説教 「復活を信じる者のしるし」 大柴 譲治

マルコ福音書 16: 9ー18

復活~究極的な事柄

「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)。無から有を創造されたお方の辞書には不可能という文字はありません。主イエスのご復活という人間には信じがたい出来事も、そのような全能の神さまのみ業として起こった事柄であると聖書は伝えています。

人にはまったく思いも寄らぬ仕方で、神はみ子の十字架の死に終止符を打たれました。復活は死の死です。どれほど圧倒的な力をふるっているように見えても、実は死は最後のものではない。究極以前のものでしかない。聖書の語る究極的な事柄とはイエスの復活の命であり、独り子を賜るほどに私たちを愛された神の愛(アガペー)です。

しかし現実には、悲しみが私たちの心をふさぐということがしばしば起こる。涙で何も見えなくなる。復活の主と出会ったマグダラのマリアは「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」(10節)とあります。「泣き悲しむこと」が私たちの心を鈍くし、かたくなにする。しかしそれは自然なことであり、自分を守るためには仕方がないことかもしれません。私たちの力ではどうすることもできないような圧倒的な悲しみ、慰められることを拒絶するような深い悲しみがある。

しばらく前の新聞に子供を亡くした親の会についての記事がありました。歳月によっては癒されることがない悲しみというものがある。「この悲しみを誰にも慰めてもらいたくない」という親の声に胸を打たれました。同じような立場に置かれた親たちの会があることを知り、そこに出席して初めて悲しみの中での連帯感を体験し、それが慰められたという記事でした。

病いの中で自らの死を想うことも、配偶者や家族の死を体験することも、私たちの力を遙かに越えた悲しみの体験です。「人生は悲しみばかりではないか」とも思えてきます。信仰の詩人、八木重吉は歌います。「この悲しみを ひとつに 統ぶる 力はないか」と。この深い悲しみを一つに統一し、乗り越えさせてくれる力はどこにあるのかというのです。そこには病弱な詩人の魂の呻吟が聞こえてきます。

聖書は嘆き悲しむ者たちに「悲しみを統ぶる力」を指し示しています。マグダラのマリアに続いて復活の主は二人の弟子たちにご自身を現されます。12節には「その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された」とあります。これはルカ福音書のエマオ途上の出来事を想起させます。「別の姿で」とわざわざ断っているところにも悲しみにふさぐ弟子たちの姿が表されているのでしょう。悲しみが彼らの目をふさいだのです。しかし彼らは復活の主と出会うことによって変えられてゆきました。悲しみは復活の主によって乗り越えられてゆく。復活の主と出会うことの中に「悲しみを統ぶる力」、つまり「慰め」が与えられてゆく。

復活を信じない者たち

11人の弟子たちが食事をしているときについに復活の主がご自身を現されました。食事中に主が現れたということも大変に意味深い。復活のキリストのリアリティーが食べ物をかみしめるという具体的なことの中に実感されている。最後の晩餐を思い起こします。

主は彼らの「不信仰とかたくなな心」をおとがめになりました。(14節)。とがめるとは厳しい言葉です。これは弟子たちが主がかつて三度も繰り返したよみがえりの予告を信じていなかったためでもあります。しかしそれは無理もないことでした。彼らにとっては十字架は最後の出来事でした。それ以外には何も考えられなかった。主の不在の悲しみ、主のために何もなしえなかった自分の無力さ、うしろめたさに彼らの心は閉ざされていた。固く殻を閉ざした貝のようです。主がその「不信仰とかたくなな心をおとがめになった」ということは、復活の主がご自身の言葉によって人間の不信仰とかなくなさを打ち砕かれたことをを示しています。悲しみの中でこそ人は十字架と復活の主を仰ぎ望むべきであることを教えている。主の顕現によって復活を信じなかった彼らが信じる者へと変えられていったのです。

実はオリジナルのマルコ福音書は16:8で終わっていました。本日の日課である9節以降は後の時代の付記です。だから新共同訳聖書では9節以降は括弧でくくられている。オリジナルのマルコ福音書はイエスの墓が空っぽだったことを報告して終わっていました。「(婦人たちは)震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(16:8)という言葉で終わっていたのです。

