説教「御衣に触れることができれば」 大柴 譲治

哀歌3:22-33、マルコ福音書5:24-34

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがわたしたちと共にありますように。

真剣に関わってくれる存在によって

人は愛されることによって愛することの大切さを学びます。愛するとは、相手と真剣に関わるということであり、相手を大切にするということです。時としては、厳しく相手に向い合うということが必要となりましょう。私たちも振り返ってみれば、自分と真剣に向かい合ってくれた人々との大切な記憶の中で育ってきました。私たちは自分に向けられた真剣なまなざしをいつまでも覚えているもののようです。

本日の旧約の日課には、神が私たちに真剣に向かい合ってくださるということが記されています(哀歌3:22-33)。特に31-33節を読んでみます。

主は、決して
あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く
懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子らを苦しめ悩ますことがあっても
それが御心なのではない。

「幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない《(マルコ10:15)と主は言われました。苦難の中にあっても「必ず神は私を助けてくださる《とまっすぐに信じる子供のような無心の心を持つことが求められています。神の御心に対する徹底的な信頼が求められているのです。

しかし、そのような信頼はどこで獲得されるものなのか。私たちは一人でもよいから自分と真剣に向かい合い、自分と真剣に関わってくれる人を必要としている。そのような出会いを持つ者は幸いであります。おそらく人間はそのような出会いから、困難の中にあっても人間は信頼に価するということ、この世が生きるに価するということを学ぶのです。真剣な関わりというものの重要さを覚えます。

むさしのだより7月号巻頭言に野村克也監督について書かせていただきました。とても個性的で、優れた観察力を持つ、「データ《と「人情《の両方を大切にしている人物です。その野村監督はあるところで「人生の中で三人の友を持て《と言っています。三人とは、1)原理原則を語ってくれる友、2)師と仰ぐことができる友、3)(言いにくいことも)直言してくれる友、の三人です。至言です。

三つをまとめて言うならば、「自分ときちんと真剣に関わってくれる友を持て《ということでありましょう。「親友《を持てと言うのです。真剣なまなざしは長く私たちの記憶に残るものなのです。ここにおられるお一人おひとりも、今、これまで自分に真剣に関わってくれた人のまなざしを思い起こしておられるかもしれません。

後ろからそっと御衣に

本日の福音書の日課には二つの奇跡がサンドイッチのようなかたちで記されています。本日は特に、その真ん中に挾まれている「12年間も長血を患った女性に《焦点を当てて読んでゆきたいと思います。印象的な出来事です。

(マルコ5:24-34を読む)

私たちにはこの女性の心の動きが分かります。どこかで似たような体験を持っているからかもしれません。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった《(26節)という一節は、私たちの現実の困難さをよく言い表しています。どんなに努力してもすべてが徒労に終わり、報われないことがある。神も仏もあるものか、という状況です。

どうして神はこのような苦しみを与えるのかと彼女は嘆いたに違いない。「神に罰せられ、裁かれた者《として人々は後ろ指を指し、彼女を物笑いの種にしたかもしれません。自らを「汚れた者《として社会的に隔離しなければならなかった当時の状況もあります。「イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの朊に触れた《(27節)という表現は、接触によって「汚れ《は伝染するとみなす当時のユダヤ教の厳しい律法を想起させます。そのような状況の中で、彼女は誰にも分からないように後ろからそっと手を伸ばして主の御衣に触れるしかなかったのです。既にできることはすべて全財産を用いてやり尽くしていた。

「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた《(29節)。神は祈りに答えて下さった! 彼女は癒されたことを直感して、そう感じました。喜びと安堵に満たされた。それは長い間忘れていた感覚でもありました。

場面はしかし彼女の思いもよらぬ方へ急転します。主イエスが、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆を振り返ってこう言われたのです。「わたしの朊に触れたのはだれか《と。この言葉に彼女は心臓が止まりそうになったに違いありません。「汚れた者《である自分が、公衆の面前で、後ろからでも男性に触れるというのはとんでもないことです。イエスに「汚れ《を移してしまったことになるからでもあります。

弟子たちは言います。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか《。しかしイエスは、「触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた《(31-32節)。

女性はイエスとまなざしを感じたのでしょうか、観念します。「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した《(33節)。どれほど恐ろしい罰が与えられるかと彼女は恐れとおののきの中にあります。

しかし、イエスさまの言葉は彼女の思いとは全く違ったものでした。その若い女性を自分の真正面(中心)に置いて、主は彼女を見つめながら言います。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい《(34節)。彼女は心の底から癒され、解放されたのです。神に罰せられたと思っていた自分が神に愛されていたことを知るのです。

この言葉は、長く病気に苦しんできたその女性にとってどれほど温かく、有り難く響いたことでしょうか。自分の病気が自分の罪に対する神の罰だと感じてきたであろうその女性に、主は罪については一言も語っておられない。むしろ自分には信仰がないと思っていたに違いない彼女に、「あなたの信仰(ピスティス)があなたを救ったのだ《と宣言しておられる。この「ピスティス《という言葉は「信仰《とも「信頼《とも、また「信実/まこと《とも訳せる言葉です。「そっと御衣のすそに触れることができれば《と思った主イエスに対する信頼が、そのような大きな病いを癒すという奇跡を起こしてゆくのです。

そしてそれは、あなたの中に神の信実(ピスティス)の御業が働いているということでもある。「神があなたの中に働き、あなたを救ったのだ。神があなたと共におられるのだから、安心して行きなさい。もうその病気にかかることはないから、元気に暮らしなさい《と主イエスは彼女を神の祝福の中に送り出してゆくのです。これはとても印象的な出来事であります。

信仰(ピスティス)

彼女の「信仰《とは何を意味しているのでしょうか。12年間も長血を患って、財産もすべてを失って、何にも頼ることのできない彼女でした。どこにも希望はなかった。ただ神の憐れみに頼る以外にはなかったのです。「主よ、憐れんでください《と祈りながら後ろからそっと主の御衣に触れる。それが彼女の信仰でした。彼女は土壇場で本当に頼るべきものを見出したのです。イエスと出会うことができた。人生はあの羊飼いのステンドグラスに描かれたお方と出会うためにあるのです。

そのことがもたらした大きな変化に誰よりも彼女が驚いたことでしょう。彼女はそれを通してキリストの熱い愛に触れることができたのです。病いが癒されたこと以上に、そのことが彼女の心に忘れ得ない刻印を残したに違いありません。彼女の目には涙があふれ出たに違いない。主イエスとの出会いとはそのような変化を私たちにもたらせます。「あなたの信仰があなたを救った《。これは本当に上思議な言葉です。自分は上信仰であり、信仰などかけらもないと周りから見られていたし、自分でもそう思っていたその女性に、主は「あなたの信仰があなたを救った《と言われるのですから。彼女は主のまなざしの中で新しい人生を踏み出してゆきます。

私たち自身もそうでありましょう。そっと後ろからキリストの御衣に触れることができれば、というかつて思った私たちのささやかな願いを、私たちの思いを遙かに超えるようなかたちで、主イエスは真正面から受け止めてくださったし、受け止めてくださっておられるのです。伸ばした指先に触れたキリストの愛のぬくもり。それは忘れられない光を彼女の心に灯したに違いありません。この灯火をもって、キリスト者はこの世を歩んでゆくのです。傷ついた葦を折ることなく、消えかかった灯心を消すことのないお方がここにはおられます。

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分《とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。
主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
(哀歌3:22-27)

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2009年7月26日 聖霊降臨後第8主日説教)