説教 「クリスマスと老人たち」 賀来周一牧師

ルカによる福音書 2:25-32

クリスマスと老人たち

何よりも、クリスマスのお喜びを申し上げたいと思います。

クリスマスには様々な物語が聖書の中に登場いたしますが、一つ不思議なコントラストを持って私たちにクリスマスが迫ってくると思いますと、それはイエスの死の出来事の時には婦人たちが活躍するのですね。でもイエスの誕生の時には年寄りが活躍するのですね。これは聖書の真に不思議なコントラストであります。

そこで、命を育む婦人たちがイエスの死の時、そして、死を間近に控えた老人たちが、イエスの誕生の時に登場することによって、聖書は私たちに福音の真理とは一体何なのかということを告げ知らせようとしている。いわば、生き死に関わることの中で、一体人は何をどのような救いを見ていくのか、というのが聖書のそうしたコントラストを通して与えられてくる奥深いメッセージではないだろうかとそのように思うのであります。

ヌンク・ディミティス

今日クリスマスに登場する老人の一人シメオンのことを今日取り上げさせていただきます。シメオンは死を目前にして、そして救いを生まれたばかりの幼子イエスの中に見た一人でございました。彼は幼子イエスを腕に抱いてそして、あの有名なヌンク・ディミティスを信仰の告白として、唱えるのですね、既に私たちは礼拝のときでありますとか、特にご葬儀の時の礼拝の中にこのヌンク・ディミティスをお聞きになることが多いと思います。

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

このようにシメオンは信仰の告白を謳いあげます。シメオンはこの告白の中で「私はこの目であなたの救いを見たからです」とこのように申します。「救いを見た」というのは、これは、はなはだ特別な表現であるというふうに申し上げたいと思います。彼は「良く分かった」と言っていないのですね。知的理解の中で、救いを自分は得たと言うことではなくて、むしろ自分の腕に抱いた幼子の身体のあの柔らかな感触、そして、あの目で見る、視覚を通して幼子イエスを見た。そのことの中に自分の救いを見通しているのです。いわば知的理解を超えたところで、人間の生き死にの根源に触れるような、そういった世界を彼は、この小さな言葉で表現していると申し上げて差し支えないと思います。知的理解を超えたところで、人間の生き死に関わる、究極の問題をわれわれは見通している。

スピリチュアリティーの問題

こういった事は実は、最近特に注目を浴びることとなってまいりました。ここ四、五年特に生命倫理でありますとか、あるいはターミナルケアーでありますとか、人の命とか死ということに携わっている様々な学者たち、特に先端科学を専攻する人たちの中では、こういった人が生きるとか死ぬとかということを自分の目の前においてどうするかというときには、そこにはスピリチュアルな答えが要ると申しますね。

「スピリチュアル」という言葉をどういうふうに訳するかいうのはこれ最近大変な問題でして「霊的な」と訳してしまいますと、なんか神秘主義になってしまったり、あるいは非常に宗教的な狭い世界での瞑想ですとか、祈り三昧ですとか、そういう世界の中で受けとめられそうなので、最近はもはや「スピリチュアル」とか、「スピリチュアリティー」と言う横文字のままで使われるようになってまいりました。

こういったことを提唱しているのは生命科学者もそうですが、医学会、お医者さんたちですね、あるいは心理学者、哲学者、あるいは生物学者、あるいは社会学者、そういった人たちが非常に学際的なところでスピリチュアリティの問題を最近は取り上げるようになってまいりました。新しい、いわば一つの人間の、一つの価値観を切り開こうとする営みと、まあこういうふうに申し上げて良いと思いますし、これは特にここ十年ほど世界保健機構WHOがそういったことを提唱し始めましたから、こうしたスピリチュアリティということが一般の研究者の中に声高く唱えられるようになってきた。まあ、最近の状況が後ろにあります。そしてスピリチュアリティーと言うことをWHOは標準化ということをいっていますから私たちの一般社会の中で既成の宗教教団と別個のところで人間が生き死にを問うという時には人間はどう考えたらいいかということを皆で考えようと、そういったことが最近のスピリチュアリティを巡る問題であります。そのことをここで詳しく申し上げるつもりはございませんが、要するに人間が生きたり、死んだりするそういった究極の、いわば人間の根源的なところでは人間の知恵とか力とかを超えたものが要るという事を新しい社会の中で提唱されていることになります。

