説教 「ゆるしの伝達」 石居正己

むさしの教会は2009年9月20日(日)にホームカミングデーを祝いました。それ

を記念して出版された石居正己牧師による説教集(1966-1968年)の復刻版
です。2010年3月20日に82歳で天の召しを受けられた恩師を記念して。
s.d.g.(大柴記)




三位一体後第22主日

 

(マタイ18:21-35)

天国は主が僕たち決算をするようなものだと主は譬えられた。この中には、私たちの行為の出発点が示されている。

罪のゆるしの愛は、私たちの中にあって最もたいせつなことである。トルストイは、人がいっしょにいて何でもないということはありえないと云った。お互いの間に、争いがあり、ゆるしがあり、惜しみがあり、愛がある。共に生きる生活は、互いにゆるす心がなくては成立しない。

主の弟子たちは、主によって罪のゆるしの力を与えられた。聖書の中から「ゆるしの愛」をむきにして考えることはできないし、その愛を伝えることが弟子たちの使命であった。けれども、彼らはキリストにおいて、罪のゆるしの権威を与えられた。彼らがゆるす時、主ご自身がゆるされる。しかしそのような能力や資質が弟子たち自身のものとなったのではない。彼らは、自分自身が、日毎豊かに赦されるものでなくてはならない。

信仰そのものが、そういう神との関係であるといって差支えない。信仰は、自分の信仰であって、自分のものではない。罪のゆるしは、自分免許でゆるすというわけのものではなくて、罪を犯した当の相手である神からゆるしの宣言をきくのでなければならない。自分が決められない、自分はひたすら被告の立場にあるということは、私たちの信仰のいわばまことに不安定な、たよりない面だといってよい。しかし、限りなく罪をゆるすことを教えていられる主こそが、私たちの裁き主でいます。見よ、世の罪を取り除く神の小羊でいます。それは私動きやすい気分や思索ではなく、私たちの行為の結果でもなく、神ご自身の決定、神ご自身の行為であるからこそ、たしかである。

宗教改革以来、ひとつひとつの罪をのこらず数えあげてざんげをするということは、事実不可能だし自分でわかっていない罪こそ大きい罪なのであるから、一般の習慣ではなくなった。しかし、そのことによって、罪のざんげはどうでもよくなったというのではない。心にひっかかっているものを、しいておしつけて、むりに忘れさせようとするのでもない。共に、自分も他の人々も同様に、罪の告白をし、ざんげをする。

ある人がこのような話をしるしている。間接的な原因となった事故によって、子供をなくしたために精神的な病気になった婦人がいた。善意の友人たちが、「あなたのせいではありませんよ」「あれは事故ですよ」と慰め、ことにふれないようとすればするほど、彼女は自分をせめて、狂おしくなっていった。しかし、最後は牧師をたずね、やがて元気になったのである。なぜかと問われて彼女は、自分の罪がはじめてまじめに取り上げられ、そしてゆるされたからだといったのである。

ことの大小や種類の相異はあっても、それに似た体験を私たちももっているかもしれない。私たちは礼拝の中に共同のざんげをする時、わたしたちは心の中にある自分の罪を明らかに考えながら、神のみ前に立たなければならない。そしてはっきりとゆるしの宣言をきいてゆかなければならない。罪のゆるしの宣言は、司式者が力をもってなすのではない。主ご自身の十字架のあがないと、そのみことばが、力をもって伝えられる。

そしてその赦しは、いつも閉じられない。ゆるしは、王と一万マラントの僕の間だけですまない。負債は個人的で、主とこの僕との間のことである。ゆるされた時、僕は主の恵みに感激し、できるだけの感謝の意をあらわし、生涯おいめを感じてゆく。いな、おいめだけでなく、私だけは特別に見られ、あつかわれたという誇りも感じたかもしれない。

しかし、イエスはその後のことに話を展開される。この僕が特別なのではない。ゆるしに対する感謝は王に対してでなく、他へのゆるしとして、流れ出してゆかなければならない。閉じたふたりだけの関係でなく、ゆるしの愛は伝達されてゆかなければならない。神への感謝は、人々への愛と奉仕としてかえされてゆく。

それが、主の祈りのゆるしの項の意味でもある。人々へのゆるしが閉ざされる時、神よりの自分自身に対するゆるしまで、閉ざされる。神のゆるしの愛が、私たちをしっかりと包み、みちあふれ、流れ出してゆくようにと、はっきりとざんげし、ゆるしをきいてゆこう。

(三位一体後第22主日)