説教 「大胆に罪を犯せ」 賀来周一牧師

ルカによる福音書 16: 1-13

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

とんでもない話

今日与えられました福音書の日課の箇所は、「不正な家令」とタイトルがつけられていますイエスさまの有名なたとえ話です。こんな話が一体どうして聖書に書いてあるのかみんな不思議に思います。「間違いではないか?イエスさまは不正なことをするように勧めていらっしゃるではないか?」そういうふうにきっとこれをお読みになりますとお思いになる。そうごまかしているわけです。そういう意味では大変誤解を受けやすい聖書の箇所であります。

しかし、この誤解を受けやすい話であればあるほど、本当に起こった話だろうということも考えられます。聖書にはこういう不正を許すような話が入るはずがないと思うのは私たちの先入観であります。キリスト教信仰において聖書というのは美しい話でいっぱいのはずで、むしろ私たちはいつでも世俗の生活では少し間違ったところや不正なところを歩いているんだから、せめて聖書ぐらいは、せめて教会ぐらいは美しい話でいっぱいになっていてほしい。そう思う私たちの先入観が聖書の中でこういう話を聞きますと、「とんでもない、聖書にこんな話はあってよいはずはない」そう思わさせるのであります。けれども、本当にあった話であればこそ、イエスはこのことを取り上げて福音の真理を明らかにし給う。そのように私どもは考えます。そしてこの話を聞いた人は、「イエスはまた弟子たちに言われた」と聖書はただ一行だけ書いていますが、弟子たちなんですね。言わば、イエスに従う人たち、イエスを信じる人たちなのです。イエスさまはこのたとえ話の中では「光の子」という言葉を使われましたが、まさしく光の子に向かってこの不正な話をおっしゃった。これは私どもが耳に留めておくべきことであります。私どもキリストを信じる者が、不正な話を聞かされている。そしてこの不正な話を通して、福音の真理とは何かということを示されている。このことがこの話の言わば聞くべき前提に置かれているということであります。

この光の子らが生きている世界、言わばそれは私たちが生きている世界こういうふうに振り替えてもよいことでございますが、それはこの不正な家令が生きていた世界、イエスはこのことを「この世の子ら」と呼びます。この世の子らが生きている世界と同じところであります。光の子らもこの世の子らも、じつは同じところに生きている、イエスを信じる弟子たちもそうでない人たちも、同じ世界に生きている、そのことをここではイエスはことに強く意識をしてこのたとえ話を語られました。そしてこの世の子らは、この世の領域では、この世で通用する物の見方や判断の基準や行動の仕方を通して、自分にふりかかってくる危険な状態を抜け出すのである。それがこのイエスさまのたとえの背景にあります。言わば徹底した計算であります。

徹底をして計算をしてそしてそのことはこの世で通用する限りは、いやその考えしかこの世では通用しないのだから、そのことを通して自分にふりかかる火の粉を振り払う、そういう状況をこの不正な家令は表しています。彼は一切の可能性を検討して、ほんの少しでもよいと自分にとって思われることがあれば、そのことを目標に置いてギリギリのところで計算をし尽くして、そこを通り抜けようとする。どうぞ私が申し上げていますからぜひ聖書をご覧くださいますと、どういうことを言っているのかがよくお分かりになると思います。彼にとってですね、よいことというのは「友を作ること」であったのですね。友を作るということそれ自体は何も不正なことではないのです。けれども、友を作るという彼にとってよいことの目標のために彼は明らかにそこで不正なことを行なったのですね。ごまかしをするのです。少しでもよいことを考えていながら不正というところから抜け出さずにいる彼、あるいは、抜け出すことができない、そういう彼の生き方がそこにあることをまたこのたとえは教えています。それが「この世の子らの生き方」であります。

イエスがその中にごらんになったのは、この世の子らの利口なやり方であります。この世の子らの利口なあり方をイエスは取り上げられた、もしこの不正な家令が物乞いのすることや、土を掘ることを選んだといたしますと、きっとそこには不正なことはなかったかも知れない。しかし、利口さはないんです。イエスにとってのこの利口さは、まさしくこの世の子らが持つ判断や行動の仕方であります。徹底した計算であります。一分の隙も狂いもないほどの彼のこの世における振る舞い様であります。教会ではコンピュータをおやりになる方もたくさんいらっしゃいます。若いお嬢さんでもですね最近はコンピュータのソフトのプログラムなんかを組まれてですね、そういった方がうちの教会には大勢いらっしゃいます。コンピュータのソフトというのはおそらく一つ数字を間違えても大変な問題が起こるだろうと、決して間違うことのないような計算をしなければならないのですね。そういった意味では、この不正な家令がしたほどのことが求められている。徹底した計算とこの世で通用する限りのあらゆる式を導入して、先を見通して一つひとつ丹念に数字を拾っていかなければならないのです。イエスはそういうこの世の不正ということをしてまでも彼が振舞おうとする利口さ、そのことを取り上げられたわけであります。

光の子らというのは、この利口さを自分の問題に用いるよりもきっと「不正がない」ということを先に考える。そして考えうるギリギリの可能性を捨てて安易に物乞いをする。あるいは土を掘るということに脱している。小さく諦めて生きるということをするのかも知れないのですね。イエスがここでそのことをよしとし給わなかったのは、「利口さを捨てる」ということであります。利口さを捨てるということは「この世で通用する」何かです。そして私どもが判断をしてこの世で生きるためには「そのことを使わないと生きていけない」何かです。そういうものをイエスはここでこの不正な家令の利口さということの中に織り込めて私たちに教えてくださっています。私 どもが物事を判断し何かをしようと思うときはきっとこの利口さをどこかで使っているんです。どんなに私どもがキリストを信じですね、どのようにキリストに忠実である信仰者だとしても、この世で生きるときは、この世で生きているわけですから、この世で通用するあの利口さを使わないではこの世では生きていくことはできない。ことに危機的な状況の中では、切羽詰ったところでは、その利口さはますます求められてくるわけです。そこを捨てて私たちが、ただ自分が純粋にキリストを信じる者として生きようとかですね、あるいは全く美しく生きようとするとかですね、そのことだけを考えてそれを自分のために用いますならば、きっといわゆる小さく諦めて生きるということしか起こらないであろう、とそういうことであります。

