韓流を“ブーム”で終わらないために  杉村 太郎

 

○様々な分野の韓流

 「韓流」という一つの流行のきっかけを日本でつくったのは2003年に放送され(NHK BS)話題となったぺ・ヨンジュン、チェ・ジウ共演のドラマ「冬のソナタ」である。放送以来韓国ムーブメントはドラマだけに留まらず、音楽(K-POP)や食べ物、美容など様々な分野からの韓流が起こってきたのである。今や日本における(日本だけでなくアジア全土、ヨーロッパ、アメリカに至るまで)韓国に対しての関心は老若男女を問わず全世代に浸透してきているのである。この傾向自体はとても素晴らしいことである。しかし、一方で懸念もある。それは、「韓流」が一時的なもの、表面的なもので終わらないだろうか、ということである。また、“今”という時代の表面的なものにだけその傾向が適用されているのではないだろうか。その国の現代的状況を知ることは大切なことであるが、一つの国を知っていこうとすることは単に「現代」という側面のしかも表層面だけでなく、その国の内に流れている歴史を知っていくことがその国のより深い理解につながっていくのではないかと思うのである。それは、一人の人間を知ろうとする時、「知る」ということが意味することは単にその人の“今”という時だけを見るのではなく、その人の歩んできた歴史(精神史)=生命史的連続性を見つめていくことがその人を知ることにとって重要なのと同様である。その様なわけで、せっかくの「韓流」と呼ばれている時の到来を単に一時的な流行の次元に留めてしまうのは大変惜しいことなのである。そこで、私がお勧めしたいのは韓国の歴史ドラマをみることである。確かに、韓国の歴史を知る手段は様々にある。歴史書物を読んだり、実際に現地に行って肌で感じる、あるいは韓国の人に尋ねるなどが考えられよう。しかし、書物を読んだり現地にすぐには行けない人にとって、歴史ドラマで韓国の歴史を味わうことは大変有効な手段である。韓国ドラマは現代が舞台のものであれ歴史が舞台のものであれ、大変に刺激的で魅力的であるが、歴史ドラマは特に良い。一度見た経験のある人であれば文字通り“虜”になってしまうのである。その魅力の理由は人によって挙げる理由に違いはあるとは思うが私にとっては大きく二つ挙げることができる。一つは、(脚本や構成が優れているので書物を読むようにして)韓国の歴史を学べるという点である。もう一つは、見ていると「人間とは何か」ということを考えさせられることである。それ故、ドラマを鑑賞している間だけでなく、ドラマ鑑賞終了後も継続的に世界や人間というものを深く考えさせる内容になっているのである。(時にはフランス映画的要素もある。)

○韓国女優の魅力

 韓国ドラマの魅力を味わう際に重要な要素として韓国俳優の存在がある。勿論男優も魅力的であるがここでは女優について語ることにする。十把一絡げには言えないものの韓国女優には、外面的な美しさだけでなく、内面から滲み出る人間の内なるそして底知れぬ美しさ、女性の持つ生命の躍動(力強さと美しさ)が感じられる。そこには旧約聖書に描かれている“エヴァ”がヘブライ語の「生命(いのち)」を意味する言葉であることにもつながる内なる恒久なるもの・普遍的なるものを感じるのである。またその魅力は、演技力にもある。日本の芸能界では最近、人気があるという点だけで何の演技も勉強したことのないような人間がドラマに抜擢されるという傾向が強い中、韓国では必ず演技の勉強・訓練がある。それ故、韓国の俳優(音楽の世界でも同様)には皆長い下積み時代の経験があるのである。そして、下積み時代に培った人間を見つめる深い洞察と探求によってドラマの中で素晴らしい演技を見せてくれるのである。だからこそ、韓国ドラマは一層的なものではなく、そのドラマの構成、役者自体の深みから、見る者にある種の“刺激”を与えてくれるのである。

お勧めの韓国歴史ドラマ

現在日本には数多くの韓国歴史ドラマを見ることができる。どれもそれぞれに描かれている時代のダイナミズムが描かれているのであるが、今私がお勧めしたいのは「善徳(ソンドク)女王」である。ドラマの舞台は朝鮮史上初の女王である新羅第27代の善徳女王(在位632-647年)が歩んだ(波乱万丈な)生涯を描いている。

ドラマの見どころとして主演の女優イ・ヨウォンLeeYoWon(代表作:ドラマ「外科医ポン・ダルヒ」「ファッション70s」映画「華麗なる休暇」など)の演技も魅力の一つである。時代と運命に翻弄されながらも深い洞察力によって時代を生きた善徳女王の持つ底知れぬ力強さを見事に演じている。

最後に、韓国ドラマは主演俳優を取り巻く脇役もドラマの魅力を一層高める重要な存在である。脇役だからということではなく、ドラマ全体の魅力を引き出すために全ての演者がある意味で主役なのである。その為、ドラマはとても立体的に見る者に訴えかけてくるのである。その時、ドラマは単にドラマとして単に嗜好的なものに留まらず、「人間」を学び、考え、知るための教材にすらなり得るのである。