説教 「今から後」  Lipsiong Chen 牧師(マレーシア・バーゼルキリスト教会副監督)

ルカによる福音書 5: 1-11

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

1.はじめに

ある雨の日のイギリス。見知らぬ女性が傘を借りるために小さな村の一件の家を訪れた。その家の高齢の恩納主人は新しい傘を貸したら戻ってこないかもしれないと考え、少し壞れかかった古い傘を貸した。次の日、なんと英国女王の使いがその傘を届けてきた。周章狼狽の中でその夫人は後悔した。最初からそれがヴィクトリア女王であることが分かっていたら、自分の一番いい傘をお貸しすることができたのに・・・。

後悔先に立たず。私たちは人生の中で大小さまざまな決断をしなければなりません。しかし、正確な知識を持つ時により的確な決断をすることになります。宮廷のゲストであるということを知らなかったために、そのご夫人は女王に最高の傘を提供するチャンスを見逃してしまいました。しかし、なぜ多くのキリスト者は主に最大の捧げものをしないのか?それは私たちがそのお方を認識せず、そのお方が誰であるかを知らないでいるせいでしょうか。それともそのお方の約束に信頼していないからでしょうか。そのために私たちは自分の壞れかかった傘を主に差し出し、一番良いものは自分のために取っておこうとするのでしょう。

ペトロは最初、その兄弟アンデレによってイエスを紹介されました(ヨハネ 1:40-42)。しかし、生きるための必要性が彼を元の漁師としての仕事へ連れ戻したのです。ルカ5:1-11でシモン・ペトロは重大な人生の決断をしています。それは彼の人生と経験をその日以降、全く作り替えてしまうような重要な決断だった。ガリラヤ湖畔に住むただの漁師から、主のために人を捕る漁師になったのです。ペトロの人生の最大のターニングポイントとなった出来事をつぶさに見て参りましょう。そして、キリストのために何がペトロをして最高のものを差し出させたのかということを理解したいと思います。

2.シモン:ガリラヤの漁師

それは日差しのまぶしいガリラヤ湖の朝でした。イエスはガリラヤ湖の岸辺を通り過ぎてカペナウムに向かっていました。 ガリラヤ湖の浅瀬で、ペトロと仲間たちは忙しく次の夜の漁のために網を洗っていました。その前の晩は一晩中働いたのに何も取れなかったために、彼らは疲労困憊していました。しかし、人生の厳しい現実は彼らに休みを与えませんでした。彼らは自分自身と家族のために夜が来ると再び同じことを試みなければならなかったのです。

(a) 群衆のただ中での孤独

イエスはその教えを聞き逃すまいと望む大勢の人々を従え岸辺をやって来られました。ペトロはイエスを取り巻く群衆の中にはいなかった。彼は兄弟アンデレを通してイエスに最初にお会いしたあと、イエスから離れていたのです。ペトロには面倒を見るべき家族があり、責任があったのです。彼は家族と彼の熟練したガリラヤ湖の漁師という職業をとても大切に思っていました。

人々はイエスを取り巻いていましたがペトロは違ったのです。彼はかいがいしく網を洗いそれを繕っていた。前の晩の漁の失敗に悩みつつも、次の晩の漁を計画しなければならなかった漁師たち。ペトロはその日常生活の中にはイエスのための時間も場所も持たなかったのです。

ペトロはむしろイエスに近づくことにためらいを感じていたのだと思われます。しかし、主はペトロを愛するがゆえに無視されませんでした。主はまっすぐペトロの舟に近づいてこられたのです。イエスはペトロの舟を用いることを望まれました。舟を少し沖にこぎ出すようペトロに頼んだ。沖からでしたら群衆に教えることができるからです。

ペトロには他に選択肢がありませんでした。ペトロは友としてイエスを尊敬していたからです。ペトロはイエスの言う通りにしました。ペトロは一時的に網を横に置いて、イエスが立たれた舟の中に静かに座っていた。しかし、ペトロはイエスが群衆に語ることをほとんど聞くことができなかった。彼は案じていたからです。今晩も何も捕れなかったらどうすればよいのか、と。

