説教 「神の望みと人の望み」  大柴 譲治牧師

マタイによる福音書20:17-28

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネ

時は、主イエスによる三度目の受難予告の直後。12弟子のメンバーであるゼベダイの子ヤコブとヨハネの母親が主イエスの前に進み出てます。 主が「何が望みか」と問われると、彼女は願います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と。栄光の座をイエスが受けられる時、息子たちをその右大臣、左大臣としてくださいというのです。

ヤコブとヨハネはペトロと共に、多くの場合に主イエスのそばに置かれています。山上の変貌の場面でもゲッセマネの祈りの場面でもそうでした。彼らは特別な寵愛を受けていたようにも見えます。ヤコブとヨハネは、ペトロと共に12弟子たちの中で常に指導的な立場に置かれていたように思えるのです。

他の9人はそれをどう思っていたでしょうか。12人は「誰が一番偉いか」と始終議論していたようですから(マタイ18:1など)、彼らの多くは野心的であって、互いに対して強い競争心を燃やしていたのではなかったか。もちろん中には穏やかな性格の弟子もいたことでしょう。ペトロの兄弟・アンデレなどはほとんど前面に出てきませんので、ペトロとは対照的な性格であったと思われます。

ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、マルコ福音書3:17によると、主ご自身によって「ボアネルゲス(雷の子ら)」という名前が付けられたとある。名は体を表していましょうから、彼ら兄弟は二人とも、ペトロ(岩≒頑固者)と呼ばれたペトロ同様、激しやすい性格であったと思われます。使徒言行録12章にはヤコブがヘロデ・アグリッパ1世による迫害の中で剣で斬り殺され殉教したことが記されています。最初期の殉教者の一人となってゆくのです。その意味では確かに、ヤコブは主イエスが飲もうとしている「杯」を飲むことになってゆくのです。

ちなみに、主イエスが三人をいつもおそばに置かれたというのは、彼らが優れたリーダーシップを持っていたからというよりも、彼ら自身のアグレッシブな激しやすい性格から、彼ら自身が強くイエスのおそばにいることを望んだということがあったと思われますし、彼ら3人の性格を知る他の9人が譲ったということもありましょう。3人が主のそばにいないといかにも大変なことになりそうです。そして何よりも、激しやすい彼ら3人を一番イエスさまが牧会し、訓練するためであったろうと私は思います。一匹の羊をも大切にする羊飼いイエスさまですから、弟子たち一人ひとりの性格をよく知り、一人ひとりにふさわしい導きを与えられたのです。

母と子

ヤコブとヨハネの母は、そのような状況の中で、主に願い出るのです。十字架こそがイエスの王座であるということを聞いていながらも(場面は三度目の受難予告の直後です!)、それをまったく理解せずに、栄光の玉座を思い描いている。

ヤコブとヨハネの母親の性格もなかなかのものです。子を思う母の気持ちはかくも強いものでありましょう。そこには、母の強い支配の中から抜け出せないでいる息子たちがいる、というような感じもあります。この母にしてこの子あり、なのでしょうか。

それを知った他の弟子たちは抜け駆けされたと思ったかも知れません。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と24節にある。私たちはそのような情景を容易に想像することができます。よく分かるというのは、それは私たち自身がそのような思いを持っているからであり、偉い者、力を持つ者が支配するというこの世の論理の中で生きているからです。

神の望みと人の望み

そのように私たちの思いは、少しでも地位や財産や権力や栄誉を持ちたいという方向に動きます。夏目漱石も「向上心のない者はバカだ」とその作品の中で言わせています。向上してゆくこと、昇ってゆくこと、出世してゆくことこそが大切なのです。上昇志向が私たちを支配している。それが人の思い、人の望みであり、この世の価値観なのです。

しかし、イエス・キリストにおいて神が示された道はまったく違っていました。「上昇志向」ではない。むしろ、方向としては「下降志向」と言ってもよい。最も低いところ、一番下に立つことを示されるのです。

主は弟子たち一同を呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」(25-28節)。

ここには私たちの思いとは異なる神の思い、神の望みが示されています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。一番下に立ちなさいと命じておられるのです。これは単に上昇志向の反対を示されたというよりも、それらを越えた生き方を示されたと理解すべきでありましょう。行為 Doing の次元で汲々とした生き方ではなく、自他の存在 Being そのものを味わい、とことん大切にする生き方への転換が語られているように思います。自分の強さを誇るのではなく、自分の弱さを誇る生き方です。なぜなら、私たちはキリストのゆえに、弱い時にこそ強いからです(2コリント12:10)。

