説教 「信仰の大小」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ
を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




顕現節第3主日

 

「わたしたちの信仰を増してください。」「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。」(ルカ17:5-10)

信仰ほどその名の美しく、しかもさまざまな堕落を内包しているものはないと言われる。信仰について考えるとき、また神への信仰を言いあらわす時、深く自ら注意しなければならない。そして、この個所でも主は、信仰の基本的な性格について明らかにされる。

ルカ17章の初めに、主は悔い改めて帰ってくる兄弟をゆるしてやるようにと戒められた。一日に七度罪を犯しても、七度帰ってくればそれをゆるすように教えられたのである。

そのとき、弟子たちは「私たちの信仰を増してください」と願った。自分たちの現在の信仰では、とても手におえそうにない求めが主によって提出されていると感じたからである。

これはまことにたいせつな、しかも正しい態度だといってよい。彼らは、信仰をどうしたら増すことができるでしょうかとか、どういう修練をつむべきでしょうかとも聞いていない。端的に、主に向って、信仰を増してくださいと願う。それは、すべての信仰者の祈りでもある。さまざまの問題につきることなくなやまされ、騒然として世の中で、どうしたらよいのかと思いまどい、しかも信仰をもっているといいながら、いかにもたよりない自分しか見いだせない。自分の死や罪の不安に、なにひとつたしかなことをもつことができず、人々との交わりの中でおくし迷っているに過ぎない。主が「ゆるせ」と命じられるとき、いったい自分自身が何者なのでそういうことができ、またそうしなければならないのかを疑ってしまう。私たちは、ほんとうに、自分の信仰が増し加えられることを主ご自身に願い求めてゆかなくてはならないのである。私たちの信仰は、自分の決意や選択によってではなく、その前に、その基に、神ご自身のみわざがある。

しかし、主は弟子たちの求めに対して、たいへん独特な答えかたをされた。いったい、「増してください」と言われるとき、そこにはすでに信仰が少しはあることを前提に考えている。だからこそ、大きな深い信仰にまで成長したいと願うのである。けれどもイエスは「からし種一粒」ほどの信仰さえあれば、どんな大きなこともなしえられるのだと言われる。

主は、大きなことを求められたのではない。いろいろな種の中でも、小さいものの例に使われるような、からし種一粒ほどの信仰を求めたもうた。それは広い畑にまかれるちいさな粒にすぎない。畑の土全部を宝石の砂に変えることが求められているのではない。私たちの中には、迷いがあり、疑問があり、恐れも不安もこの世の思いも、相変わらずある。しかもその中に生命をもつ種が受けいれられていることが必要なのだ。神がはじめられたよきわざが、胎動していることを感じてゆくことが必要なのである。信仰を量的なものと考えてはならない。もし量的に考えられるなら、私たちの信仰は、からし種一粒ほどもないという判定しかかえってこない。

「私たちの信仰を増してください」という願いは、まことに正当に主に対してかたられた。しかし、この求めの背後には、自分が何かできる。自分の信仰はすでに何ほどかの分量をもっているという間違った考えがありはしないか。信仰は本来自分の力を否定するのに、信仰ということによって、自己に関する幻想をかきたてようとしているにではないか。

ギリシャの巨人アントイスの神話は、私たちの罪や肉の力をよく示している。アントイスは征服されて、大地に投げ出されると、母なる大地から常に新しい力を注ぎこまれた。倒されてはまた生きる。彼は何人にも征服されない力をこうしてもっていた。しかし、彼が空中にあげられたとき、大地との接触をたたれたとき、初めて彼は窒息して死ぬ。

私たちの中には、不死鳥のような自己中心の罪の思いがある。信仰においてさえ、それは巧みに生きのびようとする。

逆にまた、信仰は具体的な生活の中に生きる。自分がこの地上に生きることを忘れて、ありのままの現実を見失って、幻想の世界に生きようとするとき、たちまち信仰はその力を失い、窒息させられてしまう。

主は、桑の木に海に植わるように命じてもなる信仰の力を示された。私たちの判断では、ありえないとしか思えないことも、からし種一粒ほどの信仰はよくそれをなす。私たちは、さまざまな問題の観察や分析はすることができても、その中で命じ、ことをなすことはたいへんにむずかしい。批評家として現代を論評することはできる。しかし全体を見渡し、歴史を見通して、コミットすることはたやすいことではない。桑の木をなんとかして移すことが問題なのではない。それは手だてを考えることができる。ブルドーザーは山を移して、新しい団地を切り開いている。もっと基本的な、全体的な信仰の立場を考えなくてはならない。

ルカ17章7節以下に、主は続けて主人としもべのたとえを語られた。これは内容的につながっている。すなわち、信仰は徹頭徹尾私の力として何かをするのではなくて、主人がいることを示している。しもべは、どんなにりっぱに働いたところで、「すべき事をしたに過ぎない」ふつつかなしもべなのである。

信仰は、私の力として何かを働くのではない。信仰は自分の魂の力であって、量をまし加えられるものではない。主人がいる。この主人への信頼であり、奉仕である。この主人である神の全能の、愛の力への信頼なのである。エーベリンクは、信仰は名詞ではなくて、常に動詞であらわされると言う。大小の分量が考えられる時、私たちは名詞的な信仰を予想している。大小のあるのは、主人としもべの比較にならない力の相違だけである。主が命じ、欲したもうことを聞きわけ、忠実に仕えてゆく者となってゆかなくてはならない。

(顕現節第3主日)