人は人生の不安やこの世の望みに支配されるとき、孤独な人間となってゆきます。彼を取り巻く群衆によっても彼は悩まされることはないのです。ペトロはその生活の中で主のための場所も主の言葉のための場所も用意していませんでした。

(b) 深みにこぎ出すということ

群衆に教え終わった後、イエスは振り返ってペトロを見ました。彼が漁で何も捕れなかったことを深く思い悩んでいることを知ったのです。そこで主は言われました。「もっと深いところに行って、網を降ろしてみなさい」と。イエスはペトロと私たちのニーズをご存知なのです。再度ペトロには選択の余地はありませんでした。イエスはペトロの友だったし、舟の中にいたからです。イエスは群衆に教えた後、リラックスする時が必要だったのでしょう。ペトロはこの友の願いに否と語りえたでしょうか。そんなことはできない。ペトロが理解することができなかったことは、なぜイエスが自分にもう一度網を降ろせと望むのかということでした。それに対してペトロは抗議します。「主よ、夜通し働きましたが何も捕れませんでした。しかしあなたがそうおっしゃるなら、私はもう一度網を降ろしてみましょう。」

ペトロは熟練したプロの漁師です。彼はその時がもう網を打つのにふさわしくないということを知っていましたし、そうすることは全く漁師としての経験に反することでした。真っ昼間から魚を捕ることができるのか。それに加えてペトロを困らせたことは、そこには小さな網はなくて大きな打ち網しかなかったからです。ですから、彼らは大勢の仲間たちにその大きな打ち網を投げ入れるよう頼まなければらななかったのです。大勢がもう一度舟の中に乗り込むことになりました。彼らはペトロと共に一晩中一生懸命に働き、仕事を終えたばかりでした。疲れ果てています。彼らはもう一度網を打って虚しくそれを引き上げたいとは思わなかったはずです。ペトロも夜まで待ってそれを行いたかったはずです。

自らの意に反してですが、ペトロは二つの理由からイエスの言葉に従わざるを得なかったのです。(1)日が既に高く昇った朝に漁をすることを主張するイエスが間違っていることを証明したかった。(2)ペトロは彼が彼が船長であり網を打つ命令を下す責任者であり、漁師たちの小さな群れの指導者であることを証明しなければならなかった。ペトロにとってイエスは単に師であり、ユダヤ教のラビまたは教師に等しい者であって、漁に関してはそれほど知識も経験もない素人に過ぎなかった。ペトロはこの漁がうまくゆくとはこれっぽっちも思っていませんでした。イエスが一体何を知っているというのでしょうか。

しかしその結果はペトロが完全に誤っていました。魚の重さで持ち上げるのが難しく、網が破けそうになるほど大漁となったのです。それはペトロと漁師仲間の思いをはるかに越えていました。彼らは他の漁師たちに助けを求め、魚を運ぶための舟を求めた。2艘の舟はあまりにも重くなったため沈みそうになってしまうほどでした。それは経験を積んだプロの漁師たちの想像を越えた大収穫だったのです。

ペトロは最初はイエスの言葉に嫌々従っていたのですが、最後には状況は完全に一変し、彼の絶望が喜びに、渇望が満足に、虚しさが満ちあふれる豊かさに変えられていったのです。ペトロにとってそれは喜びの日であると同時に主の前に打ち砕かれ謙遜にさせられた日でもありました。

3.罪人と救い主

ペトロは前からイエスを知っており、しばらくはその後に従っていたのかもしれません。ペトロはイエスが群衆を教えるのを聞いてきたし、病人を癒すのを目撃目してきたことでしょう。ルカ4:38-39に記されていますが、ペトロの姑がイエスに癒されたのもそう遠くはない昔でした。 イエスの人気が高まってきたある時点で、ペトロはイエスを去って元の漁師の仕事に戻ったのです。なぜペトロはイエスを去ったのか。ペトロは、イエスが最後には洗礼者ヨハネや他の旧約の預言者同様、人々に拒絶されることになると考えたのでしょうか?あるいは彼はいたずらにイエスに従うより元の仕事がもっと深い満足と安心をもたらしてくれると感じたのでしょうか? あるいは彼はイエスがペトロのような漁師を必要としていないと考えたのでしょうか?

