説教 「癒しと救い」 大柴譲治牧師

ルカによる福音書17:11-19

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

「重い皮膚病」について

本日の福音書の日課には10人の病人が登場します。彼らは等しく重い皮膚病に全身を覆われていました。当時の社会の中で彼らは「らい病」と見なされ、社会から隔離されていました。「らい病」は現在では「ハンセン病」(1873年ノルウェーの医師ハンセンが長い間遺伝病と思われていたところ「らい菌」による感染症であることを発見。24年後の1897年第1回国際ハンセン病学会議でハンセン病が感染症であることが正式に認められた)と呼ばれ、完治が可能な病気ですが、当時は「業病」とも呼ばれ、その病気に罹ることは辛い悲劇をもたらすこととなりました(日本においてもごく最近までそうでした。管理・隔離を強化するためのらい予防法が廃止されたのは1996年)。

ユダヤ人社会においても重い皮膚病を患っている者たちは社会から隔離され、街に近づく時には遠くからもその存在が分かるように鈴や音のするものを持って「わたしは汚れた者です」と自ら声を出しながら歩くようにと定められていたようです。本日の箇所にもこう記されています。「重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った」(12-13節)。遠くに立って叫ぶ姿の中に彼らの深い悲しみが込められています。

この出来事の背景について少しだけ説明しておきましょう。場面はサマリアとガリラヤの間です。10人のうち9人はユダヤ人、一人はサマリア人でした。ユダヤ人とサマリア人は、もともとは同族でしたが、サマリア人は北王国イスラエルが紀元前721年にアッシリアに滅ぼされた後、異教のカナン人との混血によって生まれた民族でした。ユダヤ人とは犬猿の中で、互いにほとんど関わりのない生活を送っていたのです。しかしここでは9人のユダヤ人と1人のサマリア人は病気のため一緒に暮らしていました。病いや涙はしばしば人々を対立を越えて連帯させてゆく不思議な力を持っています。彼らは「わたしたちを憐れんでください」と一緒に声を上げています。そこには何の差別も区別もありませんでした。

汚れと清め~因果応報

レビ記の13章には祭司がその病気を診断することについて詳しく記されていますし、14章にはそれが癒された時の清めの儀式が詳述されています。それを読むと、当時その病気は「汚れ」であると見なされ、それが治った時には「清められた」と考えられていたことが分かります。つまり、病いというものが宗教的な意味を持ち、祭司(宗教家)が医学的な権威を持っていたのです。見方を変えて言えば、宗教が病いを神との関係の中で捉え、病いは汚れた行いに対する神の罰であり呪いであり、病いが癒されるということは神の清めを受けることができることを意味していた。それは宗教が、病いで苦しむ者たちにさらに重い鎖を負わせていた暗黒時代だったとも言えるかもしれません。病いで苦しむことだけでも辛いのに、さらにそれに加えて彼らを神に見捨てられた者として「汚れた者」と宣言していたのです。

ヨハネ9章の出来事を想起します。弟子たちは一人の盲人を見てイエスに問いかけます。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と。ここでも「因果応報」が前提とされている。私はこのような問いかけを聴くと本当に悲しい気持ちになり、そして腹立たしい気持ちになります。苦しむ者の側に立つべき「宗教」がその役割を放棄して苦しめる者の側に立っているからです。また、自らも「苦しむ者の側に立っているか」と襟を正される思いがいたします。しかし弟子たちの問いに対するイエスさまの答えはすばらしいものでした。それは重たい因果応報の呪縛を木っ端みじんに爆破するほどダイナミックな響きがあります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3)。神のみ業が現れるため!これは私たちに苦難の意味を教えています。私たちは苦難が起こるとその原因を一所懸命に考えます。因果応報の考え方に染まっているからです。原因を除去すれば状況が改善される。確かにそのようなこともありましょう。しかしほとんどの場合には悲しみに悲しみを増し加えるだけです。

