【説教・音声版】2023年2月12日(日)10:30 説 教 「 新しい戒め 」浅野 直樹 牧師



聖書箇所:マタイによる福音書5章21~37節

皆さんは、今日の日課をお聞きになられて、どうお感じになられたでしょうか。

私は若かりし頃、これらの御言葉に本当に悩まされてきました。ここに記されています「兄弟に『ばか』と言う者」、「『愚か者』と言う者」以上の思いが、私の心の中に渦巻いていたからです。また、決して褒められないような思いで女性を見てしまったことも、一度や二度ではありませんでした。ですから、この御言葉の基準からすれば、完全に「アウト」です。地獄に行くしかないような者です。本当に、目をえぐり出すしかない、手を切り捨てるしかない、とまで思い悩んだ。でも、出来なかった。そんな自分を、どうすることもできなかった自分自身に失望し、望みが断ち切られたような思いになっていたからです。

ご存知の方もいらっしゃると思いますし、また、以前そのこともお話ししたと思いますが、律法には三用法と言われるものがあります。一つは、「市民的用法」。これは、一般的な社会正義と言えるものです。もう一つは、「教育的用法」。これは、自らに罪の自覚を促し、キリストによる贖罪を求めるようにさせる、そういった「養育係」的側面です。今一つは、「第三用法」と言われるもの。これについては、後で触れることになりますが、つまり、このイエスさまの教えは、私にとっては2番目の用法、すなわち「教育的用法」…、罪の自覚を促し、イエス・キリストによる救いへと導く、そんな役割として機能した訳です。

先週は総会主日の礼拝として時間的制約がありましたので取り上げることができませんでしたが、先週の日課である17節でイエスさまはこのように語っておられました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。ここにありますように、私たちキリスト者には、多少なりとも誤解があるように思います。私たちの信仰にとって律法は無縁である、と。先ほど言いました律法の三用法にも見られるように、そうではないのです。キリスト者である私たちにとっても、律法とは意味があるものです。

私たちの大先輩であるルター自身もそれを認めています。むしろ、ルターは律法と福音とを混同しないことこそが最大の知恵である、とさえ言っています。つまり、それぞれには神さまから与えられた特有の使命があり、あたかも律法を福音…、すなわち救いの出来事と同列に扱ったり、律法を無意味化することとは違う、ということです。ですので、先週の日課でも、イエスさまは律法を廃棄するのではなく、完成させるために来たのだ、とおっしゃっておられるのです。

では、どのようにして完成させるのか。それは、正しく律法を解き明かすことによって、です。当時の人々は、ファリサイ派や律法学者たちをはじめ、現代人に比べてはるかに宗教的・信仰的な人々であったことは間違いないでしょう。彼らは、非常に熱心でした。しかし、熱心だからといって、それが正しいとは限らない。ここに、私たちの落とし穴もあるのです。彼らの多くは、いわゆる「律法主義」に陥ってしまっていた。それをイエスさまは問題視されているのです。

では、そんな「律法主義」の問題性はどこにあったのか。形骸化です。抜け道を作ることです。形式的に守ることを優先させ、その心を、本来の目的・意図を失わせることです。言葉を変えると、偽善性です。そして、これらは、決して彼らだけの問題ではないでしょう。人が営むところ、必ずそういった闇が忍び込んでくる。ともかく、そんなふうに彼らは自らが理解した律法をあたかも守っているふうにして、本当は神さまの御心からずっと離れてしまっていた訳です。それを、イエスさまは厳しく問われた。

では、そもそも律法の心とは何だったのか。イエスさまは、律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要」か、と問われたとき、このように答えられました。マタイ22章37節以下です。「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。

『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。皆さんも良く知っておられるお言葉でしょう。そうです。律法とは、神さまを心から愛すること、そして人を、隣人を自分のように愛すること、この二つの事柄で成り立っているのです。しかし、その本来あるべき心が、彼らの律法からは消えてしまっていた。だから、罪人を赦されるイエスさまを彼らは受け入れることができなくなっていたのです。