(a) 罪人の告白

ペトロがそこで起こった奇跡的な出来事を見た時、彼の反応は即座であり強烈なものでした。イエスの足元にひれ伏し、イエスを「主」と呼んで叫んだのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です!」と。ペトロは主の前に自らを恥じたのです。イエスは力ある救い主であり、自分はその前に出るにも価しないということをペトロは瞬時に理解したのです。

自分の人生において主人であり続けようとするペトロの抵抗はイエスの前に完全に敗れ去りました。彼のプロの漁師としての優越感と自信は今や、恥と不全感とに取って代わったのです。ペトロはイエスが舟の中に座っていたまさに同じところ、つまりイエスの足元にひれ伏しました。魚で一杯になった舟にはほとんどスペースが残っていなかったから、文字どおり、ペトロは魚の上にひざまずいたのです。

ペトロはもはや船長ではありませんでした。イエスに降参したのです。「おお、主よ!」 とペトロは叫びます。ペトロはこれまで常にイエスを「ラビ(つまり教師)」と呼んできました。その事実こそ、彼が自分の命をイエスに託そうとしなかったことの理由でした。しかし、今回の超自然的な経験がペトロの心の奥底を開いたのです。ペトロはとうとうイエスを「主(救い主)」と呼ぶのです。今やイエスがペトロの人生を支配した。ペトロはもう自分自身のものではなく、ただひたすら主の命令を待つ「僕(奴隷)」となったのです。ペトロは今やはっきりと知りました。「イエスこそが救い主であり、海も魚も支配される主である」ということを。

ペトロはしばらく前にはイエスが救い主であることに対して疑義を表明していました。明るい朝の光の中で漁はできないと抗議の声をあげることによって。ペトロは自らの不信仰を恥じたのです。その出来事を通してペトロは自分が罪人に過ぎないことを知りました。彼はイエスの前に顏を向けることを恥じた。ペトロはイエスに自分から離れるよう望んだのです。自分が主の前にまったく無価値な人間であり、罪人であるということが分かったからです。

自分自身が罪人であるというペトロの認識はペトロの目を大きく開かせました。イエスが神からの聖なるお方であるということが見えるようになった。イエスと自分の間にある大きな隔たりを知ることはペトロの中に恐れを作り出しました。 ペトロはエルサレムの神殿で神の聖なる臨在の中に自らが置かれていることを知った時に次のように語ったイザヤと同じでした。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)。

「私から離れてください。私は罪人なのですから。」 私たちは主なる神の自己啓示の前に裸で立つのです。そしてそこで私たちの弱さと汚れとが露わにされる。ペトロはそのような自分の本当の姿を見ることになりました。罪人としての自分の姿を。ペトロは彼自身の無価値さによって捉えられ、イエスに向かって叫んだのです。「どうか私から離れてください!」と。

(b) イエス:恵み深き主

ペトロが罪人としての自らを恥じ、イエスに拒絶されるとの恐れを感じていたその時、主はペトロを受け入れ、慰めたのです。多くの場合、主は私たちに自分の無能力さと欠けを悟るよう望んでおられるのです。その時にこそ、私たちは神に立ち返ることができ、私たちの人生において神が主人であるということを知るのです。私たちが神の近くに引き寄せられてゆく時、私たちは神が聖なるお方であることを知りつつ、逆に自らの罪深さを知らされてゆくのです。神の聖性と私たちの罪性との間にはある強制的な力が加えられます。その力がは私たちの内面に恐れと無価値感とを作り出してゆくのです。

「恐れるな」とイエスはペトロに語ります。罪人のペトロを主は見捨てられなかった。まさにこの目的のためにイエスはこの世に来てくださったのです。自らの生に意味があるという価値感覚が完全に崩れ去ったことはペトロにとっては大きな慰めでした。彼はもはや自分の舟のキャプテン(船長)でもなければ、彼の人生のキャプテンでもなかった。イエスがペトロを慰められました。ペトロは恐れなくてよい。彼はもう一人ではないからです。ペトロの舟にはイエスが共におられ、イエスが新しい人生の進むべき方向を示してくださるからです。