考えてわからないもの、人間のいわば、人間の知恵とか力ということが謳歌する世界の外から来る何か究極的なものそれが人間には必要なのだということが言われ始めている。こういうふうに申し上げてよいと思います。こういう学者たちの中には「サクラメンタルなものが人間には生き死にに関しては必要だ」と言う人もいます。「サクラメント」とはご承知のように聖礼典のことであります。洗礼とは聖餐式を意味する言葉でありますが、「サクラメンタル」という形容詞の用法を使うことで、礼典的なものという意味を表しているわけですね。洗礼とか聖餐というのは要するに信仰の世界といのは分からないということを一杯含んだ世界ですから、そういったサクラメントといわれる洗礼とか聖餐とか(カトリック教会はさらに5つありますけど、プロテスタント教会は2つですが)、そういったサクラメントというのが必要だということを教会はよく知っている訳ですね。

もし信仰が考えて分かる事柄の中で完結するのであれば、どれだけ知っているかということで、信仰を測ることができますから、その分かることだけで信仰を測ろうとすれば試験を受ければいいんですね。試験を受けて合格した人が洗礼を受ければいいのです。でも、教会はそんなことはしません。分かろうが分かるまいが、洗礼を受けるわけですね。それは考えても分からない世界を信仰は持っているよということで、しかもそれを大事にしていることですね。これは時々私申し上げますが、分かって洗礼を受けると分かったことしか信じないからつまらないですね。洗礼というのは、分からないことをも含めて信仰の世界ですから、分からないことを含めて広い形で救いとはわれわれに与えられてくるわけですね。ですから、考えても分からないということを象徴するために洗礼というのがある訳ですね。きっと分かって洗礼をお受けになった方はいらっしゃらないと私は思います。分からないから、洗礼を受けるのですね。そういった意味で、サクラメント、その洗礼というのはとても大事なことであります。

あるいは、この聖餐ということもそうですね。聖餐式があるので、わたしたちは、もしも仮に知的理解を失ったとしても、まだ信仰の中に留まることができます。もしも分かることだけで信仰を養おうとすると、もしわれわれが理解する力を失えば、もはや信仰に私たちは留まることはできません。しかし聖餐式というのは要するに、食べたり飲んだりすることですからね。具体的に身体の感覚の中で信仰を養い続けることができる。まあ、そういった、いわば知恵というのを教会は持っているわけです。

それで、そういったサクラメントに類するもの、いわば日々のある行為として理解を超えたもの、そして外から来るもの、そういうものがこの人間の社会に要るということが、クリスチャンでもない学者さんたちが、サクラメンタルなものが人間が生き死にを問う時には要るよと最近言い出しているのが最近の傾向だと言うことを、私たちは改めて新しい思いを持って眺めることが出来ます。教会の中だけで用いられてきた「サクラメント」という言葉、これは勿論神学的用語でしょうし、キリスト教会の中だけで通用するような言葉と思われた言葉が、もはや教会の外の世界でも使われるようになってきた。そういった時代をわれわれは迎えているということに改めて注意を向けるということは私たちにとって大事なことだと思っています。

まあ、そういった意味では今や現代社会の中に起こっていることに改めて、目を開いて教会というものが持つ新しい役割は、一体何なのかということを私は、もういっぺん問い直しても良い、そういった時代がやって来ているとこのように思います。まあ、教会の外の世界の人たちキリスト教徒はむしろ、どちらかというと無縁だとか言っている人たちが教会のものを必要としている、そういった時代が今のこれからの時代です。そういうことを考えますと、われわれがキリスト教信仰を持っているというのはとっても大きい意味を持つということを改めて思い直してもいいのではないかとこのように思っています。

救いの具体性

そのような新しい私たちの思いの、いわば、糸口になるようなものを実は今日のシメオンは私たちに教えている訳ですね。「わたしはこの目であなたの救いを見た」というのは、分からないけれども、しかし、わたしの体の感触と私の目で見たところでこの救いというものをわれわれは受け取っている。考えて分かる世界でないところで救いというものをわれわれは受け取った。いわば「サクラメンタルなもの」、こう言ってよろしいと思いますが、それをシメオンは私たちに大事なことだよと教えてくれていることになります。古い古い二千年前の聖書物語であるにもかかわらず、21世紀のわれわれに必要なことを私たちに教えている。それは、いわば「入り口のようなもの」と申し上げてよいでしょうか。

それがシメオンがヌンク・ディミティスの中に込めた救いへの信仰告白の中に見える。このように思うのであります。まあ、このことは、申し上げますときりなくお話申し上げることになりますから、今日はこれで止めておきますが、しかし考えて分からないけれども、目で見るとか、体で確かめるとか、それが人間の外から来るという、そういった世界が人間にこれからは必要になってくるということを是非お考え頂きたいと思います。特に命とか死ということに関して究極的な答えを必要とする場合には、特にサクラメンタルなものが非常に重要であります。