今朝イエスさまが語られた「腹を立ててはならない」という戒めもそうでしょう。殺しさえしていなければ、本当に人を愛していることになるのだろうか。そうではないことを、私たち自身、よく分かっていると思います。手を上げずとも、危害を加えずとも、私たちは相手を傷つける術を知っている。言葉によって、無視することによって、存在を否定することによって、私たちはどれほど人の命を奪っていることか。

しかも、それらに正当な理由をつけては、正義ぶることさえもある。皆さんにもきっとそんな経験がお有りでしょう。言葉や態度で傷つけられてきた経験が。そんな傷は一生涯癒えないことだってある。それなのに、その痛みを知っているはずなのに、どうして私たちは同じように人を傷つけてしまうのだろうか。隣人を自分のように愛するということは、自分がされたら嬉しいことをしていくことだ、って分かっているのに、逆に自分がされたら苦しくて苦しくて仕方がないことを、どうしてしてしまうのだろうか。

「姦淫してはならない」もそう。ある方はここは注意しなければならない、と言います。そうだと思います。ここでイエスさまは女性一般に対して言っておられるのではなくて、「姦淫」…、つまり夫のある女性、婚約者のいる女性に対してを問題視しておられるからです。

もちろん、女性一般に対しても不埒な気持ちを抱いてはいけないことは当然のことですが、家庭がある相手ということは、その家庭を壊す、と言うことです。たとえ、本人同士は愛し合っているということだとしても、家庭を壊す、誰かを傷つける、それは、正しいことか、と問われる。たとえ、実際にそういった行為に及んでいなくても、心の中ででもそういったことを企んでいるということは、正しいことか、隣人を自分のように愛することに反してはいないだろうか、と問われる。

パウロが語っていますように、今更ながら、私たちの心の中に巣くう罪を思わずにはいられません。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。

もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ローマ7:18~24)。

山上の垂訓:カール・ハインリッヒ・ブロッホ (1834–1890) The Museum of National History


最初に言いましたように、この戒めを聞くだけならば、私たちは罪の自覚しか生まれないのかもしれません。しかし、パウロは続けてこうも語っています。「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と。だからこそのメシア、イエス・キリストでもある。この惨めでしかない私たちをお救いくださるために、イエスさまが十字架についてくださったことも、私たちは決して忘れてはならないのです。

では、このイエスさまの新たな戒めは、最初に言いました養育係でしかないのか、といえば、そうではないでしょう。律法には、「第三用法」というものあるからです。この「第三用法」とは、キリスト者となった者たちがいかに生きるべきかの指針を与えるもの、といった理解です。かつては、ルターはこの「第三用法」は語らなかった、と言われていましたが、ルターの説教や著作からも分かるように、ルターにとってもキリスト者の生き方は無関心ではいられないものでした。ですから、このイエスさまが語られた戒めも、単に「教育的用法」というだけでなくて、新たに私たちの在り方、生き方を照らすものとしても、見ていくべきでしょう。

そもそも、先ほどは、17節に記されていました、イエスさまは律法の完成者であるといった側面を見てきましたが、それは、律法の正しい解説者のみならず、イエスさまこそが律法の心も含めた完全なる実行者、まさに「完成者」でもあることを見逃してはいけないはずです。つまり、ここでも、この戒めは私たちの単独行動が求められているのではなくて、常にイエスさまとの繋がりの中で、教えられ、気づきを与えられ、導かれていくものではないか、と思うのです。とどのつまり、この「新たな律法」においても、イエスさま不在ではあり得ない。あくまでも、このイエスさまから学び続けるしかない、ということでしょう。

私たちは、単なる律法主義でもない、ただ罪悪感・罪の自覚に打ちのめされるのでもない、第3の道…、あくまでもイエスさまと共に、福音の・罪の赦しの中を生かされながら、律法の心を受け取って、歩んでいきたい。もちろん、出来ない、反省ばかり、といった道中かもしれませんが、それでも、このイエスさまの恵みに立ち返りながら、「神さまを愛し、人を愛する」ことを祈り求め続ける者でありたい。そう思います。