4.シモン:主のために人を生け捕る漁師

この出来事はペトロの人生を180度転換させました。以前には彼は自分の職業や舟や網などの財産を誇っていました。ペトロは自分自身の手で生活の糧を稼ぎ出していたのです。ペトロは自分以外の誰も主人としていなかったのです。ペトロはすべて自分が正しいと思うことをなしてきた。その時まで彼は自分自身のそのような生き方に満足していました。イエスは、漁師という職業に関しても、ペトロの徹頭徹尾自分に頼る生き方に関しても、チャレンジされたのです。ペトロは自らの経験の上に築かれた自信というものがいかに壞れやすいかということを悟ったのです。

(a) ペトロの新しい仕事

ペトロにイエスは言われました。「今から後、あなたは人をすなどるのだ」と。これは危機でありましたが、ペトロの人生での重要な転機でもありました。これから先、イエスはペトロに全く新しい課題を与えたのです。ガリラヤ湖の漁師ではなくて、主のために人間を捕る漁師となるのです。これは確かにペトロの人生においてはそれまでと一線を画する出来事でした。というのはそれ以降、ペトロはそれまでの職業に再び戻ることはなかったからです。 ペトロはより重要な課題、つまり主のために人をすなどる、人を生け捕るという重要な課題を委託されたのです。

イエスはペトロと彼の仲間であるヤコブとヨハネに、彼らがよく知っている職業においても最高の主であることを示されたのです。同時にイエスは、弟子たちに委託された新しいミッションにおいても主でもあるのです。彼らはイエスに完全な信頼を置かなければなりません。主が彼らと共におられるがゆえに、彼らは恐れてはなりません。彼らは、自らの経験や能力に信頼するのではなくて、イエスに完全に信頼することを学ばなければならないのです。

(b) ペトロにとっての決定的な第一歩

それから彼らは岸に舟を寄せるとすべてを置いてイエスに従いました。その端的な語り口は、ペトロとその仲間たちがイエスに従うことを選び取ったという決定的な第一歩を生き生きと描写しています。彼らはすべてを後に置いてゆきました。生涯で一番の大漁も、財産である舟も網も、愛する家族も、彼らの誇りも恐れも、すべてを後に残していったのです。彼らはこれまでそのようなことをしたことはありませんでした。彼らはイエスに従った。彼らの思いを遥かに越えるほど豊かに魚を与えてくださったお方が、彼らの愛する者たちをも十分にケアしてくださると信じたからです。彼らは最も完全な意味でイエスの弟子たちとなったのです。

イエスは言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と(マルコ8:34)。またこうも語られました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)。イエスは彼に従いたいと思う者はそのコスト(価)の高さを考えなければならないし、決断の後は悔いることなくイエスに従ってこなければならないと要求しておられるのです。

5.今から後、差し出された人生

ペトロはプロの漁師でした。最初は自分は漁を知り抜いていると考え、イエスの指示は必要ないと考えていたのです。しかし、イエスがペトロに命じた時、ペトロはイエスに従わざるをえませんでした。海で奇跡が起こった時、同時にもう一つの奇跡がペトロの中で起こったのです。なぜなら、イエスがペトロに人をすなどる漁師となるよう望まれたからです。人を生け捕ることこそ私たちのミッション(使命)であり、私たちの義務であるということ。私たちはそのことを真剣に考えなければなりません。私たちはキリスト者となってもうずいぶん経つかも知れませんが、長い間、私たち自身の福音に対する責任を忘れていたのではなかったか。パウロは言いました。「(わたしが福音を宣べ伝えるのは)そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(1コリント9:16)。

「網を降ろし、すなどる」というのは私たちキリスト者のアイデンティティーであり、ミッション(使命)なのです。私たちはそれをしなければならない。すべてのクリスチャンは「人を捕る漁師」であるということを知らなければならないのです。

今日、私たちは主が「力の主」であることを知る必要があります。私たちが人々をキリストのところに連れてくる時にはいつでも、私たちは福音が神の力であり、だれであれ信じる者は救われるということが神のご意志であることを感じるのです。それゆえに、すべてのキリスト者と教会が自らのミッション(使命)に関して確信を持ち、現代世界とそこに生きる人々の切実なニーズを知ることができるように祈りましょう。私たちは、常に新たにされる主イエスとの関係を通して、人を生かす漁師として用いられてゆくのです。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 4月28日 復活後第四主日礼拝 説教 通訳:大柴譲治牧師)