「大胆に罪を犯せ」(ルター)

私はこういう不正な家令の話を聞きますと、ルターの言葉をいつも思い起こします。ルターがこういうことを申します。きっと何べんも聞いていらっしゃるかと思います。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ。」こう申しました。私どもは物事を判断し決定するとき、あまりにも自分はキリスト者として生きる、ということを内側に囲みながらおどおどして生きている、ということがあるのではないか、ということをルターは見通しているんです。これをするとクリスチャンとしてはいけないかも知れない、これをするとクリスチャンにふさわしくないことかも知れない、なるべく、危ないことはしないでおいて安全圏に留まっていよう、なるべくクリスチャンらしい振る舞いをしよう。これをすると、ひょっとあの人が「まさかあの人が教会へ行っている」というふうに思われやしないかしら、こんなことをすると「あれでもクリスチャン?」と言われやしないか。そういうひとつの恐れあるいは何かをすることの不安を抱いてキリスト教信仰を自分の中に小さく保っているかも知れない。そういう私どもの生き方をルターは突き破るように「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ」とそういうふうに言うんです。

私どもが、ルターがそういうふうに申します時にですね、「どうしてルターはそんなことを言うのだろうか?」と不思議に思うんですね。でも私たちがキリスト者として生きている時に、つい判断を誤ることがあります。どういう判断を誤るかと申しますと、私 どもクリスチャンというのはですね、物事を踏まえて生きる時に判断をしなければならない時にきっとこう思っているんです。「これはいいことだ。これは悪いことだ」こう思っているんです。「こうすることがいいことです。こうすることは悪いことです」そう思って私どもは生きています。私どもそう思うんですね。「へーっ、賀来先生変なことを言うなあ」とお思いになるかも知れません。でも、キリスト者として生きるということはですね、これはよいことだ、これは悪いことだ、という判断で生きることではないんだと言われるのです。キリスト者として生きるということは、「私にとって何が神の意思であるか」ということを問うことだ。これが私にとって神様が命じ給うた神の意思である。これは私にとって神の命じ給うた神の意思ではない。その判断がキリスト者としての生き方を定めるというふうに私たちは聖書を通して教えられます。

何がよいか、何が間違っているかということはキリスト者でなくてもすることなんです。信仰がなくったって人間はそのことをするんです。でもキリスト者として生きるということは、何が私にとって神の意思であるかないかということを問うことなんですね。そのことが私どものもっとも根幹にあります。そのことの中で、私 どもはきっとですね、自分の判断を迷うことがあるんです。いったい本当にこれは私にとって神の意思なのかどうか?思い迷うんです。あるいは、きっぱりとですね、これが私にとって神の意思だ、そう思うことがあるかも知れません。人から見てですね、「なーんでそんなことをして!」と思われることが、自分にとって神の意思であることもあり得るんです。そういうところを私どもは危機的な状況に差し向かえば差し向かうほど、そこを生きていかなければならないことが起こります。

そのときに私どもは、この世の子らの利口さが必要とされてくるんです。だけども、この世の子らの利口さをそこで私たちが用いるときには、罪を犯すかも知れない。ひょっとして間違うかも知れない。間違うかも知れないということを恐れてそこを一歩踏み出さないならばですね、私たちはきっと土堀りや物乞いの世界に脱してしまっている。そこでルターは申します。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。」間違いを起こすかも知れない、けれどもこれが私にとって神の意思であると自分が決断をするならば、この世の子らの利口さを私どもは十分に行使をして、その一歩を踏み出す必要がある。そこで私たちは自分の生き方を決めるんです。間違ったら悔い改めればよい。小出しに悔い改めちゃだめです。大胆に悔い改めるんです。大胆に悔い改める必要があります。ルターはそう申します。大胆に悔い改めて、そして大胆に祈るんです。しょぼしょぼ祈らないんです。小出しに祈らない、情けない言葉で祈らないんです。大胆に祈れ、ルターはそう申します。

このことが、私どもにとってはこの世ので生きる光の子らの生き方の中に求められているんですね。「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈りなさい」というこの言葉はまさしく私どもがこの世で生きる時の生き様を表わす言葉であります。イエスさま がここで用いられましたこの不正な家令の生き方というのは、まさしくこの世の中で生きる光の子らの生き方にもっともふさわしく、もっともあるべき姿をとらえて教え給うた、そのことを思うのであります。こうした聖書を通しての生き方が、また私どもの生き方となっていくことを思います。 お祈りいたします。

父なる御神様。この世の中にあって私どものなしますことは、あるいは間違うことがあり、あるいは正しくないことがあるのかも知れません。けれども、あなたは私どもに十字架の主の赦しを上に置き、私どもが大胆に悔い改めること、大胆に祈ることを教えてくださいます。その私どもの信仰の土台をあなたが据えてくださいましたので、私どもは大胆に罪を犯すほどの勇気をもってこの世のことに関わることができますように。どうか私どもが何が主の御心であるかを我が内に確かにし、この世にあって豊かに自由にのびのびと生きる生き様を教えてくださいますように。キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(1986年09月21日 主日礼拝説教。テープ起こし:後藤直紀、文責:大柴譲治)