「読書会ノート」 太宰 治 『人間失格』

 太宰 治 『人間失格』

仲吉 智子

 

高校時代に教科書で、太宰治を習い、太宰の作品に引き込まれた記憶をお持ちの方も多いと思います。そして、今、太宰をそれも「人間失格」を読むという事を、どう受け止められますか。読書会では、主人公である「葉蔵」こと“葉ちゃん”をめぐって話がつきませんでした。今様に「ねくら」とか「ねあか」言った具合に片付けるわけにはゆきません。男性というのは、太宰に限らず、この“葉ちゃん”的な部分を持っているのではないのでしょうか。男性というより「人」はと言った方がいいのでしょうか。しかし、何故、葉ちゃんのように表に出てこなかったのでしょうか。何が、そうさせなかったか。

「神様に守られているから?」
「そう言ってしまっては、神様を知らない人は、どうなるんです?何だか自分達が特別のようで、一寸抵抗がありますね」
「私は、子供の頃から育って来る過程で、最初は、親が悲しむのではないかということが、まずありましたね。結婚してからは、子育てや、目の前のことをこなしてゆくのに精一杯で、女性は現実的なのでしょうか」
「葉ちゃんに大きく影をおとしているのは、子供時代の環境でしょうか」
「この中で時代を感じるのは、女性の描写が、主人公にとって大事な存在なのに、半人前の意識でしか受けとめられていない事です」

葉蔵は、斜にかまえて生きていたにしろ、世の中に、どんどん飲み込まれてしまう。しかし、葉蔵にすれば、価値を見い出せない、真剣に生きるに値しないと思っていたのでしょうか。感性の鋭い人は、いろいろな事が心にビンビンと響いて来るということで、苦しさも増幅されてしまうのでしょうか。人を疑うことを知らず、最終的には愛する人からも裏切られてゆく現実には、主人公にとって、この生き方しかなかったのでしょうか。

余談ですが、作家三島由紀夫は、祖母を通じて家系を自負していたようで、太宰治を成り上がり者と嫌ったことは有名ですが、この二人の作家の強烈な個性から出来た作品を愛読する読者層は、明らかに、二分されるのでしょうか。

(95年 7月)