死にいたる病   川上 範夫

昔の人は家族に見守られ自宅で息をひきとったが、今日では9割の人が死を病院や施設でむかえるといわれる。このことにやや関連するが、数年前までは知人が亡くなると、何をさておき通夜や葬儀に参列したものだが、今ではそのようなことは殆んどなくなった。当人の意思もあってか、ご遺族が通知を控えるようになったのだと思う。又、以前は町内の人が亡くなると回覧がまわったものだが、最近はそのような通知すら出されなくなった。このように、死というものは家族からも地域からも見えないものになってしまった。

では、死については誰もが無関心になったのかというと、そうではない。今や死という言葉は時代の重要なキーワードといえる。個々人の死は見えなくなったが、社会問題としての死は高齢化とあいまってクローズアップされてきた。
ルーテル学院大学大学院に2009年「死生学研究所」が設立されたのもその現れといえよう。前述の通り、死は家庭でも地域でも見えなくなったが、一方、「老い」は身近なものになった。私は昨年春介護老人施設に友人を見舞った。彼はうつろな眼で私を見たが全く認識は出来ず、ただ黙って何かを食べている姿を見て悲しい想いがした。又、私には広島に103才の親族がおり老人ホームに入居しているが、過日、施設から連絡があり暴力をふるうので特別室に移したという。私は情けない気持になった。

だが、このような老人の醜態を見聞きするのは珍しいことではない。話は少しそれるが、私はある医療関係の本で最近中年の女性に“ガンで死にたい”という意識が広がっていると知った。ガンではボケないということのようである。そういえばガンで亡くなった方の姿は、やや崇高な調子で語られることが多い。

さて、私共は誰一人「老い」と「死」からのがれられない。これとどう向き合えばよいのだろう。これに関する本はごまんとあるが、本を読めば納得のゆく道が見つかるものでもない。
遠藤周作がよく紹介するベストセラー『死ぬ瞬間』の著者キューブラ・ロスによれば“宗教心の篤い患者も宗教をもたない患者と大した違いはない”とあるが、死ぬ瞬間もさることながら、そこへの過程が不安なのである。デンマークの哲学者キルケゴール(1813~1855)は“死にいたる病”の名著を書き残したが、もし彼が現代にいたなら“死にいたるまでの病”についてどのように語るだろう。

(むさしの教会だより 2012年7月号)