「人はパンだけで生きるものではない」 大柴 譲治

                         ルカによる福音書4:1-13             



さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、(2)四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(3)そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(4)イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

<はじめに>


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

「人はパンだけで生きるものではない」

「人はパンだけで生きるものではない」。これは私たちの心に深い余韻を残す言葉です。先週の聖灰水曜日から四旬節・レントが始まりました。この言葉を心に豊かに響かせながら、それは日曜日を除く40日の期間、主が十字架への道を踏み出し始めたことを覚えて過ごしたいと思います。

 「人はパンだけで生きるものではない」。これは申命記の8:3からの言葉です。旧約聖書の最初の五つの書物は長くモーセが書いたと信じられてきたために「モーセ五書」と呼ばれてきました。特に五番目の申命記はモーセの「遺言説教」が記されている書物です。そこにはモアブの荒野においてモーセが死を前にしてイスラエルの民に語った三つの告別説教が記されています。①第一説教(1-4章):40年にわたる荒れ野の旅を回想して神への忠実を説く。②第二説教(5-26章):中心部分をなしていて、前半の5章から11章では十戒が繰り返し教えられ、後半の12章から26章では律法が与えられている。③第三説教(27-30章):神と律法への従順、神とイスラエルの契約の確認、従順な者への報いと不従順な者への罰が言及される。④説教後にモーセは来るべき自らの死への準備をし、ヨシュアを後継者として任命する。その後、補遺部分が続く(32-34章)。ⓐ32:1-47は、『モーセの歌』。ⓑ33章では、モーセがイスラエルの各部族に祝福を与える。ⓒ32:48-52および34章では、モーセの死と埋葬が描かれてモーセ五書の幕が閉じられる。

 「申命記」はヘブル語では「ダバリーム」と呼ばれます。「ダバリーム」とは「言葉」を意味するヘブル語「ダーバル」の複数形です。モーセを通して語られた神の言葉という意味です。英語では「Deuteronomy(第二の律法)」と呼ばれます。これは旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳聖書から来ていて、申命記17:18にある「律法の写し」という語が「第二の律法」と誤訳されたことに由来します。日本語訳の「申命記」とは漢語訳聖書から取られた呼び方で、「繰り返し(重ねて)命じる」という意味の漢語です。

 申命記8章には次のようにあります(1-6節)。「(1)今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。(2)あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。(3)主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。(4)この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。(5)あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。(6)あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい」。ここで申命記8:3にあるように、人はパンだけで生きるのではなく、人は「主なる神」の口から出るすべての言葉によって生きることを、苦しみと飢えとマナとを通して、神は私たちに知らせてくださるのです。


 <「命のパン」「マナ」としてのキリスト>

 『人はパンだけで生きるものではない』。ルカ福音書はこの一言だけを主イエスに語らせています。マタイ福音書は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4:4)とより正確に申命記8:3の言葉を引用しているのですが、マタイ福音書が記録している後半部分を、ルカは沈黙の中に響かせていると申し上げることができましょう。人間が神のかたちに造られており、神から与えられる「命のパン」マナによって生かされることを出エジプト後の荒野の40年はイスラエルの民に教えたのです。「神のみ言葉ダバリームこそが命のパンだ」と言うのです。飢え渇きの中で神を忘れて生きるのではなく、飢え渇きの中でこそ荒野の40年を思い起こし、「神」との生き生きとした関係に生きることが求められている。御言こそが私たちを本当の意味で生かす日毎のパンなのです。「われらの日毎の糧を今日も与えたまえ」と主の祈りで私たちは祈りますが、神が私たちを日ごとのパンである

