説教 「小さい者」 徳善 義和

(むさしの教会だより1996年 4月号ー1997年8月号)

むさしの教会前牧師で、ルーテル神学校校長、ルーテル学院大学教授(歴史神学)、

日本キリスト教協議会(NCC)前議長の徳善義和牧師による説教です。




マタイによる福音書 18: 1-14

私はルーテル教会から送り出されて、1994年から三年の任期で日本キリスト教協議会の副議長を務めている。NCCと略称されるこの組織は日本の主なプロテスタント教会や関連組織の連合体で、世界教会協議会(本部 ジュネーヴ)の連なりながら、この世界にある教会の使命を共同で担う活動をする。宣教は各加盟教会の務めだから、共同で担うとなれば、教会一致の問題や社会問題ということになるから、最近のテーマは「平和と核問題」とか、「軍隊強制慰安婦」の問題とか、「(外国人)移住労働者」の問題とか、「死刑廃止」問題について、教会としての発言を繰り返そうとすることになる。そこで私が気付かされ、学ぶことになるのは、この世界に生きる「小さい者」に、教会はどのように注目し、かかわっていくべきかということである。

ところでマタイの18章は、通常「教会生活の規定」と呼ばれる。イエスご自身の文脈からすれば、「信仰の兄弟姉妹の共同生活の勧め」とでも呼ぶほうがふさわしいと、私は考えている。

心に留めるべきはこの「規定」、この「勧め」が「小さい者」への注目で始まり、全体を決定していることである。別々に「「共同体の裁判規定」(15~20節)や「赦しの命令」(21~35節)につづくのではなく、この章全体が「小さい者への注目と愛」という視点で貫かれているということである。

だから「神と小さい者」が特別のテーマとなる。まず「神ご自身が小さい者になられた」のである。マタイにせよ、ルカにせよ、降誕の記事はその証言にほかならない。「人の子は枕するところもない」地上の生を、イエスご自身が生き抜かれた。さらに神もイエスも「小さい者に注目なさる」。イエスの弟子選びを見てもそうだ。イエスの宣教やいやしの働きを見れば、これまた終始して「小さい者」との出会いである。「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)ともある。また、弟子たちには偉くなることではなく、仕える者となり、皆の僕となるなるように教えられた(20:26以下)。

それゆえに、信仰者の生もまた、「自ら小さい者となる」生となろう。教会の歴史の中で、有名無名の多くの人々がそのような生を自らに心掛けた。アッシジのフランシスコは新しい修道理想に生きて、自らとその共同体を「いと小さい兄弟の群れ」と呼んだ。20世紀の最大のプロテスタント神学者とされる、スイスのカール・バルトも、晩年カトリックの神学者キュンクの「あなたは素晴らしい信仰者だ」との賛辞にこう答えたという。「私は神様の前に出るとき、背負い篭一杯に著書を詰めていきません。立派な信仰者だ、と言われても、ふつつかな僕に過ぎませんと答えるでしょう」と。

教会での信仰の共同生活、社会の生の中での教会の生や使命の基本が、神が自ら選び取られるあり方に従って、私たちこそが自ら「小さい者となる」ことを選び取り、さらにまたこの世界の中で「小さい者」に注目し、これに心を掛け、これを心に留め、このために心を注ぎだすことにあることが明瞭になる。その時「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(20節)とのおことばは、深い意味と力とを教会としても、この世にある教会としてももつことになる。
(1996年9月22日 聖霊降臨後第17主日)