【説教】「想定外の有り難さ – 今年の聖霊降臨祭」 石田 順朗牧師

                テキスト:   使徒 2: 1-21、 ヨハネ 16: 4b –11

                                                                   2013/5/19  武蔵野教会

                                  石田 順朗

 

はじめに 今日は、主暦(Anno Domini)で2013年目、3/31の「復活祭」から数えて50日目の「ペンテコステ、五旬節」。2/13の「灰の水曜日」から始まった「四旬節」を併せると「90日目」にあたる「聖霊降臨日」。世間では「90日間の長期運転免許停止」やらが云々されるが、私たちにとっては「日本人の共感を呼ぶ永遠の同伴者」を見事に描く遠藤周作の 『イエスの生涯』を読み終えたような90日間。もとより、1/6顕現日に関連する「降誕祭」を加えて、「降誕、復活、聖霊降臨」の3大祝日の一つ、別称「キリスト教会の誕生日」。でも今回、特に付け加えて覚えたいのは、「震災後」では2年2ケ月目の「想定外の有り難い祭日」。

 

1.聖書に出てくる「出来事」の中でも、その突発性、驚異性の規模の大きさでは、実に「想定外」の「有り難い(起り難い)」出来事。「今現在」と同じように「想定外の有り難さ」の「重ね言葉」を説教題に掲げたゆえん。

 

 第1、イスラエル民族のカナン定住後,農耕祭として祝われたユダヤ教三大祝日の一つ「五旬節」が到来したので、ペトロほかイエスのお弟子たちは「オリーブ畑」と呼ばれる山から、「安息日にも歩く事が許されている(900m以内)」近くのエルサレムへ戻った。翌日曜日の朝、「泊まっていた家の2階の広間(アッパールーム – 最後の晩餐の部屋? マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家?)」に入って、イエスの母マリアや女性の信徒たちと総勢120人ほどが「心を合わせて熱心に祈り」、ついでペトロが「裏切者のユダ」の後任補選を提案したのに応じて、ユストともいうヨセフとマティアの2人の候補者から、くじでマティアを選んだ場面。

 

 その直後、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。最近では、「平年並み」が珍しく、「平常通り」と聞いて一安心するような時勢にあって、猛烈な豪雨や突風、竜巻すら屢々起るような状況から、突風や轟音は、たえず警戒が呼びかけられる出来事。ここで「想定外」とは、「炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった」ことだ。しかも「一同は聖霊に満たされ、”霊“ が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。当時「エルサレムには、あらゆる国々から帰って来た信心深いユダヤ人が住んでいた」が、この物音に大勢の人たちが集まってきて、「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」。

 

 無理もない!このような「想定外の有り(起こり)難い出来事」を目撃した人々の反応は今も昔も変わりない。「人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」。ただここで見逃してならないのは、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者がいたことだ。すると、ペトロが、つい補選されたばかりのマティアを含む11人の弟子たちと共に立って、声高く説教し始めた、と報じられる。想定外の「有り(起こり)難い」出来事が「ありがたい、意味深い出来事」に転換し始めたのである。

 

2.「想定外の有り難さ」 頻繁に使う「ありがとう」の語源は、形容詞「ありがたし」の連用形「ありがたく」がウ音硬化して「ありがとう、感謝」となったといわれる。「有り難し」は、それこそ「有る事が『かたい』」で、本来の「滅多にない」から「珍しくて貴重だ」に転化し、やがて「ありがとう、感謝」になったという。古典では「この世にあるのが難しい」(『枕草子』)から、中世に至って、仏の慈悲など貴重で得難いものを戴いていることから、宗教的な感謝の気持ちとなり、近世以降は、感謝の意味で広く人々に口ずさまれるようになったと知らされている。

 

 「想定外」だらけの今日、ただ驚愕(おどろき)や「戸惑い」だけでなく、時には、「ありがたさ」つまり「有り難く感謝すること」は大事。これが今日の出来事の核心だ!

 

1)「想定外の有り難さ」の第1は、ペトロほかイエスの弟子たちが、直ちに思い起したイエスのみ言葉で、それは本日の福音書の日課。『ヨハネ』16章では、イエスの決別の辞にふさわしい「まことのぶどうの木」のたとえを用いた「お話」に続き、「これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」とのイエスの語りかけである。それは「弁護者」としての「真理の霊」。しかもその「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせ、聞いたことを語ることができる」と約束される。まさに、そのことが起ったしだい。これが「想定外のありがたさ」の第1。私たちも、奮起一番、「真理のみ霊」しかも「弁護者」である「聖霊」に満たされ、「福音の証し人」になろう!今日、「福音の証し人」が緊急に必要。しかも、「誰にでもわかる」言葉で話すことだ。聖書学者は、よく「多言奇跡」などと云うが、要は、コリント一14章の「異言」とは異なり、「誰にでもわかる言葉」で語り合うことを強調している点にぜひ留意しよう。

 

2)「想定外の有り難さ」の第2は、ペトロに習って「私たちは、酒に酔っているのではない」と明言すること。二日酔いとか「90日間の長期免許停止」を課せられる飲酒運転のことだけではない。むしろ「自己陶酔」、「酔いしれる」(過度に酔って正気を失う)「自制心を失う」ことへの警告だ。「人間万能主義(iPS万能細胞)」から「宗教原理独善主義」が漂っている。それだけに、人間は「万能」になりえても「全能」には決してなり得ないことを明確に弁え知りたい。

 

 最近の政界の成り行きをみて、虚勢、自己顕示を戒める中国の『老子』の一節を引用した警告文を読んだことを思い出す。「跂(つまだ)つ者は立たず 跨(また)ぐ者は行かず」(第24章)だ。「つま立ちすると、一時的に背は高くなるが、不安定な状態を持続することはできない。大股で歩くと一時は早く進むが、すぐに疲れて永続きしない」の意という(講談社学術文庫「老子入門」)。

 

 3)「想定外の有り難さ」の第3は、それこそ「真実にありがたいこと」である。約束の成就だけではない。「和と交わり」をもたらす「会衆」の出発点にもなったことである。受洗者が続出した。その日、3000人が受洗した。先の教区祭の派遣聖餐礼拝では、ICU チャペルを 650名を余す会衆が埋め尽くしたではありませんか!

 

  今日は、「教会の誕生日」。いや、「私たち受洗者たちの会衆誕生祝会」。「教会」の呼び名はずっと後のこと。さあ「受洗」を感謝して、宣教に出かけよう!