います。この聖餐の食卓こそ私たちのために備えられた心の宮清めなのですから。お一人おひとりの上に神さまの豊かな恵みがありますようお祈りします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年4月4日 棕櫚主日聖餐礼拝説教)