そのような後ろ向きの私たちに対して、主は目を前に向けるように、そして天に向けるように促しています。「ただ神のみ業が現れるためなのだ」というのは、苦難の意義、苦難の目的を教えています。苦しみに何の意味があるのか。私たちは苦難の中で問い掛けます。「苦しみそのものには意味はない。その苦しみを私がどう意味付けるかだけなのだ」とヴィクトル・フランクルは語ります。人生に意味があるかと私たちが問うのではない。人生の方が私たちにその意味を問うているのだとフランクルは言うのです。ここに主体の逆転があります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」というイエスさまの答えにも主語の逆転があることにお気づきになられるでしょう。神が私たちに問うのであり、神がそのみ業を私たちにおいて現されるのです。

実は私たちは、高度に科学技術の発達した現代社会に住んでいても昔と同じように考えていることが多いと思われます。病いになると何か罰が当たったのではないかと因果応報的に考える。そこには仏教思想の深い影響もありましょう。しかしユダヤ教の中にもそのような根深い因果応報思想があったということは、洋の東西を越えて、それが人間に対して支配的呪縛的であったということを指し示していましょう。

そのような中にあって主イエスの癒しは常にそのような呪縛を突破するほど劇的な神の恵みのみ業でありました。10人の重い皮膚病を癒す癒しにおいても、生まれつきの盲人の目を癒す癒しにおいても。

癒しと救い

10人の重い皮膚病を患っていた者たちが癒されます。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と、清められたことを証明するために(それは彼らの社会復帰のためにどうしても必要な手続きでもありましたが)イエスが彼らを祭司のもとに遣わしたのも、彼らの上に神のみ業が現れたということを示すためでした。彼らの喜びはいかに大きなものであったことでしょうか。失われていた彼らは再び社会生活に戻ってゆくことができたのです。「汚れ」ていた彼らはイエスによって癒され「清められた」のです。

しかし物語はそこでは終わっていません。癒しの次元では終わらない。「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」。10人のうちの一人だけしかイエスのもとに戻ってこなかったのです。彼はサマリア人でした。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」という主の言葉は、肉体的病いが癒されることよりももっと大切な次元があるのだと教えています。それは「救い」ということでした。そしてそれに気づいたのは1人のサマリア人だけであり、残りの9人のユダヤ人(ガリラヤ人)たちは気づかなかったのです。身体が癒されたことを通してそのサマリア人はそれが神のみ業であり、それを行ったイエスが救い主であることを知ったのです。彼はそのことを通してキリストと出会うことができた。彼は揺るぐことのない救いをそこで得たのです。

イエスは彼に言います。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。これも心に響く人間解放の言葉だと思います。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。実は「あなたの信仰があなたを救った」という言い方はルカ福音書には4回出てきます。

(1) イエスの足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐった罪の女に対して)ルカ7:50「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」
(2) (12年間長血を患い全財産を使い果たした女性に)ルカ8:48「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」
(3) (本日の箇所)ルカ17:19「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」
(4) (エリコの近くで叫び続けた盲人に)ルカ18:42「そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」

いずれも長い苦しみの中で「信仰を持たない神に見捨てられた汚れた存在」として社会的には見捨てられていた人たちに対して主イエスはそのように語られました。「あなたの信仰があなたを救った」と言われて誰よりも驚いたのは言われた当人であったと思われます。ここで言われている「信仰」とは私たち人間の働きではありません。彼らは自分の中に自分を支えるものは何もないことを知っていた。だからただキリストの憐れみに寄り頼んだのです。そしてそこに神が働かれた。「信仰」とは神のみ業です。ですから、「あなたの信仰があなたを救った」とは、「あなたの中に働く神のみ業があなたを救った」という神のみ業の勝利宣言なのです。

この救いの次元に目を開かれた時、重い皮膚病から癒されたその一人のサマリア人は本当の神の救いの次元に気づかされ、神の救いのみ業に目を開かれたのでした。ここで行われたイエスの癒しのみ業は、単に肉体的な癒しを越えて、人間存在の救いに至るためのしるしだったのです。癒しの次元と救いの次元は異なっています。人生において私たちの救い主イエス・キリストに出会うこと。これこそが神さまによって備えられた私たちにとっての真の救いなのです。肉体は再び衰え、病いに倒れてゆきます。しかしこの救いは生と死を越えたキリストのいのちにつながっている。その大いなる喜びを覚えつつ、新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2004年10月10日 聖霊降臨後第19主日礼拝説教)