十字架の救い

ところでシメオンは自分は見たという救いについてもっと深く入っていきます。そのことが、マリアに語ったシメオンの言葉の中に現われます。「御覧なさい。この子はイスラエルの多くの人を倒したり、あるいは、立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とこういうことをマリアに言っている訳ですね。

宗教改革を起こしましたルターは、クリスマスブックというクリスマスに関する本を書いていますが、その中にこのシメオンが予め幼子イエスの悲劇の死を預言していたので、実際に事が起こったときには、それほど驚かなくて済むんだという事を書いているのは、わたしは大興味を持って読みました。恐らく救い主であるイエスが死ぬということは、驚きをもって受けとめる出来事ですね。ですけど、ルターは、シメオンがこういうふうに言ってくれているので、幼子イエスを見て、赤ん坊であるイエスを見て、この子は十字架で死ぬといっているわけですから、そういうことを言ってくれたことによって、イエスが亡くなられたときにそんなにびっくりしなくても済むよ、というのは大変ルターらしい物事に対する見通しの仕方だとこのように思います。

しかし何よりもここにはキリストの死こそが、救いの中心的な出来事なのだということが告げられていることに私どもは先ず、目を留めたいと思います。そして死というのは真に悲劇的な出来事であります。痛ましい出来事であります。しかし、痛ましい、その悲劇的な出来事こそが人間にもっとも喜びを与える出来事でもあるということです。だからこそそこにシメオンが言う「わたしは救いを見た」という告白が生まれてくるのですね。

そのことをよく伝えた人にルターがいます。ルターを何度か引用させていただくことは恐縮なんですが、ルーテル教会ですのでお許しいただきたいと思います。ルターはこう言っています。「私の罪、あなたの罪、全世界の罪をキリストに着せて、それでキリストを包み込んで、キリストがわれわれの罪を負われるのを見ることは、われわれの最大の慰めである。」 こういうように申します。そして、このことが、全ての教えの中で最も喜ばしく、最も慰めに満ちているとルターはそういう言い方をするのです。

そして今日シメオンが、幼子イエス、幼子イエスというとこれから成長して、人々に教えを宣べ伝えられて、だんだん偉くなっていかれるお方というふうにシメオンは幼子イエスを見ていないんですね。この幼子イエスは十字架で死ぬというそういったことを言っているわけです。実はそのことの中に実はシメオンの救いが込められている。その意味合いをルターはこういう形で解釈をしました。これは『ガラテヤ大講解』にある言葉ですけれども、わたしはこの言葉はやはり一つの優れたイエスにたいする私たちの受けとめ方だなとこう思います。

もう一度申しますとね、「私の罪、あなたの罪、全世界の罪をキリストに着せて、それでキリストを包み込んで、キリストがわれわれの罪を負われるのを見ることは、われわれの最大の慰めである。」真に痛ましいあの十字架の出来事を見るということは、実は慰めなのだと言っているんですね。そしてこのことが、全ての教えの中で、聖書が教える福音の真理の全ての中で、最も喜ばしく、最も慰めに満ちている。このようなルターの言葉を聞きますと、ああ、真にシメオンはそういう信仰をここで見たのだなと思いますね。そしてそういう信仰を通して「救いを見た」で、これが、シメオンのヌンク・ディミティスの告白になったということをまざまざと知らされます。単なるこの幼子のイエスの終りが悲劇の死を遂げるお方であるという事だけを告げたのではなくて、その出来事によって救いが成し遂げられていく。その救いが成し遂げられていくということ自身が真に私たちにとって喜びと慰めである。だからこそシメオンは「この僕を安らかに去らせてくださいます」という告白をとらえることをできたと思っております。

悲劇の出来事を指し示しながら、しかし、そこに喜びと慰めの出来事を見る。これは私どもが改めてクリスマスということを考える時に、新に誰もが受け取って良い聖書からのメッセージではなかとこのように思います。そういう意味では、私どもは「クリスマスおめでとうございます」と申し上げますし、クリスマスのお喜びを共にするという気持ちの中に、このような深い意味での喜びと、深い意味での慰めがあるということは受けとり直しても良いのではないだろうかと思います。

祈り

お祈りいたしましょう。

愛します、父なる神様、真にシメオンが見た救いの中に、キリストのあの十字架の出来事を私達はまざまざと見通しております。けれどもその出来事によって、私達は、救われ罪なき者とされ命に与るものとされました。まあ、そこにこそ、真の喜びと、真の慰めとがあることを私達は改めて聖書を通して、示されています。どうか今日クリスマスを迎えられた方達の中に、そのようなクリスマスの喜びと、慰めとがあることを改めて感謝をして、祈ることが出来ますように。主の御名によってお祈りいたします。 アーメン。

(2004年12月19日 聖降誕主日礼拝説教
テープ起こし:岡野悦子神学生、文責:大柴譲治)