人間が怖れとおののきの中で震え上がる地点。そこでマルコは筆を置く。いかにも唐突で中途半端な終わり方です。しかしそこから復活の主の本当の働きが始まる。その意味では、マルコ福音書は開かれたまま余韻を残して終わっていると言えましょう。復活の主がマルコを用いて福音書を書かせたように、私たちの人生を用いて福音書を書き続けておられるのです。復活の主と出会った私たち自身が福音書記者として用いられてゆく。だから主は命じておられるのです。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」と(15節)。

信じる者のしるし

「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」とある16節の言葉を私たちは注意深く理解する必要がありましょう。教会は長い間これを「唯一キリスト教信仰だけが救いへの道である」と排他的に捉えてきました。私たちはしかしこれを、トマスにご自身の十字架の傷跡を示して、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)と告げられた主の熱い呼びかけと重ね合わせて理解したいと思います。「恐れるな、わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。あなたは失われてはならない。滅びてはならない」という意味として理解したい(イザヤ43:1参照)。

主は「信じる者には次のようなしるしが伴う」と語る。「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(17-18節)。これは使徒言行録を想起させますが、一つとして人間になしうる業ではない。それらは神業、聖霊のみ業です。神が私たちをそのようなみ業のために用いられるのだという意味です。

「新しい言葉」とは「新しい異言」という意味です。異言とは人間の理解を超えた言葉です。パウロの1コリント13章の冒頭にはこうありました。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」。そこから考えるならば「新しい言葉を語る」とは「神の愛を人々に証しする」と理解してもよいと思われます。「手で蛇をつかむ」とは「誘惑に打ち勝つ」という意味でしょう。

主の復活を信じる者のしるしとは、悲しみや痛みの中に置かれた者たちと共に歩み、共に泣き、共に喜ぶことであると告げられているように思います。そしてそのような生き方こそ主ご自身が貫かれた生き方でもありました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる」と小さな者、弱い者たちにまなざしを向けて祝福された主。ファリサイ派に「なぜ徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言われて、「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えて食事を続けられた主(マタイ9:12-13)。主は深い憐れみをもって人々と関わってくださった。本日の日課は、復活の主が苦しむ者、悲しむ者に関わり続けてくださるのだという約束の言葉として聞くこともできましょう。主は私たちをご自身の愛を現すための道具として用いられるのです。

悲しみを統ぶるキリスト

最近私はお二人の方の真摯な言葉に胸を打たれました。病気でご入院中のある方はこう語られました。「今までこれほど自分に自信を無くしたことはなかった。頑張れば道は必ず開けると考えてきたが、どうもそうではない時があるようです」と。静かに、そして正直に自分の弱さと向き合ってご自身の胸のうちを語られる言葉は私の心に深く沁みました。また、別のある方はお医者さんから「そろそろ自分のやりたいことの優先順位を考えてください」と言われたそうです。人生の最後の時期、総まとめの時期として位置づけ、日々を大切にしてくださいということなのでしょうか。その方は「一番やりたいことは毎日の普通の日常生活です」と答えたと笑っておられました。自らの有限性をしっかりと見据えながら淡々と語られる言葉の重みを強く感じます。

それらの関わりの中で私は、悲しみを通して自分がその人たちと結ばれていること、つなげられていることを強く感じました。「この悲しみを ひとつに 統ぶる 力はないか」というときの「統ぶる力」を感じたのかもしれません。悲しみの中に降り立ってくださったお方のご臨在を感じました。

確かに私たちは、無力なまま無力さの中に共にたたずむ以外にはない存在です。本日の復活の主の言葉は、何かをなすこと(Doing)ではなく悲しみや無力さの中に共にあり続けること(Being)の大切さが示されているのではないか。そして私たちの無力さの中にキリストが立ってくださる時、「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」という「復活の主を信じる者のしるし」が伴って起こるのだと思います。

本日の福音は私たちを、悲しむ者に注がれているキリストの深い憐れみに目を向けるよう招いています。ここに私たちの「悲しみを統ぶる力」がある。私たちは自らの無力さの中で私たちと共にいてくださるキリストのご臨在(リアルプレゼンス)を知るのです。そしてそこから、私たちを用いてこの世にご自身の愛を示そうとされておられる復活の主のみ心を知るのです。

お一人おひとりの上に主の愛が豊かにありますように。 アーメン。

(2000年4月30日 復活後第一主日礼拝)