 マナをもって毎日新たに生かしてくださるのです。

 <大阪での二つの葬儀に参列して>

 私は2/8(金)に大阪教会で行われた小泉潤先生の告別式に賀来先生や中山康子さん等と参加してきました。小泉先生は2/5(火)にご家族が看取られる中で胃癌との闘いを終えて78歳のご生涯を閉じて天へと帰って行かれたのです。450人以上の人が集まる、いかにも小泉先生らしいご葬儀でした。自分の葬儀への招待状を小泉先生は自らのお名前で出されるほどでした。お別れの会は三部構成になっていました。第一部は告別礼拝で、長女の道子さんの独唱アメイジンググレイスに始まり、滝田先生の司式、江藤先生の説教で厳かに進められてゆきました。第二部は立野泰博先生の司会によって、小泉先生にゆかりの深い8人の方が思い出を語りました。小中学校の同級生、神学校の同級生だった田中良浩先生、滋賀県の憲法9条の会の代表の方、最後は小泉先生から受洗して牧師になった8人を代表して総会議長の立山忠浩先生(池袋教会)が「この人についてゆけば間違いはないと思わされた」と思い出を語られました。第三部はケイタリングによる食事会、祝宴が準備されていました。そして出棺です。すべてを小泉先生の指示通りに実行してゆかれたご家族も大変であったと思います。小泉先生の最後の言葉は祝祷であったということでしたが、「皆さん、また天国で会いましょう」と先生は笑顔で旅立ってゆかれたのです。

 その足で岡山入りし、先週の変容主日には高村敏浩先生が牧する岡山教会で礼拝説教と「たとえ明日世界が終わるとも、今日わたしはリンゴの木を植える」と題して講演をしてきました。ルカ福音書だけに、まばゆい姿に変えられた主イエスが、律法の代表であるモーセと預言者の代表であるエリヤの二人と、「イエスがエルサレムで遂げようとされておられる最期について話していた」とありました(ルカ9:31)。ここで「最期」と訳されている言葉は「エクソドス」という言葉です。これはルカだけが主の山上での変容の出来事を記録する中で使っている言葉ですが、それは「エクス(外へ)」「ホドス(道)」即ち「突破口、脱出路」という言葉です。英語で聖書を読まれる方はexodusと聞くとピンとこられることでしょう。そうです、出エジプトを英語ではエクソドスと呼ぶのです。イエスの十字架が、私たちを罪と死の奴隷状態から解放する新しいエクソドス、出エジプトの出来事であることがそこでは語られていたとルカは言うのです。「塵から出たものは塵に帰ることを覚えよ」と言われていた状況が、主の十字架と復活によって完全に変えられていった。死は終わりではない。墓は終着駅ではない。キリストが十字架の上に復活に至る突破講を開いてくださったのです。


 私は岡山からの帰り道、2/11(月)に京都で2/5から入院していた私の従姉妹を見舞って帰ってきました。彼女は一年三ヶ月程前から子宮ガンを患い、治療のために結婚して住んでいた米国ヴァージニア州から単身郷里の大阪へと帰国。免疫療法でずっと頑張ってきたのですが、今年の1/20頃から痛みが激しくなって入院していました。私が見舞った翌日、44年間の生涯を終えて静かに天へと帰ってゆきました。2/13(水)-14(木)に吹田にある日本基督教団の大阪城北教会で葬儀が守られました。2/13は聖灰水曜日でした。私は再度2/14-15と大阪入りし、告別式と火葬に参列いたしました。一週間に二度目の葬儀に参列することになりました。大阪城北教会は私の父が学生時代に洗礼を受けた父の母教会でもあります。従姉妹の家族も皆その教会員でした。告別式では林牧師が故人の真剣な信仰生活に言及してくれました。米国からご主人がかけつけたのですが飛行機の遅れで告別式には間に合わず、出棺を一日延ばして火葬に立ち会うことになりました。通訳も兼ねて私がアテンドしてきた次第です。

 二人の信仰者の生と死と葬儀とは私に再度、『人はパンだけで生きるものではない』という事実を明らかにしてくれたように思います。私たちは神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる。「神の言ダーバル」こそが私たちの真の意味で「命のパン」「マナ」なのです。パンとブドウ酒を差し出して「取って食べなさい。これはあなたがたのために与えるわたしのからだ。これはあなたがたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言ってくださる主イエスこそ、私たちを生かす「生ける神の言」であり「まことのパン」「生命の水」なのです。このキリストを信じ、キリストにすべてを委ね、キリスト・イエスの日に向かって生きる。

 この世の旅路は荒野の旅でもあります。不条理な悲しみや苦しみや死に満ちている。神の憐れみなしには生きて行けないほど暗い死の世界です。しかしその闇の中に降り立ってくださったお方がいる。このお方は、私たちをこの死の闇から救い出す「突破口(エクソドス)」になるために十字架の苦難をその身に引き受けてくださったお方です。このお方を仰ぎ見ながら、このお方に従って、私たちはこの40日間を歩んでまいりたいと思います。お一人おひとりの上に神さまの守りと導きとが豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

 

<おわりの祝福>

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2013年2月17日四旬節第一主日礼拝説教)