説教 「それは 愛」 大柴 譲治

申命記6:1-9、マルコ福音書12:28-34

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

愛の掟

本日は最も重要な掟についての教えです。(1)「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(2)「隣人を自分のように愛しなさい。」 福音書ではこの二つは常にセットで出てきます。

しかし、「何が重要であるか知ること」と「それを実際に生きること」は別ということを私たちは知っています。愛の大切さを知るということと愛を生きることは別の事柄なのです。私たちはマザーテレサの生き方に感動します。同時に私たちは、情けなくも、そう生き得ないでいる自分の現実の姿をも知っているのです。そのような私たちにこの愛の掟は何を語りかけてくるのでしょうか。

全身全霊の愛

申命記6章4~5節は告げています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。これは最初の言葉を取って「シェマー(聞け)」とも呼ばれている重要な箇所です。イエスさまも、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記 章 節の戒めと共に、これを最も大切な戒め(=律法の神髄)として挙げられました。

それにしても「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という戒めはすごい戒めです。あなたの全身全霊で神さまを愛しなさいというのだから半端ではない。このような言葉の前で私たちは困惑を覚え、どこか後ろめたさや恥かしさを感じるのではないか。自分を顧みても全身全霊で神さまを愛しているとは決して言えないからです。聖書には眠っている私たちに鋭くメスを入れて覚醒させるようなところがあります。そこには「本当にお前は全身全霊でわたしを愛しているのか」という神さまの声が聞こえてくるかのようです。

「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めにしても同じです。私たちはこの戒めを聞くとルカ 章にある「よきサマリア人のたとえ」を思い起こします。自分が強盗に襲われて傷つき倒れている旅人の側を無情にも通り過ぎていった祭司かレビ人であるかのように感じるのです。自分はなかなかサマリア人にはなれないと沈んだ気持ちになる。愛しなさいと命じられればられるほどそれができない自分の姿に悲しくなる。そのような堂々巡りを私たちはどこかでしているのではないでしょうか。そしてその閉ざされた円環から抜け出ることができないでいる。

それは 愛

ここでもう一度、大切な掟に戻りたいと思います。(1)「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(2)「隣人を自分のように愛しなさい。」

注意深く言う必要がありますが、この二つの掟は第一義的には私たちに愛することを求めているのではないと私は思います。もっと深いものを指し示しているのではないか。それは人間の愛についてではなくて、もっと深いところにある神さまの愛を私たちに伝えている言葉ではないか。そう思うのです。そこに宣言されているのは神さまの愛です。その独り子を賜るほどの愛、わが子のために命を捨てる親の愛がある。心と魂と力を尽くして愛してくださったのは私たちではなく、神さまの方なのです。私たちのためにその独り子を賜るほどに、自分以上に愛してくださったのは神さまなのです。そのように深く熱い神の愛を私たちはそこに見てゆくべきなのです。そしてその強烈な愛を知ったときに私たちの中では何かが変わるのです。自分の力ではなく、神さまの愛の力によって私たちは変えられてゆくのです。

親子愛

10月末、マレーシアに一週間行っていた間に新聞がたまっていました。帰国してそれらに目を通す中で、一つの記事に心を打たれました。10月29日の第一面の「編集手帳」(読売版「天声人語」)です。この日は『巨人6年ぶり日本一』と題する記事がトップを飾っています。そこには次のような言葉が記されていました。

斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。「強、火をつけろ」。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。

心に響く言葉です。命がけで自分を愛してくれる親と出会う。この時に自分の生の価値を見出すことができると言うのです。そこにたどりつくまでの親と子の苦しい道のりを忘れることはできません。強君の例によれば中学一年生、つまり13歳から自殺を図った20歳までの7年間は親と子にとってどれほどつらい年月であったでしょうか。また18年間に3千ケースもの不登校の親子にコツコツと関わってきた一人の精神科医の忍耐強い、暖かい愛情に満ちた関わりに私たちは心を打たれるのです。私たちの心を捉えて離さないもの、それは愛です。本物の愛です。「友のため命を捨てる、これより大きな愛はない」と主イエスは言われました(ヨハネ 章 節)。そこには子どものために命を捨てるほど大きな親の愛があります。そしてそれは私の中では神さまの愛と重なります。

子ども祝福式によせて~「うるさい親ほどあったかい」

今日は礼拝で先ほど小児祝福式が行われました。親としてまた人生の先輩として私たちは子どもたちの上に神さまの祝福が豊かにあるように祈ります。私たちは子どもたちが悲しみや苦しみに会わないように祈るのではありません。悲しみや苦しみに出会ったときにも、それを乗り越えてゆけるように祈るのです。そのためにはキリストを信じる信仰がどうしても必要となります。子どもに対する信仰の継承、信仰の養育というものは大切な親の務めであり教会の務めです。私たちがどれほどそのようなプログラムを真剣に考えてきたか、振り返ってみる必要があるかも知れません。夏の修養会でも青年が少ない、子どもたちがいないということがむさしの教会の課題としていくつも出ていました。

十戒の第四戒に「あなたの父母を敬え」という戒めがあります。これは子どもに対して父母を敬えと教えるだけではなく、親に対して子どもに正しく神を指し示せと教える戒めです。申命記の日課は語ります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(6~9節)と。これは徹底した信仰教育です。実際に後世の信仰深いユダヤ人は自分の服のどこかにこのみ言葉を記したものをつけてきたと言われています。子どもたちに繰り返し教えることが求められています。先程私たちは小児祝福式を行いましたが、教会の子どもたちを大切に次の世代として育ててゆく、私たちにはそういう責任があるのです。子どもたちは大人の背中を見て育つものなのでしょう。子どもには親や周りの大人がどのような生き方をしているかということを鋭く見抜く力があります。力弱く純粋であるがゆえに動物的な直観が働くのでしょう。

以前に「うるさい親ほどあったかい」というテレビのコマーシャルがありました。「愛の反対は憎しみではなく無関心だ」というマザーテレサの言葉もあります。み子を賜るほどに熱い愛を示してくださった神さまは(十戒などの中でも)「わたしは熱情の神だ」(口語訳聖書では「ねたむ神」)ともおっしゃっておられます。熱い熱い思いをもって私たちに “I love you!” と呼びかけ続けてくださっているのです。

(1)「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(2)「隣人を自分のように愛しなさい。」

私たちも熱い熱意をもって子どもたちのために祈り、接してゆきたいのです。うるさい親ほどあったかい。昔の家族のように互いにちょっかいを出し合ってゆきたいと思います。そして共に神の愛を分かち合いたいのです。多くの愛が冷えている現代には神の熱い愛が必要なのです。私たちを本当の意味で生かすもの、それは愛なのですから。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2000年11月12日 聖霊降臨後第22主日・小児祝福・礼拝)