私たちの現状と聖書の告げる言葉

日本社会は現在、たいへんに困難な状況の中に置かれています。経済的にも政治的にも道徳的にも、私たちは不況と混乱の中にあると言わなければなりません。個人的にも、困難な状況の中に置かれている方が少なくないことでしょう。病いの床にあったり、家族を介護していたり、転職の不安や失業の苦しさの中にあったり、夫婦や親子などの家族の問題で悩んでいたり、様々な問題を抱えて私たちは生きています。偉くなろうという大それた願いは持っていないとしても、ささやかな幸せを私たちの多くは願っているのです。

何が幸せなのか。そのことを本日の日課は私たちに考えさせてくれます。偉くなること、お金持ちになること、業績をあげること、長生きすること、幸せになること。それらにも大切な面はありましょう。しかし何が一番大切かというと、聖書はそのどれに対しても「否」と言います。私たちにとって何が最大の幸福であるのか。それは私たちが神のみ心に従って生きることだと聖書は告げるのです。人生の中で主キリストと出会い、自分の十字架を担って主に従うことだと聖書は告げている。それはキリストと共に生きるということでもあります。キリストがすべてにおいてすべてなのです。

パウロは言いました。「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです」(ローマ14:8)と。また、こうも言いました。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と。苦しみの中にあっても、死の陰の谷を歩む時にも、私たちは、あの羊飼いなる主が共にいますがゆえに、災いを恐れなくともよいのです。主がみどりの牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴いたもうからです(詩編23編)。

教職神学セミナー『きめ細やかな牧会を目指して』

先週の月曜日(2/18)から木曜日(2/21)まで、神学校で教職神学セミナーが開かれました。主題は『きめ細やかな牧会を目指して』。私が主題講演をさせていただきました。徳弘浩隆先生が『IT時代の新しい牧会の可能性』と題して、インターネットの持つ豊かな牧会的な可能性について具体例をあげて講演してくださいましたし、徳善先生が『牧会者ルター』という主題で「最終講義」後の「アンコール講演」をしてくださいました。

私は最初に、牧会とは何かということに関連して、二年前の自分の眼の手術の体験を導入として話させていただきました。ガンで「あと半年の命」と告知されてから求道し、洗礼を受けた半年後に天に召されてゆかれた松下容子さんが、亡くなられる直前、病床聖餐式の後でやせほそったお顔でしたが、眼をキラキラさせながら語られた言葉が忘れられません。「先生、もしかしたら間違っているかも知れませんが、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」。なぜ悲しみや苦しみがあるのか人生には分からないことばかりですが、そしてまた私は簡単には苦難の意味について答のようなものを言いたくありませんが、これだけは言えるだろうと思います。私たちにとっては人生においてキリストと出会うことがすべてなのです。このお方と出会うことなしには本当の意味で私たちの命は輝かないのです。私たちの行う「牧会」とはこのお方を指し示すことです。

早いもので私が右目の網膜剥離を患ってもう二年が過ぎました。ストレッチャーに乗せられて手術室に運び込まれる時、またまばゆいライトの前で4時間まばたきせずに右目を開き続けるという手術の際に、深いところで私を支えた二つの言葉がありました。椎名麟三が受洗時に語った「ああ、おれは、これで安心してジタバタして死んでゆける」という言葉と、遠藤周作の『侍』という作品の中の最後に出てくる言葉です。主人公の侍がキリシタンということが分かり処刑されてゆく場面で、従者の与蔵がこれ以上ついてゆくことのできない場所まで来た時に二度、こう叫ぶのです。「ここからは、あのお方がお供なされます。」「ここからはあのお方がお仕えなされます。」「侍」とは「武士」という意味もありますが、「さぶらう」、すなわち「仕える」という意味があるのだということを遠藤周作はタイトルに重ねているのです。いずれにしましてもキリストがかたわらにいてくださる。だから私たちは安心してジタバタしてよいのだ、ということは私にとって大きな慰めでした。

神はご自身がインマヌエルの神であるということ、み子イエスが常に私たちと共にいてくださるということを私たちが知りつつ生きることを望んでおられるのです。確かに人生は神と出会うためにある。あのステンドグラスに描かれた羊飼いなる主イエスさまご自身が私たちを牧会してくださる。そこに上昇志向、下降志向という次元を越えた、より深い私たちの生の根底があるのです。そのことを深く味わいながら、新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。

おわりの祝福

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

(2002年 2月24日 四旬節第二主日礼拝 説教)