説教 「ホサナと歌え」

マタイ福音書21: 1-11

「ホサナ!」

「ホサナ!ホサナ!」 人々の歓喜の叫び声の中をころばに乗ったイエスさまがエルサレムに入ってゆかれます。「ホサナ」とはヘブル語で本来は「どうぞ救ってください」の意味でしたが、それが転じて次第に歓呼の言葉を意味するようになりました。人々はイエスが来るべきメシアで、ダビデの王国を再建する者であると信じて、彼をたたえるのです。

この箇所は詩編118編と密接な関連をもっています。そこにはこうあります(19-27節)。「正義の城門を開け、わたしは入って主に感謝しよう。これは主の城門、主に従う人々はここを入る。わたしはあなたに感謝をささげる、あなたは答え、救いを与えてくださった。家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方」。

「今日こそ主の御業の日!今日を喜び祝い、喜び躍ろう!」そこからは民の圧倒的な歓喜の歌が聞こえてくるようです。待ちに待った救世主の到来です。ゼカリヤの預言が今日、この時に成就した!パウロもキリストと出会った喜びの中でこう言っています。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日!」(2コリント6:2)。今、この私が救い主と出会う瞬間こそが「恵みの時」であり「救いの日」なのです。

死の悲しみ

実は先週の水曜日、2月13日に世田谷の自衛隊中央病院で病床洗礼を受けられたT. 美恵子姉が、ガンとの闘病の末に天に召されました。56歳。前夜式とご葬儀は都南教会のご好意で、都南教会を会場にお借りして行われました。受洗時にはお医者さんから「もう今日か明日の命」と言われていたのですが、受洗後には5週間に渡って奇跡的な小康状態を保たれました。その間二度の外泊さえ許された。しかし先週末から容態が急変して、24日(水)のお昼前に息を引き取られました。愛する者との別離の悲しみのうちにあるご主人と三人のお嬢様達の上に神さまのお慰めをお祈りします。

25日(木)の夕に前夜式が行われたのですが、同じ頃、私の妻は別の通夜に出席していました。ご近所のご主人が、まだ若い方だったのですが、突然に亡くなられたのです。あまりにも突然のことなので信じられない思いですが、深い衝撃と悲しみのうちにあるご遺族の上に慰めをお祈りいたします。

私たちの一番の敵は「死」であります。どんなに深く愛し合っていても、私たちは一人で生まれ、一人で死んでゆかなければなりません。その意味では私たちは絶望的なまでに孤独な存在であります。愛する者を失う悲しみを体験された方は皆さんの中にも大勢おられることと思います。今でもその時の体験を思い起こすと深い痛みを覚える方が多いことでしょう。「時薬」という言葉がありますが、しかし時の流れの中でも決して癒されることのない悲しみがあるのです。思い起こすたびに深い悔いと悲しみのために涙が止まらなくなる体験が、誰にも確かにあるのです。

悲しみの信仰詩人、八木重吉は歌いました、

このかなしみを
ひとつに 統ぶる 力はないか  ( 「かなしみ」『詩集 秋の瞳』)

また、こうも歌っています。

はじめに ひかりがありました
ひかりは 哀しかったのです

ひかりは
ありと あらゆるものを
つらぬいて ながれました
あらゆるものに 息を あたへました
にんげんのこころも
ひかりのなかに うまれました
いつまでも いつまでも
かなしかれと 祝福れながら (「貫く 光」『詩集 秋の瞳』)

私たちは不条理な悲しみや無意味に思える苦しみに取り囲まれている。「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか?!」(詩編22:1)と叫びたくなる時があるのです。私がフィラデルフィアでチャプレンとしての病院実習をしていた時には、毎日がそのような問いの連続でもありました。病院とはそのような悲しみの場所です。そして私たちは、そのような悲しみ苦しみの前に沈黙する以外にはないのです。

子ロバに乗った救い主を待ち続けたイスラエルの人々の歴史もまた、大国の支配下に繰り返し置かれ続けた悲しみの歴史でありました。「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」。この歓呼の叫びの裏には人々の嘆きの叫びが隠されています。不条理な死を味わわされてきた民の嘆きがあります。ホサナという声が大きければ大きいほど、私たちはそこに悲しみの涙と慟哭の深さとを思うのです。救い主の到来が、無意味に思えた民の不条理な悲しみに意味を与えてくれるのです。

「エルサレム」=神の平和が打ち立てられる場所

主イエスはそのような悲しみを味わい続けた民衆の歓呼の声の中を、黙って子ロバに乗ってエルサレムへと入ってゆかれます。主はその時、民衆の悲しみと怒り、嘆きをその存在の中心で受け止めていたのではなかったか。はらわたがよじれるほどの深い憐れみをもってその歓声を聞いていたのではなかったか。私にはそう思えてなりません。十字架はその「ホサナ(どうぞお救いください)!」という民の歓声に対するイエスの答えでした。本日の第二日課のフィリピ書はそれをこう告げています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

主は十字架の上で、私たちのために、私たちと共に、私たちに代わって、叫ばれました。「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか?!」と。主はそこに、私たち人間の悲しみと苦しみを、怒りと無力さと恥とを、その身に負うてくださったのです。

「エルサレム」という都の名は、「平和を立てる」あるいは「平和の基礎」という意味であると理解されてきました。エルサレムとは神の平和が打ち立てられる場所なのです。そのエルサレムに今、子ロバに乗った「平和の王」が入城する。今や神の平和が打ち立てられる日が来た!「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に!」(詩編118:24-26)。「ホサナと歌え!ホサナと祝え!」 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリヤ9:9-10)。「ホサナと歌え!ホサナと祝え!」 神のセレブレイションです。

主は私たちを絶望から解放するために、神の平和を私たちの間に打ち立てるために来てくださったのです。私たちにとっての「エルサレム」とは、私たちの悲しみ苦しみが渦巻く病院であり、家であり、職場であり、人生であるのです。主イエスはそのような悲しみのただ中に神の平和を、神のシャロームを打ち立てるために来てくださった。そしてそこで主は、死のただ中にあって命を、絶望のただ中にあって希望を、憎しみや怒りのただ中にあって愛と赦しをもたらすために、あの十字架にかかってくださった。そして十字架において私たちの罪は終止符を打たれ、復活において私たちを脅かす死は死を迎えたのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(1コリント15:55-56)。

ホサナと歌え~悲しみの終焉、死の死

死は終わりではない。罪は絶望的な事柄ではない。悲しみや苦難は究極的なものではない。それらがたとえどれほど圧倒的な力を奮おうとも、それらを突破して、それらを凌駕するようなかたちで、神の命こそが究極的な事柄として私たちに用意されている。主はそのための道を備えるために、今エルサレムに入ってゆかれようとしているのです。あの十字架と復活を通して、私たちの絶望のただ中に、私たちの涙のただ中に「神の平和」を打ち立てるために。そのことを覚えつつ、十字架に思いを向けながら、ご一緒にこの受難週を過ごして参りたいと思います。そして、ご一緒に「ホサナ」と歌いつつ、主を私たちの心に、私たちの生活の中にお迎えしてゆきたいと思います。

お一人おひとりの上に主の愛が豊かに注がれますように。特に、悲しみ嘆く者たちの上に主の慰めと癒しと希望が備えられますようにお祈りいたします。 アーメン。

(1999年3月28日)